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後編3の目録
旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。
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後編3-No.800 島津義久書状案
島津義久が小西作右衛門尉に、使札を受けたことを喜び、鉄砲衆三百人を大口表まで派遣した厚意に謝意を示す。近く摂津から帰国する予定なので、その折に使者を立てて詳しく申し通じると伝える。
後編3-No.801 雑抄(諸書状書抜)
諸書状の要点を抜き書きし、伊集院源次郎の楯籠をめぐって立花親成の援軍を当面見合わせたこと、小西作右衛門尉の鉄砲衆三百人派遣、寺沢志摩守・小西摂津守ら近隣勢への援軍辞退を記す。さらに、惟新から少将への書状に見える船の賊党捕縛、毛利角右衛門と上田小左衛門尉の少将への奉公希望などを日付順に記録する。
後編3-No.802 島津惟新書状
島津義弘が伊集院下野入道に、見廻のため現地に引き続き滞在している労をねぎらう。時節柄いっそう油断なく任務に当たれば喜ばしいとし、とりわけ普請なども状況に応じて申し付けることが肝要だと伝える。
後編3-No.803 島津惟新書状
島津義弘が山田越前入道に、国元が無事であるとの知らせを喜び、上方も平穏だと伝える。庄内の状況を案じ、若輩の少将には龍伯から万事よく教え諭すよう、山田も内々に心を尽くして支えることを求める。
後編3-No.804 島津義久書状案
島津義久が寺沢志摩守・小西摂津守に、長期の在洛をねぎらい、庄内の件で度々使書を受けたことに謝意を示す。来月には行動を起こす覚悟である一方、近隣諸勢から申し出のあった人数の合力は当面見合わせるよう求め、島津方で対処できるので心配には及ばないと伝える。
後編3-No.805 島津家久譜
『島津家久譜』は、六月二十三日に山田城を攻めて即日落城させ、翌二十四日に勝利の報告書を上方の島津義弘へ送ったと記す。あわせて伊那図書頭へ書状を送り、内府徳川家康の上覧に供したところ、返書を受けたとして、次のNo.806を掲げる導入記事である。
後編3-No.806 徳川家康書状
徳川家康が薩摩少将に、六月二十四日付の書状を受け、源次郎方の先手が楯籠した城を即時に攻め破り、数百人を討ち取った戦果を称賛する。引き続き油断なく行動し、源次郎の居城攻略も近いと見込みつつ、味方の人数を損なわないよう慎重に進めることを求める。
後編3-No.807 島津惟新書状
島津義弘が少将に、伊集院源次郎の兄弟と母を佐竹方へ預け、近日中に関東へ送る予定を知らせる。山田城攻略や高原境・都之城周辺での勝利と多数の討取を称え、源次郎への対処を論じる一方、国元の情勢、兵糧・年貢収納、使者派遣、関係者の処遇などを詳しく指示し、今後も油断なく処置するよう求める。
後編3-No.808 島津惟新書状
島津義弘が少将に、呂宋への商買船と真壺の取扱いを詳しく指示する。長崎へ着岸した船の真壺を没収し、内府も商買船を曲事としたこと、甑島・阿久根方面の船も高島新蔵や寺沢志摩守と連携して厳重に改めることを伝え、「ばはん」船についても油断なく詮議するよう求める。
後編3-No.809 立花親成宗茂書状
立花親成が薩摩少将に、使僧への厚遇に謝意を示す。伊集院源次郎の楯籠に対して少人数を率いて出陣する意向を度々申し入れたが制止されたため、島津方が城中を徐々に弱らせて自落させる方針を尊重すると述べる。内府の見廻使者派遣にも触れ、必要時にはいつでも支援すると伝える。
後編3-No.810 御ちよ外十八名連署起請文
御ちよ以下十九名が、又八郎夫妻に対して別心を抱かず、御前での応対、上方の沙汰、主人への取次、親子・夫婦間の事柄、朝夕の食事などについて秘密を守り誠実に奉公することを誓う。違背時には多数の神仏の罰を受ける旨を列挙し、連署する起請文である。
後編3-No.811 島津惟新書状
