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後編3の目録
旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。
全1,990件中 301~400件・4 / 20ページ
後編3-No.301 島津義久書状案
島津義久が秀吉からの書状を頂戴し、病気への度重なる気遣いに礼を述べた書状案。快復したので大坂へ出仕し、暇が整い次第上洛して詳しく申し述べるとし、香二斤を進上して披露を依頼する。
後編3-No.302 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が八月十六日付の注進を披見し、南原城を十三日に包囲して十五日夜に落城させ、島津義弘勢が首級四百二十一を得た戦功を賞した朱印状。先の番船捕獲にも触れ、今後も諸将と相談して堅固に軍務を進めるよう命じる。
後編3-No.303 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が島津豊久の八月十六日付注進を披見し、南原城攻めで首級十三を得たことと、先の番船捕獲を賞した朱印状。引き続き諸将と協議し、確実に軍務を遂行するよう求める。
後編3-No.304 増田長盛・長束正家連署状
増田長盛・長束正家が、義弘・忠恒の南原城攻略の注進を秀吉へ披露し、城を即時に攻め落として首級目録を届けた働きが高く評価されたと伝えた連署状。全州方面へ進軍したとの報を受け、続報を待つと述べる。
後編3-No.305 島津竜伯義久書状
島津龍伯が忠恒の度重なる勝利を喜ぶ一方、石田三成への直接報告が遅いとして、使者を出せない場合も書状で伝えるよう戒めた書状。銀子三千枚の調達、佐多久内少輔の召出しと知行、来年三月までの上米、小西行長への音信、新納旅庵による借銀返済など、国元と在陣先を結ぶ複数の政務を指示する。
後編3-No.306 近衛竜山前久書状
近衛前久が、長く便がなく書状を送れなかったと断ったうえで、島津忠恒が朝鮮人百人を討ち捕り番船を切り取った比類ない戦功を祝した書状。早い帰陣を待ち、在陣中にも音信を寄せてほしいと伝える。
後編3-No.307 島津竜伯書状
島津龍伯が島津忠恒に、高麗大鷹を贈られたことを喜び、相州国広の刀について田代甚介に尋ねるよう伝え、雁毛を所望しているため大山から早く渡すよう求めた書状。
後編3-No.308 島津義弘譜
『島津義弘譜』から、毛利秀元・黒田長政らが全義館から王城方面へ進み、黒田勢が明・朝鮮側の解生、楊登山、牛伯英らと遭遇して激戦を交えた記事。栗山備後守・後藤文兵衛の五十騎による突撃、援軍到着後の再戦、日没による追撃中止までを記す。
後編3-No.309 征韓録
『征韓録』から、南原・全州の落城によって慶尚・全羅両道が日本軍の支配下に入ったため、住民統治の定榜文を立てた経緯を記す。慶尚道は島津義弘、全羅道は小西行長が担当したとして、後続の二通の定榜文を導入する記事。
後編3-No.310 島津義弘外十二名連署慶尚道昆陽定榜文
島津義弘ら十三名が慶尚道昆陽の住民に示した定榜文。百姓の帰村と農耕、潜伏する官人と家族の摘発、告発者への褒賞、帰住しない住民への処罰を定める一方、日本兵が住民を殺害するなどの凶悪行為は義弘へ書面で届け出るよう命じる。
後編3-No.311 島津義弘外十二名連署全羅道海南定榜文
島津義弘ら十三名が全羅道海南の住民に示した定榜文。百姓を郷里へ戻して農耕に従事させ、潜伏官人の摘発、告発者への褒賞、帰住拒否者への処罰を規定し、日本兵による住民殺害などは小西行長へ報告するよう命じる。
後編3-No.312 宇喜多秀家外十四名連署言上状案
宇喜多秀家ら十五名が、朝鮮での占領地と城郭配置を豊臣政権の奉行衆へ報告した言上状案。青国・赤国各郡の帰順と城普請、順天に小西行長の城を置くこと、釜山は日本との連絡口として毛利吉成に守らせること、若い羽柴左近を島津・鍋島の城の間に配置することなどを協議している。
後編3-No.313 早川長政外二名連署状
早川長政ら三名が生駒一正へ、鍋島直茂・島津忠恒宛の書状の転送を頼み、占領郡の年貢取立てと住民統治の方針を伝えた連署状。年貢率を軽く定め、百姓の生命・家宅を保護して帰住させる一方、潜伏官人の摘発、人質・請状の確保、郡中の有力者を小西行長へ引き渡すことを勧める。
