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後編3の目録
旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。
全1,990件中 1001~1100件・11 / 20ページ
後編3-No.1000 島津義久起請文前書
島津義久が起請文の前書として、伊集院幸侃成敗後の三郎五郎の進退は上意に従うと誓い、古弾正忠の奉公一筋を理由に家が断絶しないよう願う。富隈・鹿児島・帖佐三か所で忠貞を尽くし、親子・兄弟・縁者・知音であっても背反に同意せず、異変があれば直ちに報告すると誓約する。
後編3-No.1001 伊那令成書状
伊那令成が島津中書の側近へ新年を祝う。前年暮れに中書が内府徳川家康へ小袖を贈り、家康が喜んで直書を発したこと、令成自身も小袖一重を受けて感謝していることを伝える。西郷弥左衛門・山口勘兵衛・伊勢兵部を派遣するので、領内を安全に通して確実に到着させるよう頼み、惟新へは大坂から直接参るため別状を出していな…
後編3-No.1002 島津忠豊(豊久)書状
島津忠豊(豊久)が又八郎に、夕方の寅刻に敵が大挙して働き、相の垣に取り付き、番手の薄い所から一部が侵入したと報告する。城内へ追い込み六人を討ち取り、ほかの敵も敗走させ、敵がしばらく継戦するために用意した多量の兵糧を奪ったという。夜間で先方を十分に見分けられず追撃の人数を出せなかったことを惜しみつつ、…
後編3-No.1003 島津家久譜
慶長五年正月四日、夜陰に敵兵が襲来して志和池城の外間垣を破り、敵兵の一部と兵糧米が城内へ入った記事。城壁付近を守る味方兵の怠慢が原因ではないかと評している。
後編3-No.1004 島津義久(龍伯)書状
島津義久(龍伯)が又八郎に新年の賀意を述べる。又八郎がすでに到着する頃と待っていたが、境目からの報告があったためかと推し量り、一、二日は事情を聞き合わせることが肝要だと助言する。詳しい趣旨は本田助左衛門尉へ申し含めたので、書状では細述しないとする。
後編3-No.1005 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が宮原左近入道に、出水表の在番を特に労い、城の普請に念を入れて在番衆へ毎日怠りなく務めさせるよう命じる。普請がやむを得ない場合は太田吉兵衛丞・白坂七右衛門と相談して諸在郷へ課す一方、百姓をみだりに召し使うことは一切禁じると伝える。
後編3-No.1006 太田一吉書状
太田一吉が羽柴少将の側近へ、当地は静謐だが北国方面はまだ決着していないと知らせる。前年十二月八日の味方の損害を案じて尋ねたところ、損害は小者身分の者だったと聞いたという。本田源右衛門から詳しい事情を聞くよう促し、自身も翌月下向する予定とする。急用の飛脚は臼杵へ送るよう指示し、兵庫が息災で内府徳川家康…
後編3-No.1007 小西行長書状
小西行長が島津義久の側近へ新年の賀意を述べ、祝儀として太刀一腰と馬一疋を進上する。自身は一、二日のうちに上洛する予定であり、下国の際には必ず義久のもとへ参上して、日頃の礼を詳しく申し述べたいと伝える。
後編3-No.1008 立花親成(宗茂)書状
立花親成が惟新の側近へ新年の賀意を述べ、自身は早々に上洛する予定だと伝える。伊集院の件では、その地の動向次第で出陣するよう内府徳川家康から命じられており、親成も援助する意向を示す。上洛した使者からの報告を待って方針を決めるとし、山口勘兵衛の下向後も交渉が難航しているとの又八郎の報告について、詳細を使…