島津義弘が少将に、「ばへん」船の荷物を厳重に改めて保管したとの報告を評価し、国習に紛れて不正が生じないよう一層注意することを求める。毛利輝元から再び使者を下す予定にも触れ、甑島へ来た呂宋商買船と真壺を寺沢志摩守・高島新蔵らと連携して糺明し、真壺を速やかに差し上げるよう詳しく指示する。
後編3-No.812 島津義久書状案
島津義久が羽兵庫入道に、諏訪祭礼のため庄内への攻勢を一時控え、来月には本格行動する予定を述べる。山田城と妻霧島への敵襲では守備を維持したものの指揮の不統一を問題視し、使者の上洛経路、庄内への魚塩流通の遮断を厳命する。また、幸侃後家の状況と京都情勢を尋ねる。
後編3-No.813 島津義久書状案
島津義久が毛利輝元に、度々の使札に謝意を示し、伊集院源次郎がなお楯籠しているため一挙に攻める予定だったが諸事情で見合わせ、八月には行動する覚悟だと伝える。内府の使者が下向した機会に相談して処置する意向を述べ、国元について心配は不要だとする。
後編3-No.814 島津義久書状案
島津義久書状案について、本文巻六のNo.813と同文であるため本文を省略した旨を記す。内容は、源次郎の楯籠への軍事行動を一時見合わせ、内府使者の下向を機に処置を相談することを毛利輝元へ伝える書状である。
後編3-No.815 島津竜伯書状
島津義久が入来院又六に、現地で在番を続ける辛労をねぎらい、連絡が途絶えたことを詫びる。庄内への一挙の行動を考えていたところ内府の使者が到着し、島津方の存分で相談してよいとの意向を得たため、即時の勝利を期して一層の賢慮を求める。
後編3-No.816 樺山久高覚書
樺山久高が平田太郎左衛門尉に示した覚書で、城内の普請、間仕切りや竹坂、諸口の番衆、板城戸、城近辺の山林伐採禁止、弓鉄砲、城屋敷、蔵米・財部・福島に関する事項などを箇条書きにする。普請と警備・物資管理を怠らず、諸事を監督するよう命じる。
後編3-No.817 島津忠長署判知行目録
島津忠長が署判した薩州谷山内の知行目録で、山田村、田中之門、名古屋敷、山科村、老町田屋敷などの知行地と石高を列挙し、合計高を示す。所領の範囲と数量を確定するための目録である。
後編3-No.818 入来院重時外二名連署状
入来院重時・平田宗増・新納為舟が阿多甚左衛門尉に、書状を拝領し、当地での勤番について特別に言葉を掛けられたことを謝する。内府の上使から庄内の件を島津方の存分に任せる旨が示されたのは大慶であり、今こそ軍勢を差し寄せる時機ではないかとして、この意向の披露を求める。
後編3-No.819 池田貞安覚書
池田貞安が庄内出陣時の戦功を回想する。帖佐・蒲生勢が山田新城を攻めた際、六左衛門は退却命令に対し、味方を捨てれば周辺の敵城から攻撃され全滅すると再三諫めた。中将様がその主張を採用して旗差・道具衆・軍勢を一斉に登らせ、新城と続いて本城を攻め落とし、惟新が伏見で報告を聞いて有川助兵衛から感状に相当する内…
後編3-No.820 池田貞安覚書
池田貞安が、軍代の平田太郎左衛門が七月十三日に山口へ向かった際の戦闘を記す。池田・山口大蔵・大井五兵衛・青山利兵衛の四人が案内役を命じられたが、志和地・野々美谷・安永・高城などの敵が城から出撃したため苦戦して山田へ退き、その遠目塚で旗差を庄内方に奪われたという。
後編3-No.821 池田貞安覚書
池田貞安が、黄門様が初めて山田城へ布陣した際の出来事を記す。安永の中霧島で伏兵に遭い、手回りの者が多数討死して人数不足となったため、森田の陣にいた池田も山田へ召し寄せられて奉公したという。
後編3-No.822 盛呑集
『盛呑集』の記事で、庄内陣の際、高城から出撃した敵に新納小右衛門と黒田嘉兵衛が先進して槍を合わせ、城門まで追い込んだ戦功を記す。後に先陣を問われると、両者は互いに相手が先、自分は後だったと譲り合い、結局どちらが先陣か分からなかったという。
後編3-No.823 盛香集
『盛香集』は、加治木の竹之内半右衛門が志和地城に籠もった名のある武士で、後に惟新から中神石見らと同様に召し抱えられたと記す。城中の多人数のうち実際に役立つ武士は二十七、八人ほどで自分もその一人だったと語り、小川半平の兄とともに志和地で鎧を着けて戦った折のことも伝える。
後編3-No.824 盛香集
