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後編3の目録

旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。

全1,990件中 1~100件・1 / 20ページ

  1. 後編3-No.1 北郷久村譜

    文禄五年春、北郷久村が龍伯(島津義久)から肝属小原二千石を賜り、濱之市へ移住して奉仕したことを記す。久村がまだ登城しないうちに豊臣秀吉がその名を聞き召し、これにより小原二千石を与えられたとする譜記事。

  2. 後編3-No.2 石田三成書状

    石田三成が島津又八郎の書状を受け、相手方が無事であることを喜び、当地の仕置については上井甚五郎へ詳しく申し渡したため重ねては書かないと返答した書状。

  3. 後編3-No.3 島津義弘譜

    慶長元年正月、島津義弘が金翅山市中を出発し、同月十三日に摂津国大坂へ到着したことを記す。明の勅使が朝鮮へ来るとの報を受け、異国の使節に日本の威容を示すため諸侯を集め、騎馬を備えた事情を伝える譜記事。

  4. 後編3-No.4 新納旅庵長住譜

    文禄四年十二月二十一日、新納旅庵長住が島津義久に従って帖佐を発し、陸路で筑前国秋月の金翅山市中に越年したのち、慶長元年正月十三日に船で大坂へ着いたことを記す。朝鮮へ来た明使との講和に関連して諸侯・騎馬を集める計画があったが、実施されずに終わったという譜記事。

  5. 後編3-No.5 島津忠恒家久証状

    島津忠恒が伊集院下野入道へ、国元の改易と諸侍の知行支配には自分が不案内であるため、在国する龍伯・武庫が判断すると伝えた。両者が同意しない場合にも忠恒が取り成して知行を宛行うと約し、引き続き忠節を尽くすよう求めた証状。

  6. 後編3-No.6 島津竜伯義久書状

    龍伯が島津又八郎へ、前年冬の二通を受け取り、相手方が無事であることを喜んだと返した。入国予定が延びるとの報告を承知したこと、聖門へ贈る手本が未完成で後便に回すこと、唐筆の扇子二本への礼と贈物について述べた書状。

  7. 後編3-No.7 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津又八郎の長期にわたる在番の辛労をねぎらい、小袖一領を下賜し、詳しいことは毛利豊前守・平野新八郎から伝えるとした朱印状。

  8. 後編3-No.8 殉国名藪

    築山伴五郎が文禄五年正月十八日に朝鮮渡海中に戦死し、長峯伊予入道宗珍が同年二月二日に主を慕って殉死したことを記す『殉国名藪』の記事。

  9. 後編3-No.9 島津竜伯書状

    龍伯が島津又八郎へ、これまでの書状が付状の形で届いているため、今後は直書に改めるよう求めた。宛名の付け方によって到着が遅れる事情を述べ、当地の様子を報告するよう促し、詳しい意向は上井甚五郎へ申し含めたと伝える書状。

  10. 後編3-No.10 島津忠恒加増目録

    島津忠恒が源七郎へ、薩州鹿籠内の別府村百六十石九斗九升を含む合計五百石の加増を示した目録。太閤の命による分国検地・改易で旧領を離れることへの配慮として、知行について龍伯・武庫と相談し、特に念を入れて取り計らうと伝える。

  11. 後編3-No.11 島津忠恒証状

    島津忠恒が入来院又六へ、改易によって代々相伝の領地を離れ、打ち上げた田数にも不足があって迷惑であろうと述べた。知行については龍伯・武庫と相談して特に念を入れて処置するため、心配しないよう伝えた証状。

  12. 後編3-No.12 島津忠恒証状

    島津忠恒が喜入摂津守へ、改易によって代々相伝の領地を離れ、打ち上げた田数にも不足があって迷惑であろうと述べた。知行については龍伯・武庫と相談して特に念を入れて処置するため、心配しないよう伝えた証状。

  13. 後編3-No.13 島津忠恒証状

    島津忠恒が新納五郎右衛門尉へ、国元の改易と諸侍の知行支配には自分が不案内であるため龍伯・武庫と相談すると述べ、これまで示してきた誠実な奉公を忘れていないので、特に念を入れて知行を宛行うと約し、なお忠節を尽くすよう求めた証状。

  14. 後編3-No.14 年代記

    慶長元年、京都・大坂で大地震が起こり、家屋が崩れて数万人が死亡したこと、同年七月六日に御衆が志布志から出船して帰洛したことを記す年代記記事。

  15. 後編3-No.15 島津竜伯書状

    島津竜伯が又八郎へ、京都が平穏で武庫も上着した頃とみられることを伝え、図書頭以下の長陣辛労をねぎらうよう求めた。家中で遺恨を抱いていた者たちが悪口を控えるようになった事情と奉公人の取扱いを述べ、その内容を図書頭・抱節・出雲守・紀伊守へ内々に伝えるよう指示する。さらに有馬次右衛門尉がもたらした八か条の…

