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後編3の目録
旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。
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後編3-No.1300 島津忠恒(家久)宛行状
島津忠恒(家久)が北郷忠能に対し、庄内を譜代の地として返還し一万石を加増するとともに、志和池・山田・野々見谷を今度の軍功と十三代にわたる忠節への賞として宛行う。領地を全うして忠勤を尽くし、若年の忠能を家老衆が念入りに補佐するよう命じる。
後編3-No.1301 本田少吉書状
本田少吉が勝一郎へ、扶持に関する音信がなく心細いこと、自身も山口勘兵衛方でいまだ堪忍して助丞の上洛と返事を待っていることを伝える。旅庵と狭い宿で寒さに難儀している近況を述べる一方、川上四郎兵衛・助七・久右衛門・東郷源六・進牟木彦兵衛らが無事であると知らせ、助丞が上洛すれば自分たちの下向も可能になるの…
後編3-No.1302 新納新八郎外十名銀子借用証文
新納新八郎ら十一名が、用に備えて銀子一貫目(うち七匁不足)を借用したことを証する。利子について配慮を受けたことに謝意を示し、本銀は各人が国元へ下る次第、早々に返済すると約束する連署借用証文である。
後編3-No.1303 殉国名薮
慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦を中心に、島津豊久・長寿院盛淳をはじめ島津勢の戦死者・殉死者を多数列挙する殉国者名簿である。九月十八日・二十三日、十月四日・二十三日など後続の日付の戦死者も追記し、各人の実名・役職・家臣や従者、戦死地・法名等を注記する。
後編3-No.1304 山田晏斎覚書
山田晏斎が慶長五年九月十一日に出立し、浜之市衆約三十人を伴って十三日に大垣へ着いたことを記す。国元から来た乗馬衆・指物本鉄砲衆・小指物衆について、従来どおりの道具を調え、道中の備えとして参陣した。
後編3-No.1305 山田晏斎覚書
島津義弘(惟新)・豊久が大垣城外の陣屋にいる際、石田三成が来訪して同席していた。参着した者たちが順に目見えし、赤崎丹後について義弘が国元で武功を立てた者だと紹介すると、石田三成は十分に働いて討死せよと激励した。
後編3-No.1306 山田晏斎覚書
翌十四日、島津義弘(惟新)・豊久らが空き屋敷の材木を利用して梁に足場を設け、上から赤坂方面の陣容を見物した。自軍の人数を確認するため各人に茅一葉ずつ取らせて数えたところ、三百八十人であったと記す。
後編3-No.1307 山田晏斎覚書
石田三成の軍勢が赤坂の敵軍と交戦し、敵およそ三十人を討ち取ったとの注進が石田方から届いたことを記す。
後編3-No.1308 山田晏斎覚書
赤坂方面を望見した屋敷から陣屋へ戻った後、日没頃に関ヶ原方面へ陣替えした。夜に雨が降るなか、浜之市衆は島津豊久の手勢に付属するよう命じられ、備えに入ったことを記す。
後編3-No.1309 山田晏斎覚書
十五日未明に関ヶ原へ着陣し、地形を見て配置を定め、夜明けに島津豊久の備えを整えたことを記す。
後編3-No.1310 山田晏斎覚書
十五日早朝、後方ではすでに内府勢と戦闘になったとの報が入り、辰巳の刻頃に本戦になると見込まれたが、雨天と深い霧のため周囲を細かく見通せなかったと記す。
後編3-No.1311 山田晏斎覚書
敵が迫ったため亀井武蔵から鉄砲衆の加勢を求められ、浜之市衆らを派遣した。しかし到着する頃には味方勢が崩れており、後に亀井武蔵には野心があったと聞いたことを記す。
後編3-No.1312 山田晏斎覚書
石田三成が八十島助左衛門を使者として島津勢に敵へ押し寄せるよう求めた。島津豊久は各々が手柄次第に働くべきで石田方も同様に心得るよう答えた。石田は了承して戻ったが、まもなく軍勢が崩れ敗走した。
