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後編2の目録

旧記雑録 天正13年~文禄4年の文書・記事です。

全1,646件中 201~300件・3 / 17ページ

  1. 後編2-No.201 樺山忠助譜

    天正十四年十月十五日の豊後出兵で、島津義弘が肥後口、島津家久が日向口の大将となった際、樺山忠助は家久の軍に従った。南郡・三重方面の諸城を攻め、鉄砲や石が飛び交う城際へ進み、敗走する敵を追って川を渡るなど、家久軍前線での戦功を記す。

  2. 後編2-No.202 樺山紹剣自記

    樺山紹剣が、薩摩・大隅・日向・肥後の軍勢による豊後侵攻を回想する。義弘が肥後口、家久が日向口を率い、岡城・三重方面の城々を攻めた経過を記し、寒気と薄雪の中で川を渡り、城を包囲して焼き払った場面も描く。冬季の進軍路、攻城方法、現場の厳しさが分かる自記である。

  3. 後編2-No.203 上井覚兼日記

    十月一日から十五日までの日記。祈念・参詣、来客との酒宴、贈答、使者と書状の往復を日ごとに記す一方、豊後出兵の評定、兵船・兵糧・人員の準備、京都や各地から届く情報への対応も収める。家中の談合、領内の訴訟や配置、病人・負傷者への見舞いと医師の診療、連歌・能などの日常も交錯し、戦争準備を担う家老層の実務と…

  4. 後編2-No.204 島津世録記

    大友氏が伊東氏救援を名目に島津領へ侵入した経緯を挙げ、島津義久が豊後征伐を正当化する叙述から始まる。義久は大友への旧怨を語り、諸将を集めて進攻を決定し、義弘を肥後口、家久を日向口に配して大軍を動員した。志賀氏らへの帰順工作、南郡・岡城・三重方面の攻略、各将の兵数や配置、豊後方の抵抗までをまとめ、島津…

  5. 後編2-No.205 長谷場越前自記

    長谷場越前が、伊東氏を助けた大友宗麟と島津氏の対立から豊後侵攻に至った事情を、自らの見聞として記す。島津家久軍の進路、険しい河川・岩場を越える行軍、敵城への接近、使者や内応者との折衝、援軍を加えて岡城方面へ向かう過程を詳述する。戦場の地形、偵察、陣取り、攻撃前の緊張が具体的に分かる自記である。

  6. 後編2-No.206 勝部兵右衛門聞書

    勝部兵右衛門の聞書。天正十四年十月十四日に島津義久が鹿児島を発ち、日向口では家久・忠長・久親らを中心に諸家・外城の軍勢を編成したことを記す。多数の兵を三重方面へ進め、城を攻め落として南郡へ展開する過程、各将の配置と進軍路、敵の退却や戦場での働きを伝え、大規模動員の実態が分かる。

  7. 後編2-No.207 日向記

    『日向記』は、十月の豊後侵攻で島津勢が日向口から南郡へ入り、三重・入田方面の城々を攻めた経過を記す。志賀道益ら豊後方との内応交渉を背景に、夜間の入田館攻め、城兵の退却、城の受け取りや諸将の配置を叙述する。島津義弘の改名記事も挟み、日向側に伝わった進軍と城郭接収の順序が分かる。

  8. 後編2-No.208 日向記

    別の『日向記』は、高城敗北後に圧迫された大友宗麟が上洛して羽柴秀吉に救援を求め、秀吉が中国・四国勢を豊後へ送った背景から説き起こす。宇喜多・毛利・小早川・仙石・長宗我部らの軍勢が進む一方、島津家久勢がこれを迎撃し、河原・城郭での戦闘、敗走、討死・捕虜の発生へ至る。九州征伐前夜の豊臣方援軍と島津軍の衝…

  9. 後編2-No.209 天正十四年豊後へ発向之事

    天正十四年末、島津軍が複数路から豊後へ侵攻した経過を、各隊の進路・城攻め・戦死者まで日を追って記す長編軍記。鶴賀城攻防を経て、戸次川では島津家久軍が仙石秀久・長宗我部元親ら四国勢を破り、長宗我部信親・十河存保らを討ち取った。その後、府内へ進み、大友宗麟が籠もる丹生島城をはじめ諸城を攻めるが、鉄砲・夜…