  16. 後編3-No.16 島津義弘書状

    島津義弘が又八郎へ年賀を述べ、前年十二月十九日に帖佐を出発して同月二十七日に大坂へ着いたこと、諸大名の目見えが翌月朔日に延期され、太閤秀吉が大坂で越年したことを知らせた。又八郎ら番手の辛労をねぎらい、国元では竜伯・伊集院幸侃による支配整理と諸侍の公役替えを見込み、加増は後日の処置とする旨を伝える。さ…

  17. 後編3-No.17 島津竜伯書状

    龍伯が島津又八郎へ、先の書状では色紙がまだ出来ていないと伝えたが、その後さらに懇望して入手し、聖門様から持たせて送ると知らせた。詳しいことは川東善左衛門尉が伝えるとした書状。

  18. 後編3-No.18 島津忠長譜

    文禄五年正月二十八日、島津忠長が旧領および新恩の地を与えられ、その目録が作成されたことを記す譜記事。

  19. 後編3-No.19 島津竜伯宛行状

    龍伯が園田頭へ、薩摩郡東郷、伊集院竹山村、河辺郡田部田村・長田村・平山村、日向国諸県郡野々前田村内の所領を列記し、合計一万石のうち七千百石を加増として宛行った文書。当時の役務に報いるもので、今後いっそう奉公に励むよう求める。

  20. 後編3-No.20 島津竜伯書状

    龍伯が島津又八郎へ、在陣衆への加増は十石程度を基本として百石に及ぶ者があるか尋ね、過分な約束を戒めた。幸侃からの加増案は又八郎の帰朝を待って決めるとし、当家の存続や武庫上洛前の国元処理より当面の京都での勤めを優先するよう説く。武庫側近や伊勢孫九郎への百~二百石の宛行、田数帳を渡海後に渡すこと、替衆を…

  21. 後編3-No.21 島津義弘書状

    島津義弘が又八郎へ新春の祝意を述べ、先に便宜を得て送った書状の到着を確かめるとともに、長陣の辛労をねぎらい、渡海の知らせが事実なら引陣も遠くないだろうと喜んだ。義弘自身は前年十二月十七日に大坂へ着き、前年十一月以来病気であった太閤秀吉が快復したこと、諸大名の目見得が正月十一日に延びたため大坂に滞在し…

  22. 後編3-No.22 伊集院幸侃忠棟宛行状

    伊集院幸侃が中河又十郎へ、薩州市来湯田村内の三石を与えた宛行状。先年、川内へ出向いた際に御輿を担いだ働きへの恩賞として知行を認めた。

  23. 後編3-No.23 伊集院幸侃宛行状

    伊集院幸侃が春口土佐守へ、薩州市来湯田村内の五石を与えた宛行状。先年、川内へ出向いた際に御輿を担いだ働きへの恩賞として知行を認めた。

  24. 後編3-No.24 雑抄

    No.23と同文の宛行状が外中馬十郎左衛門尉・市来豊前入道にも存在したことを記す雑抄記事。先年の川内出向時に御輿を担いだ働きに対する恩賞知行である。

  25. 後編3-No.25 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、浅野弾正少弼の派遣に伴い、船が揃い次第渡海するよう命じた。高麗にある船だけでなく領内各地からも船を集めて名護屋で引き渡し、一艘でも多く確保すること、部隊編成を整えること、兵糧の所持量を偽らず請目に記して供出することを指示し、渡海後の仕置は浅野が伝えるとした朱印状。

  26. 後編3-No.26 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が羽柴薩摩侍従へ、浅野弾正少弼の派遣を伝え、船が揃い次第朝鮮へ渡海するよう命じた朱印状。高麗にある船を含む領内の船を名護屋へ集め、各組に奉行を添えて浅野の指揮下に置くこと、保有兵糧を虚偽なく申告して受け渡すこと、船到着後は直ちに渡海して現地の仕置に当たることを指示している。

  27. 後編3-No.27 島津義久書状案

    島津義久が古溪和尚へ、前年に古溪が当国へ下向したと聞いたものの、その時は義久が在京していたため会えなかったことを残念に思い、今も滞留中なら熟談したいと伝えた。京都の事情が整い、上洛の見込みがあるかと尋ね、今後も互いに音信を通わせたいとして贈物を送った書状案。

  28. 後編3-No.28 近衛三木信輔書状

    近衛信輔が龍伯へ、後世の人が惜しむ墨跡になるよう先に書き付けてほしいとの依頼を受け、和歌は不得手ながら古歌であるため染筆したと伝えた書状。

  29. 後編3-No.29 児玉利昌譜

    文禄五年以前、坊津に謫居して書名の高かった近衛信輔に、児玉利昌が古画への賛を請うたことを記す。二月二十三日に信輔から尺牘を得て、七月に実相(児玉利昌)が朝鮮から帰った後、その尺牘等を与えられたとする譜記事。原文に島津義久の名はない。