後編3-No.1313 山田晏斎覚書
戦闘前に大谷吉継の陣が筑前中納言小早川秀秋に攻め破られた。同じ頃、島津陣の近くを二騎の馬武者が通過し、敵かとして討とうとしたところ、先へ行けば敵味方が分かると答えて通り過ぎた。後に大谷陣攻略を東軍へ知らせる使者だったのだろうと推測する。
後編3-No.1314 山田晏斎覚書
敵勢が迫る前、島津方は敵を十分近くまで引き付けて戦うよう下知し、鉄砲を前方から撃たせず温存した。島津豊久が騎乗し、一斉射撃後は敵味方が入り乱れて鉄砲が使えず、刀を抜いて接戦となり、識別の合言葉さえ混乱したと記す。
後編3-No.1315 山田晏斎覚書
島津豊久が先行したため、山田晏斎は義弘の所在を探して合流し、わずかな供人数で従った。敗走する味方を追う敵勢の間を抜け、徳川家康本陣が進路へ向いた危険な状況も通過し、駒野へ出た後、大垣城籠城を避けて伊勢路へ向かう方針を定めた。
後編3-No.1316 帖佐宗辰覚書
帖佐宗辰は、徳川家康が上杉征討で関東へ出陣中に石田三成が反乱し、西国大名を動員した経緯を記す。島津義弘(惟新)は家康と事前に申し合わせがあったため石田方への加担をためらったが、供人数不足でやむなく石田方に属し、伏見城の鳥居元忠攻撃に参加した。
後編3-No.1317 帖佐宗辰覚書
鳥居元忠を攻め滅ぼした後、石田三成は家康の帰還を見越して美濃へ進み、大垣に布陣した。島津義弘(惟新)も陣を置いたが、偵察兵から家康軍が野山を埋める大軍だとの報告を受け、西軍敗北を予測する。十四日夜、大垣に少人数と火縄・竹を残して大軍に見せかけ、関ヶ原へ退いて陣を取った。
後編3-No.1318 神戸久五郎咄覚
国元から島津義弘(惟新)の陣へ後詰衆が多数到着した際、河田源兵衛と野村弥次郎が曽根の先手で敵を誘い出して交戦し、源兵衛が目立つ騎馬武者を鉄砲で射落とした。本田伊賀守も加勢し、翌朝、石田三成は若年の源兵衛の手柄を賞して腰物を与え、義弘も本田伊賀守へ腰物を与えた。
後編3-No.1319 神戸五兵衛覚書
井尻弥五助が島津方の書状と孔雀の尾羽二羽を徳川家康へ届け、良い返事を得た。帰路、水口で厳重な検問を予想して書状を焼き判だけを隠したが、不審者として二十日間拘留された。伊勢参詣と島津義弘(兵庫頭・惟新)の家臣松岡勝兵衛との関係を説明して釈放され、拘留に耐えた奉公を賞され、のち伏見城攻撃でも働いた。
後編3-No.1320 神戸五兵衛覚書
伏見城落城後、島津義弘(惟新)一行は大津から船で佐和山へ向かったが大風で八幡山に宿泊し、翌日佐和山、続いて垂井を経て大垣へ入った。曽根を先手とし、河渡の守備兵が東軍に破られて大垣へ追い込まれ、岡山にも東軍が陣取ったため、味方が後手にならぬよう関ヶ原へ出て一戦する方針を定めた。
後編3-No.1321 神戸五兵衛覚書
島津義弘(惟新)は大垣在陣中、石田三成から洲俣渡口の警備を求められ、渡河して一泊した。岐阜城方面の砲声と火災を確認後、石田との談合に少人数で出向くが敵が近く、後続も義弘を追った。黒具足の武者が迫るなか矢野主膳の退避連絡を受け、木脇休作らは舟で洲俣を渡って義弘のもとへ急行した。
後編3-No.1322 神戸久五郎覚書
洲俣警備で島津義弘(惟新)は川の徒渉可能地点を裸の道具衆に調べさせ、竹を立てて安全な渡河線を示した。竹より下流は淵で危険なため、緊急時には竹より上流を人馬とも渡るよう命じ、対岸へ渡って洲俣に一泊した。
後編3-No.1323 神戸久五郎覚書
洲俣対岸の桑木の中が敵で占められるなか、後続の舟が沈んで二人が死亡した。乗馬衆は前日に義弘が竹で示した徒渉線を渡り、押川郷兵衛が対岸を偵察して敵を討ち取る。翌朝、石田三成はこれを大垣での太刀初めの手柄として賞し、大判一枚を与えた。
後編3-No.1324 某覚書
