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後編3の目録

旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。

全1,990件中 401~500件・5 / 20ページ

  1. 後編3-No.401 島津義弘譜

    慶長三年五月、島津義弘が朝鮮国泗川の新寨を警衛していた際、島津軍の旗下に属する朝鮮人に対し、朝鮮国の節度使から白書の伝令が送られたため、その文面を次に収録したと記す。

  2. 後編3-No.402 朝鮮国節度使伝令書案

    朝鮮国節度使が、日本軍のもとに留まる晋州・泗川方面の朝鮮人らに帰順を促した伝令書案。黄允祥を使者として安全な帰還と居住を保証し、敵情・地勢・道路を報告して官軍を導けば軍官・戦士・牙兵等に任じて賞すること、李石の帰順・登用例を示す。さらに蔚山で加藤清正を取り逃がしたことに明帝が憤り、大軍が三路から来攻…

  3. 後編3-No.403 島津義弘譜

    慶長三年五月、明軍が順天を包囲するとの風聞を受け、小西行長らが順天城を捨て釜山へ退くことを議した。加藤嘉明は敵旗も見ずに退くのは武士の恥として残留を主張し、加藤清正・毛利秀元は安国寺恵瓊を遣わして豊臣秀吉の指示を仰がせる。秀吉は恐れて城を捨てず堅守せよと命じ、清正・行長・島津義弘ら諸将六万人を各城の…

  4. 後編3-No.404 徳川家康御内書

    徳川家康が端午の祝儀として島津又四郎から届いた帷子五領(うち生絹二領)を受け取り、喜悦の意を伝えた内書。

  5. 後編3-No.405 朝鮮日々記

    慶長三年四月五日、泗川新城の普請中に敵騎兵の動きを知った島津勢が出撃した経過を記す。伊集院源二郎・北郷作左衛門らが鉄砲隊と伏兵を分け、雨で火縄が働きにくいなか敵を誘い込んで射撃し、騎馬・徒歩の諸隊が追撃した。敵の反撃で混戦となった後も、原野や伏草へ陣を移しながら交戦し、多数を討ち取って日暮れに帰城し…

  6. 後編3-No.406 朝鮮日々記

    慶長三年四月中旬、敵方の唐人龍海が和平使として晋州の番所へ来たため、島津義弘・忠恒が面会して饗応した。しかし敵方が和平の約を翻して大軍を出すとの報により、晋州・猿羽見の番衆を泗川新城へ引き入れた。また小西行長との内談のため鎌田蔵人・敷根藤左衛門を夜船で順天へ遣わしたところ、船が瀬に乗り上げて両名は死…

  7. 後編3-No.407 征韓偉略

    明軍が大兵を発して順天を囲むとの報に、小西行長らが順天・蔚山を去って釜山を守る案を議した。加藤嘉明は敵旗も見ずに退くのは丈夫の行いでないと反対し、加藤清正・毛利秀元は豊臣秀吉の裁定を求める。秀吉は退城を許さず、清正・行長・島津義弘ら六万人余を諸城に残し、小早川秀秋・毛利秀元・宇喜多秀家らを一時帰国さ…

  8. 後編3-No.408 征韓偉略

    五月三日、豊臣秀吉が小西行長の釜山先鋒・攻略の功を賞して剣と馬を与え、後日の加増を約した。また順天・蔚山撤退論に反対した加藤嘉明を褒めて三万七千石を加増し、同じく撤退に従わなかった宗義智にも書を与えて賞した。島津義弘父子も撤退論に同意せず、先鋒の判断に任せると述べたと記す。

  9. 後編3-No.409 島津家宝物目録

    島津義久が島津家の宝物のうち、白い御旗二流を記した目録。

  10. 後編3-No.410 長寿院盛淳領知目録

    長寿院盛淳が、薩州入来院の蔵野村における領地について作成し、松下甚五右衛門に宛てた領知目録。

  11. 後編3-No.411 島津竜伯書状

    島津義久(竜伯)が島津又八郎に、帰朝には治部少輔の助力が得られる見込みを伝え、在京者同士の神文や茶の湯を介した結び付きに注意して判断するよう助言した書状。大和に現れた不思議な人物、東国馬の受領、家中の人手不足、阿多の者の帰国希望、有方の茶の湯による用務遅延など、京都・家中の近況も詳しく報じる。

  12. 後編3-No.412 石田三成・島津竜伯連署書下

    石田三成と島津義久が上方の算用所運営について定めた連署書下。用事のない者や自分の算用を持たない代官の出入りを禁じ、呼出しに病気・他行を理由として遅参した者には知行高に応じた過怠銭を科すこと、算用中の悪口・軽率な振舞いを処罰すること、算用場の食事を一汁一菜とすること、万物奉行の下知に従うことなどを命じ…