『盛香集』は、新納摂津が日州庄内へ布陣した時、古来稀な高齢で四肢も不自由ながら軍務に励んだことを記す。同陣で十五歳の平田三五郎が戦死すると、武蔵入道がその無双の美童を哀傷し、「きのふ迄誰か手枕にみたれけん/よもきか元にかゝる黒かみ」と詠んだという。
後編3-No.825 殉国名薮
『殉国名薮』は、慶長四年の庄内合戦で戦死した島津方の武士を、月日・戦場・所属や続柄とともに列挙する。六月一日の中田十郎をはじめ、山田城・恒吉・安永・高城・北郷・神田橋など各地で討死した町田新助忠玄、長野藤兵衛、平田三五郎、上井仲五兼政ら多数を掲げ、六月から翌年正月に及ぶ戦没者の記録をまとめる。
後編3-No.826 島津義久譜
島津義久譜の記事で、本文はNo.765と同文のため省略される。内容は、慶長四年夏に島津忠恒が薩摩へ帰着後、大軍を庄内へ向け、恒吉を攻めて敵兵を屈服させ、六月二十三日に山田城を陥落させて反乱勢数百人を討ち、その後山田を本営としたというものである。
後編3-No.827 島津義久譜
島津義久譜は、同年九月二十九日に少将島津忠恒が庄内の山田城へ入り、在陣したと記す。これ以後の詳しい経過は忠恒譜に収められているため、義久譜では省略するとする。
後編3-No.828 島津義久譜
島津義久譜は、内大臣徳川家康が山口勘兵衛尉直友を当地へ派遣して和睦を仲介させたが、伊集院源次郎には偽言が多く信義が不足していたため成立しなかったと記す。その経緯を家康へ報告すると返書が与えられたとし、九月晦日付の返書は後文に収録すると注記する。
後編3-No.829 上野隼人覚書
上野隼人は、伊集院幸侃の成敗後、源次郎が庄内十二城に籠もって島津家に反したため、慶長四年六月に軍勢が催された経過を回想する。須木を発して村尾源左衛門入道・長介が幟を整え、上野隼人と逆瀬川豊前が二組を率い、夜道で高崎から庄内へ入り、楠牟礼口・津間霧島などで戦った。火矢・鉄砲・濃霧・風雨のなか敵城へ攻め…
後編3-No.830 島津義久書状案
島津義久が兵庫入に、庄内へ一挙に対処するつもりだったところ内府の使者が下向し、まず諸城の下城を源次郎へ命じたと伝える。上方の威光によって各方が承知し和睦の見込みはあるが、相手方はたびたび主張を変えるため結着を疑い、近日中に決着すれば早使いで知らせるとする。京都の情勢への配慮を求め、少量の贈物を添える…
後編3-No.831 島津義久書状案
島津義久が神龍院に、長年望んでいた神道伝授のため当地の社家二人を上京させ、滞りなく伝授を受けたことを国家のためにも喜ぶ。神龍院が懇切に尽力したと聞き、礼状を送り、二位殿へ生糸三斤、左兵衛殿へ同種の品を取り次ぐよう頼み、神龍院にも軽少の品を贈る。
後編3-No.832 島津義久書状案
島津義久が長悦に、久しく音信を欠いたことを詫び、上方が静謐か、新たな動きがあるかを尋ねる。また当地で用意している数寄道具がそろそろ出来上がる頃かとして、その様子と取り計らいを頼み、若い者向けの軽少な絹二端を贈る。
後編3-No.833 高橋元種書状
高橋元種が羽少将島津忠恒に、内府の使者が下向し、忠恒が庄内へ軍勢を出したと聞いたことを伝える。高橋方にも忠恒から内府宛ての書状が届き、連絡次第参陣する意向を承知したとして、自身も参陣して直接意向を伺うと述べる。
後編3-No.834 船越景直書状
船越景直が島津又八に、敵の出城を奪い首七百ほどを討ち取った戦功が当地にも伝わり、内府へ報告したところ大いに感心されたと祝う。遠路のため見舞いに行けないことを詫び、兵庫様からの相談を受けて、医術にも武辺にも心得があり忠実に奉公する人物を差し下すので召し抱えるよう勧める。あわせて猪介の消息を尋ねる。
後編3-No.835 島津惟新義弘書状
島津義弘が少将島津忠恒に、船越五郎右衛門の紹介による生田小兵衛尉を推薦する。生田は疵医者で医道に長じ、本人も実直で種々の奉公ができる人物と聞くため、まず召し使って力量を見るよう勧める。知行を与えるまでは十二人扶持または十五人扶持を分別次第で支給し、肥後に置く妻子も薩摩へ呼び寄せられるよう配慮を求める…
後編3-No.836 五島玄雅書状
