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後編3の目録
旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。
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後編3-No.1100 島津義弘(惟新)書状
島津義弘が又八郎殿に、多数の鷹を所持し、義弘に預けるための見事な大鷹を取り置いたとの知らせを大いに喜び、早く見たいと伝える。京都でも鷹場が許され鷹狩りが盛んであることに触れ、近く必ず上洛するので諸事は対面して相談すると知らせる。
後編3-No.1101 北郷三久譜
慶長五年五月四日、北郷三久の七年間にわたる軍功を賞し、采地千石を加増したことを記す。
後編3-No.1102 島津忠長・平田増宗連署加増目録
島津忠長と平田増宗が連署し、加増高二千七百三十石のうち、庄内下川路有水の高千石を北郷作左衛門尉に与えることを示した加増目録。
後編3-No.1103 島津忠長・平田増宗連署返地目録
島津忠長と平田増宗が連署し、薩州鹿児島内犬迫村六十八石二斗八升と伊集院郡木田之門十二石一斗九升、合計八十石四斗七升(内屋敷)を、阿多の返地として宛行うことを示した返地目録。
後編3-No.1104 福崎重親書状
福崎重親が、長寿老の着船と伏見到着、自身の五月中の下向予定を知らせる一方、当地で疫病が流行し同行の夫丸も病んでいると報じる。源次郎母の身柄を当地に留めるか帰国させるかは将来の首尾を考えて十分相談するよう求め、処罰者への取りなし、寺家の面目、神五郎の籠居などについて、罪の軽重と遠近を慎重に判断するよう…
後編3-No.1105 島津義弘(惟新)書状
島津惟新が少将殿に、山口直友の上洛に伴い入来院又六と善載坊を使者として送り、口上を受けて大坂から内府へ報告したと伝える。庄内の平定、源二郎の召し出しと知行二万石、茶碗拝領を喜び、奥州出陣時に少将が伏見城番を命じられる見込みであるため、堅固な留守番衆を整えるよう善載坊を通じて指示する。
後編3-No.1106 島津義久(龍伯)掟書
島津義久(龍伯)が大乗院に示した三条の掟。殺人者を匿う場合は罪の軽重に応じ、重罪人は引き渡すこと、折檻された者への取りなしは寺家の面目を失わぬよう罪の浅深・遠近を考慮すること、天下の命令で寺社が所領を失い困窮していても当面は堪忍することを定める。
後編3-No.1107 島津義弘(惟新)書状
島津惟新が少将殿に、本田与兵衛の到着と大坂派遣、竜伯の鹿毛馬を翌春の種馬用に当地へ置く件を報じる。内府の会津出陣が翌月に定まったため、庄内平定への援助に対する礼を述べるべく早急に上洛するよう促し、源二郎母の大坂滞在を含む処遇を竜伯とも相談するよう求める。あわせて疫病への祈念、綿・紬の準備、加増地の所…
後編3-No.1108 島津義弘(惟新)書状
島津義弘が又八郎殿に、神五郎の狂気・不行跡と処分について留守居衆の報告や竜伯の意向を照合し、事情を詳しく調べて適切に措置するよう求める。旅庵の報告が神五郎の振る舞いを十分に伝えていないと批判し、出水の置目、狩猟禁止、土地処分、農民・百姓の居住と耕作、水利、米銭の配分などを役人衆と相談し、恣意的な取り…
後編3-No.1109 島津家久譜
島津忠恒(家久)が文禄三年に豊臣秀吉から島津義弘の後嗣として薩摩・大隅・日向の守護職に補され、朝鮮へ渡って五年間軍務に従った経歴を記す。帰国後の伏見で伊集院忠棟(幸侃)を斬り、その子忠真(源次郎)が庄内で挙兵したが降伏して国中が静謐となったため、忠恒が領国を巡見して法度と土地支配を整え、そのため上洛…
後編3-No.1110 徳川家康書状
徳川家康が島津忠恒(薩摩少将)に、たびたびの書状を喜び、領国の仕置をゆるゆると済ませたうえで上洛するよう伝える。詳細は石川左衛門大夫から申し伝えるとして本文を省略する。
後編3-No.1111 伊集院抱節久治・山田理安有信連署証状
伊集院抱節久治と山田理安有信が連署し、財部日光神社の神領について、竹之下・大坪・霜月田・中島・彼岸田・坂之下・山下などの田畠ごとの面積・分米・耕作者を列記する。合計一町五段四畝十五歩、分米二十石六斗六升七合を年中祭礼のため怠りなく納めるよう大宮司に命じた証状。
