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追録6の目録

暫定版です。原文との照合により、概要や文書の区切り等を修正する場合があります。

全3,127件中 1701~1800件・18 / 32ページ

  1. 追録6-No.1528 旧臘十一日夜の御曲輪内出火・早い鎮静への恐悦を言上した阿部正允の返書

    書札を披見し、公方・大納言が機嫌よくおられることをめでたく思うとの意を承知したと返す。旧臘十一日夜に御曲輪内で出火したが早速鎮まったと聞き、恐悦を述べた趣旨はもっともで、紙面の内容を言上したと伝える。二月十三日、阿部豊後守正允判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年。

  2. 追録6-No.1529 歳暮の時服・御肴拝領への謝意を上聞に達した康福の返書

    書札を披見し、公方・大納言が機嫌よくおられることへの恐悦の旨はもっともであると返す。さらに、旧臘の歳暮祝儀として時服と御肴を拝領し、ありがたく思うとの意を承知したとし、紙面の趣を各々相談して上聞に達したと伝える。二月十六日、松平周防守康福判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年。

  3. 追録6-No.1530 公方からの歳暮の時服・御肴拝領への謝意を言上した阿部正允の返書

    書札を披見し、公方・大納言が機嫌よくおられることへの恐悦の旨はもっともであると返す。歳暮の祝儀として公方から時服と御肴を拝領し、ありがたく思うとの意を承知し、紙面の趣を言上したと伝える。二月十六日、阿部豊後守正允判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年。本文の公方からの拝領という方向を保持し、薩摩側から…

  4. 追録6-No.1531 公方の去月十日東叡山霊前参詣への恐悦を上聞に達した康福の返書

    書札を披見し、公方がますます機嫌よく、去月十日に東叡山の霊前へ参詣したと聞いて恐悦を述べた趣旨はもっともであると返す。紙面の内容を各々相談して上聞に達したと伝え、二月二十一日、松平周防守康福判、松平薩摩守殿へ宛てる。年は朱書安永七年。

  5. 追録6-No.1532 大納言の東叡山心観院霊前参詣への恐悦を言上した阿部正允の返書

    書札を披見し、大納言がますます機嫌よく、去月二十日に東叡山の心観院の霊前へ参詣したと聞き、恐悦を述べた趣旨はもっともであると返す。心観院には徳川家治室との原注を付す。紙面の趣を言上したと伝え、二月二十二日、阿部豊後守正允判、松平薩摩守殿へ宛てる。年は朱書安永七年。参詣者は大納言、参詣は去月二十日であ…

  6. 追録6-No.1533 公方の増上寺霊屋参詣への恐悦を上聞に達した康福の返書

    書札を披見し、公方がますます機嫌よく、去月二十四日に増上寺の霊屋へ参詣したと聞き、恐悦を述べた趣旨はもっともであると返す。紙面の内容を各々相談して上聞に達し、二月二十五日、松平周防守康福判、松平薩摩守殿へ宛てる。年は朱書安永七年。

  7. 追録6-No.1534 大納言の御前髪儀礼への祝意を取り成すよう求めた重豪の書状扣

    重豪の書状扣として、公方らの機嫌よいことへの恐悦を述べ、今日、大納言の前髪が執られることをめでたい儀礼と思うと記す。この祝儀を公方と大納言へ申し上げたく、御部屋様へも申し上げたいので、都合のよい折に御前へよく取り成すよう頼む。末に重ねて、よろしく取り計らうよう求める。日付は三月十八日。宛名は高をか、…

  8. 追録6-No.1535 大納言の御前髪祝儀について両御所への一通の文・御部屋への書入れを指示した五名の返書

    朱書の返答として、機嫌よいことを祝し、明十八日に大納言の前髪が執られるため、公方・大納言へ祝儀を申し上げることについて伺いを受け、老女衆へ申し入れたと伝える。両御所には一所に一通の文で祝い、その文の中へ認め入れて御部屋様へも祝意を述べるよう指示する。種姫君には祝いを申し上げる必要はないとし、そのよう…

  9. 追録6-No.1536 道中の脚疾で挨拶を延べた重豪の田沼邸訪問と板倉勝清の芝邸労問

    同年三月二十一日、重豪が掌月の老中田沼主殿頭意次の邸へ赴き、大家の起居を伺ったと記す。例年は江戸に着いた翌日に掌月老中の邸で伺うが、この年は道中で脚疾を得て、着府後も治っていなかったため、病が治ってから礼を行おうとし、使者を遣わして田沼意次とその他の老中へ告げた。そのため二十一日に意次邸へ赴いたと説…

  10. 追録6-No.1537 脚痛による着府翌日の挨拶延期と回復後の廻勤、口達届出の先例記録

    三月二日に着府し、先格では翌日、御用番の老中へ対客を申し込み機嫌を伺うところ、道中からの脚痛により勤めが難しいため、回復後に申し込んで勤める旨を留守居有川勇馬から御用番田沼主殿頭へ伝えたと記す。田沼は承知し、回復後に申し込めば会うとの返答をした。西丸老中阿部豊後守と非番の老中にも同様に勇馬を通じて届…

  11. 追録6-No.1538 明朔日五時に登城して参勤の礼を申し上げるよう命じた五つの差出欄を持つ指図

    明朔日五時に登城し、参勤の礼を申し上げるよう命じる。三月二十九日、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年。差出欄は田沼主殿頭、板倉佐渡守、松平周防守、松平右京大夫、松平右近将監の五つで、ここでは諱や判の表示はない。目録は武元外五名連署状とするが、本文の五つの欄にない人物を補って六名にしない。明朔日五時とい…

  12. 追録6-No.1539 家来二人の御目見に伴う召連れの指図

    家来二人の御目見を命じるので、召し連れて罷り出るよう指示する短文。家来の名、独立した日付・差出人・宛所はない。直前の明朔日五時登城・参勤礼の指図と関連する位置にあるが、その日付や五つの差出欄をこの短文の独立署記として転記しない。二人という人数を保持し、後の御譜に載る実際の同行家老の記事とは指図と経過…

