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後編3の目録

旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。

全1,990件中 701~800件・8 / 20ページ

  1. 後編3-No.700 上井里兼外十三名連署起請文

    幸侃成敗に関する諸相談の内容を一切漏らさず、伊集院源二郎をはじめ縁者・親類がいても庄内とは決して通用しないことを、上井里兼以下十四名が連署して誓う。違反すれば梵天・帝釈から霧島・新田八幡・鹿児島一宮・諏訪・愛宕など諸神の罰を受けるとする起請文。

  2. 後編3-No.701 近衛前久書状

    近衛前久が、又八郎が伏見の邸宅へ無事帰着したと聞いて祝意を述べる。高雄へ見舞いに行くつもりであったが、自身の病気がまだ十分に治らず、取り紛れて連絡できなかったため、まず使僧を遣わしたとし、暇ができれば来訪してほしいと伝える。

  3. 後編3-No.702 近衛信尹書状

    近衛信尹が島津又八郎からの書状と生絹十斤の贈答を喜び、高雄から帰館した後に返書すべきところ遅延したことを詫び、万事は対面の折に話したいと伝える。

  4. 後編3-No.703 島津竜伯書状

    島津竜伯が、幸侃成敗の件で自身の意向との行き違いが生じたため、事情を詳しく口上で説明させる二人の使者を急ぎ上せたと伝える。あわせて銀子十枚を贈り、石田治部少輔に理解を求める。

  5. 後編3-No.704 島津義弘外三名連署起請文

    島津義弘・忠恒ら四名が、今回の談合で互いに心底を残さず申し出た内容を一切他言しないことを誓う。違反した場合は梵天・帝釈、霧島・新田八幡・鹿児島一宮・諏訪・愛宕など諸神の罰を受けるとする連署起請文。

  6. 後編3-No.705 甑武政起請文

    医師甑武政が、命じられた養生と調薬に専念すること、道三・少弐のもとで医道を究める際にも御前や国元の事情を他人へ漏らさず、風聞は十分に確かめて報告することを誓う。また龍伯・武庫・忠恒に別心なく奉公し、世上が変動しても縁者・親類・兄弟を離れて忠節を尽くすとする起請文。

  7. 後編3-No.706 島津竜伯書状

    竜伯が、平田太郎左衛門尉を通じて届いた書状を読み、幸侃成敗に関する指示を承知したと答える。比志島紀伊守・相良新右衛門尉の二使を上せて詳細を口上で伝え、当地に異変はないと報告する。また上方の人手不足に応じて上洛衆を手配し、必ず今月十七日に出立させるよう急がせていると又八郎へ知らせる。

  8. 後編3-No.707 近衛竜山書状

    近衛竜山が又八郎に、先に贈った鷹を返した事情を尋ね、気に入らなければ別の鷹を用意すると伝える。頼まれた鶴は羽が落ちて療治中で夏には用立て難いと説明し、東山へ遊覧に来る際は事前に知らせてほしいと求める。面会時には各所の馬や竜伯から贈られた鹿毛馬などを見せたいとも述べる。

  9. 後編3-No.708 相良頼房起請文

    相良頼房が、義弘・忠恒に疎略なく奉公し、現在は遠慮すべき事情があっても将来は父子に意を得て尽力すること、讒者があれば知らせてほしいことを誓い、違反時は諸神の罰を受けるとする。

  10. 後編3-No.709 伊集院弥六左衛門尉起請文

    伊集院弥六左衛門尉が、幸侃成敗に伴う相談内容を源二郎の親類や家中へ漏らさず、源二郎が別儀なく奉公すれば通常どおり交際すること、龍伯・義弘・忠恒に別心なく、縁者の悪逆も即時に言上し、一向宗にならないことを誓う。

  11. 後編3-No.710 島津義久詠草

    島津義久の詠草で、春風や梅、深見草を題材とする歌を収める。慶長四年閏三月末、有入が酒宴に深見草を持参して瓶に挿した折に詠んだ歌も記す。

  12. 後編3-No.711 島津義弘譜

    慶長四年閏三月、伊集院忠真が父忠棟の仇を報じようとして、庄内の居城のほか十二の外城を修築し、兵士を入れて守護の命に従わなかったことを記す。

  13. 後編3-No.712 新納旅庵長住譜

    慶長四年暮春、惟新(義弘)が龍伯への密事を伝えるため新納旅庵を使者として下国させた。日向綾で幸侃の陪臣三浦太羅助に会い、黒田七兵衛尉に捕らえさせた。閏三月廿日に龍伯の返答を受け、帖佐から上洛へ出発し、栄存房も同行して海陸をともにした。