後編3-No.1112 島津義弘(惟新)書状
島津惟新が少将殿に、四月二十一日付書状を伏見で披見し、内府の指示で上洛を延期した事情を了承したと伝える。庄内関係の礼を内府へ申し上げるため本田与兵衛を案内者付きで大坂へ遣わし、内府からの返書を持たせて帰したこと、本田源右衛門尉が近日上るので詳細を聞くこと、他の上洛人員も責任者を定め法度を説明して早急…
後編3-No.1113 島津義弘(惟新)書状
島津惟新が少将殿に、本田与兵衛を通じて、出水での鹿・鳥猟の禁止や農民所有地の適法な買い上げなどを指示したと報じる。さらに居城候補として帖佐瓜生野や鹿児島を検討し、祖先寺院の移転、現御屋形への石垣・大堀普請、新地での築城などを挙げ、竜伯の意見と下知を得て進めるよう求める。
後編3-No.1114 島津義久(龍伯)掟書
島津義久(龍伯)が華林寺に示した掟。盗人を匿う場合は罪の軽重を見極め、重罪人は引き渡すこと、折檻された者への取りなしは寺家の面目を損なわぬよう罪の浅深・遠近を考慮すること、天下の命令で寺社が困窮していても当面は堪忍することを定める。
後編3-No.1115 島津義久(龍伯)掟書
島津義久(龍伯)が福昌寺に与えた掟。盗人を匿う場合の処置を第一条とし、同日付の大乗院・福昌寺向け掟と同案であるため、本文の残余は省略されている。
後編3-No.1116 島津義久(龍伯)書状
島津義久(龍伯)が又八郎殿に、奥方の奉公人が不足しているため申し入れたところ、相良新右衛門尉が任命されたと知らせ、早急に上洛して奉公するよう求める。
後編3-No.1117 島津義弘(惟新)書状
島津惟新が少将殿に、内府の使者山口直友の命で小伝次兄弟三人と伏見で面会したことを報じる。源二郎母と子供三人が帰国を望み、源二郎も同意していると聞いたが、母が大坂城へたびたび推参して内府へ直訴したため早急な帰国を命じられたと説明する。帰国後に国人を惑わせ源二郎の心変わりを招く懸念はあるものの、上方に置…
後編3-No.1118 島津義弘(惟新)書状
島津惟新が少将殿に、会津方面の情勢に変化があれば知らせると述べる。比志島紀伊守上洛時に照高院へ依頼した書物に関して先日品を差し上げたこと、三社託宣を中務殿へ送ったので受け取ること、当地で流行する表法絵について念を入れて作らせたことを伝える。
後編3-No.1119 伊集院元巣久信申状
伊集院元巣久信が、文禄四年十一月に伊作地頭職を命じられ、慶長五年まで四年間、公儀から選任されて御宝物の虫干しを自ら勤めたこと、慶長五年に伊作へ移ったことを、後日の証拠として書き残した申状。
後編3-No.1120 滝聞伝右衛門尉・渡辺市左衛門尉出銀請取状
滝聞伝右衛門尉と渡辺市左衛門尉が連署し、高二百石に対する七分出銀と殿役分を受け取ったことを証する請取状。鳥目四十六貫八百三十三文、銀子二百八十一匁を、定日外のため倍算用とし、七分・殿役とも皆済したことを記す。
後編3-No.1121 島津家久譜
石田三成が徳川方に対して挙兵し、西国三十三か国の諸侯を東国へ向かわせようとした際、島津義弘は伏見にいて従兵が少なく、進退に窮したことを島津忠恒(家久)の譜に記す。薩摩へ急ぎ増援を求めたが、兵の不足と遠国・海路の不自由により、船と兵を要地へ送ることができず遅延した経緯を述べる。
後編3-No.1122 島津義弘(惟新)書状
島津惟新が少将殿に、京都周辺が騒乱となる中で手元の人数が不足し、在京衆と船加子を丈夫に整えて送るよう度々求めたのに実行されていないと強く訴える。かつて身命の限り見捨てないと約束したことを挙げ、派遣が遅れれば無益になるため至急人数を差し上げるよう求める。あわせて中務大夫と今後の進退を相談中であり、詳細…
後編3-No.1123 毛利輝元書状
毛利輝元が少将殿に、関係者三人から書状が到来したため、やむを得ず七月十五日に出船すると伝える。豊臣秀頼への忠節を尽くすことを言上し、指図に従って進み、追って再度連絡すると述べる。
後編3-No.1124 島津義弘譜
No.1096と同文の記事であるため本文を省略する。内容は、徳川家康が上杉景勝追討のため伏見から出陣する際、鞍馬にいた伊集院源次郎の母と弟を引き渡すよう命じ、両名を薩摩へ下したというもの。
後編3-No.1125 島津義弘(惟新)書状案
