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後編3の目録
旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。
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後編3-No.1400 関ケ原戦書抜中馬大蔵丞由来書出
中馬大蔵丞は出水から関ヶ原の急を聞き、九州路を昼夜兼行して合戦前に島津義弘(惟新)のもとへ着いた。敗戦後は少人数となった義弘を守り、伊勢・近江・伊賀・大和・河内を経て住吉まで退却し、野宿や絶食の中で宿所を巡回した。この奉公により感状と知行五十石を与えられた。
後編3-No.1401 桐野掃部覚書抜書
桐野掃部が関ヶ原で島津義弘(惟新)の側に奉公し、九月十五日から駒野越え、伊勢路、土山、伊賀、山城、住吉、堺を経て二十一日に乗船し、帖佐まで供奉した経路を記す。途中では負傷者の処置、米の調達、田辺屋道春への迎え依頼や堺の見聞を担当し、他の御側衆同様の加増を願い出た。
後編3-No.1402 長野勘左衛門由来書覚書抜
長野勘左衛門は上方の異変を聞き、借銀して武具を整え、出水から大坂・伏見を経て関ヶ原へ赴いた。徳川家康の大軍を夜襲するため百五十人を三手に分ける案を川上忠兄へ進言し、中馬大蔵丞には自分が討死した後も義弘を背負ってでも帰国させるよう託した。九月十五日の戦闘では敵首を挙げた後、再び大軍へ突入して戦死したと…
後編3-No.1403 神戸五兵衛関ケ原覚書
井尻弥五助が徳川家康への書状を携えて江戸へ向かい、水口で厳しい改めを受けて拘禁された後、釈放されて伏見攻めや関ヶ原退却に供奉した経緯を記す。住吉で義弘が切腹を決意すると供衆も殉死を覚悟したが、大坂の夫人方が無事との報で中止し、仙秀坊が人質退去の手形を得て一同は帰国した。
後編3-No.1404 神戸五兵衛覚書
木脇休作は島津義弘(惟新)から拝領した長刀を携え、洲俣渡で義弘のもとへ急行し、関ヶ原では「島津兵庫頭内の小弁慶」と名乗って敵中へ斬り込み、多数を退けた。山田有栄らと殿軍を務めて義弘を逃し、信楽での危機も越え、七か国を通って片時も側を離れず帰国まで供奉した。
後編3-No.1405 黒木左近・平山九郎左衛門覚書
関ヶ原前日の布陣から本戦、島津義弘(惟新)の敵中突破と伊勢路への退却を、黒木左近兵衛・平山九郎左衛門らの証言で整理する。島津豊久(中務大輔)・山田有栄・木脇休作らの戦闘、伊吹山方面での義弘との合流、殿軍の交替、住吉・堺での潜伏と出船、大坂の夫人方の救出、豊後沖での船団被害、十月三日の帰着までを詳述す…
後編3-No.1406 大重平六覚書
大重平六が十四歳で島津義弘(惟新)の朝鮮出兵に供奉した覚書。慶長三年、泗川付近で明軍約二十万が城へ迫るなか、義弘は鉄砲を控えさせて機を待ち、城外へ斬り出して大軍を崩した。敵首三万八千七百余を集め、のち撤退時には小西行長救援や番船との戦闘があり、奪われた義弘の馬印を黒田宅右衛門が敵船から奪還した。
後編3-No.1407 井上主膳覚書
十九歳の井上主膳は長寿院盛淳に従って関ヶ原へ赴き、敵陣が連なる美濃路を少人数で突破して九月十三日に島津義弘(惟新)の陣へ到着した。合戦では盛淳が義弘の名代として太閤拝領の羽織を着け、後衛に残って敵中へ突入した。主膳は側近くで戦って深手を負い、盛淳の最期を直接は見られなかったが、のち京都・南都を経て帰…
後編3-No.1408 大重平六覚書
大重平六の覚書から、関ヶ原敗戦後の島津義弘(惟新)の敵中突破、駒野・伊賀・信楽を経た退却、住吉・堺での潜伏と出船を記す。横山休内は義弘の鎧を着て持ち帰り、本田源右衛門らは危機に際して身代わりを申し出た。海路では豊後沖で船団に被害が出たが、義弘は細島・佐土原・八代を経て十月三日に帖佐へ帰着した。