  30. 後編3-No.30 川上肱枕忠智外二名連署領知目録

    川上肱枕忠智・新納旅庵長住・伊勢貞昌が井尻豊前房へ、大隅国帖佐の餅田村内にある上前薗・住吉村内浮免・實幸院野宮村内などの田畠を列記し、合計九十九石四斗九升を無親疎に配分するよう命じた領知目録。違乱する者があれば申し出るよう伝える。

  31. 後編3-No.31 石田三成書状

    石田三成が島津又八郎へ、又八郎の弟の知行について二百石を与え、今回の割当ても十分に取り計らったと伝えた。なお不足を感じる場合には相手を煩わせてでもよく配慮し、又八郎も心得るよう求めた書状。

  32. 後編3-No.32 島津竜伯書状

    龍伯が島津又八郎へ、便りがないことを案じ、先に聖護院へ依頼された手本について色紙を送り、さらに青蓮院から下された手本二点と油煙三挺を送ったと知らせた。また娘の暇願いについて、石田三成が京都に留める意向であるため、在京の覚悟をするよう伝えた書状。

  33. 後編3-No.33 島津家久譜

    明の勅使が朝鮮へ来るのに備え、朝鮮在陣の諸将が各城に番兵を残し、各将自身は少数の騎馬・歩兵を率いて勅使の渡海を待つこと、渡海後は陣を解いて直ちに京都へ上り豊臣秀吉へ謁見することを命じられたと記す譜記事。石田三成がこの命令を島津義弘へ伝え、島津忠恒にも告知した。

  34. 後編3-No.34 島津義弘書状

    島津義弘が又八郎へ、朝鮮在番衆の辛労をねぎらい、図書頭・石田治部少輔らの供奉、伊勢弥九郎の上洛、光明院・神徳院による渡海祈念について伝えた。さらに、明の勅使来朝に伴い、朝鮮在番衆の各主将は人数を残して帰朝すること、約七百人を伊集院抱節・比志島紀伊守・鎌田出雲守のもとに残し、又八郎らは直接京都へ上るこ…

  35. 後編3-No.35 島津義弘書状

    島津義弘が又八郎へ年始の祝意を述べ、太刀一腰・馬一疋などの御礼と、聖門様・石田治部少輔・幽斎・安芸州・麻吉左右への祝物に対する返事を伝えた書状。大仏に住する聖門様が多忙なため手本の調製が遅れたが、完成したので待たせていた飛脚に持たせること、帰朝後に面会して詳しく話すことを述べている。

  36. 後編3-No.36 伊勢如貴貞知書状

    友枕斎如貴が伊勢弥九郎へ新年の祝意を述べ、帰朝命令が出て近日上洛する見込みを喜び、迎えに出て祝意を伝えたいとした。前年十二月二十三日付書状を受領し、在番中の無事を喜び、贈られた綸子一巻への礼を述べる。さらに聖門様への音信と依頼された手本を送ること、伏見にいる武庫が大閤から御殿を拝領したことを伝え、ゆ…

  37. 後編3-No.37 島津義弘書状

    島津義弘が又八郎へ、明勅使の渡海に伴う帰朝・上洛と朝鮮残留兵の編成を指示した書状。比志島紀伊守・伊集院抱節を主取として約七百人を残し、鎌田出雲守は帰朝させること、船数と出船時期を小西摂津守と相談すること、帰国用の船を残留衆へ残すこと、光明院・神徳院に渡海の祈念を依頼することなどを伝える。

  38. 後編3-No.38 近衛竜山前久詠草

    文禄五年三月十一日、京都御所の庭前で桜が盛りのころに酒宴が催され、帰国を申し出た島津忠元が近衛前久から和歌を拝領し、返歌を詠んだことを記す詠草記事。

  39. 後編3-No.39 小西行長書状

    小西行長が島津又八郎からの書状を拝見し、相手方が無事であることを承知したと返答した。自分たちも無事であり、用件があれば申し付けるよう求め、近日中に参会して見舞うつもりだと伝えた書状。

  40. 後編3-No.40 島津竜伯書状

    龍伯が島津又八郎へ、相良新右衛門尉・三原右衛門尉から伝えられた条々を承知し、とりわけ替衆を手配して送るつもりであると返答した。京都からの大事な命令のため少し遅れたが、油断せず間もなく渡海させること、細かな事情は両使者が説明すると伝えた書状。