慶長五年九月十四日晩、石田三成ら西軍が大垣城に籠もって家康の上洛を阻もうとしたが、家康本隊が京都方面へ直進するとの報を受けた。城に守備兵を残し、義弘ら西軍は夜中に大垣を発って南宮山麓を通り関ヶ原へ出陣した。終夜の大雨で鎧も手足も凍え、夜明けに火で暖を取った。
後編3-No.1325 神戸久五郎覚書
九月十四日夜、西軍諸大名が大垣を発って関ヶ原へ向かった。大垣城には福原右馬助をはじめ、相良左兵衛・長井和泉・秋月長門・高橋左近・熊谷内蔵丞の六名を守備として残し、夜のうちに関ヶ原へ到着して陣を取った。
後編3-No.1326 伊地知増也覚書
伊地知増也覚書は、九月十五日未明に赤坂を発った徳川家康が野上と関ヶ原の間に本陣を置き、旗本まで十六段の備えを構成した東軍軍法を記す。左右両翼と一番から十番までの諸将を列挙し、抜け駆けを禁じ、使番が巡回して軍法を徹底した。総勢七万五千三百三十騎とする。
後編3-No.1327 伊地知増也覚書
同十五日の西軍配置を記し、南宮山から伊吹山麓まで白旗・赤旗が連なり、総勢十一万八千六百八十騎とする。六十余州を二分する未曽有の合戦として、その軍容を周の武王の牧野の戦いや呉越の戦いにも勝ると形容する。
後編3-No.1328 伊地知増也覚書
慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦について、朝霧の中での物見の遭遇から東西両軍の布陣、福島正則勢を先頭とする攻撃、西軍諸隊の応戦を叙述する。徳川家康方の総攻撃、小早川秀秋らの内応による大谷吉継勢の崩壊、平塚為広らの戦死を経て西軍が敗走し、島津義弘(惟新)・豊久勢が包囲を突破して伊勢方面へ退いた経過を記す…
後編3-No.1329 黒木左近兵衛申状
関ヶ原合戦当日の深い霧の中、島津勢が二備で敵を待ち、赤崎丹後の進言により敵を十分引き付けて一斉射撃したのち乱戦となったことを述べる。山田有栄らは島津豊久(中務大輔)の所在を求めて馬印を見付け、少人数となった島津義弘(惟新)勢に合流し、木脇刑部左衛門らと敵を防ぎながら約一里を切り抜けた。
後編3-No.1330 神戸五兵衛覚書
九月十四日夜に大垣を発し関ヶ原へ着陣したのち、小早川秀秋勢の横撃で大谷吉継勢が壊滅し、宇喜多秀家・石田三成両陣も崩れた経過を記す。島津義弘(惟新)は押し寄せる敵の中央を突破し、大垣へ戻ろうとしたが本丸の火を見て断念し、南宮山から駒野坂、近江・伊賀・大和・河内・和泉を経て帰国した。
後編3-No.1331 神戸五兵衛覚書
関ヶ原で大谷吉継・宇喜多秀家・石田三成の諸陣が崩れ、敵が島津陣へ迫った際の木脇休作の働きを記す。休作は拝領の長刀を手に「島津兵庫頭内之小弁慶」と名乗って敵中へ切り入り、多数を討って島津義弘(惟新)の側へ戻った。山田有栄・木脇刑部左衛門らと退却を支え、信楽でも危機を切り抜け、七か国を通って帰国するまで…
後編3-No.1332 神戸久五郎覚書
大垣出陣から関ヶ原の敗戦、島津義弘(惟新)勢の敵中突破と退却を詳述する。義弘勢は約五十人に減り、具足の装飾や馬印を捨てて敵騎馬隊を正面突破し、大垣城の火を見て帰城を断念した。南宮山の長宗我部陣へ伊勢平左衛門を使者として送り、その後は駒野坂・土山・伊勢関・信楽方面を経て退いたこと、後醍院喜兵衛が大黒の…
後編3-No.1333 神戸久五郎覚書
島津義弘(惟新)が関ヶ原から退く途中、南宮山に陣取る長宗我部長宗新へ、高麗以来の親交を重んじて伊勢平左衛門を使者に送った経緯を記す。長宗新は別心がなく今後も義弘を助けると返答した。その後、義弘一行は駒野坂から土山へ進み、京都方面を避けて伊勢関・信楽方面へ退いた。
後編3-No.1334 旧伝集
旧伝として、後醍院喜兵衛が出陣時に携えた大黒の向きから吉方を占い、関ヶ原退却時の島津義弘(惟新)に伊勢路を進むよう進言した話を収める。あわせて慶長五年の書状記事として、薩摩へ向かった又介を三か村付近で密かに捜索し、発見時には討ち果たすよう命じた内容を記す。
後編3-No.1335 山田昌巌書状