後編3-No.1409 日々記
慶長五年十月二十五日から霜月三十日までの日記。島津義弘(惟新)の社寺参詣、来客・使者の応接、贈答、蒲生城普請の見分、各地への使者派遣、肥後・日向方面への武器弾薬輸送、鹿児島稲荷・小城権現の再興、関ヶ原供奉者への知行目録交付など、帰国直後の政務・軍備・儀礼を日ごとに記録する。
後編3-No.1410 島津忠長譜
島津忠長の譜に、太守から新たな恩地を与えられ、その内容を加増目録に記したことを掲げる導入記事。
後編3-No.1411 平田増宗外二名連署加増目録
薩摩国祁答院の山崎村、指宿十九町の浦之門・尾辻之門・下吹越之門内を、合計千石余の加増として島津忠長へ与える目録。鎌田政近・比志島国貞・平田増宗が連署する。
後編3-No.1412 島津忠長譜
慶長五年に祁答院を与えられた島津忠長が、同年十二月中旬に東郷を離れ、子の河内守忠倍とともに宮之城へ移ったことを記す。
後編3-No.1413 北郷忠能譜
関ヶ原合戦後、島津忠恒(家久)が上洛するにあたり、北郷忠能が道中の安全を祈願してその旨を言上し、忠恒から書状を受けたことを記す北郷忠能譜の導入記事。
後編3-No.1414 島津忠恒家久書状
島津忠恒(家久)が北郷忠能に、見廻りの使者派遣と上洛中の安全祈願への謝意を伝え、当地の情勢に別儀はないので心配不要と報じる。徳川家康が年内に上国するとの見通し、拝謁後に吉報を知らせる意向、贈られた巻物への礼も述べる。
後編3-No.1415 平田宗敏・村田経永連署起請文
平田宗敏と村田経永が、島津義久(龍伯)・惟新(義弘)・少将(忠恒)に異心なく奉公すること、親類に逆心者がいれば直ちに言上すること、自身が讒言を受けた際は糺明に従うことを誓った連署起請文。
後編3-No.1416 伊集院元巣久信起請文
伊集院久信(元巣)が、島津義久(龍伯)・惟新(義弘)・少将(忠恒)への忠節を誓い、高麗出陣時に義弘への申告をめぐって壱岐と血判の盟約を結んだとの風聞を否定する。親子・親類・他人を問わず逆心や不正を知れば言上し、隠蔽しないことも誓約する。
後編3-No.1417 島津惟新義弘寄進状
島津義弘(惟新)が、大少路村内の籾五石を従来どおり他と混同せず、泰平寺へ寄進する旨を認めた寄進状。
後編3-No.1418 島津忠長外三名連署宛行状
長谷場氏文書に収める、島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近の連署宛行状。慶長五年十二月八日付で長谷場越前守への知行宛行を認めた文書で、本文は史料上で省略されている。
後編3-No.1419 島津忠長外三名連署宛行状
島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近が連署し、合計二百四十石を加増分の知行として長谷場越前守に宛行うことを認めた宛行状。
後編3-No.1420 近衛信尹書状
近衛信尹が長谷場越前守に、日本の情勢や帰国の見通しを伝えた書状。寒中の困窮を気遣い、皆が下国を望むものの内府との内儀が整わず日数を要していること、詳細は中原坊から伝えることを述べる。
後編3-No.1421 島津義久書状案
島津義久が、京都での不慮の出会い後の無音を詫び、相手方の院に関わる当国僧衆の開壇と門中の異議について、自身の意向を伝えて国元でも従前どおりの扱いになったことを報じる。あわせて沈香二斤を贈る旨を記す書状案。
後編3-No.1422 伊勢貞成署判領知目録
伊勢貞成が、大隅国菱刈横邊村内の田畠について、地名・面積・分米や耕作者を列記し、合計分米・大豆三十石を本田勝次郎の領知として示した目録。
後編3-No.1423 島津義久譜