  13. 後編3-No.413 石田三成・島津竜伯連署覚書

    石田三成と島津義久が上方での会計手続きを列記した連署覚書。薩摩から上る米の大坂での受取・売却、算用聞の切手、売却代金の義久への送付、呉服・作事方の買物、摂津・播磨知行の免目録、口米、台所の飯米・塩噌・炭薪油などを規定する。算用聞四人が三か月ごとに帳簿を監査し、帳目録を作らない場合は知行物成の五分一を…

  14. 後編3-No.414 熊谷直盛外二名連署状

    熊谷直盛・垣見一直・福原長堯が島津義弘・忠恒に、帰朝後に豊臣秀吉へ朝鮮戦況を報告した結果を伝えた連署状。秀吉は蔚山救援時に蜂須賀家政・黒田長政が交戦せず、目付衆が城郭放棄を勧めたことに激怒し、島津・小西・宗義智の三城主が退城に同意しなかったことを称賛した。三名には豊後の新地を褒賞として与え、翌年も朝…

  15. 後編3-No.415 島津義弘譜

    慶長三年六月、朝鮮から帰った毛利秀元・宇喜多秀家らが伏見で豊臣秀吉への謁見を求めた。秀吉は諸将の軍忠、蔚山救援の遅滞、順天城を退こうとした議論の是非を調べ、責任を問うて当初は謁見を許さなかった。その後、秀元を召して軍功を慰労し、加藤嘉明には連年の武功を賞する感状を与えたと記す。

  16. 後編3-No.416 島津久元譜

    文禄元年から慶長三年まで島津義弘父子が朝鮮に在陣し、島津久元の父忠長と兄忠倍も渡海して軍務に従ったと記す。慶長三年六月には久元(忠在)も十八歳で朝鮮へ渡り、同年冬に諸軍とともに帰朝した。

  17. 後編3-No.417 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津修理大夫に、唐人・日本人を問わず領国内にいると聞く漆喰塗りの職人を早急に上らせ、手配を怠らないよう命じた朱印状。詳細は浅野弾正少弼・増田右衛門尉から伝えるとしている。

  18. 後編3-No.418 島津竜伯追悼和歌

    島津義久(竜伯)が、東福寺龍吟庵で営んだ大中庵主の年回追善に際して詠んだ追悼和歌。故人が和歌を深く好んだことを思い、夕立の雲が消えても蓮葉に露の名残を留めるように、故人の面影が残ることを願って霊前に手向けたと記す。

  19. 後編3-No.419 京都進上物覚書

    島津又八郎の上洛に伴い、京都で諸方へ進上した礼物と支出を列記した覚書。治部少輔・幽斎老ら武家、公家・寺社・家臣・職人など多数の相手ごとに、銀子、鉄砲、刀、鳥目、紙、扇、衣類、食品等の品目・数量・代銀を記し、饗応の振舞も含めて上洛時の贈答と費用を整理している。

  20. 後編3-No.420 正宮仮殿貫切符

    長寿院盛淳が正宮の仮殿造営用材について作成した切符。長さ一丈四尺・幅四寸・厚さ二寸の貫三十五丁、長さ六尺五寸・幅一尺・厚さ六分の加屋板百二十枚(うち二十枚は長さ八尺五寸)、長さ九尺・口五寸の大床三本を指定する。

  21. 後編3-No.421 本田正親請取状

    本田正親が銀子四枚を受け取った請取状。石田治部少輔が肥前国へ下向したことに伴い、早打の使者を差し上せた際の祝物であると記す。

  22. 後編3-No.422 御譜雑抄

    慶長三年六月、毛利秀元・宇喜多秀家らが朝鮮を発って伏見へ赴き、豊臣秀吉に謁見したと記す。

  23. 後編3-No.423 御譜雑抄

    朝鮮で討ち取った者の首級を運ぶ代わりに鼻や耳を切って京都へ送り、豊臣秀吉がこれを賞したと記す。その後、秀吉が鼻・耳を京都の大仏殿近くにまとめて埋葬させ、耳塚と称したこと、のちに朝鮮人が塚を訪れて祭文を捧げ、泣いて弔ったことを述べる。

  24. 後編3-No.424 公記

    慶長三年八月十八日、前関白太政大臣従一位豊臣秀吉が伏見城で六十三歳で死去し、京都東南の阿弥陀峰に葬られたと記す。

  25. 後編3-No.425 上井里兼知行方目録

    上井神五郎里兼が川上次郎左衛門尉に交付した加増分の知行方目録。薩州隈城西手村内の山下・山崎・中田・柿木原・瀬戸山などの田畑について、場所ごとに石・斗・升・合・勺で石高を列記する。

