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後編3の目録
旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。
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後編3-No.1200 伊地知季安副状
伊地知季安が、大口の有村早之介家に伝来し、新納忠元の筆跡とも考えられた書状について考証する。関ヶ原合戦後の島津義弘(惟新)の伊勢・伊賀・近江・山城・大和・摂津方面の経路、忠恒への使者や船の動き、家族・家臣の安否確認を年代順に整理し、筆跡・文体・宛名・伝来状況を他の実本と比較して、書状の成立と筆者を慎…
後編3-No.1201 本田親孚考記
慶長五年十月、太田飛騨守の豊後の居城へ関東方が攻め寄せるとの情報を得たため、島津忠恒(家久)が多野村狩野介・本田新介に歩卒数十人を付けて使者として派遣した際の書付と考えられる、と本田親孚が記す。
後編3-No.1202 藩翰譜
太閤死後に東西の軍が起こると、中川修理太夫秀成は徳川家康方に属し、同国臼杵城へ軍勢を差し向けて太田飛騨守政信と戦ったと記す。関ヶ原で西軍が敗れたとの報を受け、太田は城を退去したとする。
後編3-No.1203 鎌田政近・比志島国貞連署状(鉄砲衆人数書)
鎌田政近・比志島国貞が、豊後へ差し遣わす鉄砲衆について、富隈・鹿児島方・北郷殿・右馬頭殿などから出す人数を列記する。ほかに鹿児島から五人を加え、合計三十挺を早急に召し集めて豊後へ派遣するよう命じる。
後編3-No.1204 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が新納武蔵入道忠元へ、上方の不慮の事態により突然下国したことを知らせ、詳しい事情は真如坊に伝え含めたとする。忠元の長期在番の辛労をねぎらい、肥後方面への出兵を談合中であること、自身も直ちに赴きたいが目付未調のため実現していないことを述べ、この時こそ一同が精励するよう頼む。
後編3-No.1205 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が北郷小兵衛尉へ、難所を越えて国元まで供奉した働きを神妙の至りと賞し、刀一腰「長盛」を与える。
後編3-No.1206 鎌田政近・比志島国貞連署状(No.1203同文)
原資料ではNo.1203の鎌田政近・比志島国貞連署状と同文であるため、本文を省略すると記されている。
後編3-No.1207 島津惟新書状
島津義弘(惟新)が少将殿こと島津忠恒(家久)側へ、龍伯こと島津義久へ申し上げるべきことがあるため喜入大炊助を召し連れるよう求め、差し支えがあれば別人を選ぶよう指示する。翌日の来訪を早朝に待つとし、太田飛騨守方の使者や日向からの来訪者もいるので相談したいとして、比志島国貞・伊勢兵部少輔・桂太郎兵衛尉・…
後編3-No.1208 島津義弘(惟新)感状
島津義弘(惟新)が北郷小兵衛尉忠泰へ、濃州関ヶ原の合戦場から片時も側を離れず、数国の難所を越えて国元まで供奉した働きを神妙の至りと賞し、刀一腰「長盛」を与える。
後編3-No.1209 旧記抄
慶長五年十月十日、関ヶ原からの帰陣後に島津義弘(惟新)が感状を与えた人数と給付石高を列挙する。頴娃弥市郎・山田民部少輔の各二百石、本田源右衛門百石をはじめ、諸士へ五十石・三十石などを与えた記録である。
後編3-No.1210 島津義弘(惟新)譜
関ヶ原で西軍が敗れ、少数の島津勢が大軍中を切り抜け、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経て帰国した経路を記す。その間片時も義弘の側を離れず忠功を尽くした士卒へ、新たな恩地を与え、その書付を作成したとする。
後編3-No.1211 島津義弘(惟新)感状