山田昌巌が木脇刑部左衛門の求めに応じ、その父が関ヶ原合戦で挙げた戦功について回答する。昌巌自身の見聞に加え、黒木左近兵衛から聞いた話として、木脇刑部左衛門が長刀を持ち名乗りを上げて敵を討ち、島津義弘(惟新)の退却にも従った働きを証言する。
後編3-No.1336 山田昌巌書状
山田昌巌が、先日の二度の訪問で面会できなかったことを詫び、約束していた関ヶ原合戦時の相手方の父の戦功に関する書付を別紙で送る旨を伝える添状。
後編3-No.1337 島津義弘(惟新)書状
島津義弘(惟新)が、濃州表の戦場以来そばを離れず国元まで供をした者たちへの褒賞として、少分ながら知行を与えるため知行目録を送る。龍伯の了承を得たうえで各人へ渡すよう山田民部少輔に命じる。本文はNo.1278と同文のため省略され、日付のみ十一月十九日と注記される。
後編3-No.1338 島津義久譜
島津義弘(惟新)が伏見城入城を再三求めたものの拒まれ、身を守るためやむなく石田三成方に従った事情を島津義久(龍伯)が酌量した経緯を記す。関ヶ原敗戦後に鞍馬山へ潜んだ新納旅庵・本田助丞も、山口直友の取り調べで同じ事情を説明し、徳川家康が義弘の不得已を認めたため、井伊直政・本多正信らが和議と上洛謝罪を仲…
後編3-No.1339 山口直友書状
山口直友が島津方の書状と二使の口上を受け、井伊直政と相談して取り次いだことを報じる。島津父子に返答を承引し、早々に上洛して徳川家康へ礼を述べるよう促し、その際は井伊直政とともに尽力すると約し、和久甚兵衛に詳細を含ませた。
後編3-No.1340 某覚書
九月十五日の関ヶ原で東軍が迫り、宇喜多勢の敗走、大谷勢と東軍の攻防、小早川秀秋の帰順による大谷勢壊滅を経て島津義弘(惟新)が敵中へ切り込むまでを記す。義弘は長宗我部陣へ使者を送り、馬印・相印を捨てて東軍の大勢を突破した。後醍院喜兵衛が敵方の乗物へ島津義弘(惟新)の名を告げ、再会の証拠として命を助けた…
後編3-No.1341 黒木左近兵衛申状
駒野近くで桂太郎兵衛と山田有栄が島津義弘(惟新)勢の殿を務める役を争った際、大野弥三郎が自ら引き受け、敵が来れば討死して時間を稼ぐと申し出た。のちに山田・桂の両名が追い付き、翌日からは一日交替で先導と殿を務め、道中の盗賊に備えた。
後編3-No.1342 黒木左近兵衛申状
駒野を出て二日ほど後、疲労した供衆のため一人を先行させて食事を求めた。村人が家を空けて避難していたため、村から下ろした黒米で旅籠の食事を調え、供衆が庭で食したことを記す。この時は路銀がなかったとも伝える。
後編3-No.1343 黒木左近兵衛申状
山田有栄が金丸抜きの差刀から金具を外し、刀の鞘を紙縒りで巻いてなめし革の引籠に納め、帰国するまでその姿で帯刀して島津義弘(惟新)に供奉したことを記す。
後編3-No.1344 平山九郎左衛門申状
関ヶ原の大軍乱戦中、川上四郎兵衛が味方の手勢から離れ、井川の飛び石を渡って退いた際、若い家臣が付き従ったものの再び離散したため、合戦の詳しい様子を知らなかったと述べる。
後編3-No.1345 平山九郎左衛門申状
敵味方が合戦に入る前から鬨の声がたびたび上がり、島津方の鬨の声は高橋喜兵衛を先頭に発したと記す。
後編3-No.1346 平山九郎左衛門申状
二匹の白狐が島津陣前の池を渡って敵勢の方へ向かい、ほどなく草原を通って戻ったため、将兵が合戦の吉凶を案じたという記事。
後編3-No.1347 平山九郎左衛門申状
開戦前、長野勘左衛門が敵勢へ切り込み一人を討ち、その首を携えて川上四郎兵衛のもとへ戻り、本日の討初めであると報告した。その後、長野勘左衛門はほどなく討死したと記す。
後編3-No.1348 平山九郎左衛門申状
戦場が乱れる中、川上四郎兵衛が毛利覚右衛門に、殿様の行方について申し合わせたいと伝えたところ、覚右衛門は直ちに参ると答えて敵勢へ切り込んだ。申述者は覚右衛門が小岡を越えて駆け込むところまで見届け、ほどなく討死したであろうと推定している。