島津義弘(惟新)が島津義久(龍伯)に、当地が騒乱となり手元の人数が不足しているため、速やかに人数を差し上げるよう求める。情勢の詳細は島太郎兵衛への条書に含めたとして省略し、中務大夫も当地にいて諸事を相談しており、怠りなく対応していると伝える書状案。
後編3-No.1126 島津義弘(惟新)書状案
島津惟新が上杉景勝方に、内府が貴国へ出陣するにあたり、毛利輝元・宇喜多秀家をはじめ、小西行長・大谷吉継・石田三成ら大坂の老衆が協議したと伝える。豊臣秀頼のために景勝も同意するのが当然であり、自身も同じ意向であると述べ、詳細は使者から申し伝えるとした書状案。
後編3-No.1127 豊臣氏奉行衆連署状
豊臣氏奉行衆が、内府による上杉景勝攻めは誓紙に背き、太閤の置目を破って豊臣秀頼を見捨てる行為であるため、諸将が協議して蜂起したと伝える。内府の違反事項は別紙に示したとし、太閤の恩賞を忘れない者は秀頼に忠節を尽くすよう求め、長束正家・増田長盛・前田玄以が連署する。
後編3-No.1128 島津豊久譜
島津豊久が五月十一日に佐土原を船出して上方へ赴き、伏見に在城したのち、関西諸侯の帰国と東西対立に遭遇した経過を記す。義弘は徳川家康との盟約を踏まえて伏見城入城を求めたが守将に拒まれ、石田方の勝算を危ぶみながらもやむなく一揆に随った。八月朔日に伏見城を先陣し、美濃洲俣・大柿を経て、石田・毛利・長宗我部…
後編3-No.1129 樺山忠助譜
樺山忠助譜として、徳川家康の会津出兵から石田三成の挙兵、関ヶ原合戦における小早川秀秋の寝返りと西軍敗走、島津義弘の堺からの海路退却、島津豊久の戦死を叙述する。さらに、伊東家臣稲津掃部助が旧領回復を図ったため佐土原へ急行し、新山口城への放火や広原付近の戦闘で敵首八級を得て退け、冬には和平に至った経過を…
後編3-No.1130 豊臣氏奉行衆連署状
豊臣氏奉行衆が薩州侍従殿人々御中へ宛てた連署状。本文はNo.1237と同文であるとして省略され、長束正家・増田長盛・前田玄以の署名と宛所のみを掲げる。
後編3-No.1131 島津義久(龍伯)書状案
島津義久(龍伯)が、六月二十五日付書状を七月二十一日に受け取り、上京命令を承知したものの、正式な早打ちの指示がなく雑説かと考えて支度を待っていると述べる。源三郎の弟二人や母・小傳次らが主人も承知しないまま下国したことを案じ、親子のうち一人は召し留めるべきであり、詳しくは上洛時に述べると伝える書状案。
後編3-No.1132 島津義弘(惟新)覚書案
島津義弘(惟新)が、伏見城本丸・西丸の間の在番、豊臣秀頼のための相談、安国寺恵瓊の留置、伏見・大坂の警固、増田長盛からの書状を小堀へ遣わすこと、同名中務太夫(島津豊久)の召置き、奉行衆一人の伏見在番などを箇条書きにした覚書案。七月十二日夜半に旅庵を大坂へ下して渡した条書の案文と記す。
後編3-No.1133 島津義弘(惟新)覚書案注記
七月十二日夜半、島津義弘(惟新)が旅庵を大坂へ遣わした際に渡した条書の案文であることを記す。
後編3-No.1134 島津義弘(惟新)書状案
島津義弘(惟新)が、見舞いへの礼を述べ、雑説を受けて奉行衆へ二度申し入れたことや、町方の火の用心を指示されたことを記す。徳川家康から当地の在番を命じられたため配下を付けるよう申し上げたが、返事のないまま家康が東国へ下向し、周辺の陣立てや大坂への移動で自分一人が残ることを案じる一方、豊臣秀頼への奉公に…
後編3-No.1135 島津義弘(惟新)書状案
島津義弘(惟新)の書状案。本文はNo.1238と同文であるとして省略されている。
後編3-No.1136 島津義弘(惟新)書状案
島津義弘(惟新)の書状案。本文はNo.1231と同文であるとして省略されている。
後編3-No.1137 島津義弘(惟新)書状案
島津義弘(惟新)の書状案。本文はNo.1236と同文であるとして省略され、案文であるため御判がないとの注記がある。
後編3-No.1138 豊臣氏奉行衆連署状
豊臣氏奉行衆が薩州侍従殿人々御中へ宛てた連署状。本文はNo.1237と同文であるとして省略されている。同じくNo.1237同文のNo.1130により、長束正家・増田長盛・前田玄以の連署と宛所を確認できる。
後編3-No.1139 有馬純房書状
