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後編3の目録

旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。

全1,990件中 501~600件・6 / 20ページ

  1. 後編3-No.501 御譜雑抄

    『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.490の記事の一部と同文であるため省略されており、島津忠恒(家久)の接近射撃・敵中突入・追撃を中心とする新寨決戦記事を参照する構成となっている。

  2. 後編3-No.502 御譜雑抄(泗川表討捕首注文)

    『御譜雑抄』に収められた慶長三年十月一日付の泗川表討捕首注文。本冊では本文がNo.489の文書と同文であるため省略されており、部隊別の討捕首数と合計三万八千七百十七を記す同注文を参照する。

  3. 後編3-No.503 泗川表討捕首注文

    慶長三年十月一日の泗川表における討捕首数を部隊別に記した注文の異本。鹿児島・帖佐・富隈の各方衆と、伊集院源次郎・北郷作左衛門の手勢による首数を列挙し、合計を三万八百十七とする。首数が他本より少ないものの、参考のため収載したと注記する。

  4. 後編3-No.504 北郷三久譜

    『北郷三久譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新寨攻防で北郷三久が危地を脱した経過を記す記事。三久は明兵と組み合って両者の馬の間に落ち、死にかけたところへ島津忠恒が駆けつけ、相手の明兵を斬って救った。その後、三久は忠恒とともに明兵を追撃して多くを討ち、名誉を得たとする。

  5. 後編3-No.505 泗川表討捕首注文

    慶長三年十月一日付の泗川表討捕首注文。本冊では本文がNo.489の文書と同文であるため省略されており、鹿島・帖佐・富隈の各方衆などによる討捕首数と合計三万八千七百十七を記す同注文を参照する。

  6. 後編3-No.506 樺山忠征譜

    『樺山忠征譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新城攻防での樺山忠征の騎馬戦を記す記事。明軍が敗れて原野に数万の伏兵を残し、二百五六十騎が敗軍の殿を務めると、忠征は馬を走らせて退路を遮り、敵騎を深谷へ追い落として一人も逃さなかったとする。その働きを卓越した御馬術の例として称える。

  7. 後編3-No.507 島津義久願文

    島津義久が慶長三年十月吉日に伊勢両大神宮と熊野三所大権現へ捧げた願文。高麗の陣中で重大な局面を迎えたため、両社の加護を頼み、代参をそれぞれ二人立てることを誓う。敵の退散、陣中の平安、早速の帰国がかなったことを大慶として、願力への報謝を述べる。

  8. 後編3-No.508 島津竜伯願書

    島津義久(竜伯)が慶長三年十月十三日に記した願書。高麗在陣中に異変がなく、島津兵庫頭義弘とその子又八郎忠恒が無事に帰朝したならば、御本地供一千座を勤修すると誓う。父子の帰還を祈る立願として、義久が花押を据える。

  9. 後編3-No.509 竹内実吉書状

    竹内実吉が(慶長三年)十月六日付で池田六左衛門尉らへ出した書状。敵首三万人を揃え、ほかに切り捨てた者は数知れないと戦果を報じ、治介が七人、島津義弘(武庫)が五人を討ったことを伝える。出陣時の厚意に謝し、源五や伊福小内記・町田仲左衛門らにもこの内容を知らせるよう求める。

  10. 後編3-No.510 竹内実吉書状

    竹内実吉が十月二日付で池田六左衛門尉らへ出した書状。本冊では本文がNo.509の文書と同文であるため省略されており、敵首三万人や治介・島津義弘の討取を報じる同書状を参照する。No.509とは日付を異にして掲げられている。

  11. 後編3-No.511 旧記抄

    『旧記抄』が、慶長三年十月朔日の新寨攻防と狐の霊験を記す記事。明兵二十万が寄せると、義弘は城壁下へ近づくまで発砲を禁じた。白狐一疋が東門から敵中へ入り、続いて赤狐二疋も大軍へ走り込んだため、義弘・忠恒父子は氏神稲荷の加護と信じた。城門を開いて大勝し、戦場で死んだ赤狐を新寨に埋めて弔祭したとする。

  12. 後編3-No.512 竹内実吉書状

    竹内実吉が十月六日付で池田六左衛門尉らへ出した書状。本冊では本文がNo.509の文書と同文であるため省略されており、敵首三万人と治介・島津義弘の討取を報告する同書状を参照する。

  13. 後編3-No.513 佐多民部左衛門覚書

    『佐多民部左衛門覚書』が、順天・泗川方面の瀬戸口で行われた水戦と帰陣を記す記録。兵船を揃えた翌朝に明の兵船が攻めかかり、双方で多数の船を焼失した。樺山權左衛門らが島へ追い上げられたものの、潮時を得て釜山浦へ退き、日本帰陣のため諸手が合流した。島津の船団は全軍の殿を務めたとする。

  14. 後編3-No.514 佐多民部左衛門覚書

    『佐多民部左衛門覚書』が、慶長三年九月廿七日に明兵・朝鮮兵が晋州方面から泗川へ攻め寄せた際の戦闘を記す記録。島津勢が防戦する中で、相良玄番が戦死したことを簡潔に記す。