  26. 後編3-No.426 島津竜伯義久起請文案

    島津義久(竜伯)が前田利家・徳川家康に差し出した起請文案。梵天・帝釈・四天王以下、多数の仏神・天神地祇を勧請し、誓いに偽りがあれば昼夜の重病、武運の喪失、地獄への堕落などの罰を受けると誓約する。

  27. 後編3-No.427 河上益右衛門尉・白坂助七郎連署請取状

    河上益右衛門尉・白坂助七郎が、本田助丞・富山清右衛門尉に宛てて出した請取状。「高麗御見次」の長寿調分として、銀子五百目を二包のまま、御振舞道具を種々納めた長櫃一合を受け取ったことを記す。

  28. 後編3-No.428 豊臣氏奉行衆連署状

    増田長盛・浅野長政・前田玄以が島津義弘に、豊臣秀吉が霍乱で食事を取らず、政務上の処置が命じられたため諸説に動揺せず覚悟するよう伝えた連署状。義弘の身上については加藤主計との間で内々に取扱うよう秀吉の意向を受けており、解決しなければ奉行衆が相談して無事に調えることが肝要だと述べる。

  29. 後編3-No.429 島津竜伯書状

    島津義久(竜伯)が島津又八郎に、送られた馬を源兵衛尉・平七らに試乗させた結果を報告した書状。馬はおおむね静かで歩みに大きな難はないが、速歩・駆け足に乏しく自分の好みには合わないと評する。又八郎が望むなら渡し、不要なら返答があるまで預かること、船のことにも油断せず国元へ厳しく申し伝えることを述べる。

  30. 後編3-No.430 伊集院幸侃忠恒書状

    伊集院幸侃が島津忠恒に、石田治部少輔と竜伯から示された軍役人数・兵糧・船・城番の扱いについて申し送った書状。知行高に応じた人数を不足なく出すこと、諸城の守備を維持すること、船不足への対応、薩摩から上せる米や大坂蔵の蔵米を無断で流用せず、自然に減耗した分は調査して補うことなどを指示する。

  31. 後編3-No.431 伊集院幸侃書状

    伊集院幸侃が図書頭に宛てた返書。本文は別号文書と同文のため省略されている。

  32. 後編3-No.432 豊臣氏奉行衆連署状

    増田長盛・浅野長政・石田三成・前田玄以が島津義弘に、豊臣秀吉は霍乱を患ったが盛法印の薬で快方に向かい、近頃はさらに回復しているので心配は不要と伝えた連署状。義弘の「御無事」の件は加藤主計の筋で解決し、難しければ小西摂津守ら在番衆と相談して調えること、秀吉病中の雑説に惑わされないことを求める。

  33. 後編3-No.433 島津竜伯覚書

    島津義久(竜伯)が、豊臣秀頼に秀吉同様の忠節を尽くし、法度・置目に背かないことを誓った覚書。公儀のために私怨を企てず、家中で徒党を組まず、喧嘩・口論では親子兄弟や知音をひいきせず法度に従うこと、許可なく私用で下国しないことを定め、違反時は起請文の罰を受けるとする。

  34. 後編3-No.434 豊臣氏奉行衆連署副状

    増田長盛・石田三成・浅野長政・前田玄以が徳川家康に、豊臣秀吉の病状は次第に快方へ向かっているので心配は不要と伝えた連署副状。土用の時期の発病で諸方が不安に思うことを考えて知らせるもので、同趣旨の朱印も発給され、今後も状況を逐次報告すると述べる。

  35. 後編3-No.435 島津忠恒家久過所

    島津忠恒(又八郎)が船改奉行に、四枚帆の薩摩船について、船頭大左衛門尉・中乗七人・加子四人・朝鮮人二人の合計十四人を乗せて帰朝させるので、支障なく通すよう命じた過所。

  36. 後編3-No.436 島津義久書状案

    島津義久(竜伯)が琉球国中山王に、護国寺快雄座主と大里大屋子の上洛は重要であるが、豊臣秀吉が前年夏以来病気で聴聞も不自由なため奏上できなかったと伝えた書状案。石田三成と相談して進物を預かり、使節をいったん帰国させること、今後も通信と礼儀を怠らず方物を用意することを求め、酒・蚕綿・太平布への謝意と返礼…

  37. 後編3-No.437 島津義弘譜

    『島津義弘譜』が、朝鮮在陣中の戦果報告では首級の代わりに鼻や耳を京都へ送り、豊臣秀吉がこれを賞して大仏殿付近に耳塚を築かせたことを記す記事。慶長三年秋に明軍が海陸四方面から進み、麻貴が蔚山の加藤清正、董一元が泗川方面の島津義弘父子、劉綎が順天の小西行長、陳璘が水軍を担当し、龍涯・友理が義弘父子へ勧告…