後編3-No.1009 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が又八郎に、前年十二月十一日付の書状が同月二十八日に届き、詳しく披見して意向を承知したと返答する。当地の様子は本田源右衛門尉へ申し含めて派遣したため、書状では詳述しないとする。
後編3-No.1010 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が又八郎に、存松への伝言を承知したと述べ、遠方から音信として銀子五枚と長刀一振を贈られた厚意に感謝する。諸件は本田源右衛門尉へ申し含めて派遣したので、書状では詳しく述べないとする。
後編3-No.1011 島津義久(龍伯)書状
島津義久(龍伯)が新年の祝意を述べ、前年以来、庄内方面で不慮の事態が続いたとする。忠恒が判断して志和池城へ着陣し、近頃は敵が弱っていると聞くため近日中の勝利を期待し、吉報は追って知らせると述べる。祝意として軽微ながら縮一端を贈る。
後編3-No.1012 島津家久譜
正月十六日、志和池城内の敵兵が城門から出てきたため追撃戦となり、島津方が勝利して敵を斬り、戦果を得た記事。
後編3-No.1013 島津以久譜
慶長五年正月十六日、志和池城の岩之上を守る敵兵が出城して戦った記事。島津以久の家臣たちは敵と槍を合わせ、強敵の首級を得るなど奮戦して敵軍を撃破し、城内へ追い込んだが、味方にも多数の負傷者・戦死者が出た。
後編3-No.1014 島津義久(龍伯)書状
島津義久(龍伯)が又八郎に、山口勘兵衛が十三日に庄内へ赴き、十五日夜に帰宅したと知らせる。山口が源次郎へ上意を伝え、源次郎は異議なく従うと答えたという。山口が又八郎のもとへ向かうのをいったん引き留めたため、又八郎自身が来て事情を聞くよう求め、来なければ山口を派遣するとする。併せて境目の用心と相の垣へ…
後編3-No.1015 児玉筑後守伝
慶長五年正月十九日の志和池城攻撃で、児玉筑後守が付城において槍を執り、城中の剛兵である渡辺茂右衛門と格闘して打ち勝ち、その首を得たため名声を挙げたとする伝記記事。
後編3-No.1016 児玉利言申状
児玉利言が、慶長四年の島津忠恒による庄内出陣の際、先祖の児玉筑後守が供を務め、伊集院源次郎の家臣渡辺茂右衛門を槍で討ち取ったこと、そのほかにも軍功を重ねたと伝承される旨を申し立てた申状。
後編3-No.1017 島津惟新書状
島津義弘(惟新)が又八郎に、大明の人質「ういひん」を春に薩州から明へ渡すよう命じられたと伝える。内府徳川家康が明へ送る書状をたい長老が調えたので、又八郎も加判するよう求め、詳細は本田源右衛門尉から聞いて確実に処理するよう命じる。日本と明の和平は前代未聞の重大事であるため、渡航船の乗員も改め、慎重を期…
後編3-No.1018 立花親成(宗茂)書状
立花親成(宗茂)が羽薩少将の側近へ新年を祝い、太刀一腰と馬代三百疋を贈る。あわせて、内府徳川家康の下知を待つ状況や山口勘兵衛の下向後も連絡がないこと、上洛・人数派遣に関する動向を尋ね、事情を知らせるよう求める。
後編3-No.1019 立花親成(宗茂)書状
立花親成が、使者を立てたところ寺志戸から山口勘兵衛を差し下すとの書状を受けたと報じる。勘兵衛の返事を待って人数派遣を決め、必要なら寺志戸と相談して下向するとし、まず急ぎ上洛する覚悟であることを伝える。
後編3-No.1020 島津忠豊(豊久)書状
島津忠豊(豊久)が下知を了承し、山口勘兵衛尉が相手方へ赴いて内府徳川家康の懇意を伝えたことを喜ぶ。庄内が収束したとの報も承知しており、三日中に参着する予定なので、その際に詳しく申し述べると伝える。
後編3-No.1021 島津忠恒領知目録
島津忠恒が白鳥山金剛乗院光巌に、飯野の正原村・島田村の内七十六石余、加久藤の川北村の内十八石余、ほか四十八石余、合計百四十三石五斗一升三合余を与え、公役を免許した領知目録。