島津義弘(惟新)が頴娃弥市郎へ、関ヶ原合戦で粉骨し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経て帰国するまで片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行二百石を与える。あわせて、同文で石高のみ異なる感状を多数の随従者へ与えたことと、その宛名・石高を列記する。
後編3-No.1212 島津義弘(惟新)譜
義弘一行が九月二十七日に芸州を出船し、二十九日に細島へ着いたことに関連して、薩摩船三艘が豊前・豊後沖で黒田如水方の船勢に追われ、捕獲されて男子は討たれ、女性・子供は生け捕られたとの風説を記す。続いて柚木崎丹後の子・次郎右衛門へ父の勇敢を賞して三十石を与え高岡に居住させたこと、関ヶ原敗戦後に蒲生新城を…
後編3-No.1213 大田忠綱譜
大田吉兵衛忠綱は、慶長五年秋に石田三成が関東へ兵を起こすと、阿多長寿院らと帖佐を発し、島津義弘(惟新)に従って美濃国関ヶ原へ向かった。西軍敗北後も義弘の側を離れず大軍中を切り抜けて帰国し、軍功により感状を重ねて受け、百石を与えられた。
後編3-No.1214 島津忠恒(家久)譜
関ヶ原敗戦後、小西美作守が島津方へ、旧小西領の肥後国宇土・八代を加藤方が奪おうとしているとして援兵を求めた。太守の島津忠恒(家久)はこれを許し、島津忠倍を肥後国葦北郡水俣へ派遣した。
後編3-No.1215 島津忠倍譜
十月三日、島津忠倍らは海陸から進み佐敷浦へ船を出したが、加藤方の井口伊賀が十八艘の兵船で襲来した。竹内備前守実康父子の小舟一艘と合力して戦い、忠倍は名と年齢を記した矢を放って敵二人を倒したが、忠倍をかばった蒲尾勘解由貞清が鉄砲で討死し、ほかにも負傷者が出た。夕刻に双方が退き、十二月には忠倍父子が宮城…
後編3-No.1216 大田氏系図
種田氏の娘で天正七年生まれの御松に関する大田氏系図の記事。関ヶ原敗戦時、御松は太守の簾中(島津家当主夫人)に従って大坂屋敷にいた。豊臣秀頼の大老が簾中の帰国を許さなかったため、二十歳の御松は夫人に代わって屋敷に残ると申し出た。その忠言を上下の者が称賛したが、別策によって夫人とともに無事帰国し、大坂で…
後編3-No.1217 井伊直政書状
井伊直政が羽柴少将こと島津忠恒(家久)方へ、天下の情勢が決着したことを受け、兵庫頭こと島津義弘(惟新)の下向に際して国元の事情を説明し、早々に出仕するよう促す。徳川家康とは以前から取次関係にあるので力を尽くすと述べ、用件を書き付けて送ること、詳細は山口勘兵衛直友が伝えることを知らせる。
後編3-No.1218 島津義久(龍伯)譜
本文はNo.128と同文のため省略されている。No.128の記事は、明使の帰国後に豊臣秀吉が朝鮮再征を決定し、諸将へ釜山・晋州方面への進軍と築城を命じた経緯を記す。
後編3-No.1219 山口直友証状
山口直友が西俣彦右衛門尉へ、徳川家康が承知している人物を九州へ下向させるので、道中を滞りなく通行させるよう証する。
後編3-No.1220 島津義弘(惟新)感状
島津義弘(惟新)が桂太郎兵衛尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行二十石を与える。
後編3-No.1221 島津義弘(惟新)感状
島津義弘(惟新)が安楽五郎右衛門尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
後編3-No.1222 島津義弘(惟新)感状
島津義弘(惟新)が松下喜左衛門へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
後編3-No.1223 島津義弘(惟新)感状
島津義弘(惟新)が長山半六へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
後編3-No.1224 島津義弘(惟新)感状
