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後編3の目録
旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。
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後編3-No.1700 某覚書
差出人不詳の覚書。前年十月に肥後へ派遣した両使、小伝次の企て、有方・左衛門尉らの動向、鹿児島での申し合わせ、使者や奉公人の処置、肥後宛書状の受渡しなど、内密の案件と関係者への申付を多数の条項に整理する。
後編3-No.1701 島津惟新義弘書状
島津惟新が忠恒へ、伊集院忠真成敗の事情を京都へ報告する使者として旅庵を立てる案を検討する。和久某や富隈衆が旅庵の過去の不首尾を理由に反対する一方、伊集院源次郎成敗の様子をよく知る旅庵が適任とも述べ、別人選も含め慎重に定めるよう進言した。
後編3-No.1702 島津惟新書状
島津惟新が忠恒へ、重陽の祝儀として小袖五領のうち綾二領が届いたことを喜ぶ。また、ほかに任せるべき人物がいないなら旅庵を早々に使者へ任命し、伊集院忠真成敗の事情を説明させるよう勧めた。
後編3-No.1703 島津龍伯書状
島津龍伯が忠恒へ、上之山城の処置、鹿児島老中衆との意思疎通、馬の調達、鎌田源左衛門尉から聞いた諸案件などについて意見を伝える。南林寺関係の訴えや福山の馬の扱いにも触れ、関係者へ適切に命じるよう求めた。
後編3-No.1704 町田阿杉寄進状
町田阿杉入道が正八幡宮へ燈籠一口を寄進した寄進状。毎夜の宵・暁に灯明を供えるため銀子百目を充て、自身の現世安穏・後生善処と子孫繁昌・家門栄栄を祈願した。
後編3-No.1705 島津忠長譜
島津忠長譜は、忠長が在京中に飛鳥井雅庸へ歌道入門を願い、門弟となったことを記す。雅庸から自筆の歌書・免状や懐紙、法楽歌、講師事、発声事など歌道伝授に関わる品々を授けられた。
後編3-No.1706 島津忠長起請文
島津忠長が歌道門弟となることを許された際、伝授された内容を一言も他言しないと誓った起請文。違反時には日本国中の神々、とりわけ住吉・玉津島の神罰を受けるとする。
後編3-No.1707 島津忠長譜
島津忠長譜は、慶長七年九月十二日に忠長が慶公・甫公・玄仍・玄仲を招いて懐旧の百韻連歌を催し、玄仍の自筆による百韻懐紙を得たことを記す。発句と連衆の付句も掲げる。
後編3-No.1708 昭高院如雪道澄書状
昭高院如雪道澄が忠恒へ、大峯で採灯護摩二座を修し祈祷巻数を送ったことを伝える。島津家相続に当たり、龍伯の異見を受け入れて家中を治め、近習・供衆を統制するよう勧めるほか、酒や食物による毒害、船旅、家臣の離反などにも警戒し、身辺を慎重に守るよう諫めた。
後編3-No.1709 近衛信尹書状
近衛信尹が、近所にいながら対面できていないことを残念に思い、祝儀として羅衣二襲を贈った書状。
後編3-No.1710 島津惟新書状
島津惟新が忠恒へ、龍伯からの異見を承引しないとの話を聞き、父祖の意見を尊重するよう強く諫める。家中の取沙汰を抑え、酒宴や外部から届く酒・茶に警戒し、近習・奉公人や供衆の言動を統制して、身辺と島津家の安泰を図るよう求めた。
後編3-No.1711 島津龍伯書状
島津龍伯が忠恒へ、外から届く酒や茶を不用意に口にせず、身辺と供衆の動向に注意するよう戒める。出船の予定を問い、伊源某やとら屋に関する情報、内々の案件についても慎重な処置を求めた。
後編3-No.1712 本田正親起請文前書
本田正親の起請文前書。本文は別号文書と同文であるため掲載を省略し、日付が十月三日であることと参照先を注記する。