  13. 追録6-No.1540 重豪が久金・久福を伴って大家に朝礼した記事

    同年四月朔日、重豪が従行の家老島津左中久金と喜入主馬久福を伴い、大家へ朝礼を行ったと記す。朝礼は旧例のとおりで、奉候・拝命も前年の帰国に際する礼の例にならったとする。

  14. 追録6-No.1541 白書院での参勤礼と上意への直接の御請、着座・取合の次第

    参勤礼の際の機嫌伺いと上意への直接の御請の次第を記す。安永七年戌四月朔日、朝六半時に供が揃い登城したとし、服装の小注には熨斗目・長袴を掲げる。白書院の上段へ公方・大納言が出御し、縁頬で礼を行う。御奏者松平伊豫守が披露し、参勤の礼を申し上げて退座した。献上物が引かれた後、再び出座し、上意により敷居の内…

  15. 追録6-No.1542 香具一箱・丸熨斗一箱の献上を披露した板倉勝清の返書

    今朝、香具一箱と丸熨斗一箱を献上されたことを披露し、一段の仕合であると返す。四月九日、勝清判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年。板倉佐渡守勝清の名には口裏にあるとの注があり、署名の位置に関する記載として扱う。正文は冊子五五一頁の上段、日付・署名・宛所と口裏注は同頁下段に続く。香具・丸熨斗はそれぞれ一…

  16. 追録6-No.1543 香具一箱・丸熨斗一箱の献上を披露した阿部正允の返書

    今朝、香具一箱・丸熨斗一箱を献上されたことを披露し、一段の仕合であると返す。四月九日、正允判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年。阿部豊後守正允の名には口裏にあるとの注を付す。前の板倉勝清の返書と同じ品名・数量を記す別署名の返答として扱い、二通を各二箱の献上へ換算しない。使者の名や箱の内容の細目は記さ…

  17. 追録6-No.1544 端午祝儀の帷子・単物到来を喜ぶ家治の御内書

    端午の祝儀として帷子・単物が到来したことを喜び、詳しいことは松平右京大夫が述べると伝える。五月二日、薩摩中将殿宛。年は朱書安永七年で、家治公墨印を円内に表示する。

  18. 追録6-No.1545 端午の帷子・単物献上を披露した阿部正允の返書

    端午の祝儀として使者を通じて帷子・単物を献上されたことを披露し、一段の仕合であると返す。五月二日、阿部豊後守正允判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年。使者の名と帷子・単物の数量は記されない。前の御内書と同じ端午祝儀に対する返答として分け、二通を二度の献上や衣服二組に加算しない。

  19. 追録6-No.1546 馬二疋の献上を披露した武元の返書

    馬二疋を献上されたことを披露し、一段の仕合であると返す。五月二十七日、武元判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年で、松平右近将監武元の名に口裏にあるとの注を付す。次の阿部の返書は一疋と記すため、同じ数量に統一したり、二疋を二両へ置き換えたりしない。馬の品種・名、具体的な献上先の内訳や使者名は記されない…

  20. 追録6-No.1547 馬一疋の献上を披露した阿部正允の返書

    馬一疋を献上されたことを披露し、一段の仕合であると返す。五月二十七日、正允判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年。阿部豊後守正允の名に口裏にあるとの注を付す。正文・日付・判は冊子五五二頁の上段、宛所と口裏署名は同頁下段に続く。前の武元の返書は二疋、この返書は一疋と記すので、数を同一にせず、献上先別の内…

  21. 追録6-No.1548 納殿役人その他の役名変更を国中へ示した記事

    今夏五月、納殿役人その他の役名等を改め、国中へ広く示したと記す短い記事。本文は「納殿役人」、目録の表題は「納戸役人」とする。具体的な改称前後の役名、対象者の人数や各人の名は本文にはない。後続する足軽の礼式に関する心得とは、役名変更の記事と申渡しの内容を分ける。

  22. 追録6-No.1549 足軽が士に行き合う際の礼式と走番・奥付足軽等への徹底

    足軽が士に対して粗礼をしないよう再三申渡していたが、城内その他で士と行き合う際、粗礼又は不埒な姿で通る者がいるとし、不届きと述べる。今後は、以前から知る人には相応の礼式を行い、知らない人でも士と見受ける者には慇懃な態度で通り、混み合うときは行き当たらないよう控えること、士と足軽の区別が分かるよう厳し…

  23. 追録6-No.1550 穆佐悟性寺の御目見寺・下馬札の願いと由緒の留保、年々米三石給付の裁定

    穆佐悟性寺について、久豊公が穆佐に在城した際の菩提所であるとして以前から位牌があり、先に調え替えて安置したので、御目見寺を命じ、下馬札を建て、仏餉米を渡してほしいと寺社奉行が繰り返し申し出たと記す。これに対し、久豊公については福昌寺に「元久公御相廟」と記し、位牌は惠燈院に安置されているとする。悟性寺…

  24. 追録6-No.1551 野崎千兵衛の僕・長七の働きと葬事の奉仕への褒賞、廩米十五苞

    府下の与力野崎千兵衛に長七という僕がいたと記す。与力には附納戸との小注を付す。千兵衛の家はもともと貧しく、長七が働いてその暮らしを支えた。千兵衛の親萩右衛門は串木野郷へ行って住んでいたが、その訃報が届くと、長七は裸足で号泣して赴き、葬事を取り仕切った。また主の親族で貧しい者にもとりわけ恩意を尽くした…