  41. 後編3-No.41 島津忠恒過所

    島津又八郎(忠恒)が、薩摩船一艘に中乗五人・船頭一人・水夫十一人の計十七人を乗せて帰朝させるため、異議なく通行させるよう船改・御奉行衆へ命じた過所。

  42. 後編3-No.42 島津竜伯書状

    龍伯が島津又八郎へ、新年の祝儀のため使者を帰したことを伝え、前年冬から今春に送った書状がまだ届いていないのか、その後行き違いになったのだろうと案じた。当地の様子は川善左衛門尉の帰朝時に詳しく聞くとし、細部は鹿右衛門尉に申し含めた書状。

  43. 後編3-No.43 伊集院幸侃署判領知目録

    伊集院幸侃が一乗院へ、薩州河辺郡平山村内で諸侍へ配分した残余のうち三十二石余を割り付け、加増として与えた署判領知目録。

  44. 後編3-No.44 島津義弘書状

    島津義弘が宰相殿へ、新正八幡の屋根葺板について雨露に濡れないよう手配を求め、祈念の札などへの礼、又八郎の帰朝を喜んで酒樽一荷を贈ることを伝えた。伊集院源介の上洛と、帰朝する又八郎を迎えるため國部ぬいを派遣したことを報告する。さらに安住三州から義弘の娘を庄内へ遣わすよう求められた件は、義弘が留守で源次…

  45. 後編3-No.45 島津義弘覚書

    島津義弘の覚書。又八郎(忠恒)の帰朝後の再渡海・上洛などについて、渡海の安全、勢揃いと馬、供衆として図書頭・鎌田出雲守ら十騎または十五騎を召し連れること、伊集院抱節・比志島紀伊守が主取となる残番衆七百人の配置を指示する。在京中の用件は各人が国元へ直接申し送ること、公儀が加徳島に召し置いた御上米・諸道…

  46. 後編3-No.46 島津竜伯書状

    龍伯(島津義久)が島津又八郎(忠恒)へ、二月七日付書状を四月六日に受け取り、当地も相手方も無事であることを述べる。先に送った手本が届き好みにかなったことを喜び、当地の様子は川東善左衛門の帰朝時に詳しく聞くとして、後便を期した書状。

  47. 後編3-No.47 島津忠恒書状

    島津忠恒が毛利兵太へ、先日は見舞いのため訪れてもらいながら、十分なもてなしができず残念に思っていると詫びた。その後すぐ書状で礼を述べるべきところ延引したのは本意ではなく、自ら訪ねて申し入れたいが、当城の普請などを申し付けているためかなわないとして、後日の便りを期すと伝えた書状。

  48. 後編3-No.48 島津忠恒書状

    島津忠恒が三名へ、近く軍事行動を命じる朱印状が出たため、油断なく準備するよう伝える。島津義弘が渡海すれば、自身は上洛して国元検地を命じられた礼と私用を申し述べ、石田三成の命により義弘の渡海次第ただちに帰朝する覚悟であるとして、三名にもこちらからの連絡を待つよう求めた書状。

  49. 後編3-No.49 近衛前久書状

    近衛前久が又八郎(島津忠恒)へ、帰朝するとの申し出を聞き、めでたく満足していると伝えた。変わったことは対面した際に述べるとして、急便のため一筆のみ送り、詳しくは友枕から申し伝えるとした書状。

  50. 後編3-No.50 島津竜伯書状

    龍伯(島津義久)が島津又八郎(忠恒)へ、明使の上洛に伴って忠恒の帰朝が決まったことを喜ぶ。高麗に残す人数に対する交替衆を急ぎ渡海させること、手配に行き違いがあって少し遅れたが伊進分へ申し付けたことなどを伝え、帰朝準備を進めさせた書状。

  51. 後編3-No.51 近衛前久書状

    近衛前久が兵庫頭(島津義弘)へ、ある馬は早馬ではないが、よく調教すれば相応にはなるものの、義弘の馬の脚には及ばないと評し、あわせて草花一本を贈った。先に会って以来義弘を懐かしく思い、暇な時の来訪を望む。また、関東衆からもらった珍しい馬は疲れているが、義弘が吉田前馬場へ出る折に見せたいとして、日取りは…

  52. 後編3-No.52 石田三成書状

    石田三成が島津又八郎(忠恒)へ、勅使の渡海に伴い帰朝するよう伝え、その際には留守中のことを堅く申し付けるよう命じた。各陣屋に奉行を置き、火の用心などを厳重にさせ、留守中に不手際や不覚悟が生じないよう念を入れて差配することを求めた書状。

  53. 後編3-No.53 小西行長書状

    小西行長が島津又八郎(忠恒)へ、書状を拝見し、自身も前日に使札を送ったと伝える。忠恒は渡海する予定であったが、勅使をめぐる不慮の事態が生じて諸将の帰朝が延期されたのはやむを得ないとし、詳しくは前日の書状に記したため重ねて述べないとした書状。

