← 史料目録へ

ARCHIVE DIRECTORY

後編3の目録

旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。

全1,990件中 1801~1900件・19 / 20ページ

  1. 後編3-No.1800 朝鮮人等上書

    朝鮮人らの上書。本文は先行するNo.1000の文書と同文であるため省略され、正文の所在のみを注記する。

  2. 後編3-No.1801 島津家久譜

    島津家久譜は、慶長八年三月二十一日に徳川家康が伏見を発って二条城へ入り、二十五日に牛車で参内したことを記す。在洛の諸侯は供奉や辻固めを勤め、その詳細は山口直友書状に見えるとする。

  3. 後編3-No.1802 山口直友書状

    山口直友が忠恒へ、帰国後の無事を案じ、徳川家康が将軍宣下を受け、三月十九日に上洛し二十五日に参内する予定だと知らせる。諸国大名が辻固めを務めることなど上方の動静を報告した。

  4. 後編3-No.1803 島津惟新書状

    島津義弘が忠恒へ新年を祝い、祝儀として贈られた太刀一腰と馬一疋を喜んで受領し、厚意への礼を述べた。

  5. 後編3-No.1804 小出秀政書状

    小出秀政が忠恒へ、家康の将軍就任と三月二十五日の参内、秀頼の成長を祝い、忠恒が来秋に再上洛すると聞いたことを喜ぶ。上方で用向きがあれば支援するとし、龍伯・惟新への伝言も頼んだ。

  6. 後編3-No.1805 島津惟新書状

    島津義弘が忠恒へ、先に相談した寿円の件について、自筆で事情を記したため、適任者をこの使者に付けて進めるよう求めた。

  7. 後編3-No.1806 島津惟新書状

    島津義弘が忠恒へ、大雨による川の洪水と自身の腰痛で移動を延期したと伝える。大中様の志として十二日から福昌寺で法華経千部を読誦する予定を知らせ、初中後の法会に立ち会えるよう手配を求めた。

  8. 後編3-No.1807 片桐直盛書状

    片桐主膳正直盛が島津義弘へ、忠恒の無事な帰国を祝い、来秋の再上洛時にはできる限り用向きを承ると伝える。徳川家康が三月二十五日に参内して今も在洛中であることを知らせ、遠路のため疎遠ながら再会と懇談を望んだ。

  9. 後編3-No.1808 徳川家康御内書

    徳川家康が惟新から年頭の祝儀として太刀一腰・馬一疋・銀子十枚・綸子五巻を贈られたことを喜び、受領への謝意を伝えた御内書。

  10. 後編3-No.1809 昭高院如雪書状

    昭高院如雪が忠恒の無事帰国を喜び、家康の将軍就任・参内と秀頼の内大臣任官など京都の近況を伝える。忠恒の来秋再上洛を待ち、上方での用向きへの助力と再会・懇談を望んだ。

  11. 後編3-No.1810 伊勢如貴貞知書状

    伊勢如貴貞知が忠恒の無事帰国を祝し、門跡への書状が返書を得たことを伝える。上方で用向きがあれば取り成すと約し、家康が将軍就任後に参内した近況も付記した。

  12. 後編3-No.1811 徳川秀忠御内書

    徳川秀忠が義久から陽春の祝儀として太刀一腰・馬一疋を贈られたことに謝意を示し、詳しい返答は本多佐渡守正信から申し伝えるとした御内書。

  13. 後編3-No.1812 立花尚政宗茂書状

    立花尚政宗茂が忠恒の無事な帰国を重ねて祝い、自身の処遇がなお決着せず迷惑している近況を伝える。忠恒から音信として銀子一枚を贈られたことに礼を述べ、先に忠恒の帰国祝いを飛脚で送ったこと、来秋の再上洛を待つことも記した。

  14. 後編3-No.1813 島津家久譜

    島津家久譜は、忠恒が帰国後、家康への謝礼が遅れたため本田与兵衛親政を使者として砂糖を献じたと記す。山口直友が本多正純を介して披露し、家康が喜んだのち親政が帰国して復命した。

  15. 後編3-No.1814 山口直友書状

    山口直友が忠恒の帰国を喜び、使者本田親政が持参した砂糖を家康へ披露して機嫌よく受納されたと報告する。家康の上洛・参内と諸大名の帰国、秀頼の祝言、忠恒の来秋上洛予定にも触れた。

