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後編3の目録

旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。

全1,990件中 201~300件・3 / 20ページ

  1. 後編3-No.201 安宅秀安書状

    安宅秀安が羽兵方へ、正月十五日付書状が二月二十二日に伏見へ届いたと報じた書状。忠恒の渡海後、五月中旬から六月上旬に諸勢が着陣するまでの間、長陣の羽兵は帰朝し、小姓衆を伴って上洛して秀吉へ御目見するか、国元の用務を済ませてから上洛するよう三成の意向を伝える。

  2. 後編3-No.202 島津義弘旋書

    島津義弘が在陣中の規律を定めた廻書。口論・喧嘩、賭博、過度の飲酒、無断外出、私的な売買や宿泊などを禁じ、違反者の処分と相互監督を命じる。

  3. 後編3-No.203 伊集院抱節・比志島国貞連署証状

    伊集院抱節と比志島国貞が、海上交通が困難ななか自船で渡海して参陣した者の忠節を賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。

  4. 後編3-No.204 伊集院氏支流系図

    伊集院氏の支流について、忠春から九郎・助右衛門尉へ続く系統を簡潔に示した系図。

  5. 後編3-No.205 伊集院抱節・比志島国貞連署証状

    伊集院抱節と比志島国貞が、困難な渡海を果たして参陣した忠節を賞し、知行十石を充行う旨を伊集院九郎に証した連署状。

  6. 後編3-No.206 伊集院抱節・比志島国貞連署証状

    伊集院抱節と比志島国貞が、兵船での渡海が難しいなか自力で参陣した者の働きを賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。

  7. 後編3-No.207 伊集院抱節・比志島国貞連署証状

    伊集院抱節と比志島国貞が、兵船の渡海が困難ななか自力で参陣した高城左京亮の働きを賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。

  8. 後編3-No.208 島津義弘譜

    島津義弘譜のうち、加藤清正らの朝鮮再進攻、梁山城・西生浦周辺での行動、朝鮮側への示諭を記す記事。日本と明の講和交渉が破綻した経緯、明軍の兵数と進軍、諸城の守備、現地の飢饉・兵站難までを叙述する。

  9. 後編3-No.209 了斎書状

    了斎が伊勢弥九郎方へ、長期在陣の辛労を察し、無沙汰を詫びた書状。武庫が渡海する際に船元まで送り、無事に同道して帰朝することを願っていると伝え、軽微ながら裏袋一つを贈る。

  10. 後編3-No.210 島津義久書状

    島津義久が忠恒へ、長陣の軍労をねぎらい、義弘が渡海したので満足であろうと述べた書状。石田治部少輔から忠恒を速やかに帰朝させるよう命じられたと聞き、早々に上京するのを待っているとし、番船出動の風聞にも注意するよう伝える。

  11. 後編3-No.211 新納為舟忠元起請文

    新納忠元が、主家への忠節を貫き、内外の者と私曲を結ばず、知り得た企てを隠さず申し出ることなどを誓った起請文。違背した場合に諸神の罰を受ける旨を神文として列挙する。

  12. 後編3-No.212 島津義弘書状

    島津義弘が又八郎に、川東善左衛門尉の京都からの帰着と、石田治部少輔が又八郎の帰朝を命じた旨を安国寺恵瓊の書状で知ったことを報じた書状。義弘は先月十一日から州内に移ったが船が整わず、数日中の出船を見込むとし、自身の着陣を待って帰朝を延ばさないよう求める。

  13. 後編3-No.213 島津義弘書状

    島津義弘が宰相に、又八郎方と相談したいことが多いものの、自身が船元へ下るため高麗から申し入れると伝えた書状。宰相にも渡海の心構えを怠らず、伏見到着後は又八郎と相談し、細島まで赴くよう求める。

  14. 後編3-No.214 島津義弘譜

    島津義弘譜のうち、義弘が三月廿八日に久見崎を解纜したものの、逆風のため壱岐に滞留したことを記す記事。秀吉の朱印状により朝鮮再出勢の兵数が増やされた事情にも触れる。