後編3-No.314 島津義弘書状
島津義弘が運誉上人の書状を受け、遠国で守備を命じられているため無音になったと詫びた書状。日本からの番替えが済めば翌春には必ず帰朝するとし、その際には上人にも下向してもらい、栗野で詳しく語り合いたいと伝える。
後編3-No.315 豊臣秀吉朱印状
本文はNo.336と同文のため省略されている。豊臣秀吉が八木千石を原田喜右衛門へ与え、島津義弘の代官を通じて海辺で引き渡すよう命じた朱印状の重複写し。
後編3-No.316 島津義弘書状
島津義弘が新納狩野介に対し、今月中に参陣するよう伝えていたが、現地の軍事行動が延期されたため渡海もいったん延ばすと知らせた書状。出陣準備を整えて報告を待ち、指示が届き次第、油断なく渡海するよう命じる。
後編3-No.317 島津義弘書下
島津義弘が新納十郎に、格別に奉公するとの申出どおり、その後も首尾に相違がないことを神妙で頼もしいと賞した書下。諸神八幡に誓って、今後もその奉公を忘れないと約する。
後編3-No.318 島津竜伯書状
本文はNo.305と同文のため省略されている。忠恒の戦況報告の遅れを戒め、銀子三千枚、佐多久内少輔の処遇、上米、小西行長への音信、旅庵による借銀返済などを指示した島津龍伯書状の重複写し。
後編3-No.319 近衛竜山書状
本文はNo.306と同文のため省略されている。近衛前久が島津忠恒による朝鮮人百人の討取りと番船捕獲を祝い、早い帰陣と在陣中の音信を求めた書状の重複写し。
後編3-No.320 御譜抄(No.1857同文省略)
本文は『旧記雑録後編』No.1857と同文のため省略されている。参照先の御譜抄は、関ヶ原敗戦後に宇喜多秀家が小舟で薩摩へ逃れ、島津家が牛根にかくまった経緯を記す。家康に所在が知られると、山口直友・和久甚兵衛らの仲介で上京を求められ、小瀬中務を通じて秀家が承諾した。島津義久掟書二十ケ条ではない。
後編3-No.321 島津竜伯書状
本文はNo.305と同文のため省略されている。忠恒の戦況報告、銀子三千枚の調達、佐多久内少輔の処遇、上米、小西行長との関係、新納旅庵による借銀返済などを扱う島津龍伯書状の重複写し。
後編3-No.322 宇喜多秀家外十四名連署言上状
本文はNo.312と同文のため省略されている。青国・赤国の帰順、城普請、順天・釜山などの城郭配置と在番諸将の役割を報告した連署言上状の重複写し。
後編3-No.323 早川長政・熊谷直盛・垣見一直連署状
早川長政・熊谷直盛・垣見一直が島津忠恒へ、当月中に手隙をつくり、来月朔日から普請場へ移るよう伝えた連署状。帰住した百姓が迷惑を受けないよう、奥郡の軍勢を先に、口郡の軍勢をその後に順次移動させ、道筋の軍勢には陣替えを延期させるよう指示する。忠恒の受持郡は小西摂津守(行長)の郡に近いため、同様に申し渡す…
後編3-No.324 熊谷直盛書状
熊谷直盛が島津忠恒へ、奥郡の軍勢が出た後に陣替えして帰住百姓を保護するよう求めた書状。郡・村の役人や肝煎を把握し、潜伏官人の家を百姓に案内・告発させ、日本への忠信を示させること、従わない者は処罰することを説き、自身は宇喜多秀家の近くから順天へ移る予定を伝える。
後編3-No.325 島津義弘譜
『島津義弘譜』から、明将李如梅による星州方面への攻撃と日本軍の交戦、南原・全州落城後の諸軍の分進を記す。義弘・忠恒父子が全州から海南を経て忠清道へ向かい、渡舟の少ない大河で北郷三久を先陣、伊集院忠員を後陣として渡河し、関山・箭川を経て全羅道へ戻った経過を叙述する。
後編3-No.326 島津家久譜
『島津家久譜』から、南原落城を知った全州住民が倉庫を焼いて逃散し、明将陳愚衷も城を捨てたことを記す。日本軍が全州から海南へ進み、義弘・忠恒父子が大河を北郷三久・伊集院忠員の前後陣で渡って忠清道へ入り、箭川を経て十月二十八日に慶尚道泗川古城へ退いた経過を叙述する。
後編3-No.327 北郷三久譜
『北郷三久譜』から、義弘が全羅道海南から忠清道へ向かった際、幅六、七町ほどの大河が満潮で渡りにくかったため、北郷三久が衆に先んじて渡河した記事。これを見た諸軍も後に続き、忠清道へ入ったとする先陣の戦功を記す。
後編3-No.328 征韓偉略