五島玄雅が河内四郎兵衛に、帰国以来音信を欠いたことを詫び、伊集院への折檻が現在どのように命じられているかを尋ねる。小攝様から時機を見て知らせるとの内意を受けて待っていたが連絡がなく、油断しているように見られるのを避けるため飛脚を立てたとして、事情の披露を頼む。
後編3-No.837 島津惟新書状
島津義弘が新納武蔵入道に、弥太右衛門が人手不足のなか昼夜辛労して奉公していることを伝え、当地の状況を尋ねる。京都は平穏だが、源二郎がなお籠城しているため軍事行動が続き、先には山田城を攻め落としたと述べる。少将忠恒が在国中なので、特に忠恒へ奉公することが肝要だと諭す。
後編3-No.838 島津惟新書状
島津義弘が又八郎島津忠恒に、京都と国元の無事を述べ、庄内の対処を失策なく進めるよう促す。内府が格別に配慮して寺沢志摩守を使者として再派遣すること、帖佐の置目を厳守させること、病中の幸侃への見舞いと祈念を伝える。さらに帖佐蔵入の代官衆を庄内陣から外し、年貢収納に専念させるよう求める。
後編3-No.839 島津義弘書状
島津義弘が伊集院源次郎に、内府使者寺沢志摩守の下向が予定されているので熟慮するよう求める。幸侃が悪心ゆえ成敗されたことはやむを得ないが、源次郎の進退は保障すると龍伯・少将が繰り返し伝えているのに、なお籠城していると指摘する。家中や加治木・吉田の者に神文血判どおり城を出て奉公させ、主人への加勢、親子夫…
後編3-No.840 島津義久書状案
島津義久が伊東豊後守に、たびたびの使札と懇意に謝し、とりわけ今回早急に注進を寄せた厚意を喜ぶ。事情の詳細は使者に申し含めたので、書中では重ねて述べないとする。
後編3-No.841 島津惟新書状案
島津義弘が伊東豊後守に、庄内へ伊東家中から塩などを通用しているとの風聞を、当初は虚説と思ったが国元から重ねて確報されたと問いただす。源二郎と同心して庄内へ物資を通わせるのが事実なら反乱への加担に当たり、伊東のためにも不利益だと警告する。内府が山口勘兵衛尉を派遣して源二郎の出城を求めているので、龍伯・…
後編3-No.842 島津惟新書状案
旧記雑抄は、本文がNo.841と同文のため省略したと注記する。内容は、伊東家中が庄内へ塩などを通わせ源二郎に加担しているとの確報を示し、事実なら反乱への同意に当たるとして支援を止め、山口勘兵衛尉による出城交渉と龍伯・少将の対応に協力するよう求める書状である。
後編3-No.843 衆中連署起請文
衆中が、龍伯・惟新・忠恒に対して別心や悪意を抱かず奉公することを誓う。仲間内での談合や隠し事を禁じ、主人への申告を怠らず、親子・夫婦間の不正や悪口、無断の飲食・交際を戒め、命令と共同の取り決めに従う旨を連署した起請文である。違反時には神罰を受けると誓約する。
後編3-No.844 三輪大宿良恵書状
三輪大宿良恵が島津少将に、高麗での一戦に際して立願された大護摩について、名誉が天下に知れ渡ったと祝す。大護摩一座・小護摩二座の執行料として銀子二貫八百八十目を受領し、吉日良辰に修したことを報告する。札・巻数・守矢を進上し、武運長久、息災延命、諸願成就を祈念すると述べる。
後編3-No.845 島津義久書状案
島津義久が伊東殿に、使札を喜び、内府の使節が下向して庄内方面にも申し渡したものの、なお状況に変化がないと伝える。伊東にも内府の書状が届き、事態が動けば出馬するとの懇切な申し出を受けたが、当面は差し迫った事態がないので心配には及ばないとし、詳細を使者に託す。
後編3-No.846 島津義久書状案
島津義久が高橋殿に、使書と十端の贈物への謝意を述べる。内府の使者が下着して源二郎へ申し諭したが、なお新たな動きはないと報告する。また上方で兵庫入道・少将と相談した事柄を尋ね、詳しくは使者が申し述べるので書中では省くと伝える。
後編3-No.847 島津義久書状案
本文は「全上」とのみ記され、No.846と全く同じ内容であることを示す。すなわち島津義久が高橋殿に、十端の贈物へ謝意を示し、内府使者が源二郎を説諭した後も新事がないこと、上方で兵庫入道・少将と相談した件を尋ね、詳細を使者に託した書状案である。
後編3-No.848 島津竜伯義久書状