後編3-No.1022 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が島津忠恒に、当年の星供を中性院に依頼して執行させ、御礼護を送るので受け取るよう伝える。庄内の情勢と山田で越年したとの風聞を問い、寒中の在陣を労い、山口勘兵衛尉の下向後に音信がないため近況を知らせるよう求める。
後編3-No.1023 島津忠豊(豊久)書状
島津忠豊(豊久)が伊勢貞昌に、一昨日この地へ参陣したと報じ、当地での諸事についてしかるべく取り成すよう求める。あわせて伊勢方の地の様子を知らせるよう頼み、当地には変事がないことを伝える。
後編3-No.1024 別府景秋・伊勢貞昌連署起請文
伊勢貞昌と別府景秋が、主君のためには意見が違ってもありのまま申し上げること、使者として私事を交えないこと、私怨から他人を陥れたり贔屓で悪人を取り成したりしないことなどを誓い、違背時には諸神の罰を受けるとする連署起請文。
後編3-No.1025 島津義弘外二名連署告文
島津義弘・忠恒・寺沢正成が明の李老爺に、豊臣秀吉没後は徳川家康が秀頼を補佐して国政を担うと報じる。朝鮮との和約不履行を非難して再戦を警告する一方、明船を襲った者二十人を送還して処罰を委ね、質子や使者の帰還についても伝える告文。
後編3-No.1026 島津義久詠草
島津義久が、大明の質人である滑濱の帰帆に際し、仮初めの情けと知りながらも再会を願い、唐土の人を慕う心を詠んだ和歌。
後編3-No.1027 島津義弘書状
島津義弘が新年を祝い、祈祷札を頂戴した礼と樽代二百疋を贈る。高麗から京都へ無事に帰着し諸事が思いどおりになったのは祈念と霧島山の加護によるとして感謝し、詳細は普門院に口上させると伝える。
後編3-No.1028 松元権兵衛尉覚書
慶長五年正月廿八日の庄内山之口攻めで、松元権兵衛尉が日中三度敵を追い込み、柵を越えて戦った際に矢傷一か所を負ったこと、その立会人が調所丹後守・渕田右衛門尉・少将殿であったことを記す覚書。
後編3-No.1029 島津惟新外十名詠草
「花漸盛」を題として、島津惟新ほか十名が、咲き初めから次第に盛りとなる花、風雨や夕暮れの景、花を待ち惜しむ心などをそれぞれ詠んだ十一首の連歌・和歌詠草。
後編3-No.1030 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が島津忠恒に、山口勘兵衛尉の無事帰着を喜び、庄内へ使者を送り源二郎と対談させる件は竜伯と相談して取り計らうよう求める。庄内問題の早期決着を期待し、城の包囲を固める一方、源二郎の策に同心せず陣中警戒を怠らないよう戒める。
後編3-No.1031 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が島津忠恒に、北国・奥州などの軍備や兵粮調達の風聞を挙げて備えを促す。庄内処理では山口勘兵衛尉や若衆の主張に流されず慎重に談合すること、知行配分が諸人の不満を招かぬよう注意すること、島津家に尽力する寺沢正成へ竜伯・忠恒から書状を送り連絡を密にすることなどを詳しく諭す。
後編3-No.1032 島津忠豊(豊久)書状
島津忠豊(豊久)が、前日の使者来訪を受け、志和地が今日下城する旨を報じる。高城も弱体化しているため当地の諸城も一両日中に落城するだろうとの見通しを吉報として伊勢貞昌に知らせ、続報を送ると伝える。
後編3-No.1033 島津家久譜
志和池城の守兵が数か月にわたり包囲され、兵器・食糧が尽きて餓死者も出るほど衰弱し、慶長五年二月五日に戦意を失って相次いで降伏を願い、捕虜らも下城して退去したと記す。
後編3-No.1034 島津以久書状