  38. 後編3-No.438 明国割符

    明側が島津義弘・忠恒父子に送った勧告文。日本軍は朝鮮侵攻で山中に苦しみ、故国の田地も荒れ、家族と長年離れていると説き、明の大軍が水陸から迫って進退の道はなく最後は死に至ると警告する。休戦を望むなら通事を派遣して交渉し、別案があれば速やかに返答したうえで、帆を揚げて帰国し刑罰を免れるよう促す。

  39. 後編3-No.439 島津義弘譜

    『島津義弘譜』が、劉綎が水原から順天攻略を図り、和議を装って小西行長を誘い出し捕縛しようとした経緯を記す記事。呉宗道が清正の策謀によって戦争が再開したと説いて旧盟の回復を持ちかけ、行長はいったん会見を約したが、劉綎陣中の日本人から計略を知らされて出向かなかったため、劉綎は空しく帰り、陳璘から策の拙さ…

  40. 後編3-No.440 島津竜伯詠草

    島津義久(竜伯)が、島津歳久(心岳良空)の七回忌に追善のため詠み、遺影の前に手向けた和歌。「うつし絵に写し置てもたましゐハ/かへらぬ道や夢のうきはし」と、姿を絵に残しても魂は戻らない悲しみを詠む。

  41. 後編3-No.441 立花親成宗茂書状

    立花親成(宗茂、羽柴左近)が島津義弘・忠恒に、朝の使者への返答と亥刻の帰着を報じ、朱印の趣旨を石田三成に確認したうえで、名護屋以来の誼により内情を打ち明けた書状。順天方面への明軍行動に応じた対応を含め、内容を他所や小西摂津守へ漏らさず、相談どおり処置するよう求める。

  42. 後編3-No.442 寺沢正成広高書状

    寺沢正成(広高)が島津忠恒に、豊臣秀吉は重い病にかかったが快気し、諸将の不安を解くため朱印を発したと伝えた書状。朱印を携えた使者が申刻に釜山浦へ到着したので直ちに送ること、上方からの使者を城に留めているため、請取状を整えてこの使者に渡すことを求める。

  43. 後編3-No.443 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津忠恒(薩摩侍従)に、大仏用の油蠟を扱う唐人について国役を免除したので承知し、屋敷などを扶助して、特に懇ろに扱い生活を維持できるよう申し付けることを命じた朱印状。

  44. 後編3-No.444 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、大仏用の油蠟を速やかに製造した働きを神妙と認め、真物の納入を命じたうえで、褒美として国役を免除し、屋敷の扶助を加えると伝えた朱印状。本文末の宛名は「陳哥」と記される。

  45. 後編3-No.445 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、大仏用の油蠟を速やかに製造した働きを神妙と認め、真物の納入を命じたうえで、褒美として国役を免除し、屋敷などの扶助を加えると伝えた朱印状。本文末の宛名は「茜六」と記される。

  46. 後編3-No.446 大蔵卿法印宗久書状

    大蔵卿法印宗久が島津義久に、油蠟製造のため唐人が召し上げられ、製造が成就したことを豊臣秀吉が殊のほか喜び、朱印を発したと伝えた書状。義久にも事情を心得て、さらに申し上げるよう求める。

  47. 後編3-No.447 寺沢正成書状

    寺沢正成(広高)が島津忠恒に、前田玄以・増田長盛・浅野長政の書状で豊臣秀吉の本復を知らされ、その後に発給された朱印を送った書状。先の書物を持参した者が自ら晋州まで来て小西摂津守へ知らせたことについて、事情を聞いて報告を受け、さらに相談したいと述べる。

  48. 後編3-No.448 島津義久譜

    『島津義久譜』が、豊臣秀吉の病状が危急となり、徳川家康に天下の政務と幼い秀頼の補佐を委ねたことを記す記事。南山北嶺の高僧による祈祷や医師の薬餌・針灸も効かず、慶長三年八月十八日に没して東山に葬られ、天下が悲嘆するなか畿内の諸侯と島津義久(竜伯)も在洛していたとする。

  49. 後編3-No.449 島津義弘譜

    『島津義弘譜』が、麻貴ら明軍が蔚山の加藤清正と対峙し、島津義弘・忠恒が一万の兵で泗川・新寨周辺の諸塁を守り、近隣諸邑へ軍事行動を行った状況を記す記事。豊臣秀吉は伏見城で没する際、死を当面秘し、浅野長政・石田三成を筑紫へ急派して朝鮮在陣諸将を帰国させ、撤兵が難しければ徳川家康・前田利家の遠慮により十万…

  50. 後編3-No.450 宮木豊盛・徳永寿昌連署起請文前書案

    宮木豊盛・徳永寿昌が連署した起請文前書案。朝鮮での和睦・撤兵に関する「御無事」の件は、加藤清正と小西行長それぞれの筋から双方の言い分を聴き、日本のために適切な方法で決着させること、ひいきなく私曲を報告することを誓う。在番の頭との相談で主君のためを顧みない抜け駆けの意見が出た場合もそのまま報告し、中央…