  15. 後編3-No.215 島津義弘譜

    島津義弘譜のうち、明帝が朝鮮救援のため楊鎬・劉綎・麻貴らを派遣し、遼東・浙江・四川・広東などの兵を集めて日本軍に対抗させたことを記す記事。

  16. 後編3-No.216 石田三成書状

    石田三成が羽兵に年頭の使札と銀子三枚への礼を述べ、番船が敵船に遭遇しながら十分に働かず早々に引き退いた件について、寺沢志摩守を通じて厳しく申し付けると伝えた書状。油断を禁じ、羽兵の着陣後に上洛するよう求める。

  17. 後編3-No.217 小西行長書状

    小西行長が島津又八郎方に、番船について諸将が注進した結果、朱印状が下され、寺沢志摩守の使者が持参したことを報じた書状。当年の軍役書立も各城へ届いたとし、石田治部少輔から兵庫頭への通知を踏まえて又八郎の判断を尋ねる。

  18. 後編3-No.218 島津忠恒書状

    島津忠恒が小西行長に、先日の番船出動を諸将が注進したことで朱印状が下された件を受け、寺沢志摩守へ懇切な礼状を送る意向を伝えた書状。行長からも寺沢へ書状を遣わすよう依頼する。

  19. 後編3-No.219 島津義弘書状

    島津義弘が又八郎に、自身は五日前に壱岐まで渡ったが順風がなく出船が遅れていると報じた書状。又八郎の帰朝について北郷宗次郎を介して指示したが、石田治部少輔から高麗で交替させる旨の早飛脚が来たため、帰朝時期は改めて知らせるので準備を怠らないよう求める。

  20. 後編3-No.220 小西行長書状

    小西行長が島津又八郎に、当年の軍事行動が確定したので内々に準備するよう伝え、変更があれば双方で知らせ合うことを求めた書状。普請に取り紛れて見舞いが遅れたことを詫び、近日の渡海後に面談して詳しく相談したいと述べる。

  21. 後編3-No.221 島津義弘書状

    島津義弘が又八郎に、渡海の見舞いと使者派遣への礼を述べ、逆風のため津浦を漂い、ようやく対馬小浦へ着岸したと報じた書状。又八郎の帰朝を北郷宗次郎に指示したが、石田治部少輔から高麗で交替させる命令も届いたため判断に迷ったとし、小姓だけを帰朝させる案の検討を求める。

  22. 後編3-No.222 島津義弘書状

    島津義弘が又八郎に、当地の軍事行動が延期されたため当面の参陣は不要とし、高麗奥地の陣が破れたとの報せを踏まえてしばらく待つよう命じた書状。出陣時期は後報するとし、順風なら近日渡海して面談すること、詳細は相良甚吉が伝えることを述べる。

  23. 後編3-No.223 朝鮮本陣番帳

    朝鮮における島津義弘の本陣警固を、一番以下の番組ごとに編成した番帳。南郷覚右衛門尉をはじめ多数の家臣名を列挙し、黒丸・白丸の印を付して役割を区別する。

  24. 後編3-No.224 嶋津氏蔵書所収文書(本文省略)

    「嶋津氏蔵書」に収められた文書。本文は『旧記雑録後編二』五〇六号文書と同文のため省略されている。

  25. 後編3-No.225 島津義弘譜

    島津義弘譜のうち、豊臣秀吉が沈惟敬に朝鮮三道を速やかに割譲するよう要求し、明帝は沈惟敬に日本兵の撤退を求めさせたため、双方の要求の間で沈惟敬が窮したことを記す記事。秀吉が求めた三道は全羅・慶尚・忠清であったとする。

  26. 後編3-No.226 島津義弘書状

    島津義弘が宰相殿へ、又八郎の心中と働きについて理解し安心した旨を伝え、伏見の様子を詳しく知らせるよう求めた。また、自身の航海が風待ちで遅れ、船酔いしたことを述べるとともに、朝鮮での働きを妨げないよう又八郎の帰朝時期を見計らい、寺沢志摩守から現地の事情を聞いたうえで、数日でも帰朝させたいとの意向を伝え…