島津以久が伊勢貞昌の書状と使者を受けた礼を述べ、人数に関する談合へ出席したことを伝える。志和地が当日下城したことを千秋万歳の吉事として祝い、趣旨を披露するよう求める。
後編3-No.1035 井伊直政書状
井伊直政が新年を祝い、先の返書が届いたことを喜ぶ。相手方が意向どおりに事を進めているか近況を尋ね、遠国のため飛脚による連絡が滞ったことを詫び、今後の便りを約する。
後編3-No.1036 島津義久譜
慶長五年二月六日、数か月にわたり兵粮を断たれた志和池城の籠城衆は、菜根も尽き、角・皮製の器など食べられる物を食べ、矢・弦もほぼ尽きて防戦の手段を失い、屈して降伏を願った。これに対して死罪を宥め、包囲の一面を解いて退去させたことを記す島津義久譜の記事。
後編3-No.1037 北郷忠能譜
慶長五年二月、志和池城降伏後に北郷方が山之口で戦い、家臣三名を失いながら勝利した。梶山・勝岡・山之口・高城・安永など諸城が相次いで降伏し、忠真が都城を退去したのち、竜伯・忠恒が都城へ入り、諸城を長千代丸に与え、十一歳で元服させ忠能と名乗らせた経過を記す。
後編3-No.1038 島津忠長書状
島津忠長が、寄合中の詫びに関する件について、先日相良新右衛門へ伝えたとおりであるとし、一同で相談して穏当な判断をするよう求める。詳細は使者に申し含めたと伝える。
後編3-No.1039 伊那令成書状
伊那令成が、山口勘兵衛を再度差し下したことへの島津方の謝意を徳川家康へ伝え、隔意はないとの返答を報じる。当地では包囲中の城や庄内から欠落者が多数出ていることを吉報とし、詳細は兵庫頭から伝えるとする。
後編3-No.1040 秋月種長書状
秋月種長が、山口勘兵衛を通じて庄内に関する意向を承知したと述べ、志和地落城を祝い、他の城もほどなく落ちるだろうと見通す。あわせて領内で魚・塩の流通が滞らないよう命じているので安心するよう伝える。
後編3-No.1041 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が島津忠恒に、所持する壺を早急に上方へ送り、しかるべき者に預けて下送するよう指示する。三月末の茶詰めに備え、忠恒の茶も詰めさせるので、以前から依頼している茶碗とともに手配を急ぐよう求める。
後編3-No.1042 伊東祐兵書状
伊東祐兵が島津忠恒に、志和地城落去の報を祝い、残る城もほどなく落ちるだろうと述べる。引き続き堅実に判断し、下向した山口勘兵衛と十分に相談するよう勧め、続報を求める。
後編3-No.1043 近衛竜山前久書状
近衛前久が歌集編集について、四季・恋・雑など各部の題数と配分、年頭や季節題の扱い、選歌の基準、同題・類似歌の重複回避を細かく指示する。紹巴や諸歌人の歌を比較し、草稿・別紙を往復させながら慎重に校訂するよう求める長文書状。
後編3-No.1044 新納忠元宛行状
新納忠元が加増一石七斗を与え、本目録は今月から来月の間に宛行うとする。寒中の衣裳扶助として従来の定法どおり一石につき一俵を支給し、雑石も加えると記した宛行状。
後編3-No.1045 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が島津忠恒に、庄内の談合や若者を京都へ上らせ内府に奉公させる件、京都へ戻った本田六右衛門尉らの動向を報じる。北原・堀を庄内へ派遣し、山口勘兵衛尉や奉行衆の処置に疑念を示しつつ、伊東祐兵とも相談して慎重に対応するよう求める。
後編3-No.1046 昭高院如雪道澄書状
昭高院如雪道澄が春の書信が遅れたことを詫び、相手の厚意を喜ぶ。年頭の祈念巻数を祝儀として送り、相手方の事が意向どおりに進むよう祈り、武庫から近況を聞いて秘法による祈祷を行い、巻数も追って送ると伝える。
後編3-No.1047 島津義久(龍伯)書状