  10. 後編2-No.210 伊勢貞成掟書

    平佐城普請に従事する人夫への兵糧支給を定めた掟書。二日につき三度、各人へ七合五勺ずつ渡し、御蔵入から支出すること、普請用物は触れに従うことを命じる。北郷作左衛門・相良新右衛門が取り仕切り、滞りなく調えるよう求めた、築城現場の給食・物資管理を示す文書である。

  11. 後編2-No.211 一色昭秀書状

    一色昭秀が鬼塚主税介・宮路三之丞へ、前年に使者柳沢新右衛門尉が上京した際、手火矢一挺について厚意を受けたことを喜ぶと伝える。柳沢を再び下向させるので、折節には諸事をよろしく取り成してほしいと依頼した書状で、武器の贈答と使者の取次が結び付いた外交実務が見える。

  12. 後編2-No.212 足利義昭御内書

    足利義昭が島津兵庫頭義弘へ、毛利氏が豊州で軍事行動を行うことになったので、よく相談し、島津義久へも十分に伝えることが肝要だと命じた御内書。前年夏に届いた白糸二十五斤への礼も述べる。毛利・島津の連携を促すとともに、贈答を介した義昭の外交関係を示す。

  13. 後編2-No.213 足利義昭御内書

    足利義昭が喜入摂津守へ、毛利氏の豊州での行動についてよく相談し、島津義久へ伝えることが重要だと命じた御内書。前年夏に届けられた白糸二十五斤を喜んだことも記す。No.212とほぼ同趣旨ながら、島津家中の別の取次役にも同時に働きかけたことが分かる。

  14. 後編2-No.214 伊勢貞成掟書

    No.210と同文のため本文を省略したもの。平佐城普請の人夫へ二日三度、一人七合五勺ずつ兵糧を支給し、御蔵入から費用を出すことなどを定めた掟書が、別の文書群にも収められていたことを示す。

  15. 後編2-No.215 島津義久譜

    島津義久譜の記事。天正十五年三月十五日、前年十二月四日付で足利義昭から出された御教書が、この日に義久のもとへ到着したことを記す。本来は十五年の記事だが、前年の箇所に載せたとの注記があり、書状の発給から受領まで約三か月を要した伝達事情が分かる。

  16. 後編2-No.216 足利義昭御内書

    足利義昭が島津義久へ、秀吉と島津氏が武力対立していることを憂え、ぜひ和睦するよう求めた御内書。仲介のため一色駿河守を派遣するので、交渉を成立させるよう促しており、豊臣・島津間の和平を旧将軍が取り持とうとした文書である。

  17. 後編2-No.217 足利義昭御内書

    足利義昭が伊集院忠棟へ、秀吉との争いを憂え、和睦実現のため尽力するよう求めた御内書。一色駿河守を派遣するので、主君島津義久への進言と交渉成立を期待しており、島津家中の重臣を直接動かそうとした和平工作である。

  18. 後編2-No.218 足利義昭御内書

    足利義昭が島津義弘へ、秀吉との武力対立を憂え、和睦成立に尽力するよう求めた御内書。一色駿河守の派遣を知らせ、島津軍の中心人物である義弘からも主君へ働きかけることを期待しており、豊臣の九州出兵直前に行われた多方面の和平工作を示す。

  19. 後編2-No.219 足利義昭御内書

    足利義昭が島津家久へ、秀吉との武力対立を憂え、和睦成立のため島津義久へ進言するよう求めた御内書。一色駿河守を派遣するので交渉をまとめるよう促す。義久・義弘・伊集院忠棟らへの文書と一組で、島津一門・重臣を個別に説得した和平工作の一環である。

  20. 後編2-No.220 島津義久譜

    島津義久譜の記事。近衛家の使者である古川主膳入道宗以が、前年十二月十二日付の近衛信尹書状を持参したことを記し、続くNo.221にその書状本文を掲げる。京都の公家から島津家へ書状が届けられた経路と、使者の役割を示す導入記事である。

  21. 後編2-No.221 近衛信尹書状

    近衛信尹が肝付弾正忠へ、禁裏近辺へ堂上衆が戻ったことなどを述べ、家門に関する用向きへの馳走・助成を依頼し、詳しくは進藤筑後守が伝えるとした書状。本文・宛所に島津義久の実名・法号はない。