『征韓偉略』から、十月十日に義弘・忠恒父子が海南城へ入り、賦税を点検して忠清道を経略した記事。朝鮮側の城兵が戦わず逃れたため全羅道へ戻って泗川に駐屯し、日本軍の沿海諸城が兵站と相互救援のため連なること、泗川の呼称についても記す。
後編3-No.329 白尾幸孝書状
白尾幸孝が白尾五兵衛尉へ、唐島の五日崎に在番して銀子が尽きたため援助を求めた書状。未完成の手火矢、長刀、身の回りの品の手配を頼み、留守宅の家族や奉公人の無事を尋ね、年明けには帰朝するつもりだと伝える。
後編3-No.330 白尾幸孝書状
白尾幸孝が白尾五兵衛尉へ、便のたびに少しずつ送ってほしい品々を列挙した書状。手習紙、墨、筆、布、上下の帯、帷子、櫛、切干大根、芋の茎、銀子、干し魚など、在番生活に必要な衣料・文具・食料を具体的に頼んでいる。
後編3-No.331 白尾幸孝書状
白尾幸孝が白尾五入道へ、当地は一同無事なので心配に及ばないと伝え、所持の長刀を研いで便次第に送るよう依頼した書状。鉄砲はまだ調わず、現地では銀子が尽きて難儀しているため、少額でも融通してほしいと頼む。
後編3-No.332 島津義弘書状
島津義弘が、全羅道での戦いが終わって諸軍が陣を払い、奉行衆から赤国との境に近い慶尚道泗川の番所を命じられ、築城準備を進めていると報じた書状。庄内御料人の懐胎を聞き、特に祈念を尽くすよう求める。
後編3-No.333 島津氏系図
「御系図」として、日本諸将が慶尚道泗川の海辺に城を築いて新塞と号し、島津義弘父子を守将としたため、慶長二年冬に新塞へ移ったことを記す。泗川新城への配置を系図中の記事として伝える短文である。
後編3-No.334 伊集院幸侃忠棟書状
伊集院幸侃が大迫新左衛門入道へ、山川屋敷の公役について船頭から免除を申し付けられたとの報告を受け、山川の役人にも趣旨を伝えて処理するよう命じた書状。
後編3-No.335 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が島津義弘へ、先の五城に残した兵粮を当米に替えて各城へ備蓄し、来春の渡海・出兵や不意の作戦に備えるよう命じた朱印状。油断なく処置し、詳細は寺沢志摩守から聞くよう指示する。
後編3-No.336 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が島津兵庫頭義弘に、八木千石を原田喜右衛門へ与えるので、薩摩方の代官を介して海端で確実に引き渡すよう命じた朱印状。知行の給付と現地での受け渡し方法を具体的に示す。
後編3-No.337 福原長堯書状
福原長堯が島津忠恒へ、前月十四日に海南を発ち、道中の兵粮を整えて二十八日に泗川へ帰着したと聞いた旨を伝えた書状。鍋島信州も南原まで同道したとし、余裕ができれば訪問して直接話したいと述べる。
後編3-No.338 島津義弘譜
『島津義弘譜』から、慶長二年十一月に明の邢玠が鴨緑江を渡って朝鮮王城に至り、楊鎬・麻貴と軍議した記事。日本側の松島・蔚山・西生浦・機張・釜山などの配置、蔚山新城の守将、在朝鮮兵約十三万六千人、諸将の兵数と鉄砲・弓などの装備を列挙し、明軍来襲前の戦力構成を示す。
後編3-No.339 白尾幸孝害状
白尾幸孝が白尾五兵衛尉へ、銀子の袋を藤介に持たせた件を調べていると伝え、本人が国元へ戻っても当年分の扶持や掛銭などをすぐ渡さず、自身の帰朝後に清算するよう求めた書状。家内の者や七郎にも事情を知らせ、上方の家族の無事と帰朝を待つよう頼む。
後編3-No.340 島津義弘譜
『島津義弘譜』から、慶長二年十二月の蔚山城攻防を詳述する。明軍が未完成の蔚山城を急襲し、加藤清兵衛らが籠城、加藤清正・浅野幸長らが入城して防戦した。城内では兵粮と水が尽き、紙や壁土を煮、馬を食べ、夜間に池水を汲むほど窮乏したが、日本側援軍の接近で明軍が退却し、追撃戦となった経過と双方の死傷を記す。
後編3-No.341 島津竜伯書状
島津竜伯が又八郎へ、遠方のため無音となっているが父子の一人は帰朝してほしいと求め、番所や現地の言葉・風土を詳しく書き送るよう頼んだ書状。京都では九月二十五日に新城への移徙、二十八日に秀頼の参内があったこと、毎年三奉行の引付を持参すること、新暦の写しと来年の吉凶占いを送ることも伝える。
後編3-No.342 家久公御譜中所収文書(本文欠)
『家久公御譜中』所収文書。掲載箇所には「正文在鹿児島町仲馬七郎兵衛」とあるのみで、独立した本文・日付・発給者・宛所は記載されていない。