  27. 後編3-No.227 島津忠恒書状

    島津忠恒が、赤国方面の軍役と朱印による人数割当てを受け、家中の人員・馬・兵糧・船を点検して渡海準備を整えるよう三名に命じた書状。海上での遅滞を避け、現地の必要に応じて配分することも指示する。

  28. 後編3-No.228 相良家長起請文

    相良家長が、義弘・忠恒への奉公を第一とし、内外の者と私曲を結ばず、知り得た企てを隠さないことなどを誓った起請文。違背した場合に日本国中の神仏の罰を受ける旨を列挙する。

  29. 後編3-No.229 島津忠恒書状

    島津忠恒が本田源右衛門尉に、三原諸右衛門尉を通じて先に伝えた事項を確認し、奥地への出勢が決まったため、人馬を早急に渡海させるべく八木民部左衛門尉・関帖右衛門尉を派遣したと報じた書状。幸侃が上洛した場合の情報収集を命じ、遅滞や讒言を戒める。

  30. 後編3-No.230 中山王尚寧書状

    中山王尚寧が三名に、これまで音信がなかったものの、朝鮮在番から無事帰朝したと聞いて喜び、今後は親しく交誼を結びたいと伝えた書状。琉球の産物を別紙のとおり贈る。

  31. 後編3-No.231 近衛前久書状

    近衛前久が島津又八郎に、長期の在陣の苦労をねぎらい、上洛後の対面を望むとともに、龍伯が多数の馬・早馬を所持することなどを伝えた五月二十七日付の書状。

  32. 後編3-No.232 石田三成書状

    石田三成が島津又八郎へ、帰陣を待つ旨と御朱印をめぐる用件を伝えた五月二十八日付の書状。龍伯・馬に関する記述は直前のNo.231に属する。AI用PDFは本文後に巻39扉を混入しており、派生PDFの終了境界には疑義が残る。

  33. 後編3-No.233 島津義久書状

    島津義久が又八郎に、長い在陣の苦労を察し、帰朝が延びていることを案じた書状。注文した武具は存松が精を入れて完成させたため送ること、安国寺恵瓊の才覚で鹿毛・糟毛の馬を求めて送ることを伝え、詳細は岩切三郎二郎に含める。

  34. 後編3-No.234 雑抄

    雑抄のうち、龍伯から又八郎への書状を引き、宰相が無事に上着したことと、又八郎の安否を案じる旨を記した記事。

  35. 後編3-No.235 雑抄

    雑抄のうち、慶長二年六月六日付の友枕斎如貴から伊勢弥九郎への書状に、宰相が前日に上洛したと記されていることを抄出した記事。

  36. 後編3-No.236 長寿院盛淳・上井里兼連署知行目録

    長寿院盛淳と上井里兼が連署し、本田助丞に薩州入来院裏谷内の屋敷・田畠を充行った知行目録。各地の上田・中田・下田・畠を面積と石高別に列挙し、合計を示す。

  37. 後編3-No.237 島津義弘書状

    島津義弘が一乗院に、現地が無事で又八郎も勇健に在陣しているのは祈念の効験であると謝し、一乗院と衆徒が立願・祈念に精を尽くしていることへの感謝を述べた書状。引き続き丹精を込めて祈祷するよう依頼する。

  38. 後編3-No.238 寺沢正成広高書状

    寺沢正成広高が島津義弘・又八郎の陣所に、今度の軍事行動後は加徳を破却し、「こもかい」を新たに宛てるので、帰陣の際にはその割当地へ直接移るよう伝えた書状。

  39. 後編3-No.239 伊勢如貴書状

    伊勢如貴が伊勢弥九郎に、長く音信がなく、帰朝すると聞きながら実現していないため安否を案じた書状。武庫の無事の着船を尋ね、幸相が一昨日上洛したこと、自身も奉公を怠らないことを伝える。