有馬純房が宿許へ、伏見城に徳川家康の内衆が籠城し、諸軍勢が昼夜攻めていること、島津義弘(惟新)以下が軍労していることを報じる。自身は大坂に召し置かれていたが人数の一部を伏見へ寄せ、城際まで進んで鉄砲傷の者を出したものの自分は無事であり、奉公に励む覚悟を述べる。あわせて千代丸兄弟の手習いなど家中のこと…
後編3-No.1140 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が少将殿へ、七月二日付書状を同月二十日に伏見で受け取ったと伝える。たびたび人数を上らせるよう申し下しているが実現せず、上方が乱劇・大破となるなか手前が無人で意のままにならない窮状を訴え、詳しい様子は使僧に含めたとする書状。
後編3-No.1141 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が少将殿へ、上方の急変はたびたび使者で知らせたが、関東へ下った味方の様子が分からず吉凶の見通しが立たないと報じる。石田治部少輔が伏見に到着し、その書状を同封したこと、人数を早急に差し上せるよう重ねて求める。追而書では、上方の人数不足、秀頼の無事、石田治部少輔の大垣下向と秀頼への目見得…
後編3-No.1142 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が、本田右衛門尉・伊集院左衛門尉へ、徳川家康が豊臣秀吉の置目に背いて上杉景勝征討のため東国へ出馬し、秀頼のために好ましくないことが多いため諸将が一同に武装したと説明する。伏見城攻防のさなか人数不足で忠節を尽くせないと嘆き、身分を問わず心ある者を急ぎ上洛させること、両名は在国して動員を…
後編3-No.1143 樺山紹剣自記
樺山紹剣が、徳川家康の東国下向中に石田三成が謀叛の張本となり、伏見城を攻め落として美濃へ退いたこと、福島正則が石田方の企てを家康へ知らせ、関ヶ原で防戦して石田方が敗れたことを記す。島津勢は残兵をまとめて追撃を退け、伊勢・伊賀・大和・河内・和泉を通り、船で瀬戸内を経て日向細島へ帰着したという。
後編3-No.1144 神戸久五郎咄覚
神戸久五郎の聞書として、徳川家康が大坂から江戸へ下向する際に島津義弘(惟新)へ伏見城在番を頼んだが、鳥居・内藤・落合らが本丸を引き渡さなかった経緯を記す。石田方の攻城時には松丸口の仕寄を久来院又七・久留休斎・松岡勝兵衛らが担当し、敵近くまで築いた仕寄の働きにより、勝兵衛が義弘から賞賛と饗応を受け、一…
後編3-No.1145 殉国名薮
慶長五年八月朔日の伏見城攻撃で、有馬藤七兵衛純房が戦死し、その従者・小者やともに討死した者を列挙する記事。善七・善六・白坂助六篤次・井尻甚六・福永助十郎・四本人兵衛忠次・東郷源四郎重信・和田仲蔵義音・松元市右衛門・小川平左衛門・牧喜助らの名と一部の戦死事情を記す。
後編3-No.1146 神戸久五郎咄覚
神戸久五郎が、八月朔日の伏見落城時、松丸口で父松岡勝兵衛が五代舎人と先頭に立ち、矢狭間を開いて槍で戦ったことを記す。勝兵衛は草摺を鉄砲で撃ち抜かれて瀕死の深手を負い、財部傳内は門内で敵と組み討死した。勝兵衛は島津義弘(惟新)の毎日の見舞いと薬により助かり、大柿への供を望んだが歩けず、のち大坂で米六十…
後編3-No.1147 大重平六覚書
大重平六が、石田三成の挙兵に際し島津義弘(惟新)が徳川家康との特別な関係を理由に同心を拒んだこと、伏見城への籠城を申し入れたものの城方に拒まれたことを記す。井尻弥五助を江戸へ遣わしたが、家康の返書を携えた帰途に近江水口で襲われ、返書は判のみを残したという。
後編3-No.1148 大重平六覚書
大重平六の覚書。七月十九日に伏見城攻撃が始まり、八月朔日に落城したのち島津勢が美濃へ向かい、大垣近くの奥窪・六之渡付近に陣した経過を記す。岐阜城陥落と石田勢の敗戦を受け、洲俣の人数をまとめ、新納弥太右衛門・川上久右衛門らが石田治部少輔の馬口を取り、島津豊久らと大垣城へ籠ったこと、家康が赤坂に陣し義弘…
後編3-No.1149 島津義弘譜
島津義弘(惟新)譜として、徳川家康の上杉景勝征討中に石田三成が残留大老を謀って関東に対抗し、義弘へ出兵を催促した経緯を記す。義弘は七月二日から十七日まで繰り返し拒み、伏見城への入城と守備を願ったが鳥居・内藤らに拒絶された。朝鮮出兵や伊集院忠真の反乱で兵が二百余人に減り、忠恒や義弘の妻を含む一族が大坂…
後編3-No.1150 毛利輝元・宇喜多秀家連署状