  25. 追録6-No.1552 貝吹・花火・鶏合についての三枝の申渡書群

    三枝に分かれる申渡書群。第一枝は往還での貝吹を止め、稽古場所と寺社奉行・与頭等への伝達を定める帯刀の書。第二枝は火用心と花火について従来の申渡しを忘れず心得るよう支配中へ伝える孫兵衛の書。第三枝は若年の者の鶏合を戒め、親や身近な親類にも言い聞かせ、組中・支配中・諸外城・私領へ漏れなく伝える帯刀・仲の…

  26. 追録6-No.1552-1 往還での貝吹停止と稽古場所、寺社奉行・与頭等への伝達

    このごろ途中で貝を吹き歩く者が多いと聞き、山伏の法式に関する行為は従来どおりでよいところ、往還をも憚らず行うのは甚だしい取り違えであるとする。今後、途中で貝を吹くことは一切停止し、稽古の貝でも自宅又は人家の辺りで吹くよう命じる。以上の趣を寺社奉行・与頭その他支配を持つ者へも申し渡すよう記す。安永七年…

  27. 追録6-No.1552-2 花火について火用心を第一とし従来の申渡しを徹底する指示

    花火については火用心を第一に考慮し、人家廻で行うべきことは前年以来繰り返し申し渡してあるので、改めてこの申渡しを忘れず心得るよう支配中へ伝えることを命じる。安永七年戌七月、孫兵衛。孫兵衛には大目付菱刈實興との原注を付す。「人家廻にて可仕」という原の場所表現を保持し、人家から遠く離れた場所へ改める命令…

  28. 追録6-No.1552-3 鶏合の禁止を再徹底し、争論や剣付鶏合の怪我を戒めた申渡し

    鶏合は以前から禁止されているが、このごろ若年の者が勝負を競うことがあると聞き、早く勝負を決めようとする行為は争論のもとにもなると戒める。特に剣付鶏合は怪我をすることも考えられ、なお不適当であるため、このような取り違えは一切しないよう厳しく申し渡すことを命じる。親・身近な親類にもいっそう厳しく言い聞か…

  29. 追録6-No.1553 端午の御内書受取りのため明日五半時に家来を差し出す指図

    端午の御内書を渡すので、明日五半時、御城へ家来を差し出すよう命じる。六月二十四日、松平右京大夫、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年。本文は家来を出す指図で、薩摩守本人が登城したことや御内書を実際に受け取った時刻の報告とは分ける。目録は松平輝高書状とする。

  30. 追録6-No.1554 琉球布・砂糖漬天門冬・赤貝塩辛・琉球泡盛酒の献上を披露した輝高の返書

    今朝、琉球布一箱、砂糖漬天門冬一器、赤貝塩辛一器、琉球泡盛酒二壺を献上されたことを披露し、一段の仕合であると返す。六月二十八日、輝高判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年。松平右京大夫輝高の署名には口裏にあるとの注を付す。正文は冊子五五四頁の上段、日付・署名・宛所は同頁下段に続く。箱・器・壺と各数量を…

  31. 追録6-No.1555 琉球布・砂糖漬天門冬・赤貝塩辛・琉球泡盛酒の献上を披露した阿部正允の返書

    今朝、琉球布一箱、砂糖漬天門冬一器、赤貝塩辛一器、琉球泡盛酒二壺を献上されたことを披露し、一段の仕合であると返す。六月二十八日、正允判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年で、阿部豊後守正允の名に口裏にあるとの注を付す。前の輝高の返書と同じ品名・数量を記す別署名の返答として扱い、布二箱・天門冬二器・赤貝…

  32. 追録6-No.1556 生見玉祝儀の黄金十両献上を披露した康福の返書

    生見玉の祝儀として黄金十両を献上されたことを披露し、一段の仕合であると返す。七月六日、康福判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年。松平周防守康福の名に口裏にあるとの注を付す。

  33. 追録6-No.1557 生見玉祝儀の黄金十両献上を披露した阿部正允の返書

    生見玉の祝儀として黄金十両を献上されたことを披露し、一段の仕合であると返す。七月六日、正允判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年。阿部豊後守正允の名には口裏にあるとの注を付す。康福の同趣旨の返書に対応する別署名の返答とし、黄金十両を銀十両へ変えたり、二通から二十両の献上を数えたりしない。使者の名・人数…

  34. 追録6-No.1558 大森半七郎を芝邸へ遣わして御鷹の雲雀を賜り、重豪が各老中邸へ謝礼した記事

    同年閏七月六日、大家が使者大森半七郎を芝邸へ遣わし、御鷹の雲雀を賜ったと記す。重豪は恩旨に奉じ、その後、各老中の邸へ赴いて礼謝したとする。大森半七郎の脇には成長の括弧注と実名闕の記載があり、両注の対応は判読を留保する。御鷹の雲雀という原の表現を、鷹と雲雀の二種の鳥を賜った記載とはせず、雲雀の羽数や半…

  35. 追録6-No.1559 重陽祝儀の小袖一重到来を喜ぶ家治の御内書

    重陽の祝儀として小袖一重が到来したことを喜び、詳しいことは松平周防守が述べると伝える。九月七日、薩摩中将殿宛。年は朱書安永七年で、家治公墨印を円内に表示する。正文は冊子五五五頁の上段、日付・墨印・宛所は同頁下段に続く。小袖一重の品名・数量・単位を保持し、差出の家治、取次の松平周防守、宛所の薩摩中将を…

  36. 追録6-No.1560 重陽祝儀の小袖一重献上を披露した阿部正允の返書

    重陽の祝儀として使者を通じて小袖一重を献上されたことを披露し、一段の仕合であると返す。九月七日、阿部豊後守正允判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年。使者の名は記されない。前の御内書と同じ祝儀に対する別の返答として扱い、二通を小袖二重の献上に合算しない。

  37. 追録6-No.1561 年始の使簡と別録の贈品を謝した重豪の中山王宛書状

    年始の嘉儀として使簡を差し渡され、とりわけ別録のとおり品を贈られたことを、念入りであると喜ぶ。さらに後の喜びの時を期すと述べる。九月十一日、中将重豪御判、謹上中山王。差出は重豪、贈品を送った側は王であり、返答の方向を分ける。使者名・人数と贈品の明細・数量は本文に記されていない。