  14. 後編3-No.713 島津豊久譜

    慶長四年三月、島津豊久が中務大輔・侍従に任じられ、同月廿九日に佐土原へ帰着した。四月二日には富隈で龍伯に会い、幸侃誅殺を深く恨む忠真が庄内の十二外城を構え、兵と武器を集めていたため、和議に従わなければ太守が軍勢を発して討つとの密議を行い、佐土原へ帰ったことを記す。

  15. 後編3-No.714 豊臣氏五大老連署状

    豊臣政権の五大老が島津義弘(羽柴薩摩宰相)・忠恒(羽柴薩摩少将)父子に対し、他所へ罷り渡る者があれば固く停止し、法度に背いて越境した者は本人だけでなく一類も成敗し、受入側にも責任を負わせるよう連署して命じる。

  16. 後編3-No.715 徳川家康起請文

    徳川家康が、秀頼に疎略なく仕えること、島津義弘(羽柴薩摩宰相)・忠恒(羽柴薩摩少将)父子に毛頭疎略せず表裏をしないこと、双方の間を妨げる者が現れた際は直談して疑念を晴らすことを誓い、違反時には諸神の罰を受けるとする。

  17. 後編3-No.716 近衛前久書状

    近衛前久が忠恒の使札と懇志を喜び、長期の高麗在陣をねぎらう。忠恒の早い下国を惜しみ、所持する馬や大鷹・鶴を見せて望みの品を贈りたかったと述べる一方、宿願による南都春日社参のため暇乞いに赴けない事情を伝え、この書状を龍伯へ届けるよう頼む。

  18. 後編3-No.717 吉田豊後書状

    吉田豊後が、島津忠恒の昇進を祝し、急ぎの作事で暇がなく参上できないため、まず使札で祝意を伝える。また高麗での手柄が一段の面目となり、末代まで島津家の誉れとなることを喜ぶ。本文注記は、この祝儀を忠恒の少将任官に対するものとする。

  19. 後編3-No.718 島津竜伯書状

    島津義久が忠恒に、去月十八日付書状を今月朔日に受領したと伝える。徳川家康への礼に際して義弘には馬、忠恒には鷹が贈られたことを喜び、家康の伏見城移転を祝う使者が厚遇され、忠恒の下国も許されたらしいため、近日の帰着後に詳しく話したいと述べる。

  20. 後編3-No.719 島津惟新義弘書状

    島津惟新義弘書状として掲げるが、本文は一〇八七号文書と同文であるため省略すると注記されている。

  21. 後編3-No.720 徳川家康書状

    徳川家康書状として掲げるが、本文は一〇九〇号文書と同文であるため省略すると注記されている。

  22. 後編3-No.721 入国親増言上状

    入田親増が相良日向守に、先年以来の経緯を言上する。大友義統に疎略はなかったが、讒言によって召し失われそうになり籠城したこと、薩州からの書信や前中書公の懇切な書状、入田への入番奉行四人の派遣を受けて島津家に従ったことを説明する。豊州退去後も忠節を尽くし、親類一、二人が戦死した奉公も含め、事情を披露する…

  23. 後編3-No.722 島津家久譜

    島津家久が暇を賜って帰国するにあたり、本田六右衛門尉を大坂城へ使者として立てたことを記す。出船後に帰国の旨が秀頼へ伝えられると、秀頼は大いに喜び、さらに駿馬と鯨毛を贈ったとし、委細は続く義弘の書状に記されるとする。

  24. 後編3-No.723 島津義弘書状

    島津義弘が忠恒に、秀頼から拝領した馬が見事であると祝う。相良新右衛門尉から龍伯の意向と国元の様子を聞き、庄内問題が未解決で忠真の弟らもなお兄に加担していると伝える。また本田六右衛門尉の大坂派遣に際し、秀頼が忠恒へ特に念を入れて月毛の馬を与えたため、追って送ると知らせる。

  25. 後編3-No.724 上原尚張書状

    上原尚張が、当地に異変がないことを伝え、留守中に子の居役所として与えられた場所の普請が整っていないため、見苦しくならないよう堅く見回ることを頼む。また日向国に関する先年の知行の話について、福永殿・野村殿らの件を内々に聞き合わせ、今後も自身に関する用向きで助力するよう求める。

  26. 後編3-No.725 島津義久譜

    慶長四年四月十八日、豊臣秀吉の廟営が完成し、その功業をたたえて「豊国大明神」の神号が贈られたことを記す。

  27. 後編3-No.726 伊勢貞成届書

    伊勢貞成が、御勢揃いの道具代銀に四匁一分五厘の不足が生じたことを届ける。現在手元にある算用帳だけでは判明しないため、受取状などで後日調査し、どこでも清算できなければ自分が納めると申し出る。