島津義久(龍伯)が秋月種長に、志和地落城への祝詞と使札を受けた礼を述べ、房轡五掛の贈答にも感謝する。詳細は使者から口上させると伝える礼状の案文。
後編3-No.1048 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が島津忠恒に、内府徳川家康から大鷹を拝領する可能性を見込み、鷹師を早急に上方へ送るよう求める。遠路の船中で二連の鷹を扱う難しさから、竜伯の鷹と同送せず一時預かっており、小林民部少輔ら熟練者もいるので安心するよう伝える。
後編3-No.1049 山口直友書状
山口直友が濱市で進む交渉は一両日中におおむね決着する見込みだと報じ、その間は軍事行動を控えるよう要請する。竜伯父子にも同様に伝え、濱市へ戻って現地の状況を追って知らせるとする。
後編3-No.1050 島津義久譜
慶長五年、志和池城の降伏後も伊集院忠真方が各地で敗れ、徳川家康の使者山口直友が和議を仲介したため、島津義久・忠恒と忠真方が連署起請文を交わした経緯を記す。旧怨を捨て、所領・家臣の安全を保証し、違背時には諸神の罰を受けることを誓う。
後編3-No.1051 島津義久譜
本文はNo.1036と同文のため省略されている。豊臣秀吉が朝鮮王子の来渡の遅れを叱責し、在番衆や兵粮を整えて朝鮮での仕置を確実に進めるよう島津義弘へ命じた朱印状の重複記事。
後編3-No.1052 島津義久譜
本文はNo.1050と同文のため省略されている。島津義久(龍伯)が、唐の使節の上洛に伴う京都での命令、使者や人員の配置について島津忠恒へ指示した書状の重複記事。
後編3-No.1053 島津義久(龍伯)・島津忠恒連署起請文
島津義久(龍伯)・忠恒が、伊集院忠真(源次郎)が島津家に仕えない意向を寺沢正成へ示した件について、深い遺恨はあるが徳川家康の意向により捨て置き、今後龍伯に奉公するなら旧怨なく召し使い、不届きや讒訴があれば糺明のうえ処分すると誓った連署起請文。
後編3-No.1054 山口直友書状
山口直友が、呂宋渡海の朱印状を求める件を了承したと伝える。現在は関東へ使者を送っても披露できないため、上様の上洛時に正式に申し入れて返答するとし、決して油断しないと約する。
後編3-No.1055 征韓録
明人の都司渭濱茅國科が薩摩に来て宇都宮弥三郎の旧宅に滞在し、島津忠長と書簡を交わしたのち、同年四月ごろ明国へ送り帰された経緯を記す。
後編3-No.1056 渭濱書状
渭濱が島津忠長に、直接訪ねて語り合いたいが訪問できないことを述べ、健康を気遣うとともに、詩や書画などの贈物を届ける旨を伝える書状。
後編3-No.1057 渭濱書状
渭濱が島津忠長に、近くにありながら直接訪問して語れないことを詫び、健康を気遣い、詩扇四握・拙書六幅・花瓶一対を贈ると伝える書状。
後編3-No.1058 渭濱書状
渭濱が島津忠長に、先日の礼への謝意を述べ、直接訪ねたいが煩わせることを恐れて控えていると伝える。また役人を泊津へ船の確認に遣わしたがまだ戻らず帰国日を決められないため、早く出発できるよう引き続き支援を求める。
後編3-No.1059 渭濱書状
渭濱が島津忠長に、直接参上して会えないことを残念に思い、書状をもって安否を尋ねるとともに、帰国できるよう日頃から取り計らわれていることへの謝意を伝える。
後編3-No.1060 朝鮮人等上書
朝鮮人らが島津義弘に、朝鮮王の虐政で民衆が困窮していると訴え、朝鮮人捕虜一万人を集め、王孫李亀生を奉じて日本の威勢を背景に高麗へ渡り、旧来の苛政を改める構想を上申する。成功後は毎年聘礼を通じて和睦するとし、薩摩単独で難しければ徳川家康へ申し入れるよう求める。
後編3-No.1061 島津家久譜
二月二十九日、庄内の端城である高城・山口・勝岡・梶山・野々三谷・安永の六か所が撤去され、守備側が退去したことを記す。