  15. 後編3-No.515 佐多民部左衛門覚書

    『佐多民部左衛門覚書』が、明軍による日本側諸陣への攻撃と島津勢の救援を記す記録。明軍は加藤清正の陣を攻めた後、小西行長の陣を追い払い、小島まで追い詰めた。窮地に陥った小西勢を島津勢が助けたとする。

  16. 後編3-No.516 佐多民部左衛門覚書

    『佐多民部左衛門覚書』が、十月の泗川城奪回と追撃を記す記録。明軍が鉄炮と石火矢を備えて城へ攻めかかると、義弘・忠恒父子の軍勢が城から打って出て敵を崩し、晋州川まで追い詰め、多数を討ちまたは溺死させた。さらに敵の兵糧蔵を焼き、帰城後には討ち取った者の塚を築いて松を植えたとする。

  17. 後編3-No.517 佐多民部左衛門覚書

    『佐多民部左衛門覚書』が、戦後の講和交渉を記す記録。明軍の大将孟老爺・盤老爺が龍淵という者を使者としてたびたび派遣し、島津側へ懇ろに働きかけたため、和議の動きが生じたとする。

  18. 後編3-No.518 島津忠恒書状

    島津忠恒が十月十日付で本田六右衛門・鎌田出雲・比志島紀伊・山田越前・新納武蔵・平田太郎左衛門・町田出羽入道へ出した書状。本冊では本文がNo.537の文書と同文であるため省略されている。別本に七名の宛名があり、廿二日付の書状とも同案であると注記する。

  19. 後編3-No.519 島津義弘譜

    『島津義弘譜』が、慶長三年十月十三日に新寨で行われた明側との講和交渉を記す記事。明軍中から龍淵・友理と称する使者が平和の要事を談じるため来訪した折、寺沢正成と小西行長も義弘・忠恒父子を訪ねた。義弘は両人の到着を渡河の舟、暗夜の灯にたとえ、龍淵らとの対談を任せて、おおむね和平の約定を整えたとする。

  20. 後編3-No.520 島津家久譜

    『島津家久譜』が、慶長三年十月十三日の新寨における明側との講和交渉を記す記事。明軍の使者龍淵・友理が訪れた時、寺沢正成と小西行長が遠路から義弘・忠恒父子のもとへ到着した。父子は二人の来訪を渡河の舟、暗中の灯を得たようだと喜び、龍淵らとの対談を行わせて和平の契約をおおむね成立させたとする。

  21. 後編3-No.521 島津義弘書状

    島津義弘が(慶長三年)十月十四日付で石田治部少輔らへ出した書状。泗川で明軍を討ち大勝した後は敵が現れず、順天の番船や蔚山方面の敵も退いたこと、又八郎忠恒が数万騎を討った手柄を報告する。忠恒の帰国と自身の上洛、上洛時に率いる人数について指示を求め、明側使者龍淵と寺沢正成・小西行長による和平交渉の状況も…

  22. 後編3-No.522 島津義弘書状末尾(異本)

    『島津義久譜』所収の島津義弘書状末尾。独立番号の下に慶長三年十月十四日の日付、宛所「石田治部少輔様 人々御中」、島津義弘の署名・花押を掲げる。本文内容は直前のNo.521と同日に石田三成へ送った書状に対応する異本末尾資料として整理する。

  23. 後編3-No.523 初何連歌

    近衛殿で興行された「初何」の連歌。島津義久(龍伯)の「散うせぬもみちはつよく砌かな」を発句とし、里村紹巴、杉、廣橋大納言、昌叱、左兵衛佐、宗岩、玄仍、景敏、黒田如水、久正、兼雄らが付句を重ねる。紅葉・時雨・月・雪・雁・旅・春雨など四季と旅情の景物を連ねた長篇の連歌として記録する。

  24. 後編3-No.524 島津義久譜

    『島津義久譜』が、慶長三年十月十四日に東山龍山公のもとで行われた当座の連歌興行を記す記事。「春日大明神」の五字を各句の上に置く趣向で、龍伯、景敏、杉、如水、紹巴、昌叱、左兵衛佐、宗岩、玄仍、久正、兼雄、廣橋大納言ら参加者と句順を掲げる。続くNo.525の詠草に先立つ興行説明に当たる。

  25. 後編3-No.525 詠春日大明神連歌

    春日大明神を題として東山龍山公のもとで詠まれた連歌。「春日山みねの朝日もやはらくる/光につるゝうくひすのこゑ」から始まり、「春・日・大・明・神」の字を句頭に配しつつ、神域、朝日、鶯、松、鹿、月、雪などの景物を連ねる。龍山・龍伯・龍玄・久正・如水・紹巴・信尹らが句を付け、神と君の繁栄を寿ぐ内容で結ぶ。

  26. 後編3-No.526 加藤茂勝嘉明書状

    加藤嘉明(左馬助茂勝)が(慶長三年)十月十五日付で島津又八郎忠恒らへ出した書状。明軍が順天・蔚山の両所を取り詰めているとの報に不安を示し、渡海した徳長・宮長次と十分に談合して方針を定め、落ち度なく帰朝するよう求める。現地に変化があれば早急に注進し、その報告に応じて日本側からも対応すると伝える。

