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後編3の目録

旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。

全1,990件中 1901~1990件・20 / 20ページ

  1. 後編3-No.1900 徳川家康御内書

    徳川家康が島津忠恒へ、歳暮の祝儀として贈られた小袖十領のうち綾三領が到来したことを喜ぶ旨を伝えた御内書。

  2. 後編3-No.1901 島津久元譜

    島津久元譜は、嗣子のなかった新納四郎忠実が島津久元(初名忠在)を猶子として家統を継がせたと記す。慶長八年十二月、久元は日向国真幸院木永村へ移住し、領内一千石を与えられた。

  3. 後編3-No.1902 得能氏記録

    得能氏記録は、慶長八年の年頭に諸大名が伏見・大坂で徳川家康と豊臣秀頼へ賀礼したことや、島津家への加増を記す。さらに関ヶ原後に薩摩へ潜伏した宇喜多秀家の発見・出頭、島津忠恒による助命嘆願、駿府移送を経た八丈島配流の経緯を詳述する。

  4. 後編3-No.1903 島津惟新義弘書状

    島津義弘が島津忠恒へ、新年の賀意を述べ、使者を立てて太刀一腰と金子一枚を祝儀として贈った書状。後日さらに詳しく申し伝えるとしている。

  5. 後編3-No.1904 本多正信書状

    本多正信が島津忠恒へ、宇喜多秀家の身上の件への返礼を述べ、現在の御鷹野見廻りについて伝えるとともに、これまでの使者、伽羅三斤・重ねての橙柑などの贈答に謝意を示し、鎌田出雲守と相談した方針どおり親交を深める旨を述べた書状。

  6. 後編3-No.1905 御蔵分衆中借用分

    御蔵分の衆中借用額を日付・名義人・受取人別に列記した注文。慶長七年から同九年正月にかけての貫文単位の金額を記し、御祈念、御遊などの用途を含む。関玄蕃允以下、多数の担当者・受取人を掲げる会計記録。

  7. 後編3-No.1906 徳川家康御内書

    徳川家康が島津忠恒へ、遠路から贈られた柑子一箱の到来を喜ぶ旨を伝えた御内書。

  8. 後編3-No.1907 徳川秀忠御内書

    徳川秀忠が島津忠恒へ、遠路から蜜柑一箱が到来したことを喜び、詳しい返答は本多佐渡守正信から伝えるとした御内書。

  9. 後編3-No.1908 山口直友書状

    山口直友が島津忠恒へ、前年に関東へ送った音信と進物が本多父子の取次で徳川家康に披露され、機嫌よく受け取られたと報じる。家康が翌月末ごろ上洛する見込みを伝え、忠恒の上洛と面会を待つと述べた。

  10. 後編3-No.1909 島津忠恒家久書状

    島津忠恒が龍伯義久へ、鎌雲方で舞を見た折、庭先を鳴かずに過ぎた鶯を題に龍伯が詠んだ歌を記す。その後鶯が鳴いたことを踏まえ、自らも返歌を添えて送った書状。

  11. 後編3-No.1910 島津龍伯義久詠草

    島津龍伯義久の詠草。慶長九年二月二十二日に鹿児島護摩所で、家桜や春を題材とする歌、神への法楽として小萩原などを詠んだ歌を記す。

  12. 後編3-No.1911 山口直友書状

    山口直友が島津忠恒へ、徳川家康が翌月十日以前に上洛する予定なので、年頭礼のため油断なく早く上洛するよう勧める。佐土原の件が解決したことを祝い、本多正信・正純宛ての書状を取り次ぐと伝えた。

  13. 後編3-No.1912 児玉筑後守伝

    児玉筑後守伝は、慶長九年二月、慈眼公島津忠恒が東郷重位と東新丞に試合を命じ、重位が勝利したためその剣技を学んだと記す。重位の門弟東出実相も忠恒に知られて恩遇を受け、重位とともに親衛の臣となった。

  14. 後編3-No.1913 東郷重位弟子太刀合書

    東郷重位の弟子児玉筑後守の兵法を述べた太刀合書。燕飛などの型に頼らず、木刀を取れば正面から打つ実戦的な剣風で、形より誠の心を重んじたと記し、重位の歌も引く。

  15. 後編3-No.1914 琉球国王宛書状案

    琉球国王宛ての書状案。琉球商船が逆風で奥州へ漂着した際、徳川家康の命により薩摩を経て送還したことや、平戸に漂着した琉球官船を新船に替えようとした恩を列挙する。一方、琉球が豊臣秀頼への礼や薩摩の使者・朱印への返答を欠いたことを厳しく戒め、甑島に船を留置し乗員二、三人を帰す旨を述べる。