後編3-No.1713 島津龍伯書状
島津義久が安芸中納言へ、徳川家康の大坂到着と処置を知らせてもらった礼を述べる。庄内問題では内府の使者が下向したものの伊集院忠真の再反乱で和平が破れた経緯を説明し、今後の対応と上洛の意向を伝えた。
後編3-No.1714 新納忠増覚書
新納忠増の覚書。前年と当春の普請に動員された人数を、奉行・組数・日数別に計算し、合計十万五千人に達するのに成果が見えないと指摘する。今後の普請人数と日程を明確に定めるよう求めた。
後編3-No.1715 伊地知重行・有川貞政連署状
伊地知重行と有川貞政が、少将忠恒の上洛中の安全を祈るため、毎月諏訪大明神で神楽を行うよう依頼した連署状。十月から十二月まで三か月分の費用として八木五斗二升五合を送った。
後編3-No.1716 島津龍伯書状
島津龍伯が忠恒へ、京都への無事到着と交渉状況、取次衆の応対を案じて報告を求める。詳細を聞くため大善坊を遣わし、税所次郎右衛門尉の処遇や、病気中の図書頭忠長との協議にも触れた。
後編3-No.1717 島津家久書状案
島津家久が豊臣秀頼からの上洛命令に答えた書状案。関ヶ原では父義弘が西軍に加わったが、徳川家康が遺恨を捨てて忠恒を召し出し、義弘の身上も保障した恩を述べる。そのため徳川方への奉公を離れ難く、秀頼の上洛要請には応じられない事情を弁明する。後編十九巻の文書との異同から慶長十九年と推定される。
後編3-No.1718 島津家久書状案
島津家久が大野主馬へ、当代に関する件は承知できないとして察しを求める一方、正宗長銘の脇指を拝領した厚意に深く感謝する。ただし事情により返上するため、相手方への取成しを依頼した書状案。後編十九巻の文書との異同から慶長十九年と推定される。
後編3-No.1719 大隅正八幡宮歌仙裏書
大隅正八幡宮の歌仙裏書。島津龍伯の祈念のため、肝付江月が歌仙一通を書いたことを記し、羽州将のもとへ送った。
後編3-No.1720 島津忠恒家久書状
島津忠恒が龍伯へ、福島正則の機嫌を案じたが、兵庫で手厚い出迎えを受け会見したことを報告する。秀頼への礼や贈答、安芸方面への航行など上洛途上の交渉・旅程を詳しく伝えた。
後編3-No.1721 新納旅庵長住書状
新納旅庵が、忠恒の兵庫到着、福島正則・安芸少将との会見と饗応を報告する。秀頼への目見得や惟新に関する取成しも協議され、上洛交渉が進んでいることを伊勢左衛門尉へ知らせた。
後編3-No.1722 島津義弘譜
島津義弘譜は、関ヶ原後に鎌田政近を京都へ派遣し、本多正信・山口直友の神文によって島津領国と義久・忠恒の身上が保障された経緯を記す。忠恒は謝罪と和議のため上洛し、細島・播磨・安芸を経て諸取次と面会した。
後編3-No.1723 島津義弘書状案
島津義弘が和久甚兵衛尉へ、忠恒が九月二十六日に和久の手配した船で細島を出航したとの報告を喜ぶ。すでに上方へ着いた頃として、幕府との交渉結果を尋ね、島津家の事情に通じる和久へ引き続き取成しを頼んだ書状案。
後編3-No.1724 島津忠恒書状
島津忠恒が惟新へ、福島正則と同行して十月十六日に大坂へ着き、山口直友らと今後の交渉を相談したことを報告する。関東へ軽い使者を下す案や、内府が年内または翌年に上京する見通しにも触れた。
後編3-No.1725 山口直友書状
山口直友が龍伯へ、忠恒が速やかに大坂へ到着したことを喜び、自身も伏見から下って忠恒の用務に尽力していると報告する。段子二巻・紅花の贈答に礼を述べ、今後も吉報を伝えるとした。
後編3-No.1726 昭高院如雪書状