後編3-No.1062 滝重時書状
滝重時が伊勢兵部少輔に、志和利城の攻略に続いて六か所の端城が落去したことを祝し、都城もほどなく決着すると見込む。また天下太平となった後は上使の意向に従って伊集院源次郎を助命するのがもっともだと述べ、庄内平定後の披露を依頼する。
後編3-No.1063 島津忠恒書状案
島津忠恒が、伊集院忠真の処遇について、山口直友の仲介で和融が成立し、忠真が浜市へ出頭したと述べる。徳川家康の意向により二万石を与えて召し出すこととなり、都城を攻め潰す事態を避けて近日中に使者を派遣すると伝える書状案。
後編3-No.1064 伊集院忠真起請文
伊集院忠真が、重い罪を赦され、山口直友の取り次ぎによって召し出されて知行を与えられる恩に感謝し、今後は悪逆を企てず忠節を尽くし、いかなる命にも従うと誓う。違背した場合には諸神の罰を受けることを神文に記した起請文。
後編3-No.1065 青木利金外六十一名連署起請文前書
青木利金ら六十二名が、島津義久(龍伯)・島津義弘(惟新)・島津忠恒(少将)に二心なく奉公すると誓う。親族を含め逆心の企てには同意せず直ちに通報し、伊集院忠真らと私的に結ばず、他国へ内情を漏らさず、御家に難儀があれば親族を捨てても奉公し、国を離れる事態でも島津領内で最期を遂げることなどを連署した起請文…
後編3-No.1066 島津豊久譜
伊集院忠真の降伏後、島津豊久が都城方面から帰陣したことを記す。各地の戦闘で三原九兵衛・野村藤蔵・坂元半兵衛・富山次十郎・前田大膳兵衛・野田覚内ら多数の家臣が戦死し、負傷者も数多かった。軍功により野々三谷を与えられたが、豊久は辞退した。
後編3-No.1067 伊集院忠真書状
伊集院忠真が伊那図書頭の家臣らに、山口直友の尽力で和融が整い、前日に浜市へ出て島津義久・忠恒父子に対面したと報じる。徳川家康の意向により二万石を与えられたことを伝え、近日中に使者を派遣するので、機会があれば取り成してほしいと依頼する。
後編3-No.1068 島津義久譜
島津義久譜の記事であるが、本文はNo.1074の記事の一部と同文であるため省略する旨を記す。
後編3-No.1069 島津家久譜
伊集院忠真が謀略を断念し、山口直友の説得に従って降参を決めたため、都城・財部・梅北・末吉の城を撤去したと記す。三月十四日に島津義久・忠恒が都城へ入り、翌十五日には大平・吐気・岩切方面へ進んだ。
後編3-No.1070 某覚書
庄内和平後の処置を列挙した覚書。庄内の祝儀、北郷旧領への配置と知行、伊集院忠真へ与える知行所目録、庄内支配、徳川家康の命令以前の懇談、山口直友の下向と和平成立、忠真の上洛、国元の仕置を整えた後の上洛などを確認事項としてまとめる。
後編3-No.1071 島津義弘(惟新)書状
島津義弘が忠恒に、伊集院忠真の召し出しと庄内の和融に際して山口直友との連絡を怠れば徳川家康の不審を招くと注意する。伊那図書頭から聞いた家康の意向を踏まえ、国元の仕置を十分に整えてから上洛し、庄内平定の注進と今後の吉報を待つと伝える。
後編3-No.1072 島津義弘(惟新)書状
島津義弘が、徳川家康から忠恒へ拝領される鷹について、忠恒が上洛するまで義弘のもとに置くか、鷹師を上らせるか返答を求める。あわせて前年同様の茶を求め、茶壺と茶の鑑定、購入数量と代銀の見積もりを進めるよう指示する。
後編3-No.1073 徳川家康書状
徳川家康が島津忠恒に、伊集院忠真の侘言を受け入れて赦免したことを了承し、近く上洛するとの知らせを聞いたので、国元の仕置を整えたうえで上洛するのを待っていると伝える。詳細は島津義弘から伝えるとして省略する。
後編3-No.1074 島津義久譜
