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後編3の目録

旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。

全1,990件中 601~700件・7 / 20ページ

  1. 後編3-No.600 島津義弘譜

    島津義弘譜が、十一月二十五日に牧島を出帆し、島津忠豊とともに対馬の鰐浦・細泊・白賀を経て鴨瀬へ着き、逆風で停船した帰航経過を記す。義弘父子が帝都へ赴く一方で帰国する士卒もおり、十一月十八日の順天海口・南海島付近の戦闘による戦死・負傷で当初の人員編成が大きく欠けたため、島津忠長ら老臣が現地で協議し、欠…

  2. 後編3-No.601 児玉利昌譜

    児玉利昌譜が、慶長三年十一月に京都から朝鮮在陣軍へ撤兵命令が届き、十二月に島津義弘が兵を率いて帰還した際、児玉利昌も従ったと記す。利昌は朝鮮役でたびたび首級を挙げる功績があり、義弘に召し出されて褒賞を受けたとする。

  3. 後編3-No.602 児玉利言申状

    児玉利昌の孫・児玉利言が、祖父の朝鮮役での奉公を申し立てる。文禄元年、義弘の渡海時に自費で船を用意して朝鮮へ渡り、雑兵を多数討ち取ったため、帰朝後に褒美として知行三十石を与えられたと記す。本文は複数条のうち一条のみを掲げ、ほかは省略されている。

  4. 後編3-No.603 諸家大概国分氏伝

    国分氏伝が、朝鮮出陣前に「自力で五百石相当の軍役を勤めれば、帰朝時に高五百石を与える」と諸士へ約束されたことを記す。国分左京は自力でその軍役を負担して渡海し、出陣前に二百五十石を受けた。帰国後に残額を願い出たが、国分氏が夫満宮の社領八町を領して社領を失わせていることを理由に、既給分の石高で相当と裁定…

  5. 後編3-No.604 諸家大概鮫島氏伝

    鮫島氏伝が、鮫島筑右衛門が五百石相当の軍役で朝鮮へ出陣し、出陣前に二百石、唐島で五代少左衛門らと奉公した褒美に百石を受けた経緯を記す。帰朝後に残り二百石を願ったが、もとは田二段を持つ身であるとして給付を抑える裁定が示された。あわせて、過去に渋谷家または伊東方として敵対した二渡・壱岐両氏も二百五十石を…

  6. 後編3-No.605 諸家大概二渡氏伝

    二渡氏伝が、伊地知伯耆守の三男が二渡家の養子となり、二渡次兵衛を称したことを記す。朝鮮出陣前、五百石相当の軍役を自力で勤めれば帰国時に五百石を与えるとの命を受け、養父が取り立てて軍役を負担させ、次兵衛は渡海して軍功を立てた。その後、兵具奉行に任命されて勤務したとする。

  7. 後編3-No.606 舟越景直書状

    舟越景直が(慶長三年)十二月五日付で島津忠恒へ、自身の小姓を国元で召し使うよう推薦した書状。小姓は番船を奪取した際に一番乗りし、首級を挙げて船を捕らえ、さらに別船へ乗り移って働いたと述べ、掃部助らもその戦功を知っているとする。処罰を受けるような者ではなく、詳しい事情は伊勢弥九郎へ伝えたとして、島津義…

  8. 後編3-No.607 島津義弘譜

    島津義弘譜が帰航途中の動静を記す。十二月五日に鴨瀬を出帆し、義弘父子は対馬で宗義智の饗応を受け、立花宗茂・島津忠豊も同席した。翌六日に対馬を発ち、壱岐勝本を経て迫門へ着き、松浦法印の酒宴を受ける。一方、朝鮮で前代未聞の怯弱を示したとして深野掃部兵衛・長崎六郎左衛門を軍勢の前に引き出し、鮫島筑右衛門尉…

  9. 後編3-No.608 島津家久譜

    島津家久譜が、慶長三年十二月五日に鴨瀬を出帆した際の対馬での饗応を記す。家久は父義弘と宗対馬守義智を訪ね、立花宗茂・島津忠豊も来会した。義智は家久らだけでなく随従の士卒にも盛膳と美酒を振る舞い、歓を尽くしたのち一行は座を辞して乗船した。

  10. 後編3-No.609 島津豊久譜

    島津豊久譜が、日本軍に帰朝命令が下ったのを受け、慶長三年十二月に釜山浦を出帆した経過を記す。海路無事に筑前へ着いたところで豊臣秀吉の訃報を聞き、涙して喪に服した。その後ふたたび出帆して伏見へ上り、同地で越年した。

  11. 後編3-No.610 島津忠長譜

    島津忠長譜が、慶長三年十二月上旬に釜山浦から博多へ帰着し、帰朝軍勢の到着を待った経過を記す。義弘・忠恒は石田三成から豊臣秀吉の訃報を聞いて一座とともに哀悼し、朝鮮での戦功を称賛された。義弘が軍忠は忠長の働きによると述べると、浅野長政も忠長の手を取って異国での名誉を賞した。忠長は義弘父子に従い十二月廿…