島津義弘(惟新)が、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公した者を賞し、知行三十石を与える。本文には宛所がない。
後編3-No.1225 島津義弘(惟新)感状
島津義弘(惟新)が指宿清左衛門尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
後編3-No.1226 島津義弘(惟新)感状
島津義弘(惟新)が大学坊へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
後編3-No.1227 島津義弘(惟新)感状
島津義弘(惟新)が榊松三右衛門尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
後編3-No.1228 島津義弘(惟新)感状
本文はNo.1222と同文のため省略されている。No.1222の感状は、島津義弘(惟新)が松下喜左衛門へ、関ヶ原合戦での奮戦と帰国路で片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与えたものである。
後編3-No.1229 大田氏系図
天正七年生まれの大田忠好について、慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦で強敵一人を討ち、島津義弘(惟新)の側を離れず帰国したと記す。その軍功を賞され、感状と新恩五十石を与えられた。
後編3-No.1230 島津義弘(惟新)感状
島津義弘(惟新)が大田弥市こと大田忠好へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
後編3-No.1231 大田氏系図
久千は、子のなかった吉田美作守清孝の猶子となり、清次と改名した。慶長十年四月十七日に二十七歳で死去したことを記す。
後編3-No.1232 平山久清譜
平山久清は、文禄元年の朝鮮渡海以来、島津義弘(惟新)の側を片時も離れず仕えた。関ヶ原敗戦後、義弘が泉州住吉浦から小舟で脱出した際も従い、乗船できなかった多くの従者に遅れて帰国したが、長年の勲功を賞され新恩五十石を与えられた。
後編3-No.1233 桂忠昉譜
桂忠昉は、石田三成が徳川家康に対抗して関西諸国の軍勢を美濃へ進めると、島津義弘(惟新)に従って関ヶ原へ赴いた。西軍敗北後も義弘の側を離れず、大軍中を突破して帰国するまで忠功を尽くしたため、二百石を与えられた。
後編3-No.1234 島津義弘(惟新)感状
本文はNo.1230と同文のため省略されている。桂忠昉譜の記事に対応し、島津義弘(惟新)が桂忠昉の関ヶ原合戦と帰国路での忠功を賞して二百石を与えた感状である。
後編3-No.1235 島津義弘(惟新)感状
島津義弘(惟新)が伊集院半五郎へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五百石を与える。
後編3-No.1236 伊集院半五郎系譜注記(在官庫)
伊集院半五郎の家系について、その曾祖が弾正少弼頼久の庶出の長男・孝久の孫にあたり、丸田氏を称した一族の支流から出たとする系譜注記。
後編3-No.1237 島津忠恒(家久)譜
関ヶ原で西軍が敗れると、伊東氏は国元の混乱に乗じ、九月朔日の未明に高橋氏領の宮崎城を奪い、佐土原城も攻めた。さらに島津領境の穆佐・倉岡方面へ迫ったため、島津忠恒(家久)は自ら出陣しようとしたが、龍伯こと島津義久が強く制止し、惟新こと島津義弘もこれに同意して書状を与えた。
後編3-No.1238 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が少将殿こと島津忠恒(家久)へ、日向方面への出陣は他国にも関わる重大事であるため、忠恒自身の出馬は見合わせ、まず軍勢を編成・派遣して対応するよう勧める。龍伯こと島津義久も忠恒の出張を不要としており、兵の派遣を優先すべきだと伝える。