本文は、No.840と同文のため省略すると注記される。内容は、島津義久が伊東豊後守に、たびたびの使札と懇意に謝し、とりわけ早急な注進を寄せた厚意を喜び、事情の詳細は使者に申し含めたので書中では重ねて述べないとする書状である。
後編3-No.849 島津竜伯書状
島津義久が武庫入道島津義弘に、当家の人質として十三年間在京した自身の娘について、帰国後の付人や身の置き所を相談する。娘には三清夫婦、のち存松夫婦を付けたこと、又八郎の置目との関係や外聞を案じ、又八郎とも協議して面倒な事に関わらせず長く扶持するよう求める。あわせて又八郎の振舞いを神妙と評価し、飲酒を過…
後編3-No.850 島津義久書状案
島津義久が小西殿に、高麗から引き続き在京し、このほど帰国した長年の辛労をねぎらう。源次郎の楯籠に関して度々の書状と瀧七右衛門の二度の派遣に謝し、討伐を企図したところ内府の使者が下着し、まず下城を勧告するよう命じられたと説明する。源次郎側も上方を恐れて申し出た現状なので、国元について心配はいらないと伝…
後編3-No.851 島津義久書状案
島津義久が進藤大蔵入道に、御家門様の書状を拝領し、京都の静謐と御姫宮の無事を喜ぶ。又八郎と玄与所への書状は届けたと報告し、わずかな品ながら生糸三斤を進上したいので、差し支えなければ受納の取り成しを願う。
後編3-No.852 新納旅庵長住外二名連署銀子借用書
新納旅庵長住・本田源右衛門尉・河上四郎兵衛が、惟新の用のため材木屋与兵衛から銀子二貫目を借用した証文である。一貫目につき一か月四十匁の利息を付し、本利とも年内に返済すると定める。天下一統の徳政があっても他の債務と混同せず返済し、連署三人のうち一人だけになっても弁済することを約す。
後編3-No.853 新納旅庵借用書
新納旅庵長住が材木屋与兵衛に提出した借用書の裏書である。慶長四年八月に借りた本銀二貫目について、同年八月から翌年三月までの利息を計算し、慶長五年四月に合計二貫四百四十三匁九分を済ませたと記す。さらに五月から銀子一貫五百目を借用し、一貫目につき一か月三十目の利息とする条件を確認する。
後編3-No.854 小西行長書状
小西行長が羽柴少将島津忠恒に、帰国を聞き届けて早々に使札を寄せられたことへ謝意を述べる。庄内について内府の使者が下着したと承知し、伏見では状況次第で自身も加勢に赴く可能性を内々に示されたと伝える。忠恒の意向に従う用意を示し、音信として縮二端を贈られた懇意にも礼を述べる。
後編3-No.855 児玉利昌譜
『児玉氏乳後利昌譜』が、慶長四年の庄内の乱で、島津義久が富隈から平田狩野介宗応に兵を率いさせ、成渡瀬の守備へ派遣したこと、児玉実相・新納忠陸・平田宗次・吉田清家らが備えたこと、忠恒の帰国後の親征と八月十七・十八日の使者・檄の往来を記す。
後編3-No.856 平田宗次外三名連署状
平田宗次・児玉実相・新納忠陸・吉田清家が前原平兵衛らに、前日にわざわざ訪問した誠意へ謝す。急いで帰ったため十分に話を聞けなかったことを惜しみ、相手方で何か新しい動きがあれば少しでも注進してほしいと頼み、詳しくは対面のうえ申し述べるとする連署状である。
後編3-No.857 島津義久書状案
島津義久が筑紫上水正に、芳書への謝意を示し、京都で対談できたことは今も本望であると述べる。源次郎の楯籠について内府の使者が派遣され、現在は調停の最中であり、きっと円満に成り行くであろうから国元のことは心配に及ばないと伝え、詳細を使者に託す。
後編3-No.858 豊臣氏五大老連署状
徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝・前田利長の五大老が羽柴薩摩少将島津忠恒に、先年から禁止していた海賊行為を当年に犯した者を成敗したと通達する。今後は従来の置目どおり各領主が違反者を処罰し、船の出航と帰着を厳重に改めるよう命じる連署状である。
後編3-No.859 徳川家康書状
徳川家康が伊東氏部太夫に、先にも書状を送ったが、源次郎が今なお下城しないのは不届きであると伝える。このため寺沢方を差し下したので相談し、自身も出陣して討伐を進めるよう求め、詳細は使者の口上に託す。
後編3-No.860 豊臣氏奉行衆連署状