  40. 後編3-No.240 島津竜伯宛行状

    島津義久が友枕斎如貴に、日州諸県郡内の八代村・深年村などの土地を、村別の石高を示して充行った宛行状。

  41. 後編3-No.241 島津竜伯詠草

    島津義久が近衛前久に和歌会の執行を依頼して詠んだ詠草。「松下納涼」「雲間初鷹」「社頭祝」の三題について、庭の松陰を流れる水、雲間を行く初鷹、住吉社の千年の栄えを詠む。

  42. 後編3-No.242 近衛信輔書状

    近衛信輔が修理大夫入道に、上国の労苦を気遣い、いつ頃当地へ来訪するかを尋ねた書状。久しく対面していないことを述べ、早い参会を望む。

  43. 後編3-No.243 近衛前久詠草

    近衛前久が、武士の名誉と花の錦を重ね、色鮮やかな花や春の情景を詠んだ和歌数首。

  44. 後編3-No.244 島津義弘譜

    島津義弘譜のうち、豊臣秀吉が朝鮮の不服従を理由に再出兵を命じ、諸将を進発させた経緯を記す記事。明軍の進出、諸城の攻防、兵糧不足や日本軍の配置までを叙述する。

  45. 後編3-No.245 朝鮮日々記

    『朝鮮日々記』のうち、唐島・漆川周辺で日本水軍が朝鮮船団を攻撃した戦闘を詳述する記事。船団の進路、諸将の配置、乗り移りと拿捕、敵船の焼却・沈没、死傷者と戦功を日次に記す。

  46. 後編3-No.246 征韓偉略

    『征韓偉略』から、慶長二年六月十八日、小西行長の使者が海辺に来て伝えた日本軍諸将の朝鮮各地における守備配置を記す記事。宇喜多秀家を中心に、釜山・竹島・安骨浦・蔚山・加徳島・順天などへ諸将が分かれて布陣したことを列挙する。

  47. 後編3-No.247 征韓偉略

    『征韓偉略』から、慶長二年七月十五日夜に日本水軍が漆川周辺の朝鮮船団を攻撃した海戦を記す記事。夜襲から翌朝の追撃に至る戦闘、敵船の拿捕・焼却、多数の敵兵討取り、諸将の戦功と戦利品を叙述する。

  48. 後編3-No.248 島津義弘譜

    島津義弘譜のうち、日本諸将が巨済島・漆川方面で朝鮮水軍と交戦し、多数の船を捕獲・撃沈したことを記す記事。安骨浦などへの進攻、敵将の敗走、島津勢の戦功と戦利品にも触れる。

  49. 後編3-No.249 本田親信差出目録

    本田親信が差し出した御稲荷御神領の田畠目録。大田・畠などの所在、面積、斗代と合計を記し、神領の規模を算定する。

  50. 後編3-No.250 島津竜伯書状

    島津義久が伊集院抱節に、長期の軍労と赤国出勢への心遣いをねぎらった書状。又八郎が若輩であるため軍法について懇切に助言するよう頼み、義弘からも指示があるだろうが十分に力を添えるよう求め、茶一包を贈る。

  51. 後編3-No.251 大谷吉継書状

    大谷吉継が島津義弘の五月二十三日付書状を六月九日に伏見で披見し、沈香一斤への礼と朝鮮在陣の労を述べた書状。赤国方面の軍事行動について、石田三成が渡海していないため義弘が心を遣っていることを察し、三成の指図に従い油断なく進めるよう求める。

  52. 後編3-No.252 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、炎天の渡海を労い、赤国での働きは先に命じた通り状況を見計らって油断なく進めるよう命じた朱印状。細目は松井藤介・竹中貞右衛門尉に伝えさせるとする。

  53. 後編3-No.253 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津豊久に、炎天の渡海を労い、赤国での働きを先の命令通り慎重かつ油断なく行うよう命じた朱印状。松井藤介・竹中貞右衛門尉から細目を伝えさせ、帷子一重も下賜する。

