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後編3の目録
旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。
全1,990件中 901~1000件・10 / 20ページ
後編3-No.900 島津惟新書状
島津義弘(惟新)が少将島津忠恒に、内府から拝領した刀と自身が借用した景光を大切にすること、帖佐から寄せられた二頭の馬や高麗茶碗について述べる。さらに毛利勘兵衛を収納方に適した人物と評価し、知行との兼ね合いは少将の判断に委ね、出水への番衆配置を重要とする。
後編3-No.901 昭高院如雪道澄書状
昭高院如雪道澄が羽柴少将に、当地の様子を詳しく承知して喜び、伊集院源次郎が内府の使者の意向に従い下城へ同意したことを祝う。その後に再び違変があったかを案じつつ、事態が早く望みどおり収まることを願い、当月の祈念巻数と守を進上する。
後編3-No.902 島津義久譜
慶長四年九月二十九日、島津忠恒が庄内山田城に入って在陣したことを記す。以後の詳しい経過は忠恒譜に記載されているため、義久譜では省略するとしている。
後編3-No.903 島津義久書状案
島津義久が寺沢志摩守に、思いがけない情報があるため、その真偽にかかわらず関係者のうち一人は在国するのがよいとの考えを伝える。十分に相談するよう促し、詳しい事情は少将から申し入れるので、自身は細筆を省くとする。
後編3-No.904 島津義久譜
徳川家康が使者の山口勘兵衛尉直友を遠く薩摩へ下して和睦の仲介をさせたが、伊集院源次郎は偽りが多く誠意に乏しかったため和睦が成立しなかった。山口がその事情を家康へ報告し、家康が返書を与えた経緯を記す。
後編3-No.905 徳川家康書状
徳川家康が薩摩少将(島津忠恒)に、書状を拝見し、源二郎の振舞いが表裏あるものだと述べる。詳しいことは兵庫頭から伝えるので、書面では省略するとする。兵庫頭の人物同定は保留する。
後編3-No.906 伊那令成書状
伊那令成が、届いた書状を内府へ披露したところ、伊集院方が成立寸前の調停を覆したのは沙汰の限りで、成敗すべきとの意向だったと伝える。一方、親族への説得により城を渡して和睦する案が示され、野辺五郎右衛門尉が派遣されたため、受取人に交渉をまとめるよう求める。
後編3-No.907 島津義久譜
伊集院源次郎が偽りの心を抱き誠実さに欠けたため、山口勘兵衛尉直友による和睦仲介は成立せず、山口は帰京した。税所越前入道休心と市来織部佑家政を海陸の護衛として付け、遠来した山口への謝礼の言葉を託したと記す。
後編3-No.908 島津義久書状案
島津義久が又八郎に、内府が大坂へ下向して法度を出したため上方に雑説が生じたものの、ほどなく静謐になったとの注進を承知したと返す。庄内表について、少将が前日に山田方面へ出馬したので、現地へ連絡して返答を得たうえで判断するよう求める。
後編3-No.909 島津義久書状案
島津義久が又八郎に、出立日の好天を喜ぶ一方、供奉する人数が少ないとの報告を受け、山田方面へ参着する兵は供に加えるよう指示したと述べる。翌日の陣取りが無事に済めば早打を送り、三日までに知らせること、江戸中納言の使者が来た場合も直ちに注進することを求める。
後編3-No.910 島津家久譜
山口直友の勧めにより伊集院源次郎はいったん降参を承諾したが、再び翻意したため、山口は京へ戻って経緯を報告した。内府はこれを不快とし、増田長盛を通じて源次郎と母らに死罪を示して威圧したため、源次郎方は城を下りて親族の命を保つ方向へ傾き、長盛が島津方へ書状を送ったと記す。
後編3-No.911 増田長盛書状
増田長盛が羽柴薩摩少将に、見舞の連絡が遅れたことを詫び、小袖五領を贈る。内府の使者に源次郎がいったん了承しながら翻意したことは遺憾だが、兄弟や妻子が迷惑するため、使者の仲介どおり事態を収め、源次郎が下城するなら赦免するのがよいと述べる。
後編3-No.912 大谷吉継書状
大谷吉継が島津又八郎に、秀頼の成長と息災、内府が大坂で政務を執り上方が静謐であることを伝え、持筒十挺を贈る。伊集院源二郎の処置は島津方の意向に任せるとの内府の考えを知らせ、使者と相談して望みどおり処置するよう勧める。
後編3-No.913 島津義久書状案
