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後編3の目録

旧記雑録 文禄5年~慶長9年の文書・記事です。

全1,990件中 101~200件・2 / 20ページ

  1. 後編3-No.101 小西行長書状

    小西摂津守行長が羽兵(島津義弘)へ、朝鮮使が一昨日到着し、来る二十五・六日に勅使および朝鮮人との対面が予定されていることを報じた。自身はその夜に大坂へ戻るため見舞いに伺えないことを詫び、対面の際に義弘も大坂へ来る見込みなので、直接面談して詳しく伝えたいと述べた書状。

  2. 後編3-No.102 薩摩国蔵米算用状

    薩摩国の蔵米について、年度別の納物、米・大豆・銀の数量と差引残高を記し、徳善院・長束大蔵・増田右衛門尉が伊集院右衛門大夫へ示した算用状。

  3. 後編3-No.103 雑抄(島津義弘書状抄)

    島津義弘から宰相殿への書状中の記事を抄録し、慶長元年の高野山炎上により日新・伯圓・妙安の位牌が焼失した一方、幻生・恕参・宗口の位牌は焼失を免れたと記す。

  4. 後編3-No.104 島津義弘譜所収明使接待記事

    慶長元年八月十九日、楊方亨・沈惟敬・黄慎・朴弘長ら明使一行が和泉堺へ到着し、秀吉が食料・宿舎を用意して迎えたこと、二十四日に対面して明国の璽書・冊書を読み上げ、通訳を介して応答したことを詳述する島津義弘譜の記事。衣冠、座次、通訳僧、饗応、金印・冠服など冊封儀礼の様子を記す。

  5. 後編3-No.105 島津竜伯書状

    龍伯(島津義久)が武庫(島津義弘)へ、他見を禁じたうえで、休心・龍登・有方・上甚ら人物の扱いについて内々の見解を述べ、誰を信用して用いるべきか慎重に判断するよう求めた書状。あわせて材木引きが難航していること、三浦へ木引きを命じ、自身はいったん帰って上洛準備をし、成就次第知らせることを伝える。

  6. 後編3-No.106 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津兵庫頭(義弘)へ、朝鮮王子を渡海させなかったのは不届きであるとして、朝鮮の各城の普請・番を堅固にし、手勢の半分を朝鮮各地へ詰めて在番させ、兵糧も確実に用意するよう命じた朱印状。

  7. 後編3-No.107 小早川隆景書状

    小早川隆景が義弘へ、唐人側の発言で和平が破れ、毛利壱岐・加藤主計・小西摂津が渡海を命じられ、翌年には四国・中国勢も渡海する触れが出たと伝える。朝鮮王子を渡さず礼を遅らせたことへの秀吉の怒りに触れ、義弘にも渡海命令が出るか尋ねる一方、自身は暇を与えられ、十四、五日頃に乗船して帰り養生する予定を知らせた…

  8. 後編3-No.108 島津義弘譜所収冊封拒絶・再征記事

    秀吉が花畠山荘で明使の冊封文書を読ませ、明国皇帝が秀吉を「日本国王」として臣従・朝貢を求める内容に激怒し、使節を退けた経緯を記す島津義弘譜の記事。秀吉は朝鮮との和議を破棄し、朝鮮使・明使を帰国させ、諸将に再渡海と軍備を命じて朝鮮再征を決定した。

  9. 後編3-No.109 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津又八郎(忠恒)へ、朝鮮四か所の城に籠め置く兵糧について、各城主の営米を二八替の方式で差し渡し、その時に諸勢へ兵糧を支給するよう命じた朱印状。

  10. 後編3-No.110 島津家久譜所収明使対面記事

    慶長元年九月七日、豊臣秀吉が伏見城で大明勅使を引見し、対面を遂げたことを記す島津家久譜の記事。金印・冠服・誥書と五十余具の冠服を授受し、明の礼法に従って美麗な饗膳を整えた冊封儀礼の様子を伝える。