三月十四日に伊集院忠真が富隈の島津義久邸へ降参し、翌十五日に義久・忠恒が庄内の都城へ入り凱歌を挙げたことを記す。十八日に軍勢を帰陣させ、二十日に義久が富隈へ、二十二日に忠恒が鹿児島へ戻り、忠真の降参を徳川家康へ報告して返書を受けた経過をまとめる。
後編3-No.1075 徳川家康書状
徳川家康が、伊集院忠真を討ち果たす方針であったが、山口直友を再び派遣し、島津忠恒との会見を経て忠真を赦免し、堪忍分として一万石を与えた処置を妥当と認める。詳細は島津義弘から伝えるとして省略する。
後編3-No.1076 島津忠恒書状
島津忠恒が新納忠元に、長期間の在陣と老齢にもかかわらず軍功・忠節が比類ないと賞し、褒賞として光延作の脇差一腰を与える。
後編3-No.1077 島津忠恒願文
島津忠恒が、国家泰平・武運長久・子孫繁栄と庄内退治に関する願いの成就を受け、日向国高原の蒲牟田村五百八石を霧島山へ寄進し、祭礼と社殿修理を怠らないよう定める願文。
後編3-No.1078 島津義弘(惟新)書状
島津義弘が忠恒に、徳川家康へ提出した書状への返書を送るとともに、天下の情勢と国元からの吉報を待っていると伝える。家中女性の病気について谷杉らに祈祷させ、祐乗の朱印を添えて謝礼や使者の手配を行い、家康から拝領した鷹の養生にも注意していることを報じる。
後編3-No.1079 島津義久(龍伯)外八名詠草
島津竜伯ら九名が、松の梢・木の間・庭の松などを背景に郭公の声を詠み分けた『詠松間郭公和歌』。松の常緑性や古さと、夏を告げる郭公の初音を取り合わせた連作詠草。
後編3-No.1080 島津義久(龍伯)外二名詠草
島津竜伯ら三名が、木の間から聞こえる郭公の初音や松の常緑を題材に詠んだ和歌。慶長五年三月二十九日に住吉大明神の神前で詠み、会紙を法楽として住吉社内へ奉納した詠草。
後編3-No.1081 島津義弘(惟新)書状
島津義弘が忠恒に、庄内平定を祝し、家中女性の病状が快方に向かっていると伝える。西国大名の伏見番や諸大名の大坂移住の状況、増田長盛・大谷吉継らの動き、伊那図書頭の奥州下向を報じ、薩摩から人員を上らせる必要があるので油断しないよう注意する。
後編3-No.1082 新納旅庵長住書状
新納旅庵長住が、庄内落去と伊集院忠真の出仕を島津忠恒の名誉として祝し、北国情勢を理由に早急な上洛と徳川家康への忠節を勧める。肥後方面や大口で捕らえた者について、家康の意向に従い、口上を聴取したうえで厳重に長期拘禁し、番衆を付けて管理するよう求める。
後編3-No.1083 起請文連署者交名
慶長五年三月十二日付の起請文連署者交名であるが、本文はNo.1065の連署者名と同文であるため省略する旨を記す。
後編3-No.1084 島津義久(龍伯)・島津忠恒(家久)詠草
島津義久(龍伯)と島津忠恒(家久)が、耐えがたい恋の思いと、天神の恵みによって将来に希望をつなぐ心をそれぞれ詠んだ二首の詠草。
後編3-No.1085 島津義久(龍伯)・島津忠恒詠草
島津義久(龍伯)と島津忠恒が、松の葉越しに聞こえる郭公の声と、常緑の松に声を託す郭公を題材に詠んだ『詠松間時鳥和歌』二首。
後編3-No.1086 島津義久(龍伯)外二十八名詠草
島津義久(龍伯)ら二十九名が、恋・霞・梅・春月・花見・落花・藤・納涼・五月雨・新樹など季節と景物を多様な題で詠んだ連作詠草。正文が末吉住吉大明神社内に伝来したことを記す。
後編3-No.1087 島津義弘(惟新)書状
島津義弘が忠恒に、伏見で徳川家康に拝謁し、庄内平定、伊集院忠真の出仕と二万石の付与、山口直友による仲介を報告した経緯を伝える。あわせて上杉景勝が上京を拒んで伊那図書頭が会津へ向かった情勢を述べ、家康の意向に沿った処置を評価する。
後編3-No.1088 伊勢如貴貞知書状