後編3-No.343 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が島津豊久(又七郎)へ、従来どおり毛利壱岐守と相談し、一手となって行動するよう命じた朱印状。来春三月に秀吉自身が渡海して成敗・仕置を行う予定なので、それまでは陣所を動かさず、兵粮を城に堅固に備えて渡海を待つよう指示し、詳細は長束正家・木下吉隆から伝えるとする。
後編3-No.344 島津竜伯立願文
島津竜伯が清水千手観音に立てた願文。普門品一万巻の読誦を誓い、国家安全、武運長久、子孫繁栄、息災安穏、諸人快楽を祈願する。
後編3-No.345 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が島津豊久(又七郎)へ、歳暮の祝儀として秀吉と北政所に呉服各一重が届いたことを喜び、詳細は長束大蔵大輔正家から伝えるとした礼状形式の朱印状。
後編3-No.346 唐島追渡書始(覚)
慶長二年七月二十八日から十一月十九日までの唐島追渡・朝鮮在陣日記。固川・南原・全州・海南・羅州・淳昌・泗川新城などを往来する島津勢と諸将の動きを、日々の天候、出発・到着時刻、行程、陣替え、使者・書状・贈答、兵粮や会食とともに記す。住民の拘束、城や在郷の状況、戦闘・討死の報、明軍来襲への対応までを連日…
後編3-No.347 泗川古城在陣日記(覚)
慶長二年十二月一日から二十九日までの泗川古城を中心とする在陣日記。毎日の天候、諸将・使者の出仕と宿直、書状・礼物・兵粮の受け渡し、古城・新城間の移動、軍勢の召集や警固を記録する。月末には漢南方面から蔚山へ明の大軍が来襲したとの報を受け、諸将への援軍要請、泗川城の備え、明側との接触に関する使者派遣まで…
後編3-No.348 新納忠元勲功記
『新納忠元勲功記』から、慶長三年二月二十一日に松齢様が久見崎から乗船する際、新納忠元が見送り、大嶋出羽守忠泰を供に付けて二首の別れの歌を贈った記事。同月二十八日に五十余艘で出船し、四月十九日に朝鮮加徳島へ着陣したこと、同年夏に忠元が清敷から飯野の地頭へ替えられて移住したことも記す。
後編3-No.349 殉国名数抄
「殉国名数抄」として、慶長の役で戦死・病死した島津家の家臣、諸士、従者らを列挙した戦没者名簿。氏名だけでなく、所属地・役職、親子・兄弟・孫などの家系関係、戦没地や年月日、蔚山・泗川・南原などでの戦死、船中・陣中での病死といった事情を小字で付記する。無姓氏の兵や朝鮮陣没者を含む、多数の犠牲者を家ごとに…
後編3-No.350 島津義弘譜
『島津義弘譜』から、慶長三年正月朔日の蔚山救援戦を記す。小西行長が順天から三千兵で出船し、毛利秀元・小早川秀秋・黒田長政らの軍と四国勢が後援に集結したため、明将楊鎬は恐れて退却した。翌日、日本軍が追撃し、呉惟忠・茅国器らの苦戦で明軍が全滅を免れたこと、路上に残した兵器・馬・旗・弓矢・鳥銃を日本軍が大…
後編3-No.351 島津義弘書状
島津義弘が朝鮮から送ったとされる仮名書状。唐人が約十里先まで進んだとの急報を受けて物見を出し、事実なら出撃する覚悟を述べる。蔚山では敵が夜襲して二の丸まで攻め上り、浅野左京大夫・太田飛騨守らが本丸に籠もり、加藤清正も西生浦方面から少人数で入城したと報告する。義弘父子も救援に赴く一方、留守勢を残して城…
後編3-No.352 征韓偉略
『征韓偉略』から、慶長三年正月五日頃、朝鮮諸城を守る日本軍を三道に分け、東路の蔚山に加藤清正、西路の順天に小西行長、中路の泗川に島津義弘父子を置いた記事。水軍は交替で往来し、駅伝のように連絡したと記す。
後編3-No.353 征韓偉略
『征韓偉略』から、二月に都督陳璘ら明軍が広東兵・四川兵・浙江兵を率いて珍島へ到着し、軍を三協に分け、水陸四路へ大将を配置した記事。中路・東路・西路・水路の各軍が持ち場を守り、機を見て出兵する体制を整え、島山での敗戦を踏まえて水路軍を置いたと記す。
後編3-No.354 朝鮮日々記
『朝鮮日々記』から、新納勘解由の内衆が古仙界の山で鹿狩り中に虎と遭遇し、射止めて御城へ持参したため、褒美として「虎兵衛」の名を与えられた記事。あわせて、漢南から大軍が出たとの風聞を受け、古丸・晋州・猿羽見へ相良玄蕃、寺山四郎左衛門、川上休右衛門らを物見・警固として配置したことを記す。