  38. 追録6-No.1562 王の平安を喜び、紕縮緬五巻の贈与を謝した重豪の回章

    書札を披見し、いよいよ平安であることを喜び、自分も無事なので安心されたいと伝える。さらに紕縮緬五巻を贈られたことを、過量であると謝す。九月十一日、薩摩守重豪御判。年は朱書安永七年で、末に中山王回章と記す。王の書札と贈品に対する重豪の返答であり、中山王がこの文書の差出人であるとはしない。正文は冊子五五…

  39. 追録6-No.1563 久柄一行の鹿児島来訪と摺之濱温浴、重豪の指示による接待・帰路

    同年九月、日州佐土原城主島津但馬守久柄が同族島津左京久武と家老澁谷主税久命を伴い、本府へ来たと記す。久武には久柄と同母の兄弟、新樹家者との原注を付す。久柄は足疾があり温泉で浴したいと重豪に願い、領内に温泉が多いため、重豪は州南揖宿郡摺之濱の温泉を許した。九月十五日に佐土原を発ち、十九日に鹿児島へ到着…

  40. 追録6-No.1564 淨岸院の七回忌法事を十二月五日に国許福昌寺で行う旨の届出

    淨岸院の七回忌法事を、当年十二月五日に国許の福昌寺で執行する旨を申し上げる届書。九月二十三日、松平薩摩守。年は朱書安永七年で、淨岸院には継豊継室との原注を付す。九月の届出と十二月の法事日を分け、この届書を法事が済んだ報告にはしない。法事の参列人数、香奠の品目・金額は本文にはない。

  41. 追録6-No.1565 夫と子を失った市人の娘の生母扶養、廩米二十苞と宅税免除

    下町の市人高崎孝右衛門の娘が、同じ市人東吉郎右衛門に嫁いで一子を生んだが、その後夫が死に、子も夭亡し、独り節を守って暮らしたと記す。生母は九十余歳で頼る者がなく、家も貧しかったため、娘は日々人の衣を洗い、裁縫をして母の生活を支えた。市人たちは相談して宅一区を買い与え、今秋九月には廩米二十苞を与えて孝…

  42. 追録6-No.1566 淨岸院七回忌の香奠銀を大家・儲后・御部屋から賜り福昌寺へ納めた記事

    同年十月十日、大家と儲后が奏者井上河内守岑有を芝邸へ遣わし、淨岸院の香奠銀を賜ったと記す。小注では大家が銀三十枚、儲后が銀二十枚を与えたとし、この年の十二月五日が淨岸院の七回忌日なのでこの賜物があったと説明する。翌十一日には、儲后の生母津田氏、当時御部屋と称された者が、用人羽根半左衛門を使いとして香…

  43. 追録6-No.1567 淨岸院七回忌の香奠拝領を秋月種茂が薩摩守の名代として謝す口上

    淨岸院の七回忌に際し、公方・大納言から上使井上河内守を通じて香奠を拝領し、ありがたく思う旨を述べる。松平薩摩守は痰気があるため、秋月山城守が名代として御礼を申し上げるとする。十月十日、秋月山城守。年は朱書安永七年で、種茂との原注を付す。

  44. 追録6-No.1568 重陽の御内書受取りのため明日五半時に家来を差し出す指図

    重陽の御内書を渡すので、明日五半時に御城へ家来を差し出すよう命じる。十月二十日、松平周防守、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年。目録は松平康福書状とするが、本文の差出表示は官名である。

  45. 追録6-No.1569 御部屋からの淨岸院香奠拝領を島津久般が薩摩守の名代として謝す二通の口上

    淨岸院の七回忌に際し、御部屋様から使いを通じて香奠をいただき、ありがたく思う旨を述べる。松平薩摩守は痛所があるため、嶋津式部が名代として御礼を申し上げるとする。十月十四日、嶋津式部。年は朱書安永七年で、式部には久般との原注を付す。末に御用番と西丸老中宛の二通と記し、御礼口上の宛先別の通数として扱う。…

  46. 追録6-No.1570 樺山村農民孫四郎の母扶養と徭役時の配慮、廩米十五苞の褒賞

    諸縣郡勝岡郷樺山村の農民孫四郎は早く父を失い、母と二人で暮らしたと記す。家が貧しく妻を迎えることができず、力を尽くして母を養い、日に何度も衣食の満ち足りているか、暑いか寒いかを尋ねた。田へ行くたび母の様子を見て昼飯を進め、徭役に当たるときは母を背負い、姉の所へ預けてから赴いた。村の人々がこの孝行を称…

  47. 追録6-No.1571 他領での難船対応者への見計らいの謝礼停止、報告・吟味と船頭自身の謝礼の例外

    御船と浦船が他領で難船するなどの場合、最寄に詰める横目・座横目が差引役として派遣され、当地の出役の者へ差引人の見計らいで謝礼を贈り、経過を報告していたと記す。しかし謝礼の多少に差があって不都合なため、今後は見計らいで謝礼等を贈ることを内分でも一切しないよう命じる。難船に関係する人々の世話の厚薄や役柄…

  48. 追録6-No.1572 蜜柑二箱・炙鮎一箱の献上を披露した輝高の返書

    今朝、蜜柑二箱と炙鮎一箱を献上されたことを披露し、一段の仕合であると返す。十二月九日、輝高判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年で、松平右京大夫輝高の名に口裏にあるとの注を付す。蜜柑は二箱で、十一箱ではない。次の阿部の同趣旨の返書とは署名を分け、二度の献上として蜜柑四箱・炙鮎二箱へ合算しない。使者名は…