豊臣氏奉行衆が島津又八郎に、大仏本尊鋳造の用に唐金二万貫目を買い調えて差し上げ、木食上人へ渡して受取状を保管するよう命じる。代金は公儀から下行されるので、その旨を心得るよう指示した連署状である。
後編3-No.861 島津家久譜
島津家久譜は、慶長四年八月廿日に恒吉城の守兵が城を撤して逃走したため、同城が島津方の手に入ったと記す。
後編3-No.862 豊臣氏奉行衆連署状
豊臣氏奉行衆が羽柴薩摩少将島津忠恒に、先年から禁止している海賊行為について、当年に違反者を成敗したと通達する。今後は海賊を出した領主の責任とし、船の出航時と帰着時に厳重な検査を行うよう命じる連署状である。
後編3-No.863 島津惟新書状
島津義弘が又八郎島津忠恒に、庄内情勢の注進が途絶えて心配していると述べる。内府の使者寺沢志摩守が同日出立し、立花左近太夫・小西摂津守も軍勢を伴わず同行する予定なので、現地で十分に協議するよう求め、注進は寺沢との連判で上申すると決めたと伝える。また帖佐の諸制度を鹿児島同様に整えるよう頼み、詳細を小野郷…
後編3-No.864 島津惟新書状
島津義弘が少将島津忠恒に、自身の長期在京を見越して国元の財政・算用体制を固めるよう求める。金銀米銭の管理には計算能力だけでなく誠実さが必要で、近年は役人の不適切な処理により大きな損失が生じたと指摘する。帖佐にも適任者がいないため、本田六右衛門尉を一時自分のもとへ異動させて役人に充てたいと内密に相談し…
後編3-No.865 島津義久書状案
島津義久が、庄内との往来を断つよう改めて求める。庄内側から何らかの申し分があったかを尋ね、源次郎から相手へ送られた封書を封じたまま転送してくれたことを重要な配慮として謝す。内容を披見したうえで相談し、福島衆や椛山権右衛門との間でも疎意なく誓紙を交わしているので、今後も連携するよう伝える書状案である。
後編3-No.866 島津義久書状案
島津義久が安国寺に、前年春に約束した品を少量ながら進上し、あわせて当初の約束にはなかった鉄一本も、姿が面白いので添えたと伝える。気に入れば喜ばしく、ほかにも用があれば申し越してほしいと述べる書状案である。
後編3-No.867 島津惟新書状
島津義弘(惟新)が又八郎(忠恒)へ、庄内出陣が長引けば肥後・筑後の風説と重なり危険となるため、内府の調停も見極めて慎重に対処するよう諭した書状。愛宕へ大百味を奉納して祈念・占いを行い、敵方が当月放火するとの占いにも警戒を促す。前年五島へ着船した唐人に関わる大明からの使者船が、日本人・唐人約百五十人の…
後編3-No.868 島津忠恒家久寄進状
島津忠恒が、日向国真幸院吉田村の知行高三百九十六石のうち五十石を寄進した寄進状である。先年に立願したことを受け、今回正式に寄進すると定める。
後編3-No.869 徳川家康書状
徳川家康が薩摩少将島津忠恒に、先に派遣した使者が到着したとの報告を受け、丁寧な知らせを喜ぶ。伊集院の件については先日寺沢志摩守に申し遣わしたので、書中では詳述しないと伝える。
後編3-No.870 島津惟新書状
島津義弘が少将島津忠恒に、その身を心配して本田六右衛門尉とも相談し、愛宕へ大百味を奉納したと伝える。ほかの立願や祈念も怠っておらず、忠恒にも今こそ精いっぱい信心するよう促し、詳しい用件は使者二人に申し含めたとする。
後編3-No.871 島津忠豊(豊久)書状
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、九月二日に鹿永口へ少数の敵が現れ、配下が交戦した件を早くも聞き届けて書状を寄せられたことへ謝す。戦死者の弔いにまで心を配られたことを感謝し、近日中の出馬を待つと伝える。
後編3-No.872 島津忠豊(豊久)書状
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、庄内の件を上使が無事に調停しようとしたが成立しなかったとの知らせを了承したと伝える。自身も山田方面へ出向き、現地の様子は頴娃主水正が見聞しているので詳述せず、委細は老名衆から申し上げるとする。
後編3-No.873 伊東祐兵書状