  16. 後編3-No.1915 島津忠恒書状

    島津忠恒が島津義弘へ、川内までの道筋は難しいとし、新弥太の病状が快方に向かえば大口へ向かう予定を述べる。関係者と相談して判断し、指示どおり面会・出立の調整を進めると伝えた。

  17. 後編3-No.1916 島津家久譜

    島津家久譜は、慶長九年三月に徳川家康が江戸から上洛したため、山口直友の催促を受けた島津忠恒も鹿児島を発ち京都へ向かったと記す。喜入忠続ら家臣を伴い海路を進み、風待ちや寄港を重ねた上洛行程を述べる。

  18. 後編3-No.1917 島津龍伯書状

    島津龍伯義久が陸奥守へ、先に送った犬追物の闘書には不備があるため修正して再送すると伝える。自身の体調不良と回復状況を報じ、相手方の出船について慰みに思うとして便宜を待つ書状。

  19. 後編3-No.1918 島津忠恒書状

    島津忠恒が陸奥守へ、順風を待って当津に滞在していることを知らせる。道中は油断なく急ぎ、上着したら吉報を伝えるとして、後便を期した書状。

  20. 後編3-No.1919 島津家久譜

    島津家久譜は、慶長九年四月に島津忠恒が上洛し、六月に陸奥守へ任官し、八月に帰城したことを簡潔に記す。

  21. 後編3-No.1920 島津忠恒書状

    島津忠恒が島津左衛門久道へ、示現流兵法の文書を一度見たいと求め、自分は新参の学び手で十分に心得ていないと述べる。師匠として教えを受けることが差し支えないか尋ね、詳しくは面談するとした書状。

  22. 後編3-No.1921 寺沢広忠正成書状

    寺沢広忠正成が島津忠恒へ、日向路から使者を送る予定だったが、龍伯の病気と阿久根からの出船を聞いて延期したと説明する。早舟と使者の手配を述べ、忠恒の上着後に面会して詳しく伝えるとした。

  23. 後編3-No.1922 島津忠恒書状

    島津忠恒が又吉へ、十分な品ではないと断りながら木刀を持たせ、依頼された案文を書き付けて送った書状。今後も折々に書き留めるよう求め、雨中の来訪を待つ心情を添える。

  24. 後編3-No.1923 寺沢広忠書状

    寺沢広忠が島津忠恒へ、前便への返書と当地が平穏であることを伝える。徳川家康が上洛して近日参内し、その後に大将徳川秀忠も上洛して将軍宣下が行われるとの見通しを報じた。

  25. 後編3-No.1924 島津惟新書状

    島津惟新義弘が島津忠恒へ、鹿児島出立後に順風がなく道中で日数を費やしたことや、船が回着せず旅宿が窮屈であろうと案じる。京都で特定の案件を申し立てず、比志島紀伊守や鎌雲らとも不用意に相談しないよう戒めた。

  26. 後編3-No.1925 島津忠恒書状

    島津忠恒が惟新義弘へ、船がまだ回着せず日数を費やしているため、所在を尋ねる者を派遣したと報じる。順風がなく三月二十九日に山川から坊津まで一回りしたとの情報を得て、船が着き次第油断なく出船すると伝えた。

  27. 後編3-No.1926 本多正信書状

    本多正信が島津忠恒へ、前年に示された内意について健軍猪右衛門尉と相談して披露したところ、従前どおり懇意にするとの意向が示されたと伝える。さらに使者を送って申し入れる際も、適切に相談し取り計らうとした。

  28. 後編3-No.1927 土持親経起請文

    土持親経が伊勢兵部少輔へ提出した起請文。世情が変転しても二心なく奉公すること、他方からの策謀や讒言を直ちに報告すること、互いに隠し事なく協力することを誓い、違反時には諸神の罰を受けると記す。

  29. 後編3-No.1928 樺山紹剣自記

    樺山紹剣(久高)の自記。慶長九年の島津忠恒上洛に随行し、京都での用務から帰国までを記す。前年は留守役だったが今回は同行し、屋形の土地を受け取って、堀・門・町割りなどを整えた居所を築いた経緯も述べる。