島津義久が秋月に、たびたびの使書に謝し、庄内には当面新たな動きがないと伝える。少将が先月晦日に山田方面へ出馬したので、ほどなく一途に決着するだろうと見込み、江戸中納言の使者が来着するとの風聞もあるため、詳しくは使者の説明に委ねる。
後編3-No.914 島津義久書状案
島津義久が又八郎に、前日の出陣を祝し、宝口へ出した兵が不意の敵と遭遇して奮戦したことを神妙と評価する。七日に伏見へ早打を送るので用件を書き送ること、江戸中納言の使者が来れば注進することを求め、志和池口へ陣を寄せる場合は水の手が断たれないか注意を促す。
後編3-No.915 北郷忠能譜
島津忠恒が十月五日に森田へ陣を移し、北郷長千代丸らが志和池城周辺に布陣した後の戦闘経過を記す。高木村方面で高城勢を追撃し、伏兵戦や志和池城からの出撃で双方に戦死者が出たこと、北郷勢の高橋武蔵・白坂式部・財部武蔵らの討取、小杉太郎左衛門尉らの戦死を列挙する。
後編3-No.916 熊谷直盛書状
熊谷直盛が羽柴少将に、徳川家康の通行許可状の写しを送る。許可状は、薩摩を往来する者について島津方の申し出どおり滞りなく通行させるよう命じたもので、熊谷は使者を自分のもとへ送れば、船で早急に送り出すと伝える。
後編3-No.917 山口直友書状
山口直友が少将に、九月二十九日に細島へ着いたが順風がなく十月四日まで滞在しており、数日中に出船できなければ陸路でも上京する覚悟だと知らせる。京都からの便りで上方の様子を知ることができ、内府が大坂の仕置を進めているので少将も満足しているだろうと述べる。
後編3-No.918 熊谷直盛書状
熊谷直盛が羽少将に、伊集院源二郎を成敗するための出馬を至極もっともとし、小西摂津守・寺沢志摩守・羽左近らが庄内へ動き、自身も加わる意向を伝える。京都への注進を命じられれば垣見和泉とともに早船で伏見へ送ること、薩州からの進者の送迎について内府が中川修理・大田飛騨へ書状を遣わしたことを知らせ、兵庫殿の不…
後編3-No.919 島津家久譜
志和池城辺の要地である森田に十月二日陣営を築き、城の西北には隙間なく諸陣を連ね、東南も通路を塞いで兵粮道を断ったことを記す。城方は夜陰に乗じ、櫃箱に盛った粮米を川へ流して搬入しようとしたが、すべて通達せず籠の鳥のようになった。
後編3-No.920 島津義久(龍伯)書状
島津義久が又八郎に、去る二日に敵陣へ乗り込んだとの注進を祝し、宝部口へ援兵として出した人数が思いがけず敵と遭遇し、奮戦して損害がなかったことを神妙とする。境近くに陣を付ければ水の手を断てるか詳報を求め、七日に伏見へ早打を上せるため用件を書き送ること、江戸中納言の使者が来れば知らせることを求める。
後編3-No.921 島津義久書状
島津義久が安芸中納言に、内府が大坂へ着いて定めた置目を知らせた懇意と、先日の使節に謝する。兵庫入道からはまだ報告がなく、庄内表では内府の使者が下国して説諭したものの源二郎が違変して和議が破れ、使者も上洛したため、今後の行動を覚悟しており、上方で会う折の取成しを求める。
後編3-No.922 島津義久書状
島津義久が安国寺に、毛利輝元の書状と伝書を受け、大坂へ着いた内府の置目などを詳しく注進した厚意に謝する。源二郎の進退をめぐって内府の使者が下国して説諭したが承引せず、使者の上洛後に志和池・野々見谷の城へ押し寄せて陣を据えたので、早急に勝利を得られるだろうと伝える。
後編3-No.923 島津竜伯書状
島津義久が又八郎に、近くへ陣を取ったことで敵城内がどのような状態になったかを尋ね、志和池の件もほどなく決着するのではないかとの見通しを述べる。その場合には敵方の者を一人も留め置かず、皆を城から追い払うのがよいとして、判断の材料にするよう伝える。
後編3-No.924 島津義久書状案
島津義久が兵庫入道に、内府の使者が無事上国したことを喜び、毛利輝元から伝えられた大坂での置目の詳細と山口勘兵衛への書状取次ぎを求める。庄内では源二郎が和議後に違変したため二日に志和池境へ着陣し、財部口へ出した兵が敵四、五人を討った一方、平田三五郎・宮内式部左衛門が戦死し、吉田大蔵が深手を負ったこと、…
後編3-No.925 島津義久書状抄
島津義久が惟新公へ送った書状の抄録で、財部口の合戦が甚だ激しく、平田三五郎が朝に負傷し夕方に戦死したこと、吉田大蔵が深手を負ったことを報じる。そのほかには被害がなく、めでたいと述べる。
