ARCHIVE DIRECTORY
後編2の目録
旧記雑録 天正13年~文禄4年の文書・記事です。
全1,646件中 1301~1400件・14 / 17ページ
後編2-No.1299 安国寺恵瓊書状
安国寺恵瓊が書状を拝見し、薩摩侍従を見舞うべきところ病気のため訪問を控えたと詫びる。代わりに同名の播州某を進め、直接返事を伝えるよう依頼する。 帰朝の命が出たことを知らせ、長期の軍労後は養生が肝要だと気遣い、詳しい口上を播州某に託した見舞状。
後編2-No.1300 島津忠恒書状
忠恒が烏丸兵部少輔を急ぎ差し渡すこと、自身の渡海も近いこと、龍伯の上着が迫ることを知らせる。さらに秀吉の意向で左遷された近衛信輔が坊津に下るため、道中案内の人選を詳しく協議する。 幸侃との折衝の末、本田源右衛門尉に鹿島右衛門祐を添えて案内させる方針を報告した、配流受け入れの舞台裏が分かる書状。
後編2-No.1301 島津忠恒書状
忠恒が、野添帯刀の帰朝時に聖門様への祈祷願いを友林斎が奏上し、了承された経過を伝える。聖門様から向庵への書状や取次事項を確実に届け、帰国後は詳しく報告するよう求める。 家中の使者と公家・寺社関係者を介し、祈祷と書状を往復させた上方交渉の実務を示す。
後編2-No.1302 新納忠元日記
新納忠元が飯野を出立し、阿屋・佐土原天神町などを経て船旅を続けた日記。風向きと潮を見ながら出船・停泊を繰り返し、雨、夜間航行、蚊の大群、船の損傷や友舟との離合まで日ごとに記す。 寺社へ参詣して航海安全を祈り、磯屋・野島など各地で天候回復を待つ様子が生々しい。文禄期の海上交通と旅人の感覚を知る詳細な道…
後編2-No.1303 忠実・忠堯連署坪付
大隅国清水の北辰社領について、寺田・上田・下田などの坪ごとに面積と分米を列記した坪付。橋口伴左衛門先、田中備後助先などの旧名義を示し、合計一七石四斗七升四合と算出する。 社領の所在と旧給人、石高を照合できる土地台帳で、谷口安房介忠実と忠堯の連署を伴う。
後編2-No.1304 豊臣秀吉朱印状
「本文書は一二〇八号文書と同文につき省略」と注記され、本文が再録されていない豊臣秀吉朱印状。 具体的な命令内容と宛先の確認にはNo.1208を参照する必要がある。
後編2-No.1305 雑抄
寺沢志摩守と龍伯との関係について、人質に関する事柄と、龍伯が直接差し出した誓紙が存在したことを記す短い覚書。 本文が一条のみで詳細な経緯は分からないが、豊臣政権下の身分保障・忠誠確認に人質と誓紙が用いられたことを示す。
後編2-No.1306 豊臣秀吉朱印状
秀吉が端午の祝儀として帷子五つを受け取り、喜んでいる旨を龍伯へ伝えた朱印状。詳細は石田木工頭から申し述べるとしている。 贈答品の数量と取次役が明記された、豊臣政権と島津家の礼物交換を示す短文。
後編2-No.1307 伊集院幸侃書状
幸侃が、渡海予定者がまだ到着せず出発が延びていること、又八郎が秀吉への御目見えを済ませて京都から下向する予定であることを知らせる。龍伯の上着を大坂で待ち、石田三成の指示を受けている状況も報告する。 国元と家中の諸事が三成一人の取次で進むこと、船不足で渡海が遅れていることを伝え、両名へ対応を求めた書状…
後編2-No.1308 島津義久譜
義久が在洛していた際、寺沢志摩守正成が島津家に異意を抱かないことを約し、後年の証拠となるよう誓紙と印裏を渡したと記す。寺沢は封書を添えてこれを返した。 豊臣政権下で島津家と寺沢氏が相互の立場を文書で保証した経緯を伝える義久譜の記事。
後編2-No.1309 寺沢正成起請文前書
寺沢正成が、義久と名字が続く限り親交を変えず、島津家のため公儀で奔走すると誓う。将来九州諸将の状況が変わっても島津家に奉仕することを約束し、偽りなら神罰を受けると記す。 島津家との長期的な同盟・支援を神前で保証した起請文前書。
後編2-No.1310 島津義久起請文前書案
義久が寺沢正成の誓約を受け、自身も今後別心を持たず、公儀における寺沢家の用向きへ協力すると約束する。世情がいかに変転しても両家が申し合わせて忠節を尽くすと誓う。 No.1309と対をなす返誓で、島津・寺沢両家の相互扶助を明文化した起請文前書案。
後編2-No.1311 島津義弘書状
義弘が赤塚三右衛門尉の到着を受け、又八郎の秀吉への御目見えが無事に済んだことを祝う。まず石田三成へ礼状を出し、今後も身持ちを油断なく整えるよう命じる。 龍伯の上洛を待つため渡海が延びた事情を確認し、すべて三成の指南に従うこと、伊勢弥九郎以下の供衆にも奉公の心構えを徹底するよう求めた書状。
後編2-No.1312 長曾我部元親書状