  28. 後編3-No.727 島津義久覚書案

    島津義久の覚書案で、正八幡の馬、福山野の駒、石火箭、毛利輝元・安国寺の文、図書頭書状、安永口外の伏兵、こたつ、兵具所、猪鼻の留置、寺沢殿・小西殿の越着という十項目を列挙する。

  29. 後編3-No.728 島津義久事書案

    島津義久の事書案で、冒頭を欠く。陣取の報告、加治木御蔵米の未進と複雑な出納、石田□蔵米の調査、内府と羽柴肥前守との間に生じた問題、財部境の軍事、江戸中納言の使者が未着であること、多数の書状を諸方へ送ったことを列挙する。

  30. 後編3-No.729 島津竜伯書状

    島津義久が忠恒の下向を喜び、片時も急いで当地へ到着し、諸事を相談するよう促す。種子島左近大夫を迎えに出す予定だったが、廻の城攻めに伴い利安が現地へ赴き、手元に人がいないため留めたと説明し、状況が分かり次第途中まで迎えを出すと伝える。追而書では、北郷作左衛門尉の帰着状況を確認し、こちらへ召し寄せるよう…

  31. 後編3-No.730 島津竜伯書状

    島津義久が北郷長千代に、上洛について安宅殿へ相談したところ、高麗での軍役の都合から初秋頃の上洛と聞いたと伝える。しかし島津家の在京は軍役とは別であり、長千代の上洛も軍役に交えず、早々に出立して延引しないことが肝要だと命じ、詳しくは年寄から伝えるとする。

  32. 後編3-No.731 島津家久譜

    島津家久が下国する際、竹内兵部を飫肥へ遣わし、庄内を近日中に退治する意向を伊東氏へ伝えたことを記す。これに対する伊東氏の返書が次の文書に収められるとする。

  33. 後編3-No.732 伊東祐兵書状

    伊東祐兵が島津忠恒の使札を受け、音信として胴服二つと驟二十端を贈られたことに謝意を示す。庄内表を急ぎ処置するとの忠恒の意向を承知しつつ、時節を十分に見極め、龍伯と家中の老臣の判断に従うのがよいと勧め、委細は使者の口上に託す。

  34. 後編3-No.733 西俣七兵衛証状

    西俣七兵衛が、幸侃の縁者らを東福寺へ見舞った際の交際と談話、庄内へ置いた者への書状の伝達、幸侃家中の桃山蔵允へ刀を譲った経緯を証言する。処罰に及んでも偽りは申さないとして、後日の証拠となるよう条々を書き上げる。

  35. 後編3-No.734 大井七右衛門外四名連署起請文

    大井七右衛門ら五名が、鞍馬へ移った幸侃の妻子の居所へ連絡しないこと、小傅次兄弟のもとへ国元の者が出入りすれば親類でも報告すること、番勤中の見物・社寺参詣を慎むことなどを誓う。さらに小傅次兄弟の家中との交通、公用以外で他方の者と会うことを禁じ、違反すれば神罰を受ける旨を記す。

  36. 後編3-No.735 島津義弘覚書

    島津義弘の覚書で、年頭のこと、金子二百枚の借用と三方からの返上、借銀の利分を済ませ国元で本銀を返すこと、内府から命じられた今後の借財禁止を記す。併せて庄内・上方、加治木の未進米、佐和山から来る銀子、大坂船の加子、渡唐船・高麗唐人、蔵入所や出水移衆の知行繰替など、財政・交通・所領上の懸案を列挙する。

  37. 後編3-No.736 島津義弘覚書

    島津義弘の覚書で、内府から借りた黄金二百枚による借銀利分の返済と国元での本銀皆済、出水移衆への支配、金子百枚の返弁を記す。さらに渡唐の仕立て、納戸の品と船荷の売却奉行、南林寺・日新寺・雪窓院への年頭礼、太田六右衛門尉と前田新三の知行、路地の植栽や『源氏』一部の進上など、具体的な処置を列挙する。

  38. 後編3-No.737 豊臣氏奉行衆連署状

    前田玄以・増田長盛・長束正家が島津又八郎に、大仏鋳造用として手元で買い調えた唐金二万貫目を木食上人へ渡すよう以前から命じているのに、なお少しも引き渡されていないのは油断であると指摘する。代物を充てることになっているため、早急に引き渡すよう督促する。

  39. 後編3-No.738 豊臣氏奉行衆連署状

    前田玄以・長束正家・増田長盛が島津又八郎の在番の辛労をねぎらい、時節柄、油断なく勤番を続け、現時点ではこちらへ来る必要はないと命じる。庄内には使者を先行させて下城を申し聞かせており、承引しなければ発向すると伝える。