  11. 後編3-No.111 島津義弘書状

    島津義弘が忠恒へ、番船の出動に備えて薩隅諸県から約千五百人を直ちに鹿徳島へ渡し、城普請、兵糧、大鉄砲・石火矢・鉄砲・玉薬を整えるよう命じた書状。明勅使との対面後、朝鮮王子が来朝しなかったため再出兵が見込まれるとして、国元から人数を渡海させる準備も急がせている。

  12. 後編3-No.112 島津義弘書状

    島津義弘が忠恒へ、抱節や紀州・雲州・伊予方面への連絡を頼み、山田弥九郎・野村五郎次郎・村田藤五郎・新納拾郎らの派遣と朱印状送付を知らせた書状。さらに大明勅使来朝後に和議が破れ、秀吉が高麗への再出兵を命じたため、人数・兵糧の差渡しを急ぐよう伝える。

  13. 後編3-No.113 一乗院書状

    一乗院が、七月十七日に着岸して以来の経過を詳しく伝えたいが、多忙のため細々とは書けず、便宜を得て一書を下したと述べた短い書状。

  14. 後編3-No.114 島津義弘書状

    島津義弘が忠恒へ、初秋に高麗在番衆を引き揚げる予定で替衆・兵糧を止めるよう京都から命じられたが、のちに明使との和議が破れて翌年三月の再渡海が決まった経緯を伝えた書状。薩州衆を先行して差し渡し、寒中の兵糧・船・人数を整え、国元とも緊密に連絡するよう求める。

  15. 後編3-No.115 島津義弘書状

    島津義弘が忠恒へ、朝鮮国中だけでなく大明からも多数の番船が出ることを見越し、海陸の備えを厳重にするよう指示した書状。鹿徳島では長陣を覚悟し、大鉄砲・石火矢などを備え、国元から渡海させる人数や兵糧を早く整えるよう求めている。

  16. 後編3-No.116 伊集院幸侃署判加増目録

    伊集院右衛門入道幸侃が大迫五郎左衛門尉へ、薩州伊集院の飯牟礼之村にある余分のうち高五斛を割り付け、加増として与えた書状。

  17. 後編3-No.117 雑抄(島津義弘書状抄)

    島津義弘が忠恒へ、渡海命令を受け忠恒と交替するつもりで準備したが、九月十二日の拝謁で、まず人数を渡海させ、義弘自身は老体かつ寒中のため年内は在国して所務を処理し、翌年三月に総勢を渡海させる際に渡海するよう命じられたと伝えた書状抄。

  18. 後編3-No.118 雑抄

    島津義弘が慶長元年九月二十三日に大坂を出船し、十月十日に浜之市へ着いたことを記す雑抄。

  19. 後編3-No.119 石田三成書状

    石田三成が島津義弘へ、帰国の報を喜び、吉田美作・白浜次郎左衛門・福崎新兵衛尉の加増は竜伯と相談して扶助するのがもっともだと伝えた書状。長寿院盛淳への讒訴に注意して糺明すること、朝鮮在陣や度々の上洛で辛労した奉公人にも加増することを求める。

  20. 後編3-No.120 新納旅庵譜

    慶長元年、島津義弘が暇を賜って帰国し、九月十三日に大坂で船出したこと、旅庵も義弘に従って九州島へ下り、海路で帰国したことを記す譜記事。

  21. 後編3-No.121 長寿院盛淳外二名連署進上物覚書

    長寿院盛淳・伊集院下野入道幸侃・鎌田出雲守政近が石田治部少輔へ、石火矢五挺を進上し、その内訳として払火矢一挺、幸侃より石火矢二挺、抱節より一挺と記した連署文書。

  22. 後編3-No.122 小西行長・寺沢正成連署状

    小西行長・寺沢正成が忠恒へ、帰朝について先の命令どおり各人へ申し渡した旨を報告したところ朱印状が出たため、これを送付し、増田右衛門尉・石田治部少輔の書状も添えた連署状。