後編3-No.1349 平山九郎左衛門申状
井伊直政(原文は「伊井掃部殿」)を、川上四郎兵衛の配下で源藤という者が鉄砲で撃ったと伝えるが、申述者自身は確実には知らないとする短い証言。源藤の姓は記されていない。
後編3-No.1350 平山九郎左衛門申状
伊勢平左衛門が采配を振って指図する間、島津の供衆が鉄砲を撃ち、ほかの者が弾薬を込めて追撃する敵を防いだことを記す。その間に島津義弘(惟新)が退却の支度を整え、身を隠すための装いを用意したとする。
後編3-No.1351 山田晏斎覚書
島津義弘(惟新)勢が四国衆の陣を通過する際、敵味方の別が定かでない長宗我部らへ伊勢平左衛門を使者として送り、島津勢が退却中である旨を伝えた経緯を記す。使者は相手が逆心ならその場で討死する覚悟で臨み、陣中の者は立ち向かわず、後醍院喜兵衛も敵方の者に再会の証拠として命を助けると告げた。
後編3-No.1352 山田晏斎覚書
駒野で島津義弘(惟新)が花色の木綿衣を着け、同色の手拭で髪を包み、矢野主膳が用いた鞍に敷き替えて馬に乗ったことを記す。伊勢平左衛門が先導し、山間の道を夜通し進んで住吉へ至った。大坂屋敷にいた相良日向・吉田美作入道・新納孫右衛門・上原右衛門佐らも船で兵庫へ追い付き合流した。
後編3-No.1353 山田晏斎覚書
長東殿が島津義弘(惟新)勢の道案内として騎馬の者一人を付け、その者が一夜にわたり案内を務めたことを記す。
後編3-No.1354 山田晏斎覚書
退却路で出会った者が、主君とはぐれた身であり、好敵手と戦って討死しようと考えていたが、立ち向かう者がいなかったため、そのまま一行とともに道を通過したと述べる。
後編3-No.1355 山田晏斎覚書
島津義弘(惟新)が住吉へ出た際、同行した供衆は大坂の島津屋敷へ向かい、屋敷の警護・番を務めることになったと記す。
後編3-No.1356 山田晏斎覚書
大坂の島津屋敷に国分様と宰相殿が滞在しており、宰相殿の下向について準備を整えて大坂から船出したことを記す。国分様も同行して下向することとなり、お松という女房衆も関係した。
後編3-No.1357 山田晏斎覚書
大坂から秋月殿の奥方が島津方と同行して下向し、日向国美々で島津義弘(惟新)の宿所から塩が出されるのを見たことを記す。
後編3-No.1358 某覚書
伊賀国信楽付近で法師武者が小弓で島津義弘(惟新)を射ようとした際、木脇休作が駆け寄って弓矢を奪い、相手を追い払った。夜間には道を求めて民家へ入り、住人を案内人として同行させ、食料や干柿を調達しながら危険な山道を進んだ経過を記す。
後編3-No.1359 神戸久五郎覚書
信楽から和束・大和・河内・和泉方面へ退く過程を詳述する。道案内や食料を求め、住民を説得・拘束して山道を進み、夜間の追跡や盗賊を避けた。和束では知人の助力を得て一行をまとめ、道中の危機を切り抜け、国分城で迎えを受けた。帰国後、随行した者には感状と知行が与えられた。
後編3-No.1360 神戸五兵衛覚書
住吉の築地内で島津義弘(惟新)が退路がないとして切腹を決意し、供衆に暇を与えたが、供衆は来世でも供をするとして各所で切腹の相談を始めた。本田源右衛門の使いによりいったん中止し、大坂から御上様・宰相殿が無事との報が届いたため、供衆は大坂へ向かって屋敷の警護と人質解放の手続きを行った。
後編3-No.1361 大重平六覚書
九月十四日の大垣出陣から関ヶ原合戦、島津義弘(惟新)勢の敵中突破と帰国までを詳述する。大谷吉継勢の崩壊後に東軍を切り抜け、大垣の火災を見て伊勢路へ向かい、横山久内が義弘の鎧を着て運んだ。信楽・平野・住吉を経て船に乗り、豊後沖では黒田方の兵船と戦って死傷者を出したが、細島・佐土原などを経て十月二日に帖…
後編3-No.1362 大重平六覚書
島津義弘(惟新)の鎧を横山久内が大垣まで着けて運び、その後、京都の愛宕へ祈願のため奉納したことを記す。
後編3-No.1363 大重平六覚書