毛利輝元・宇喜多秀家が島津忠恒(家久・少将)へ、天下の情勢については古暦から推察すべきであるとし、国中の人数を残らず召し連れて急ぎ上洛するよう求める。玉薬・兵粮は公儀から支給するので、人数のある限り馳走することが肝要であり、詳しくは対面時に述べるとする連署状。
後編3-No.1151 島津義久(龍伯)書状
島津義久(龍伯)が吉田美作守へ、奥方に奉公する者たちへこの時節は力を尽くすよう申し聞かせてほしいと頼む。使者を上らせたところ京都が騒乱になったと聞いたため、島津義久(龍伯)の息女の傍に確かに付き添うよう求め、存松が病気で用に立てないなか、時節柄とくに心を添えるべきだと伝える書状。
後編3-No.1152 近衛信尹書状
近衛信尹が島津義久(龍伯)へ、先日の美作を介した音信への返事を送り、すでに届いたであろうと述べる。今回の伏見の仕合は誠に不思議千万で言語に尽くせず、詳しい様子は島津義弘(惟新)から注進があるはずなので書き尽くさず、特段の用事はないが使者の便に一筆したと伝える書状。
後編3-No.1153 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が少将殿へ、上方の騒乱が際限なく続き、手勢が乏しく言語に尽くせない状況であるため、少しも油断せず人数を上らせるよう求める。三月以来たびたび申し下しているのに実現していないと指摘し、詳しい様子は市成掃部兵衛が条書で伝えるとする書状。
後編3-No.1154 毛利輝元書状
毛利輝元が、七月十九日付書状への返書として、伏見では島津兵庫頭らの働きで城方を討ち果たし、伊勢方面へ人数を出して各所を処置していると報じる。徳川家康の上洛を見込み一戦を覚悟する一方、佐竹・最上・会津が一味したとの情報から上洛が不定とも聞くとし、当地は堅固なので安心するよう述べ、御方様の早い上国を待つ…
後編3-No.1155 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が少将殿へ、小傳次兄弟・母や幸侃妻子の下国について、自分は当初暇を与えておらず、徳川家康側の強い勧めを受けて帰した経緯を詳述する。三郎五郎・千次の下向は承知していなかったとも述べる。自身は佐保山から美濃垂井方面へ陣替えするが兵が少なく、春松が病むため、島津義久(龍伯)の使者吉田美作守…
後編3-No.1156 新納旅庵事書
新納旅庵が、上方乱入のさなか自分がなお存命であることを知らせ、三右衛門・宗左衛門・助右衛門を急ぎ上洛させることなどを箇条書きで命じる。自分が死んでも娘一人が残るため借物の請求への対応と収納を怠らないこと、武庫様の御願いに関わること、五郎右衛門の判断で後事を処置することを依頼する事書。
後編3-No.1157 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が少将殿へ、徳川家康から預かった鷹を返し、帖佐衆を他所の人数に遅れず急ぎ上洛させるよう伊勢平左衛門・本田六右衛門に督促させることを求める。七月二十九日付書状を垂井で受け、龍伯の上洛は今は不要とし、従来の動員要請に明確な返事がなく一人も差し上せられないことを厳しく問いただす。秀頼と家の…
後編3-No.1158 島津義久(龍伯)書状
島津義久(龍伯)が、久しく音信が途絶えたことを詫び、上方の思いがけない騒乱に際して祈念のため小吉味十座分を差し上げると伝える。当家安全のため神前で懇ろに祈祷するよう依頼する書状。
後編3-No.1159 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が本田六右衛門尉へ、国境の出水には在国衆を在番させ、家中の統制を保つよう命じる。他国では長宗我部勢が二千の軍役に対して五千、立花勢が千三百に対して四千を率いて参陣したのに、薩摩勢は千人足らずで面目を失うと厳しく指摘する。山水・帖佐の役人から人数が到着しないことを不審とし、秀頼への奉公…
後編3-No.1160 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が少将殿へ、判紙二枚で書状を調え奉行二人へ進めたが、石田治部少輔には判紙が届かず認められなかったと報じる。今後人数を出すか否かを明確に回答すること、長宗我部勢の軍役について確認すること、黒田氏上着時の申し入れを承知したことを伝える。さらに徳川家康から少将へ刀を給わるとの知らせを祝し、…