  12. 後編3-No.611 太田一吉書状

    太田一吉が、久しく見舞いの書状を送らなかったことを詫びたうえで、多数の明軍を相手に挙げた島津家久の手柄と無事の帰朝を祝う。まず使者を遣わしたとし、まっすぐ国元へ通過するなら坂の関辺で知らせてほしいこと、対面の折に詳しく話したいことを伝える。

  13. 後編3-No.612 島津家久譜

    島津家久譜が、慶長三年十二月六日に対馬を出帆して壱岐勝本へ着き、翌日迫門で松浦法印刑部卿の盛大な饗応を受けた帰航経路を記す。あわせて、朝鮮で前代未聞の怯弱を示した深野掃部兵衛・長崎六郎左衛門を軍勢の前で処刑し、鮫島筑右衛門尉が深野の首を斬ったこと、深野の息子二人は死罪を免じて帰国させたことを記す。

  14. 後編3-No.613 島津義弘書状

    島津義弘が(慶長三年)十二月七日付で友枕斎へ出した書状。高麗在陣中、聖門様からたびたび祈祷札・護符を賜ったことに謝意を表し、その加護による戦勝と帰帆を報告する。十月朔日の泗川合戦で忠恒が明軍を破ったこと、蔚山・順天の包囲解除、十一月十七・十八日の海戦で朝鮮船四艘・江南船二艘を奪取して小西行長軍の撤収…

  15. 後編3-No.614 瀬戸口重位手次状

    瀬戸口重位が慶長三年十二月八日付で児玉四郎兵衛尉へ出した手次状。児玉の懇望に応じて自流の内容を残らず伝授したことを証し、伝授内容は他見・他言を禁じる。同流を望む者があれば誓詞を取ったうえで許可すること、失念した点は尋ねるよう求めている。

  16. 後編3-No.615 島津義弘譜

    島津義弘譜が、慶長三年十二月九日に壱岐浦を出帆し、翌十日に筑前博多へ到着した経過を記す。博多では毛利秀元・石田三成・浅野長政らが義弘父子の帰着を待ち、無事と長年の軍務をねぎらったのち豊臣秀吉の死去を告げた。義弘父子は涙して哀悼し、その後博多に上陸して赤間関へ赴き、官船に乗って京都へ向かった。

  17. 後編3-No.616 島津家久譜

    島津家久譜が、慶長三年十二月九日に壱岐浦を出帆し、翌十日に博多へ到着した家久父子の帰朝を記す。毛利秀元・石田三成・浅野長政らは到着を待って軍務をねぎらい、豊臣秀吉の死去を知らせた。家久父子は悲嘆したのち博多から赤間関へ進み、官船で京都へ赴いた。No.615の義弘譜と同じ帰着過程を家久譜から記した記事…

  18. 後編3-No.617 樺山忠征譜

    樺山忠征譜が、慶長三年冬の帰朝と伏見での競馬を記す。日本諸将は釜山城から同日に出帆すると約束したが先に去り、義弘父子と島津豊久だけが残って翌日出帆し、無事博多へ着いた。忠征は義弘父子と上洛する途中に豊前小倉で越年して伏見へ到着した。伏見滞在中の賀茂祭では、乗り手のいなかった島津家の馬に忠征と矢野休二…

  19. 後編3-No.618 島津竜伯書状

    島津義久(龍伯)が(慶長三年)十二月九日付で石田三成(治部少輔)らへ出した書状。番船との交戦で薩摩勢に多数の負傷者が出たとの風聞を心配して早打ちを出したところ、高麗の戦事が無事に済み諸将が帰朝すると聞いて喜んだことを伝える。まず書状を送り、宛先の人々も急ぎ上洛するであろうとして、その到着を待つ旨を述…

  20. 後編3-No.619 寺沢正成・小西行長連署状

    寺沢正成・小西行長が連署し、両人が当朝博多へ到着したことを知らせる。宛先には順風を待って出船するよう伝え、下々の船は今津に留め置き、本人は早々に博多へ来て時間を有効に使うことがもっともであると勧める。

  21. 後編3-No.620 島津義弘書状

    島津義弘が、新納狩野介の長期にわたる辛労をねぎらい、諸船が勝手に走らないよう差配することを第一とするよう命じる。国元から立ち添えられた人数が着岸するはずなので、人数を受け取ったなら一日も休ませず直ちにこちらへ参らせるよう指示し、油断を戒める。

  22. 後編3-No.621 島津義弘書状

    島津義弘が、下関を出船して以来音信がなく道中を心配していたところ、自身はこのたび当津へ着船したと伝える。又八郎が石治少と同道して早々に上洛したと聞き満足しており、義弘も近日中に上着するので、詳しいことはその折に話すと述べる。