  40. 後編3-No.739 島津義弘書状

    島津義弘が又八郎からの書状を受け、無事に着津したことを喜ぶ一方、庄内の処置がまだ済んでいないのかと尋ねる。龍伯の指示を受けた竹内兵部がなお上着していないこと、又八郎が念を入れて送った判紙で書状を調え、伊集院図書を通じて内府へ披露したところ祝着されたことを伝え、当地の様子は比志嶋大膳亮から聞くよう述べ…

  41. 後編3-No.740 島津忠恒書状

    島津忠恒が、帰国後は早々に社参するつもりだったが、避けがたい事情のため、文殊院を名代として遣わしたと伝える。祝礼のしるしとして鳥目三百疋を贈り、神前での祈祷を求める。

  42. 後編3-No.741 小早川秀秋外二十九名連署請書

    小早川秀秋ら三十名が、博奕などの勝負、鉄砲の発射、掛物を付けて路次を通ること、道路での鎌遣い、辻での相撲という五か条の禁止を請ける。本人だけでなく家来以下にも法度を徹底し、違反者が成敗されても異議を申し立てないと連署する。

  43. 後編3-No.742 島津竜伯義久寄進状

    島津義久が留守次郎三郎に、大隅国宮内浦山田村のうち高五十石と屋敷一つを正八幡領として新たに寄進する。近年、諸社領を減らしてきたが、同人が以前から島津家の祈願を担っているため、従来どおり元日の大節供を神前に備え、怠りなく祈祷に励むよう命じる。

  44. 後編3-No.743 島津竜伯寄進状

    島津義久が、従来の諸神領が京儀によって減らされたものの、島津家長久の守護を誓願するため、霧嶋領として高五十石(うち嶋方十石)を新たに寄進する。少地を付して早々に神の感応を仰ぐ趣旨を記す。

  45. 後編3-No.744 島津竜伯寄進状

    島津義久が、大隅国郡田口村のうち高五十二石(うち嶋方十石)を霧嶋社領として寄進する。旧来の諸神領が京儀により減らされたが、島津家長久の守護を誓願するため別に少地を付し、早々に神の感応を仰ぐとする。

  46. 後編3-No.745 帖佐宗隣・有馬純昌連署状

    帖佐宗隣・有馬純昌が、月野村まで出て普請の様子を見分し、境の村々の人数や馬を動員したことを報告する。飯肥から魚塩を運ぶ通路で六人が討たれたとの書状、庄内勢襲来の風聞を受けて衆中・町衆ら約百人を三つの口へ配置したものの何事もなく、周辺三村の百姓・妻子を内蔵肝煎村へ移した経過も伝える。

  47. 後編3-No.746 島津竜伯書状

    島津義久が又八郎に、その内儀の知行が安堵されたことを大いに喜び、礼使を受けた返答として書状を送る。祝儀として絹子・帷二を贈り、詳しい事情は河上七郎二郎に申し含めたと伝える。

  48. 後編3-No.747 本村半右衛門尉指出

    本村半右衛門尉が高城左京亮に、高四十石の指出として、慶長元年十一月廿日に主従二人で出立し、慶長三年二月に御供から帰朝した経歴を記す。その間、所から六か月分の御盛を受け、残る十八か月分は自ら堪忍したと申告する。

  49. 後編3-No.748 島津竜伯書状

    島津義久が又八郎に、廿七日は悪日なので出立せず、天候が悪ければ廿五日の行動を現地へ申し付けるよう伝える。吉日である翌日に市成の城を攻める手配をし、敵方の動きを見越しつつ、廿八・廿九日頃には又八郎が来て諸備を寄せ、軍事方針を相談するよう求める。

  50. 後編3-No.749 島津竜伯書状

    島津龍伯(義久)が伊東豊前□□へ、庄内との通融をめぐって伊東方の領内で成敗が行われたと聞き、祝着の意を示す。今後も庄内との往還が生じないよう、引き続き取り締まることを依頼した書状。宛所末尾二字は原資料でも欠損記号となっている。

  51. 後編3-No.750 某宛行状

    大隅国桑原郡中津河村の高千百十二石九斗六升、清水内湊村の高四百九十五石四斗七升、網船・網一帖・塩屋一間を合わせ、高千六百十一石七斗六升を記す宛行状である。このうち加増分を三百石とする。

  52. 後編3-No.751 薩州島津氏系図

    薩州島津氏の系譜を図示し、忠辰・忠隣・忠清・忠栄らの系統と、久基、久弘、久近らへの分岐を示す。各人の通称・官途として又太郎、三郎次郎、備前守、越前守、民部少輔、弥市郎などを付記する。