  16. 後編3-No.1815 朝鮮人等上書

    朝鮮から連行された人々が、武力と侵略による国土荒廃、殺戮・略奪、捕虜・離散の惨状を漢文で訴えた上書。仁政と和睦を求め、捕虜を帰還させて両国の怨恨を解き、将来の平和を実現するよう請願する。

  17. 後編3-No.1816 徳川秀忠御内書

    徳川秀忠が忠恒から端午の祝儀として帷子・単物十領を贈られたことを喜び、詳しい返答は本多佐渡守正信から申し伝えるとした御内書。

  18. 後編3-No.1817 本多正信書状

    本多正信が忠恒から端午の祝儀として帷子五つのうち単物三領を贈られたことに謝意を示し、遠路からの厚意を喜び、詳細は後便に譲るとした書状。

  19. 後編3-No.1818 徳川家康御内書

    徳川家康が忠恒から端午の祝儀として帷子十領のうち単物八領を贈られたことを喜び、受領への謝意を伝えた御内書。

  20. 後編3-No.1819 果法院某書状

    果法院某が忠恒へ、三月二十五日に徳川家康が参内して将軍となり、豊臣秀頼が内大臣となったこと、秀頼の祝言が七月中旬に定まり、江戸大納言秀忠の娘千姫が近く上洛することを報じる。龍伯・惟新の息災を喜び、来秋の忠恒上洛を待つと述べ、虫薬二十包を贈った。

  21. 後編3-No.1820 川上日向守覚書

    川上日向守が、八町田存松・川上将監・川上藤右衛門らの上洛や渡海奉公、随行人数、滞在期間、飯米・扶持の支給状況を箇条書きにした覚書。無足奉公に伴う負担と勤務実績を整理する。

  22. 後編3-No.1821 山口直友書状

    山口直友が上方に変事はないと伝え、北賀州の下向や右馬頭の上洛について連絡する。七月の秀頼の祝言に諸大名が上洛するため、忠恒も祝言の時期に合わせて上洛するのがよいと勧めた。

  23. 後編3-No.1822 福島正則書状

    福島正則が自身の帰国を知らせ、家康の将軍就任を祝うため忠恒が近く上洛すると見込む。秀頼の祝言が七月二十六日に決まったことを伝え、自身も七月初めに上洛するとして京都での再会を望んだ。

  24. 後編3-No.1823 昭高院如雪書状

    昭高院如雪が本田六右衛門親政の伏見での働きと無事帰国を祝い、忠恒の来秋上洛を待つ。先に贈られた茶壺が宇治で称賛されたことを述べ、祈祷の巻数・扇箱を送り、花種の提供も頼んだ。

  25. 後編3-No.1824 山口直友書状

    山口直友が忠恒の書状を受け、将軍宣下の祝賀のため当月中に国元を出て上洛する計画を了承する。上洛を待っており、忠恒から示された諸条項の詳しい相談は対面時に行うと返答した。

  26. 後編3-No.1825 島津家久譜

    島津家久譜は、家康が龍伯・忠恒へ与えた盟書と忠恒の伏見拝謁・無事帰国を受け、惟新が謝礼のため本田六右衛門親政を派遣した経緯を記す。山口直友の取次で親政は家康に拝謁し、懇命を受けて帰国・復命した。

  27. 後編3-No.1826 山口直友書状

    山口直友が、惟新から派遣された本田六右衛門親政を家康へ披露し、親政が対面して懇ろな言葉を受けたと報告する。七月の秀頼の祝言に合わせ、忠恒も前後に急いで上洛するよう勧めた。

  28. 後編3-No.1827 島津家久譜

    島津家久譜は、山口直友の書状が将軍宣下と秀頼婚礼の祝賀のため忠恒の上京を勧めたことを記す。また本多正信・直友の内談に基づき休復にも上洛して訴えるよう促し、忠恒が伊勢兵部貞昌を遣わした結果、休復が上京を承諾した。

  29. 後編3-No.1828 山口直友書状

    山口直友が詳しい用件を伝えるため和久甚兵衛を下向させ、将軍宣下と翌月の秀頼祝言で諸大名が在京するため、忠恒も祝言の前後に上洛するよう重ねて勧める。先の使者と緞子一巻の贈答にも礼を述べた。