  27. 後編3-No.527 増田長盛書状

    増田長盛が(慶長三年)十月十六日付で島津忠恒(薩摩侍従)らへ出した書状。蔚山・順天への明軍進出に備え、日本各浦の警固船・大安宅・小安宅を準備し、中国・四国・淡路の舟手や九鬼・堀内・脇坂らを渡海させる計画を示す。石田三成・浅野長政が博多へ下向したこと、注進に応じて援軍を送ることを伝え、竹島・唐島付近へ…

  28. 後編3-No.528 島津義弘譜

    『島津義弘譜』が、明側との和平約定後に行われた人質の受け渡しを記す記事。使者龍淵・友理は先の約束に違わず、茅国器の弟茅滑濱を連れて来て人質として義弘へ渡した。義弘はこれを受け取り、寺沢正成に預けたとする。

  29. 後編3-No.529 昭高院如雪書状

    昭高院如雪が(慶長三年)十月十六日付で出した書状。便りがなく音信を欠いたことを詫び、島津義弘(武庫)の病が快方へ向かったとの知らせを喜び、遠路から父を気遣う孝行を称える。大唐から数万騎の援軍が出たとの風聞を案じ、早々に退いて無事帰朝することを願い、大峯での祈念の巻数を贈る。

  30. 後編3-No.530 白尾幸孝書状

    白尾幸孝が(慶長三年)十月十六日付で島津又八郎忠恒へ出した書状。帰陣に備えて衣類・木綿布子を仕立てて送るよう頼み、江南勢との戦いで捕首四万八千、切捨八万余との報が届いたことを伝える。一方で自身の主従は戦功を挙げても銀子を取らなかったと述べ、足を痛めた藤介や女子一人の奉公、二人の従者と岩根老名の勤務に…

  31. 後編3-No.531 垣見一直書状

    垣見一直(和泉守一直)が(慶長三年)十月十八日付で島津又八郎忠恒らへ出した書状。八月以来、豊州に在国していたため朝鮮の消息を聞かず、音信が途絶えたことを詫びる。現地へ唐人が出たとの報を案じ、先に渡海した徳永寿昌・宮木豊盛の働きにも触れつつ、忠恒が無事に帰朝し、面会して詳しく話せる時を待つと伝える。石…

  32. 後編3-No.532 本田正親・比志島国貞連署状

    本田正親・比志島国貞が(慶長三年)十月十八日付で島津図書頭忠長へ出した連署状。九月廿八日付の書状を受け取り、和平交渉が破れて江南勢数万騎が襲来したとの知らせを案じたが、若殿忠恒が敵の大軍を切り崩したとの注進に接して、その類例のない勝利を祝う。近日中の帰朝を期待し、詳しい内容は有河仲右衛門尉に言い含め…

  33. 後編3-No.533 長崎六郎右衛門書状

    長崎六郎右衛門が慶長三年十月十八日付で安楽大炊助らへ出した書状。泗川城へ唐人二十万ほどが攻め寄せたが、島津勢が城から突撃して四方へ追い崩し、晋州まで広範囲に討ち取った前代未聞の勝利を詳報する。寺沢正成らの到着、唐人側からの和平書状と質人提出の予定にも触れ、兵士や小者が得た銀子などの戦利品、自身の主従…

  34. 後編3-No.534 懐旧連歌

    慶長三年十月十八日に詠まれた懐旧連歌。「もろく散色やなけ木の下紅葉/月影さむくのこる朝露」を掲げ、紅葉と朝露の景を通じて過ぎた時を懐かしむ。宗親・久正・豊信・忠増・友知・任次・長倍らの名を記す。

  35. 後編3-No.535 宗義智書状

    宗義智(羽柴対馬守吉智)が(慶長三年)十月廿日付で島津又八郎忠恒らへ出した書状。頻繁な使者による懇意に謝し、十七日夜に順天から「扱之唐人」が出たとの報を受け、西堂・下野も順天を退出したが別条はないと伝える。番船が出ないため遠見役を置いて警戒し、疑わしい動きがあれば直ちに注進すると述べ、詳報は使者に託…

  36. 後編3-No.536 島津忠恒書状

    島津忠恒が(慶長三年)十月二十二日付で出した書状の「雑抄」。本文はNo.537と同文のため省略され、追而書のみを収録する。納戸衆・宮仕衆に奉公を怠らせず、鎌田兵部らに配分・統制を命じ、気任せに振る舞う者は後日調べ、帰朝後に処置するとする。

  37. 後編3-No.537 島津忠恒書状

    島津忠恒が十月廿二日付で薩摩の重臣らへ出した書状。明の大軍が蔚山・順天・泗川の三道へ分かれ、泗川城を数十万騎で包囲したため、長期籠城を避けて出撃し数万を討ち取ったと詳報する。白狐・赤狐が戦場を走ったことを神仏の加護として記し、順天の敵船焼討ち、再開された和平交渉、帰朝の見込みを伝え、留守居衆に油断な…

  38. 後編3-No.538 島津竜伯書状

    島津義久(竜伯)が十月廿七日付で石田三成(治部少輔)へ出した書状。高麗の陣所へ唐人が攻めかかったとの風聞を受け、現地の様子を聞き合わせたが、援軍・見次について何の知らせもないことを憂慮する。支援を急ぐとともに、無事すなわち講和の実現へ向けて早急に才覚するよう求め、この一紙は火中するよう命じる。