島津義弘(惟新)の青毛の馬は「紫」といい、堺の住吉大明神へ奉納されたことを記す。
後編3-No.1364 神戸休五郎覚書
島津義弘(惟新)が桂太郎兵衛を通じ、これ以上退く場所がないため内で切腹し、供衆には暇を与えると伝えた。供衆は関ヶ原以来の奉公を挙げ、外で切腹して来世でも供をすると答え、五人・三人ずつ介錯の相談を始めた。本田源右衛門の使いで、事情を見定めるまで切腹を止めるよう命じられた。
後編3-No.1365 神戸休五郎覚書
大坂へ送った山廻りが戻り、御上様と宰相殿が無事との報が届いたため、島津義弘(惟新)は切腹を中止して退却を続けることにした。多人数では忍行できないとして、少数だけを住吉に残し、ほかの供衆には大坂へ赴いて両人に奉公するよう命じ、涙ながらに別れた。
後編3-No.1366 神戸休五郎覚書
住吉に残った供衆が田那辺屋道与への相談を検討し、もし公方へ密告すれば道与を討って義弘が切腹すると決めた。道与は義弘の生存を喜び、自宅へ迎えて薩摩まで送ると申し出た。船を持つ塩屋孫右衛門も協力し、逃走用の船を手配した。
後編3-No.1367 神戸休五郎覚書
島津義弘(惟新)が堺にいると聞いた船頭の東太郎左衛門が、大坂川口から夜中に兵船で迎えに向かった。船頭・水主が眠り込んで洲に乗り上げたが、松のある地形から住吉近くと判断して船を立て直し、堺の道与宅へ到着した。義弘一行はこの船に乗り込み出帆した。
後編3-No.1368 帖佐宗辰覚書
九月十五日申刻頃、島津義弘(惟新)以下が飢えていたため、本田源右衛門が京都に詳しい帖佐宗辰へ五十人分の食事調達を命じた。宗辰は村で不穏な相談を聞き、島津方の指物を見付けて本隊を追ったが、村人に襲われて切り抜ける過程で従者五人のうち三人が戦死し、二人が行方不明となった。
後編3-No.1369 帖佐宗辰覚書
十六日、帖佐宗辰は相模国の者を装い、石田方の敗兵を追って道に迷ったとして、村の亭主に五十人分の粥を頼んだ。島津義弘(惟新)を柴籠の陰に隠して座敷を避け、供衆を通常の一行のように見せ、粥ができると全員で食し、所持する銀子一枚を礼として渡した。
後編3-No.1370 帖佐宗辰覚書
同日夕方、退路を知る者がなく進路を評議した。伊吹山へ入る案に対し、伊勢平左衛門らは落人が山へ向かうことは敵も予想するとして、かえって海道を進む案を示した。島津義弘(惟新)は道筋を進み、危難に遭っても運命の尽きる時だと覚悟を述べ、海道退却を選んだ。
後編3-No.1371 帖佐宗辰覚書
伊勢国境へ向かう道を知る者がなく、関所も多いため、一行では切腹の時機まで議論された。帖佐宗辰は在所の者を案内人に求めるよう進言し、捕らえた道行人に一部を案内させた。案内人が先を知らないと辞退したため、伊勢平左衛門が交替して案内人探しに向かった。
後編3-No.1372 帖佐宗辰覚書
案内人が見つからない折、萩の中から現れて南へ歩く狐と、畑から南へ飛ぶ鳩を、源氏の氏神が帰国路を示した徴と受け止め、三度拝して道案内を祈った。南へ進むと、白髪・白髭で大小の刀と鉈を帯びた在所の男に会い、身分を隠して紀伊国の者と称し、伊吹山下の道を聞いた。妻子を先へ遣ったとして同行を断られると、刀を抜き…
後編3-No.1373 帖佐宗辰覚書
案内人の名を文右衛門といい、関ヶ原山中から摂津国境の堺浦まで島津義弘(惟新)一行を導いた。義弘は古木綿の道服と破れた菅笠で下人に変装し、粗末な食事や絶食に耐え、山坂を徒歩で越えた。文右衛門は木を切り渡して道を作り、十九日夕方に堺浦へ着くと過分の銀子を与えられて帰された。
後編3-No.1374 帖佐宗辰覚書
関ヶ原敗戦後、大坂で囲われた御前様・御懐様・宰相様について、真言宗僧の仙秀坊が奉行所へ働きかけ、御免書を得て下向の準備を整えた。立花飛騨守の助力で九月十九日夜に出船する予定のところ、堺へ到着した島津義弘(惟新)から川口で待つよう連絡があり、立花も同行して川口へ下り、義弘の船へ乗り移って帰国した。