  23. 後編3-No.622 島津義弘書状

    島津義弘が、使者、その供衆、乗物などを念入りに手配したことへ謝意を述べる。自身は大坂へ着岸したところであり、又八郎が十二月廿四日に上着したと聞いてもっともなことと喜び、明後日には自らも上洛するので、対面して話を聞きたいと伝える。

  24. 後編3-No.623 立花親成書状

    立花親成が、自身は前日に大坂へ到着し、石治少と同道して上洛した人物を捜したが、すでに上ったと聞いて書状を送ったと述べる。兵庫殿は備後で同所にいたものの、親成が船路で先行したため、今明日の到着を待って同道上洛する予定であり、小西行長も室津まで上っていると知らせる。当地の様子を詳しく報告するよう求め、兵…

  25. 後編3-No.624 島津家久事書案

    島津家久が、領国留守中の行政・公役・船舶運用について定めた事書案。留守居の協議では容赦なく法度を施行し、公領内の町・浜の住民に公役を滞りなく負担させるよう命じる。船奉行は船元に出向き、高麗渡海船をえこひいきなく監督すること、鹿児島衆は従前どおり普請に出ること、怠慢者や難渋者を報告すること、代官衆は公…

  26. 後編3-No.625 島津義弘譜

    島津義弘譜が、朝鮮から帰朝する際に神託の霊夢を受け、夢中で得た一句を書き留めたことを記す。その神意に応じて領国内で連歌千句を興行させ、新田八幡宮へ奉納して祈願した。

  27. 後編3-No.626 御託宣連歌第一

    慶長三年十二月十三日に新田八幡宮社内で催された「御託宣連歌 第一」。「あらたまる年のはしめにしも國の/あかねさす日の光のとけき」に始まり、新年・春景、船旅、山野、月雪、四季の景物などを詠み継ぐ。島津義弘を含む連衆が参加し、義弘の帰朝時の神託を受けて奉納された千句連歌の第一連歌に当たる。

  28. 後編3-No.627 賦何路連歌

    慶長三年十二月十三日に新田八幡宮社内で催された「賦何路連歌 第二」。島津忠恒の「松に梅ならふや千代の相やとり」を発句とし、鶴・雁・月・霞などの賀意ある景物から、旅路、海山、四季、人事へと句を展開する。No.626と同じ連衆を中心とする千句連歌の第二連歌で、忠恒が発句を担当した点に特徴がある。

  29. 後編3-No.628 賦□連歌

    慶長三年十二月十三日に催された千句連歌の第三連歌。島津義弘の「天地もちこかぬかせや朝かすミ」を発句とし、若草の露、月、舟、山野、花、雪などを取り合わせながら、春景から旅・恋・四季の景物へ句を展開する。原資料の連歌名に判読困難字があるため、標題は人確認済みインデックスどおり「賦□連歌」とした。

  30. 後編3-No.629 賦唐何連歌

    慶長三年十二月十四日に催された「賦唐何連歌 第四」。「聲うとし今日たかさとのほとゝきす」に始まり、時鳥、夏、雨、雲、旅宿、月、山野、秋の景へと詠み継ぐ。前日から続く奉納千句連歌の第四連歌で、時鳥の声を起点に遠近の景色と旅情を展開する点に特徴がある。

  31. 後編3-No.630 賦手何連歌

    慶長三年十二月十四日に催された「賦手何連歌 第五」。「ぬきちらす白玉涼し瀧の糸」を発句とし、五月雨、夏山、雲、旅人、川音、月、秋の野などへ連想を広げる。滝の白玉と涼感から始まり、水辺・旅・季節の推移を中心に構成された千句連歌の第五連歌である。

  32. 後編3-No.631 賦下何連歌

    慶長三年十二月十四日に催された「賦下何連歌 第六」。「山姫のかさしのえたかはつ紅葉」に始まり、露、秋草、月、舟、山里、雨、雲、春の花などを詠み継ぐ。初紅葉を発端に秋景を濃く描きつつ、水辺の旅や人事、季節の巡りへ展開する千句連歌の第六連歌である。

  33. 後編3-No.632 賦何袋連歌

    慶長三年十二月十四日に催された「賦何袋連歌 第七」。「まねくにや鹿も入野の花薄」を発句とし、夕月、露、雲、郊外の田園、旅立ち、秋雨、山水などへ句を展開する。鹿と花薄による秋野の情景を起点に、旅と故郷、人事を交えた千句連歌の第七連歌である。

  34. 後編3-No.633 賦薄何連歌

    慶長三年十二月十五日に興行された「賦薄何連歌」第八。「入月のくたくやこほり秋の水」を発句とし、白菊の露、風雨、雲、山河、霜、鹿、梅、旅、古郷などへ句を展開する。氷と秋水から始まり、草木や月、旅情を交えながら四季の景を連ねた百韻連歌である。

  35. 後編3-No.634 賦初何連歌

    慶長三年十二月十五日に興行された「賦初何連歌」第九。「民の戸の雪にはかやか軒もなし」を発句とし、冬籠りの里、梅、秋風、月、竹、旅、寺、田畑などを詠み継ぐ。雪に覆われた民家の静けさを起点に、季節の移ろいと里・旅の景を交錯させた百韻連歌である。