  39. 後編3-No.539 島津義弘外三名連署覚書

    島津義弘・小西行長・立花宗茂・宗義智が(慶長三年)十月晦日付で作成した連署覚書。東目の軍勢撤収後に順天・南海・泗川・固城の四方面から唐島まで退く日程を協議し、順天・泗川双方の和平成立と人質受領を条件に、先手から順次引き揚げると定める。泗川・固城の船を順天へ回し、泗川船は南海まで、固城船は唐島瀬戸まで…

  40. 後編3-No.540 覚書

    慶長三年十一月から十二月までの年齢を記した覚書。島津義弘(維新公)を六十四歳、島津忠恒(家久公)を二十三歳とする。

  41. 後編3-No.541 福原長堯書状

    福原長堯(右馬助)が(慶長三年)十一月朔日付で島津又八郎忠恒らへ出した書状。見舞いとして小袖一重を贈り、明軍の襲来に対して父子が戦い数万騎を討ち取った勝利を祝う。敗戦していれば援軍として自身らも渡海する予定だったと明かし、日本国内は平穏であること、忠恒の帰朝を待って対面で詳しく話したいことを伝える。

  42. 後編3-No.542 浅野長政・石田三成連署状

    浅野長政・石田三成が(慶長三年)十一月二日付で朝鮮在陣の諸将へ出した連署状。徳永寿昌・宮木豊盛が名島へ着岸して現地の意向を伝えたことを受け、明軍が大敗した以上は諸城の城主がそろって帰朝するよう命じる。再攻撃で撤収できない場合は全城を翌三月まで保持して報告すれば援軍を送るとし、確実な講和や人質提出がな…

  43. 後編3-No.543 島津以久書状

    島津以久(右馬頭)が(慶長三年)十一月二日付で島津図書頭忠長へ出した書状。江南の軍勢数万騎が襲来したとの報に心配して加勢を命じたが、島津勢の大勝と忠長の手柄を聞いて祝う。自身は病気のため出仕できず、早く祝意を述べられないことを惜しみ、代わりに少人数を派遣して軽微ながら銀子二枚を贈る。

  44. 後編3-No.544 泗川表討捕首注文

    慶長三年十月朔日の泗川表における討捕首数を隊別に記した注文。鹿児島方一万百八、帖佐方九千五百二十、富隈方八千三百六十、伊集院源次郎手六千五百六十、北郷作左衛門手四千百四十六とし、合計欄には三万八千七百十七、ほかに切捨は数知れずと記す。なお、記載された内訳の算術合計は三万八千六百九十四となる。

  45. 後編3-No.545 豊臣氏五大老連署状

    毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・前田利家・徳川家康の五大老が(慶長三年)十一月三日付で島津義弘・忠恒へ出した連署状。泗川で明軍二十万騎と江南大将九人を相手に大勝し、晋州河際まで追撃した父子と家中の働きを比類ないと称賛する。蔚山・順天の敵も敗退する見込みとし、敵が撤退した場合は諸将で協議して各城から釜…

  46. 後編3-No.546 豊臣氏奉行衆連署状

    長束正家・増田長盛・前田玄以ら奉行衆が(慶長三年)十一月三日付で島津義弘・忠恒へ出した連署状。泗川で明軍約二十万騎を追い崩し、父子自身も敵を討ち取った戦功を詳しく称える。蔚山・順天の戦況を踏まえて、毛利秀元・浅野長政・石田三成、四国・豊後勢、九鬼・脇坂ら舟手や鉄砲衆の渡海準備を伝え、敵が退けば諸城を…

  47. 後編3-No.547 宮木豊盛・徳永寿昌連署状

    宮木豊盛・徳永寿昌が(慶長三年)十一月三日付で島津義弘・忠恒へ出した連署状。二日に名島へ着岸し、浅野長政・石田三成へ島津方の意向と両人が見聞した戦況を直接伝え、両奉行から書付を得たと報告する。島津父子の働きには褒賞があるとの見込みを示し、帰朝は間近と伝え、詳細は使者に言い含めたとする。

  48. 後編3-No.548 安弥左衛門尉書状

    安弥左衛門尉が(慶長三年)十一月三日付で伊勢弥九郎へ出した書状。初めて和泉と同陣した際に受けた懇意と言葉への感謝を述べ、各方面から出た唐人を時を移さず討ち取った働きは日本中に隠れのない比類ない手柄だと称える。帰朝の折には図書頭殿のもとへ参上して直接祝意を述べたいとする。

  49. 後編3-No.549 寺沢正成広高書状

    寺沢正成が(慶長三年)十一月四日付で羽兵様・羽左様・羽弥様・小摂様へ出した書状。前月晦日に南海の瀬戸で相談を受けた件について、内容を誰にも漏らさないようにするとの指示を了承したと返答する。

  50. 後編3-No.550 征韓録記

    『征韓録』の記事。十一月十日を、順天の諸将が先に釜山浦へ到着して撤収する期日とし、その間に物資を運送し、あらかじめ引き揚げ時の規定を定めたと記す。

  51. 後編3-No.551 島津義弘外三名連署覚書

    島津義弘・小西行長・立花宗茂・宗義智が(慶長三年)十月晦日付で作成した連署覚書。三番箱三巻にある正文と校合した文書だが、本文はNo.539と同文のため省略され、「前の十月晦日」に掲載済みであると注記する。