後編3-No.1239 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が少将殿こと島津忠恒(家久)へ、昨夜の病気に関して夜中に使者を受けたことを喜び、翌朝早く来訪するよう求める。平田太郎左衛門尉にも相談へ加わるよう伝えており、残る老衆も全員連れて来るよう指示する。
後編3-No.1240 島津義久(龍伯)譜
島津義久(龍伯)が、山口勘兵衛尉および寺沢志摩守から贈られた書状に対し、返書を作成したことを記す譜記事である。
後編3-No.1241 島津義久(龍伯)・島津忠恒(家久)連署状
島津義久と島津忠恒の連署状で、十月十六日付、寺沢志摩守方宛であることを確認できる。本文は同文注記により省略されており、当該頁だけでは具体的な用件を確定できない。
後編3-No.1242 島津義久(龍伯)・島津忠恒(家久)連署状
島津義久と島津忠恒の連署状で、確定インデックスでは慶長五年十月十六日(異本では十三日)付とされる。本文は別文書との同文注記により省略されており、この頁だけでは宛先・具体的内容を確認できない。
後編3-No.1243 北郷忠能譜
関ヶ原合戦後、伊東氏が高橋氏領の宮崎城を奪った際、長倉三郎兵衛尉が北郷忠能の家臣・小杉丹後守へ書状を送り、島津家は徳川家康の恨みを受けているので北郷家が徳川方へ忠節を示すよう勧めた。忠能は応じず、その書状を鹿児島へ提出した。
後編3-No.1244 黒田如水(円清)書状(No.1247同文)
本文はNo.1247と同文のため省略されている。No.1247では黒田如水(円清)が伊那掃部・長倉三郎兵衛へ、関ヶ原後に豊後守が徳川方への忠節を内々に決して宮崎へ赴いたと伝える。島津氏が徳川家康から深い遺恨を受けているとの風聞を踏まえ、相手方も徳川方へ忠節を示す意向なら近隣として相談を承りたいと申し…
後編3-No.1245 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が本田六右衛門尉へ、現地で長く辛労していることをねぎらい、島津忠長の出水在番を少将こと島津忠恒(家久)が頼んできたと知らせる。従前の相談どおり本田は持ち場にとどまり、現地の諸事を適切に取り計らうよう求める。
後編3-No.1246 黒田如水(円清)書状(No.1247同文)
本文はNo.1247と同文のため省略されている。No.1247では黒田如水(円清)が伊那掃部・長倉三郎兵衛へ、関ヶ原後に豊後守が徳川方への忠節を内々に決して宮崎へ赴いたと伝える。島津氏が徳川家康から深い遺恨を受けているとの風聞を踏まえ、相手方も徳川方へ忠節を示す意向なら近隣として相談を承りたいと申し…
後編3-No.1247 黒田如水(円清)書状
黒田如水(円清)が伊那掃部・長倉三郎兵衛へ、関ヶ原後に豊後守が徳川方への忠節を内々に決して宮崎へ赴いたと伝える。島津氏が徳川家康から深い遺恨を受けているとの風聞を踏まえ、相手方も徳川方へ忠節を示す意向なら、近隣として諸事の相談を承りたいと申し入れる。
後編3-No.1248 日向記
宮崎城主権藤とその子二人の首級を、小杉丹後守が山伏の一学坊を使者とし、検使の宮川を同船させて、筑後国水田に置かれた黒田如水(円清)の陣所まで届けさせたことを記す。続いて如水の返書を掲げる導入記事である。
後編3-No.1249 黒田如水(円清)書状
黒田如水(円清)が伊那因幡へ、宮崎城を攻め取った働きを称え、徳川家康へ報告すると伝える。小倉を受け取った後に筑後へ進み、高橋・柳川・筑紫へ使者を置いて当月中に薩摩へ赴く予定を示し、捕えた島津家臣数人は使者に託して島津方へ返すよう依頼する。
後編3-No.1250 島津義久(龍伯)・島津忠恒(家久)連署状