元親が帰朝前に確認すべきことがあり出発を延ばしていると知らせ、島津侍従から石田三成へ飛脚を立てる件を取り次ぐ。大坂へ直行する船を用意し、船中の賄いも手配すると申し出る。 飛脚と書状を幸侃へ確実に届けるよう求めた、朝鮮から上方への連絡・輸送を具体的に示す書状。
後編2-No.1313 新納拙斎忠元書状
新納拙斎忠元が、久しぶりの書状と鹿皮三枚の贈答に礼を述べ、坂上紀州の旧知行に関する納入状況を日記で確認したいと求める。老中の下知に従って知行が移された場合でも、墨付を確実に受け取るべきだと手続を説く。 冒頭では原口大蔵の新しい一件を薩左衛門へ伝えるよう依頼する。知行処理を口頭伝達だけにせず、日記・墨…
後編2-No.1314 征韓偉略
秀吉が義弘を介して明へ書を送り、義弘の使者張昂が渡明したのに対し、明の提督許斌が巡海守備劉可賢らを遣わして応答した経過を記す。返書は朝鮮侵攻を批判し、戦乱停止と関係正常化を求める。 明軍の兵力不足、将兵の腐敗、沿海防備、朝鮮での戦況まで論じる長文で、文禄の役における島津家を介した対明外交と明側の危機…
後編2-No.1315 寺沢正成書状
寺沢正成が、先に朱印で手配された石火矢と玉薬が夜前に釜山浦へ到着したと知らせる。受領書を持たせ、直ちに受け取るよう義弘方へ求める。 朝鮮在陣中の火器・弾薬輸送と受領手続を具体的に示す短い兵站書状。
後編2-No.1316 豊臣秀吉朱印状
秀吉が豊久の長期在陣の労苦をねぎらい、今後もいっそう軍功に励むよう命じる。褒賞として鹿毛の馬一疋を与え、詳細は石田・大谷・増田から伝えるとする。 朝鮮在陣中の豊久に対する慰労と軍役継続を一体で命じた朱印状。
後編2-No.1317 豊臣秀吉朱印状
秀吉が義弘の長期在陣をねぎらい、引き続き軍功に励むよう命じる。褒賞として道服と帷子を与え、詳細を石田・増田・大谷に説明させる。 No.1316と対をなす慰労文書で、義弘本人への衣服下賜によって在陣継続を促した朱印状。
後編2-No.1318 豊臣秀吉朱印状
秀吉が義弘から蚊帳一張、銀の釣具四緒、薫衣香二十附を受け取り、遠路からの心のこもった贈答を喜ぶ。品々を「入念、別而見事」と評価し、詳しい返答は石田三成から伝えるとする。 朝鮮在陣中の義弘と秀吉の間で交わされた、夏の実用品と香料をめぐる具体的な贈答返礼。
後編2-No.1319 島津義弘書状
義弘が忠元の秀吉御前への出頭が好首尾だったと聞いて喜び、その手柄は誰にも劣らないと称える。一方、陣中の人手不足を嘆き、弥太右衛門尉がよく奉公していること、その母を気遣うよう頼む。 戦線は無事だが人員不足で困っていると伝え、返歌は不得手だとして一首の和歌を贈る。軍務報告と家族への配慮、戯れのある歌が同…
後編2-No.1320 島津義弘書状
「本文書は一三一九号文書と同文につき省略」と注記され、本文が再録されていない島津義弘書状。新納氏蔵書に伝わる同文書である。 具体的な内容はNo.1319を参照する必要がある。
後編2-No.1321 島津義弘書状
島津義弘が新納武蔵入道(新納忠元)へ、先に送った書状の到着を確かめつつ、気兼ねのない相手として「一局」の記録を送り、適切な箇所に墨書で手を加えて返してほしいと頼む。 現地には相談相手がおらず、連日の窮屈を紛らわせたいと述べ、忠元との再会を待ちかねている。朝鮮在陣中の義弘の孤独と、棋譜とみられる遊興を…
後編2-No.1322 島津義弘覚書
在京中の辛労、大明の動静を聞くための使者派遣、陣中人数の報告、石田三成との相談など八項目を列挙する。又八郎・久四郎の処遇や渡海、兵粮船の調達も義久・龍伯側へ依頼する。 唐入り・朝鮮で大将役を長く務め続ける疲労を「萬々くたびれ入候」と吐露しており、義弘の負担と豊臣政権への対応を具体的に示す覚書。
後編2-No.1323 島津日新忠良譜
文禄三年、勅勘を受けて坊津へ配流された近衛信尹が、島津忠良(日新)の遺跡と聡明さ、文武両道の事績を高く評価したと伝える。忠良の四十七首の詠歌、仏法参得、臨終の辞世にも言及する。 公家である信尹が配流先で日新の遺風を慕ったことを示し、島津家における忠良顕彰のあり方を知る史料。
後編2-No.1324 島津義久譜
近衛信尹が朝鮮渡海を企てたため秀吉の不興を買い、坊津へ配流された経緯を記す。あわせて東山大仏殿造営の評議、諸国からの材木調達、徳善院前田玄以の奉行、大仏師による工事計画を詳述する。 秀吉が造営を見物した際、桟敷に島津義久を召して単衣二領を与えたという逸話も収め、配流記事と豊臣政権の大事業を結び付けた…
後編2-No.1325 中山王尚寧書状