  52. 後編3-No.552 征韓偉略

    『征韓偉略』の記事。秀吉死後の撤兵で加藤清正らが先に帰途につく一方、郭国安から報を得た陳璘が和議を破り、鄧子龍・李舜臣らの明・朝鮮水軍を出して日本軍の退路を襲った経緯を記す。島津義弘は小西行長救援のため忠恒・立花宗茂・寺沢正成らと出船し、順天・露梁沖で敵船と交戦して鄧子龍・李舜臣を討ち、唐島へ退いた…

  53. 後編3-No.553 本田親智書状

    本田親智(新介)が(慶長三年)十一月五日付で泊津蓮慶坊へ出した書状。京都からの朱印によって国役を免除され、居屋敷なども扶助された以上、これと異なる扱いがあってはならないと通知する。

  54. 後編3-No.554 本田親智書状

    本田親智(新介)が(慶長三年)十一月五日付で泊津善四郎へ出した書状。京都からの朱印によって国役を免除され、居屋敷なども扶助された以上、これと異なる扱いがあってはならないと通知する。No.553と同内容で、宛先と正文の伝来先が異なる。

  55. 後編3-No.555 島津竜伯義久書状

    島津義久(竜伯)が(慶長三年)十一月五日付で山田有盛(弥九郎・茂六)へ出した書状。高麗から届いた報告を写し、泗川戦で大手から白狐一匹、水の手から赤狐二匹が敵へ向かい、赤狐一匹が戦場で死んだという前代未聞の出来事を稲荷神の霊験とする。勝利は神慮によるものとして、稲荷社で神楽を奏し、祈念所で本地供百座を…

  56. 後編3-No.556 島津竜伯書状

    島津竜伯義久が(慶長三年)十一月六日付で島津義弘・忠恒へ出した書状。泗川防戦の大勝と父子自身の働きを祝い、老中・奉行衆の感状を送る。戦場に白狐・赤狐が現れたことを稲荷神の霊験とし、鹿児島・富隈・京都の稲荷へ礼と祈念を行ったと伝え、上方の命令に従って早急に帰朝するよう促す。

  57. 後編3-No.557 近衛前久書状

    近衛前久が〔慶長三年〕十一月六日付で島津義弘・忠恒へ出した書状。明の数万騎を即時に切り崩して三万余を討ち取った戦功を比類ないと称え、竜伯の喜びとともに禁裏へ報告したところ叡感があったと伝える。日州で豊後勢六万余を破った旧功にも触れ、秀吉死後は在陣を続ける必要がないとして、勢いを保ったまま早々に帰朝す…

  58. 後編3-No.558 島津義弘譜

    『島津義弘譜』の記事。慶長三年十月、海陸から包囲された順天城との連絡を回復するため、島津義弘が立花宗茂・宗義智・寺沢正成と相談し、敵艦を退けようとした経緯を記す。十月卯日に現地の遠近を調べたが、敵は九日夜に退去し、残船だけが残ったため、これをすべて焼却したとする。

  59. 後編3-No.559 近衛信尹書状

    近衛信尹が(慶長三年)十一月八日付で島津又八郎忠恒へ出した書状。数十万騎を相手に大勝し、自ら先頭に立った働きは壮年の覚悟にふさわしく、日本の威光を高めたと祝う。一方で自身が敵中へ踏み込む行為はあまりに軽率だとも戒め、帰朝は遠くないとして、再会後に積年の事柄を話したいと伝える。

  60. 後編3-No.560 立花親成宗茂書状

    立花親成宗茂が(慶長三年)十一月十一日付で島津義弘・忠恒へ出した書状。順天から早々に引き取ったとの注進を受け取ったことを伝え、かねて相談した内容どおりに事が運んだことを確認する。その他の事情は使者を通じて申し入れるとしている。

  61. 後編3-No.561 堀田氏古書状

    堀田氏古が三月五日付で出した書状。長陣中の祈祷を日本へ依頼していたところ、祈祷の札と牛玉が届いたため進上すると伝える。今後も書状などで音信を続け、近日中に参上して見舞う意向を述べる。宛所は原資料で切り取られている。

  62. 後編3-No.562 徳川家康直書

    徳川家康が(慶長三年)十一月十一日付で出した直書。届けられた書状を披見して喜び、前日に竜伯が出向いて申し述べた内容を承知して満足したと伝える。詳しい返答は後便に譲る短い書状で、宛所の記載はない。

  63. 後編3-No.563 島津忠恒家久過所

    島津忠恒が(慶長三年)十一月十一日付で発給した過所。薩摩船六端帆一艘に、船頭四郎左衛門・中乗五人・船子五人の計十一人と馬五疋を乗せて帰朝させるため、船改御奉行に対し、異議なく通行を認めるよう命じる。

  64. 後編3-No.564 島津義弘譜

    『島津義弘譜』の記事。慶長三年、日本から渡海した上使の徳永法印式部卿・宮木長次郎が、在陣諸将へ十一月十五日を期限として一斉に帰帆するよう命じた経緯を記す。ところが順天城の小西行長らは明・朝鮮の大軍に海陸から包囲されて退去できず、和議を結び、人質を行長に渡させたことで、諸将とともに順天を離れて釜山浦へ…