後編3-No.1161 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が吉田美作守へ、島津忠恒(又八郎・家久)の書状により奥方側の置目を吉田へ任せるとの意向を承知し、念入りに処理するよう求める。存松の下向について増田長盛へ出した書状の写しを渡し、口頭でも説明するよう依頼する。美濃垂井の陣は敵と五、六里の近さで戦闘が迫るのに手勢が乏しく、長宗我部勢が五千…
後編3-No.1162 福崎重親書状
福崎重親が、八月十四日に細島を出船し、同月二十一日に大坂へ着いたことを知らせる。島津義弘(惟新)は美濃の城を攻めるため大坂から奥へ進み、自分たちも二十四日に後を追う予定とする。京都・伏見・大坂の無事、先着・後船の薩摩衆や大坂残留者を報告し、伏見城が八月一日に陥落して福永弓左衛門・井尻甚六が戦死し、抜…
後編3-No.1163 島津忠長外三名連署新知目録
島津忠長・平田増宗・鎌田政近・比志島国貞が連署し、財部神社に関わる玉泉寺へ、薩州川辺の門前屋敷・田畠など計二段二畝、二石二斗を新知として宛行う目録。地目・面積・石高を列記し、慶長五年八月二十四日付で交付する。
後編3-No.1164 島津宗恕以久起請文
島津宗恕以久が図書頭殿へ提出した起請文。忠恒に対して家の安全を守り、世上が乱れても他に与せず忠節を励むこと、庄内の戦いで別心を抱かず伊集院源次郎忠真と通じないこと、親子であっても忠恒に異心を持つ者とは離れること、不忠の情報を聞けば披露すること、疑いを受けた際は糺明に従うことを誓い、梵天・帝釈以下多数…
後編3-No.1165 長井利貢書状
長井利貢が伊地知勝左衛門尉らへ、大坂では諸大名屋敷の門番が厳しく、人の出入りや帰国用の船・帆道具にも支障があると報じる。七月晦日夜から八月朔日にかけて松之丸や石田屋敷へ内応者が入り、本丸が落ちたこと、伏見城を守った鳥居・内藤・松平の三名、石田方の動き、伊勢方面の城と大坂城内の騒ぎなどを伝える書状。
後編3-No.1166 島津忠長外二名連署加増目録
島津忠長・比志島国貞・鎌田政近が連署し、薩州鹿児島郡武村の浮免五石一升をはじめとする加増地を梅北与左衛門尉へ宛行う目録。庄内で自力百日在陣した功による加増で、田畠の反別と石高を列記する。
後編3-No.1167 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が少将殿へ、美濃大垣城にいること、八月二十三日に敵が岐阜城を落として近江への通路を遮断したが、薩摩勢の迂回により通信が回復したことを報じる。薩摩から二百八十七人が到着したことを知らせ、隣国からの誘いに軽率に応じず龍伯と相談すること、老中二人を差し上せることを求める。さらに大坂の奥方側…
後編3-No.1168 本田正親書状
本田正親が旅庵老へ、濃州出陣と軍労を慰問し、長宗我部・立花両氏の軍役人数と薩摩方の人手不足に触れる。出水は国境ゆえ在国衆を置き、他方からの申入れには吉凶とも遠慮して上意を守ること、自身も出水に在宅すること、城普請・御蔵入方を油断なく進めることを報告する。追而書では庄内百日番衆への配当を主人十石・内者…
後編3-No.1169 島津忠長・比志島国貞連署状
島津忠長と比志島国貞が連署し、竹内備前守は前年の庄内合戦で分限に応じない人数を率いて奉公し、今後も用に立つ者であるため知行を与えるべきだと述べる。当人をこちらへ召し移す意向であるが、現在その地で番を勤めているので現地で召し抱え、庄内での奉公の様子は本人から聞くよう求める。
後編3-No.1170 島津義弘譜
島津義弘(惟新)の関ヶ原合戦譜。九月十三日に大垣城外で石田三成・島津豊久らと軍議し、赤崎丹後の勇名を語ったことから、十四日の赤坂方面の戦闘、夜雨中の関ヶ原移陣、十五日の布陣と鉄砲戦を時系列で記す。西軍敗走後は義弘勢が敵中を突破し、豊久らの戦死を経て伊勢・近江方面へ退き、農家への潜伏、追撃回避、渡海、…
後編3-No.1171 島津豊久譜
島津豊久が慶長五年九月十五日、関ヶ原で軍勢敗北の際に戦死し、享年三十一、法号を天岑昌運としたことを記す。家臣では中村源助・上原貞右衛門・富山庄太らが戦死し、ほかにも死者がいたが死所は不明とする。