後編3-No.926 島津義久書状案
島津義久が羽兵庫入道に、肥後の海道が閉ざされ、とりわけ加藤領内を通れないため、急用の早打も陸路では送れず豊後から海路を使うほかなく、連絡が遅れると伝える。上方の下知で往還を回復させたいとし、幸侃の妻子への配慮、内府の前での取合いを頼み、国内窮迫のため京都から見舞いに下向する者を当面留めるよう求める。
後編3-No.927 島津義久書状案
島津義久が、先ごろ下向して庄内和平の調停に尽力したことをねぎらい、さまざまに取り計らったにもかかわらず和議が成立しなかったことを惜しむ。現状のままでは収まらないため志和池・野々見谷両城の近辺へ陣を出したと伝え、急便のため詳報を省き、内府の前で引き続きよいように取り合うことを頼む。
後編3-No.928 島津忠恒(家久)書状
島津忠恒が龍伯に、森田の陣所は十分に取り固めて無事であり、志和池も今日から攻め掛かるので近日中に決着する見込みだと伝える。北郷作左衛門尉の動向や詳細は村田雅楽助に申し含め、江戸中納言の使者に関する情報は誤りだったと報告する。
後編3-No.929 普賢院真昭書状
普賢院真昭が本田六に、伊集院の女方衆と子息が各所へ怨敵消散の祈念を依頼しているため、少将に身辺を厳重に用心するよう伝える。重大な事柄なので、真昭から申し入れたことは他言せず、少将のために秘して扱うよう求める。
後編3-No.930 島津義弘(惟新)書状
島津義弘が少将に、星崎坊の注進は真実なので他辺へ漏らさないよう求め、少将の簾中の病状を案じて祈念を命じたところ快方に向かったと伝える。内府の大坂移転に伴い三日に参上して礼を述べ、品を拝領し、さらに刊字では『若弟鷹』と読めるものの下賜を約束されたこと(語義未確定)、京都が静謐であることを報じる一方、使…
後編3-No.931 島津義久(龍伯)書状
島津義久が又八郎に、寺沢殿の先船が出水表へ着岸し本人も近日到着する見込みだが、利安が危篤で接待役もいないため、寺沢を直接又八郎方へ向かわせるよう大口まで使者を出すことを求める。自身も近日出陣して相談するとし、兵粮運送は図書頭に命じるべきこと、霧島在住の妻が庄内へ内報しているとの風聞と、新たな落人の到…
後編3-No.932 島津義久(龍伯)愛敬祝覚書
島津義久が又八郎に示した愛敬祝の作法を記す覚書で、吉日に五穀の供物、赤飯、臼一つと杵二本を用意し、唱え言と和歌を唱える手順を述べる。杵二本を両手に持って三度搗くこと、詳細は口伝によることを定める。本文はNo.933と同文のため省略されており、直後の同文から内容を確認した。
後編3-No.933 島津義久(龍伯)愛敬祝覚書
島津義久が又八郎に示した愛敬祝の作法を記す覚書で、吉日に五穀の供物、赤飯、臼一つと杵二本を用意し、唱え言と和歌を唱える手順を述べる。杵二本を両手に持って三度搗くこと、詳細は口伝によることを定める。
後編3-No.934 寺沢正成広高書状
寺沢広高が羽少将に、十二日付の書状を入来院で拝見し、龍伯が十三日までに当地へ来て相談するので陣所へ参るようにとの意向を承知したと伝える。道中は順調であるため翌朝に向かい、詳細を口上で述べるとし、今回は度々の指示に従って自分一人で参上し、同道予定者は遠慮させる。
後編3-No.935 山口直友書状
山口直友が龍伯に、源二郎の母の申し分だけでは和議は整わず、自身が下国して不調のまま上洛すれば事態がさらに延びるため、関係者同士で相談するよう求める。上方から届いた伊那図書の書状を示し、内府の意向に沿う使者の下向を望み、右衛門尉殿の使者とも協議すべきこと、利潤を求める仲介者や上井神五郎を信用し難いこと…
後編3-No.936 伊勢貞林願文
伊勢貞林が、一字金輪法二千座を修し、霧島六所権現・正八幡大菩薩など十三社を勧請して大幣十三本による神舞を奉ると誓う願文。島津忠恒の庄内在陣に際し、戦勝、武運長久、障難消滅、万民快楽と諸願成就を祈願する。
後編3-No.937 奈須祐実書状
奈須祐実が伊勢兵部少輔に、同名の惣番父子が高橋殿から成敗された件について書状を受け、名字を同じくするため途中まで出向いたものの、非道な関与はなかったと弁明し、従来の薩摩家への奉公と忠平の認知を述べる。追書では、伊集院源二郎の籠城を京都からの和平方針に沿って早く鎮めるよう求め、遠方のため出仕できない代…
後編3-No.938 寺沢正成書状