  30. 後編3-No.1829 伊勢貞成申渡書

    伊勢貞成が、鹿児島・富隈・帖佐三方の公用以外の物資差押えを禁じ、廻船規定を超える押買いをさせず、違反者を拘束・報告するよう命じる。地下人への喧嘩・狼藉にも処罰を定めた三か条の申渡書。

  31. 後編3-No.1830 慶長八年出物覚書

    慶長八年の諸種の出物を日付・賦課率・金額ごとに列記した覚書。若殿の慶事や上洛、大峯関係などに伴う負担を記し、銭合計一貫九百四十四文と、別途の出米七斗二升五合を算出する。

  32. 後編3-No.1831 伊勢貞成覚書

    伊勢貞成が蘇木二百斤、小人島二十枚、蝋燭五十斤、毛玉二十、砂糖千斤、水牛角二十五本、しゅくしゅ二十二斤を列記した物品覚書。

  33. 後編3-No.1832 島津龍伯詠草

    島津龍伯の詠草。夏の夜の月、西方浄土と阿弥陀・ほととぎす、秋近い森の木陰と夕立・露を題材にした和歌を収める。

  34. 後編3-No.1833 島津龍伯詠草

    島津龍伯が大中良等庵主の三十三回忌追善のため、阿弥陀の名号を各歌の冠に置いた六首を詠み、霊前へ手向けた詠草。夏月・秋の森・ほととぎす・紫雲・弥陀などを詠む。

  35. 後編3-No.1834 島津義久詠草

    島津義久の詠草について、No.1833の追善詠草と同文であるため本文掲載を省略し、元亀三年から慶長八年まで三十三年に当たることなどを注記する。

  36. 後編3-No.1835 樺山久高・鎌田政近連署掟書

    樺山久高と鎌田政近が連署し、京泊から入津する唐船に関して、公方への礼物を理由に商人へ不当な買付けを強いてはならず、川内の唐人を含む当事者の自由な交易を妨げないよう命じる。違反者は厳罰とした。

  37. 後編3-No.1836 林次長書状

    林次長が、秀頼の祝言は大納言の上洛と母方との相談で七月二十八日に決まったと伝える。一方、忠恒の上洛は将軍から不要とされたため見合わせるよう知らせ、翌春の上洛を待つとし、兵庫頭義弘からの書状・贈答にも礼を述べた。

  38. 後編3-No.1837 林次長書状

    林次長が本田六右衛門へ、秀頼の祝言が七月二十八日に決まり、忠恒の上洛は将軍から不要とされたと知らせる。忠恒に事情を伝えて上洛を見合わせ、翌春の上洛に備えるよう求めた書状。欠損箇所が多い。

  39. 後編3-No.1838 近衛信尹書状

    近衛信尹が忠恒の書状と白鳥・蜜・香壺・唐紙・瑠璃瓶・香木などの贈物に礼を述べ、書画に関する依頼へ応じたことを伝える。帰国する喜入摂津守に上方の様子を託し、惟新の健勝を喜んだ。

  40. 後編3-No.1839 本田助允書状案

    本田助允の書状案。忠恒の上洛に際し、軍役を勤めていない自身の知行が公儀に召し上げられるか、改めて宛行われるかについて取成しを依頼する。伊勢兵部少輔への書状取次も求めた。

  41. 後編3-No.1840 相良長泰書状

    相良長泰が伊勢兵部少輔へ、本田助允の知行に関する嘆願はこれまで家老中へ申し入れたが取扱いが進まなかったと説明し、助允の依頼に応じて改めて取成しを求めた。

  42. 後編3-No.1841 島津龍伯書状

    島津龍伯の書状。本文はNo.1824の山口直友書状と同文であるため原本掲載では省略され、同文書を参照する旨だけが記される。

  43. 後編3-No.1842 某覚

    関東への御物輸送に伴う駄賃・巻物の梱包費、往還予定を超えた三十三日分の滞在費、飯米代などを精算した覚書。蔵から受け取った銀、各費目、控除額と支給残額を列記する。

  44. 後編3-No.1843 伊勢貞成注文

    伊勢貞成が虎皮・豹皮・小人島・水牛角・明礬・鹿皮・山馬皮・砂糖・紅木の数量を列記し、鹿児島と帖佐へ分配するよう命じた注文。唐人側と価格を確定し、商人へ引き渡すことも指示する。