  49. 追録6-No.1573 蜜柑二箱・炙鮎一箱の献上を披露した阿部正允の返書

    今朝、蜜柑二箱と炙鮎一箱を献上されたことを披露し、一段の仕合であると返す。十二月九日、正允判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年で、阿部豊後守正允の名に口裏にあるとの注を付す。

  50. 追録6-No.1574 府下士有川貞通・中村友長の母扶養を賞し、それぞれ白銀五枚を与える

    府下士の孝行を二例記す。有川嘉右衛門貞通は箭匠を業とし、独り母を養い、郷人がこれを称えたため、この年の冬十二月に白銀五枚を与えて賞した。中村勘四郎友長は母によく仕え、常に母の側に侍って色養を怠らなかったため、同じ冬十二月に白銀五枚を与えて賞した。二人の行状と各人への給付を分け、片方だけの褒賞や二人で…

  51. 追録6-No.1575 歳暮祝儀の小袖一重到来を喜ぶ家治の御内書

    歳暮の祝儀として小袖一重が到来したことを喜び、委細は松平右近将監が述べるとする御内書。十二月二十七日、家治公の墨印の表示、薩摩中将殿宛。年は朱書安永七年。小袖一重という品と単位、家治から薩摩中将への返答、右近将監による取次を区別する。次の阿部の披露返書は同じ歳暮献上に関わる別の返答であり、二通から小…

  52. 追録6-No.1576 歳暮の小袖一重献上を披露した阿部正允の返書

    歳暮の祝儀として使者をもって小袖一重を献上されたことを披露し、一段の仕合であると返す。十二月二十七日、阿部豊後守正允判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永七年。

  53. 追録6-No.1577 出水の火災救済と上・下甑島の飢饉救済を賞する四人への給付

    出水郡出水郷村の市人喜兵衛は、市中の火災で数百戸の家が焼けた際、私財を出して救済したため、この年の冬十二月に青銅五百匹を与えて賞した。また、甑島郡上甑島平良村の農民彌兵衛・千助と、同郡下甑島手打村の浦人善六は、その年の飢饉に皆が私蔵の米穀を出して村中の窮乏者を救済したため、冬十二月に賞し、彌兵衛には…

  54. 追録6-No.1578 翌年頭の御目見で陸奥守の先例にならう御機嫌伺・恐悦の願出と御付札による指示

    翌年頭の御目見の際、当春に松平陸奥守が勤めた振合にならって御機嫌を伺い、恐悦を申し上げたい旨を松平薩摩守が届け出る。陸奥守には伊達重村との原注を付す。十二月二十七日、年は朱書安永七年。本文の御目見の節の箇所に、御付札として「可為此通候」との書入れがある。末の朱注では、書付一通をその日付の当日に差し出…

  55. 追録6-No.1579 沖永良部島阿加禮の母扶養と兄の子五人の養育を賞し、廩米二十苞を与える

    沖永良部島田舎平村の阿加禮は、幼い頃から父母によく仕え、父の死後は母に色養を尽くしたと記す。妻もその孝行に倣い、また兄の子五人を養ったため、冬十二月、有司に命じて廩米二十苞を与えて賞した。原の田舎平村という地名と阿加禮という名を保ち、兄の子五人を本人の実子五人へ読み替えない。廩米二十苞は褒賞の量であ…

  56. 追録6-No.1580 年頭登城で重豪が大家に歳首を祝し、さらに言葉を賜って起居を伺う

    安永八年己亥正月二日、重豪が大家へ朝して歳首を奉賀したと記す。従来、歳首を祝して盃酒と時服を賜ると、拝してすぐに退いていたが、この日に至ってさらに一言を賜り、そこで起居を伺って慶礼を申し上げた後に退出したとする。以前の退出のしかたと、この年に加わった言葉・起居伺い・慶礼の順を区別する。盃酒・時服の数…

  57. 追録6-No.1581 年頭の御機嫌伺・恐悦が先例どおり済んだ経過を久金が国元の家老へ知らせる

    太守が年頭御目見の際、前年春の松平陸奥守の勤め方にならって御機嫌を伺い恐悦を申し上げたい旨を、正月の御用番松平右近将監へ旧臘に願い出たところ、付札でそのとおりにする旨が指示されたと伝える。正月二日に登城し、大広間で持参の太刀により年首の祝儀を申し上げ、御流を頂戴して時服を拝領し、取合があり上意を受け…

  58. 追録6-No.1582 年頭初の直御請に関する松倉との内談、書付差出・付札指示と当日実施を佐久間が報告

    年頭の登城・御目見・着座に際して取合の上で御機嫌を伺い恐悦を申し上げることは年首として初めてで、参府と暇の直御請はすでに二様とも済んでいたため、前年春の松平陸奥守の年首の勤め方を取り寄せたとする。初めての儀なので、右近将監の御用人松倉左仲へ掛け合い、旧臘二十六日に登城前に訪ねて対談した。左仲は、参勤…

  59. 追録6-No.1583 年頭直御請の事前内談・付紙許可と当日実施を近習帳留に基づき家老座で記す

    この亥年の年頭の直御請は初めての勤めで、前年春の松平陸奥守の振合を取り寄せ、年内に右近将監の用人へ内談するよう命じておいた経過を記す。旧臘二十六日、松倉左仲に会って内談したところ、右近将監へ申すとされ、ほどなく戻った左仲から、正月の御用番なので直御請の書付を差し出すよう求められた。翌二十七日に持参し…

  60. 追録6-No.1584 福昌寺龍門橋に碑を建て、山本正誼が文を撰した記事

    安永八年己亥正月、福昌寺龍門橋の碑を建て、臣山本正誼が文を撰したと記す。朱書で近秘野艸という出典表示を付す。碑を建てたことと山本の撰文を記す短い記事であり、ここに碑文そのものの全文が載るとはしない。橋の建設時期、碑の寸法・材質・費用、建立の特定日は記されない。龍門橋は福昌寺に関わる橋として記される。