尚寧王が島津方の書状を披見し、高麗軍役を命じられても琉球は国力が衰えており、急な軍役準備は困難だと説明する。使僧成就院から事情を詳しく聞いたとして、今後も長く和親を保ちたいと述べる。 島津側からの贈物を受領し、琉球からもわずかな土産を返して祝意を示す。朝鮮出兵期の琉球が軍役要求に応じられない事情を訴…
後編2-No.1326 島津家久譜
在洛中の島津忠恒に対し、秀吉が婚姻を命じ、断ることのできない上意によって六月に婚礼が行われたと記す。石田三成は使者と書状で祝意を伝え、太刀・青銅・酒肴を贈った。 忠恒の婚姻が豊臣政権の意向で成立したことと、三成が祝賀を取り持ったことを示す島津家の婚姻史料。
後編2-No.1327 石田三成書状
三成が本来は自ら参上して祝辞を述べるべきところ、寸暇がないため使者を遣わしたと詫びる。婚礼祝いとして太刀一腰、五百疋、樽一荷の三種を忠恒へ贈る。 No.1326に記された秀吉命令による婚姻に対応し、贈答品の数量まで具体的に分かる祝賀書状。
後編2-No.1328 島津竜伯義久書状
義久が忠恒へ、長寿院盛淳と喜入大炊助の間が不和だとの世評を伝え、両者が深い神文を取り交わそうとしている件を内密に知らせる。御法度に照らして神文は不適切だと、問われた際には厳しく答えるつもりだという。 書状は他言無用と念押しされ、島津家中の人間関係と誓約行為への警戒を率直に示す義久自筆の密書。
後編2-No.1329 豊臣秀次朱印状
秀次が見舞いの使者を送り、義弘が長年朝鮮に在番している苦労を察すると伝える。現地が引き続き静謐であるとの報告をもっともとし、今後も詳しく知らせるよう求める。 長期在陣中の義弘を直接ねぎらい、戦地の安定報告を確認した短い朱印状。
後編2-No.1330 豊臣秀次朱印状
秀次が見舞いの使者を送り、豊久が朝鮮で長く在番し、苦労が続いていることを察すると述べる。現地が静謐であるとの報告を評価し、今後も状況を知らせるよう求める。 同日付で義弘に出されたNo.1329とほぼ同趣旨だが、若い豊久にも個別に労苦をねぎらった朱印状。
後編2-No.1331 豊臣秀吉朱印状
秀吉が安芸侍従を召し寄せるにあたり、現地の守備を怠らないよう厳命する。帰朝は五騎・十騎ほどの小集団に分け、城には有能な守将を残すよう指示する。 朝鮮からの帰還時にも城郭守備と部隊移動を細かく統制した、撤収・交代過程を知る具体的な軍令。
後編2-No.1332 北郷忠虎譜
文禄三年七月二日、北郷忠虎が都城を出発して再び朝鮮へ渡り、島津義弘に従ったと記す。これ以前の戦闘で忠虎の家臣には多数の戦死者が出ていた。 大きな人的損害を抱えながら再渡海した北郷勢の動向を短く伝える家譜記事。
後編2-No.1333 島津義久書下案
義久が国元へ派遣された検地担当者への協力を頼み、在京中の自分に代わって国益を第一に判断するよう求める。重大事は事前に報告し、相談して決着させることも定める。 世上の噂に左右されず互いの疑念を捨てると、日本国中の神祇・八幡・天神・愛宕権現に誓う。検地と義久・忠棟関係を結び付ける重要な書下案。
後編2-No.1334 島津義久譜
島津義久が大明国福建地方の都察院右僉都御史・許へ書状を送り、返書と贈物を受けたことを記す。あわせて関白宛の書状も存在し、続く文書に収録すると説明する。 島津家と明側官僚の書簡往来を示す導入記事で、朝鮮出兵中の講和・外交文書群の位置関係を明らかにする。
後編2-No.1335 明国福建地方都察院右僉都御史許回文
福建の許孚遠が義久の来書を好意的に受け止め、明との友好を望む意向を評価する一方、秀吉の朝鮮侵攻を厳しく批判する。真の和好には休兵・民衆の安堵・誠実な帰順が必要だと説く。 造船・徴兵を続けながら和を求める矛盾を指摘し、明の国力と統治の正当性を強調する。島津義久を仲介者として日本側の撤兵を促す明側外交文…
後編2-No.1336 明国福建地方都察院右僉都御史許檄文
福建巡撫の許孚遠が明皇帝の威徳と朝鮮が明の属国であることを説き、日本軍の侵攻を非難する。明軍の動員力を示して戦争継続の不利益を警告し、兵を休めて朝鮮から退くよう迫る。 捕虜・占領地への対応を正し、正式な表文によって和を請うことを求めた檄文。明側が日本との講和に示した前提と世界秩序観を知る重要な外交史…
後編2-No.1337 島津義久譜
在洛中、秀吉が石田三成に命じて薩摩・大隅・日向三州の島津領を検地させた経緯を記す。三成は黒川右近ら四名を薩摩へ派遣し、検地の法式を記した詳書を持たせた。 伊集院忠棟も検地実施のため国元へ下された。太閤検地が島津領内へ導入された人員構成と命令系統を具体的に示す記事。
後編2-No.1338 島津義久詠草
島津義久が霊山に参詣した際に詠んだ和歌。「山ふかみ道とめ入てかしこくも/なつとうき世をよそにすむ」と、深山へ分け入り俗世を離れて暮らす心境を詠む。