  45. 後編3-No.1844 島津義弘譜

    島津義弘譜は、関ヶ原敗戦後に宇喜多秀家が山林へ潜伏し、翌年小舟で薩摩へ逃れて庇護を求めた経緯を記す。島津家は秀家をかくまい、山口直友らを介して上方との折衝と今後の処遇を進めた。

  46. 後編3-No.1845 島津龍伯書状

    島津龍伯が惟新へ、宇喜多秀家らの上洛計画について鹿児島で協議し、同行者を選ぶよう求める。休復の上洛も望ましいとして正文寺へ準備を命じ、和久甚兵衛と早急に相談するよう指示した。

  47. 後編3-No.1846 島津惟新書状

    島津惟新が、休復の上洛返事を受けて使者二人を留め、本田源右衛門を通じて龍伯へ報告した経緯を忠恒へ伝える。処理の遅延と関係者の不満を踏まえ、本源寺らを介して慎重かつ速やかに人員・乗船を整えるよう求めた。

  48. 後編3-No.1847 島津惟新書状

    島津惟新が忠恒へ、長年薩摩に滞在した休復と病気などで面談できなかったことを残念がる。休復が翌六日昼に出立するため、今晩福山まで赴いて暇乞いの面会をする予定だと伝えた。

  49. 後編3-No.1848 島津家久譜

    島津家久譜は、八月六日に忠恒が休復を牛根から出立させ、桂太郎兵衛忠詮を警護役とし、正興寺の文書を添えて送り出したと記す。

  50. 後編3-No.1849 島津家久譜

    島津家久譜は、徳川秀忠の長女と豊臣秀頼の婚礼成立を受け、忠恒が比志島紀伊守国貞を上方へ遣わして将軍家と秀頼へ祝賀したことを記す。忠恒自身は秋の参覲を命により免除され、川上久右衛門を専使として派遣した。

  51. 後編3-No.1850 山口直友書状

    山口直友が七月二十八日の婚礼後の繁栄を報じ、上方へ向かう宇喜多秀家の到着を待っていると伝える。秀家の身命に別条はないと忠恒を安心させ、詳しい事情は川上久右衛門の口上に託した。

  52. 後編3-No.1851 川上久慶起請文

    川上久慶が島津家の弓馬に関する命を守り、当世流の早道乗りを上意なく行わず、教示内容を他言しないと誓う起請文。先祖以来の馬術については、子孫一人への相伝許可を願い、違反時の神罰を誓った。

  53. 後編3-No.1852 松元権兵衛覚書

    松元権兵衛が、慶長八年八月十七日に鹿児島浦の谷山で伊集院千寿・三郎五郎兄弟の死に関わる戦闘に加わり、初めに敵と斬り合って二か所の刀傷を負ったことを記す。谷山大左衛門・石塚才右衛門の名も挙げる。

  54. 後編3-No.1853 服部加兵衛外二名連署買物日記

    服部加兵衛ら三名が連署した鹿児島御物の買物日記。福島で鹿皮三百枚・明礬・大小の角・鐙を銀七百九十三匁六分で購入し、別に公用百九十八匁四分を計上する。

  55. 後編3-No.1854 島津家久譜

    島津家久譜は、桂忠詮らが休復こと宇喜多秀家を伏見へ護送し、山口直友が本多正純を介して助命を訴えた経緯を記す。家康は死罪を免じて駿府近郊へ留置し、のち八丈島へ移した。忠詮には宝刀が与えられた。

  56. 後編3-No.1855 比志島国貞書状

    比志島国貞が将軍への拝謁と進上品を報告し、秀頼への進物は未決と伝える。休復の助命嘆願が認められ、遠国ではなく駿河国久能に置かれることとなり、島津家の働きとして世間の賞賛を得たと知らせた。

  57. 後編3-No.1856 山口直友書状

    山口直友が龍伯へ、宇喜多秀家は八月二十七日に伏見へ着き、九月二日に駿河国久能へ向けて出発したと報告する。身命に別条はなく、道中も無理なく進むよう手配したとして、島津家の外聞・面目を祝った。