島津義久の譜に、本田勝次郎へ大隅国菱刈横邊村内の領知を宛行ったことを掲げる記事。前掲の伊勢貞成署判領知目録に対応する。
後編3-No.1424 山口直友書状
山口直友の慶長五年十二月十三日付書状。本文は旧記雑録後編3のNo.1339と同文であるため、本箇所では省略されている。
後編3-No.1425 某起請文前書案
上方で不慮に生け捕られ、当国の慶事に関して往返した者が、島津家に害となる事柄を内外へ漏らさず、今後も伝えないことなどを誓う起請文の前書案。
後編3-No.1426 島津義久書状案
島津義久の書状案が存在することを示す史料注記。本文・宛所は本箇所に掲出されていない。
後編3-No.1427 入来院恒吉(弓市)覚書
入来院恒吉(弓市)が、慶長四年十二月から慶長五年十一月までの使者往来と魚塩荷物の通過を条々に記した覚書。大童仁兵衛らの使者、魚塩七十荷・七荷の輸送、加久藤衆などの動きを記し、鹿児島へ提出したうえ湯尾に控えを置いた。
後編3-No.1428 島津忠長外三名連署加増目録
日向国諸県郡志布志安楽村内の勢園之門・江園門などの土地と石高を列記し、合計二十六石二斗を加増として宛行う目録。島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近が連署する。
後編3-No.1429 島津義久書状案
島津義久(龍伯)の十二月二十二日付書状案が御文庫所収史料にあることを示す記事。本箇所では本文と宛所が掲出されていない。
後編3-No.1430 山口直友・本多正信連署起請文
山口直友と本多正信が、龍伯(義久)・少将(忠恒)の身命と領国について従前の約束を違えないこと、兵庫頭(義弘)のことも両名の意向に沿って取り成すことを神文にかけて誓った連署起請文。
後編3-No.1431 黒田長政書状
黒田長政が筑前拝領と当月上旬の入国を報じ、相良・秋月の下国時に大坂から送った書状への返書を受領したことを伝える。島津家の今後について従来の交誼から意見を述べ、内府との関係を重視して慎重に対処するよう勧める。
後編3-No.1432 新納為舟忠元書状
新納忠元が馬越の市日を加増として拝領したことを知らせ、十二月二十六日の開市に向け、加藤武部左衛門らと相談して各地の商人を集め、市の振興と商人の定着を図るよう依頼した書状。
後編3-No.1433 島津義弘覚書
島津義弘(惟新)が、上方との交渉に赴く使者へ示した条書。従前の談合を違えず忠節を尽くすこと、京都・大坂での奉公や召喚に慎重に対応すること、井伊直政・山口直友らとの折衝内容を正確に報告することなどを指示する。
後編3-No.1434 本田助允案文
本田助允が十二月二十六日に大坂を出船し、翌日、日向国美々津へ到着したことを報じる案文。井伊直政・山口直友の使者下向、薩摩・大隅の安堵に向けた京都からの返事、龍伯(島津義久)の上洛や使者派遣の準備を伝える。
後編3-No.1435 本田助允案文
本田助允が、井伊直政・山口直友の使者二人が日向国美々津へ着いたことを報じ、使者の登城、京都への返書、龍伯(島津義久)の上洛、両使者への回答と道中の手配を急ぐよう求めた案文。
後編3-No.1436 島津忠恒書状
島津忠恒(家久)が島津義弘(惟新)に、上方交渉は龍伯(島津義久)と十分に談合して進めるよう求め、般若院・本田助允の下向と書状到来、井伊直政・山口直友の使者への応対・召留め、和久甚兵衛との往来について慎重に処置するよう伝えた書状。
後編3-No.1437 島津惟新義弘書状
島津義弘(惟新)が島津忠恒(家久)に、和久甚兵衛と上方使者の素性・往来を慎重に見極め、国中への出入りを制限すること、関係者から事情を聴取して書状を確保すること、不審があれば使者を差し置くことなどを指示した書状。
後編3-No.1438 島津義弘袖判条書