伊東祐兵が羽柴少将島津忠恒に、遠路からの使札へ謝意を示す。近く庄内へ出陣すると聞いて自身も出馬する覚悟で時期を尋ねたが、現在は延期したとの知らせを承知したと述べる。今後出陣する際は注進を受け次第、遅滞なく出馬すると約し、詳細を使者に託す。
後編3-No.874 島津忠豊(豊久)書状
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、書状と樽・肴などの贈物を受けたことへ謝意を述べる。前日の攻撃で多数の敵を討ち取って勝利したとの報を喜び、戦況は使者が実見しているため詳述せず、適切に披露してほしいと頼む。
後編3-No.875 新納為舟忠元書状
新納為舟忠元が秋月長州に、二日間の戦況を報告する。都城から一里ほど手前まで兵を進めると敵が出て激しい鉄砲戦となり、その後、野々美谷・高城・志和池の兵が合流した。敵の三重の備えを破って二、三十人を討ち取り、味方は六、七人が戦死したと述べ、秋月の参陣時期に相談したいとする。
後編3-No.876 島津忠恒書状
島津忠恒が本田六右衛門尉に、長く在京している辛労をねぎらい、奥方のことを引き続き油断なく取り扱うよう求める。庄内情勢はなお変わらず心配だが、兵を出して戦っているので近日中に決着するだろうと述べ、以後も逐次報告するとする。また存松を急いで上らせるので、交替して下向するよう命じる。
後編3-No.877 北郷忠能譜
北郷忠能譜は、八月十五日に長千代丸勢が東霧島から楠牟礼へ進み、志和池兵と鉄砲戦を行い、側面攻撃で敵を城内へ退けた経過を記す。九月十日には都城攻略のため大根田・内村方面へ進み、北郷久陸の三百騎などの援軍を得て小松谷尾・鵜嶋の泉水・小谷頭で戦い、敵を敗走させ、高城勢も退いたとする。多くの戦死・負傷者と敵…
後編3-No.878 島津忠恒感状
島津忠恒が北郷長千代に、去る十五日に野々三谷で長千代方の衆が合戦して勝利し、多数の首を討ち取ったとの注進を喜ぶ。粉骨して討死・負傷した者が出たことを神妙と評価し、今後もいっそう軍功を励むよう命じる。
後編3-No.879 北郷三久書状
北郷三久が、島津忠恒から野々三谷での軍功を賞する書状を受け取り、面目に存じて拝領したと述べる。今後も忠勤に励むので、その旨を忠恒へ披露してほしいと頼む。本文はNo.882と同文のため原資料では省略されている。
後編3-No.880 島津忠恒知行目録
島津忠恒が留主次郎三郎に、吉田佐多之浦村のうち高五十石を知行として寄進する。先年の立願が成就したため当家の祈願人である留主に付し、十月十五日の大放生会と中節供を旧規どおり神前に供えて、怠りなく祈祷に励むよう命じる。
後編3-No.881 島津竜伯書状
島津義久(龍伯)が伊那図書頭に、庄内がなお無事でないため山口勘兵衛尉の上洛を引き留めていると知らせる。伊集院方への使者派遣と隣国衆の加勢に謝しつつ、公儀衆との不測の事態を避けて援兵要請を見合わせた経緯、源二郎の下城をめぐる和平が一度は了承されながら破談した事情を述べ、山口勘兵衛尉との取次を頼む。
後編3-No.882 北郷三久書状
北郷三久が、島津忠恒から野々三谷での軍功を賞する書状を受け取り、面目に存じて拝領したと述べる。今後も忠勤に励むので、その旨を忠恒へ披露してほしいと頼む。
後編3-No.883 寺沢正成書状
寺沢正成が羽柴少将に、七日付書状を拝見し、内府から当地の様子を見廻って挨拶するよう命じられたこと、両使への申し含めを了承したと返答する。あわせて使者の派遣と上洛後の面会について承知し、詳しくは両使から聞くとしている。
後編3-No.884 島津惟新書状
島津惟新が羽柴少将に、帖佐・山田・蒲生・吉田の人数を庄内境へ移すとの風聞を案じ、出水は肥後・筑前方面の第二の城戸であるため守備を固めるよう説く。さらに内府が大坂で諸大名の上洛を規制し、強行時には越前・淡路で阻止するため兵を配置したとの情勢を伝える。
後編3-No.885 島津惟新書状
島津惟新が少将に、大坂では難しい問題が起きたものの当面は異変がなく、内府の懇切な配慮も変わらないと伝える。内府が大坂に在るとの取り決めや伏見の諸侍への通達見込み、庄内の処置が定まらず案じていることを述べ、使者の口上を聞いて取り計らうよう頼む。