  58. 後編3-No.1857 御譜抄

    御譜抄は、関ヶ原敗戦後に宇喜多秀家が小舟で薩摩へ逃れ、島津家が牛根にかくまった経緯を記す。家康に所在が知られると、山口直友・和久甚兵衛らの仲介で上京を求められ、小瀬中務を通じて秀家が承諾した。

  59. 後編3-No.1858 山口直友書状

    山口直友が相手の無事帰国を喜び、国へ向かう船の着岸報告を受けたと伝える。提出された一書を披露して好意的に受け取られたことや、婚礼が滞りなく行われたことを知らせ、安心するよう述べた。

  60. 後編3-No.1859 円光寺某書状

    円光寺某が忠恒へ、休復は命に従って九月三日に駿河へ下向したと報告し、詳しい事情は正興寺が説明するとした。緞子三巻の拝領にも礼を述べる。

  61. 後編3-No.1860 円光寺某書状

    円光寺某の休復処遇に関する書状。本文はNo.1859と同文であるため原本掲載では省略され、同文書を参照する旨のみが記される。

  62. 後編3-No.1861 本多正純書状

    本多正純が忠恒から大御所への重陽祝儀として衣服五領・綾・帷子が進上されたことを披露し、好意的に受納されたと報告する。内書は後日整えて送ると伝えた。

  63. 後編3-No.1862 島津義久書状案

    島津義久が琉球国王名義で作成した書状案。忠恒の家督祝賀が遅れたことに触れ、左相府の配慮で漂流人が琉球へ送還された恩に謝し、返礼使節を急派すると伝える。平戸などへの船来着や朝鮮・中国との交通にも言及する。

  64. 後編3-No.1863 比志島国貞書状

    比志島国貞が、宇喜多秀家の居所は不便な久能から駿府城二之丸へ変更されたと報告する。秀家が成敗を免れたのは島津家の嘆願によるとして将軍の厚意と家の名誉を強調し、広島少将の帰国・拝領にも触れた。

  65. 後編3-No.1864 島津家久譜

    島津家久譜は、比志島国貞が大坂で片桐且元・小出秀政を介し、太刀・馬代銀・綾羅・豹皮などを秀頼へ進上して婚礼を祝ったと記す。且元・秀政は秀頼の意向を伝える返書を国貞へ託した。

  66. 後編3-No.1865 小出秀政・片桐且元連署状

    小出秀政と片桐且元が連署し、忠恒が比志島国貞を通じて秀頼の婚礼祝いとして太刀・馬代銀・伽羅・豹皮を進上したことを披露し、遠路からの厚意を秀頼が喜んだと伝える。

  67. 後編3-No.1866 山口直友書状

    山口直友が忠恒へ、桂太郎兵衛忠詮の上京後、休復は駿河国久能へ下向し、身命に別条がないと報告する。詳細は忠詮から申し上げるとして、助命成立を祝った。

  68. 後編3-No.1867 島津義久書状案

    島津義久が山口直友へ、休復の助命と駿河国内での留置が実現したことに深く感謝する。島津家への特別な配慮であり外聞・名誉に勝るとして、礼の使者を派遣し、上方への披露を求めた書状案。

  69. 後編3-No.1868 島津龍伯書状案

    島津龍伯の休復助命に対する謝礼書状案。本文はNo.1867と同文であるため原本掲載では省略され、同文書を参照する旨のみが記される。

  70. 後編3-No.1869 新納為舟書状

    新納為舟が石原小作へ、久しく会えないまま相手が今回名誉ある役目に臨み、御供も務めると聞いたことを祝う。主君の機嫌を損なわぬよう手柄を立てることを期待し、詳細を使者に託した。

  71. 後編3-No.1870 徳川家康御内書

    徳川家康が義久から遠路の使者と砂糖千斤を贈られたことを喜び、受領への謝意を伝えた御内書。

  72. 後編3-No.1871 島津惟新書状

    島津惟新が忠恒へ、公方や諸方への進物一覧と上方からの書状を送る。喜入摂津守を使者に任じ、休復への使者も公方への使者と同時に上らせるよう調整し、富隈での談合や黒田長政への書状取次も指示した。

  73. 後編3-No.1872 島津義久書状案

    島津義久が、長年の厚意と休復の助命・赦免に深く感謝し、今後も島津家への取成しを願う書状案。少将忠恒の使者喜入摂津守に伝書を持たせ、礼物として新渡りの伽羅三両と白糸二斤を贈った。