  53. 後編3-No.752 島津忠栄譜

    慶長八年に母堂御平が死去すると、島津忠栄は義久の命により、御平の遺領である大隅国桑原郡中津川村の知行高千二百石と、付属する家人六十余人を相添えて拝領した。忠栄の旧来の知行は五百石で、相続を伝えた使者は伊集院伴右衛門尉久共であったと記す。

  54. 後編3-No.753 島津忠将一流系図

    島津忠将の一流を記す系図で、右馬頭以久の三男である忠興について、字を堯舜房、官途を右馬頭とする。忠興は慶長四年五月廿九日に種子島で生まれ、母は松木貞右衛門尉の姉であったと記す。

  55. 後編3-No.754 島津義弘覚書

    島津義弘の覚書で、龍伯が定めた先祖祭祀・殿中作法・出仕秩序を守り、鹿児島や外城の制度、取次役、普請・掃除、知行支配を慎重に運用するよう列挙する。無足衆への配慮、高麗・京都から帰った者への礼、隣所や出家衆との交際、人事・加増の相談を求め、遊覧・大酒・物品所望を慎み、法度制定や身近に置く人物にも十分な思…

  56. 後編3-No.755 島津義弘覚書

    島津義弘の覚書で、龍伯が定めた法度と出仕・内向きの作法を変えず、国元の用務が済むまでは遊山や乱酒を控えるよう命じる。留守中の人々への配慮、外城の無足衆、元日作法、鹿児島での神水と一向宗禁制、信心、成敗の用捨、女中方の規律などを挙げ、唐船や新田宮再興、家中の制札についても処置を示す。

  57. 後編3-No.756 島津義弘・同忠恒朝鮮陣戦没者供養碑文

    島津義弘・忠恒が、慶長二年八月十五日の南原表と同年十月朔日の泗川表で討ち取られた明軍、ならびに海陸で戦死・病死した敵味方の軍兵を等しく仏道へ入れるため建立した供養碑文である。南原では島津勢の討取四百二十人、泗川では大明軍八万余の敗亡を記し、度重なる朝鮮の戦場での死者を弔う。

  58. 後編3-No.757 島津義弘書状

    島津義弘が又八郎に、宗世が庄内で堪忍しており、もし退出を望むなら配慮するよう伝える。寺沢志摩守の依頼により、堺の油屋道総の代官二郎左衛門尉について、庄内で無事に滞在できるよう、旅人として龍伯の意向を得たうえで援助することを求める。

  59. 後編3-No.758 伊勢貞昌書状

    伊勢貞昌が入田左馬入道に、孫右衛門尉を介して伝えられた件を披露したところ御感を得たと報じる。忠節を尽くす者があれば取り立てること、御前への披露以外は知る者のない件なので隠密に扱うことを求め、後日の証拠として関係する二人にも書付を送った旨を伝える。

  60. 後編3-No.759 寺沢正成広高書状

    寺沢正成広高が島津忠恒の側近衆に、伊集院源二郎の居城下にいる堺の油屋三郎左衛門助九郎は油屋道総の代官として下向した者であると説明する。旧知の道総から兵庫頭殿にも申し入れがあり、本人には早々に退出するよう伝えたので、異議なく取り計らうよう求める。

  61. 後編3-No.760 島津惟新義弘書状

    島津義弘が島津忠恒に、当地の様子は大田吉兵衛尉に詳しく含めて下したが、庄内の情勢を案じて重ねて指示する。人数が必要なら義弘方へ上ってきた者を現地に留めて諸事に油断なく備えること、特に帖佐については大田から事情を聞き、外聞にも実質にも適切な措置を取ることを求める。

  62. 後編3-No.761 島津竜伯書状

    島津義久が又八郎に、軍勢の手配は吉田に申し付け、矢合わせの準備にも油断しないよう命じる。庄内境目へ人数を出す日を二十日から二十二日の間で検討し、祈念の都合を吉田と相談した結果、二十・二十一日は差し合いがあるため二十二日がよいとして、隠密に当地で申し渡す意向を伝える。

  63. 後編3-No.762 伊集院忠真書状

    伊集院忠真が川上忠智に、石田三成の使者櫻木平右衛門尉が通路封鎖のため当地に滞留していたので、供を一人添えて上洛させ、中央への取次を求める。長束正家を通じて武庫様(島津義弘)の直書を受け、以前の請文に相違がない旨を申し上げたものの、幸侃成敗後は境目の放火や往来停止に及び、自身まで幸侃と同科に処されると…