後編3-No.355 島津義弘書状案
島津義弘が、前年十二月二十一日に唐人が加藤主計頭の蔚山新城を攻め、同二十六日に急報が届いたことを伝える書状案。泗川普請に当たる垣見和泉守らも救援へ動くなか、城主は受け持ちの泗川を守るべきだとの指示を踏まえ、義弘父子の一人を留守居に、一人を東方の蔚山救援・見分に向かわせたいと述べる。さらに晋州・固城方…
後編3-No.356 島津義弘書状
島津義弘が河上三河入道へ、前年十二月二十一日の蔚山新城攻撃と同二十六日の報知、その後の救援準備を知らせた書状。泗川の受持城を空けられないため、義弘父子の一人が城を守り、もう一人が諸将とともに蔚山方面へ赴く案を述べる。あわせて晋州・固城・泗川周辺の敵情、物見の報告、在陣衆の動向を伝え、城の守備と東方救…
後編3-No.357 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が正月朔日付の注進を十一日に受け、唐人・朝鮮勢が蔚山へ進出し、日本諸将が迎撃に向かったことを承知した朱印状。諸将に相談して敵を一人も漏らさず討ち果たすよう命じ、安芸中納言・増田右衛門尉・因幡衆・大和衆・紀伊国衆・但馬衆・九鬼大隅らを増援として順次派遣すると告げる。今後の戦況報告を待ち、その注…
後編3-No.358 島津義弘書状
島津義弘が加藤主計頭へ、明軍約二十万が攻め寄せ、小早川勢が正月六日に敗れて黒田甲斐守の陣所まで退いたとの報を伝えた書状。義弘は奥陣の「つなぎ」として当地に置かれているため動きにくいと述べ、在朝鮮軍が急に引き取る事態を憂慮する。加藤側が退陣を考えているのか、蔚山方面から釜山浦へ通じる直道を使うのかなど…
後編3-No.359 豊臣秀吉朱印状
本文は『旧記雑録後編』二二四五〇号文書と同文であるため、本冊では省略されている。目録では豊臣秀吉朱印状として掲げられるが、この掲載箇所から本文内容・宛先を確認することはできない。
後編3-No.360 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、明軍が蔚山へ攻め寄せたため後巻として諸将を出動させようとしたが、敵が退いたので派遣に間が生じたと告げた朱印状。受持ちの諸城の普請をいっそう堅固にし、兵粮・玉薬を十分に籠めて不安のないよう備えること、帰朝する者も敵情を確かめ、普請を申し付けたうえで帰ることを命じる。…
後編3-No.361 島津豊久譜
『島津豊久譜』から、明軍が蔚山城の外郭を破り本城を危機に陥れたため、島津豊久が泗川から船で救援に向かい、三日で蔚山へ着いた記事。到着時には敵が退いていたが城兵はまだ知らず、豊久は単騎で諸軍に先駆け、敵首二級を得て鞍輪に結び付けた。左耳の下に傷を負っても退かず、その後に加藤左馬頭・黒田甲斐守・鍋島信濃…
後編3-No.362 豊臣秀吉朱印状
本文はNo.360と同文であるため、本冊では省略されている。No.360の朱印状は、蔚山の敵退却後に受持ちの諸城を堅固に普請し、兵粮・玉薬を十分に備え、帰朝する者も敵情確認と普請手配を終えてから帰るよう命じ、島津豊久へ寒中着用の小袖・道服を贈ったもの。正文が島津安芸守久雄所蔵であるとの注記がある。
後編3-No.363 島津家久譜
『島津家久譜』から、日本軍の再渡海を受けて朝鮮が明へ救援を求め、明帝が楊鎬を経略、麻貴らを大将として軍を分け、蔚山を包囲した記事。小西行長が順天から三千、小早川秀秋・毛利秀元・黒田長政らが三万、四国勢が二万余を率いて救援に集まると、楊鎬は動揺して退却を命じた。日本側が追撃し、呉惟忠・茅国器が苦戦して…
後編3-No.364 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が島津又八郎へ、明軍が蔚山へ攻め寄せたため後巻として諸将を出動させようとしたが、敵が退いたので派遣に間が生じたと告げた朱印状。受持ちの諸城の普請をいっそう堅固にし、兵粮・玉薬を十分に籠めること、帰朝する者も敵情を確認し、普請を申し付けてから帰ることを命じる。追而書では寒中の労をねぎらい、小袖…
後編3-No.365 島津義久詠草
島津義久が慶長三年正月二十日の近衛殿の御会始で詠んだ新年の鶯の歌をはじめ、里村紹巴らと「こゑ」「音」の字句を論じた経緯を書き留めた詠草記事。さらに都での花見、伏見墨満寺の墨染桜、建仁寺の藤を題材とする歌を収め、藤の一枝を所望して断られた際、歌を贈ると一枝を手折ってもらえたという作歌事情も記す。