  36. 後編3-No.635 賦何木連歌

    慶長三年十二月十五日に興行された「賦何木連歌」第十。「年やかく暮てもつきし幾廻り」を発句とし、冬の梅、雪、春、旅、月、露、山野、舟、恋、秋などへ句を展開する。年の暮れと幾度もの歳月を起点に、四季・旅・恋を巡らせ、龍伯も加わって詠じた百韻連歌である。

  37. 後編3-No.636 賦何船連歌

    慶長三年十二月十五日に追加された「賦何船連歌」。「ゆふ千鳥ねぬにめさます宿り哉」を発句とし、川瀬の音、月、山の小雨、柴人、秋の朝などを、秋扇・久賢・起雲・紹意・其阿・雖哥・定庵・与進が詠み継ぐ。直前No.635の龍伯ほかの連歌参加者は含まれない。

  38. 後編3-No.637 島津義弘譜

    慶長三年十二月二十七日に島津義弘・忠恒父子が摂津大坂へ着船し、同二十九日に伏見へ到着した記事。朝鮮在陣七年を終えて帰国したものの、秀吉の死に接して言葉もなく悲嘆した心情を、十九年の幽囚後に帰漢して帝の崩御を知った蘇武の故事になぞらえる。また、父子の無事帰朝を祝う諸侯の訪問や使者が相次いだと記す。

  39. 後編3-No.638 島津家久譜

    島津家久譜が、慶長三年十二月、島津忠恒(家久)が石田三成と同じ海路を遅れず進み、同月二十四日に無事伏見へ到着して、遅れている父義弘を待ったことを記す。あわせて、文禄三年の渡海後、巨済島(和人が唐島と称した地)を拠点に朝鮮で軍務に従事した経歴と功労を掲げ、その詳細は義弘譜に記したため重複を承知で再記す…

  40. 後編3-No.639 伊藤玄宅覚書

    出水浄円寺の関介が所持していた書物について、伊藤玄宅が自らの記憶と異なる点を挙げながら朝鮮海戦の経過を詳述した覚書。相良玄蕃・川上六郎兵衛らの戦闘、忠恒・惟新の座船と諸船の配置、敵の火攻め、焼失船、夜間の救援・退避、漂流者の収容などを具体的に記し、関介の記録との差異は大略の証言であると断る。

  41. 後編3-No.640 伊勢貞昌書状

    伊勢貞昌が、朝鮮からの撤兵時に小西行長の籠る城が漢南・高麗勢に包囲された際の救援と海戦を報告した書状。立花飛騨守・宗対馬守・高橋主膳らとの協議、島津方の番船・迎船、敵の火攻めによる船の焼失、負傷・戦死、漂流者の救助、退路確保と乗船の混乱を述べ、帰国後も国政に油断なく励むよう求める。

  42. 後編3-No.641 新納忠元勲功記

    慶長三年十月二十一日付の朝鮮在陣中の書状を起点に、新納忠元らが国許の軍勢・城郭を整えた働きと、朝鮮からの撤兵・帰国の経過をまとめた勲功記。明軍の攻勢に備えた薩摩・大隅・日向の動員、間者の捕縛、泗川・順天方面の戦況、海戦での敵船撃破と諸将の協力、帰路の唐島・西湾浦・博多・大坂・伏見への着岸を記し、留守…

  43. 後編3-No.642 島津義弘譜

    朝鮮から帰還した義弘・忠恒父子が筑前博多へ着岸し、毛利秀元・浅野長政・石田三成と対面した際の記事。三成は義弘が徳川家康と親密に交わることを天下の制法に背くと問題視したため、義弘は慶長四年正月三日に事情を詳述した起請文を作って三成へ示し、違意がないことを明らかにしたと記す。

  44. 後編3-No.643 島津家久譜

    朝鮮から帰陣した島津忠恒(家久)らが筑前博多で毛利秀元・浅野長政・石田三成と対面し、名島の三成の旅館を訪れた記事。三成と島津父子との応対、義弘と徳川家康との交際に関する事情を記し、詳細は義弘公譜中にあるため略したとする。原文は義弘を「龍伯」とは記さない。

  45. 後編3-No.644 島津竜伯義久覚書

    島津義久(龍伯)が、石田三成側との往来や使者との応対、徳善院・増田長盛・長束正家への連絡、種子島などからの鉄砲調達依頼について経過を列記した覚書。血判を据えた誓紙のとおり別心はなく、疑いがあれば糺明を受けたいとの意向を、忠恒・義弘へ伝える。

  46. 後編3-No.645 島津竜伯起請文

    島津義久(龍伯)が、徳川家康のもとへの参上や家康の私宅訪問について、密かな別心を抱いたことも聞いたこともないと誓った起請文。八幡・春日・愛宕山の神々に偽りのないことを誓い、疑義があれば糺明を受けたいとして、忠恒・義弘から詳しく申し上げるよう求める。