  51. 後編3-No.451 豊臣氏奉行衆連署目録

    豊臣氏奉行衆の連署目録。本文はNo.463の文書と同文のため省略されている。

  52. 後編3-No.452 豊臣氏奉行衆連署覚書

    豊臣氏奉行衆の連署覚書。本文はNo.462の文書と同文のため省略されている。

  53. 後編3-No.453 豊臣氏朱印状

    豊臣政権が「御無事」の決着後における釜山浦在番の組分けと番替を定めた朱印状。加藤主計頭・小西摂津守・島津兵庫頭・黒田甲斐守らを複数組に編成し、各城から釜山浦へ引き取る際は兵糧・玉薬・鉄砲などを運んで蔵に収めること、対馬豊崎には久留米侍従・筑紫上野介・寺沢志摩守の計二百人を置くこと、在番外の一部諸将は…

  54. 後編3-No.454 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津忠恒に、朝鮮在番の見廻りとして徳永寿昌・宮木豊盛を派遣したことを伝え、長期在番の苦労をねぎらって道服と袷を与えた朱印状。詳しくは奉行衆・年寄衆から申し伝えるとする。

  55. 後編3-No.455 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉の朱印状。本文はNo.456の文書と同文のため省略されている。

  56. 後編3-No.456 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津豊久に、朝鮮在番の見廻りとして徳永寿昌・宮木豊盛を派遣したことを伝え、長期在番の苦労をねぎらって道服と袷を与えた朱印状。詳しくは奉行衆・年寄衆から申し伝えるとする。

  57. 後編3-No.457 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、「御無事」の決着後における釜山浦在番の組分けと番替を定めた朱印状。小西摂津守・島津兵庫頭の組、加藤主計頭らの組、黒田甲斐守・鍋島加賀守の組を置き、各城から釜山浦へ引き取る際は兵糧・玉薬・鉄砲などを運んで蔵に収めること、対馬豊崎には久留米侍従・筑紫上野介・寺沢志摩守の計二百人を置くことを命…

  58. 後編3-No.458 増田長盛書状

    増田長盛が島津義弘に、見廻りのため徳永寿昌・宮木豊盛を派遣し、従来から命じられている「御無事」の件について改めて事情を伝えさせた書状。両人の口上と覚書を踏まえて諸将と相談し、決着させるよう求める。また豊臣秀吉の病状はこの一、二日さらに快方へ向かっているので安心するよう伝える。

  59. 後編3-No.459 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津忠恒に、朝鮮在番の見廻りとして徳永寿昌・宮木豊盛を派遣したことを伝え、長期在番の苦労をねぎらって道服と袷を与えた朱印状。詳しくは奉行衆・年寄衆から申し伝えるとする。

  60. 後編3-No.460 島津家久譜

    『島津家久譜』が、八月廿五日付の朱印状は後に虚偽と判明したと記す記事。豊臣秀吉は同月十八日に伏見城で没しており、死を当面秘して浅野長政・石田三成を筑紫へ急派し、朝鮮在陣諸将を帰国させること、撤兵が難しければ徳川家康・前田利家の深慮により十万の兵を異国の枯骨としないことを遺言していたため、五奉行の快気…

  61. 後編3-No.461 豊臣氏五奉行連署副状

    前田玄以・長束正家・増田長盛・石田三成・浅野長政が島津忠恒に、徳永寿昌・宮木豊盛を見廻りとして派遣し、道服と袷を拝領させたと伝えた五奉行連署副状。長期在番の苦労をねぎらい、豊臣秀吉の病状はさらに快方へ向かっているので安心するよう述べ、詳しくは派遣した両人が申し伝えるとする。

  62. 後編3-No.462 豊臣氏奉行衆連署覚書

    豊臣氏奉行衆が連署した朝鮮撤収に関する覚書。朝鮮王子が来れば諸城を残らず引き払い、調物で決着して朝鮮官人を対馬まで渡す場合も撤収すること、官人の来航が実現しない場合は釜山浦一城を当面残すことを定める。その他の未決事項は、交渉担当者の判断で処理するとする。

  63. 後編3-No.463 豊臣氏奉行衆連署目録

    豊臣氏奉行衆が連署した「進公覚」と題する目録。八木・豹皮・清蚕・虎皮・薬種・王子の件を列挙する。

  64. 後編3-No.464 島津竜伯書状

    島津義久(竜伯)が島津忠恒に、判形の善悪を見分ける者へ忠恒の印判を見せたところ、良い判であると褒められたと伝えた書状。無沙汰を詫びて国元の様子を尋ね、島津義弘が初秋頃に病気になったとの知らせを心配し、すでに快気しているだろうとしつつ、使者から詳しい事情を聞いて十分に納得するよう求める。