  65. 後編3-No.565 某鷹餌覚書

    慶長三年十一月十四日付の鷹餌覚書。痩せた鷹に与えるため、人参・甘草・茯苓を等分に合わせ、搗栗の実と蝉の抜け殻を少量加えて三度煎じ、冷まして七日ほど餌にかける方法を記す。さらに三か所の骨の間へ灸を据える位置を示し、伝聞した処方を書き留めたものとする。

  66. 後編3-No.566 加藤清正書状

    加藤清正が(慶長三年)十一月十六日付で島津義弘・忠恒・立花宗茂へ出した書状。十一月十二日付の注進を受け、順天が通路を断たれ兵糧も乏しく、長く籠城できないとの報告を重大視する。日本の年寄衆・奉行衆から撤収命令が出ているものの、自城を翌十七日に引き払い、諸将に加わって順天救援へ向かう覚悟を示す。

  67. 後編3-No.567 秋月種長書状

    秋月種長が(慶長三年)十一月十七日付で島津忠恒へ出した書状。順天方面へ番船が出動したと聞いて案じ、現地の様子を確認するため使者を送ったと伝える。自身の在所には変事がなく、安心するよう告げ、対面の機会を期す。

  68. 後編3-No.568 島津家久譜

    『島津家久譜』の記事。慶長三年冬、撤兵を察知した明将陳璘らが大船団で海口を封鎖したため、島津義弘・忠恒父子が立花・高橋・寺沢勢とともに、順天の諸将を救うため十一月十七日に南海島岸へ進んだとする。翌十八日、鄧子龍・李統制らの水軍と銃砲・火器を交えて戦い、敵将を討ち、朝鮮船四艘・大明船二艘を斬捕した一方…

  69. 後編3-No.569 島津家久譜

    『島津家久譜』の記事。十一月十八日の海戦後、乗船を焼かれて南海島に取り残された騎歩約五百人の救出経緯を記す。伊勢貞昌らが島津義弘・忠恒父子へ急報し、樺山忠征・島津久高・吉田大蔵・竹内兵部らが、生死をともにする覚悟で釜山浦へ救船を求めた。寺沢正成の提案を受け、小西・松浦・大村各氏が船を出し、敵中に孤立…

  70. 後編3-No.570 北郷三久譜

    『北郷三久譜』の記事。慶長三年十一月、明・朝鮮水軍が日本軍の帰路を遮り、順天の小西・大村・五島・有馬・松浦の五家が撤退できなくなったため、島津義弘が立花・高橋・寺沢らと相談して救援に向かったとする。十一月十八日の南海海上で、矢と火壺を受けながら三度敵船へ攻めかかり、勝利した経過を簡潔に記す。

  71. 後編3-No.571 桂忠次譜

    『桂忠次譜』の記事。桂兵吉忠次が父忠防とともに朝鮮へ渡り、慶長三年の帰朝準備中、海路を遮る明の艨艟と戦って二十一歳で戦死したとする。法号を傑心良英とし、家臣の深川加賀・海老原市十郎も同時に戦死したことを記す。

  72. 後編3-No.572 新納旅庵長住譜

    『新納旅庵長住譜』の記事。慶長三年、浅野弾正少弼・石田治部少輔が筑前国博多へ下向して公領の勘定を行うことになり、新納旅庵が十一月十一日に帖佐を出発して博多へ赴いたとする。勘定を終えたのち、十二月に帰国した。

  73. 後編3-No.573 大田忠好譜

    『大田忠好譜』の記事。慶長三年冬、明の艨艟に水路を遮られた順天の五将を救うため、島津義弘が敵船へ挑戦した際、大田忠綱が義弘の船上で戦ったとする。忠綱は左額に矢傷を負ったが、義弘が自ら治療して回復し、その後は伏見で供奉した。

  74. 後編3-No.574 新納久宣譜

    『新納久宣譜』の記事。新納久宣が島津義弘に従って朝鮮へ渡り、三年間軍務に従事したことや、太守父子の出動時に遅れず随行した十七人の一人であったことを記す。帰朝時の海戦で南海島に約五百人が孤立した際、敵船を恐れて救援船が退くなか、久宣だけが先に島へ到着し、後続船を導いて全員の帰帆を実現した功績を称える。

  75. 後編3-No.575 島津豊久書状

    島津豊久が(慶長三年)十一月十八日付で伊勢弥九郎へ出した書状。蔚山・西生浦の勢が十七日に撤収して無事到着し、この日に出船したこと、竹島・昌原も前日に引き払ったと伝える。順天方面の番船が追い払われたとの風聞を喜び、自身の在所には異変がない一方、見舞いの使者を出せない事情を説明する。

  76. 後編3-No.576 島津豊久書状

    島津豊久が(慶長三年)十一月廿日付で伊勢弥九郎へ出した書状。順天方面の番船と交戦して味方の船も出たとの知らせを受け、家中の負傷者や現地の様子を案じる。加藤主計頭・黒田氏・鍋島氏が当地へ来たものの急迫した様子ではないと伝え、使者を送れないため、詳しい状況を返信で知らせるよう求める。

  77. 後編3-No.577 伊東祐兵書状

    伊東祐兵が(慶長三年)十一月廿日付で島津忠恒へ出した書状。順天方面で先手衆が番船と交戦したと聞き、戦況を案じて詳しい様子を尋ねる。自身の在所では前日から唐人が城近辺まで進出したが、実際の行動はなく心配無用とし、見舞いの使者を送ったことを伝える。