  54. 後編3-No.54 町田存松・新納旅庵連署受取状

    町田存松久倍と新納旅庵長住が、鹿児島分などの黄銀・銀子を項目別に受け取ったことを記す受取状。銀の不足分を差し引き、出目入銀を加えた計算も示して、受取額を確認している。

  55. 後編3-No.55 町田存松・新納旅庵連署受取状

    町田存松久倍と新納旅庵長住が、金子六枚(秤目二百六十三匁七厘)を受け取ったことを記し、勝目兵右衛門・古後七郎右衛門へ宛てた受取状。

  56. 後編3-No.56 島津義弘書状

    島津義弘が宰相殿へ、平松の家作が粗末で雨漏りし、家中の者も難儀しているため、平松の役人に修築を申し付けたことを述べる。使者や家臣の動向、伊東孫八の書状到着、又八郎忠恒の帰朝・上洛と迎えの国分左京亮派遣、高麗への出船、求聞持修行や平田豊前の子の大峯入峰に祈念を命じたことなどを報告し、返書を求めた書状。

  57. 後編3-No.57 長宗我部元親書状

    長宗我部元親が羽柴薩摩侍従方へ、前日に使札を受け取り、龍門の途中で相手方の使者に会ったことを伝える。陣の交替衆が近辺まで渡って来たとの風聞は真偽不明とし、薩摩侍従が帰朝するなら必ず対面して意向を承りたいと述べた書状。

  58. 後編3-No.58 島津義弘書状

    島津義弘が忠恒へ、明使来朝により高麗在番衆の主力を帰朝させ、忠恒にも上洛命令が出たため国分左京亮を迎えに遣わしたと伝える。残番衆約七百人は抱節・比紀伊守を主取として兵粮を確保し、風説に動揺せず隣所へ持場を明け渡さないよう厳命する。帰朝希望者を安易に伴わず、留守居と番所の仕置を徹底するよう求めた書状。

  59. 後編3-No.59 伊勢如貴書状

    伊勢如貴が島津又八郎(忠恒)へ、三月二十一日付書状と段子一巻を受け取り、御門へ礼を述べて披露したことを伝える。忠恒の番船での働きと手柄をたたえ、帰朝を命じる朱印が届いたことを重ねて喜び、伏見で到着を待って対面したいと述べた書状。

  60. 後編3-No.60 島津忠恒証状

    島津忠恒が新納武蔵入道へ、国元の改易に伴う諸侍の知行支配は自分には案内がなく不審もあるが、龍伯(島津義久)と相談して処理すると伝える。新納の長年の忠節を評価し、油断があっても両殿の前で申し調えて身上・進退が安泰となるよう必ず取り計らうと保証した証状。

  61. 後編3-No.61 伊地知重治証状

    伊地知重治が伊地知周防介へ、島津家の祝儀に関する役を命じられた際の入具と包丁人の進退について、先例に基づく権限関係を説明した証状。入具は周防介が扱い、包丁人への下知や分別は場合に応じて行うが、包丁人一人の裁量で調進した時はその者の進退とするなど、私意ではなく旧儀によるものとした。

  62. 後編3-No.62 島津義弘書状

    島津義弘が宰相殿へ、高野から下った萩原寺の僧を通じた供養について報じた。賀参・紅生・宗江が志を寄せ、純香一種の到来によって四十九日の法要や法華経頓写などを整えたこと、高野の不慮の火災で先祖の日新・伯囿・妙安の位牌が焼失した一方、一部の位牌は焼失を免れたことを伝える。僧らが金子一枚を志として納めて下向…

  63. 後編3-No.63 新納為舟忠元書状

    新納為舟忠元が旅庵老へ、船の出発がようやく進む一方、飯米が不足するおそれがあるため、当面の米・物資を借り受け、後続の船が着くまで取り成すよう頼んだ。別船は六月末ごろの上着が見込まれるとして判断を仰ぎ、国元の事情、武庫(島津義弘)・龍伯(島津義久)への礼、在洛中の作州・休心老らへの応対について伝える。…

  64. 後編3-No.64 近衛竜山書状

    近衛龍山前久が武庫(島津義弘)へ、血がたまったように見える馬は、早々に熟練者に血を取らせ、十分に冷やせば差し支えないと助言し、「かけとひ」の馬の乗り方や扱いにも触れた。また、船の世話への謝意を述べ、美しい猫三匹を所望し、鶴毛の馬を見事として秘蔵するよう勧めた。さらに三光庵は吉事によって誉れを得たので…