後編3-No.366 細川幽斎藤孝書状
細川幽斎藤孝が龍伯(島津義久)へ、他所から届いた樽桶二つを進上し、義久が上京を決めたとの報を承知した書状。石治少による田割の坪付について、その意向に沿ったものであればよいとし、始末を十分に判断するよう述べる。また翌日の徳川殿の見舞い予定を内々に知らせ、先刻届いた知らせの詳細は麻吉から申し入れさせるの…
後編3-No.367 宇喜多秀家外十二名連署言上状
宇喜多秀家以下十三名が、蔚山での明・朝鮮勢の攻撃を踏まえ、朝鮮在陣諸城の配置と普請方針を再検討して奉行衆へ言上した連署状。蔚山は突出し川越えの難所もあるため、西生浦に加藤主計頭を置き、安芸宰相勢五千を残して普請させる案を示す。順天は大河と遠い干潟のため海陸から救援しにくいとして、小西勢を島津の泗川城…
後編3-No.368 宇喜多秀家外十二名連署言上状
本文はNo.367と同文であるため本冊では省略されている。No.367は、蔚山戦後の城配置を見直し、西生浦への加藤勢配置、小西勢の泗川移動と島津勢の固城移動、梁山から加徳への城所変更、黒田甲斐守・毛利壱岐守の在番、城主半役による普請などを提案した十三名連署言上状。旧写と文意に少し異同があるため、改め…
後編3-No.369 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が島津義弘・島津又八郎へ、先手から三里・五里の範囲へ毎日物見を出し、敵情を確かめて油断しないよう命じた朱印状。蔚山攻撃では敵の様子を知らず、不意を突かれたような事態になったと戒める。翌年の再出動に備え、敵が半弓を用いるとの情報から半切の楯を多数用意して一人ずつ持たせること、諸城の普請を堅固に…
後編3-No.370 豊臣氏奉行衆連署副状
長束正家・増田長盛・前田玄以が、No.369の豊臣秀吉朱印状の趣旨を島津義弘・島津又八郎へ伝えた連署副状。先手から三里・五里へ毎日物見を出して敵情を確認し、蔚山のように全く状況を知らず驚くことのないよう警戒すること、翌年の軍役に備えて半弓対策の半切の楯を多数用意すること、城々の普請を堅固にして在番す…
後編3-No.371 島津義弘譜
『島津義弘譜』から、慶長三年二月、劉綎・陳璘・張榜・鄧子龍・藍芳威らが軍を率いて朝鮮へ入り、明帝が巡撫万世徳を楊鎬に代わる経理に任命したことを記す記事。
後編3-No.372 近衛三木信輔書状
近衛信輔が島津又八郎へ、前年に番船などで挙げた数々の手柄が世間に広く伝わっているとして祝意を表した書状。信輔は在国中には折々書状を交わしたが、上洛後は多忙で便りを出せず本意ではなかったと詫び、今年は忠恒が帰朝できるよう願っているので、引き続き吉報を聞きたいと伝える。
後編3-No.373 熊谷直盛書状
熊谷直盛が島津忠恒へ、日本へ渡る使者を早く準備し、小西摂津守側から出す柳川権介らと同日に出船できるよう日限を知らせてほしいと求めた書状。追而書では、唐嶋・南海・猿見方面の航路案内を整え、着船島の双方から見える山を狼煙場に定め、煙の数を文書化して柳川方と着船島の担当者へ伝えるよう要請する。さらに請取郡…
後編3-No.374 熊谷直盛書状
熊谷直盛が島津忠恒から狼煙について尋ねられ、見えた狼煙は事前に約束した山のものではなく、着船衆が見違えたのではないかと回答した書状。当初定めた山は熊谷の城からやや遠かったため、近い山に変更するよう使者と相談したと説明し、念を入れて確認してくれたことに謝意を示す。
後編3-No.375 熊谷直盛書状
熊谷直盛が島津義弘・忠恒からの書状と狼煙の定書を受け、定められた火数を了承した書状。小西摂津守・対馬守とも相談し、着船島の担当者を熊谷方へ派遣してもらえれば、南海と着船島の間で使用する山を協議して決めると述べる。また石治少宛の書状二通を受け取り、自分の書状とともに柳川権介へ渡すと返答する。
後編3-No.376 近衛竜山前久書状
近衛前久が龍伯(島津義久)の便宜を通じて島津又八郎へ送り、長い在陣の苦労を察して無事を尋ねた書状。伏見の女房衆は何事もなく安心してよいと知らせ、忠恒のめでたい帰朝を待っていること、龍伯とは折々会っていることを伝える。
後編3-No.377 島津義弘証状