  61. 追録6-No.1585 若菜祝儀の鯛一折献上を披露した松平武元の返書

    若菜の祝儀として鯛一折を献上されたことを披露し、一段の仕合であると返す。正月七日、武元判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永八年で、松平右近将監武元の名に口裏にあるとの注を付す。本文が上段、署日・判・宛先と口裏注が同じ冊子頁の下段に続く。次の阿部の同趣旨の返書とは差出人を分け、同じ献上への二通の返答として…

  62. 追録6-No.1586 若菜祝儀の鯛一折献上を披露した阿部正允の返書

    若菜の祝儀として鯛一折を献上されたことを披露し、一段の仕合であると返す。正月七日、正允判、松平薩摩守殿宛。年は朱書安永八年で、阿部豊後守正允の名に口裏にあるとの注を付す。

  63. 追録6-No.1587 神社仏閣の修造・勧農・年貢徴納を三箇条で命じる重豪の吉書

    神社仏閣の修造を興行すること、専ら勧農に努めること、国々の年貢を徴納することの三箇条を挙げ、その旨に従って沙汰するよう命じる吉書。安永八年正月十一日、重豪御判。正文が文庫にあり、白木御文書五番箱に入っているとの保存注を付す。末の包紙注には八十四の表示があり、仲殿から黒田嘉右衛門へ渡した旨を記す。三条…

  64. 追録6-No.1588 玄恕西堂に廣済寺住持職を先例に従い執務するよう命じる

    廣済寺の住持職について、先例に従って執務するよう玄恕西堂へ命じる。安永八年正月十八日、中将重豪御判。正文の所在は阿久根蓮華寺と記す。任務の対象である廣済寺と、文書の保存先である阿久根蓮華寺を分け、蓮華寺の住持職への命令へ置き換えない。先例の具体的内容、住持職の任期、禄・寺領や実際の着任日は本文にない…

  65. 追録6-No.1589 大家から御鷹の鶴を賜り、微恙の重豪に代わり松平靱負が老中各邸で礼謝する

    同年春正月二十五日、大家が小幡又十郎景房を芝邸へ遣わし、御鷹の鶴を賜ったので、重豪が直ちに恩旨を奉じたと記す。その後に微恙があったため、松平靱負が重豪に代わって老中各邸へ赴き、礼謝した。靱負には定堅実名との原注を付す。大家から重豪への賜与、小幡による伝達、重豪の微恙、靱負による名代の礼謝を分ける。鳥…

  66. 追録6-No.1590 年頭の祝賀書状と目録どおりの贈物を受け取った近衛内前の返書

    年頭の祝賀書状と目録どおりの贈物を受け取ったことを喜び、ますます平安に年を越したことを珍重し、こちらも同様であると述べ、なお後の音信を期すと結ぶ。正月十八日、年は朱書安永八年。近衛内前との原注と花押No.1の表示を付し、薩摩中将とのへ宛。

  67. 追録6-No.1591 姫宮誕生祝いの書状と目録どおりの贈物を謝する返書

    姫宮誕生の祝いとして芳牒と目録どおりの贈物を受け取ったことを述べ、丁寧の至りで満悦であると返す。二月二十五日、年は朱書安永八年、薩摩中将とのへ宛。署判の位置には前の判と同じとの注があり、前書の近衛内前の書状との関係を示す。祝賀書状、贈物への謝意、末の満悦の結び、署日・宛所をこの一通の範囲として保つ。…

  68. 追録6-No.1592 家老座達書・小松清香申渡書の二枝

    正月と二月の二枝からなる達書・申渡書群。第一枝は組中の若年者の群集・破磨投等と、辺鄙での無故の群集や物詣等を差し留める家老座の達書。第二枝は境瀬戸の刑執行場所での群集を戒め、執行役への配慮と刀試しの取扱い、親兄弟・身近な親類への周知を定める帯刀の申渡書である。

  69. 追録6-No.1592-1 家老座達書

    組中の若年者による徒な群集・破磨投等を差し留める。また末々の者に至るまで、辺鄙であっても故なく集まることや物詣等を差し留めると記す。安永八年亥正月。独立署名はなく、目録では家老座達書とする。「破磨投」の「磨」には「摩カ」の小注がある。

  70. 追録6-No.1592-2 小松清香申渡書

    境瀬戸で御仕置を行う際、組中の若年者が大人数で出向き、執行場所を憚らず押し込んで騒がしくしていると聞き、甚だ不適当であると戒める。検使その他の役々も派遣されるので、首を刎ねる際に支障を来さぬよう、皆慎んで遠く引き退いていることを命じる。刎方が済んだ後、出役の横目に引き合わせ、取捨のむくろを受け取って…

  71. 追録6-No.1593 松平武元書状

    歳暮の御内書を渡すので、明日五半時に御城へ家来を差し出すよう松平薩摩守へ指示する。二月二十日、朱書の年記は安永八年。差出は松平右近将監で、目録は松平武元書状とする。御内書を受け取るための家来の差出しを命じた書で、受渡しの実施結果や家来の氏名は記されない。

  72. 追録6-No.1594 将軍世子家基薨ス

    二月二十四日、儲后が薨じたと記す。小注では大納言家基公、号は孝恭院殿とする。初め重豪は儲后の違豫を聞き、西城に登って起居を候したが、着くと凶聞を聞いた。その後、老中松平右京大夫輝高の指揮を受け、登城して大家に哀悼を述べたとする。病気見舞いのための西城への登城と、死去を聞いた後の老中の指示による哀悼の…

  73. 追録6-No.1595 島津重豪書状

    大納言様の病気について、養生がかなわず薨御されたことを、言葉に尽くせぬ悲しみとして西丸の御老女いは橋・はつ崎へ伝える。二月二十六日、朱書年記は安永八年。独立した署名はなく、目録は島津重豪書状とする。死去を悼む書であり、治療法、病名、葬儀や贈物の品目・数量は記されない。