後編2-No.1339 島津義弘譜
伊集院忠棟と比志島国貞が薩摩を発って肥前名護屋へ赴き、忠恒の朝鮮渡海に従おうとした経過を記す。しかし忠恒の京都から名護屋への到着が数か月遅れ、兵士を名護屋で徒費させるより朝鮮の不足兵力を補うべきだとして先に渡海した。 七月三日に義弘の陣へ着岸し、その旨を義久にも伝えたという。忠恒渡海計画の遅延と家臣…
後編2-No.1340 島津義久書下案
「本文書は一三三三号文書と同文につき省略」と注記され、本文が再録されていない島津義久書下案。国元の検地への協力と、義久・伊集院忠棟の相互信頼を神仏へ誓った内容である。 具体的な本文と用件はNo.1333を参照する必要がある。
後編2-No.1341-1 雑抄(文禄3年7月覚書)
文禄三年七月、国元検地に関して島津義久から幸侃(伊集院忠棟)へ出された書状と、幸侃が提出した起請文の存在を一項として記す。 続いて七月十八日付の「御分国中御検地御掟条々」と殿下の朱印を掲げる。島津家内部の誓約文書と、豊臣政権による分国検地の規則・公認文書を対応させて整理した、検地関係史料の目録的な覚…
後編2-No.1341-2 島津義弘覚書抄
文禄三年六月、島津義弘が朝鮮から国元へ伝えた覚書の一節。国元の軍役を百石につき五人と定め、全員を渡海させるとの話を前年春以来聞いていたと記す。 しかし現在まで一人も渡海せず、軍役を実行する手はずさえ整っていないと厳しく批判する。朝鮮在陣軍の兵力不足と、領国側の動員命令が実行されなかった状況を数量基準…
後編2-No.1342 伊集院幸侃書状
幸侃が検地の際には薩摩衆の過半を補助として付けるとの話を喜び、それが実現すれば万事残りなく進むと述べる。あわせて又八郎忠恒の祝儀も無事に済み、関係者が同席して上下ともめでたいと伝える。 検地実務への大規模な家臣動員と、忠恒の婚礼祝賀を同時に報告した書状。冒頭数文字は原資料でも判読しにくいため、その部…
後編2-No.1343 島津氏分国検地総奉行起請文前書
島津氏分国の検地総奉行に任命された者が、義久・兵庫頭義弘・治部少輔石田三成のいずれにも私情を寄せず、公平に検地を行うと誓う。上方から派遣された奉行や国元奉行に不正・誓約違反があれば、見聞した事実を隠さず報告すると定める。 小奉行に至るまで誓紙を確認させ、検地行政の公平性と相互監視を神仏への誓約によっ…
後編2-No.1344 島津氏分国検地衆注文並覚書
島津領の検地に派遣する人員を、薩摩・大隅・日向の担当別に列挙する。薩摩方には黒川右近ら、大隅・日向方にも複数の奉行衆を割り当て、全体の奉行として大橋甚右衛門尉を掲げる。 八月に大坂を出立すること、扶持・馬の飼料、伝馬・人夫・船を行程に応じて手配することも命じる。太閤検地の実働部隊と移動・兵站を具体的…
後編2-No.1345 島津氏分国検地斗代注文
薩摩・大隅・諸県の検地で用いる斗代を、田方・畠方と土地の等級別に定める。上・中・下の在所や上田・中田・下田、畠、山畠などを区分し、一反ごとの石・斗・升単位の標準収量を列挙する。 土地条件に応じた評価差を明文化した検地基準表で、太閤検地後の島津領における石高算定と年貢賦課の基礎を具体的に示す。
後編2-No.1346 豊臣秀吉朱印状
秀吉が豊久から、生絹の帷子二領、秀頼への帷子二領、高麗雉子六羽、北政所への帷子二領が届いたことを喜ぶ。長期の朝鮮在番で苦労する中、このように贈物へ心を配ったことを特にねぎらう。 詳しい返答は長束正家から伝えるとした、豊久と秀吉・秀頼・北政所の具体的な贈答関係を示す朱印状。
後編2-No.1347 伊集院幸侃起請文
幸侃が義久の書状を頂戴し、国元へ下る検地衆に対して特に念を入れて奉公すると誓う。百姓・町人が罪を犯した場合は経験者と相談して処置し、主家の不利益となる事実を知れば遠慮なく報告すると定める。 自身の振る舞いに関する疑いも直ちに知らせてほしいと求め、条項違反には梵天・帝釈以下の神罰を受けると誓約した検地…
後編2-No.1348 豊臣秀吉朱印状
秀吉が島津領の検地に際し、侍・百姓以下で他国へ逃散した者がいれば、先例を調べたうえで捜索・拘束し、元の領主へ引き渡すよう命じる。どの領内で発見しても、その地の領主同士で連絡して処理すると定める。 検地による人別・土地把握と逃散者の還住を結び付け、領境を越えた捜索と身柄移送を制度化した朱印状。No.1…
後編2-No.1349 豊臣秀吉朱印状
秀吉が島津分国の検地基準を定め、一反を五間×六十間とし、畦や井溝を面積から除くよう命じる。上・中・下の村と在所、田・畠・屋敷などの区分ごとに、一反当たりの斗代を具体的に列挙する。 No.1345の斗代注文と対応し、島津領の石高算定基準を豊臣政権の朱印によって公定した検地法令。