島津義弘(惟新)が忠恒に示した領内統制の条書。出水で衆中を召集して周知し、家臣の出仕・番普請を励行する一方、大酒、党派的結合、私怨、一向宗の虚偽起請、喧嘩口論、情報漏洩、不義などを禁じ、風聞は役人へ速やかに届けるよう命じる。
後編3-No.1439 伊集院元巣起請文
伊集院久信(元巣)が島津義久(龍伯)・義弘・忠恒への忠節を誓い、高麗出陣時に壱岐と血判の盟約を結んだとの風聞を否定した起請文。本箇所はNo.1416と同文のため本文が省略される。
後編3-No.1440 治部少輔経兼日記
慶長五年十二月二十七日から慶長六年正月晦日までの日記。歳暮の寺社礼、京都使者の下向、忠恒の年始儀礼・五社参り・寺社参詣・家臣接見・宴会・弓鉄砲揃え、冨隈・帖佐への往来、普請、祈祷、贈答などを日ごとに記録する。
後編3-No.1441 島津惟新詠草
島津義弘(惟新)が慶長六年元日に詠んだ和歌。「君か代」の長久を、古くから植え継がれる住吉の松に託して祝う年頭の詠草。
後編3-No.1442 秋月種長書状
秋月種長が本田助允の下向を聞き、寒中の道中を気遣うとともに、当地の情勢がどの程度決着したかを尋ね、万事適切に相談して進めるよう伝えた書状。
後編3-No.1443 本田助允案文
本田助允(元親)が自身の知行内訳と加増約束を記した案文。本箇所はNo.1453と同文のため本文省略。永吉村など計百八十石、勝次郎の次男分の新地、京都への領国安堵使節の功による加増二百石の約束を内容とする。
後編3-No.1444 島津惟新書状
島津義弘(惟新)が忠恒に、羽柴越中守への使者を数日中に出発させるよう相談し、京都交渉が不調に終わる場合に備えて越中守へ早急に通じ、後日の領国安堵に助力を求めるため川東善左衛門尉を使者に立てるよう勧めた書状。
後編3-No.1445 佐多忠充感状
佐多忠充が、関ヶ原合戦で命を顧みず主君を守護した狩野介の忠節と働きを称え、田畠五石を当毛とともに与え、今後も忠勤に励むよう命じた感状。
後編3-No.1446 本田助允案文
本田助允(元親)が、上方で不慮に拘束され山口直友のもとに置かれた後、領国安堵の使者案内として下向した事情を記し、上方の計策に加担せず、島津義久(龍伯)・義弘(惟新)・忠恒(家久)への奉公以外に別心を持たず、他家へ仕えないことを誓う起請文前書の案文。
後編3-No.1447 島津忠恒書状
島津忠恒(家久)が鎌田政近に、上方からの使者への返答は従前の方針を変えず、本田元親に十分理解させるよう指示した書状。徳川家康への忠誠を忘れず島津家の存続を図る一方、義久自身の上洛には慎重を期し、最悪の場合は家中一味で防戦する覚悟を伝える。
後編3-No.1448 島津竜伯詠草
島津義久(龍伯)が、慶長六年正月十六日の千句巻軸に「藤の花にやにほふ御しめ縄」と詠み、神祇の清浄と祝意を藤の花と注連縄に託した詠草。
後編3-No.1449 正興寺玄昌置文
正興寺玄昌が島津家への別心がないことを誓い、自身は才覚が乏しく諸事の取り次ぎができないため、その点は容赦してほしいと申し述べた置文。
後編3-No.1450 正興寺玄昌置文
正興寺玄昌が、京都の知人には命じられた当地の様子以外を伝えず、伊集院衆から聞いた事柄はそのまま言上し、旧来の親疎によって偏らないことを神仏に誓った置文。
後編3-No.1451 島津竜伯書状
島津義久(龍伯)が年頭を祝し、当地の情勢を尋ねるとともに、上方の金蔵坊へ伝えられた「矢を射る看経」を自らも習いたいとして、参上時に書物を持参し、当地で稽古するよう依頼した書状。
後編3-No.1452 本田助允元親起請文
本田助允(元親)が、上方で不慮に拘束され領国安堵のため往返した際にも、島津家に害となる情報を漏らさず、計策に加担せず、他家へ仕えず、龍伯・義弘・忠恒に忠節を尽くすことを神文にかけて誓った起請文。