  23. 後編3-No.123 島津忠恒書状

    島津忠恒が喜入摂津守へ、長年の在陣での辛労をねぎらい、無事に帰朝したことを喜んだ。また、現地の様子を詳しく報告したことを評価し、引き続き世上の情勢を調べて随時知らせるよう求め、国元は帰朝後も変わりないので安心するよう伝えた書状。

  24. 後編3-No.124 島津忠恒書状

    島津忠恒が安三州へ、段子二巻を贈ると述べ、国元の検地以来の石田治部少輔(三成)の配慮への謝意と今後の懇意を求めた。また、未加増の家臣を早急に処遇するよう龍伯(義久)・兵庫頭(義弘)へ伝えていること、両者の子らが少扶持で在陣・在京している事情、引陣の命がないため帰国後に相談できないことから、義弘の上洛…

  25. 後編3-No.125 島津義久書状

    島津義久が忠恒へ、大明との和議が破れ、翌年三月に総勢を渡海させる命令が出たことを伝えた書状。九州衆は年明けまでに渡海する見込みで、当国でも在番衆の交替を急ぎ、兵糧を先に差し渡すこと、義弘の指図に従って京都と連絡することを求める。

  26. 後編3-No.126 島津義弘書状

    島津義弘が忠恒へ、長期在番者の辛労をねぎらい、金銀色絵の鉄銭などは本田治兵衛に扱わせると伝えた書状。大明との和議破綻により再派兵が決まり、九月二十三日に大坂を出船して十月十日に浜之市へ着いた義弘が、国元から人数・兵糧を現地へ差し渡し、長陣に備えるよう命じる。

  27. 後編3-No.127 島津義弘書状

    島津義弘が忠恒へ、御城米の返米、渡海軍衆への配分、毛利壱岐らとの相談、船主・兵糧・油などの調達について細かく指示した書状。軍役に関する高額な機遣いを避け、国元と協議しながら船と兵糧を確保し、近く帰陣する者を待たず準備を進めるよう求める。

  28. 後編3-No.128 島津義弘譜(朝鮮再征記事)

    明使楊方亨・沈惟敬の帰国後、豊臣秀吉が再び大軍を進め、日本軍に築城と進撃を命じた経過を記す島津義弘譜の記事。朝鮮の都体察使李元翼が日本軍の再来を知って防戦を図り、双方の軍勢が衝突した戦況を述べる。

  29. 後編3-No.129 伊集院幸侃返地宛行状

    伊集院右衛門入道幸侃が羽嶋藤右衛門尉へ、隅州肝付の内、新富之村の作分から高四斗二升を割り付け、右の地は五斗出来として返地に差し遣わす旨を記した宛行状。

  30. 後編3-No.130 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津豊久(又七郎)へ、在番地に残って勤務を続ける辛労を察し、現地が静謐であるとの報告をもっともとした朱印状。特段の用件はないが使者を派遣し、詳細は追って伝えるとする。

  31. 後編3-No.131 伊集院幸侃署判領知目録

    伊集院幸侃が薩州菱刈大口之内、大儀寺之村の余分地から高六石七斗余を割り付けた署判領知目録。

  32. 後編3-No.132 島津義弘起請文

    島津義弘が豊臣秀吉・豊臣秀次への忠節と諸神への誓約を掲げ、違背しないことを誓った起請文。本文はNo.134と同文のため省略されている。

  33. 後編3-No.133 島津竜伯詠草

    島津竜伯が夕立の雲と露を詠んだ和歌一首。大中庵主の年廻に寄せて手向け奉った詠草。

  34. 後編3-No.134 島津義弘起請文

    島津義弘が加増・支配の相談に際し、豊臣秀吉・秀次への忠節と諸神への誓約を述べ、違背しないことを誓った起請文。

  35. 後編3-No.135 島津義弘書状

    島津義弘が忠恒へ、在番人数を軍役に応じて差し渡す命令を受けて前月中旬に帰国したが、人数を直ちに整えるのは難しいため竜伯と相談すると伝えた書状。忠恒の長年の辛労をねぎらい、明春には必ず渡海するとし、森喜右衛門尉友賢を使者として遣わす。