  54. 後編3-No.254 島津竜伯書状

    島津義久が島津義弘に、軍勢加増の要請を受けて肥後勝兵衛尉を差し上せ、急用の道具を先に整えて渡海させ、残りは追って送ると報じた書状。軍事行動は八月と聞くため、石田治部少輔が又八郎の帰朝延期を了承したこと、渡海衆不足にも対処することを伝える。

  55. 後編3-No.255 島津竜伯書状

    島津義久が又八郎の五月二十三日付書状を六月三日に受け、肥後勝兵衛尉を差し上せて急用の道具を先に整え、遅陣を避けるため渡海させると報じた書状。残りの人員・物資は追送し、八月の軍事行動と又八郎の帰朝延期について石田治部少輔が了承していることを伝える。

  56. 後編3-No.256 福島正則書状

    福島正則が島津又八郎へ、高麗以来対面できず懐かしく思っていたところ、竹中貞右・松井藤介が使者として渡海するため書状を送ると伝える。渡海後の無沙汰を詫び、大閤・秀頼が息災であること、自身も当地で命じられた用務にあたりたいことを述べる。

  57. 後編3-No.257 川上肱枕(忠智)書状

    川上肱枕(忠智)が枇山権左衛門尉へ、五月二十三日付書状を七月四日に伏見で拝見したことと、相手が無事に高麗へ着陣したことを喜んだ。宰相の大坂到着後に当地の態勢が整ったこと、石田三成・安宅秀安らとの応接、島津家関係者や在京衆への礼儀・見舞い、家中で不届きがあれば処罰する覚悟などを詳しく報告し、義弘・龍伯…

  58. 後編3-No.258 伊集院幸侃忠棟書状

    伊集院幸侃忠棟が伊勢弥九郎に、又八郎の書状を受け、赤国出勢の人数確保について答えた書状。在京衆や軍役免除者もいて二十万石分の人数を整えるのは困難で、小給人衆も千人ほど不足しているため、残る人数を差し渡すよう求める。

  59. 後編3-No.259 島津家久譜

    『島津家久譜』から、日本諸将の再渡海後、巨済・唐島・加徳島付近で明・朝鮮水軍と戦った経過を記す。敵船の接近と日本側の迎撃、船の拿捕・焼却、将ごとの働き、損害と戦功、豊臣秀吉の賞賛までを叙述する。

  60. 後編3-No.260 島津豊久譜

    『島津豊久譜』から、朝鮮水軍が巨済島周辺へ数百艘を進めた際、日本側が七月十四日に迎撃した記事。島津豊久らの戦闘、藤堂方による敵船拿捕、加徳島方面での追撃と戦功を記す。

  61. 後編3-No.261 豊州家歴・平山氏系図(対馬守久清譜)

    『豊州家歴・平山氏系図』所収の「対馬守久清譜」によれば、平山久清は文禄元年春に島津義弘が朝鮮へ渡海して以来、その側を離れず従軍した。慶長二年七月十四日の唐島海戦では、朝鮮救援に来た明国軍船数十艘を日本諸将が争って撃破し、唐島を焼いた際、久清が敵一人の首を取ったと記す。

  62. 後編3-No.262 島津義弘外五名連署言上状案

    島津義弘ら六名が、唐島沖へ進出した明・朝鮮水軍を日本側諸将が共同で迎撃した経過を言上する連署状案。一番船の配置、敵艦との交戦、拿捕・首級、各隊の働きを列挙し、戦功の披露を求める。

  63. 後編3-No.263 島津義弘書状

    島津義弘が又八郎に、公儀の船で人数を繰り渡す準備と、自陣所を狭いため別所へ移す普請を急ぐよう命じた書状。加徳から唐島陣所までの輸送では又八郎方の船も用いれば早く渡せるとし、荷漕船の確保や図書頭との相談を求める。