寺沢正成が羽少将に、前夜に浜市へ着いて直ちに龍伯と合流したと伝える。龍伯が先に境市まで出向いており、相談のため当地に留まるよう命じられたので待機しているとし、返報を得しだい参上して面会のうえ事情を述べる。
後編3-No.939 島津義弘(惟新)書状
島津義弘が又八郎に、先の内状を了解したとの返答を喜ぶ一方、自称する才覚に任せる者は口上と実情が違い利潤を求めがちで、上井神五郎のような者も信用できないと述べる。又八郎の助力を得て龍伯に関する事柄をこちらへ知らせること、時機が来るまでは京都で口外せず、性急に取り計らわないことを頼む。
後編3-No.940 島津義久(龍伯)書状
島津義久が又八郎に、野辺五郎右衛門尉を西郷から庄内へ派遣し、その到着まで図書頭・比紀を留めると伝える。鉄炮薬の事故で薩摩の陣屋が焼けたとの報を案じ、火の近くでは松明を禁じ夜間は油火だけにするよう厳命し、手元の薬を送り、鹿児島からも追送させる。
後編3-No.941 島津家久譜
庄内山田城の本丸と二之丸の間で十月廿一日夜に火災が起こり、周辺の陣屋多数が焼失したことを記す。この火災で兵器奉行の川上藤右衛門と伊地知彦八郎が焼死した。
後編3-No.942 島津義弘(惟新)書状
島津義弘が伊勢兵部少輔に、幸侃が重い状態だったため度々問い合わせ、弥兵衛尉の返答で早く快気したと知り、さらに市八左衛門尉が上京したことを喜ぶ。現地でも祈念を怠らず、義弘方でも種々祈念しているので一層回復するだろうと述べ、敵が疲弊していても油断せず、又八郎にも警戒を伝えるよう求める。
後編3-No.943 島津義弘(惟新)書状
島津義弘が少将に、龍伯の内状を回覧し、下向する寺沢・小西両殿を厚く接待して国の置目と軍紀を厳守させるよう命じる。幸侃の快気と祈念、庄内での勝利と北郷作左衛門尉の働きを喜びつつ油断を戒め、源二郎母の申し分や源二郎宛書状の扱い、街道・兵粮・関所・使者の往来、家中の統制について詳細に指示する。
後編3-No.944 奈須祐実書状
奈須祐実が伊勢兵部少輔に、同名の惣番父子が高橋殿から成敗された件について、自身に非道な関与はなく従来から薩摩家へ奉公してきたと弁明する。追書では、伊集院源二郎の籠城を京都からの和平方針に沿って早く鎮めるよう求め、遠方のため出仕できない代わりに贈物を進上する。本文はNo.937と同文として省略されてい…
後編3-No.945 島津義弘(惟新)書状
島津義弘が少将に、龍伯の内状を回覧し、寺沢・小西両殿の接待、国の置目と軍紀、幸侃の快気、庄内勝利後の警戒、源二郎母への対応、源二郎宛書状、街道・兵粮・関所・使者の往来と家中統制を詳細に指示する。本文はNo.943と同文として省略されている。
後編3-No.946 島津義弘(惟新)書状
島津義弘が又八郎に、中務からの使札で今月二日に庄内へ着陣したと知り、勝利を祝う。現地の様子を確認するため坂井助左衛門尉を派遣したので、到着しだい事情を詳しく申し聞かせ、直ちに帰途へ就かせるよう求め、追書で鷹一羽を贈る。
後編3-No.947 島津義弘(惟新)書状
島津義弘が寺沢志摩守に、今月二日に在所を出立して薩摩へ下向したとの書状をたびたび受け、寒中の旅労をねぎらう。又八郎が同日に庄内へ着陣したことを喜び、寺沢の下向を好機として、又八郎のために取り計らうよう頼み、現地の様子を聞くため飛脚を遣わしたので詳報を求める。
後編3-No.948 島津忠恒寄進状
島津忠恒が執印吉左衛門尉に対し、薩州郡隈城西手村の屋敷一か所と、高七十石一斗六升八合五夕のうち五十石を寄進する。当家繁栄・武運長久のため、神前で祈祷するよう命じる。
後編3-No.949 小西行長書状
小西行長が羽少将に対し、寺沢志摩守が赴いて以後は音信がないため飛札を送る。庄内表へ出兵したと聞き、所存どおりの成果を得るものと推察し、寺沢と親密に相談していずれの方法でも事態を収めるよう求める。
後編3-No.950 伊集院忠真書状
伊集院忠真が平野源右衛門尉・高島新蔵に対し、幸侃を糺明せず成敗し、自身も去る三月以来進退を封じられたことを非道と訴える。表裏の行為や龍伯・兵庫頭の神文違背などを別紙に列挙して両所への取成しを求める。また武庫入との会談、大坂が静謐であることを伝え、今後の書信と親交を望む。
後編3-No.951 近衛前久書状