  36. 後編3-No.136 伊東祐兵書状

    伊東祐兵が忠恒へ、遠路のため久しく音信が途絶えたことを詫び、その後変わりなく過ごしているので安心するよう伝えた書状。忠恒が来春この地へ渡海すると聞いており、その際に対面して詳しく話したいと述べる。

  37. 後編3-No.137 新納忠貞起請文

    新納忠貞が、現在の指示に背かず忠節を尽くすことを誓い、違背した場合には諸神の罰と地獄の苦患を受けると記した起請文。

  38. 後編3-No.138 島津忠恒書状

    島津忠恒が本田六右衛門尉・相良新右衛門尉へ、鎌田出雲守(鎌雲)の談合所への出席を控えさせつつ、支配・配当の件は内談を尽くすよう命じた。支配は奉公の実績に基づき衆人のためとなるよう行い、配当衆・使者・筆者を分別して任命し、公儀を軽んじる者が出ないよう両人から各人へ申し聞かせることを求めた書状。

  39. 後編3-No.139 喜入氏文書(本文欠)

    『喜入氏文書』との標題に続き、「以上」とだけ記され、本文・日付・発給者・宛所を欠く文書。

  40. 後編3-No.140 島津義久書状

    島津義久が北郷左衛門入道へ、公儀の船作りについて石田治部少輔から派遣された川東善左衛門尉に詳しく聞き、準備を急ぐよう命じた書状。今回の十艘は遅くとも正月中に整える必要があり、遅延すれば迷惑するとして、入魂して才覚するよう求める。

  41. 後編3-No.141 正宮善神王再輿茶番交名

    正宮善神王の再興に際し、茶の勤仕を一番から十七番まで割り当て、各番の寺院・僧侶名を列記した交名。

  42. 後編3-No.142 正宮中門再興茶番交名

    正宮中門の再興に伴う茶番について、担当者を番ごとに列記した交名。

  43. 後編3-No.143 児玉氏譜(児玉主水佑領知記事)

    文禄五年十二月二日、公儀が児玉主水佑に隅州西俣村および河原村の土地を与え、国老伊集院幸侃が裁許して目録を授けたことを記す児玉氏譜の記事。記載高は合計五十三石八升で、従来分と合わせ百石とした経緯を述べる。

  44. 後編3-No.144 伊集院幸侃署判領知目録

    伊集院幸侃が児玉主水佑に、隅州肝付郡西俣村・河原村内の土地を、村別・名寄別の石高を掲げて充行った領知目録。

  45. 後編3-No.145 伊集院幸侃署判領知目録

    伊集院幸侃が蓮光坊に、これまでの奉公を賞して日州諸県郡野尻・三ケ山内の五石を充行った領知目録。

  46. 後編3-No.146 伊集院幸侃署判領知目録

    伊集院幸侃が安楽大炊助に、隅州桑原郡吉松内の諸所を名寄別の石高とともに充行った領知目録。

  47. 後編3-No.147 島津義久袖加判領知目録

    島津義久が袖判を加え、伊集院幸侃が念佛寺に隅州曽於郡郡田村・横川上之村内の土地を充行った領知目録。

  48. 後編3-No.148 伊集院幸侃署判領知目録

    伊集院幸侃が米良勝右衛門尉に、薩州大口内の柳田村・大儀寺村にある土地を石高別に充行った領知目録。

  49. 後編3-No.149 伊集院幸侃署判領知目録

    伊集院幸侃が源七郎に、日州諸県郡田尻村内の土地を名寄・石高別に充行った領知目録。

  50. 後編3-No.150 伊集院幸侃署判領知目録

    伊集院幸侃が蒲地孫四郎に、日州諸県郡志布志の寺見・姫城・内之蔵村などの土地を充行った領知目録。

  51. 後編3-No.151 唐入軍役人数島津家分覚書

    唐入りに付された島津家の軍役人数を一万五千人とし、義弘・義久・又八郎の持分別に長鑓・鉄砲・弓・馬上などの数量を割り振った覚書。各人の武器・馬・具足の負担を示し、渡海軍の編成基準を定めている。