  30. 後編3-No.1929 徳川秀忠御内書

    徳川秀忠が島津忠恒へ、端午の祝儀として帷子など単物数十点が届けられたことを喜び、詳しくは本多佐渡守正信から伝えるとした御内書。

  31. 後編3-No.1930 島津義久詠草

    島津義久の詠草。慶長九年四・五月ごろ、日照りで田地が荒れたため雨乞いとして、五月雨の雲が重なり田面を潤すことを願う歌を詠んだ。

  32. 後編3-No.1931 飛鳥井雅庸条書

    飛鳥井雅庸が龍伯法印島津義久へ示した和歌作法の条書。短冊・懐紙の清書、題と実名の配置、折り方、墨付け、字配り、連歌・和歌の書式や提出方法など、歌書作成時の細かな作法を項目別に説明する。

  33. 後編3-No.1932 島津惟新書状

    島津惟新義弘が島津忠恒へ、呂宋渡海船の安全祈願を中性院へ依頼し、山口直友らへ取り次ぐよう指示する。上洛中の用務、同行者への支援、銀・米・船の手配、酒席や借財をめぐる注意など多数の案件を列挙し、慎重な処置を求めた長文書状。

  34. 後編3-No.1933 島津惟新書状

    島津惟新義弘が島津忠恒へ、出船時の順風と到着を喜び、徳川家康への拝謁や進物について助言する。龍伯の体調、義弘自身の腫物と養生にも触れ、心遣いへの謝意を述べた。

  35. 後編3-No.1934 徳川家康御内書

    徳川家康が島津忠恒へ、年頭の祝儀として贈られた太刀一腰と馬一疋の到来を喜ぶ旨を伝えた御内書。本文はNo.1636と同文のため原本では省略され、同文書を参照する旨が注記される。

  36. 後編3-No.1935 島津家久譜

    島津家久譜は、島津忠恒が根占を出船し、六月八日に大坂へ到着したと記す。到着を本多正純と山口直友へ書状で知らせ、山口直友から返信があったことを述べる。

  37. 後編3-No.1936 山口直友書状

    山口直友が島津忠恒へ、海路を経て昨夜無事に到着したことを喜び、詳しい返答は追って行うと伝える。本多上野介正純宛ての書状を届け、忠恒の上洛を待つとした。

  38. 後編3-No.1937 山口直友書状

    山口直友が島津忠恒へ、昨夜の上着を喜び、参上して面会したいが翌日に将軍上洛の供奉があるため、まず和久甚兵衛を介して返答すると伝えた書状。

  39. 後編3-No.1938 伊集院抱節久治・山田理安有信連署寄進状

    伊集院抱節久治と山田理安有信が連署した寄進状。前年に大閤の使者遊斎が在国した際の由緒に触れ、児玉窓岩山へ高十石を新たに寄進すると定める。

  40. 後編3-No.1939 島津家久譜

    島津家久譜は、同年春から島津義久(龍伯)が病み、六月十九日に惟新義弘が書状で病状の悪化を忠恒へ知らせたと記す。

  41. 後編3-No.1940 島津惟新書状

    島津惟新義弘が島津忠恒へ、忠恒の上着と礼儀が無事に済むことを願う一方、龍伯の病状が重く、数日食事も取れないと報じる。医師三官による養生と祈念を続けているとして、拝謁後は早く帰国するよう促した。

  42. 後編3-No.1941 島津家久譜

    島津家久譜は、島津忠恒が将軍徳川家康に再び拝謁したと記す。時期を慶長九年六月中旬ごろとし、同月に忠恒が陸奥守へ任官したことを伝える。

  43. 後編3-No.1942 樺山久高譜

    樺山久高譜は、慶長九年の島津忠恒上洛に久高が供奉し、忠恒の陸奥守任官と八月帰国を見届けたと記す。京都で屋形用地を受け取り、門・堀・建物を整備して居所を造営した経緯を詳述する。

  44. 後編3-No.1943 本多正信書状

    本多正信が島津忠恒へ、上洛以来あいさつできずにいる事情を述べ、本多正純との相談に沿って連絡すると伝える。二日前の大雨の影響を気遣い、後日の面談を期した書状。

  45. 後編3-No.1944 山口直友書状

    山口直友が島津忠恒の側近へ、上様からの贈物を甚兵衛に添えて届けた旨を伝える。前日の愛宕参詣を祝い、詳細は甚兵衛の口上と後日の面談に委ねた。

  46. 後編3-No.1945 島津家久譜

    島津家久譜は、徳川家康から京都の屋敷地を与えられ、樺山久高が四周の垣・門・堀・殿舎などを七月から十二月まで造営した経緯を詳記する。併せて慶長七年、福島正則が上洛中の忠恒へ銀二百貫目を貸した厚意を回顧する。