  47. 後編3-No.646 寺沢貞成広高書状

    寺沢広高が、正月七日朝に徳川家康へ茶を進める予定であるため心得るよう、羽柴左近ら四人へ知らせた書状。前日の六日夕刻に家康の門前まで礼に出るのがよいと助言し、兵庫頭の願いについて又八郎のもとまで出向くよう伝える。

  48. 後編3-No.647 島津家久譜

    慶長四年正月七日早朝、徳川家康が島津忠恒・羽柴左近将監ら五人を茶席へ招いた記事。前年十月一日の泗川の戦いで明・朝鮮の大軍を破った功を賞し、同九日に五大老が感状を与えて忠恒を少将に任じ宝刀を授け、五奉行も新恩の目録を与えたことを記す。

  49. 後編3-No.648 豊臣氏五大老連署感状

    豊臣政権の五大老が、朝鮮国泗川で義弘・忠恒父子が明・朝鮮軍を切り崩し、三万八千七百余を討ち取った戦功を賞した連署感状。褒美として薩摩国内の御蔵入・給人分を与え、忠恒の少将任官と長光の腰物、義弘への正宗の腰物の拝領を伝える。

  50. 後編3-No.649 豊臣氏五奉行連署知行目録

    五奉行が泗川での戦功に対する新恩として、島津忠恒へ与える知行を村ごとの石高で列記した目録。薩摩国出水郡をはじめ各郡の多数の村、御蔵入分・給人分などを区分して掲げ、五奉行が連署して所領配分の内容を確定する。

  51. 後編3-No.650 前原貞能・宇多某連署状

    前原貞能・宇多某が安楽大炊介へ、正月十六日の出撃と戦果を報告した連署状。頴娃左馬・敷仲兵・比志島宮内少輔らが大将となって敵五人を討ち、高城口からの追撃でも三人を討ち取って黒田加兵衛・新納勘解由・蘭牟田弥吉らが槍働きをしたこと、当日に陣替えを行うことを伝える。

  52. 後編3-No.651 石田三成書状

    石田三成が義弘・忠恒へ、病後の養生のため帰還が延びているが翌日頃には下る予定であると知らせた書状。和泉の代官を早急に下すよう求め、図書を通じて伝えた件については義久へ十分に申し伝えることが肝要であると指示する。

  53. 後編3-No.652 石田三成書状

    石田三成が義弘・忠恒へ、図書を通じて差し上げられた口上書を拝見したと知らせた書状。書面で返答するよりも、三成自身が下向した際に諸事を直接相談するとし、長く待たせていることと下向が遅れている事情は図書へ伝えたと述べる。

  54. 後編3-No.653 北郷忠能譜

    島津義久が北郷長千代丸に書状を与え、若年であっても自身で上洛するよう命じたため、慶長三年十一月に九歳の長千代丸が京都へ赴いたことを記す。続いて、その正文を掲げる旨を示す。

  55. 後編3-No.654 島津竜伯書状

    島津義久が北郷長千代に、名代の久二郎は当分伏見にいて給分地二千石を確保しているものの、今後は若年でも自身で上洛するよう命じる。久二郎には高麗または当地で二千石相当の役儀を勤めさせる旨を安宅殿と相談したので、安三州からの指示も踏まえて分別するよう求める。

  56. 後編3-No.655 島津竜伯書状

    本文は第730号文書と同文であるため省略した、と注記する。

  57. 後編3-No.656 北郷忠能譜

    長千代丸が幼少であったため、叔父の作左衛門尉三久が文禄三年冬から軍代を勤め、慶長四年に長千代丸が十歳で家督を継いだことを記す。

  58. 後編3-No.657 島津竜伯書状

    島津義久が又八郎に、先の書状で帰朝を祝った後、相良新右衛門の着船により又八郎が間もなく上洛して会えないと聞き、伊地知甚左衛門尉の肝煎で認めた書状を京都へ送ったと伝える。その後、まだ渡海していないとの風聞を得て飛脚を立て、長く在陣したのち直ちに上京する苦労をねぎらう。

  59. 後編3-No.658 島津忠恒家久掟書

    島津忠恒が領内統制のため、奉公人・百姓の他領奉公や無断離脱を禁じ、逃散者を返還させること、諸浦の船着料を鹿児島の先例どおりとし肥後から来た水主・百姓を返すこと、瀬崎・出水・阿久根・長島・網津の牧を維持して野馬を乱暴に扱わないことを定める。さらに肥後境の争論は上申させ、旅人への刃傷・殺害には近隣村を連…

  60. 後編3-No.659 豊臣氏五奉行連署状

    豊臣政権の五奉行が、以前は狼谷の瀧谷や山科本願寺古屋敷で鉄砲の目当て撃ちが行われていたものの、京都・伏見・大坂近辺では鉄砲を放つことが一切禁止されたため、その旨を承知するよう島津忠恒側へ通知する。