  65. 後編3-No.465 島津竜伯書状

    島津義久(竜伯)の書状。本文はNo.105の文書と同文のため省略されている。

  66. 後編3-No.466 豊臣氏大老連署状

    毛利輝元・宇喜多秀家・前田利家・徳川家康が島津義弘・忠恒に、「御無事」はまず加藤清正の筋で、難しければ他の筋でも遅滞なく決着させるよう命じた大老連署状。朝鮮王子の来航が望ましいが、来なくても調物の多少にこだわらず日本の外聞にかなう形で和議を成立させること、迎船として新造百艘と諸浦の二百艘、計三百艘を…

  67. 後編3-No.467 豊臣氏大老連署状

    豊臣氏大老の連署状。本文はNo.466の文書と同文のため省略されている。

  68. 後編3-No.468 近衛竜山前久書状

    近衛前久(竜山)が島津忠恒に、島津義弘(武庫)の病状を島津義久(竜伯)から聞き、長期在陣の疲労によるものだろうと案じて養生と本復を願った書状。忠恒らが無事に帰朝した後に積もる話を直接聞きたいと述べ、多くの馬や鷹を所持していることにも触れる。

  69. 後編3-No.469 川上肱枕忠智書状

    川上忠智(肱枕)が、前年夏以来の島津義弘の病気と、島津忠恒が医師を招いて療治・祈願に尽くしていることを報告した書状。急使の上洛後、島津義久(竜伯)が伊勢大神宮・多賀大社・愛宕山へ代参や奉納を行い、照門や中性院にも祈祷を依頼した経緯、山田弥九郎の帰還で病状を詳しく把握したこと、護摩祈祷が始まったことを…

  70. 後編3-No.470 島津竜伯書状

    島津義久(竜伯)が島津忠恒に、山田弥九郎の口上で島津義弘の病気を知り、照門・伊勢大神宮・多賀大社へ祈祷を依頼したので快気するだろうと伝えた書状。朝鮮での度々の勝利を祝い、石田三成が十月二日に出発するため帰朝の暇も決着するはずだとして、船の準備を怠らず、出帆後は直ちに帰国すること、義弘・忠恒父子で相談…

  71. 後編3-No.471 増田長盛・長束正家連署副状

    増田長盛・長束正家の連署副状。本文はNo.304の文書と同文のため省略されている。

  72. 後編3-No.472 伊勢如貴貞知書状

    友枕斎如貴(伊勢貞知)が伊勢弥九郎に、山田弥九郎の書状で現地の無事を知った一方、島津義弘(武庫)の病状を案じて照門に七日間の祈祷を依頼し、祈念の札と守を送ったと伝えた書状。銀子七枚の進上を使者との対面時に披露したこと、諸将の引陣が決まったことを祝い、帰朝時には迎えに出ると述べる。

  73. 後編3-No.473 昭高院如雪道澄書状

    昭高院如雪(道澄)が島津忠恒に、七月廿四日付書状が九月六日に届き、長期在陣中の無事と帰朝の見込みを喜んだ書状。島津義弘(武庫)の病気を案じ、六日から祈祷を始めて結願したため、巻数・守札・撫物などを送り、忠恒本人のための守札も頂戴するよう求める。詳しくは友枕斎如貴が説明するとする。

  74. 後編3-No.474 昭高院如雪書状

    昭高院如雪が島津忠恒に、大峯入峯を予定していたが、当地の堂供養のため延期するよう指示されて実施しなかったと伝えた書状。峯中での祈祷は詳しく申し付け、堂供養も八月廿二日に成就したので、その他のことは後便で知らせるとする。

  75. 後編3-No.475 宇喜多秀家外十四名連署言上状

    宇喜多秀家ほか十四名の連署言上状。本文はNo.313の文書と同文のため省略されている。

  76. 後編3-No.476 島津竜伯書状

    島津義久(竜伯)が島津忠恒に、大峯先達から島津義弘は護摩の効験で間もなく平癒すると聞いたこと、石田三成から義弘・忠恒父子は国元へ直ちに帰朝してよいとの意向を得たので相談して好機を選ぶことを伝えた書状。宰相の暇は伊集院幸侃を通じて交渉すること、買い入れた八木七千石のうち七百石しか上っていないため甚五郎…

  77. 後編3-No.477 島津義弘書状

    島津義弘が、順天へ多数の鉄砲が送られ番船も次々に来るとの情報や、敵が古館付近を偵察して翌日に攻撃するとの見通しを伝えた書状。家中で私的に神文を取り交わした件を重大な不届きとして、家臣同士の神文・徒党を禁じる法度を早急に出すよう求める。また蔵米の不調により石田三成のもとへ上井甚五郎が召し上げられた件を…