近衛前久が少将に対し、下国以来書信を送っていなかったが、武庫入から好便を知らされて書状を送る。少将が無事であることを喜び、武庫入との会談や大坂が静謐であることを伝える。今後も書信を送り、京都で相応の用があれば隔心なく申し付けるよう述べる。
後編3-No.952 高橋元種書状
高橋元種が羽少将に対し、しはら城を攻め詰めている様子を承り、同城のみならず庄内一円の落去は確実とみる。内府の意向により寺沢志摩守が下向したので早く決着すると述べ、自身も出向く覚悟はあるが、たびたび左右を待つよう指示されたため従っており、折をみて不意に見舞うと伝える。
後編3-No.953 島津義弘(惟新)書状
本文はNo.1286と同文であるため省略されている。島津惟新が少将に、山田衆が美濃から離れて出水へ逃れ、佐敷・水俣の敵勢は大軍ではないとの報告を伝える。出水へ使者を送ること、庄内山田で粉骨した者への扶持、今回の軍役に進まない侍への対策として身分を問わず一人三石を与える案を示し、龍伯への取成しを求める…
後編3-No.954 羽柴秀直書状
羽柴秀直が薩少将に、遠路のため万事が遅れ迷惑を掛けているが、自身の方面は無事であり、上方にも変事がないと伝える。伊集院の件で内府から寺沢志摩守が派遣されており、現地の状況次第では自方の者も出陣させるため、知らせを待っていると述べ、用向きがあれば遠慮なく命じるよう求める。
後編3-No.955 昭高院如雪道澄書状
昭高院如雪道澄が羽柴少将に、九月廿四日付書状を受け取り、伊集院の件は遅速があっても本意達成は確実との評判を伝える。内府の使者による仲介で表裏の事情が明らかとなり、内府が不届きとして立腹したこと、朝鮮での功績から薩摩は他国と同様には扱われず支援が期待できること、大坂・伏見が平穏であることを述べる。金襴…
後編3-No.956 島津忠長書状
島津忠長が増二斎に、長期滞留の辛労を察し、親瀬での番役は大儀であるため、この時節は少し目を休めてもよいと伝える。ただし、そのほかの諸下知は堅固に申し付けることが肝要だと念を押す。
後編3-No.957 島津義弘(惟新)書状
島津惟新が又八郎に、相良甚兵衛尉・大脇弥五右衛門尉の無事到着、庄内しわち・野々三谷への着陣としわち城落去の見通しを報じる。寺沢志摩守の浜之市到着、肥後方面の通路遮断、山口勘兵衛尉の再下向と法度・置目の徹底、内府拝領の栗毛を送ったことなどを列挙し、勝利後の処置まで油断しないよう求める。
後編3-No.958 島津義弘(惟新)書状
島津惟新が少相に、悪筆を詫びたうえで本六の件を述べる。竹織が上った際に失念していたが、存松の上洛時に処置するとの少相の書状を喜ぶ一方、当人を存松とともに動かすとの風聞を懸念する。当人をその場に留め、惟新の手前の用所も申し付けるよう求め、事態の落着を待ち望む。
後編3-No.959 島津義弘(惟新)書状
島津惟新が樺山権左衛門に、高麗での辛労を忘れてはいないが、取り紛れて書状を送らなかったのは疎意によるものではないと詫びる。庄内表での寒中在陣をねぎらい、置目・諸法度を緩みなく施行し、勝利は見込まれるが油断しないよう命じる。山口勘兵衛丞が上使として再び下向するので、現地に狼藉がないよう申し付け、上方は…
後編3-No.960 島津義弘(惟新)書状
島津惟新が抱節に、庄内表での寒中在陣をねぎらい、置目・諸法度を緩みなく施行して油断しないよう命じる。勝利は見込まれるとし、山口勘兵衛丞が上使として下向するため、現地に狼藉がないよう申し付けることを求め、上方は無事だと伝える。
後編3-No.961 島津忠豊(豊久)書状
島津忠豊が伊勢弥九郎に、当地での働きと辛労をねぎらう。本来は参上して申し上げるべきところ、まず飛札を送り、勝利は確実と見込む。今しばらく滞留するなら必ず参謁するとし、現地の状況を報じるよう求める。詳細は鍋倉作右衛門尉に申し含めたと付記する。
後編3-No.962 島津家久譜
内大臣徳川家康が、命令に応じない伊集院源次郎忠真を責めるため、使者の山口勘兵衛尉直友を再び薩摩へ下向させた記事。その際、島津忠恒に衣服一領を与え、続いてその書状を掲げると記す。
後編3-No.963 徳川家康書状
徳川家康が薩摩少将に、使札と音信として贈られた鉄炮・甘葛への祝着を述べ、小袖十を進上する。庄内の儀は龍伯・惟新へ申し遣わしたので、両人の意見に任せるのがもっともだとし、詳細は山口勘兵衛尉の口上に含めたと伝える。
後編3-No.964 島津忠豊(豊久)書状