  78. 後編3-No.578 島津家久譜

    『島津家久譜』の記事。釜山浦の諸将が吉日を選んで一斉に帰朝する約束を結んだ後、島津義弘・忠恒父子は救出した将兵とともに十一月廿一日夜半に巨済を発し、昌原・安骨浦・加徳島を経て釜山へ向かったとする。到着すると諸将は約束を破ってすでに帰国しており、明・朝鮮の大船団を恐れず待っていた島津豊久だけが父子を迎…

  79. 後編3-No.579 大村重頼古戦書附

    『大村重頼古戦書附』の記録。慶長三年十一月、伏見で近衛家の取次により、島津義久(竜伯)と徳川家康が相互に礼を行った経緯を記す。竜伯が廿日に家康を訪れ、幸侃が伽羅一斤を進物として持参したこと、その後に家康も竜伯の屋形を訪れて返礼し、弓を贈ったと伝える。

  80. 後編3-No.580 旧伝集

    『旧伝集』の記事。朝鮮での番船との戦いで木脇休作が負傷して海へ落ち、浮かんでいたところ、島津義弘の命を受けた小鷹丸船頭東太郎左衛門が帆柱を下ろして引き上げたとする。休作は当時二十二歳の大男で黒具足を着けており、義弘の膝前で自ら療養を受けて傷が平癒し、その後に追腹したと伝える。

  81. 後編3-No.581-1 高柳行文申状

    高柳行文が寛文十一年正月十一日付で大川平久兵衛へ提出した申状。大川平源太左衛門隆重が幼少時に伊東方へ取られ、のち島津方へ戻った経歴を述べ、泗川戦では少数で明軍の陣を破ったとする。帰朝時の唐島の戦いでは、退潮と水手の損耗で危機に陥った義弘の船を救うため、隆重ら十三人が敵船へ切り込み、全員戦死して主船の…

  82. 後編3-No.581-2 大川平九兵衛書状

    大川平久兵衛が八月付で松下為右衛門へ出した書状。図書老・出雲守父子の命で高麗の軍記が編纂されていることを知り、高柳好左衛門行文に大川平源太左衛門の戦死記事を書いてもらった経緯を説明する。先の書状へ写して送るよう命じられたため、老眼で見苦しいながらも書写して送付すると述べる。

  83. 後編3-No.582 島津竜伯外二名連署条書

    島津義久・義弘・忠恒が(慶長三年)十一月廿三日付で連署した条書。夫役は原則として高千石につき一人に制限し、代官の過剰徴発は訴え出るよう定める。年貢米の運搬距離、遠距離輸送時の飯米、水夫の切米・飯米、三人の蔵入分の負担方法を示し、麦年貢を永代徴収しないこと、植木・茶園は屋敷主や地下の扱いとすることなど…

  84. 後編3-No.583 石田三成書状

    石田三成が鹿児島・富隈・帖佐の代官へ、島津三殿の蔵入年々算用が進まないのは代官の油断によるとして、三方役人・奉行の指示に従って出頭し、怠慢な代官名を報告するよう命じる。後日、義久・兵庫頭との談合で処分するとし、当年貢も定めた免合と期限どおり皆済するよう厳命する。

  85. 後編3-No.584 石田三成覚書抄

    義久・武庫・又八郎の三人蔵入について、前年以前および当年の過納分を別蔵へ入れ、入江・橋本が改めて受け取り、封印して番衆を置き、払い出しは石田三成側の指示によることとする。また当年納入分は、三人の台所飯米を除き、ほかの用途へ一粒も支出しないよう定める。

  86. 後編3-No.585 石田三成覚書

    石田三成が島津三殿の蔵入支配を総合的に定めた覚書。台所飯米等を除く米の払い出しを止め、旧来の納入実績が低い代官は所領物成を押さえて交代対象とし、納入実績に応じ口米・勘米を与える。人身売買の禁止と売られた者の返還、奉行・代官の職務と算用の徹底、京都借銀の米による返済と借状回収、上様蔵入・浮知・三殿物成…

  87. 後編3-No.586 八十島助左衛門書状

    八十島助左衛門佐が旅庵の来訪に礼を述べ、算用・免合について石田三成へ詳しく申し入れ、条書を送ったので関係者へ伝えるよう依頼する。朝鮮では帰国船出発予定の十・十一日ごろ、小西行長の居城が敵船約五百艘に包囲されたため、島津義弘が播州飾磨の古城を引き払い、十七・十八日に後詰へ向かい、諸将も救援したと報じる…

  88. 後編3-No.587 八十島助左衛門書状

    八十島助左衛門佐が、石田三成は来月十日ごろまで博多に逗留する予定なので、旅庵の帰着後二日目から留守中は四日ごとに博多へ飛脚を出し、伏見へ上った後も四日ごとの当番で伏見まで送るよう命じたと伝える。当番割の書付を提出し、最初の便には橋本・入江両人の書状を携行させるよう指示する。