  61. 後編3-No.660 島津義弘宛行状

    島津義弘が亀寿に、薩摩国日置郡の串木野村・荒川村・羽島村・伊集院谷口村から合計五千石を公役のない知行として与える。幼少以来在京して一家のために奉公した苦労をねぎらい、事情が変わってもこの知行を相違なく保持するよう命じる。

  62. 後編3-No.661 飛鳥井雅庸書状

    飛鳥井雅庸が、当道門弟としての契約により、出題は一家の重事であるものの、深い懇望を受けて旧例に従い許可したと伝え、他者と混同しないよう口伝すると述べる。

  63. 後編3-No.662 島津忠恒書状

    島津忠恒が伊集院下野入道に、朝鮮での大勝利、知行拝領、少将任官を祝うとともに、竜伯から重物を渡された慶事を伝える。国元の処置は竜伯・兵庫と相談しており、出水地頭を相手に頼みたい旨を両殿へ申し入れたので、竜伯の指示に従って精勤し、出水方面を特に心配しての依頼であるため辞退しないよう求める。

  64. 後編3-No.663 上原氏由緒書

    上原氏二代目の源右衛門は国分で島津義久に近侍し、平田狩野らと兵具方を勤めたため、他の者が高麗へ出陣して加増を受けた際にも義久のそばに留め置かれた。忠恒への代替わりに際して墨色の「あめの御旗」を持つ使者を務め、その加増として五十石を与えられ、義久は本来百石を与える意向であったと伝える。

  65. 後編3-No.664 島津義久譜

    島津義久が慶長四年二月に殿下から帰国の暇を得て、同月二十八日に摂津大坂を出帆し、三月初めに日向細島へ着船、同月十三日に大隅富隈の私宅へ到着したことを記す。帰途、日向の「とまり」で満開の桜を見て、遠路を急ぎつつも花の木の下に留まり見たいとの歌を詠んだ。

  66. 後編3-No.665 島津竜伯書状

    島津義久が義弘に、「こうとの儀」に関する墨付を石田殿へたびたび求めても得られず、小西殿から直接申し渡されるのか不安であると伝える。また、天候が晴れたので翌日に出船する予定を知らせ、野村喜介の知行召上げについて、野村・福永は日向平定以来忠節を尽くしたため不当ではないかと述べ、同意するなら召上げを延期さ…

  67. 後編3-No.666 北郷忠能譜

    慶長四年三月一日、伏見で島津忠恒が長千代丸を召し、庄内から祁答院へ移されたのは自身の意向ではなく、伊集院右衛門大夫が石田治部少輔と内々に計画したためなので恨まないよう諭し、近日中に庄内へ復帰させると約した。その証として宝刀正広を与え、長千代丸は家宝として敬い、同月に暇を得て祁答院へ下着したことを記す…

  68. 後編3-No.667 島津歳久譜

    島津義久は歳久への追悼を続け、慶長四年三月三日、福崎伊予守兵道行者を地割の担当、宮原左近法師秋扇を奉行として一寺を建立し、瀧水山稱心岳寺と号した。抱巖孫大和尚を開山としたことを記す。

  69. 後編3-No.668 島津忠恒書状

    島津忠恒が山田越前入道に、新春の祝儀として使者を寄越し、小鉄砲一挺まで贈られたことを特に喜ぶ。竜伯が帰国したため相手も満足しているだろうと推察し、こちらも静謐であるので安心するよう伝え、詳しい様子は使者から聞くよう述べる。

  70. 後編3-No.669 近衛竜山前久書状

    近衛前久が、相手が同意するなら翌朝早く鷹を据えさせて送るよう求め、二か所へ注文した鶴が十月頃に届くため、その頃返すか別の適当な鷹を贈ると述べる。また、竜伯の書状到着と出船を喜び、上京時の来訪を望み、竜伯から相手へ渡った鷹を養生させているので、数日預かって鶴に用いたいと依頼する。

  71. 後編3-No.670 島津以久譜

    慶長四年三月五日、島津以久が種子島から大隅垂水へ移され、島津忠恒から一万一千六百八十七石の知行に関する判物を与えられたことを記す。続く文面では、合計一万一千石のうち千石を無役、残る一万石を役儀負担とし、図書頭に勤務を命じる。

  72. 後編3-No.671 島津忠恒宛行状

    島津忠恒が右馬頭以久に、種子島の繰替えに対する返地として所領を宛行い、そのうち一千六百八十七石を加増分とする。以後も先例に従い、一千七百石を無役、残る九千九百八十七石を役儀負担として勤めるよう命じる。正文は向島衆萩原右京に伝来したと注記する。

  73. 後編3-No.672 島津忠長譜

    島津忠長が新恩として、大隅国肝付郡の川東柏原村、串良の内岩広村、寄田村、上分高隈の内から浦役を含む合計二千石を与えられたことを記す。このうち千石は加増、千石は先年の支配時に上地した分の返地であった。