昭高院如雪が龍伯へ、忠恒が大坂へ無事着岸したとの知らせと書状を受け、喜びを伝える。前日に友枕斎からも連絡があったため詳述を省き、対面の時に話すとした。
後編3-No.1727 昭高院如雪書状
昭高院如雪が龍伯へ、祈祷は施主と行者が純熟してこそ験が現れるとして、祈祷者の選定と作法を慎重にするよう助言する。朝廷・幕府の祈祷例や大護摩・三座護摩などを挙げ、形式だけでなく相応の修法が必要だと説いた。
後編3-No.1728 大山六右衛門尉起請文
大山六右衛門尉が、伝授された十八か条のうち手綱に関する事項を他言せず、直子がある場合に限り一人へ相伝すると誓った起請文。違反時には梵天・帝釈以下の諸神の罰を受けるとする。
後編3-No.1729 島津義久詠草
島津義久が鹿島諏訪社への法楽として詠んだ詠草。歳暮の梅を題に、春を待たず咲き始める梅の香に人の心もなびく趣を詠む。
後編3-No.1730 島津忠恒書状
島津忠恒が惟新へ、書状を受け取った礼と自身の無事を伝え、福島正則・山口直友との会見や大坂の政治状況を報告する。内府の上国見通し、関東方面の動向、今後の上京と帰国時期についても知らせた。
後編3-No.1731 島津家久書状案
島津家久が大野修理大夫へ、豊臣方から再度求められた上洛・奉公に応じ難い理由を述べた書状案。関ヶ原後に徳川家康が島津家の遺恨を捨て、家久と父義弘の身上を保障した恩義を挙げ、豊臣家への再仕官を辞退する。
後編3-No.1732 本田正親起請文前書
本田正親が、伊集院忠真の反乱に同心したとの嫌疑を否定し、主家から疑いを解かれたことに感謝する起請文前書。告発者がすでに成敗されたため糺明できないことを惜しみ、今後疑いがあれば直接尋ねてほしいと願い、忠節を誓う。
後編3-No.1733 本多正信書状
本多正信が忠恒へ、上洛の労をねぎらい、前年に鎌田政近へ伝えたとおり島津家へ少しも疎意はないと再確認する。山口直友らも同意しており、内府が年内に上洛した際には諸事を詳しく取り計らうと約した。
後編3-No.1734 本多正信書状案
本多正信の書状案。本文はNo.1735と同文であるため原本掲載では省略され、古写には伝写の誤りがあるので改めて写載した旨が注記される。
後編3-No.1735 本多正信書状案
本多正信が島津義弘へ、大野市兵衛を通じて申し越された件を内府へ披露し、その趣旨が承知されたと伝える。山口直友からも連絡を受け、義弘の上洛に伴う苦労を察し、今後の取成しや諸用についても尽力すると約した書状案。
後編3-No.1736 島津忠恒書状
島津忠恒が国元の家臣へ、上洛後に福島正則・山口直友や諸大名から格別の厚遇を受け、交渉が順調であると報告する。内府は関東へ下向中だが年内に上国する見込みであり、国元の諸事を念入りに処理するよう命じた。
後編3-No.1737 平田増宗起請文前書
平田増宗が、伊集院忠真成敗に関連して自身の進退を誓約した起請文前書。三殿へ一貫して忠節を尽くし、忠真やその母と内通・対談したことも、使者を介して連絡したこともないと述べ、反乱への関与を全面的に否定する。
後編3-No.1738 昭高院如雪書状
昭高院如雪が忠恒へ、見舞いの使者を出せず無沙汰となったことを詫び、逆に使節を受けた礼を述べる。内府が上方へ来るまでは当地に逗留するのがよいと助言し、今後も詳しく申し伝えるとした。
後編3-No.1739 島津家久譜
島津家久譜は、忠恒が海路を経て十月十五日に播磨兵庫へ着き、福島正則と会して翌日大坂へ向かった経緯を記す。家康がすでに関東へ戻っていたため、福島の使者と市来八左衛門尉を江戸へ遣わし、忠恒の到着を報告した。
後編3-No.1740 徳川家康御内書