  64. 後編3-No.264 島津義弘書状

    島津義弘が忠恒に、手勢が百人余にすぎず、加徳方面をはじめ各所の守備に人数が足りないと訴えた書状。先に申し送った通り速やかに人数を繰り渡し、守備と出動に支障が出ないよう求める。

  65. 後編3-No.265 島津義弘書状

    島津義弘が又八郎に、播州衆へ見舞いに赴いたところ三日中に出立すると聞き、翌日から道筋を見分させ先衆を立てると伝えた書状。中島へ陣取る衆を早く繰り渡し、当地からの出張に支障がないよう人数を整えることを求める。

  66. 後編3-No.266 小西行長・寺沢正成連署状

    小西行長・寺沢正成が島津又八郎に、在陣衆へ伝えるべき内容の朱印状が下されたので、書状到着次第、早々に釜山浦へ出向き、諸将と相談するよう求めた連署状。

  67. 後編3-No.267 島津常久譜

    『島津常久譜』から、宇多与右衛門尉が上京して安宅三河守へ訴状を提出したため、五代右京亮らを招いて糾明した経過を記す。関係者の申状・答書を京都へ送り、太守兄弟から与えられた書状もあわせて記録したとする。

  68. 後編3-No.268 宇多与右衛門尉訴状

    宇多与右衛門尉が、知行・奉公や家中での取扱いをめぐる経緯と、龍伯・武庫らへ申し立ててきた内容を列挙した訴状。相手方の申分との食い違い、兵具・金銀・奉公上の争点を示し、公儀による吟味と救済を求める。

  69. 後編3-No.269 朝鮮日々記

    『朝鮮日々記』から、加徳島前へ繰り返し現れた敵船を日本側の番船・諸隊が追撃した経過を記す。海上と陸路に分かれて敵を追い、射撃・接舷・上陸を交えた戦闘、首級や損害、各隊の動きを日次で述べる。

  70. 後編3-No.270 朝鮮日々記

    『朝鮮日々記』から、七月十三日に唐島と加徳島の瀬戸口で敵の番船五十余艘と交戦した記事。日本側の船が敵船を破り、島津義弘ら諸将が陸上から援護・進撃したこと、陣替え後の配置までを記す。

  71. 後編3-No.271 殉国名薮

    『殉国名薮』から、慶長二年の唐島・南原など朝鮮出兵中に戦死した島津家臣を、七月十五日、八月十五日、同廿八日、十一月十八日などの日付ごとに列挙する。小字で人物の所属や戦死事情を注記する。

  72. 後編3-No.272 朝鮮日々記

    『朝鮮日々記』から、赤国入りのため義弘・忠恒ら諸将が唐島へ渡り、波頓付近の川・城で明・朝鮮軍と交戦した経過を記す。敵陣への攻撃、鉄砲戦、首級、城の攻略、各部隊の進路とその後の逗留を詳述する。

  73. 後編3-No.273 朝鮮日々記

    『朝鮮日々記』から、諸将が南原周辺に二十日ほど逗留した後、担当の道筋ごとに分かれて内陸へ進軍した経過を記す記事。薩摩衆は泗川方面へ向かい、川を渡って村々や宿所を進み、現地の米を上納させるなどした。

  74. 後編3-No.274 朝鮮日々記

    『朝鮮日々記』から、島津勢が赤国方面から泗川の古館へ着き、泗川新城へ移った経過を記す。古城・新城の位置と警固人数、又八郎の入城、夜間警戒、諸将への守備割当てなど、泗川防備の形成を具体的に述べる。

  75. 後編3-No.275 征韓偉略

    『征韓偉略』から、日本軍が三道に分かれて南原へ向かい、宇喜多秀家を将とし、小西行長を先鋒、島津義弘らを諸隊に配したことを記す。南原城を守る明将楊元らとの攻防、兵数、包囲と攻略準備を叙述する。

  76. 後編3-No.276 征韓偉略

    『征韓偉略』から、二十五日夜、日本軍が矢・鉄砲を放って南原城を包囲し、月明かりを利用して攻めた経過を記す記事。明将楊元が防戦しながら城を脱出し、日本軍が城内へ突入して明・朝鮮兵四千余を討ったとする。