島津義久(龍伯)と忠恒が寺沢志摩守方へ、遠国ゆえ音信が途絶えたことを詫び、今回の戦について惟新から詳細を聞いたと述べる。惟新は事前相談を受けず、秀頼への永年の忠節を誓った起請に基づいて家臣の意見に従ったが、徳川家康の厚恩を忘れたわけではないと釈明し、取り成しを求める。
後編3-No.1251 島津義久(龍伯)書状
島津義久(龍伯)が又八郎こと島津忠恒(家久)へ、天候が良ければ二十五日、悪ければ二十六日に来るよう求め、源二郎の弟一人をこちらに置く件などを指示する。野村符野介・本田新介の見舞い派遣を伝え、先手が敵の首二百四十余を討ち取り、残兵を海へ追い落として通路を確保したので安心するよう報告する。
後編3-No.1252 島津忠恒(家久)譜
豊後の居城にいた太田飛騨守・美作守が関東方諸将の先陣に迫られたとの報を受け、島津忠恒(家久)が野村符野介と本田新介に数十人の歩卒を付けて派遣した。両名は太田氏らの往還を安全にし、復命するとともに太田父子の返書を持ち帰った。
後編3-No.1253 太田友一・同一吉連署状
太田友一・一吉が、島津忠恒からの見舞いと野村符野介・本田新介らの派遣に謝意を示し、先手が首級二百四十余を挙げ、残敵を海へ追い入れた戦果を報告する。詳細は使者の口上を聴取するよう求める。
後編3-No.1254 島津忠恒宛行状
本文はNo.2500文書と同文であるため省略されており、日付のみ慶長五年十月二十三日と付記される。宛行の対象・内容は当該箇所からは確認できない。
後編3-No.1255 板波忠成・内田実久連署起請文
板波忠成・内田実久が、従前どおり島津家の意向に背かず、長門守の妻子を惟新が召し連れて当地へ渡した厚意を忘れず、龍伯・惟新・少将以下へ疎略なく奉仕することを神仏に誓う。
後編3-No.1256 立花親成書状
立花親成が九州各地の軍事情勢と自身の和談成立を報じ、天下が静謐へ向かい江戸中納言の薩州出馬も見込まれるとして、島津方に早急に八代へ使者を送り、加藤清正・黒田如水らを介した詫言を進めるよう勧告する。
後編3-No.1257 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が忠恒へ、図書頭を出水の在番に留めて境目の警備を徹底し、川内・八代間の舟運と京泊の通行を監視するよう指示する。さらに小西美作守の人質確保や伊集院源次の弟の処遇について念を押す。
後編3-No.1258 島津義久(龍伯)書状案
本文はNo.2233文書と同文であるため省略される。御案文には島津義久(龍伯)の自筆がなく、慶長五年のものと推定される旨が注記されている。
後編3-No.1259 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が忠恒へ、本田新介・野村符野介の豊州からの帰還報告を受けたことを伝え、石田三成の使者である安国寺による謀反催促をめぐる応答などを説明する。十分に談合して返答し、飛脚を早く帰すよう求める。
後編3-No.1260 新納旅庵譜
新納旅庵が、出水滞在中に上方の不穏を聞いて大坂・伏見へ向かい、島津義弘(惟新)に従って関ヶ原合戦期の軍事行動と退却を経験した経緯を記す。使者の往来や、龍伯・少将の上京をめぐる本田助之丞との交渉にも及ぶ。
後編3-No.1261 秋月種長書状
秋月種長が本田助之丞の無事な帰着を喜び、家族の様子を尋ねる。楢原方との相談結果を使者に託し、状況に応じて船で訪問する意向を示すとともに、山勘兵衛の書状を添えて返事を求める。
後編3-No.1262 秋月種長書状
本文はNo.1263文書と同文であるため省略されており、当該箇所からは書状の具体的内容・宛所を確認できない。
後編3-No.1263 島津忠長書状
島津忠長が、使者として下向した本田助之丞を祝し、不慮の事態による一同の難儀を気遣って和平成立への見通しを述べる。上方へ送る書状などの取り次ぎと、書状中の割符を惣新八郎へ渡すことを依頼する。
後編3-No.1264 島津忠長外三名連署加増目録