徳川家康が忠恒へ、大坂へ到着したとの報告を了承し、自身も近く上洛するので、その時に会うと伝えた御内書。詳細は本多正信から伝えるとした。
後編3-No.1741 本多正純書状
本多正純が忠恒へ、十月十六日の大坂到着を使者から承知したと伝える。内府は鷹狩のため武蔵国忍へ出ていたが、江戸留守居の正純が忠恒の到着を披露し、内府から直書が出されたこと、詳細は正信が説明することを報じた。
後編3-No.1742 懐旧連歌
慶長七年十一月十二日に催された懐旧の百韻連歌。雪・草原・冬月・霜・梅・春など四季の景物を題材に発句・付句を連ね、島津忠長、玄仍、玄仲、昌叱法橋、平幸相ら多数の連衆が参加した全百韻を三頁にわたり記録する。
後編3-No.1743 飛鳥井雅庸書状
飛鳥井雅庸が忠恒の懇切な使札を喜び、上洛を待ち望むと伝える。関東へ遣わされた使者が上洛し、内府の機嫌がよいとの報告を聞いたことを祝し、対面を期した。
後編3-No.1744 飛鳥井宗勝雅庸書状
飛鳥井宗勝・雅庸が忠恒の書状を喜び、先日の初対面を忘れがたいと述べる。三位と連れ立って参上するつもりだったが病気のため果たせず、機会をみて参上すると伝えた。追書では病状の回復を知らせ、見舞いへの礼を述べる。
後編3-No.1745 島津龍伯書状
島津義久が忠恒へ、福島正則の使者弓削助兵衛と面談し、年内上洛と談合の意向を聞いて満足したと報じる。鹿児島城の普請を留守居衆へ重ねて命じるよう求め、来年の金神の方角や国元の諸事についても照会・指示した。
後編3-No.1746 島津惟新書状
島津義弘が忠恒へ、樽酒と鮭の贈物に礼を述べ、飲酒を慎み、召し連れる者にも酒や喧嘩を禁ずるよう戒める。兵庫からの早打書状を受領したことを報じ、国元の人事・処罰、船や武具に関する案件などへの対処を詳しく指示した。
後編3-No.1747 島津龍伯書状
島津義久が忠恒へ、又四郎および本多佐渡守父子の書状写を受領・披見し、返書を惟新へ回すと伝える。惟新が当分鹿児島に滞在していること、薩摩では十二月八日以来の大雪が消えず寒さが厳しいことも報じた。
後編3-No.1748 飛鳥井雅庸書状
飛鳥井雅庸が忠恒からたびたび見舞いを受けたことに礼を述べ、腫物がほぼ快方に向かったので安心してほしいと伝える。忠恒が近日伏見へ赴くと聞き、その際に対面して万事を相談したいとした。
後編3-No.1749 島津義久詠草
島津義久が慶長七年十二月十八日に詠んだ和歌の草稿。庭の朝霜や松・小松、神の社など、冬の景物と歳月の移ろいを詠み込む。
後編3-No.1750 島津忠恒書状
島津忠恒が伊集院久治へ、別府舎人佐の上洛時に贈られた巻台を喜び、大切にすると礼を述べる。内府が近日上国するので、目見えを済ませ次第吉報を知らせるとし、印籠と香箱を贈った。
後編3-No.1751 島津忠長外三名連署証状
島津忠長ら四名が連署し、祈願成就のため日向国諸県郡加久藤栗下村内の百石を霧島山普門院へ付与した証状。公役は他の寺社領と同様に免除し、正式な目録は京都から帰国する際に交付すると定める。
後編3-No.1752 伊地知季安愚考
伊地知季安の考証。霧島山普門院への寄進状に続く時系列として、徳川家康が十二月二十五日に駿府から伏見城へ戻り、大坂の島津忠恒を召し、二十八日に忠恒が伏見へ赴いたこと、島津忠長ら五人が城内まで随従したことを記す。
後編3-No.1753 島津忠長外三名連署証状
島津忠長ら四名が連署し、祈願成就のため日向国諸県郡加久藤栗下村内の三十石を加久藤二宮社へ付与した証状。公役は他の寺社領と同様に免除し、正式な目録は京都から帰国する際に交付すると定める。
後編3-No.1754 島津忠恒書状