後編3-No.1375 帖佐宗辰覚書
関ヶ原の乱戦後、島津義弘(惟新)が一行に鎧を脱ぐよう命じたが、帖佐宗辰は義弘の危機に備えて鎧を残し、愛宕大権現へ無事帰郷後の奉納を誓った。甲・小具足だけを捨て、堺浦まで鎧を着て供奉し、船に乗せて持ち帰った。
後編3-No.1376 帖佐宗辰覚書
慶長十四年頃、関ヶ原で案内した文右衛門が馬の爪打二つを島津義弘(惟新)へ進上した。義弘は文右衛門を加治木へ召し、一つは本人へ返す旨を示したうえで、助宗作の品二つを褒美として与えた。
後編3-No.1377 帖佐宗辰覚書
慶長十六年夏、文右衛門が島津義弘(惟新)存命中に再会したいとして薩摩へ下り、帖佐宗辰に取り次ぎを頼んだ。本田源兵衛を介して上聞に達し、義弘は文右衛門を召して関ヶ原当時を語り、加治木に留めて饗応した。文右衛門は入道して「一作」の名を与えられ、褒美を受けて帰った。
後編3-No.1378 伊地知増也覚書
関ヶ原敗戦後、島津義弘(惟新)は約五十人で敵中を突破し、十五日夜に甲賀で老翁を道案内に立てた。伊賀・上野を経て村人の襲撃を退け、十七日に奈良、同夜に堺へ着いて入江孫右衛門宅に入り、船で脱出した。大坂から田辺道与が逃した夫人らとも沖で合流し、九月二十三日には日向沖の海上に現れた多数の火を稲荷大明神の加…
後編3-No.1379 伊地知増也覚書
福島正則が島津方のため徳川家康へ詫言を申し入れ、島津義弘(惟新)が赦免されたことを記す。島津忠恒(家久・中将)は十月八日に上洛したが、家康の下向に伴って大坂に逗留したとする。
後編3-No.1380 伊地知増也覚書
同年十二月二十日、徳川家康が上洛し、伏見へ到着したことを記す。
後編3-No.1381 伊地知増也覚書
慶長八年正月一日、伏見で諸大名による年始の御礼が行われたことを記す。
後編3-No.1382 伊地知増也覚書
慶長八年十二月八日、徳川家康が大坂へ下向し、同九日に御鷹二連・御馬一疋・銀子千枚が贈られ、本丸で饗応を受けた後、二の丸へ戻り、翌十日に伏見へ帰城したことを記す。
後編3-No.1383 伊地知増也覚書
三月十三日、島津忠恒(家久)が伏見へ参仕し、十五日に御礼を申し上げて暇を賜り大坂へ下った。十九日に豊臣秀頼へ召し出され、二十三日に帰国へ向けて出船した。
後編3-No.1384 今井松関願書
関ヶ原敗戦後、伊勢平左衛門から島津義弘(惟新)の所在を聞いた今井道与は、住吉辺に潜む義弘を迎えて自宅で休ませ、厳しい落人改めを避けて夜に堺の塩屋孫右衛門宅へ移した。大坂川口の通行手形や船を手配し、義弘の船と夫人方の船を沖で合流させて帰国を助けた。この忠節により後に千石・無役を約されたと訴える願書であ…
後編3-No.1385 雑抄
別説として、山田弥九郎と赤崎丹後は関ヶ原で島津義弘(惟新)と別れ、敵中を突破した。島津豊久(中務大輔)が乗ったと思われる血染めの馬を見て戦死を疑い、一度敵中へ引き返したが、一本杉の馬印を見つけ、義弘がなお無事と悟って敵を切り抜け、ようやく供奉したと伝える。
後編3-No.1386 瀬戸口休五郎覚書
関ヶ原から大坂へ戻る人々の中で、瀬戸口休五郎は黒具足を着て大枝を杖にする大男を見かけた。姿が父に似ているため互いに確かめ、父子は手を取り合って長屋の二階へ上がった。戦死を覚悟していた親子・家族は、思いがけない再会を夢のようだと喜び、涙を流した。
後編3-No.1387 瀬戸口休五郎覚書
島津方の人質を退去させる手形がないため、使僧を大坂城へ遣わした。仙秀坊は島津義弘(兵庫頭・惟新)が豊臣秀頼のため関ヶ原で戦死したと申し立て、人質を国元へ下すよう求め、返答が出るまで一日一夜城に詰めて手形を得た。出立時には後に残る者が必要となり、山田弥九郎が残留を申し出た。
後編3-No.1388 瀬戸口休五郎覚書
松岡勝兵衛は、伏見籠城時の恩や関ヶ原で子まで伴ってもらった恩を理由に、島津義弘(惟新)がどこへ向かっても供奉すると述べた。家族は七反帆の船を用意し、大坂の番所を通過して泥雨の中を船着場へ急いだ。馬を買い取り、豪雨で諸船が浮いた機を得て出船した。