  47. 後編3-No.1946 伊勢貞昌書状

    伊勢貞昌が田村新兵衛へ、伏見への使いで返事が遅れた事情と面談の手配を伝える。国元から届いた銀で、福島正則から借りた二百貫目の残額百貫目を返済するため、受け取りを依頼した。

  48. 後編3-No.1947 伊勢貞昌書状

    伊勢貞昌が田村新兵衛へ、公方への諸大名の進上物について本多正純に確認し、国持衆は銀子に帷子を添えるとの指示を忠恒らへ伝えた経緯を報じる。談合内容の変更を土井利勝の書状でも確かめ、返答を求めた。

  49. 後編3-No.1948 近衛前久書状

    近衛前久が島津忠恒へ、伏見滞在中に老衰・持病再発・難聴のため面会できなかった事情を釈明する。忠恒の近日帰国を聞いて遺憾とし、心中は使者倉光主水佑に含めたと伝えた。

  50. 後編3-No.1949 島津惟新書状

    島津惟新義弘が島津忠恒へ、将軍への目見得が滞りなく済んだことを祝い、帰国を待つと伝える。呂宋渡海船の件を山口へ取り次いだことを確認し、随行人数に法度を厳守させるよう念を押した。

  51. 後編3-No.1950 島津家久譜

    島津家久譜は、慶長九年七月中旬に島津忠恒が難波津から出船して薩摩へ向かい、島津紹益・伊勢貞昌らが供奉し、八月中旬に鹿児島城へ入ったと記す。

  52. 後編3-No.1951 福島正則書状

    福島正則が島津忠恒へ、両御所前での首尾、銀子の拝領、帰国許可を祝う。上方滞在中は風聞を避けて使札で見舞わなかったと釈明し、自身の帰国時には国元から連絡すると伝え、留守中の屋敷の無事を報告した。

  53. 後編3-No.1952 島津龍伯書状

    島津龍伯義久が島津忠恒へ、京都での首尾と陸奥守任官を祝う。祝意を表すため、使書に太刀一腰と馬一疋を添えて贈った。

  54. 後編3-No.1953 島津惟新書状

    島津惟新義弘が島津忠恒へ、普請の評判を喜び、無理非法を避けて家の繁栄を図るよう助言する。具足の塵取りの作法・日取り・奉行役を相談し、岩切らにも尋ねた上で、自身も出向く意向を伝えた。

  55. 後編3-No.1954 島津惟新書状

    島津惟新義弘が大迫新左衛門尉へ、翌年正月に大唐川内へ船を差し渡すことについて内府の了承を得たと伝え、若衆以下を励まして渡航準備を整えるよう命じた。

  56. 後編3-No.1955 島津忠恒・同龍伯連署掟書

    島津忠恒と龍伯義久が連署し、軍役・武具・殿役・番普請・喧嘩停止・地頭への服従・衣食節制・農作・逃散・召集期限・徒党・酒宴などを規定する。違反した侍は所領没収、凡下は厳罰と定めた。

  57. 後編3-No.1956 山口直友書状

    山口直友が龍伯側近へ、使者三原諸右衛門尉の帰国に託して両御所の無事を報じる。忠恒は当年在国し、翌春早々に上洛するよう命じられたとして、準備と相談を怠らないよう求めた。

  58. 後編3-No.1957 徳川秀忠御内書

    徳川秀忠が島津忠恒へ、重陽の祝儀として小袖五領が届いたことを喜び、詳細は本多佐渡守正信から伝えるとした御内書。

  59. 後編3-No.1958 徳川家康御内書

    徳川家康が島津忠恒へ、重陽の祝儀として小袖五領のうち綾二領が届いたことを喜ぶ旨を伝えた御内書。

  60. 後編3-No.1959 本多正純書状

    本多正純が島津忠恒へ、伊勢左衛門尉の下国に際し、帰路の大風を心配したが無事と聞いて安堵したと述べる。禁中で能と遊興が催された近況を報じ、焼物を贈った書状。

  61. 後編3-No.1960 本多正純書状

    本多正純が島津忠恒へ、公方徳川家康への重陽祝儀として御服を進上した件を披露し、遠路からの心遣いを家康が喜んで御内書を送ったと伝える。

  62. 後編3-No.1961 山口直友書状

    山口直友が忠恒側近へ、将軍家康は翌月下旬、右大将秀忠は翌年二月上旬に上洛予定と報じる。本多正純の内意により、忠恒も遅滞なく上洛するよう促し、樺山権左衛門にも伝えた。