後編3-No.886 島津惟新書状
島津義弘(惟新)が少将島津忠恒に、上方には現在変事がないと知らせる。御用の件により相良甚兵衛尉を下向させたので、詳しい事情はその口上から聞くよう求める。
後編3-No.887 島津惟新書状
島津義弘(惟新)が少将島津忠恒に、急用が生じた際の京都への書状送達経路を示す。高橋右近と申し合わせ、中川修理または大田飛騨を経て熊谷内蔵允・垣泉州へ送り、そこから京都へ早急に差し上げるよう手配したので、この時こそ十分に才覚するよう促す。
後編3-No.888 高橋重種書状
高橋重種が羽柴少将島津忠恒に、風説を受けて不意に上洛し、使者の口上を承知したと返答する。内府が寺沢志摩守・小西摂津守に現地を見舞わせ、その状況を近国衆へ知らせて出陣させるよう命じたため、寺沢の報告を待ちながら近方の衆と出陣準備を整えると述べる。
後編3-No.889 伊那令成書状
伊那令成が羽柴少将島津忠恒に、内府が十七日に大坂へ下向して秀頼へ重陽の祝儀を述べたこと、秀頼に対する悪事を企てたとして大蔵卿局・大野修理が退出したとの政情を伝える。大坂・伏見の仕置は心配不要とし、庄内の情勢を案じて折々の注進を求める。
後編3-No.890 小西行長書状
小西行長が羽柴少将島津忠恒に、七日付書状と両使の口上を二十四日に受け取ったと返答する。寺沢志摩守が近日当地へ来る予定なので、その到着後の状況に従って対応する覚悟であり、使僧を津まで送ったので帰着の折に改めて連絡すると述べる。
後編3-No.891 島津忠恒掟書案
島津忠恒が庄内出陣に際し、軍中で下知衆の命令に従うことを最優先とする掟を定める。弓・鉄炮と分捕、喧嘩口論、合言葉・合印、具足着用、小荷駄と夫丸の区別、私的な組合や我儘、未練な振舞い、軍勢の進退を規定し、違反者や違反を隠した下知衆を厳罰に処すとする。
後編3-No.892 山口直友書状
山口直友が龍□に、長期滞在中に受けた厚遇へ謝意を述べ、今夜は大窪に泊まり翌朝出立すると知らせる。上洛に関する事柄は伏見で改めて伺い、内府へ事情を伝えるので安心してほしいとし、相良吉右からも申し上げるよう頼む。
後編3-No.893 島津家久譜
山口勘兵衛尉が庄内方との和親を成立させようとしたが、庄内方は降参せず、交渉は不調に終わった。山口は九月十四日に空手で帰京し、税所越前入道・竹内織部佑が同行したと記す。
後編3-No.894 山口直友書状
山口直友が少将島津忠恒に、長期滞在中の厚遇と前日の路次までの見送りに謝し、今夜は大窪に泊まり翌朝出立すると知らせる。少将の使者の上洛について伏見でさらに相談し、意向どおり内府へ事情を申し伝えるので安心してほしいと述べる。
後編3-No.895 小西行長書状
小西行長が羽柴少将島津忠恒に、重ねて届いた書状を拝見したが、自身が伺うかどうかは寺沢志摩守の対応次第であると答える。寺沢が二日に唐津を出船して来訪する予定なので、その意向を確かめ、必要なら参会し、結果を改めて報告すると述べる。
後編3-No.896 島津惟新書状
島津義弘(惟新)が羽柴少将島津忠恒に、幸相が六月十日以来の重病から回復に向かい、鹿児島の病人も快方にあると知らせる。さらに蔚山へ船を渡す件は、寺沢志摩守が内府へ伺って使者船以外の渡航を禁じる法度となったため応じられず、別方面から手配するよう求める。
後編3-No.897 太田一吉書状
太田一吉が薩摩少将島津忠恒に、内府が羽柴肥前守を詰問するとの風説と、中村式部少将・堀尾帯刀を使者に立てる動きを伝える。出陣や海上輸送への備えを述べる一方、彦山座主職をめぐる黒田甲斐守・毛利壱岐守の争いが豊前との境で起きているため、上洛を見合わせたと説明する。
後編3-No.898 島津惟新書状
島津義弘(惟新)が少将島津忠恒に、庄内との調停が不調となり弓箭に及ぶ状況でも、知行の多少にこだわらずまず所領を与えて和睦を図るべきだと助言する。山口勘兵衛尉の報告に内府が立腹し、源二郎に早期下城を迫って拒めば討つよう命じたことを伝え、交渉をまとめるよう求める。
後編3-No.899 島津家久譜
慶長四年九月二十九日、島津忠恒が庄内へ出陣して山田城に入り、各地の軍勢・作戦を指揮したと記す。