  74. 後編3-No.673 島津忠恒宛行状

    島津忠恒が図書頭に知行を宛行う。本文には、村々と浦役を合わせた二千石について、千石を加増、千石を先年上地した分の返地とする記載があり、続いて合計一万一千石のうち千石を無役、残る一万石を役儀負担として勤めるよう命じる。

  75. 後編3-No.674 島津忠長署判知行方目録

    島津忠長が本田六右衛門尉に、川辺宮下村二百八十七石余と柏原内中別府村四百十二石余、合計七百石を宛行う。このうち五百石は加増、二百石は先年の配当時に知行不足のため上地した分の返地とする。

  76. 後編3-No.675 宇喜多秀家起請文前書案

    宇喜多秀家が徳川家康に、家康と前田利長が豊臣秀頼へ疎略なく仕える限り、自身も両人と心を合わせて奉公すると誓う。諸事に抜け駆けや表裏を設けず、相談の秘密を他へ漏らさないこと、仲違いや悪口があっても直接申し述べて解決し、依怙贔屓をしないことを起請する。

  77. 後編3-No.676 島津家久譜

    伊集院右衛門入道幸侃は島津一門の末流で国老となり、豊臣秀吉の西征時に八万石を与えられたが、近侍として専横し隠謀を進めたとする。島津忠恒は国家の危機を知り、慶長四年三月九日に幸侃を茶室へ招いて自ら討った。忠恒は将軍家を恐れて高尾寺に籠もったが、五大老が隠謀の由来を聞いて忠恒に罪はないとして赦免し、伏見…

  78. 後編3-No.677 島津義弘譜

    比志島紀伊守の書簡は島津家久譜中の文書であるものの、桂太郎兵衛尉・上井甚五郎の連判書簡と内容が符合するため、島津義弘譜にも掲載したと説明する。

  79. 後編3-No.678 比志島国貞書状

    比志島国貞が、上意により出水へ赴き、異議なく城請けを済ませたことを報告する。出水は予想以上に見事で城もよく造られていると述べ、武庫様が移ることになれば地域も治まるだろうとし、処置を遅延なく決めるよう求める。

  80. 後編3-No.679 高畠正宗書状

    高畠正宗が、出水郡内の志戸守知行分の田畠帳を渡し、今晩上ると伝える。薩摩側の奉行衆・百姓と志戸守の下代の間で旧来の置目を直すよう求められたが、後日の災いを避けるため書付を求めても得られず、天下の裁定時に出頭して実情を述べる覚悟を示す。両殿が間もなく上洛するため、上方で面会するとする。

  81. 後編3-No.680 島津義久譜

    島津義弘・忠恒が七年の朝鮮軍役を終えて伏見に帰った後、八万石を与えられながら主君への反逆を企てたとされる伊集院忠棟を、忠恒が慶長四年三月九日に茶亭へ招き、膳と菓子を供したのち自ら追って斬った。都城にいた長男忠真は父の仇を報じようとして庄内に十二の塁を築き、兵器を集めて反乱したため、伏見の忠恒が徳川家…

  82. 後編3-No.681 伊集院幸侃譜

    伊集院幸侃が慶長四年三月九日、山城国伏見で島津忠恒に誅殺されたことを記し、法諡は幸侃、別号は諸宗とする。

  83. 後編3-No.682 伊集院忠真譜

    伊集院忠真が慶長四年三月九日に父忠棟を誅殺された後、庄内に拠って島津忠恒へ反抗した。翌年三月に仲介を受けて和睦し、忠恒のもとへ降って大隅国帖佐に居住したことを記す。

  84. 後編3-No.683 島津義弘譜

    慶長四年三月九日、伏見にいた島津忠恒が伊集院忠棟入道幸侃を茶亭に招き、立ち上がったところを自ら討ったこと、忠棟に陰謀の企てがあり、忠恒が累年これを察知していたことを記す。委細は忠恒の譜に譲る。

  85. 後編3-No.684 島津以久譜

    慶長四年春、島津忠恒が伏見の邸で家老伊集院忠棟を手討ちにした後、その子忠真が主命に従わず都城に籠って十二の砦を構えたため、忠恒が大軍を率いて進発し、島津以久も従軍して庄内各所で戦ったことを記す。

  86. 後編3-No.685 北郷久村譜

    慶長四年三月、伊集院忠真が都城に拠って十二の砦を構え、同年六月に島津忠恒が出馬すると、北郷久村は宮之城から長千代丸に随って出陣した。敵の出城防戦に際し、味方が退いた後も久村は退かず、三度援兵を率いて敵城内まで追撃し、多くの家臣が戦死したことを記す。

  87. 後編3-No.686 樺山久高譜

    慶長四年、樺山久高が市成を領していたころ、島津忠恒が伏見で伊集院忠棟を討つと、都城の忠真は父の仇を報じるため十二の外城を構えた。龍伯は国中の混乱を恐れて庄内周辺の要地に諸将を配し、久高も志布志に置かれて国境警備と戦闘にあたり、のち樺山家の家督となったことを記す。