  63. 後編3-No.1962 島津惟新書状

    島津惟新義弘が樺山久高へ、目貫代の銀三十目を送り、尾形作の進捗を尋ねる。翌春の忠恒上洛が遅れないよう気遣い、常用の脇差用目貫を正阿弥らと相談して念入りに調製するよう求めた。

  64. 後編3-No.1963 友枕如貴書状

    友枕如貴が伊勢兵部少輔へ、水指二つを門跡へ進上して喜ばれたことを報じる。翌春に龍伯が上洛すれば忠恒は在国できると喜び、若輩の左衛門を引見して用向きに召し使うよう依頼した。

  65. 後編3-No.1964 島津忠恒・同惟新連署証状

    島津忠恒と惟新義弘が連署し、天下統一後の改易・勘落で大伽藍の修理が困難になった妙円寺を惟新の菩提所と定め、知行五百石を付し、将来も変更せず役儀を免除すると証した。

  66. 後編3-No.1965 島津義弘書状

    島津義弘が、呂宋渡海船について山口直友へ照会し心配不要との返答を得たと報じる。海路・京都滞在中に家臣の狼籍がなく、所司代板倉勝重からも薩摩衆の宿取りを称賛されたとして、阿久根で定めた法度の効果を喜んだ。

  67. 後編3-No.1966 山口直友書状

    山口直友が惟新側近へ、家康は正月三日、秀忠は二月に上洛予定と報じる。来春は忠恒でなく龍伯が上洛して謝意を述べる案を示し、古田織部が称賛した茶入は秀忠に披露するまで他へ譲らないよう求めた。

  68. 後編3-No.1967 島津家久譜

    島津家久譜は、山口直友と伊勢貞昌の同日書状を引き、家康・秀忠の上洛に際して龍伯が先に上洛し忠恒への厚遇を謝す案を記す。本多正純が家康の命を伝え、龍伯と家康の熟談を通じて秀忠と忠恒の盟約を固めようとした。

  69. 後編3-No.1968 山口直友書状

    山口直友が忠恒側近へ、家康・秀忠の上洛予定を報じる。本多正純の意向を受け、翌春は忠恒の上洛を見合わせて龍伯を上洛させる案を示し、詳細は樺山久高と相談したと伝えた。

  70. 後編3-No.1969 山口直友書状

    山口直友が島津義弘・伊勢貞昌の側近へ、翌春は忠恒でなく龍伯が上洛するのがよいとの本多正純の意向を伝える。忠恒と相談して龍伯上洛を実現するよう求め、自身の考えは樺山久高にも説明した。

  71. 後編3-No.1970 小根占橋某日記

    小根占橋某日記は、慶長九年十一月二十七日に貫明公島津義久が国分へ移ったことを記す。

  72. 後編3-No.1971 島津義久譜

    島津義久譜は、慶長九年に義久が大隅国府に宅地を定めて普請を行い、十二月に富隈から新しい居所へ移ったと記す。

  73. 後編3-No.1972 島津忠恒書状

    島津忠恒が喜入忠績へ、近況と意向を知らせるよう求め、川助七との相談を予定どおり進めるよう伝える。頭屋での奏楽を見物できなかった惜しさや、紅葉・高砂を詠んだ歌も書き添えた。

  74. 後編3-No.1973 島津忠恒詠草

    島津忠恒の詠草。頭屋で奏楽が行われたと聞きながら見物できなかった惜しさを述べ、紅葉狩・高砂・海路を題材とする和歌を喜入忠績へ送った。

  75. 後編3-No.1974 島津義久詠草

    島津義久の詠草。国府移居後、大中良等の夢想を契機に、水路の新雪、庭の松、稲荷山の紅葉を題として三首を詠んだ。

  76. 後編3-No.1975 島津家久譜

    島津家久譜は、慶長九年十二月、隣好を修めるため寺沢志摩守正成が来訪し、樺山久高の屋敷を客舎として宿泊させたと記す。

  77. 後編3-No.1976 島津忠恒書状

    島津忠恒が樺山久高へ、寺沢正成と龍伯を屋敷に泊めたことを謝す。家康・秀忠の上洛予定を踏まえ、老衰した龍伯の上洛が遅れる場合は忠恒が先に上洛する案を山口直友へ照会し、自身も準備すると伝えた。