  89. 後編3-No.588 石田三成書状

    石田三成が、島津三殿の家臣および高麗・京都の相談役へ例年どおり切米を渡すよう命じる。加治木蔵入の過半が荒地となり年貢が減った原因を、百姓の逃散や人身売買と確認し、買われた者を召し返して百姓へ戻し、売った家から一人につき米一石を出させるよう指示する。代官に人別帳を作らせ、その米を別蔵へ封印し、当年の切…

  90. 後編3-No.589 島津義弘譜

    島津義弘譜が、講和後の朝鮮撤収時に起きた露梁海戦を記す。順天城の小西行長を救出するため義弘らが水軍を進めると、陳璘・鄧子龍・李舜臣らの明・朝鮮水軍が多数の艦船で攻撃し、砲火と接舷戦が続いた。島津勢をはじめ日本側に多数の戦死者・沈没船を出す一方、敵将も戦死し、義弘らは包囲を突破して小西勢の撤退を助け、…

  91. 後編3-No.590 川上久辰譜

    川上久辰の自作文。十一月十五日を期限とする帰陣命令後、小西行長が順天で明・朝鮮水軍に港口を封鎖されたため、島津義弘・立花宗茂らが救援へ向かったと記す。十七・十八日の戦闘で、久辰・久首は小舟から敵船へ攻めかかるが、大船へ乗り移れず矢石・火器を浴び、川上源太左衛門らが戦死、桑波田五郎兵衛らが負傷し、弾薬…

  92. 後編3-No.591 樺山久高譜

    樺山久高譜が朝鮮撤収時の救援行動を記す。退陣期限が示された後、小西行長が順天で包囲され、義弘の救援船団も激戦に入った。島に残された五百余人を救うには釜山へ援船を求める者が必要だとして、久高は吉田大蔵少輔・竹内兵部少輔らと小舟で包囲を抜け、夜間に釜山へ到達する。援船を導いて残留者を収容し、自身らも無事…

  93. 後編3-No.592 島津竜伯書状

    島津義久(龍伯)が島津忠恒(又八郎)の無事な帰朝を祝い、朝鮮での手柄は当家の面目であると賞する。迎えとして北郷久二郎を派遣したことを知らせ、早く上洛して対面するのを待つと伝える。

  94. 後編3-No.593 豊臣氏五大老連署状

    豊臣政権の五大老が九州諸将へ、朝鮮に明軍と番船が現れたため藤堂高虎を派遣したと通知する。敵が在陣していれば現地の船手衆が相談して応戦し、報告に応じ九州に待機させた船手・兵員を急派するとする。敵が退散した場合は徳永寿昌・宮木長次への先命どおり諸城を引き払い、釜山浦へ集結して帰朝し、全般を藤堂の指図に従…

  95. 後編3-No.594 豊臣氏五大老連署状

    豊臣政権の五大老が島津義弘・忠恒へ、明軍と番船の出現を受けて藤堂高虎を派遣したと伝える。敵がなお在陣する場合は在番の船手衆と相談して応戦し、島津側の報告により九州待機の船手・兵員を差し向けるとする。敵が退散した場合は諸城を早急に釜山浦へ引き取り、藤堂の指示に従って帰朝するよう命じる。

  96. 後編3-No.595 豊臣氏奉行衆連署状

    豊臣氏奉行衆が伊東民部大輔・相良宮内大輔・高橋九郎・秋月三郎・島津又七郎(島津豊久)の九州諸将へ、明軍・番船の出現を受けて藤堂高虎を派遣したことを通知した連署状。敵が在陣中なら船手衆と相談して応戦し、退散後は諸城を釜山浦へ集めて帰朝し、藤堂の指揮に従うよう命じる。

  97. 後編3-No.596 豊臣氏奉行衆連署状

    豊臣氏奉行衆が九州諸将の陣所へ、明軍・番船の出現を受けて藤堂高虎を派遣したと通知する。敵が在陣中なら船手衆と相談して応戦し、報告に応じ九州から船手・兵員を送るとし、退散後は諸城を釜山浦へ引き取って帰朝するよう命じる。No.595と同じ撤収方針を、島津忠豊ら九州諸将へ伝えた文書である。

  98. 後編3-No.597 島津家久譜

    島津家久譜が朝鮮からの帰航経過を記す。十一月二十五日に牧島を出帆し、島津忠豊と同じ航路で対馬の鰐浦・細泊・白賀を経て鴨瀬へ着いたが、逆風により足止めされた。さらに十一月十八日の順天海口・南海島付近の戦闘で戦死・負傷者が出て、帝都へ向かう者と帰国する者について朝鮮で定めた上下の人員編成が大きく欠けたた…

  99. 後編3-No.598 北郷忠能書状

    北郷忠能が、朝鮮での戦況が有利に運び、天下に名誉が伝わったことと、無事の帰陣を祝う。寒中に引き続き上洛する苦労を気遣い、本来は参上して祝意を述べるべきところ事情により果たせないため、上京を待っているとして、伊勢弥九郎に披露を依頼する。

  100. 後編3-No.599 石田三成書状

    石田三成が、羽兵(島津義弘)のもとで事態が無事に収まり、朝鮮からの帰陣が進んでいることを報じる。義弘・小西行長・寺沢広高は船の都合で少し遅れて出発すると伝え、安心するよう述べるとともに、幸侃と義弘の内儀へも知らせるよう求めた。今回の義弘・又八郎(忠恒)の働きを『御手柄』と評価するが、原資料に複数の欠…