No.1750の島津忠恒書状と同文のため本文を省略した文書。『伊集院譜』所収本では日付が十二月二十六日とされ、No.1750の十二月二十三日と異なることを注記する。
後編3-No.1755 昭高院如雪書状
昭高院如雪が忠恒へ、内府への御礼のため前日に伏見へ到着したことを祝う。年頭の祈念を行い、節分には因幡堂で星供養を営むと伝え、翌春早々の対面を期した。
後編3-No.1756 伊勢如貴貞知書状
伊勢如貴が、歳暮の礼として三井寺に滞在する門跡へ昆布一折と酒樽一荷を進上し、自身が受け取って取り次ぐと伝える。小袖を贈られた礼を述べ、門跡への礼が届くよう取成しを依頼した。
後編3-No.1757 島津忠恒銀子借券
島津忠恒が広島少将から銀子四十貫目を借り受けた借券。内訳を丁銀二十八貫四百目、灰吹銀六貫目、細金五貫六百目と記し、相違なく返済すると約束する。
後編3-No.1758 島津義弘譜
島津義弘譜は、徳川家康が伏見城へ戻って大坂の島津忠恒を召し、十二月二十八日に福島正則の先導で忠恒が伏見城に登った経緯を記す。家康は忠恒に懇切に応対し、良馬二匹と俊鷹二連を与えた。
後編3-No.1759 山口直友書状
山口直友が島津義弘へ、内府が十二月二十五日に上着し、二十八日に忠恒が出仕して格別の懇遇を受けたと報告する。忠恒の首尾を祝し、近く帰国できる見込みと、今後も吉報を伝える旨を述べた。
後編3-No.1760 島津義久詠草
島津義久の詠草。本文はNo.1749の詠草の一部と同文であるため省略され、『龍伯公御文』および両公の御譜にも収載されることを注記する。
後編3-No.1761 沢永温覚書
沢永温が、御供所役・田所役をはじめ、神前百韻連歌、正月や節句の祭礼、社頭楽所、御供物など、年間を通じて負担・奉仕すべき社役と日程を列挙した覚書。
後編3-No.1762 島津忠恒証状
島津忠恒が発給した証状。本文は先行する同文書と同一であるため省略され、伊集院氏家蔵本であることを注記する。
後編3-No.1763 得能氏記録
得能氏の記録が慶長七年の主な出来事を月日順に列挙する。徳川家康の動静、諸大名の任官・死去、各地の合戦・事件、島津忠恒の上洛・伏見登城と家康への拝謁、島津家臣の随従など、中央政局と島津家に関わる一年間の記事を四頁にわたり詳述する。
後編3-No.1764 島津忠長譜
島津忠長譜は、慶長八年に忠長が再び剃髪し、紹益と称したことを記す。
後編3-No.1765 島津惟新義弘書状
島津義弘が忠恒へ、関東使者が持ち帰った内府の朱印を拝見し、目見えの首尾を待つと伝える。小袖・扇子などの贈物に礼を述べ、所望の件は福島正則らと内談したうえで慎重に扱うよう依頼した。
後編3-No.1766 島津惟新書状
島津義弘が忠恒へ、旧冬の贈物に礼を述べる。福島正則が与える意向を示した馬について、強いて所望したように見えないよう先方の真意を確かめ、福島側と相談して慎重に取り計らうよう求めた。
後編3-No.1767 山口直友書状
山口直友が忠恒の病状を記した書状を拝見し、心配していると伝える。書中の事情は島津忠長と比志島国貞にも詳しく申し入れ、早々に返答するとした。
後編3-No.1768 島津家久譜
島津家久譜は、徳川家康から帰国の暇を得た忠恒が伏見から大坂へ向かう前、宇喜多秀家の処遇について山口直友へ密かに相談した経緯を記す。忠恒は島津忠仍と北郷三久を伏見に残し、関ヶ原後に薩摩へ逃れた秀家の助命・取成しを図った。
後編3-No.1769 島津忠恒家久書状
島津忠恒が北郷次郎へ新年を祝し、旧例どおり届いた賀状と扇子二本を喜んで受領したと伝え、春中の多幸を祈った。
後編3-No.1770 島津忠恒書状