  74. 追録6-No.1596 島津重豪書状

    御簾中の御機嫌を伺いたいと述べ、種姫君様と御部屋様の御機嫌も伺い、このことをしかるべきよう取りなしてほしいと依頼する。二月二十九日、朱書の年記は安永八年。高をか・はなその・あすか井・瀧川・はなしまの各「さま」を列記し、末尾に「野むらさまゟ申給へ」と付す。目録は島津重豪書状とするが、独立署名はない。機…

  75. 追録6-No.1597 重豪、相承院に神道碑等を建つ

    鎌倉右大将頼朝公と先公得仏公の石塔は、昔から相州鎌倉の相承院にあると記す。得仏公には島津忠久との小注を付す。今春二月、重豪は有司に命じて石垣・石燈籠・石盥盤・神道の石を新たに建て、東都の龍湖親和にその文字を書かせたとする。龍湖親和には俗名三井孫兵衛との注を付す。既存の石塔の所在と、二月の新設物及び揮…

  76. 追録6-No.1598 神道碑・寄進目録石明細書

    鎌倉の頼朝公と忠久公の石塔がある山に建てた石碑と寄進目録石について、位置、寸法、正面・脇面の文言を四項目に記す。第一は山の入口の石碑で、竿石の高さ六尺一寸、一尺三寸三部方とし、二重の台石を伴う。正面は「頼朝公御石塔及元祖島津豊後守忠久石塔道」、左脇は安永八年己亥二月・薩摩中将源重豪建之、右脇は薩州侯…

  77. 追録6-No.1599 田沼意次書状

    今朝、御檜重一組を献じられたことについて、披露した旨を松平薩摩守へ伝える。三月六日、朱書の年記は安永八年。意次の判があり、口裏に田沼主殿頭と記す。目録は田沼意次書状とする。献上物の数は一組で、内容物の種類・数量や披露の相手は本文に記されない。

  78. 追録6-No.1600 島津重豪登城御礼伺候次第

    三月十二日、今朝五半時に供を揃えて登城した御礼の次第。御用番は田沼主殿頭、奏者番は仙石越前守で、謁見前に大廊下へ大目付正木志摩守・伊藤伊勢守が出て、別紙の名書にある者は謁見後に白書院縁頬で仰渡しがあるので居残るよう主殿頭からの指示を伝える。手扣の書付で各席へ知らせ、謁見後は桜の間の杉戸涯口へ寄るよう…

  79. 追録6-No.1601 幕府触書

    大納言様薨御に伴う三月十二日の仰渡しの写。国持には、中陰中に機嫌を伺うため懈怠なく出仕していることが上聞に達し、機嫌に思うのでこれを伝えるようにとの上意を記す。謁見後、白書院縁頬で主殿頭が伝え、老中が列座したとする。御譜代・外様には、中陰中の出仕が上聞に達したのでこのことを伝えるようにとの上意を記し…

  80. 追録6-No.1602 徳川治貞書状

    大納言様の薨御に関する芳翰について、念を入れた趣を受け止めたと松平薩摩守へ返す。三月十五日、年は朱書安永八年。紀伊中納言治貞の判がある。弔意の書状への返書で、贈物の品目・数量は記されない。

  81. 追録6-No.1603 徳川重倫書状

    大納言様の病気について養生がかなわず、去月二十四日に薨御されたことを言葉に尽くせぬ悲しみとし、これに関する示諭は念の入ったものと受け止めたと松平薩摩守へ返す。三月十六日、朱書年記は安永八年。差出は紀伊前中納言重倫で判がある。死去の日を去月二十四日と記す一方、本書の日付は三月十六日である。贈物の品目・…

  82. 追録6-No.1604 田沼意次書状

    今朝、干菓子一箱を献じられたことについて、披露したところ一段の御仕合であったと松平薩摩守へ伝える。三月二十六日、朱書年記は安永八年。意次の判があり、口裏には田沼主殿頭意次と記す。品目と数量は干菓子一箱で、具体的な返礼品の授与は記されていない。

  83. 追録6-No.1605 男上り格式定書

    嫡子が死亡し、又は養子へ遣わす際、二男を嫡子に願い出、それに準じて三男以下の男上りも願うこと、二男以下を同じように扱う場合の男上りを免じることがあったとして、今後の格式を定める。嫡子にする願いは従来どおりとするが、三男以下の男上りは認めない。ただし御支族又は差立家筋で、二男・三男の男上りがあり家格進…

  84. 追録6-No.1606 島津重豪届書

    昨年の参府の礼の際に上意を受けた直御請について、内意を申し上げると先規どおりでよいとの旨を承知したので、その後詳しく調べたと記す。参府と御暇の二度の礼で、召し出され取合を経て御機嫌を申し上げ、御懇ろの上意を受けて直御請を述べた段の旧記が見つかったため、このときも御暇の礼に際して前格どおり御機嫌を申し…

  85. 追録6-No.1607 島津重豪登城御礼伺候次第

    今日の御暇の礼をするよう、前日に老中から奉書が届き、四月十九日朝六半時に出て本丸へ登城した次第。黒書院の条には「公方様 大納言様出御」と記し、奏者を井伊兵部少輔とする。縁頬下から一畳目の位置で御暇の礼を述べ、取合を経て御機嫌を申し上げる。閣内一畳目に着座して月番松平周防守の取合で馬について上意があり…

  86. 追録6-No.1608 二階堂行旦添書

    太守様が昨年の参府の礼の際に機嫌を伺って直御請を述べたとき、上意があったことを踏まえ、直御請をする次第について別紙の書付写のとおり承知すべき面々へ申し渡す件を、しかるべく取り計らってほしいと依頼する。四月二十一日、二階堂主計。宛先は嶋津左中・喜入主馬・小松帯刀・赤松造酒の四人で、目録は二階堂行旦添書…