  52. 後編3-No.152 唐入軍役人数・兵糧・船数覚書

    唐入りの軍役について、馬数に応じた人数、米・大豆、五か月分の兵糧、船の大きさ別の艘数、船頭・加子、馬の輸送数などを詳細に算定した覚書。軍勢の編成だけでなく、兵糧と輸送船を一体で見積もった大規模な動員計画である。

  53. 後編3-No.153 島津忠恒書状案

    島津忠恒が安三州へ、長年在陣・在旅した家臣の奉公を竜伯・兵庫頭と相談して知行相応に処遇したいと述べた書状案。明春の奥入り命令に備え、国元で加増と出陣準備を進めるため図書頭を帰朝させたこと、検地以来の石田治部少輔の配慮に感謝し、今後も取成しを頼むことを伝える。

  54. 後編3-No.154 島津忠恒書状

    島津忠恒が武庫へ、明春の奥入り命令を受け、渡海の段取りや国元の状況を相談した書状。先に洛着した者から国元の様子が不調との報告を受け、図書頭・鎌田出雲守らを帰朝させて分共を申し上げるとして、船の手配と取り成しを頼む。

  55. 後編3-No.155 島津義久書状

    島津義久が兵庫頭に、今後の命令に従う旨の誓紙を受け取ったことを伝え、その変わらぬ忠節を賞した書状。

  56. 後編3-No.156 小西行長書状

    小西行長が忠恒へ、書状を拝見し、走者の件は承知して使者へ引き渡したと伝えた書状。見舞いに参上できないことを詫び、勅使船が前夜に着いたため使者を出せず心苦しいが、勅使を送り返す際には必ず参上して相談すると述べる。

  57. 後編3-No.157 石田三成書状

    石田三成が忠恒へ、書状と虎皮一枚の贈答を謝した書状。本年中に帰朝すると思っていたが事情により滞在が続くのはやむを得ないとし、来春は兵庫頭が早々に渡海するので、その折に申し入れると伝える。

  58. 後編3-No.158 安宅秀安書状

    安宅秀安が島津側へ、国の仕置については竜伯と相談すべき事項が多いため上洛を少し延期し、来春の渡唐に備えるのがよいと述べた書状。自身は佐和山で病中のため参上できず、三成の意向は測り難いとしつつ、加増や国の仕置を三成とも相談して進めるよう伝える。

  59. 後編3-No.159 島津義弘書状

    島津義弘が忠恒へ、八木民部左衛門尉が使者として帰朝し浜之市・帖佐を回って早く参陣したいと述べていること、図書頭・鎌田出雲守の報告で現地の無事を知ったことを伝えた書状。京からの番手衆や上洛の段取り、米・物資の差渡しについても指示する。

  60. 後編3-No.160 桂忠秀系図

    桂氏部少輔忠秀の系譜と名乗りを示し、島津義弘への奉公、知行、没年・年齢などを記した系図記事。

  61. 後編3-No.161 島津忠恒書状

    島津忠恒が新納武蔵入道へ、新春を祝い、遠方のため久しく音信が途絶えているが、竜伯も健勝であると聞いて喜んだ書状。京都の春景に対し当地は辺鄙であると述べ、追ってまた連絡すると伝える。