  78. 後編3-No.478 島津義弘譜

    『島津義弘譜』が、島津忠恒配下の寺山久兼が望津の守備中、明・朝鮮軍の兵力を偵察し、猛暑時に兵を川辺へ伏せて敵の人馬が水に入るところを鉄砲で一斉射撃し、多数を倒したと記す記事。さらに山谷に火を放って大軍が潜むように見せるなど奇策を重ねたため、董一元は九月十九日に晋州へ進出しても島津義弘の武勇と城の堅固…

  79. 後編3-No.479 加藤清正書状

    加藤清正が島津義弘・忠恒に、順天方面で明軍が活動していると聞き心配している一方、自陣にも九月廿一日に七、八万の敵兵が進出したと報告した書状。数度の戦闘で敵を討ち、敵は城際に陣取れず二十町ほど退いて対陣しているため、自陣については心配不要とし、義弘らの方面の状況を詳しく知らせるよう求める。

  80. 後編3-No.480 島津家久譜

    『島津家久譜』が、董一元配下が内応者郭国安を用いて望津の兵糧を焼き、明軍が望津・永春の砦を破って新寨へ迫った経緯を記す記事。董一元は金印を示して和親を求めたが島津義弘は拒絶し、九月廿八日の撤兵時に明軍が泗川を急襲して相良玄番ら約百五十人が戦死、川上忠実も多数の矢を受けながら退却した。忠恒は反撃を望ん…

  81. 後編3-No.481 立花親成宗茂書状

    立花親成(宗茂、羽柴左近)が島津忠恒に、前夜に敵が接近したとの注進を受けて心配していたが、その後の報告で敵が引き取り、明軍を多数討ち取ったと知った旨を伝えた書状。忠恒らの奮戦によって敵が早々に退いたのだろうとして、引き続き吉報を待ち、自身の方面には変化がないと述べる。

  82. 後編3-No.482 島津家久譜

    『島津家久譜』が、九月廿九日に明兵一騎が新寨城門から三、四町の地点に標木を立て、ただちに退いたと記す記事。頴娃主水・白濱七助が標木を回収すると、翌十月朔日に新寨を攻めるので、寨将は油断しないようにとの予告が記されていたとする。

  83. 後編3-No.483 島津竜伯書状

    島津義久(竜伯)が島津忠恒に、長期の軍労をねぎらい、現地では速やかに引陣するはずだと伝えた書状。石田三成が筑前へ下向するため、諸事は現地で三成の了解を得ることが重要であり、忠恒自身の暇も直接申し渡されるのが望ましいとして、三成の在所まで赴き指示に従って判断するよう求める。図書頭をはじめ在陣衆にも苦労…

  84. 後編3-No.484 島津義弘譜

    『島津義弘譜』が、董一元・茅国器らが内応者郭国安を用いて望津の兵糧を焼き、望津・永春・昆陽の三砦を攻略した後、泗川・新寨へ迫った経過を詳述する記事。島津義弘は金印を示す和親案を拒み、九月廿八日の撤収時には相良玄番ら約百五十人が戦死し、川上忠実は鎧に三十六本の矢を受けながら退却した。忠恒が反撃を望む一…

  85. 後編3-No.485 盛香集

    『盛香集』が、寺山四郎左衛門久兼の望津での対陣と家来神宮矢兵衛の射撃を伝える記事。久兼は漢南の大軍を前に、晋州の川を隔て約二百人で六月廿日から対陣し、人数の多少を悟らせない計略で敵を悩ませた。九月廿日の命令で望津陣を払い新寨へ移る際に敵が渡河を試みたといい、鉄炮上手の神宮矢兵衛が川越しに撃つ弾だけは…

  86. 後編3-No.486 征韓偉略

    『征韓偉略』が、日本・明・朝鮮側の諸記録を引きながら泗川・新寨の戦闘と撤兵までをまとめた記事。明軍の諸将が泗川へ進み、董一元軍が新寨を包囲したものの、火器の爆発と島津義弘・忠恒らの反撃で大敗した経過、敵味方の戦死、城外への追撃、明軍の退却を記す。さらに寺沢正成らとの帰国・渡海をめぐる協議、朝鮮側の報…

  87. 後編3-No.487 樺山紹剣自記

    『樺山紹剣自記』が、豊臣秀吉の病没前後から朝鮮撤兵・帰国後までの自身の体験を記した記録。秀吉の遺命と高麗陣への大軍襲来、弾薬・船・兵糧に乏しい島津勢の防戦、敵船への備えや使者・迎船の手配、撤退命令を受けた渡海準備などを述べる。帰国後は京都で島津義弘に供奉し、馬の拝領、賀茂祭、京都と国元を往来する人々…