島津忠長ら四名が源七郎へ、薩州鹿籠の別府村百六十石六斗九升と、庄内末吉の深川村三百三十九石三斗一升、合計五百石を加増として宛行う。
後編3-No.1265 島津義久(龍伯)書状案
島津義久(龍伯)が黒田如水へ、上方の不慮の一乱を受け、井伊直政・山口勘兵衛から島津家のことを早く徳川家康へ申し入れるよう注進されたため、急ぎ使書を送ったと説明する。如水にも両名と談合し、適切な取り成しを行うよう依頼する。
後編3-No.1266 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が黒田如水へ、思いがけない書状への謝意を示し、上方の混乱を受けて井伊直政・山口勘兵衛から徳川家康への早期申し入れを促されたことを伝える。使者を差し上せたので、引き続き助力してほしいと頼む。
後編3-No.1267 島津義久(龍伯)書状案
島津義久(龍伯)が井伊直政へ、懇意な書状に謝し、上方の混乱後に天下一統が進むことを祝う。通路不自由のため返答が遅れたので使者を送り、詳しくは山口勘兵衛と相談しているとして、適切な調儀を依頼する。
後編3-No.1268 島津義久(龍伯)書状案
島津義久(龍伯)が、井伊直政・山口勘兵衛から派遣された使者への返答を送り、京都の消息が得られないため使僧も差し上せたと述べる。老衰して隠遁中ではあるが、情勢が静まれば上京して意向を伝えるとして、適切な取り成しを求める。
後編3-No.1269 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が少将殿こと島津忠恒(家久)へ、有馬次右衛門尉から立花方使者の来訪予定を聞いたと伝える。使者が直接そちらへ来た場合は留め置いて注進し、聞き手を付けるよう命じ、こちらへ来た場合も留置して知らせるとする。
後編3-No.1270 島津忠長外三名連署加増目録
島津忠長ら四名が伊地知千代菊へ、薩州伊作の田尻村堂原屋敷二十五石四斗七升二合と、指宿十二町村上高原之門七十四石五斗三升、合計百石を加増として宛行う。
後編3-No.1271 島津忠長外三名連署加増目録
島津忠長ら四名が本田助左衛門尉へ、薩州知覧の西別府村百二十三石六斗八升五合と、庄内末吉の深川村七十六石三斗一升五合、合計二百石を加増として宛行う。
後編3-No.1272 島津忠恒(家久)書状案
島津忠恒(家久)が寺沢志摩守・山口勘兵衛尉へ、九月二十八日付の両名の書状を十一月四日に受領したと伝える。上方の不慮の一乱や兵の動員について遠国ゆえ事前に相談を受けていないと説明し、両名の島津家への厚意に謝して今後も支援を求める。
後編3-No.1273 島津忠長書状
島津忠長が竹内備前守の在番を慰労し、三日以内に攻撃が始まるとの情報に対し、当面は持ち場を保ち、後日退く機会もあるとの判断を支持する。兵糧調達を本六殿と相談するとし、火薬の手配や備前守の子二人への配慮も伝える。
後編3-No.1274 伊集院忠真書状
本文はNo.950文書と同文であるため省略されており、当該箇所からは書状の具体的内容・宛所を確認できない。
後編3-No.1275 平田増宗・鎌田政近連署切手
平田増宗・鎌田政近が古後七郎右衛門へ、銀子二百十五匁、五枚を京都への音信として中原般若院へ渡すよう指示する切手を発給する。
後編3-No.1276 島津義久(龍伯)宛行状
島津義久(龍伯)が息女の公領として、大隅国大根占村二千七百三十九石一斗四升の役なし地を宛行う。幼少以来の多年にわたる在京の苦労と島津家への奉公を評価し、今後も知行に相違がないことを保証する。
後編3-No.1277 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が、肥後方の先勢が水俣まで進出したとの注進を伝え、在番衆・移衆を励ますよう命じる。伊勢平左衛門尉を急ぎ呼び寄せ、境目を相談して整え、不審な地下人から人質を取り、奉公人を募り、敵方使者の内場通行を防ぐよう指示する。