後編3-No.1453 本田助允元親覚書
本田助允(元親)が自身の知行を整理した覚書。永吉村・入来裏名村・帖佐舟津村・蒲生久徳村・馬越徳満村など計百八十石の内訳と、勝次郎の次男分としての新地、京都への領国安堵使節を重ねた功による加増二百石の約束などを記す。
後編3-No.1454 八幡新田宮執印某知行坪付
八幡新田宮執印吉左衛門尉の知行二百石について、各田地の坪付を列記した文書。このうち百石は京都・高麗で忠節を尽くした功による恩賞として与えられたことを記す。
後編3-No.1455 島津忠恒感状
島津忠恒(家久)の正月二十四日付感状。本文は旧記雑録後編3のNo.1606と同文であるため、本箇所では省略されている。
後編3-No.1456 北郷三久譜
北郷三久譜に、慶長六年正月二十八日に采地千石を加増され、その詳細は国老連判の証書にあると記す記事。証書本文は後掲されるが、三久譜本文には見えず疑義があるとの史料注記も付く。
後編3-No.1457 島津忠長外三名連署加増目録
日向国諸県郡の志和知・水流村など各地の知行を列記し、合計千石を北郷三久へ加増する目録。島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近が連署する。
後編3-No.1458 舟越景直書
舟越景直が義弘に、関ヶ原合戦での働きが徳川家康をはじめ諸人から高く評価されていることを伝え、島津家の安堵に向けて早期の談合・和解を勧める。東西両軍の内情を踏まえ、再会を願いながら今後の処置を助言した書状。
後編3-No.1459 島津家久譜
島津家久譜に、近衛信尹から書状を賜ったことを記す記事。関ヶ原合戦後、島津家臣らが京都へ逃れて生死も不明となった際、信尹が朝廷へ取り次いで救助したため、忠恒が謝礼の書状二通を京都へ送った経緯を述べる。
後編3-No.1460 島津家久書状案
島津忠恒(家久)が近衛信尹に、島津家への支援と書状に謝意を示し、井伊直政・山口直友の使者から諸事情を承知したこと、今後も家門の安泰に力添えを願うことを述べた書状案。
後編3-No.1461 新納旅庵長住譜
新納旅庵長住譜に、慶長六年二月、島津義弘(惟新)が中原円乗房を伏見の旅庵へ遣わし、徳川家康の内書、本多正信・近衛信尹の書状、本田助允らの報告を携えて上京を命じた経緯を記す記事。
後編3-No.1462 山口直友書状
山口直友が義久に、忠恒の使者へ詳しく返答したことを伝え、上杉景勝が上洛する前に義久も上洛して領国安堵の交渉を進めるよう強く勧める。詳細は善才坊の口上に託した書状。
後編3-No.1463 井伊直政書状
井伊直政の二月二日付書状。本文は旧記雑録後編3のNo.1465と同文であるため、本箇所では省略されている。
後編3-No.1464 井伊直政書状
井伊直政が義久に、忠恒から使札を受けたため書状を送ること、先の使者へ詳しく返答しており、その回答を待っていることを伝える。上杉景勝が近日出仕する情勢を踏まえ、義久にも早急な判断を促す。
後編3-No.1465 井伊直政書状
井伊直政が義久の書状を受領したことを喜び、前年冬に上った島津側使者への返答を徳川家康に申し入れ、山口直友らを添えて帰国させたことを報じる。上杉景勝の上洛が迫るため、義久にも情勢を見極めて決断するよう勧める。
後編3-No.1466 寺沢正成広高書状
寺沢正成が義久に、前年十二月十一日付書状を拝見し、上方へ遣わされた真連坊を井伊直政・山口直友へ引き合わせて事情を披露したことを報じる。返答を待ち、上洛時には万事相談に応じる旨を伝える。
後編3-No.1467 寺沢正成書状
寺沢正成が義久に、真連坊を井伊直政・山口直友へ取り次ぎ、島津側の意向を伝えたことを改めて報じる。先の使者への返答と義久の上洛を待ち、領国安堵の交渉を進めるよう促した書状。