  62. 後編3-No.162 川上肱枕・新納旅庵・上井兼政連署領知目録

    川上肱枕・新納旅庵・上井神五郎兼政が連署し、桂藤五郎へ薩州市来の大里和田之門などの土地を、名屋敷・加増分を含め合計百石充行った領知目録。

  63. 後編3-No.163 島津忠長署判領知目録

    島津忠長が本田六右衛門尉に、川辺郡崎村・高橋村・谷山平川村などの土地を、村別の石高を示して充行った領知目録。

  64. 後編3-No.164 島津忠長署判領知目録

    島津忠長が本田六右衛門尉に、川辺野崎村・高橋村・谷山平川村・松田渡り村の土地を石高別に充行った領知目録。

  65. 後編3-No.165 島津竜伯書状

    島津義久(龍伯)が又八郎へ、朝鮮の役における長陣の辛労をねぎらい、図書頭の帰朝を受けて番手衆の派遣を決めたものの、順風がなく出立が遅れていることを伝えた。また、加増・支配は又八郎の意見をもとに協議中であり、義弘を留め置いているため自身の上洛も遅れ、年越しは在国となる見込みであると知らせた書状。

  66. 後編3-No.166 新納忠元勲功記

    新納忠元の上京と豊臣秀吉への出仕、島津家中での役目や知行の変遷、義久・義弘・忠恒らとの折衝を中心に勲功をまとめた記事。家中の政務・国替えへの対応、秀吉との対面や贈答・詠歌なども交え、忠元の長期にわたる奉公を叙述する。

  67. 後編3-No.167 島津義久書状

    島津義久が兵庫頭へ新春を祝い、旧冬に上井甚五郎・旅庵から届いた書状を見たと伝えた書状。当年の赤国成敗は延期されたが、分国中の人数・兵具については石田治部少輔と相談して整えるので安心するよう述べ、歳暮の祝儀として縮三端を贈る。

  68. 後編3-No.168 島津義弘譜(小西行長・加藤清正先発記事)

    慶長二年正月、小西行長が肥後から船を出したことを記す島津義弘譜の記事。秀吉は二月を出陣期としていたが、行長は秀吉の怒りを恐れて先発し、加藤清正も行長に先を越されることを恐れて諸将より早く渡海したとする。

  69. 後編3-No.169 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が羽柴薩摩侍従の重ねての奉公を賞し、小袖一重を与えて今後も精勤するよう命じた朱印状。

  70. 後編3-No.170 島津義久書状

    島津義久が忠恒へ、加増や知行割付をめぐる風聞を戒め、軍役の始末に伴う総支配の改定は浮地帳が不完全なため、前年の割付を基礎に手直しすべきだと述べた書状。中原坊から宝泉坊への移転にも触れ、義弘と軍役を相談するため上洛を延期して在国しているが、急ぎ出国すると伝える。

  71. 後編3-No.171 安宅秀安書状

    安宅秀安が忠恒へ、国の仕置・知行配分・軍役の改定は、義久・義弘に深く相談して決めるべきだと説いた書状。浮地や役料、公儀への奉公を踏まえて加増・没収地を処理し、渡海前に国中の配分を整えて、軍役を負う家臣の扶持に不足が出ないよう求める。

  72. 後編3-No.172 島津忠長譜

    島津忠長譜のうち、日本軍諸将が南原城攻略を計画し、島津忠恒らの軍勢が朝鮮へ進発して攻城に加わるまでを記す記事。

  73. 後編3-No.173 朝鮮日々記(島津義弘渡海記事)

    慶長二年二月上旬、島津義弘が朝鮮へ渡海するため帖佐を出立し、蒲生・鹿児島・串木野方面を経て乗船した行程を日次に記す朝鮮日々記。各地の留守居・供衆の配置、船頭や馬の手配、風雨による滞留、忠恒方との合流など、出国から海上移動までの実務を詳しく記録する。