後編3-No.1278 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が、濃州表の戦場以来そばを離れず国元まで供をした者たちへの褒賞として、少分ながら知行を与えるため知行目録を送る。龍伯の了承を得たうえで各人へ渡すよう山田民部少輔に命じる。
後編3-No.1279 黒田如水(円清)書状
黒田如水(円清)が羽柴兵庫入道こと島津義弘(惟新)方へ、使僧への返書を喜び、井伊直政・山口勘兵衛から使者派遣の話を聞いたとして、遠路のためまず適当な使者を寄越せば加藤主計頭と相談し公儀への取りなしに尽力すると伝える。井伊直政とは特に疎意がなく、聚楽以来の交誼を踏まえて委任されれば誠実に奔走すると保証…
後編3-No.1280 島津義弘(惟新)譜
島津義弘(惟新)の家臣鹿屋三右衛門が、関ヶ原から肥後路を経て帰国した経験と現地庄屋との旧交を生かし、八代方面に集結した黒田・加藤・龍造寺・立花らの兵数・軍法を探る。庄屋から、現地兵が少ないこと、伊集院源次郎が密使を送って船を求めたこと、海岸警備の必要、開戦時には肥後兵の多くが薩摩方へ属し得るとの情報…
後編3-No.1281 井伊直政書状
井伊直政が羽柴兵庫頭こと島津義弘(惟新)へ、以前の書状の到着を問い、今度の情勢がやむを得ないものとなったなかで身上に関する釈明をなぜ遅らせているのかと促す。早急に釈明を申し立てるよう勧め、自身もできる限り奔走するので希望があれば詳しく知らせるよう伝える。
後編3-No.1282 井伊直政書状
井伊直政が薩摩少将こと島津忠恒(家久)に対し、先の書状の到着を問い、当地での釈明をなぜ油断しているのかとして早急な申し立てを促す。自身も随分奔走するので、意向があれば詳しく知らせるよう伝える。No.1281とほぼ同文だが宛先が薩摩少将である。
後編3-No.1283 井伊直政書状
本文はNo.1281と同文のため省略されている。井伊直政が羽柴兵庫頭こと島津義弘(惟新)に対し、身上に関する釈明を早急に申し立てるよう促し、自身も取りなしに尽力する旨を伝えた書状である。
後編3-No.1284 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が、相談のため現地へ赴いた忠恒をねぎらい、時節柄いっそうの才覚を求める。日向口を最大の懸念とし、ほきたの城を高橋氏が構えているとの情報が事実なら佐土原の番衆を厳重にして堅固に備えるよう指示し、龍伯にも事情を伝えること、用務後に立ち寄って面談することを望む。
後編3-No.1285 島津忠長書状
島津忠長が伊勢平左衛門尉に対し、水俣方面の敵情と備えを詳報する。敵勢は黒田・加藤・鍋島らで、柳川・筑紫は残留したとの情報を伝え、少人数での下向は内応への期待によると分析する。宇土の又介探索・討ち取り、地下衆からの重ね人質、鹿屋三右衛門の内情報告、敵来襲時の慎重な出撃、矢羽不足への対応などを指示・報告…
後編3-No.1286 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が、関ヶ原で離散した山田衆が肥後を逃れて出水へ着き、佐敷・水俣の敵はさほど大勢でないとの情報を伝える。佐土原について中務少輔との親類・旧交を理由に龍伯と忠恒の支援を求め、国内神社の屋根修復を進めること、今度の軍役で禄のない侍へ一人三石ずつ与える案を示して龍伯との相談を依頼する。
後編3-No.1287 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が、白坂与竹・有馬次右衛門尉の帰着と、立花方の使者がもたらした情勢を忠恒に伝える。その内容は島津方に有利と見込まれ、事態の決着に関わるため、翌朝早く富隈へ赴いて談合するよう求める。伊勢兵部にも立花方の意向を聞かせて富隈へ向かわせるとし、強風時は陸路を使い油断しないよう戒める。