  88. 後編3-No.687 樺山紹剣自記

    慶長四年三月、龍伯の下向と幸侃生害を受け、庄内境の清水之浦・廻・市成・大崎・志布志・松山・高原・高崎などに諸将を配して警固した経過を記す。久高は志布志を拠点に各所を巡回し、梅北・末吉・飫肥越の通路を押さえて敵を休ませず、その忠節と弓矢の手柄を第一と称された。のち忠恒が庄内へ向かい山田・志和地を攻略し…

  89. 後編3-No.688 桂忠詮・上井里兼連署状抄

    一瀬崎野の御牧に三十余疋がいるため馬見廻役を定めて改めること、帖佐から二階堂伝右衛門尉・野添善兵衛尉を呼び寄せて調査させ、在々の放馬も念入りに捜すことを報告する。また出水城の構えを調べ、市来治右衛門尉に絵図作成を命じたと記す。

  90. 後編3-No.689 年代記

    慶長四年三月十四日に島津義久が下向し、同月九日に伏見で又八(忠恒)が伊集院幸侃を手討ちにしたことを簡潔に記す。

  91. 後編3-No.690 桂忠詮・上井里兼連署状

    桂忠詮・上井里兼が、大坂出船後に出水へ到着し、鹿児島への通報と出水城の城祝を行ったことを報告する。肥後境目や各城・港、御牧と放馬、在々の侍・中間・百姓・職人の人数を調査し、城絵図・知行帳・目録を提出するとした。さらに寺沢志摩守の代官高嶋新三と百姓・入江・橋本との紛争、高嶋の逃亡、水俣の小西方への引渡…

  92. 後編3-No.691 島津竜伯書状

    幸侃成敗を知らせる飛脚を早く上せるつもりであったが、庄内へ遣わした使僧の返報を待ったため遅れたと述べる。源二郎忠真には下城を命じたものの未解決で、決着後に改めて一人を上せること、石田治部少輔へ送る二通の書状を届けてほしいことを兵庫入道に伝える。

  93. 後編3-No.692 島津竜伯書状

    竜伯が又八郎に、大坂出船後の帰着、当所へ移す衆と屋敷配分、馬術に優れた入来院又六を当地に置く希望を伝える。荒地が多く当年の耕作が進まないこと、種子島左近大夫の知行を検地高五千二百余石と内検高八千五百石の中間である七千石(うち三百石加増)とする案、右馬頭の返地後に種子島を与える段取りを述べ、京都の息女…

  94. 後編3-No.693 祐乗坊法印出仙書状

    祐乗坊法印出仙が、久しく連絡せず本意ではなかったと詫び、少将殿の御上が病気であるため上るよう承知したので、翌日に上り、直接会って報告すると兵庫入道へ伝える。

  95. 後編3-No.694 島津竜伯書状

    竜伯が石田治部少輔の三月廿五日付書状に答え、幸侃成敗は急ぎ実行すべき意向によるものと思っていたが、実際は又八郎の短慮で、竜伯への相談もなく言語道断であると述べる。兵庫入道も関知しなかったといい、源二郎には下城を命じたものの、在所を動かず耕作に当たらせるよう石田から指示が来たため遠慮し、詳細は使節で伝…

  96. 後編3-No.695 島津義久譜

    本文はNo.664と同文のため省略されている。内容は、島津義久が慶長四年二月に帰国の暇を得て大坂を出帆し、日向細島を経て大隅富隈へ帰着した経過と、帰途に日向で満開の桜を見て詠んだ和歌を記すものである。

  97. 後編3-No.696 桂忠詮外十名連署状

    幸侃成敗の際に国許の衆が伏見へ差し上げた連署状。成敗を事前に届けなかったため石田治部少輔が立腹し、長谷寺へ移ったとの風聞に一同が驚いたと述べる。一方、幸侃の罪科は石田も以前から承知しているので事情を聞き分けて穏便に収まると期待し、吉報を早く知らせてほしいと伊勢兵部少輔へ求める。

  98. 後編3-No.697 桂忠詮外十名連署状

    本文はNo.696と同文のため省略されている。幸侃成敗を無届で行ったことに石田治部少輔が立腹して長谷寺へ移ったとの風聞を受け、国許の連署衆が驚きを伝え、石田は幸侃の罪科を承知しているので穏便な決着と早い吉報を期待すると伊勢兵部少輔へ申し送った文書である。

  99. 後編3-No.698 伊東祐兵書状

    伊東祐兵が羽柴兵庫頭(島津義弘)へ、たびたびの書状を喜び、当地の様子は当分変わりないと伝える。詳しい事情は町田勝兵衛に申し含めたので書状では省略するとし、近況を簡潔に報じる。

  100. 後編3-No.699 伊東祐兵起請文

    伊東祐兵が、伏見滞在中は相手のためになることを見聞すれば報告し、どのような事態でも同意して協力すること、国元へ下った後も引き続き相談すること、又八郎にも今後変わらず相手と同様に別心を持たないことを誓う。違反した場合は諸神の罰を受けるとする起請文。