  65. 後編3-No.65 小西行長書状

    小西行長が島津又八郎(忠恒)へ、寺沢志摩守が上着して目見えし、現地の方針は以前と変わらない旨が申し出られたこと、奉行衆から各人宛の書状が再び届いたため、寺沢の使者を添えて届けることを伝えた。また、御城番を厳重に命じ、勅使渡海の際のことは使者から詳しく申し入れるとした。追而書では石田治部少輔三成への書…

  66. 後編3-No.66 島津義弘書状

    島津義弘が忠恒へ、明との和平成立により高麗在番衆の主立った者へ帰朝命令が出たものの、方針が変更され、中途まで帰った者も持場へ戻って勤番するよう命じられたと伝える。義弘は忠恒に代わって渡海する案を石田三成へ申し入れたが、二、三十日ほどの短期で交替すれば忠恒の面目に関わるとして退けられたため、諸人同様に…

  67. 後編3-No.67 島津義弘書状

    島津義弘が忠恒へ、在番中で寂しいだろうとして、宰相分の袴二通、帷子十、杉原紙十帖、信楽の盃一つ、龍伯(島津義久)の茶三袋、九重の茶二袋、星野新茶などを送った書状。時節柄の衣類と茶器・茶を贈り、賞翫するよう勧めている。

  68. 後編3-No.68 近衛前久書状

    近衛龍山前久が武庫(島津義弘)へ、船の支度が整い当日下向するとの知らせを喜び、黒毛の馬について青地与右衛門尉に尋ねた結果を伝えた。その馬は三日以前に大野という者が黄金一枚などを付けて取得したもので、近年は大野と疎遠なため直ちに調進できないとした。代わりに青地入道宗与に良馬を探させ、馬の体格・乗り気・…

  69. 後編3-No.69 島津義弘書状

    島津義弘が又八郎(忠恒)へ、聖門から祈念の御札と巻数が届いたため、その使者に持たせて送るので、めでたく受け取るよう伝えた。祈念は怠りなく続けるとのことで、又八郎も満足するであろうと述べ、機会を見て聖門へ礼を伝えるよう求めた書状。

  70. 後編3-No.70 島津義弘譜所収明使李宗城逃亡記事

    慶長元年、釜山に留まった明使李宗城が、封冊の件が破綻し日本へ行けば帰国できないと聞いて恐れ、従者と相談して命令を捨て、衣服を改めて夜中に釜山から逃亡した経緯を記す。翌日、楊方亨が北京へ報告し、沈惟敬らが事態の隠蔽や弁明を図ったが、明側で追及・処罰問題へ発展したとする島津義弘譜所収記事。

  71. 後編3-No.71 島津義弘書状

    島津義弘が忠恒へ、家門様を帰京させる命令が徳川家康・前田利家を通じて太閤から伝えられ、使者を下したので早々の上洛を言上するよう求める。一方、忠恒の帰朝命令は変更され、中途まで帰っていても再び高麗へ渡って在番するよう諸大名同様に命じられたため、本田讃岐守を使者に知らせ、兵員・屋形など高麗への支援を怠ら…

  72. 後編3-No.72 伊勢如貴書状

    友松斎如貴が伊勢弥九郎へ、現地が無事に整い帰朝も近いと聞いて待ち望み、長期在陣の辛労とたびたびの手柄が太閤の耳に達したことを名誉と称えた。縮一端の進上と返礼品について伝え、途中の雨に備えて傘を怠らぬよう人々に申し含めること、銀子十両への礼を述べた。安元の様子は本田源右衛門が説明するとし、取り成しを頼…

  73. 後編3-No.73 『征韓偉略』記事

    『征韓偉略』に、慶長元年六月十五日、明使が釜山を発ち、朝鮮在陣諸将が撤収準備に入ったことを記す。京都にいた島津義弘が、加徳島にいた忠恒へ秀吉の撤兵命令を伝えたが、その後、諸将がすでに出船していても島津勢は本陣へ戻って駐留し、改めて出船期日を命じるとの指示があり、忠恒は加徳に留まって守備を固めた。

  74. 後編3-No.74 島津竜伯書状

    龍伯(島津義久)が忠恒へ、京都から来た有馬銀右衛門の報告では高麗在陣諸将は帰朝するが、忠恒は在番を命じられたと伝える。島津勢は海路・陸路で上洛を始めていたため、命令変更を聞いて引留めの使者を送り、忠恒支援の人数・道具・見次を改めて調えて渡海させるとし、他家も在番となる見込みや国元の動向を知らせた書状…

  75. 後編3-No.75 島津忠恒書下

    島津忠恒が鎌田出雲守へ、検地後の知行替えで従来の知行が減少し、生活が成り立ちにくい事情を踏まえて処遇方針を伝えた書下。龍伯・武庫に意向を伺い、諸侍を安堵させること、鎌田については特に知行を配慮し、国々の事情で多少は変わり得るものの、まず三千石ほどを与える内意であることを示し、家臣を抱えて忠儀を尽くす…