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、尊札を拝受した礼を述べる。志和地の堀川が二日で成り、高城表から出た敵を追い入れて多数を討ち取り、麓まで放火した勝利を喜ぶ。天神山の陣取・普請が整い、近日あいの垣まで命じたことから、志和地もほどなく入手できると見込む。上方は変わりなく、山田の様子や病気で在陣中に帰った源七郎に…
後編3-No.965 島津義久(龍伯)書状
島津義久(龍伯)が又八郎に、奥方へ召し仕える人衆の選定と配置を相談する。先に鹿児島へ召し置いた者をまず任用し、不足分を浜之市などから補うよう求め、選定を一人の分別だけに任せることへ異議を示す。十人の書立から五、六人を今の衆へ加えて二番替とし、鹿児島へ置く小者二十人の書立からも三、四人を送るよう望む。…
後編3-No.966 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が又八郎に、庄内境の諸所を担当する人衆を銘々承知したことを肝要とする。先月二十五日に飛脚が上着し、山口勘兵衛らの下向時に上方の様子を伝えた後は変事がないと報じ、奥方と宰相殿がともに快復したので安心するよう知らせる。庄内から無事の返事は望みにくく、内通を申し出る者も多いであろうから、わ…
後編3-No.967 島津家久譜
慶長四年十二月四日、志和池城に間諜を置いて敵兵の通行できる細い径路まで封じ、敵を籠の鳥のように閉じ込めたことを記す。
後編3-No.968 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が新納武蔵入道に、庄内で昼夜相談し在番することを聞き、寒中に老齢で出陣する前代未聞の働きをねぎらい、いっそうの賢慮を求める。弥太右衛門尉は奉公に油断はないものの、持病のため乗馬での供などが不自由で、私曲によるものではないと判断する。一方、その境遇を武蔵入道が若い頃に人々へ無理を求めた…
後編3-No.969 島津家久譜
慶長四年十二月八日、敵方が安永口に伏兵を置き、少数の兵を進めて退くふりをし、山田軍を誘い出した。制止されたにもかかわらず若輩らが進んで敵と戦い、しだいに追い退けられて味方の損失が百人ほどに及んだため、家久が不満を示したことを記す。
後編3-No.970 新納久宣譜
慶長四年十二月八日、新納久宣が庄内高江の大手口へ進み、黒田友右衛門尉とともに敵兵の北村友仙と鑓を合わせたことが、世間で美談として称えられたと記す。
後編3-No.971 島津義久(龍伯)書状
島津義久(龍伯)が少将に、敵の策略にはまり不慮の仕合となったとの報を受け、外聞が悪く心配なので様子を聞くため飛脚を送る。若衆が気ままに振る舞い、下知に背いたためではないか、以前と違って外聞への配慮が足りないのではないかと厳しく問いただす。一方、末吉表では福山衆が敵四人を討ち、ほかに五人と馬五十疋を捕…
後編3-No.972 島津義久(龍伯)書状
島津義久(龍伯)が又八郎に、霧島の神慮を案じ、立願と祈念を勧める。敵が働く際は人衆を不用意に出さず、こちらから策を設け、伏兵の動きを深く聞き付けるよう平生から下知することを求める。また、鹿児島の誠方大明神の旗二本が七月の祭礼時に庄内方へ盗まれたとの風聞や、誠方・稲荷の御前で牛が死んだとの二件の真偽を…
後編3-No.973 寺沢正成書状
寺沢正成が羽少将の側近へ、十二月十一日に大坂へ到着し、兵庫殿と相談したうえで内府徳川家康に拝謁し、庄内の様子を申し上げたと報告する。山口勘兵衛がすでに派遣されているため、その後の知らせを待って下向するよう命じられ、大坂に逗留していること、家康の意向は兵庫殿から詳しく伝えられることを知らせる。
後編3-No.974 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が少将に、寺沢殿に供して紀伊守が十一日に大坂へ着き、現地の様子を承知したことを喜ぶ一方、庄内が未解決であることを案じる。寺沢殿の上国に合わせて大坂へ赴き、十三日に内府徳川家康へ拝謁して直談し、島津家への格別の厚意を得たと報告する。源二郎・山口勘兵衛への指示と寺沢殿への依頼は内容が異な…