後編3-No.1288 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が樺山久高に対し、出水境の普請を油断なく進めるよう命じる。水俣までは黒田如水・加藤主計頭が兵を出しているが、出水は堅固に備えさせているので安心するよう伝え、しばらく音信がないため見回りの使者を送り、現地の様子を詳しく知らせるよう求める。
後編3-No.1289 黒田如水(円清)書状
黒田如水(円清)が羽柴兵庫入道こと島津義弘(惟新)方へ、相良から伝えられた島津方の者をいったん戻し、豊前から呼び寄せ次第さらに送ると伝える。表向きは逼塞して龍伯・少将から言上してもらうのがよいと助言し、井伊直政・山口勘兵衛と相談して上方での取りなしに尽力すること、立花左近への使者筋も活用することを述…
後編3-No.1290 島津義弘(惟新)書状
本文はNo.1278と同文のため省略され、日付のみ十一月十九日と記される。濃州表以来供をした者たちへの知行目録を送り、龍伯の了承を得て各人へ渡すよう命じた書状である。
後編3-No.1291 北郷久観譜
北郷源左衛門久観の譜記事。慶長五年十一月、島津忠恒(家久)から余地三百石を与えられ、その正文を次に掲げると記す。
後編3-No.1292 平田増宗・鎌田政近連署宛行状
平田増宗・鎌田政近が連署し、北郷久観の累代の忠節と今度の戦功を賞して、山田のうち三百石を宛行う。目録を別紙とし、北郷次郎が若年であるため家老として忠節を尽くして北郷家を存続させ、島津家への奉公に努めるよう求める。
後編3-No.1293 島津忠長外三名連署新知目録
島津忠長・平田増宗・鎌田政近・比志島国貞が連署し、日向国諸県郡庄内山田村の薄谷・黒池・市蘭・山菅・牧野・小牟礼・是井・下権屋など、合計九百九十九石七斗四升四合を北郷久観への新知として示す。田畠を親疎なく公平に分け取るよう命じる新知目録である。
後編3-No.1294 鎌田政近・平田増宗連署宛行状
鎌田政近・平田増宗が連署し、庄内を北郷氏の旧領として返還する一方、島津方が出馬し奮戦した志和池・山田・野々見谷は残したと説明する。土持重綱の忠節と北郷家老としての功績を賞し、山田のうち三百石を宛行い、今後も忠貞を尽くして家を支えるよう命じる。
後編3-No.1295 島津忠長外三名連署新知目録
島津忠長・平田増宗・鎌田政近・比志島国貞が連署し、庄内山田村の薄谷・黒池・市蘭・山菅・牧野・小牟礼・是井・下権屋および上中原・瀬戸口・牛谷など、合計三百石を土持重綱への新知として示す。田畠を親疎なく公平に分け取るよう命じる。
後編3-No.1296 立花尚政宗茂書状
立花尚政が、島津方から重ねて二人の使者が来たため、その口上を黒田如水・加藤清正へ伝え、返答は使者に託したと報告する。井伊兵部へ使者を上せた旨も両者へ伝え、先勢が退いて上洛した情勢を踏まえ、図書頭らを上洛させ、黒田・加藤からも井伊へ申し上げる形がよいと提案する。
後編3-No.1297 立花尚政書状
立花尚政が島津忠長に対し、重ねて派遣された二人の使者の口上を黒田如水・加藤清正へ伝え、井伊兵部にも使者を通じて申し入れたため、先勢は退いて一同上洛したと報告する。忠長も上洛し、黒田・加藤から井伊へ申し上げてもらうのがよいと勧め、黒田の書状を持つ飛脚を水俣へ陸路で送り返すよう依頼する。
後編3-No.1298 黒田如水(円清)書状
黒田如水が、立花左近の申し入れにより派遣された二人の使者の口上を了承したと伝える。当初、加藤主計頭が軍事行動を起こす予定だったが、井伊直政・山口勘兵衛を通じて釈明することになったため行動を止め、同道して上洛するとし、上方での取りなしに疎意なく尽力すると保証する。
後編3-No.1299 北郷忠能譜
北郷忠能の譜は、庄内を元祖資忠以来の旧領として返還され、志和池・山田・野々見谷も代々の忠節と忠真退治の軍功により宛行われた経緯を記す。先に与えられた七か所と合わせ十か所・四万四千三百余石となり、家老四名へ各三百石を配分した。一族・家臣は喜び、都城を去って庄内へ移った。