  64. 後編3-No.763 大山稲介覚書

    大山稲介が町田勝兵衛尉に、八歳で島津久保に従って朝鮮へ渡り、二十歳で帰朝した経歴を述べる。庄内山田城攻めでは長寿院の組下で普請と仕寄に従事し、志和知・大手口の垂れの一つを焼き落としたこと、山の口では椎之大蔵・谷山次郎右衛門尉・伊地知民部少輔らと籠り合い、戦う出家を突き伏せて奉公した戦功を覚書として報…

  65. 後編3-No.764 近衛前久書状

    近衛前久が島津忠恒からの書状を喜び、当地でも珍しい雄犬であり、雌犬と合わせて良い子犬を得たいと述べる。とりわけ鳥犬を早速送り届けられたことに深く謝し、秘蔵する意向を示すとともに、近日の忠恒の上洛を期待し、積もる話は対面で述べたいと伝える。

  66. 後編3-No.765 島津義久譜

    島津義久譜は、慶長四年夏、島津忠恒が薩摩へ帰着した後、大軍を庄内へ向け、まず恒吉を攻めて敵兵を屈服させたと記す。六月二十三日には山田城を陥落させ、数百人の反乱勢を討ち取り、その後は山田を本営としたとする。

  67. 後編3-No.766 島津義弘譜

    島津義弘譜は、慶長四年六月二十三日に庄内の山田城を攻め落とし、太守島津忠恒の兵を同城へ分け置いたと簡潔に記す。

  68. 後編3-No.767 町田久幸譜

    町田久幸譜は、慶長四年六月二十三日、島津忠恒が大軍を率いて伊集院忠真の山田城を攻め落とした際、町田久幸が大口衆を率いて自ら城へ乗り込み戦功を挙げたと記す。一方で、久幸の軍では町田新介・木場民部左衛門以下、多くの戦死者を出したとする。

  69. 後編3-No.768 町田久則譜

    町田久則譜は、島津忠恒の庄内出陣に供奉し、山田城が落ちた際、町田久則が鉄砲傷を負って退こうとしたところ、城兵一人が勇戦を挑んできたと記す。久則は負傷を顧みず戦ってその首を討ち取り、後に相手が勇名のある黒木越前であったと知ったとする。

  70. 後編3-No.769 新納忠在譜

    新納忠在譜は、慶長四年夏、伊集院忠真が都城を拠点に十二の砦を構えて反乱した際、新納忠在が太守島津忠恒の厳命を受けて庄内へ赴き、軍務に従事したと記す。翌年三月、忠真が城を下りた日に忠在も帰陣したとする。

  71. 後編3-No.770 島津忠恒書状

    島津忠恒が中務大輔に、その方面で多数を動員して尽力し、山田城を切り崩した働きを賞する。討死・負傷した手勢の軍労にも言及し、さらに攻め詰めることが肝要であるため、川上左近将監と伊勢兵部少輔を派遣して協議させると伝え、慰労の印として刀一腰を贈る。

  72. 後編3-No.771 島津義久書状案

    島津義久が金蔵坊に、帰国後に音信がなかったことを残念に思うと述べ、伊集院源二郎が籠城していた時期の不安を振り返る。とりわけ息女の祈念について懇ろに祈祷したことを喜び、今後も引き続き祈念するよう頼み、心ばかりとして京織一端を贈る。

  73. 後編3-No.772 島津家久譜

    島津家久譜は、慶長四年閏三月、伊集院忠真が庄内の十二外城を修築して兵器と兵を備え、都城にあって作戦を立てたと記す。島津方は六月二十二・二十三日に恒吉城を攻めたが堅守されて退き、二十三日に山田城を攻めて即日陥落させた。この戦いでは島津忠豊が佐土原から騎兵・歩兵を率いて来援し、軍功を挙げたとする。

  74. 後編3-No.773 北郷忠能譜

    北郷忠能譜は、伊集院忠棟誅殺後、忠真が都城と十二の砦を拠点に反乱し、島津忠恒が庄内へ出陣した経過を記す。北郷三久は十三歳の長千代丸を伴って東霧島に布陣し、六月二十三日の山田城攻略では島津忠豊・新納忠元・入来院重時・村尾松清らが数百の首を得た。一方、六月晦日の蟻瀬の伏兵で長野種堅・宮越正秀が戦死し、七…

  75. 後編3-No.774 北郷氏庶流系図

    北郷氏庶流系図は、慶長四年六月、長千代丸が祁答院を発して庄内へ出陣した際、北郷久武・北郷久明が従軍したことを記す。北郷忠純についても同年六月の従軍を、前文と同内容として掲げる。