後編3-No.1172 新納久宣譜
関ヶ原合戦後、伊東氏家臣の稲津掃部が兵を起こして宮崎城を陥れ、さらに須木城を攻めようとしたため、新納久宣が窮地を救う兵を率いて現地へ赴き、防備を増強した結果、稲津勢を敗走させたことを記す。
後編3-No.1173 島津忠長譜
石田三成が徳川家康に背き関西諸国を動員した際、島津義弘(惟新)は家康との盟約により伏見城を守ろうとしたが、鳥居元忠・内藤家長らに入城を拒まれ、やむなく石田方として関ヶ原へ出陣したと記す。西軍敗北で一族・家臣に多数の戦死者を出しながら義弘は帰国し、国中が動揺するなか、島津忠長と鎌田政近が赦免を評議した…
後編3-No.1174 島津忠興一流系図
島津重時は初名を忠重、又六といい、天正元年に北郷時久の長女を母として生まれ、入来院弾正重豊の養子となって同家を継いだとする。慶長五年九月十五日に島津義弘(惟新)に従って関ヶ原に出陣し、敗戦後の帰国途中に敵と遭遇して同月二十三日に戦死、享年三十、法諱を雲庵定暁居士と記す。
後編3-No.1175 北郷忠能譜
石田三成の挙兵で東西が分かれた際、北郷忠能は在国したが、西郷孫一久永は七十五人を率いて伏見にあり、島津義弘(惟新)に従って伏見城攻撃に参加し、家臣和田仲蔵義吉が戦死したと記す。その後、北郷忠泰・久栄が数百兵を率いて上洛し、九月十五日の関ヶ原合戦では根占清右衛門尉・小杉頼長・知覧忠清・津曲兼親以下、多…
後編3-No.1176 川上忠兄譜
関ヶ原合戦で味方が敗れ退却しようとした際、大軍が襲来したため、川上忠兄の家臣柏田源藤が先頭の将へ鉄砲を放ち、弾を受けた大将が落馬したと記す。敵軍がその将を救う間隙に一同が危地を脱し、後に撃たれた将が井伊直政であったと聞いたとする。刊本は「柏田源藤」と表記し、『本藩人物誌』巻五では「柏木源藤」と記す。
後編3-No.1177 喜入忠続譜
慶長五年秋、喜入忠続が惟新君すなわち島津義弘(惟新)に従い、濃州関ヶ原へ出陣したことを簡潔に記す。
後編3-No.1178 北郷久永譜
北郷久永は十六歳で島津義弘(惟新)の陣にあり、関ヶ原敗戦後に義弘を追ったが及ばず、郎従が離散するなか四位主水だけが従ったと記す。敵中を三日進み、足の腫痛で歩けなくなると主水が背負って加藤嘉明の陣へ赴いた。久永は進退窮まり首を刎ねるよう求めたが嘉明に救われ、その後三年間囚われたのち暇を得て帰国した。
後編3-No.1179 新納久无譜
新納久无は八月中旬に薩州から伏見へ向かう途中、島津義弘(惟新)が石田三成方に加わったと聞き、九月に大垣で義弘へ謁した。十五日の関ヶ原合戦に従軍して多くの家臣を失い、敗走時には伊吹山から近江路を経て京都へ到着した。喜入忠政・川上助七らと平道正庵宗古の宅に潜伏し、近衛信尹の厚意と宝刀を受け、翌年三月に帰…
後編3-No.1180 伊勢貞成書状
伊勢貞成が大井七右衛門尉・酒匂式部少輔へ、奥様の下向に伴う御番衆として富隈の人数を留め置いたことを伝える。佐方の船手には水主を欠く船が多く世間体にも関わるため、両人に他の人数と同様の手配を頼み、有川助兵衛尉の手元にある二百石の米から百五十石分を渡すよう指示する。
後編3-No.1181 宰相様記事
宰相様は慶長五年九月まで大坂屋敷に滞在していたが、関ヶ原合戦に敗れた惟新公すなわち島津義弘(惟新)の帰国に際し、家人とともに大坂を出たと記す。西宮沖で義弘と同じ船へ乗り移り、九月二十九日に日州細島へ着き、そこから陸路で帰国した。
後編3-No.1182 徳川家康書状
徳川家康が垣見和泉守・熊谷内蔵丞へ、薩摩を往来する者については島津殿の申出どおり、異議なく通行・護送させるよう命じる。
後編3-No.1183 島津忠恒(家久)譜
慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦で西軍が敗れたが、島津義弘(惟新)は死を免れて帰路についた。同月二十四日、竹内織部佑が書状を携えて島津忠恒(家久)のもとへ赴き、義弘の無事を伝えたため、忠恒が大いに喜んだ経緯を記す。
後編3-No.1184 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が少将殿へ、不慮の出来事により奥様を供奉して下国することを知らせる。詳しい事情は竹内織部佑が申し伝えるため、細筆には及ばないとする。