島津義弘が、朝鮮加徳島で昼夜にわたり粉骨し、軍兵の勝利を祈祷した櫻井坊慶長坊へ与えた証状。五大尊不動明王絵像一幅と古備前の太刀一腰を、大田吉兵衛を介して拝領させたことを証し、今後も肝胆を砕いて働くよう求める。
後編3-No.378 福島正則書状
福島正則が島津義弘からの使札と樽一荷・一折の贈物に謝意を示した書状。見舞いに参上すべきところ東方に逗留していたため無音になったと詫び、折を見て訪問して礼を述べる意向を伝え、詳しいことは使者に申し含めたとする。
後編3-No.379 島津義弘譜
『島津義弘譜』から、邢玠が李如梅を中路大将、麻貴を東路大将、劉綎を西路大将、陳璘を水路大将に任じ、それぞれ軍を分けて諸城を守らせ、日本軍に備えたことを記す記事。
後編3-No.380 島津忠恒家久起請文
島津忠恒が島津以久へ、以久が御家の家督に関し、龍伯・武庫と同様に忠恒へ末永く別心なく忠節を尽くすと神前に誓ったことを喜び、今後も相談して家の相続を図ると約した起請文。以久側に違背がない限り、忠恒も少しも処遇を変えないと誓い、偽りがあれば梵天・帝釈、薩州新田八幡、諏訪上下、開聞正一位、霧島、春日、稲荷…
後編3-No.381 島津竜伯書状
島津龍伯(義久)が又八郎(忠恒)へ、「典」からの使者が急に返書を得て差し返されたのには事情がありそうだとして、武庫とも相談し、諸方の動きを見聞きして用心するよう促した内密書状。忠恒自筆の書を喜び、京筆一対・大坂筆二対と墨三挺を贈る。安三との関係や未確定の知行替え、種子島左近の申分を踏まえた種子島家の…
後編3-No.382 川上肱枕忠智書状
川上三河入道肱枕忠智が伊勢弥九郎へ、島津忠恒の前年十一月三日付書状を正月二十五日に受け取り、朝鮮の陣所が無事で、奥地での軍労と勝利が名誉であると喜んだ書状。龍伯や宰相殿以下の供衆も無事であると報告する。石治少が関東へ赴いたため、島津義弘の書状を伊集院久左衛門尉に持たせ、同人の帰還後に竹内兵部少輔が事…
後編3-No.383 島津以久起請文
島津以久が、龍伯・義弘・忠恒の三殿へ二心なく奉公し、その忠節を子孫にも守らせると誓った天罰起請文。親子兄弟であっても三殿へ逆心する者には同心せず、三殿から聞いた隠密を他言せず、世上の動きで注意すべきことは残らず報告するとする。また御家へ悪心を抱く者との誓紙交換をせず、進退について疑いを受けた場合は胸…
後編3-No.384 島津以久起請文
本文はNo.383と同文であるため本冊では省略されている。No.383は、島津以久が龍伯・義弘・忠恒の三殿へ忠節を尽くし、逆心者への不同心、隠密の他言禁止、注意すべき世上情報の報告、悪心ある者との誓紙交換禁止などを子孫に至るまで守ると誓った起請文。
後編3-No.385 島津竜伯書状
島津龍伯(義久)が又八郎(忠恒)へ、前年預けた大鷹は見事だが扱いにくいと聞いたため、当年の若鷹または前年の若い大鷹の手配を法賀へ命じるよう依頼した書状。龍伯は不食が続き、二月二十四日夜から急に重く患ったが、養生と祈念・立願を尽くして次第に回復したと報告する。さらに醍醐の花見に際し、女房衆へ一人につき…
後編3-No.386 新納為舟忠元書状
新納為舟忠元が貴島弥兵衛尉へ、長い在洛の労をねぎらい、前年冬に忠元が薩摩へ在国していたため無音になったことを詫びた書状。黒木廣顔済に関わる件について、留守中でも伊東平右衛門尉と相談し、次郎兵衛尉・弥太右衛門尉の内談がまとまり次第、武庫へ内々に申し上げて納得を得たいと伝える。追而書では、病気の次郎兵衛…
後編3-No.387 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が島津義弘・忠恒へ、蔚山・梁山・順天の三城を自分の許可なく引き払うとの申し出を曲事として強く戒めた朱印状。前年、城数を減らして海辺を固め、交代で人数を渡海させて敵地を焼き働きする方針を示したのに、蔚山城の普請や兵粮・玉薬が整わない時に明・朝鮮軍の攻撃を受けて敗軍したことを挙げる。三城の普請を…
後編3-No.388 豊臣秀吉朱印状
本文はNo.387と同文であるため本冊では省略されている。No.387は、豊臣秀吉が島津義弘・忠恒へ、蔚山・梁山・順天の三城を許可なく引き払うことを禁じ、普請の完成、兵粮・玉薬の備蓄、蔚山在城、翌年の朝鮮都への進攻準備を命じた朱印状。個別の宛先は省略本文から補完していない。