  76. 後編3-No.76 島津忠恒書下写(巻末断簡)

    No.75と同趣旨の書下を『抱節家譜』から掲げたもの。検地後の知行替えで旧来の知行が減り生活が困難となる事情を踏まえ、龍伯・武庫と相談して諸侍を安堵させ、抱節にも相応の知行を与える意向を述べる。ただし掲載本文は巻末で「今度」まで記したところで中断しており、続きは確認できない。

  77. 後編3-No.77 浅野長吉書状

    浅野平右衛門尉長吉が羽柴薩摩侍従方へ、釜山浦の城米は自ら渡す予定だったが、志戸守へ用務を命じたため代理一人を遣わすので、奉行を定めて確実に受け取るよう求めた。官人の道具を載せて日本へ戻る船を急がせ、増田右衛門尉・早川主馬頭の使者を唐へ渡すよう手配することも伝えた書状。

  78. 後編3-No.78 樺山紹剣自記

    樺山紹剣が、文禄五年閏七月九日に大地震があり、京都では十二日夜に諸大名の屋形や町屋、金銀で補強した御殿まで崩れ、数百人が圧死したと記す。高麗から人を日本へ渡す交渉にも影響し、秀吉が機嫌を損ねたことなど、伏見地震後の混乱を伝える自記。

  79. 後編3-No.79 石田三成・島津竜伯義久・同義弘連署書下

    石田三成・龍伯(島津義久)・島津義弘の連署により、薩摩・大隅諸郡の落着に伴う先納分について、寺社・諸侍・町人以下を問わず、それぞれを管轄する給人が速やかに収納するよう命じた。怠る者があれば、過怠として員数一倍分の領地を召し上げ、管領主に処断させる一方、当該主人とは算用を遂げるよう定めた書下。

  80. 後編3-No.80 島津義弘書状

    島津義弘が忠恒へ、当初は龍伯に供して帰国する予定だったが、混乱のため諸将が京都に残り、石田三成の命で義弘一人だけ下国することになったと伝える。忠恒の長期在陣と中国方面での勤仕を賞し、高麗の番・普請を怠らないよう命じる。秀吉による国中の人数・所替えに応じ、龍伯に供して下国する事情は使者が説明するとした…

  81. 後編3-No.81 島津義久譜記事

    西国へ下向していた近衛信輔が京都へ帰るにあたり、大隅国富隈でたびたび和歌会を催し、慶長元年七月六日に帰京の途についたことを記す島津義久譜の記事。出立に際して近衛信輔と龍伯(島津義久)らが和歌を贈答した経緯を伝える。

  82. 後編3-No.82 樺山紹剣詠松蔭新涼和歌

    樺山紹剣が「松蔭新涼」を題として、茂る松の下露に秋の初風の涼しさを詠んだ和歌一首。

  83. 後編3-No.83 近衛信輔都城興行和歌

    本田助之丞家蔵文書に収める、近衛信輔が庄内都城で興行した和歌会の作品群。「松蔭新涼」「秋日同詠松蔭新涼和歌」などを題に、近衛信輔、龍伯、大蔵少輔長治、左衛門尉長家ほか島津家臣らが、松陰・秋風・露・涼しさを詠んだ。

  84. 後編3-No.84 近衛信輔富隈興行和歌

    近衛信輔が西国から帰洛する折、大隅富隈で催した和歌会の懐紙。「当座薄露」「寄鏡神祇」などの題で近衛信輔と島津家臣らが詠み、慶長元年七月六日の帰京出立時の歌も収める。公家と島津家中の文芸交流を示す和歌資料。

  85. 後編3-No.85 小西行長・小西末吉連署状

    小西主殿助行長・小西作右衛門尉末吉が島津又八郎方へ、朝鮮の使節が日本へ渡海するため、一両日中に西方から使節を乗せた船三艘が通る予定であると知らせ、心得るよう求めた連署状。

  86. 後編3-No.86 島津義弘書状

    本文はNo.80と同文につき省略。島津義弘が島津又八郎(忠恒)へ、国元の知行沙汰・家中の勤仕・帰朝および渡海後の処置を指示した書状である。検地目録の給付と七月の御打立を根拠に、本文を文禄四年成立とする注記を付す。

  87. 後編3-No.87 近衛前久書状

    近衛前久が武庫(島津義弘)へ、前日に東山で使者を受けたことを喜び、以前から約束していた駒鳥の子がちょうど南都から届いたので重ねて贈ると伝えた書状。まだ雌雄などを見分けていないため、詳細は友枕から伝えるとした。