  74. 後編3-No.174 大重平六覚書

    大重平六が、南原城の攻撃と落城後の追撃、江南方面への転戦、各地の戦闘や水軍との交戦を回想した覚書。諸将の働き、死傷者、軍船・兵糧の確保、戦功への褒賞までを具体的に記す。

  75. 後編3-No.175 樺山紹剣自記

    慶長二年、前年の地震で崩れた家屋の再建に追われる一方、国中の軍勢が高麗へ渡って陣を張った時期の事情を記す樺山紹剣の自記。家中の祈籤・儀礼にも触れ、国内復旧と朝鮮出兵が重なった状況を簡潔に記録する。

  76. 後編3-No.176 島津義弘書状

    島津義弘が伊集院下野入道へ、旧冬に石田治部少輔が渡海した際に革二枚を贈られた礼と新年の祝意を述べた書状。今回、新納将監・波多彦兵衛尉を使者として渡海させるので、両人の申し入れを聞き届け、諸事に力添えするよう求める。

  77. 後編3-No.177 上井仲五兼政申状

    上井仲五兼政が朝鮮渡海に備え、具足・武器・兵糧、従者と扶持、留守中の家政や知行の扱いなど、必要な措置を箇条書きで申し出た申状。

  78. 後編3-No.178 伊集院幸侃書状

    伊集院幸侃が伊勢弥九郎へ、忠恒の書状を拝見し、高麗奥への出張に備えて軍衆の渡海を進め、武庫の下向によって遅れていた人数も順次渡すと伝えた書状。返上米については京都での取決めどおり銀子を数量に合わせて上納することなど、軍役と財務の処理を指示する。

  79. 後編3-No.179 寺沢正成広高・小西行長連署状

    寺沢正成と小西行長が連署し、番船の出動と牧島方面の動きを島津又八郎の陣所へ知らせ、対応の相談を求めた書状。

  80. 後編3-No.180 小西行長書状

    小西行長が島津又八郎に、今晩、番船が動いて牧島へ向かったことを報じ、事態が定まり次第あらためて知らせるとした書状。

  81. 後編3-No.181 長束正家書状

    長束正家が羽柴薩摩侍従へ、来年の人数渡海と赤国での軍事行動を確実に進めるよう求めた書状。遠路のため無音であったことを詫び、詳しいことは毛利豊前守・平野新左衛門から申し伝えるとしている。

  82. 後編3-No.182 島津忠恒家久害状

    島津忠恒が武庫に、使者を釜山浦へ送ったこと、対馬・釜山間の船の動き、兵糧や武器の輸送、航路上の支障を詳しく報告した書状。渡海人数と船の確保、現地からの指図を待つ状況も伝える。

  83. 後編3-No.183 伊集院抱節久治書状

    伊集院抱節久治が圖書頭方へ、津への到着後の兵糧・食料の不足、紙や船・人員がそろわない状況を報告し、補給と手配を求めた書状。

  84. 後編3-No.184 伊勢入抱節書状

    伊勢入抱節が図書頭へ、新年の祝意と無沙汰の詫びを述べ、現地の無事を喜んだ書状。帰朝を待っていたが、武庫が渡海したため当分は帰朝できない事情を伝え、今後の勤仕を励ますとともに、元珠の名代として樽一桶を贈る。

  85. 後編3-No.185 島津義弘置文

    島津義弘が家中に残した置文。怒りや喧嘩を慎み、女性・他家との交際、飲酒、奉公人の扱い、宿泊者、火の用心、馬や物資の使用など、留守中の生活と家政を細かく規制する。

  86. 後編3-No.186 島津義弘掟書

    島津義弘が家中の規律を定めた掟書。勤番、口論・喧嘩、奉公人と商人の扱い、京都での宿所、飲酒、外出、市場での売買などを条項ごとに命じ、違反を禁じる。

  87. 後編3-No.187 豊臣秀吉高麗再度陣陣立書

    高麗再度の陣立を定めた豊臣秀吉の文書。本文は後掲の同文書と同文のため省略されている。

  88. 後編3-No.188 島津義弘譜

    島津義弘譜のうち、豊臣秀吉が慶長二年の朝鮮再出勢を命じ、諸将ごとの軍勢・人数と担当を定めた陣立を記す記事。

  89. 後編3-No.189 豊臣秀吉高麗再度出勢法度

    豊臣秀吉が高麗への再出勢に際して定めた法度。先手衆の城攻めと備の順序、番替り、相互支援、船手との連携、軍勢の勝手な行動禁止、戦功申告の手続などを条項ごとに命じる。