  74. 後編3-No.1873 喜入忠続譜

    喜入忠続譜は、慶長八年十月に忠続が使節として上洛し、徳川家康の征夷大将軍就任を祝賀して、砂糖二樽と鉄砲二挺を献上したと記す。

  75. 後編3-No.1874 島津龍伯書状

    島津龍伯が上洛使節の喜入摂津守へ、京都で細川幽斎に書状と進物を確実に届けるよう命じる。遠国の宛先への書状も持ち帰るよう伝え、熊野紙を添えた。

  76. 後編3-No.1875 島津家久譜

    島津家久譜は、薩摩・大隅・日向が島津氏の旧領であること、伊東氏による佐土原占拠、豊臣政権下の領地変動を述べる。佐土原を領した島津豊久が関ヶ原で戦死したため、島津家が新納旅庵・山口直友を通じて同地回復を幕府へ請願した経緯を記す。

  77. 後編3-No.1876 島津以久譜

    島津以久譜は、以久が徳川家康に拝謁して秘蔵の肩衝茶入「奈良柴」を献上し、その返礼として日向国那珂郡佐土原三万石を与えられ、佐土原へ移住したと記す。

  78. 後編3-No.1877 島津以久譜

    島津以久譜は、島津氏の三州旧領と佐土原の沿革を詳述する。伊東氏の占領、豊臣政権下での島津豊久領有、関ヶ原での豊久戦死後の請願を経て、徳川家康が以久へ佐土原三万石を与えた経緯を記す。

  79. 後編3-No.1878 島津忠輿譜

    島津忠輿譜は、祖父島津忠興の家系と佐土原領有の由緒を記す。島津以久が慶長六年に佐土原城番を命じられ、同八年に徳川家康から佐土原三万石を拝領したのち、嫡子彰久の没後に忠興へ家督を譲った経緯を述べる。

  80. 後編3-No.1879 山口直友書状

    山口直友が島津忠恒へ、使者比志島紀伊守の口上と書状を受け、関係者と相談して十分に取り成すと報じる。忠恒から贈られた帷子五つと鹿皮百枚への謝意を述べ、詳細は比志島へ申し含めた。

  81. 後編3-No.1880 島津宗恕以久書状

    島津以久が島津忠恒の書状を拝見し、比志島紀伊守と山口勘兵衛への働きかけによって佐土原の件が解決したことを喜ぶ。近日中の帰国を予告し、忠恒が当年の上洛を見合わせたことも祝している。

  82. 後編3-No.1881 玉川義則免許状

    玉川義則が鮫島筑右衛門へ、置流弓の伝授を許した免許状。流儀の法度に従い誓紙を立てて指導すること、子孫であっても器用や執心のない者には伝授しないことを命じる。

  83. 後編3-No.1882 小出秀政書状

    小出秀政が島津忠恒へ、豊臣秀頼の祝言を祝うため比志島紀伊守が上洛したことを喜び、祝意を秀頼へ取り次ぐと伝える。徳川家康が十八日に関東へ下向したこと、当地に異変がないことを報じ、子息への銀子五枚の贈答にも謝意を述べる。

  84. 後編3-No.1883 山口直友書状

    山口直友が島津忠恒へ、佐土原城を島津以久へ引き渡す決定と、そのため使者を以久に同行させたことを報じる。また又四郎を伏見へ在府させる方針を伝え、早々に上洛させるよう求めた。

  85. 後編3-No.1884 新納為舟書状

    新納為舟が石原小作へ、近日の来訪を聞き、竹内右馬を通じて事情を承知したと伝える。当地方は不如意で十分な準備が難しいため、供回りの手配に際して取り合わせと調達を頼み、詳細は竹内右馬から聞くよう求めた。

  86. 後編3-No.1885 新納為舟書状

    新納為舟が江州様の留守居へ、主人が今朝帰着したため、迎えに出られなかった件について沙汰があったと知らせる。伊兵部少輔から早々に参上する必要があると伝えられたとして、労を承知で来訪を待つと述べた。

  87. 後編3-No.1886 島津義久息女系図

    島津義久の息女に関する系図記事。天文二十年八月二十二日に生まれ、母は島津忠良の息女で、島津義虎の室となったこと、慶長八年十一月十二日に上井で五十三歳で没したことを記す。