後編3-No.975 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が少将に、山口勘兵衛尉がすでに下着し、庄内からの知らせが届いているだろうと述べる。源二郎が城を下りる日までは互いに矢を止めないようにすべきで、親しみから矢を止めれば境目が緩むのは明白だと警告する。この方針を山口勘兵衛尉へ説明し、賢慮を尽くすよう求め、寺沢殿とも相談済みであると伝える。
後編3-No.976 島津家久譜
前年十月、朝鮮で大勝した後、明の将・茅国器の弟である茅潤清が人質として島津方の陣営へ来た。これを受け取った後、寺沢志摩守へ預けたが、徳川家康の命により、薩摩で引き取り、明の兵を乗せる船で翌春に出帆させて中国へ帰還させることになったため、島津義弘が詳細を書状で命じた経緯を記す。
後編3-No.977 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が又八郎に、高麗泗川で受け取った人質について、内府徳川家康の命に従い、薩摩へ下して渡唐させるのがよいと決まったため、近く又八郎のもとへ下向させると知らせる。又八郎が受け取る人質なので、念を入れて扱わなければ諸事が不如意になると注意し、詳しくは後便で伝えるとして、まず心得として申し送る…
後編3-No.978 太田友一書状
太田友一が薩州少将の側近へ、前日十五日に大坂便船があった一方、内府徳川家康の使者・山口勘兵衛が五日に大坂を出船したとの風聞はあるものの、佐賀関にはまだ着いていないと報告する。山口が少将方へ直行した場合と当地へ着岸した場合の双方を想定し、渡次兵衛を飛脚として遣わして直談させる手配を述べる。当地にいる自…
後編3-No.979 島津義弘覚書
島津義弘が、年始の留守居衆・諸寺への祝言、出水城普請、江南馬、ばはん船の荷物とろそん船の壺改め、武具・兵具の上納、在京衆、飫嶋での唐船遠見、番所の茶四十石、蔵の御物、上方で請け取る八木二千四百石のうち約四百石の未進、夫丸替、魚塩、出水からの上納、浮土貢、仕上米について処理事項を列挙した覚書。
後編3-No.980 伊勢貞昌書状
伊勢貞昌が薩州少将の側近へ、孫右衛門から承った縄瀬の番手について、入来院殿へ老中の使者を立てたが、その後の決着が分からないため様子を問う。玉薬三百放を先に送り、鉄炮は鹿児島から追送すると知らせる。本来は陣所へ参上すべきところ、まず龍伯のもとへ赴くため、濱之市から改めて参上するとし、上方は平穏なので安…
後編3-No.981 相良長泰・新納為舟忠元連署状
相良長泰と新納忠元が入田左馬入道に、先年の豊州での忠節に疑いがなく、さらに子の東市正が高麗で戦死した奉公も浅くないとして、その次第を老中へ披露すると伝える。当地の縄瀬勤番については両名とも当初から承知しており、十分に取り合わせて支援するので安心するよう述べ、詳細は圓教房が説明するとする。
後編3-No.982 山口直友書状
山口直友が薩州少将の側近へ、内府徳川家康の使者として下向し、前夜に日向のなぬき村へ着いたと報告する。すぐ陣所へ参上する予定だったが、先に龍伯のもとへ赴くため、濱之市から改めて参上すると伝える。上方は平穏であり、自身が下向する際、家康は播州で鷹野に出ていたため現地で拝謁したこと、詳しい事情は参上時に述…
後編3-No.983 寺沢正成書状
寺沢正成が羽少将の側近へ、先書でも伝えた源二郎の件は山口勘兵衛を派遣したので、返答があるはずだと述べる。もし滞ることがあれば早急に注進し、その内容に応じて改めて命じるとする。正成自身はすぐ下向するつもりで上国したが、事情により兵庫殿と相談して逗留しており、詳細は比志嶋紀伊守が伝えると知らせる。
後編3-No.984 島津忠恒書状
本文は別番号の文書と同文である旨の注記により省略され、本箇所には書状本文・宛先・具体的内容が記載されていない。標題に基づき島津忠恒書状として整理する。
後編3-No.985 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が少将に、寺沢志摩守と比志嶋紀伊守が十一日に上着し、大坂で会見したと報告する。庄内がなお未解決であることを受け、比志嶋紀伊守に託された意向を詳しく聞き、同日到着した健軍猪右衛門尉・桑幡城介からも意向を承知したため、寺沢と相談して内府徳川家康へ言上したとする。詳しい様子は比志嶋の口上に…
後編3-No.986 種子島久時・山田利安連署加増目録