後編3-No.1389 瀬戸口休五郎覚書
兵庫沖で、堺方面から赤幕を掲げた高速船が近づいたため敵船を疑い鉄砲を構えたが、木脇休作・矢野弓次を認めて島津義弘(惟新)の船と判明した。松岡勝兵衛が小早で義弘船へ移ると、義弘は浅黄の手拭で頭を包み屋形におり、再会を喜ぶ一同は涙を流した。その後、勝兵衛は本船へ戻り船団に続いた。
後編3-No.1390 瀬戸口休五郎覚書
島津義弘(惟新)の指示で船中の者を夫人方の御座船へ移した。豊後国森江の口では有川助兵衛の船が番船に囲まれ、別船が救援に戻って鉄砲戦となったが、多勢に抗しきれず有川助兵衛・伊集院左京らが討死し、船二艘も焼かれた。他の船は細島へ向かい、義弘一行はほどなく上陸した。
後編3-No.1391 瀬戸口休五郎覚書
森江の船で御上様の乗物を焼き捨てていたため、細島に上陸して出立する際、代わりの乗物に事欠いた。語り手の母が持参した乗物を借りることとなったが、父は自家の女房の駕籠を御上様に差し上げるのは畏れ多いとためらった。細島にほかの乗物がないため供用し、御上様は「日州八代」まで使用した。八代に迎えの乗物が到着す…
後編3-No.1392 瀬戸口休五郎覚書
日州飫肥の稲津掃部が佐土原城を攻めたという知らせを受け、御上様・宰相殿は八代へ直行し、義弘は佐土原を見舞った。佐土原では島津源七郎が出迎え、八代で一宿した夜には宿の近くの放火者を討ち取った。語り手は父と暇を賜って真幸海道を進み、義弘は浜之市へ向かい、義久に対面するため出立し、帖佐へ着いたと記す。語り…
後編3-No.1393 瀬戸口休五郎覚書
松岡勝兵衛は伏見で三百石を約束されていたが、帰国後は五百石を与えられ、奉公したことを記す。
後編3-No.1394 瀬戸口休五郎覚書
上方勢の下向が噂されたため、島津義弘(惟新)を蒲生城へ籠める案が立ち、城の守備や矢倉の担当が協議された。松岡勝兵衛は塩井戸口北の尾崎の矢倉を預かり、籠城時には番を務める予定とされた。
後編3-No.1395 樺山紹剣自記
上方からの早打や関ヶ原敗報で情勢悪化を察した樺山紹剣は、九月末に佐土原へ急行した。逃散する住民が多く、稲津掃部・伊東方の動向も不穏なため、高崎越前守・三原仲右衛門らと城の守備を相談し、城外の屋敷を取り払うなど籠城準備を進めた。伊東勢が宮崎城を攻略し佐土原へ寄せるとの報に、御上様(島津義弘夫人)へ、敵…
後編3-No.1396 上野隼人覚書
慶長五年の関ヶ原敗戦後、須木衆は島津方を迎えて日向へ進み、十月朔日に紙門寺を攻めた。俵屋原弥介との戦いでは十九歳の村尾長介と二十歳の上野彦九郎が負傷しながら敵を討ち、村尾笑栖が若者の働きを称えた。その後、上野隼人は細島で島津義弘(惟新)へ拝謁し、鹿児島清水で弓の技を披露した。
後編3-No.1397 貴島柳右衛門書状
貴島柳右衛門が北野郷右衛門に宛て、関ヶ原でその父が戦死する場面を確かに見届けたと知らせた書状。父は馬上で敵を前に笑い、関東勢へ駆け込んで数本の鑓で二、三度突き上げられた。井伊兵部の備えと思われ、柳右衛門は戦死に疑いがないと証言している。
後編3-No.1398 戦場供衆人数書上
関ヶ原からの退路で島津義弘(惟新)に供奉した人々を、戦場御供衆・御道具衆・御小者・御鳥取などに分けて列挙した人数書上。伊集院半五郎、山田民部少輔、伊勢平左衛門、帖佐彦左衛門、木脇久作ら多数の名を収録し、張紙では慶長五年の関ヶ原退却時に路次を違わず供奉した人数と説明する。
後編3-No.1399 新納忠元勲功記
新納忠元の勲功記から、慶長五年の庄内合戦終結、伊集院忠真の降伏、上杉征討、岐阜城・竹ヶ鼻での石田三成方の敗北、関ヶ原本戦と島津義弘(惟新)の敵中突破・退却、大坂の夫人方救出と海路帰国を詳述する。帰国後の稲津掃部の動きや伊東方への備え、肥後の加藤清正への警戒、大口の地頭職と千石加増までを時系列に記録す…