  76. 後編3-No.775 島津豊久譜

    島津豊久譜は、豊久が精兵を率いて佐土原から庄内へ赴き、島津忠恒方と陣柵を構えて敵城を攻めたと記す。六月二十二日の山田城攻めでは、薩摩勢が本城を攻める間に豊久が新城へ乗り込み、旗を立てて守兵を置いたうえで本城を攻撃し、防御を崩して家臣らが多くの敵首を得た。その後は森田に布陣して志和池城包囲に従事し、徳…

  77. 後編3-No.776 徳川家康書状

    徳川家康が島津中務大輔忠豊に、伊集院源次郎忠真がなお下城しないのは不届きであるとし、寺沢志摩守を派遣したので相談のうえ自ら出陣し、忠真を討ち果たすよう命じる。詳細は寺沢の口上に委ねる。

  78. 後編3-No.777 寺山氏系図

    寺山氏系図は、廣田某の猶子となった寺山四郎左衛門久兼が、慶長四年の庄内山田の戦いで三十三歳で戦死したと記す。法号を良翁玄張居士とする。

  79. 後編3-No.778 島津忠豊(豊久)書状

    島津忠豊が図書頭に、庄内へ出陣して山田城を攻め落とした勝利を祝い、忠豊への言葉と腰物の拝領に謝意を示す。図書頭方の手勢に戦死者が出たことへの配慮にも礼を述べ、今後の軍事行動は川上左近将監・伊勢兵部少輔と協議して両使へ伝えたので、披露するよう求める。

  80. 後編3-No.779 島津竜伯書状

    島津義久が倉光主水佐に、前年に捕えた羽虫鷹の羽穴を木釘で補修し、羽や尾羽を整えている状況を詳述する。鷹を扱う阿多甚左衛門は正式な鷹匠の作法こそ知らないが養生には通じるとし、薬の使用法を尋ねる。また、関白の薩州下向時の騒動で以前拝領した鷹を失ったことや、鷹の馬への据え方・馴らし方にも触れ、飼育上の助言…

  81. 後編3-No.780 島津忠恒書状

    島津忠恒が新納忠元に、現地へ赴いて軍務に尽力したことを賞する。老齢での在陣は大儀であると気遣いながらも、もうしばらく現地に詰めて動番を担うよう頼み、自身も近日出馬するので、それまで諸人に油断なく守備させることが肝要だと指示する。

  82. 後編3-No.781 曼荼羅院外十一院請取状

    曼荼羅院ほか十一院が、島津義弘の逆修として高野山金剛峯寺奥院の常燈祈祷料百十貫文を受け取ったことを証する。高野山参詣と常燈奉納の功徳、現世安穏と後世成仏を説き、十二院の印を連ねて宿坊廻向院名義で請取状を発給する。

  83. 後編3-No.782 近衛信尹書状

    近衛信尹が、伊集院忠棟の死後、北郷弥右衛門尉らを介して忠真・又八郎に君臣の道をわきまえて武庫に従うよう勧めた経過を述べる。庄内方がなお籠城しているため、龍伯と相談して過失なく処置し、内府徳川家康の使者とも現地の状況を熟談するよう求める。また、忠真兄弟と母の処遇、上井神五郎の上洛、出水表の配当帳や国元…

  84. 後編3-No.783 近衛信尹書状

    近衛信尹の書状について、本文巻六のNo.783と同文であるため本文を省略した旨を記す。御名も宛所もない書状で、写しに誤りがある可能性があるため御譜中の写しを参照すべきだとの注記も付す。

  85. 後編3-No.784 島津維新書状

    島津義弘が少将殿に、喜入大炊助が持参した龍伯の書状を受け、国元静謐を喜ぶ。庄内で楯籠する伊集院源次郎への処置は龍伯と協議し、内府徳川家康の使者を厚遇して現地事情を熟談するよう求め、源次郎兄弟と母の関東流罪、上井神五郎の上洛と国元での糺明にも触れる。さらに内府への進物、諏訪神事での精進・社参を指示し、…

  86. 後編3-No.785 島津家久譜

    『島津家久譜』は、伊集院源次郎がなお降参せず楯籠しているため、徳川家康が誅罰の意向を示し、状況見分のため山口勘兵衛尉を薩摩へ下したと記す。あわせて、島津義弘がこの件を告げる書状を発したとして、その書状を次に掲げる導入記事である。

  87. 後編3-No.786 島津義弘書状

    島津義弘が又八郎に、伊集院源次郎がなお楯籠し、内府徳川家康は従わなければ成敗する意向であると知らせる。現地の状況を聞くため山口勘兵衛尉が派遣されたので、宿所など格別にもてなし、喜入大炊助の案内を受けて応接するよう求める。