島津忠恒が義弘へ、細島までの迎えを手配するよう依頼し、外聞や警固への配慮から、鹿児島に残す者と交替で迎えに出す家臣を具体的に示した。不要な随行者は控えさせるよう求める。
後編3-No.1771 飛鳥井雅庸書状
飛鳥井雅庸が島津忠恒へ、伏見で諸家の御礼が延引したため今晩に鞠を張行したいと誘い、あわせて燻鰹一顆を進覧すると伝え、対面を期した書状。
後編3-No.1772 山口直友書状
山口直友が忠恒へ、参詣を祝し、帰国後も又四郎を当面上方に残す案に同意する。本多上野介とも相談したうえで改めて意見を伝えるとし、詳細は使者に託した。
後編3-No.1773 島津家久起請文前書
島津忠恒の起請文前書。徳川家康と豊臣秀頼の間に別儀がない限り、旧来の交誼と隣国関係を踏まえて前田利長側と協調し、相談された内容を関係者以外へ漏らさないと誓約する。
後編3-No.1774 島津龍伯義久詠草
島津義久が正月十六日の午飯時に社頭の藤を題として詠んだ和歌。神代に蒔かれた藤の花の種へ思いを寄せる。
後編3-No.1775 島津惟新書状
島津義弘が忠恒へ、目見えが首尾よく済んだとの報告を受け、身分を問わず国中が徹夜で喜んだと伝える。島津家の相続・中興につながる忠恒の上洛を称え、暇が出たなら一日も早い薩摩帰国を待つと述べた。
後編3-No.1776 島津惟新書状
島津義弘が忠恒から届いた墨、瀬戸茶碗・水差し・皿などの贈物に礼を述べ、霜山法印への礼も依頼する。帰国時に迎えへ出す馬は、長途で疲れさせず近辺から差し出すのがよいと助言した。
後編3-No.1777 山口直友書状
山口直友が忠恒へ、これまで心静かに相談できたことを喜び、出船の時期を尋ねる。前日に福島正則を訪ねて終日酒宴となったのかと問い、朝倉山神と称する進物を送り、詳細を甚兵衛に託した。
後編3-No.1778 島津惟新書状
島津義弘が忠恒へ、帰国の暇が正月六日に下され、参詣後に在京して二十日頃出船する予定だと竹内弥右衛門から聞いたことを喜ぶ。私用で帰国を遅らせず、一刻も早く帰途につくよう求め、家臣一同にも知らせるよう依頼した。
後編3-No.1779 小出秀政書状
小出秀政が義弘へ、白糸二十の贈物に礼を述べ、過年の軍功と無事の帰国が天下に知られていると称える。忠恒の上洛も首尾よく進むと見込み、小袖二領と綾二巻を贈った。
後編3-No.1780 島津義久書状案
島津義久が安南国の大都統瑞国公へ送る書状案。前年の書状を受領した礼を述べ、遠隔地同士ながら金石の盟と親交を結び、毎年通信して商人を往来させ、互いの産物を交易したいと提案し、進物を添えた。
後編3-No.1781 島津忠恒書状
島津忠恒が新納旅庵へ、和睦成立のためたびたび上洛して尽力した忠節を賞し、知行二百石を与え、今後も奉公に励むよう命じた。
後編3-No.1782 島津忠恒書状
島津忠恒が鎌田左衛門へ、龍伯の体調を案じ、野川での遊興などで疲れたのではないかと尋ねる。老齢でありながら気持ちは若いため、慰み事を重ねすぎないよう周囲から取り合わせて注意してほしいと頼んだ。
後編3-No.1783 新納為舟忠元書状
新納忠元が大慈寺侍者へ新年を祝い、島津忠恒が前年冬に内府へ出頭して首尾よく仕合を得たこと、帰国が近いことを喜ぶ。前年の書状と酒樽一樽の贈答にも礼を述べた。
後編3-No.1784 町田存松久倍・鎌田政近連署状
町田久倍と鎌田政近が連署し、豊後から帰国させる捕虜について、耕作期を逃さぬよう正月二十三日までに出立を協議し、主取衆と相談するよう指示する。帰国者の人数・名簿を肝煎衆が五、六日中に提出し、乗船準備を遅滞なく進めるよう命じた。
後編3-No.1785 昭高院如雪道澄書状