後編2-No.1350 新納旅庵譜
文禄三年六月、京都にいた忠恒が婚姻し、七月十七日に栗野を出発して名護屋へ向かったと記す。八月二十五日には忠恒本人も京都から名護屋へ到着した。 秀吉の命による婚姻後、朝鮮渡海の拠点である名護屋へ移動する忠恒の行程を日付とともに示す新納旅庵譜の記事。
後編2-No.1351 島津義弘覚書
御料人を急いで迎える件について、伊集院幸侃が石田三成の前で命じられた経緯を記す。内城の女房衆から御供を選ぶ必要があるが、適任の年長女性がいないという奥向きの事情も挙げる。 久四郎の在京生活は順調なので心配無用とし、五代右京亮の上洛、祈念のための医王院派遣、鎌田与兵衛による費用相談も指示する。婚姻後の…
後編2-No.1352 島津義久覚書
検地と浦役について、年貢見積りを基礎にしつつ現地事情に応じて課役を決め、公方へ上納する物を帳面へ記載するよう定める。山役・綿・算用、竹木や茶、年貢米、検地中の私的取得禁止などを細かく列挙する。 寺社領や町屋敷も原則として検地対象とし、旧来の免除は書立で根拠を示させる。土地・産物・労役を網羅した、島津…
後編2-No.1353 島津氏分国検地奉行起請文前書
検地奉行が礼銭・礼物を受け取らず、田畠や諸産物を過少に評価しないと誓う。家臣や内々の者にも収賄を禁じ、発覚すれば隠さず処罰すると定めるほか、奉行同士の不正も相互に報告させる。 百姓を私用へ使わず、他国者や走り者も公平に扱い、田畠・畝数の改ざんや過大な人夫徴発を禁じる。検地行政の腐敗防止、人権的配慮、…
後編2-No.1354 豊臣秀吉朱印状
秀吉が島津領の検地に際し、侍・百姓以下で他国へ逃散した者がいれば、先例を調べたうえで捜索・拘束し、元の領主へ引き渡すよう命じる。どの領内で発見しても、その地の領主同士で連絡して処理すると定める。 検地による人別・土地把握と逃散者の還住を結び付け、領境を越えた捜索と身柄移送を制度化した朱印状。No.1…
後編2-No.1355 豊臣秀吉朱印状
「本文書は一三四九号文書と同文につき省略」と注記された豊臣秀吉朱印状。一反を五間×六十間とし、畦・井溝を除外したうえで、村・在所・田畠・屋敷の区分ごとに斗代を定める。 島津領の石高算定基準を豊臣政権が公定した検地法令であり、具体的な本文はNo.1349を参照する。
後編2-No.1356 島津義弘上米請取状
義弘が前年分の扶持米と城米の受領状況を記し、増田長盛・早川長政・寺沢広高・石川久五郎らの取扱分を列挙する。城米三千石、五千七百五石、九百五十石を合わせ、御蔵米総計九千六百五十五石と算定する。 福島正則と毛利秀元へ提出された請取状で、朝鮮在陣軍を支えた大量の兵粮米と、豊臣政権奉行間の受け渡しを数量で追…
後編2-No.1357 島津義弘覚書
「本文書は一三五一号文書と同文につき省略」と注記された義弘覚書。御料人を迎えるための女房衆選定、久四郎の在京状況、五代右京亮の上洛、医王院による祈念、鎌田与兵衛の費用相談を扱う。 婚姻後の御料人の供奉体制と在京者への配慮をまとめた覚書で、具体的な本文はNo.1351を参照する。
後編2-No.1358 島津義弘譜
文禄三年七月二十六日の朝、安芸侍従毛利秀元が巨済島に置かれた島津義弘の本営を訪れたと記す。 ごく短い記事だが、朝鮮在陣中の義弘と毛利秀元が巨済島で直接往来していたことを示し、諸将間の連絡関係を確認できる。
後編2-No.1359 島津義弘書状
義弘が久四郎と又八郎忠恒に対し、まだ在京しているなら心遣いが多いだろうと気遣う。龍伯義久への配慮はもちろん、今後の事は石田三成の指導に従って判断することが肝要だと諭す。 五代右京亮を上洛させて久四郎の側で奉公させると伝え、朝鮮の戦線は現在異状ないと報告する。家族への心配と豊臣政権内での身の処し方を同…
後編2-No.1360 島津竜伯書状
義久が義弘から薩摩・大隅の検地についての書状を受け取り、泉・川内・菱刈・郡山方面まで刀狩と検地が及ぶとの風聞を伝える。国々が乱れる事態を憂慮しつつ、現地には正式な沙汰が届いていないのかと問い返す。 検地衆の振る舞いや医者・薬師の扱いにも触れ、三官奉行を通じて情報を得るよう求める。太閤検地をめぐる領国…
後編2-No.1361 福崎能安起請文
福崎能安が御広間・台所門の造営で材木調達を任されても、職人から金銀・米銭などの礼物を一切受け取らないと誓う。国元で受け取る米と売却代金、名護屋への替米、薩摩・大隅・日向から上った米にも私的流用がないと明記する。 摂津国能勢郡の代官所でも朱印高を守り、増徴や着服をしないと神仏へ誓約する。建築資材・兵粮…
後編2-No.1362 北郷忠虎譜