  78. 後編3-No.1977 島津龍伯書状

    島津龍伯義久が樺山久高へ、病後の老衰と虫患い・吐逆のため寒中の上洛は困難と述べる。忠恒を先に上洛させ、自身は養生して初夏ごろ出立する案を示し、山口直友の指示に従うよう求めた。

  79. 後編3-No.1978 島津龍伯書状

    島津龍伯義久が樺山久高へ、父子同時上洛の困難と自身の三月出立案を述べ、山口直友に公儀との調整を求める。十二月十六日の東西海岸の大浪で家屋・人命に被害が出て船頭確保も難しいと報じ、脇差目貫の調製も依頼した。

  80. 後編3-No.1979 本多正純書状

    本多正純が島津忠恒へ、大御所家康への歳暮祝儀として小袖十領のうち段子・綾・繻子・鹿子・染物などを進上し、披露の結果も良好だったと伝える。御内書は追って整えて送るとした。

  81. 後編3-No.1980 帖佐新正八幡宮寄進和歌

    帖佐新正八幡宮へ奉納された三十六歌仙和歌群。島津義弘を大檀主、忠恒を筆者、座主頼雄を本願主、市来家鎮を絵師とし、多数の施主が参加して、息災延命・家門繁栄・領国泰平を祈願し、十二月二十六日に成就した。

  82. 後編3-No.1981 島津忠恒書状

    島津忠恒が又吉へ、無事の帰着を確認し、内々の相談は正月の犬追物稽古に皆が集まる際に行うと伝える。兵法は春に落ち着いて稽古するのがよいとし、今回会えず残念だった旨を述べた。

  83. 後編3-No.1982 本多正純書状

    本多正純が島津忠恒へ、国元の蜜柑二箱を大御所家康へ進上して披露し、遠路からの心遣いを喜ばれたと伝える。正純自身への蜜柑一箱にも礼を述べ、家康の黒印を送付した。

  84. 後編3-No.1983 徳川家康御内書

    徳川家康が島津忠恒へ、音信として遠路から蜜柑一箱が届いたことを喜ぶ旨を伝えた御内書。

  85. 後編3-No.1984 島津尚久一流系図

    島津尚久一流系図は、慶長九年十二月二十九日に初久が誕生し、母を新納忠増の娘とする。童名鎌安丸、のち文七郎と称し、延宝二年十二月晦日に七十一歳で没したと記す。

  86. 後編3-No.1985 山口直友書状

    山口直友が忠恒側近へ、家康は正月三日に江戸を出発し、秀忠も二月十日に上洛すると報じる。上洛準備を急ぐよう促す一方、翌春は龍伯が上洛する案にも触れ、年明け早々の面談を期した。

  87. 後編3-No.1986 徳川秀忠御内書

    徳川秀忠が島津忠恒へ、歳暮の祝儀として小袖五重と蜜柑二箱が届いたことを喜び、詳細は本多佐渡守正信から伝えるとした御内書。

  88. 後編3-No.1987 本多正信書状

    本多正信が島津忠恒へ、二度に分けた蜜柑が悪天候で同時に着き過半が傷んだため四箱を家康へ進上したと報告する。家康は遠路の心遣いを喜び御内書を送り、正信自身も四籠を受け取って賞味したと礼を述べた。

  89. 後編3-No.1988 島津忠直譜

    島津忠直譜は、兄豊久が戦死して継子がなかったため、慶長九年に忠直が太守の命で後嗣となったと記す。しかし病で狂心となり、長女を喜入摂津守の長子へ嫁がせて兄の家を継がせ、自身は千石を領して三代堂村に隠居した。

  90. 後編3-No.1989 得能氏記録

    得能氏記録は、慶長九年の一里塚築造、家康の上洛・熱海入湯・池田輝政邸訪問、黒田如水の死、秀忠の入洛・参内、家光誕生を記す。さらに松平忠輝家中の横田内膳事件、諸大名への加増、朝鮮使節来訪と被虜人返還を収録する。