  77. 後編3-No.277 征韓偉略

    『征韓偉略』から、南原攻略後に慶尚・全羅両道を平定し、諸将が進軍と支配分担を協議した記事。慶尚道を島津義弘、全羅道を小西行長が管することとし、軍紀を乱して人民を害する者を処罰しつつ北進する方針を記す。

  78. 後編3-No.278 島津義弘譜

    『島津義弘譜』から、日本軍の再出兵をめぐる明朝廷の議論を記す。明の諸臣が講和を主導した石星の罪を論じ、朝鮮からの救援要請が切迫する一方、明側では各地の兵乱が続き、十分な援軍を募れなかった事情を述べる。

  79. 後編3-No.279 島津竜伯書状

    島津龍伯が奥地で軍労を重ねる忠恒を気遣い、頼直坊法印に祈念させた札七つ・守り二つ・巻数を送った書状。そのうち義弘へ渡す分を指定し、在陣中の無事と戦勝を祈る。

  80. 後編3-No.280 増田長盛・長束正家連署副状

    増田長盛・長束正家が、七月十六日付の注進状を伏見で披露したところ、番船を根切りにした諸将の手柄を秀吉が賞し、各人へ朱印を与えたと伝える副状。今後は陸地での働きを諸将と相談し、過失なく進めるよう求める。

  81. 後編3-No.281 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津忠恒に、唐島沖で敵の番船百六十余艘を攻めた際、自ら敵船へ乗り込み三番目の船の兵を討ち取り、捕獲船を日本へ送った働きを賞した朱印状。帰朝時に褒美を加えると約し、徳善院玄以らからも申し伝えさせる。

  82. 後編3-No.282 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が七月十六日付の注進状を八月九日に披見し、唐島・釜山海表で日本の通路を妨げていた敵番船百六十余艘を打ち捕らえ、唐人数千人を討ち、沿岸十六・七里の船をことごとく焼き払った戦果を賞した朱印状。寺沢の働きを特に無類と称賛し、帰朝後に関係者へ褒美を与えると約した。

  83. 後編3-No.283 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が七月十六日付の注進状を八月九日に披見し、島津義弘へ、唐島・釜山海表で日本の通路を妨げていた敵番船百六十余艘を打ち捕らえ、唐人数千人を討ち、沿岸十六・七里の船をことごとく焼き払った戦果を賞した朱印状。寺沢の働きを特に無類と称賛し、帰朝後に関係者へ褒美を与えると約した。

  84. 後編3-No.284 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、明軍が朝鮮都城から進出してきた場合は対陣を取り急ぎ注進するよう命じた朱印状。秀頼の留守を徳川家康・前田利家・上杉景勝らに託し、自身も少数の供で渡海して敵を討つ意向を示す一方、それまでは軽率な軍事行動を慎むよう求める。

  85. 後編3-No.285 豊臣秀吉朱印状

    本文はNo.282・283と同文であるため省略されている。唐島・釜山海表での番船壊滅と敵兵討取りを賞し、島津義弘・忠恒へ帰朝後の褒美を約する朱印状の重複写し。

  86. 後編3-No.286 豊臣秀吉朱印状

    本文はNo.284と同文であるため省略されている。明軍進出時の対陣・注進、秀頼の留守体制、秀吉自身の渡海意向と軽率な行動の禁止を忠恒へ命じた朱印状の重複写し。

  87. 後編3-No.287 浅野長政外三名連署副状

    浅野長政ら四名が秀吉朱印状の趣旨を副えて伝えた連署状。明軍が朝鮮都城を越えて進出した際の対陣と急報、秀吉渡海に備えた名護屋までの早舟・次馬の配置、軍勢の順次出動について指示する。