  88. 後編3-No.488 島津義弘譜

    『島津義弘譜』が、慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦を詳述する記事。董一元ら率いる明軍が新寨を包囲すると、島津義弘は敵が城壁へ近づくまで鉄炮を撃たせず、白狐一疋と赤狐二疋の出現を稲荷明神の加護と信じて、大鉄炮の一斉射撃と開門突撃に転じた。義弘・忠恒父子や忠長らが敵を北へ追い、晋州川付近まで潰走させた後…

  89. 後編3-No.489 泗川表討捕首注文

    慶長三年十月一日の泗川表における討捕首数を部隊別に記した注文。鹿島・帖佐・富隈の各方衆と、伊集院源次郎・北郷作左衛門の手勢による首数を列挙し、合計を三万八千七百十七とする。これとは別に、戦場で切り捨てた者の数は不明であると付記する。

  90. 後編3-No.490 島津家久譜

    『家久公御譜』が、慶長三年十月朔日の新寨決戦を島津忠恒(家久)の働きを中心に記す記事。忠恒は明軍を城壁近くまで引きつけて鉄炮を撃たせ、白狐・赤狐の出現を稲荷明神の加護と受け止めて出撃した。自ら敵中へ進み、肩に千戈の傷を負いながら首級を得た後、義弘の援兵と合流して明軍を晋州川方面へ追撃する。戦後は父子…

  91. 後編3-No.491 島津忠長譜

    『図書頭忠長譜』が、明軍の泗川攻撃に対する島津忠長の迎撃を記す記事。明側から降伏を促す書状が届くと、義弘は勝敗は戦って決すべきだと退けた。九月十九日に明軍二十万が進み、忠長は九月廿八日の戦闘で自ら敵へ向かい、野添帯刀長・本田與兵衛尉と合力して数人を討つ。義弘が忠長の危急を見て数百騎を救援に送り、寺山…

  92. 後編3-No.492 島津彰久譜

    『島津彰久譜』が、晋州城周辺から新寨へ守備兵を撤収させた際の殿戦と負傷を記す記事。九月廿七日未明、旧館の守兵が密かに城を出ると敵が追撃し、忠実が殿を務めて苦戦しながら新寨へ退いた。味方の戦死者約百五十人の中、忠実の甲冑には矢三十六本が立ち、医師が鏃を抜いて吸血した。義弘は自ら傷を撫で、妙薬と宝刀を与…

  93. 後編3-No.493 川上久辰譜

    『川上久辰譜』が、泗川・新寨決戦での川上久辰の働きを記す記事。董一元らの大軍に対し、義弘・忠恒が七千余の兵を率いて反撃し、忠長も小勢で紅巾の兵を支えた。諸将が追撃に出て義弘の周囲が手薄になると、久辰がその側へ進み、義弘は祖先川上久朗が菱刈で両君のため命を懸けた故事になぞらえて称えた。寺山久兼の鉄炮隊…

  94. 後編3-No.494 寺山久兼譜

    『寺山久兼譜』が、慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦での寺山久兼の戦功を記す記事。義弘・忠恒父子が開門して明軍へ突入した際、島津忠長と対峙する敵将が現れると、久兼は兵を横隊にしてその後軍を攻めさせた。これにより前軍も崩れ、島津勢が敵首を斬獲する契機となったとする。末尾に久兼が慶長十六年十月晦日、四十五…

  95. 後編3-No.495 樺山久高譜

    『樺山久高譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新城で樺山久高が敵兵と一騎討ちした経過を記す記事。伏兵の中から現れた身長六尺ほどの江南の強敵と組み合い、久高は負傷して力尽きかけた。危急の際、郎従田實三之丞が槍で敵の頸を突いたため、久高は勇気を取り戻してその首を斬獲したとする。

  96. 後編3-No.496 平山久清譜

    『平山氏系図・平山久清譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新城攻防での平山久清の戦功を記す記事。明軍数十万騎が新城を囲むと、義弘・忠恒父子が城門を開いて大軍へ突入し、敵を崩した。この戦闘で久清も敵首五級を斬ったとし、同年十二月に日本の諸将が帰陣したことを付記する。

  97. 後編3-No.497 島津忠恒家久書状

    島津忠恒(家久)が(慶長三年)十月四日付で留守居衆へ出した書状。本冊では本文がNo.537の文書と同文であるため省略されているが、宛書に異同があることから別番号を付して収録したと注記する。

  98. 後編3-No.498 御譜雑抄

    『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.482の記事と同文であるため省略されており、No.482の新寨攻撃を予告する標木の記事を参照する構成となっている。

  99. 後編3-No.499 御譜雑抄

    『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.488の記事の一部と同文であるため省略されており、島津義弘譜に記された慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦記事を参照する構成となっている。

  100. 後編3-No.500 御譜雑抄

    『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.488の記事の一部と同文であるため省略されている。同じ参照先を持つNo.499とは別番号で掲げられ、泗川・新寨決戦記事の一部分に対応する。