伊勢如貴貞知が、出京後に御家門から庄内の状況を尋ねられ、三月十四日に伊集院忠真が出仕したと答えたことを報じる。庄内が無事に収まったので関係者へ音信を送ることや、東山へ参詣しながら御家門へ参上していない事情を尋ね、島津義弘にも伝えるよう依頼する。
後編3-No.1089 伊勢如貴書状
No.1088の伊勢如貴貞知書状と同文であるため、本文を省略する旨を記す。
後編3-No.1090 徳川家康書状
徳川家康が、島津忠恒からの書状で庄内がすべて平定されたことを知り了承したと伝える。忠恒が近日上洛するので、その折に詳しく話すとし、石川左衛門太夫からも説明させる。
後編3-No.1091 島津義弘(惟新)書状
島津義弘が忠恒に、庄内を自らの手で平定したことは外聞・実儀ともに大きな慶事であり、忠恒も満足しているだろうと祝う。また御上様の病気を心配していたが快復したので安心するよう伝える。
後編3-No.1092 島津義弘(惟新)書状
島津義弘が忠恒に、初陣で庄内を平定した功績を天下に知られた大慶事として祝う。上杉景勝の上京拒否により伊那図書頭が毛利・増田・大谷の使者と会津へ向かった情勢を報じ、庄内の仕置が整うことを期待し、祝儀として樽三荷と白鳥一羽を贈る。
後編3-No.1093 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が少将殿に、徳川家康から拝領した鷹を国元へ下す件について、鷹師の上京を求めたものの余鷹の養生中で今すぐ送るのは難しいと伝える。国元には相応の鷹師がいないため当地で夏飼いをさせてから渡す案と、少将側の鷹師を上せて飼わせる案を示し、あわせて御当家の馬の乗り方を島津義久(龍伯)に尋ねるよう…
後編3-No.1094 島津義久(龍伯)書状
島津義久(龍伯)が又八郎殿に、高崎弥六を介して承った事柄への返答として、和歌の語句・心の扱いや玄与に申し付けた歌の出来を論じ、詠歌を送るよう求める。さらに祈念や女性衆の祈り、納戸衆・書奉行への手配、衣類、山野での馬追いに触れ、二十五日に必ず出向く意向を伝える。
後編3-No.1095 山口直友書状
山口直友が惟新に、四月二十三日朝に大坂へ着いたことを報じる。内府へ出仕する予定だったが、惟新が下向するとの旅庵の連絡を受けて対面を待つため延期したとし、惟新の用向きと下向の有無を知らせるよう求め、返報に応じて出仕すると伝える。
後編3-No.1096 島津義弘譜
慶長五年六月十七日、徳川家康が上杉景勝追討のため伏見から出陣するに際し、鞍馬にいた伊集院源次郎の母と弟を引き渡すよう命令があり、これを受けて両名を薩摩へ下したことを記す。
後編3-No.1097 石川康通書状
石川康通が羽兵庫に、旅庵の来訪と少将の使者との面会を報告し、書状と口上の内容を内府へ詳しく申し入れたところ、念の入った対応は稀有であると評されたと伝える。羽兵庫に筋気があるため翌晩の出仕を勧め、同時に少将の使者も内府へ引き合わせる段取りを旅庵へ申し入れたと知らせる。
後編3-No.1098 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が島津義久(龍伯)に、徳川家康へ出仕して庄内平定を祝賀したところ機嫌がよく、入来院又六と善載坊が召し出され御前で食事を賜ったと報じる。長尾殿の上洛延期の事情を確認するため伊那図書頭と奉行衆が使者を添え、善載坊が帰国時に詳報する予定であること、又八郎にも一連の事情を伝えるよう依頼する。
後編3-No.1099 夏日詠松間郭公和歌
夏の日、松の間に鳴く郭公を題に、少将忠恒・図書頭忠長以下十一名が詠んだ和歌を収める。初音を待つ心、夜の木末や松陰、雨雲、軒端、木深い松などを取り合わせ、声は聞こえても姿の見えにくい郭公と松間の景を各人が異なる表現で詠み分ける。