後編3-No.1185 島津義弘(惟新)書状
原資料では「本文書ハ二八四号文書ト同文ニツキ省略ス」とのみ記され、本文は掲載されていない。
後編3-No.1186 島津義弘詠草
兵庫入道が夢想の告げを得た会で、「をもし」を頭に詠んだとして、「大かたの雪にはあらすつもるこそ/とよ年さるしるしなりけれ」と「るりのつほへふりの袋ならへてハ/老せぬ門そおもひやらるゝ」の二首を収める。
後編3-No.1187 島津義久譜
徳川家康が奥州の動きに対して東国へ出陣した隙に石田三成が挙兵し、島津義弘(惟新)は伏見城の警衛を申し出たものの入城を拒まれ、やむなく三成方へ加わったと記す。伏見城陥落後の関ヶ原合戦では西軍が敗れ、義弘は大坂にいた妻子らを伴って十月上旬に帖佐城へ帰還した。義久は家康との誓約に背いたことを厳しく責め、寺…
後編3-No.1188 島津義久譜
井伊兵部少輔直政が十月十日、少将忠恒へ使者を立てて書状を送り、龍伯すなわち島津義久(龍伯)がその書状を見たところ、怒りがさらに強まり、惟新すなわち島津義弘(惟新)と会おうとしなかったと記す。
後編3-No.1189 近衛信尹書状
近衛信尹が松井佐渡へ、逆徒の首謀者らが捕縛される一方、島津兵が不意に反逆方へ加わったと述べる。ただし龍伯と島津忠恒(又八郎・家久)には別心がないとの風聞を江州草津で内府へ伝え、内府もその可能性を認める様子であったため、島津義弘(兵庫・惟新)の帰着後に赦免を相談できるよう、山伏を急いで下向させる手配を…
後編3-No.1190 立花親成宗茂書状
立花親成宗茂が薩少将側へ、惟新に供奉して途中まで下ったことを伝える。惟新やその家中と相談し、国元から神文を差し上げる方針を示したうえで、事態を決する時であるから十分に分別し、善悪いずれの結果でも下知に従う旨を述べる。
後編3-No.1191 文殊院牧庵書状
文殊院牧庵が松井佐渡へ、島津義弘(兵庫・惟新)が謀叛人に与したものの、龍伯・島津忠恒(又八郎・家久)には別心がないとして内府へ取り成しが行われ、近衛信尹も江州草津で両人のことを申し上げたと伝える。近衛からも早急に使者を薩州へ下して異心のない旨を申し述べるよう命じられたため、山伏を急ぎ薩州へ到着させる…
後編3-No.1192 山口直友・寺沢正成連署状
山口直友・寺沢正成が龍伯・少将側へ、惟新の逆意は是非もない次第であるとし、龍伯父子が同意しているのか、それとも別の存意であるのかを詳しく回答するよう求める。その内容を内府へ申し上げるとする。
後編3-No.1193 山口直友・寺沢正成連署状
原資料ではNo.1192の山口直友・寺沢正成連署状と同文であるため、本文を省略すると記されている。
後編3-No.1194 島津義久(龍伯)詠草
島津義久(龍伯)が、長年仕えた女性妙諦の死を悲しみ、「妙法蓮華経」の五字を句頭に置いて霊前へ手向ける七首を詠む。花の散る梢、古寺の鐘、蓮葉の露、無常の草原、夕暮れ、柴戸の灯、海から昇る月などを用いて、故人への哀悼と世の無常を表す。
後編3-No.1195 島津義弘(惟新)感状
島津義弘(惟新)が、数年の辛労に加え、今回大坂で残番の人数に加わった働きを神妙と賞する。今後も東表で奉公する形を整え、一層忠貞を尽くすよう求め、まず知行百石を与える。
後編3-No.1196 島津義弘譜
十月三日、島津義弘(惟新)が大久保村を発して富隈へ到着し、直ちに登城して法印龍伯に謁したと記す。長年の別離を経て互いの無事を喜び、龍伯から懇ろな言葉と暇を受けたのち、船で帖佐城へ帰った。
後編3-No.1197 島津義弘(惟新)感状
原資料ではNo.1195の島津義弘(惟新)感状と同文であるため、本文を省略すると記されている。
後編3-No.1198 徳川家康書状
徳川家康が伊東民部太輔へ、その無分別な対応を聞き届けたとし、病気に関しては九州の在所へ申し遣わすと伝える。相良・秋月・高橋と相談し、薩摩への働きかけを命じ、詳細は井伊兵部少輔直政から伝えるとする。
後編3-No.1199 某書状
船着の知らせを受けて安堵したことを述べ、弥六右衛門が下ったかを尋ねる。今回の神変は自分一人の働きではなく、先に死んだ者たちの心によるものだとして、一同が心を合わせるよう求める。左衛門尉らの同行にも触れるが、仮名書きのため一部の語句は判読困難である。