後編3-No.389 島津義弘書状
島津義弘が石治少へ、諸将が帰朝する頃には国元から直接上洛したいが、国元は多事で在京中の費用・物資を十分に調えられないおそれがあるため、在京料を滞りなく準備するよう役人へ内々に言葉を添えてほしいと依頼した書状。また、上井甚五郎から好意的な返答を聞いた料理人手配について重ねて頼み、現在は上使や臨時の客を…
後編3-No.390 島津義久譜
慶長三年三月二十日正午、島津義久が初めて徳川家康の門を訪れ、太刀・馬代・巻物五十端を献上し、伊集院幸侃が供をしたとの記事。家康から来臨する意向があると近衛殿を通じて同月十一日に知らされていたため、それ以前の参候を控えていたとし、訪問後は夜まで宴が続き、その後帰宅したと記す。
後編3-No.391 島津義久譜
徳川家康が島津義久の私宅を訪れ、朝五時から夜四時まで滞在して帰ったとの記事。続いて、慶長三年に義久が伏見にいた際、石田治部少輔と相談して島津家の雑事に関する法度条目を作成し、家臣らへ与えたことを記す。
後編3-No.392 新納為舟書状
新納為舟忠元が上井神五郎へ、上洛したと聞いて書き送った書状。吉田の内にある冨森九介・嶋田弥五右衛門尉の各三百石余の役口について、そのうち一口の取成しと知行方の配当を頼み、国境へ移るには少数でも役立つ人衆を伴わなければ困難だと訴える。また返地として上申した蔵野の内約五百五十石について、岡松が未検地なの…
後編3-No.393 帖佐方軍役究目録
帖佐方の軍役高を区分別に集計した目録。定軍役分三万七千百四十三石七斗九升三合四夕六才、奥方二千百八十三石四斗二升七合六夕二才、医者分百二十三石七斗のほか、諸職・道具衆・中間・行司・浮所の各分を掲げる。これら七口の計を七千六百二石余、別の三口を四万四千七百四十六石余、北郷持分を三万七千三百三十一石余と…
後編3-No.394 島津竜伯書状
島津龍伯(義久)が又八郎へ、薩摩・大隅諸県の番衆が辛労していることを承知し、たびたび音信する三原諸右衛門尉へ祝着の意を伝えるよう求めた書状。派遣した両使のうち竹内兵部少輔は今回渡海するため、諸事情を申し含めてあるので詳しく聞くようにという。又八郎が望んだ龍伯所持の相州国広の刀を国元から取り寄せ、急い…
後編3-No.395 島津義弘直書
島津義弘が上井神五郎へ、軍役その他の奉公について、役人や当奉行が命令を難渋させ、無沙汰にし、または油断して勝手に振る舞う者がいれば、当役人としてその知行を召し上げ、事情を詳しく報告するよう命じた直書。報告を受けて改めて吟味し、科の軽重に応じて処分するとする。
後編3-No.396 大河平隆重書状
高麗にいる大河平隆重が宿本へ、帷子二つ、布子二つのうち一つは表裏を紬にすること、長く縫い立てた回し手拭三つ、前年の知行納方日録を、油断なく調えて送るよう頼んだ書状。追而書では、このほかにも手元にある品があれば見繕ってほしいと付け加える。
後編3-No.397 長曽我部元親書状
長曽我部元親が又八郎へ、諸城へ備蓄する玉薬について、固城で寺沢殿の指図と割符があり、藤堂佐渡の備蓄数に応じて元親方も加えるよう志摩殿から伝えられたため、新たに玉薬三万放を持参させた書状。封をしたまま受け取り、以前の二万放と合わせた請取状を使者へ渡すよう求める。また先に返送された玉薬は元親方で未受領だ…
後編3-No.398 島津忠恒過所
島津忠恒が船改御奉行へ発給した過所。薩摩船一艘に、船頭半左衛門、中乗八十二人、加子十二人、てるま・かくせい三十四人、合計百二十九人を乗せて帰朝させるため、支障なく通行させるよう命じる。
後編3-No.399 池田孫次郎書状
池田孫次郎が又八郎へ、豊臣秀吉の朱印により、城の普請が完成して城主へ引き渡した後は、示した案文どおりの請取状を得て帰朝するよう命じられたと伝えた書状。長土佐・中修理からも同趣旨の連絡があったため、両所に送ったものと同様の一書を求める。池田自身も翌日に現地へ赴き、近く帰朝するので使者へ渡すよう依頼し、…
後編3-No.400 島津家久事書案
島津家久の事書案。留守居の談合衆は諸事を容赦なく法に従って処理し、公領の町・浜に住む者へ公役を怠りなく課すこと、船役は船奉行が現地で船を確認して命じ、高麗渡海船の選定に贔屓・偏頗がないよう入念に行うことを定める。鹿児島衆には従前どおり普請へ出るよう命じ、怠惰や難渋があれば役人が厳しく申し付けて言上す…