昭高院如雪が忠恒へ、大坂下向後は繁忙を思い書状を控えていたと述べ、今回の首尾を諸人が喜んでいると伝える。約束の葉茶壺と粉を受け取った礼を述べ、再度在京する際にゆっくり対面したいとした。
後編3-No.1786 島津惟新書状
島津義弘が忠恒の帰国途上との報を喜び、早い到着を待つと伝える。前年の上洛時に随行者が田の作物を刈ったとの批判を踏まえ、今回の多数の供衆には麦などを刈り取らせぬよう、比志島国貞らへ厳命することを求めた。
後編3-No.1787 福島正則書状
福島正則が義弘へ、忠恒が上方で首尾よく仕合を得て早々に帰国することを祝う。自身は上方に滞在中で、国元へ戻っても書状で祝意を伝え、上方で用向きがあれば遠慮なく申し付けるよう述べた。
後編3-No.1788 飛鳥井宗勝雅庸書状
飛鳥井宗勝・雅庸が忠恒の書状を喜び、下向時に参上して暇乞いするつもりだったが、番勤が続いて果たせなかったと詫びる。秋冬頃の再上洛を期待し、その際に積もる話をしたいと伝えた。
後編3-No.1789 島津家久譜
島津家久譜は、慶長八年二月十二日に勅使が伏見城へ赴き、徳川家康が征夷大将軍に宣下され、牛車・兵仗を賜り、淳和院・奨学院別当および氏長者に任じられたことを記す。
後編3-No.1790 樺山紹剣自記
樺山紹剣の自記。京都で越年した忠恒の慶長八年二月の帰国を祝い、前年からの山口直友との取次、鎌田政近らの動き、佐土原通過をめぐる交渉と龍伯の裁定により事態が収まった経緯を記す。
後編3-No.1791 雑旧記
雑旧記は、忠恒の帰国後、慶長八年二月十六日に鹿児島城で島津家安定を祝う祝言と振舞が催されたことを記す。島津一門・重臣を左右に分けた座席順を具体的に列挙する。
後編3-No.1792 近衛信尹書状
近衛信尹が島津義久へ、市成入道が上洛して前年冬の書状と菊方宛の小袖を届けたことに礼を述べる。義久の上洛を望み、徳川家康が三月下旬に上洛するとの風聞も知らせた。
後編3-No.1793 島津義久書状案
島津義久が近衛信尹へ、忠恒の在京中の馳走と首尾よい帰国に礼を述べる。薩摩で用いる暦は金神の方角や月の大小に異同があり信頼できないため、京都の暦博士が作る暦を入手して送るよう依頼した。
後編3-No.1794 島津義久書状案
島津義久の琉球国王宛書状案。琉球の貢船が逆風で伊達領へ漂着したため、内府が乗員を薩摩経由で帰国させるよう命じたと伝える。漂流の罪を問わず本国へ戻し、使者を遣わして内府の恩に謝するよう求めた。
後編3-No.1795 河上久林起請文
河上久林の起請文。奥方の女房衆に対して自身が退転・不忠のような振舞をしたとの風聞を全面的に否定し、今後も変わらず奉公すると誓う。偽りなら梵天・帝釈以下の神罰を受けるとした。
後編3-No.1796 河上久林書状
河上助七久林が島津家久へ、書状を拝見した礼を述べる。家久の上京によって内府への申入れが速やかに整い、懇切な言葉を受けたことは播磨守にとって生前の本懐であり、改めて御礼を申し上げると伝えた。
後編3-No.1797 島津義久書状案
島津義久が山口直友へ、忠恒の在京中の厚い取次によって公儀が整い、早々に帰国できたことを深く謝す。今後も島津家への助言を頼み、内府から大鷹を拝領した喜びを伝え、使者を遣わした。
後編3-No.1798 島津義久書状案
島津義久の書状案。親王の筆になる名号八幅、家門の書状、加賀手綱五通などの拝領に礼を述べ、義弘らにも尊筆が届いたと報告する。市成掃部兵衛尉の下向に続き使者を遣わし、黒絹一巻を進上した。
後編3-No.1799 山口直友書状
山口直友が、年頭祝儀の太刀・銭・小袖に礼を述べ、忠恒が首尾よく帰国したことを祝う。徳川家康が二月十二日に将軍宣下を受けたことと、相手の上洛・参内予定を知らせ、杉原紙十束を贈った。