  88. 後編3-No.88 島津竜伯書状

    龍伯(島津義久)が忠恒へ、町田縫殿助から承った件は帰帆時に詳述させること、希望する鉄が調わず渡海を延期したこと、宿銀・本銀の返済手配を伝える。六月二十日付書状の到着を喜び、下知に背いた野村五郎二郎の組編成を指示し、重病説が流れた秀吉は快復して京都が静謐となったので安心するよう知らせた書状。

  89. 後編3-No.89 島津竜伯書状

    龍伯(島津義久)が忠恒へ、在番支援の人員を渡海させる準備をしていたが、京都から忠恒を帰朝させ渡海衆を召し留めるよう命令が来たため従うと伝える。現地事情を聞くため使者二人を派遣し、帰帆決定時の事前注進を求めた。また和泉で大松三百本を船元まで運び、作業後に上洛する予定も知らせた書状。

  90. 後編3-No.90 島津義弘書状

    島津義弘が宰相殿へ、兵庫頭を通じた伝言への謝意を述べ、高麗で本田讃岐が参陣し又八郎(忠恒)がよく働いていること、陣引の沙汰がなく兵糧も不足しているため、借用して三日中に船積みする手配をしていることを報告した。自身は帰朝を望む一方、老病と疲労により立居も難しく食欲もない状態を訴え、又八郎のため伊勢へ千…

  91. 後編3-No.91 町田存松・新納旅庵連署算用証状

    町田存松久倍・新納旅庵長住が安宅三川守へ、加治木衆新納仲左衛門に関する米三千六百余石をはじめ、船賃米、銀への換算額と一石当たりの換算率などを示した算用証状。

  92. 後編3-No.92 町田存松・新納旅庵連署利銀算用証状

    町田存松久倍・新納旅庵長住が安宅三川守へ、文禄四年分の石田治部少輔蔵入目録に関する米高と、同年四月から閏七月まで五か月分の利平銀を算出して示した証状。一貫目につき一か月三十匁という利率も記す。

  93. 後編3-No.93 伊集院幸侃忠棟署判領知目録

    伊集院幸侃忠棟が、先年の御輿上げの忠恩により、薩州伊集院内大内田村の余分地のうち一作・高五石(原文「五斛」)を中馬十郎左衛門へ宛行った署判領知目録。

  94. 後編3-No.94 伊集院幸侃署判領知目録

    伊集院右衛門入道幸侃が、市来豊前入道へ、先年の御輿上げを理由として、薩州伊集院内田村の余分地のうち高二石と、これに加えて市来湯田の三石を宛行った署判領知目録。

  95. 後編3-No.95 安宅秀安書状

    安宅三河守秀安が島津又八郎(忠恒)へ、布二巻と書状への礼を述べ、大明勅使と豊臣秀吉の対面後に朝鮮在陣衆が帰朝する見通しを伝えた。しかし地震で伏見・大坂の城内対面所が損壊したため唐人の御礼が延期され、伏見城の天守・矢倉も損壊した一方、島津義弘の屋敷と石田治部少輔(三成)の家は無事であること、三成が注文…

  96. 後編3-No.96 河添藤七左衛門・上村覚右衛門連署上書

    河添藤七左衛門・上村覚右衛門が、豊臣秀吉が川内泰平寺を陣宿とした際、龍伯(島津義久)が泰平寺へ出向いたものの供人が不足したため、伊集院にいた両名の父祖が供奉して御輿を担いだと聞き伝えていることを、後日の由緒として申し上げた連署上書。

  97. 後編3-No.97 小田原源右衛門上書

    高岡の小田原源右衛門が、豊臣秀吉が川内泰平寺へ下向した際、龍伯(島津義久)の指図により祖父但馬と父源太兵衛が御輿を廻して奉公し、その忠節により高五石を賜った由緒を、名寄を紛失したため古書物に基づいて申し立てた上書。

  98. 後編3-No.98 伊集院幸侃署判領知目録

    伊集院右衛門入道幸侃が、隅州桑原郡吉松の般若寺領のうち、般若寺村内の右田島屋敷分について、米高百三十石余を記して与えた署判領知目録。

  99. 後編3-No.99 島津義弘書状

    島津義弘が伊集院下野入道へ、長期在番の辛労をねぎらい、大明勅使が無事来朝したので秀吉との対面後には在番衆も帰陣できる見込みだったと伝える。しかし七月十二日の大地震で大坂・伏見の御殿が損壊し、勅使との対面が延期されたため、帰朝までの間は番を油断なく勤めるよう求めた書状。

  100. 後編3-No.100 島津義弘書状

    島津義弘が伊集院肥後入道へ、長期在陣の苦労をねぎらい、忠恒が健在なのは祈念のおかげであると喜んだ。忠恒が上洛する場合には供奉するよう求め、鎌入・慶呑にも辛労の事情を伝えるよう依頼した書状。