  88. 後編3-No.288 島津義弘譜

    『島津義弘譜』から、明軍の再編と日本軍の全羅道進攻を記す。南原城攻略のため日本諸将が軍を分けて進み、明将楊元らの守備軍と交戦して城を陥れ、さらに全州・黄石山方面へ進んだ経過、敵味方の損害と戦功を叙述する。

  89. 後編3-No.289 竹中隆重・毛利高政連署状

    竹中隆重・毛利高政が、先刻の相談どおり陣所を松原の大山へ移すのがよいと伝えた連署状。陣地選定について義弘の意向を求める短い軍事連絡。

  90. 後編3-No.290 島津義弘譜

    『島津義弘譜』から、義弘・忠恒らが南原城北側の松原大山に陣し、各隊とともに城を攻めた経過を記す。島津勢の横撃、首級四百二十一をはじめとする戦果、敵の自刎・降伏、日本側の損害と城中の混乱を具体的に掲げる。

  91. 後編3-No.291 島津家久譜

    『島津家久譜』から、義弘・忠恒ら日本諸将が全羅道へ進み、左右の軍に分かれて南原城を包囲した経過を記す。八月十五日夜の総攻撃で城を陥れ、明将楊元が逃れたこと、敵兵の討取りと日本軍の北進までを叙述する。

  92. 後編3-No.292 島津以久譜

    『島津以久譜』から、慶長二年八月、義弘・忠恒ら日本諸将が南原城を攻撃して守備軍を破り、同城を占領したことを簡潔に記す。

  93. 後編3-No.293 島津豊久譜

    『島津豊久譜』から、八月十五日の南原城攻めで豊久が敵陣へ攻め入り、首級十三を得た戦功を記す。家臣の戦死にも触れ、翌十六日に首級を日本へ送り、秀吉から賞賛を受けたとする。

  94. 後編3-No.294 樺山久高譜

    『樺山久高譜』の項目名のみを掲げる。独立した本文はなく、直後のNo.295「南原城攻図」に接して配置されている。

  95. 後編3-No.295 南原城攻図

    南原城の城郭・門・周辺地形を描き、日本軍諸隊の配置と攻撃方向を示した攻城図。島津義弘・忠恒ら諸将の陣所、進路、城を囲む山・川などを図示し、南原城攻略時の布陣を一覧できる。

  96. 後編3-No.296 島津義弘譜

    『島津義弘譜』から、全州にいた明側が義弘・加藤嘉明らの進路と南原落城を知り、士民が驚いて逃散した記事。守将側が狼狽しつつ、米穀・鉄砲・弓矢を集めて全州防備を図った状況を記す。

  97. 後編3-No.297 北郷三久譜

    『北郷三久譜』から、秀吉の朝鮮出兵命令により北郷三久が軍代として兵を率い、義弘・忠恒らと南原城攻略に参加した記事。八月十五日夜の攻城で戦功を挙げたことを記す。

  98. 後編3-No.298 伊地知千世菊宛重返地目録

    谷山本村内の重返地について、上畠・上田などの地目、面積、耕作者名を列挙した目録。各区画を伊地知千世菊へ返付する内容で、合計面積も記す。

  99. 後編3-No.299 島津竜伯書状

    島津義久が又八郎に、野村五郎三郎の件は当地では分からないため国元で調べ、後報すると答えた書状。唐仁との和平の風聞を尋ね、和平が成れば事態が決着するとしつつ、急用のため使者を不意に渡海させたこと、当地の様子は武庫宛書状に詳しく記したことを伝える。

  100. 後編3-No.300 五代友喜・有川貞豊・帖佐宗光連署覚書

    五代友喜・有川貞豊・帖佐宗光が川上四郎兵衛尉・枇杷権左衛門尉へ、袈裟菊殿内の宇多与右衛門尉が安宅殿へ提出した申状に関する聞取り結果を報告した連署覚書。宇多の知行配当、使者の往来、奉公・武具・書状、相良五郎左衛門尉らの証言を照合し、宇多父子の切腹を命じる書状の有無をめぐる袈裟菊殿母側の主張など、当事者…