  88. 後編3-No.1887 福島正則書状

    福島正則が島津忠恒へ、帷子五領と伽羅一斤など度重なる贈答に謝意を述べる。山口直友の指図により当面の上洛は不要とし、豊臣秀頼の祝言進物も首尾よく整ったこと、翌春の将軍上洛時には面会を期待することを伝えた。

  89. 後編3-No.1888 桂忠昉譜

    桂忠昉譜は、関ヶ原後に薩摩へ潜居した宇喜多秀家が徳川家康の召しに応じて上京する際、桂忠昉が海陸の警衛を命じられたと記す。無事に任務を果たして帰国し、島津忠恒から感状と宝刀を与えられた。

  90. 後編3-No.1889 島津忠恒感状

    島津忠恒が桂忠康へ、宇喜多秀家の上洛警衛を命じたところ、怠りなく即座に出立して任務を果たした忠節を賞する感状。功績を永く忘れないとして、信国作の脇指を与えた。

  91. 後編3-No.1890 伊集院抱節久治・山田理安有信連署知行目録

    伊集院抱節久治と山田理安有信が連署した知行目録。大隅国曽於郡財部村内の西大河原門・右衛門浮免など各所の石高を列記し、合計高を加増として配分する旨を定める。

  92. 後編3-No.1891 山口直友書状

    山口直友が島津忠恒へ、宇喜多秀家の処遇に関する礼使として喜入摂津守を派遣したことを了承する。島から贈られた蜜柑を受け取り関東へ進上したこと、内地産の蜜柑も献上してよいことを伝え、徳川家康の鷹狩りと江戸出立の動向にも触れた。

  93. 後編3-No.1892 円光寺某書状

    円光寺某が島津忠恒へ、宇喜多秀家が赦免され駿河へ移されたことを祝い、忠恒の働きを評価する。遠路贈られた砂糖二百斤に謝意を述べ、翌春の上洛を待つこと、将軍が十月十八日に江戸へ下向し翌春帰洛予定であることを伝えた。

  94. 後編3-No.1893 徳川家康御内書

    徳川家康が島津忠恒へ、音信として贈られた緞子三十巻と硫黄五百斤の到来を喜ぶ旨を伝えた御内書。

  95. 後編3-No.1894 島津家久譜

    島津家久譜は、大隅国大隅郡の桜島を鹿児島城前面の海中にある奇観として記し、向島・桜島の名称由来や地形を説明する。豊玉姫・彦火火出見尊に関する神話、火山噴火と島の生成、桜・柑橘の産物についても述べる。

  96. 後編3-No.1895 山口直友書状

    山口直友が島津忠恒へ、向島から贈られた蜜柑を受け取り関東へ進上したことを報じ、内地産の蜜柑も献上してよいと喜入摂津守へ伝えたと述べる。徳川家康の鷹狩りと江戸方面の動向に触れ、翌春早々の上洛を待つと伝えた。

  97. 後編3-No.1896 片桐且元書状

    片桐且元が島津忠恒へ、徳川家康の意向に関わるため当地の事情を尋ねることを控えていると述べる。豊臣秀頼と御上様へ進上された歳暮の呉服を披露したこと、且元自身にも小袖二領を贈られたことに謝意を示した書状。

  98. 後編3-No.1897 本多正純書状

    本多正純が島津忠恒へ、宇喜多秀家が正式に赦免され、駿河国に居所を与えられたことを報じる。忠恒の長年の働きが評価され満足していることを確認し、今後も用向きを遠慮なく申し付けるよう伝え、砂糖二百斤などの贈答にも謝意を述べた。

  99. 後編3-No.1898 本多正純書状

    本多正純が島津忠恒へ、宇喜多秀家の赦免と駿河国での居所宛行を報じた書状。本文はNo.1897と同文のため原本では省略されており、同文書を参照する旨が注記される。

  100. 後編3-No.1899 本多正純書状

    本多正純が島津忠恒へ、宇喜多秀家が相違なく赦免され駿河国に居所を与えられたことを改めて報じる。忠恒の長年の働きを評価し、今後も東国方面の用向きを申し付けるよう伝え、翌春に伏見で会うことを期した。