後編3-No.1468 年代記
年代記は、慶長六年に寺沢志摩守正成が天草を拝領したことを記す。関ヶ原合戦後の領地再編に関する短い記事。
後編3-No.1469 島津忠恒書状
島津忠恒(家久)が廣済寺主に、龍伯から贈られた春雪の詠歌と一同の歌を送り、返歌を求める。忠恒自身の二首も添え、龍伯の尊詠に和韻するよう依頼した書状。
後編3-No.1470 島津忠長証状
島津忠長が、祁答院・宮城は当時空城であるため、今回の軍事行動中に妻子を置き番を務めたいとの申出を認める。又吉との先約を踏まえ、求めがあればいつでも返上すると証した。
後編3-No.1471 島津忠長外三名連署加増目録
伊東方の策謀に従わず敵使者を捕縛して差し出した忠節を賞し、薩摩国祁答院紫尾村小市八重之門の二十三石二斗五升三合を加増する。島津忠長ら四名が連署した目録。
後編3-No.1472 島津義弘譜
島津義弘(惟新)譜は、慶長六年二月、義弘が中原円乗房を帖佐から京都へ遣わし、伏見で旅庵に会わせたことを記す。円乗房は御内書・本多佐渡守書状・近衛家書状を携え、島津家存続のための調略を進めた。
後編3-No.1473 島津惟新書状
島津惟新が、予期せぬ情勢の成立により旅庵が現地に滞留することはやむを得ないと述べる。窮屈な事情など詳細は使者の口上に含めた短い書状。
後編3-No.1474 伊集院抱節久信・山田理安有信連署知行目録
伊集院抱節久信と山田理安有信が、薩摩・大隅国内の知行地と浮免を合計六十石、安楽大炊助へ加増として配分した連署目録。
後編3-No.1475 近衛三木信尹書状
近衛信尹が龍伯に、徳川家康が島津側へ懇切に対応していると伝え、井伊直政・山口直友の指図に従って早く上洛することが肝要だと勧める。川上久右衛門ら使者への対応にも触れる。
後編3-No.1476 井伊直政書状
井伊直政が島津義弘(惟新)の正月十二日付返書と二人の使者を受けたことを報じる。龍伯の上洛後は義弘の件も含めて尽力すると述べ、詳細は川上久右衛門ら使者に託した。
後編3-No.1477 井伊直政書状
井伊直政が義弘の正月十五日付報告と使者の口上を受け、龍伯の上洛を改めて促す。徳川家康の島津家への厚意を伝え、流言を信じず井伊・山口の指示に従って早急に決断するよう求める。
後編3-No.1478 舟越景直書状
舟越景直が島津忠恒(家久)に、先の使者へ和久甚兵衛を添えて帰国させ、その後の二使からの申し入れも承ったと伝える。当地の様子を詳しく知らせるため旅庵も下向させ、和久を通じて説明するとした。
後編3-No.1479 島津忠恒書状
島津忠恒(家久)が惟新に、川内までの道筋について手配すべきことを述べる。新弥太が快方に向かっているとの報を踏まえ、大口へ赴くよう早く申し付けることなどを相談した書状。
後編3-No.1480 山口直友書状
山口直友が島津忠恒(家久)に、先度の使者に和久甚兵衛を添えて下向させ、重ねて来た二使の申し入れも承ったと報じる。井伊直政とも相談し、今後も相応の用向きを承る旨を伝えた。
後編3-No.1481 島津竜伯詠草
島津義久(龍伯)が慶長六年三月十八日に詠んだ和歌「浜松に藤なみかくる岩は哉」を記した詠草。
後編3-No.1482 福島正則書状
福島正則が島津義弘(惟新)の正月二十四日付書状を受け、紅糸二斤の贈答に謝す。井伊直政へ懇意に働きかけ、使者の帰国後に示される意向に従うのがよいと助言し、自身も用向きに応じると述べる。
後編3-No.1483 島津惟新書状
島津惟新が忠恒に、諸港での船留めと監視をさらに厳命するよう求める。東西の陸路が押さえられたため、回船を利用した策謀があり得ると警戒し、家臣が命令を先延ばししないよう重ねて督促した。
後編3-No.1484 島津義久寺領支配状