  87. 追録6-No.1609 重豪、帰国を謝す

    四月二十一日、大家が老中阿部豊後守正允を芝邸へ遣わし、重豪の帰国に際する恩賚を例のとおり与えたと記す。同月二十三日、重豪は留守家老山岡市正久澄を伴って登城し、先例どおり帰国の礼を大家に述べた。恩賚を受けた日と登城して礼を述べた日を分けて記し、恩賚の品目・数量は記されない。

  88. 追録6-No.1610 松平輝高外三名幕府老中連署状

    明日五半時に登城し、御暇の礼を申し上げるよう松平薩摩守へ指示する。四月二十二日、朱書年記は安永八年。田沼主殿頭・板倉佐渡守・松平周防守・松平右京大夫の四名が連署する。目録は松平輝高外三名の幕府老中連署状とする。

  89. 追録6-No.1611 登城令書

    御目見を仰せ付けられるので、家来一人を召し連れて出向くよう指示する。独立した年月日・差出人・宛名は記されない。目録は登城令書とする。

  90. 追録6-No.1612 徳川家治御内書

    端午の祝儀として帷子・単物が到来し、歓覧した旨を薩摩中将へ伝える御内書。詳しくは田沼主殿頭から述べるとする。五月二日、朱書年記は安永八年。墨印には家治公と記す。帷子・単物の数量や田沼が伝える詳しい内容は本文に記されない。

  91. 追録6-No.1613 重豪、徳川家綱の法事に献銀す

    この年、大家が東叡山で厳有院殿の百年忌法事を行い、夏五月、重豪は小松主税清行を使者として遣わし、香奠銀十枚を献納したと記す。厳有院殿には徳川家綱との小注がある。法事の場所、使者と献納銀の数量を記し、具体的な執行日・清行の出立日や銀の両数への換算は示さない。

  92. 追録6-No.1614 譜久山朝紀起請文前書

    天罰霊社起請文前書の五条。第一条は、自分は若輩でありながら昨年三司官役を仰せ付けられた冥加をありがたく思い、今後も国許への奉公を念入りに勤めると誓う。第二条は御両殿様に少しも疎意を抱かないこと、第三条は国許から示された諸事の条書を固く守り、悪意・邪な行為を企てる者があれば披露すること、第四条は国王に…

  93. 追録6-No.1615 重豪、帰国す

    五月十五日、重豪は江戸を発って帰国し、家老島津左中久金、番頭兼側用人島津登久連、側用人兼近習役川上頼母久品、近習役市田勘解由貞英その他の諸役人が従行したと記す。六月二十八日、鹿児島へ帰着し、同日、頴娃左京久喬を江戸へ遣わして帰国の礼を述べ、従来例どおり献物をした。久喬は大家に謁見し、これも先例どおり…

  94. 追録6-No.1616 二階堂行旦申渡書

    大納言様の院号を「孝恭院様」と称する旨が江戸から伝えられたので、記録しておくよう御記録奉行へ申し渡す。五月、主計。目録は二階堂行旦申渡書とする。包紙注には八十六の記載と、孝恭院様の院号についての書付一通を安永八年亥五月二十五日に主計殿から渡し、本田文蔵が納め置いた旨を記す。本文の申渡しと包紙注の書付…

  95. 追録6-No.1617 松平輝高書状

    厳有院様の百回御忌の法事が執行されるに際し、使者を通じて東叡山へ香奠を献納した旨を言上したことを、松平薩摩守へ伝える。六月八日、朱書年記は安永八年。松平右京大夫輝高の判がある。香奠の献納とその言上を記すが、使者の氏名と香奠の数量は本書の本文には記されない。

  96. 追録6-No.1618 板倉勝清書状

    書状を受け、酷暑の時期に使者を通じて公方の機嫌を伺ったことについて、ますます勇健なので安心してよいと伝える。併せて献じられた琉球布一箱、砂糖漬天門冬一器、赤貝塩辛一器、琉球泡盛酒二壺を、それぞれ申談して披露したところ一段の御仕合であったと記す。六月十一日、朱書年記は安永八年。板倉佐渡守勝清の判がある…

  97. 追録6-No.1619 島津重豪願書

    翌年の参勤は定式どおりの時節に行う心得でいたが、このたび帰国する際は暑中の長途旅行で脚痛を生じ、さらに持病の積気が再発してひどく難儀したと述べる。来年も暖かくなってからの長途旅行では気分が障るため、早春に国許を出立して保養し、二月中に府へ到着して機嫌を伺いたいと願い出る。六月二十八日、朱書年記は安永…

  98. 追録6-No.1620 松平輝高外三名幕府老中連署状

    「生見玉」の祝儀として黄金十両を献じられたことについて、披露したところ一段の御仕合であったと松平薩摩守へ伝える。七月六日、朱書年記は安永八年。田沼主殿頭意次・板倉佐渡守勝清・松平周防守康福・松平右京大夫輝高の四名が判を添えて連署する。「生見玉」は本文の用語であり、黄金の数量は十両と記す。

  99. 追録6-No.1621 島津重豪願書

    関所通行の手形を申請する際、家来二宮藤太左衛門・伊東主左衛門が今後申し立てをする旨を伝え、そのため印鑑を差し出しておくので、しかるべく取り計らってほしいと願う。七月九日、朱書年記は安永八年。差出表示は松平薩摩守で、宛名は京都所司代久世出雲守様の後に「人々」と記す。二人の役目は手形申請に関する今後の届…

  100. 追録6-No.1622 久世廣明所司代書状

    書状を拝見したと述べ、関所手判について家来二宮藤太左衛門・伊藤主左衛門が今後届けること、そのため印鑑を差し出してある件を承知したと返す。九月十日、久世出雲守の名乗判に廣明の小注を付す。宛先は松平薩摩守様で「御報」と記す。同欄の付記は、江戸へ女中を差し越す際の関所通行について従来は書面を送る先例であっ…