  90. 後編3-No.190 豊臣秀吉高麗再度出勢法度

    前年同日付の高麗再度出勢法度と同案であるため、毛利壱岐守・毛利豊前守宛の本文を省略した記録。

  91. 後編3-No.191 島津豊久譜(全羅道・行伍割当記事)

    慶長二年、諸将が再び加徳島へ出勢するに際し、島津豊久が豊臣秀吉から全羅道方面の担当と行伍・軍勢編成を記した文書を賜ったことを記す島津豊久譜の記事。

  92. 後編3-No.192 豊臣秀吉高麗再度出勢法度

    豊臣秀吉が島津豊久に示した高麗再出勢の法度。先手の行動は加藤清正・小西行長以下が相談して定め、軍勢運用を統制するよう命じる。一般的な出勢規定とは別に、宛所が「嶋津又七郎とのへ」と明記される。

  93. 後編3-No.193 豊臣秀吉高麗再度陣陣立書

    豊臣秀吉が高麗再度の陣立として、先手・備ごとに加藤清正、小西行長、黒田長政、島津義弘ら諸将と人数を割り当てた文書。総勢を組ごとに集計し、釜山浦周辺の諸城に置く守備人数と担当武将も定める。

  94. 後編3-No.194 征韓偉略

    『征韓偉略』から、慶長二年二月の朝鮮再渡海と諸将の配置、秀吉の前鋒指定、島津忠恒らの渡海準備を記した記事。渡海後の作戦、敵船への対応、在陣中の窮乏と援軍・兵糧をめぐる事情へ叙述が続く。

  95. 後編3-No.195 征韓偉略

    前掲の『征韓偉略』記事の完結を示す「全」の注記。独立した本文は収められていない。

  96. 後編3-No.196 島津義弘譜

    島津義弘譜のうち、義弘が加徳に在陣した際、来攻した朝鮮船三隻を迎撃して退けたことを記す記事。

  97. 後編3-No.197 新納旅庵長住

    新納旅庵長住が、島津義弘の朝鮮再渡海に伴い、帖佐出発から久見崎での解纜、壱岐での滞留までを記した記事。秀吉の朱印状による軍役増員で在途の兵が窮乏したため、旅庵が京都へ赴き、龍伯を通じて義弘の訴えを上申した経緯を述べる。

  98. 後編3-No.198 重複文書(No.382と同文)

    本文はNo.382と同文であるため省略した旨を記す注記。独立した本文・日付・発給者・宛所は収められていない。

  99. 後編3-No.199 石田三成書状

    石田三成が羽兵方へ、忠恒が着陣すれば長陣中の羽兵は帰朝するのがよいとし、上方から差し渡す諸勢は五月中旬から六月上旬に高麗へ着く予定だと伝えた書状。帰朝後は国元で支配を整え、京都へ上洛して秀吉に礼を述べること、小姓衆の扱いなどを指示する。

  100. 後編3-No.200 石田三成書状

    石田三成が忠恒へ、二月中の渡海を勧め、上方から差し渡す諸勢は五月中旬から六月上旬に高麗へ着く予定だと伝えた書状。長陣後は小姓衆を連れて帰朝し、国元へ戻ったうえで上洛して秀吉へ御目見するか、国元の用務があれば先に帰国してから上洛するよう指示する。No.200本文内に島津義久の実名・法号はない。