種子島久時と山田利安が安楽大炊助に、日向国諸県郡大崎の岡別符内十五石五斗二升二合と、大隅国肝付郡柏原村内四石四斗七升八合、合計二十石を加増として配当することを定めた連署目録。
後編3-No.987 太田一吉書状
太田一吉が羽少将の側近へ、前日二十日に内府徳川家康へ拝謁し、少将の軍功について格別に懇ろな言葉を得たので安心するよう伝える。勘兵衛が道中でも丁重に扱われた事情を語り、山口勘兵衛が家康の意向を少将へ伝えるはずなので、山口と親しく相談して適切に返答するよう求める。寺沢・兵庫にも相談し、源二郎へ家康から命…
後編3-No.988 島津義久譜
本文は別番号の記事と同文である旨の注記により省略され、本箇所には具体的な記事本文が記載されていない。標題に基づき島津義久譜の記事として整理する。
後編3-No.989 徳川家康書状
徳川家康が、寺沢志摩守からの使札を披見して庄内の件を承知したと述べる。重ねて山口勘兵衛を派遣するので詳しい事情を聞くよう求め、兵数などは相手方からの連絡次第で命じると伝える。
後編3-No.990 徳川家康書状
徳川家康が島津忠豊(豊久)に、庄内方面へ人数を出して加勢に尽力したことをもっともであると評価し、今後も油断しないよう命じる。詳細は寺沢志摩守が伝えるため、書状では詳述しないとする。
後編3-No.991 寺沢正成副状
寺沢正成が島津忠豊(豊久)の側近へ、各人が山田方面へ加勢に向かったことを内府徳川家康へ報告したと伝える。寒天で兵糧などを届けにくい時期なので過分な人数は不要とし、以前に述べたとおり上下合わせて百人ほどが適当だとする。忠豊自身の出陣については改めて連絡するとし、家康の直書を添えた旨を知らせる。
後編3-No.992 島津義久(龍伯)書状
島津義久(龍伯)が又八郎に、志和池の件は近日中に落着するように見えるかと問い、これに関して伝えられた詳しい内容を承知したと返答する。
後編3-No.993 熊谷直盛書状
熊谷直盛が羽少将の側近へ、先日吉弘へ送られた両使を早船で上方へ送り、十一日昼に大坂へ着岸したと報告する。当日は兵庫殿が伏見から大坂へ下向しており、両使が面会できたため、上方の様子は吉弘から伝えられるだろうとする。直盛は相手方からの知らせが届き次第出立するつもりで在所にとどまっており、今後京都へ派遣す…
後編3-No.994 新納旅庵長住書状
新納旅庵長住が伊勢兵部少輔の側近へ、山口勘兵衛が再び庄内へ下向することを知らせる。源次郎が事情に反して軽率な返答をすれば本人のためにならないため、一人を派遣して様子を申したいとの意向が織田之母から伊集院図書へ伝えられ、山口と受取方の双方へ書状が付されたという。旅庵は伊集院図書からも連絡するよう求めら…
後編3-No.995 島津義久覚書
島津義久が伝達・確認すべき事項を箇条書きにした覚書。内府徳川家康の意向は竹内が申し伝えること、山口殿の機嫌が悪いこと、ある申し分によって様子が少し改まったこと、勘兵衛尉が相手方へ向かうこと、受取人がこちらへ来ることと山口殿の意向について、竹内へ詳しく尋ねるよう記す。
後編3-No.996 庄内軍戦場改日記
庄内軍の戦場ごと・日付ごとの戦果を改めた日記。高城口をはじめ各戦場について、蒲生衆・加久藤衆・限城衆・清敷衆・高城衆・志和池衆などの所属別に、分捕、手負、戦死、鉄砲・弓・鑓・刀の使用や取得、参加者名と人数を列挙する。十月から翌正月に及ぶ複数の戦闘記録をまとめ、各隊の働きと損害を具体的に示す。
後編3-No.997 新納忠元勲功記
新納忠元の勲功を、慶長四年三月以後の庄内関係の経過とともに記す。留守中の勝利祈願として加久藤城下に庵を設け法華経千部を読誦し、帰陣後に供養塔を建立して忠元が名代を務めたことに始まる。伏見での伊集院幸侃殺害後に庄内で兵乱が起こると、忠元は諸将の召集、城地の守備・攻撃、京都・大坂への使者と報告、和平交渉…
後編3-No.998 殉国名薮
庄内戦で戦死した者を、年月日・戦場・所属とともに列挙した殉国者名簿。慶長五年正月の河内・栗山・追田などでの戦闘を中心に、戦死者名のほか、主従・組・衆の別や人数を記し、庄内戦での人的損害を整理する。
後編3-No.999 北郷久村譜
慶長五年、北郷忠能が庄内の本領を安堵されたことに伴い、勝岡・石山の内から久村へ三千石を与えた記事。久村の知行三千石にかかる課役は、忠能の総高の内として扱われたことを記す。