秀吉の上使が薩摩・大隅・日向を検地し、北郷忠虎領では田中吉政らが都城・安永・高城・末吉・財部など十五か所、計六万九千二百余石を調査したと記す。 同年冬、忠虎は巨済城で寒気と軍務の疲労から病を得て、十二月十四日に三十九歳で死去した。鶴田貞明が殉死したことも記し、検地による領地確定と朝鮮陣中での最期を一…
後編2-No.1363 島津義弘書状
義弘が前年以来の在陣者のうち帰朝者・病死者・病人が相次ぎ、新たに参陣する者もないため手元が極端な人手不足になったと訴える。国元では百石につき五人の軍役と聞いていたが、実際には渡海していないと批判する。 伊集院忠棟・比志島国貞らが連れてきた者以外はほとんど役に立たず、帰国した兵を再派遣するよう石田三成…
後編2-No.1364 島津義弘書状
朝鮮在陣中の島津義弘が妻の宰相殿へ、老境ながら無事に過ごしていると知らせ、平松・栗野の家族にも自身の消息を伝えるよう頼む。 日本の諸大名にも父子そろって在番する例がないなか、又八郎まで渡海すれば父子とも高麗に在陣することになると苦慮する。自分が異国で没した場合にも、死後に一万部の経を読んで供養する以…
後編2-No.1365 島津義弘書状抄
義弘は国元から「百石につき五人」の軍役を出すと聞き、兵員到着を待っていたが、実際には在国の者が一人も渡海していないと訴える。伊集院忠棟・比志島国貞・又八郎らの供衆だけが名護屋まで来たものの、先へ渡海せず、手元が無人同然である窮状を記す。 石田三成宛書状の一部を抜き出した抄録で、朝鮮在陣軍への補充が約…
後編2-No.1366 長谷場越前自記
島津義久の代、京都から五十余人の検地衆が薩摩・大隅・日向へ下向し、文禄三年九月十四日に大口城麓で竿入れを開始したと記す。薩摩は黒川右近允、大隅は中小路典五、諸県は大塩氏が担当し、算用・筆者衆を三方に分けて昼夜を問わず調査した。 翌文禄四年二月二十九日に一行が帰京し、その後三国が静謐になったと結ぶ。太…
後編2-No.1367 本田助允歌書写
「来ない夜」の数を鴨の羽掻きになぞらえた歌と、車具の「楊」に印を付けて夜数を数える歌を掲げ、その詞書と由来を書き写す。男が女のもとへ百夜通う約束をしながら九十九夜で途絶えたという小野小町・深草少将の説話につながる内容である。 文禄三年八月十日、朝鮮在陣中の島で本田助允が記した歌書。戦陣のさなかに古歌…
後編2-No.1368 小西行長書状
小西行長は義弘への返書として、翌朝必ず参上して直接申し上げると伝える。同行者を一人召し連れるよう求められたものの適任者がいないため、自分一人で出向く意向を示し、雨風が強ければ書状の指示どおり参上を見合わせるとする。 あわせて川船の注文書を作成し、使者に託したことを報告する。訪問の段取りと船の調達実務…
後編2-No.1369 小西行長書状
小西行長が、前日に招かれて茶を賜り、さまざまな馳走を受けたことへの礼を述べる。すぐに礼状を出すべきところ、酒に酔って遅れたと率直に詫び、朝になって使者を送った。 さらに七郎殿について尋ねを受けた件は承知し、詳しいことは川上殿へ申し入れたと報告する。武将同士の茶・酒の饗応と、その翌日の実務連絡が同時に…
後編2-No.1370 増田長盛書状
増田長盛は、義弘方の城米を受け取る奉行を派遣し、船で三百八十石を送るので受領書を出すよう求める。勘定は後日精算するとし、義弘方の蔵米が用意できていないため、以後は八木を船で送らないと通知する。 釜山浦で受け取って保管している米は自方の蔵へ入れ、順次取り寄せるよう指示する。朝鮮在陣中の米輸送・受領・算…
後編2-No.1371 増田長盛書状
増田長盛は、義弘方の城米について陸路・船便で引き渡しを進め、到着した米は各城の扶持方へ配分すると伝える。義弘分千五百石のうち千石は上杉景勝の船で送る一方、現地の蔵が未整備との報告を受け、残りの輸送方法を石田三成とも相談するよう求める。 米の数量、船便、各城への配分を調整した書状で、諸大名間の輸送網と…
後編2-No.1372 小西行長書状
小西行長は、義弘が翌朝訪問するとの知らせを承知したと返答する。先に自分からも書状を出していたが、天候が悪い場合は無理をせず、天気が回復してから来訪してほしいと伝える。 朝鮮在陣中の武将同士が、面会の日程を天候に応じて柔軟に調整していたことが分かる簡潔な連絡状。
後編2-No.1373 島津義弘条書案
義弘が竜伯こと島津義久へ伝えるべき事項を列挙した条書案。国元検地の処置、在陣軍の人手不足、御朱印衆の人数、朝鮮諸城の在番体制について石田三成に確認し、その回答を国元の軍役・諸準備へ反映させるよう求める。 さらに乗馬・指物・武具、翌年の軍役、陣中費用、兵糧・蔵米、又八郎の渡海遅延などを挙げる。朝鮮在陣…