天下の下知に基づき、領地の減少があっても国家安全を祈るため、大隅国曽於郡山之路村内の四十石を大明寺の祭礼・修造料として支配させた寺領支配状。
後編3-No.1485 伊勢貞成署判知行目録
日向国真幸院吉田村内にある蒲生久徳の返地について、屋敷・門・田畠などの内訳を列挙し、伊勢平左衛門へ配分した知行目録。伊勢貞成が署判する。
後編3-No.1486 伊集院抱節・山田理安連署知行目録
伊集院抱節・山田理安連署の知行目録。本文は旧記雑録後編3のNo.1518と同文であるため、本箇所では省略されている。
後編3-No.1487 伊集院抱節・山田理安連署知行目録
伊集院抱節と山田理安が、大隅国桑原郡西光村内の蘭屋敷十三石六斗三升五合と見次村内六石三斗六升五合、合計二十石を配分した連署知行目録。
後編3-No.1488 伊勢貞成知行目録
伊勢貞成が、大隅国桑原郡般若寺村内の屋敷・田畠を主計、孫五左衛門、仲十郎、三郎次郎、大学介らへ割り当てた知行目録。各屋敷の面積と石高を列記する。
後編3-No.1489 児玉氏譜
児玉氏譜は、伊集院忠真の所領没収後、児玉主水佑が慶長六年三月二十二日に日向国財部・松山・志布志などで六百石を加増され、五月二十一日にも河原・見次村などへ知行替えを受けた経緯を記す。
後編3-No.1490 伊集院抱節・山田理安連署知行目録
伊集院抱節と山田理安が、日向国財部・松山・志布志などの知行を合計六百石、児玉主水佑へ加増として配分した連署知行目録。
後編3-No.1491 伊集院抱節・山田理安連署知行目録
伊集院抱節と山田理安が、河原村・見次村などの複数の土地を児玉主水佑へ加増として配分した連署知行目録。各地の石高・浮免を列記する。
後編3-No.1492 加治木吉祥寺春岳覚書
春岳和尚の覚書は、慶長六年に伊集院源次郎忠真の八万石が没収され、その日に薩摩・大隅・日向三か国の諸侍へ加増が命じられたことを記す。
後編3-No.1493 町田久幸譜
町田久幸譜は、慶長六年に久幸が伊作地頭職へ補任され、市山の返地として本領石谷村を、二之宮の返地として倉・中原両村内を与えられ、慶長八年には長羽村の返地も受けたことを記す。
後編3-No.1494 島津竜伯義久書状
島津義久(龍伯)が惟新に、国家の行末に関する返答を受ける以上、隠居の身でも急ぎ帰るべきだと述べる。鹿児島で相談する意向を示し、自身も時機を見て赴くので、富隈へ逐一知らせるよう求める。
後編3-No.1495 島津義弘譜
島津義弘(惟新)譜は、義弘が慶長六年四月に向之島藤野村へ退居していたところ、山口直友の使者和久甚兵衛が再び下向し、徳川家康は義弘がやむを得ず西軍に加わった事情を理解して疑わないと伝えたため、帰宅したことを記す。
後編3-No.1496 島津惟新義弘書状
島津惟新が忠恒に、黒田甲斐守が重ねて遣わした使者が日向八代に滞留していると報じる。相手方も島津の使者を待っているため、事情を聞き取れる人物を早急に派遣するよう求めた。
後編3-No.1497 島津惟新書状
島津惟新が忠恒に、本田助九郎の申し入れを志布志から書状で伝えたところ、龍伯から念入りな返答が届いたと報じる。その返書を送り、上方の使者を鹿児島に置いて慎重に扱うなど、今後の措置を周到に進めるよう促す。
後編3-No.1498 島津忠恒家久書状
島津忠恒(家久)が惟新に、龍伯の書面を受け、上方使者を迎える宿を富隈に設け、準備は忠恒側で行うと報じる。念のため再度使者を送り、前夜下着した旅庵から情勢を詳しく聞く意向を伝える。
後編3-No.1499 島津竜伯書状
島津義久(龍伯)が惟新に、旅庵の下着で上方事情を聞けるだろうと述べる。和久甚兵衛を今回は富隈に泊められず、鹿児島逗留も不都合なら別の場所を選ぶよう求め、富隈宿泊は難しいと重ねて伝える。