  88. 後編3-No.787 徳川家康書状

    徳川家康が薩摩少将に、音信として銀子三十枚を贈られたことへの謝意を示し、無事に帰国したとの知らせを喜ぶ。詳しいことは伊奈図書頭から申し伝えるとして書状を結ぶ。

  89. 後編3-No.788 島津家久譜

    『島津家久譜』は、伊集院源次郎の楯籠に際し、島津忠恒が内大臣徳川家康から書状・使節と縮・帷子・矢根などを受け、伊那図書頭の奉書に従って謹んで拝受したことを記す。これは忠恒一身の誉れにとどまらず、他国にも聞こえる名誉であると評価する。

  90. 後編3-No.789 徳川家康書状

    徳川家康が薩摩少将に、帰国後しばらく書状を送らなかったため使者を遣わすと述べる。伊集院源次郎がなお城を抱えていると聞き、譜代家人として自由な振る舞いであるから早急に成敗すべきだとしつつ、軍勢に手違いがないよう慎重な処置を求め、委細は使者の口上に託す。

  91. 後編3-No.790 伊那令成書状

    伊那令成が薩摩少将方に、帰国後の見舞いに対する使札と、縮百端・帷子百・矢根二千の音信を受けた旨を述べる。伊集院源次郎がなお城に楯籠していることを内府徳川家康が懸念しており、下城しなければ早々に成敗すること、必要なら軍勢を随時出すことを伝え、委細は山口勘兵衛尉の口上に託す。

  92. 後編3-No.791 徳川家康書状

    『嶋津氏文書』所収の徳川家康書状について、本文巻六のNo.789と同文であるため本文を省略した旨を記す。御譜中を用いて写した二通であり、重複になるとの注記を付す。内容は、伊集院源次郎の籠城を早急に成敗し、軍勢の扱いに手違いがないよう求める書状である。

  93. 後編3-No.792 伊那令成書状

    伊那令成の書状について、本文巻六のNo.790と同文であるため本文を省略した旨を記す。内容は、縮百端・帷子百・矢根二千の音信を受け、伊集院源次郎が下城しなければ成敗すること、必要に応じて軍勢を出すことを伝えた書状である。

  94. 後編3-No.793 徳川家康書状

    徳川家康が伊東豊後守に、伊集院源次郎がなお居城を抱えていると聞いたため、島津父子への見廻使者を派遣したと知らせる。龍伯父子の指示に従い、伊東自身も現地で奔走することが肝要だと求め、後便を期す。

  95. 後編3-No.794 寺沢正成書状

    寺沢正成が薩摩少将方に、伊集院源次郎がなお楯籠しているため、内府徳川家康が見廻として山口勘兵衛を派遣したと知らせ、使者到着後に現地事情を説明するよう求める。自身も下向する意向を述べ、源次郎の弟たちは近日佐竹方へ送られる予定で、兵庫殿とも相談したと伝える。

  96. 後編3-No.795 寺沢正成書状

    寺沢正成が薩少将(島津忠恒)の側近へ、原文に『ばはん』と記される行為は以前から御法度で、前年春にも奉行衆・年寄衆が触状を出したと伝える。呂宋で『ばはん』をしたとの知らせを受け、内府徳川家康が厳重に糺明して成敗するよう命じたため、到着する唐船を堅く改め、様子を報告するよう求めた。同旨は兵庫殿にも伝えて…

  97. 後編3-No.796 島津義久宛行状

    島津義久が前田久右衛門尉に、旧主肝付弾正忠の武勇は広く知られており、その家跡を取り立てるべきだと述べる。前田家が代々重ねた比類ない戦功と忠節を評価して召し出し、高四十石を宛行う。

  98. 後編3-No.797 島津義久書状案

    島津義久が羽柴左近太夫に、度々の使書への返礼が遅れたことを詫び、又八郎と相談して書状を送る。伊集院源次郎がなお楯籠しているため行動に移る覚悟だが、島津方で対処できるので援軍は当面見合わせてよいと伝え、京都での支援を求める。委細は忠恒に報告させるとし、銀子二枚を贈る。

  99. 後編3-No.798 島津義久書状案

    島津義久が黒田甲斐守に、度々の使札への礼が遅れたことを詫び、又八郎と相談して書状を送る。今後も親しく相談したいと頼み、委細は忠恒から伝えるとして、軽少ながら銀子二枚を贈る。

  100. 後編3-No.799 島津義久書状案

    島津義久が羽兵庫入道(島津義弘)へ、石田殿の蔵米を差し上げるよう大田吉兵衛尉を通じて命じられた件について照会した書状案。義久は伏見で知行を返給された際、幸侃に保持を求めたが承引されず、柚原・八十島を介した取次もできなかったため、現地知行を一円保持しない覚悟でいたという。今回の命令が途中で滞ったのか、…