後編2-No.1374 島津義久譜
豊臣政権の検地衆が薩摩へ下着し、九月十四日に伊佐郡大口で土地の境界・田畑を正す検地を開始したと記す。 太閤検地が薩摩で始まった日付と出発地点を簡潔に示す島津義久譜の記事で、検地実施の基本経過を確認できる。
後編2-No.1375 島津家久譜
朝鮮へ渡海する命令を受けた島津忠恒(のちの家久)が、八月に京都を発ち、同月二十五日に肥前名護屋へ到着したと記す。しかし薩摩から従兵と渡海船がまだ来ず、急いで渡海したくても名護屋で日を送るほかなかった。 滞在中、寺沢志摩守広高からたびたび厚い援助を受けたことを特記する。朝鮮出兵の動員が船と供衆の遅着で…
後編2-No.1376 島津竜伯義久書状
義久は急用のため九月二日に箕刈治部右衛門尉を朝鮮へ渡海させたと記し、忠恒へ軍馬や種子島、久保へ送る品の扱いを指示する。栗野に置いた品の管理、今後は書状を付状ではなく直接届けること、国元からの供衆を整えて速やかに渡海することを求める。 一部の者だけが先に渡海し、供の者がまだ到着していない状況を問題視す…
後編2-No.1377 島津義弘届書
義弘が、前年文禄二年六月に「ひらんき」で加増後の人数を改めたところ、総勢千六百六十五人であったと届け出る。 福島正則と毛利民部大輔へ提出した簡潔な人数報告で、島津軍の朝鮮在陣兵力を具体的な数字で確認できる重要史料。
後編2-No.1378 鍋島直茂書状
鍋島直茂は小西行長への返書で、しばらく音信が途絶えていたことに触れつつ、島津義弘が受け取る川船二艘が完成したため、ただちに差し渡したと報告する。小西方の船も完成次第送るとの連絡を承知したと伝える。 現地に変事はないとし、大明・日本間の使者や交渉に関する新情報があれば知らせてほしいと依頼する。船舶調達…
後編2-No.1379 島津忠恒家久書状
忠恒は、神鏡院から栗野まで音信として着物が届けられたことを喜び、自身のため神前で祈念し、特別に参籠してくれたことへ深く礼を述べる。今後も祈祷を続けるよう頼む。 長く在陣する「武庫様」島津義弘の留守中、栗野への見舞いと支援を重ねて依頼し、自身の朝鮮渡海が遅れていることへの焦りも記す。信仰・家政・出陣準…
後編2-No.1380 寺沢正成書状
寺沢正成は、朝鮮での「無事」すなわち講和の処理を加藤清正に任せているが、清正の筋で長引く場合は諸将で相談し、別の方法でも速やかに決着させるよう奉行衆から指示が来たと伝える。 島津方にも明国人から書状が届いたと聞き、返書を出す必要があれば相談して進めるよう求める。明との交渉が複数の大名・奉行間で調整さ…
後編2-No.1381 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が羽柴薩摩侍従(島津義弘)へ、居城の普請をいっそう入念に進め、頑丈に整備するよう命じた朱印状。大明との和議を「無事」とは見なさず、九州勢を渡海・在番させた現状を述べ、再び大軍を渡海させて「赤国」を攻め、大明が詫びを申し出るまで油断しないよう指示している。和議進行中にも秀吉が明への再出兵を構想…
後編2-No.1382 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、居城の普請をいっそう入念に進め、頑丈に整備するよう命じた朱印状。大明との和議を真の「無事」とは見なさず、九州勢に現地の城々を在番させた上で、再び諸勢を渡海させて「赤国」を攻め、大明が詫びを申し出るまで油断しないよう指示している。No.1381の島津義弘宛と同日・同…
後編2-No.1383 石田三成・増田長盛連署副状
増田長盛と石田三成が、羽柴薩摩侍従(島津義弘)の陣所へ、岡田勝五郎の到着と豊臣秀吉の意向を伝えた連署状。大明との和議は真の平和ではないとし、九州にいるのと同じ覚悟で在番し、諸城の普請を進めて堅固に守るよう指示する。秀吉が再び出馬して「赤国」を攻め、大明の詫びを受けて初めて処置するという強硬方針を補足…
後編2-No.1384 征韓偉略
九月二十九日、数十艘の朝鮮水軍が唐島の福島正則らの陣を襲うと、正則は伏兵と軽兵で誘い込み、義弘は伊集院抱節斎を援軍に送った。正則が敵船一艘を焼き、敵は退却したが、十月一日には義弘の城下へ迫って銃撃し、八日に唐島から撤収したと記す。 また嫡子久保の病死、次子忠恒の朝鮮渡海願いを秀吉が許可し、忠恒が同月…
後編2-No.1385 島津義弘譜
文禄三年九月二十九日、数十艘の敵船が巨済島の諸陣へ迫り、終日、鉄砲と石火矢を撃ち合ったと記す。義弘は伊集院下野入道抱節斎に兵を率いさせ、福島正則の陣へ援軍として派遣した。 援軍を得た正則は大いに喜び、伊集院だけでなく従軍した島津兵にも酒食を振る舞った。唐島周辺の海戦における島津・福島両軍の協同を伝え…
後編2-No.1386 島津義弘書状
義弘は比志島国貞に対し、鉄砲と玉薬を十分に用意して送るよう命じ、槍は役に立たないので不要だと明言する。今後出陣する人数にも鉄砲を持たせ、できる限り多く調達することが肝要だと説く。 石火矢についても準備を求め、敵船への対処や陣地防衛に備えるよう指示する。朝鮮水軍との戦闘経験から、火器中心の装備編成を国…
後編2-No.1387 島津義弘譜
文禄三年十月一日、前日に続いて朝鮮水軍が島津陣へ押し寄せ、攻撃を仕掛けたと記す。島津軍は数百挺の鉄砲と石火矢を絶え間なく発射し、敵も火矢・鉄砲・半弓などで応戦した。 激しい射撃戦にもかかわらず島津方に負傷者は一人もなく、午後には敵の大船四十余艘と多数の小舟が退却した。唐島周辺での火器戦と島津軍の防戦…
後編2-No.1388 島津家久譜
九月二十五日夜、箕刈治部右衛門尉が朝鮮から忠恒のもとへ帰参したと記す。箕刈は同月二日に名護屋から朝鮮へ渡っており、義弘は島丸六右衛門尉を使者に立て、忠恒の到着を祝った。 さらに迎え船二艘を与え、白浜次郎五郎がその一艘に乗って来着したことも記す。忠恒の朝鮮渡海を前に、父義弘との連絡・迎船・使者の往来が…
後編2-No.1389 黒田長政書状
黒田長政は、島津方の海域へ敵の番船が出たと聞き、状況を案じて見舞いの使者として本竺次右衛門尉を派遣する。現地の様子を詳しく知らせるよう求める。 福島正則・蜂須賀家政ら年寄衆とも相談し、諸事に落ち度がないよう対処することが肝要だと助言する。敵船出現を受けた諸大名間の警戒連絡と共同対応を示す書状。
後編2-No.1390 毛利元清外三名連署状
毛利元清ら四名は、島津方の海域へ敵の番船が出たと聞き、心配して見舞いの書状を送った。今後も多数の敵船が現れるようなら知らせてほしいと求め、引き続き連絡を取り合う意向を伝える。 唐島周辺で朝鮮水軍の活動が活発化するなか、毛利方が島津方の警戒状況を共有しようとした連署状。
後編2-No.1391 豊臣秀次朱印状
秀次は、島津兵庫頭義弘の家中に「鹿喰犬」が多数いると聞き、御用のため優れた猟犬を選んで献上するよう命じる。義弘本人は朝鮮で在番中のため、留守居衆が奔走して秀次の使者へ引き渡すよう指示する。 詳細は石田三成から伝えるとする。朝鮮出兵のさなかに、中央権力が島津領から猟犬を徴発した珍しい朱印状で、軍務とは…
後編2-No.1392 島津義弘城米請取状
島津義弘家臣の帖佐彦左衛門尉が、釜山浦で城米四百五十四石四斗五升四合を受け取ったことを証明する請取状。 受領場所・米の数量・受取人が明記されており、朝鮮在陣中の島津軍へ供給された兵糧米の規模と受領実務を具体的に確認できる。
後編2-No.1393 島津義弘書状
義弘は、忠恒がすでに渡海したとの情報を確かめつつ、九月二十九日以来、唐島周辺に敵の番船が出続けているため、現地へ直接渡るのは危険だと警告する。 まず釜山浦へ着船し、そこから段階的に航路の情報を聞き合わせ、安全を確認して唐島へ向かうよう命じる。父義弘が忠恒の初渡海に際し、敵船を避ける具体的な航路を指示…
後編2-No.1394 島津義弘譜
文禄三年十月四日正午、敵船二十余艘が島津陣へ来襲したが、接近できずに退却した。桑山小藤太・杉若氏が二艘の船で追撃して鉄砲を放ち、島津陣の種子島衆らも十余艘に乗って追い撃ちした。 敵は反撃せずに退去したと記す。島津軍と友軍が船団を出して朝鮮水軍を追撃した海上戦闘の具体像を伝える家譜記事。
後編2-No.1395 島津義弘書状
義弘は忠恒が名護屋へ到着したと聞いて迎船と使者白浜七介を送ったが、すでに対馬へ渡ったとの風聞を得て強く心配する。九月二十九日以来、敵の番船が各陣の港へ毎日侵入し、火矢などで襲撃しているため、単独で唐島へ直航してはならないと戒める。 釜山浦で敵情を確かめ、諸船団と連携して安全な時機に進むよう繰り返し指…
後編2-No.1396 安宅秀安書状
安宅秀安が義弘側へ、国元検地後の知行配分と家中の争論について詳しく報告した長文書状。竜伯義久・幸侃伊集院忠棟・長寿院らをめぐる訴えや讒言、検地衆の裁定、所領を失った者や給人・百姓の不満が重なり、国元の統制が揺らいでいる状況を伝える。 一方的な告発や抽者の言い分だけで処分せず、当事者を照合して公平に裁…
後編2-No.1397 福島正則書状
福島正則は、周辺を警戒していた敵の番船がその夜、五、六里先の竹島まで退いたと義弘へ知らせ、ひとまず安心するよう伝える。 今後も変化があれば随時連絡すると約束する。唐島周辺で敵船の位置情報を諸大名が即時共有していたことが分かる短い海上警戒報告。