  22. 後編2-No.222 進藤長治書状

    進藤長治が肝付弾正忠へ、使者として古川主膳入道宗以を下向させたことを知らせ、近衛家の御殿が禁裏近所へ移されたものの諸事が整わず難儀しているため、この機会に援助してほしいと依頼した書状。使者の取次と財政的支援を島津家臣に直接求めた内容である。

  23. 後編2-No.223 島津義久書状

    本文はNo.224と同文のため省略されている。島津義久が入田丹後入道へ、境目への出陣後に両口の諸城が順調に攻略されたことを報じ、祝意の書状と鉄砲の贈答を喜んだ書状である。敵方の計略は成功しないとの見通しを示し、今後の働きにも期待しており、豊後戦線で内応した入田氏との軍事連絡を伝える。

  24. 後編2-No.224 島津義久書状

    島津義久が入田丹後入道へ、境目へ出陣したところ両口の諸城が順調に攻略されたことを報じ、祝意として届いた書状と鉄砲を喜んだと伝える。敵方の計略は成功しないと見通し、今後も働きを期待した書状で、豊後戦線で内応した入田氏との連絡と武器贈答を示す。

  25. 後編2-No.225 天正十五年覚書

    天正十五年丁亥の主要事件として、「大友敗北」と「大閤着陣」の二事だけを掲げた短い標目。豊後戦役の進行と豊臣秀吉の九州着陣を、その年を画する出来事として対置している。

  26. 後編2-No.226 島津中務大輔家久譜

    島津家久が府内に留まり豊後半国を掌握したものの、諸将の抵抗と兵糧不足で進退に窮したため、樺山忠助を三重の松尾城へ退かせた記事。天正十五年正月十八日、忠助が府内から三重へ到着し、新納縫殿助・平田狩野介らと守備に当たった経過を記す。

  27. 後編2-No.227 樺山紹剣自記

    樺山紹剣が、府内・三重・松尾城周辺での守備と進退を自身の見聞として詳述する。年越し後、敵の反攻と兵糧難が強まる中、諸将からの書状・使者を受け、各城の兵を集めるか退くかを評定した。夜間の移動、城への入退、渡河、砲撃・放火への備え、負傷者や病人、食料・宿所の確保まで記し、伊集院忠棟らとの連絡や意見対立も…

  28. 後編2-No.228 島津義久書状案

    本文はNo.230と同文のため原資料では省略されている。島津義久は、戸次川合戦について、大友方が仙石秀久・長宗我部勢を引き入れて日向境へ攻め寄せ、制止にも応じなかったため、やむを得ず防戦して勝利したと説明する。数千を討ったと報告する一方、府内に残った京都・四国勢には弟の島津家久が大船を用意して退去さ…

  29. 後編2-No.229 島津義久書状案

    本文はNo.231と同文のため原資料では省略されている。島津義久は、戸次川合戦について、大友方が仙石秀久・長宗我部勢を引き入れて日向境へ攻め寄せ、制止にも応じなかったため、やむを得ず防戦して勝利したと説明する。数千を討ったと報告する一方、府内に残った京都・四国勢には弟の島津家久が大船を用意して退去さ…

  30. 後編2-No.230 島津義久書状案

    島津義久は、戸次川合戦について、大友方が仙石秀久・長宗我部勢を引き入れて日向境へ攻め寄せ、制止にも応じなかったため、やむを得ず防戦して勝利したと説明する。数千を討ったと報告する一方、府内に残った京都・四国勢には弟の島津家久が大船を用意して退去させたと述べ、秀吉の停戦命令に背く意図はないこと、敵兵にも…

  31. 後編2-No.231 島津義久書状案

    島津義久が石田三成へ送った書状。島津義久は、戸次川合戦について、大友方が仙石秀久・長宗我部勢を引き入れて日向境へ攻め寄せ、制止にも応じなかったため、やむを得ず防戦して勝利したと説明する。数千を討ったと報告する一方、府内に残った京都・四国勢には弟の島津家久が大船を用意して退去させたと述べ、秀吉の停戦命…

  32. 後編2-No.232 島津義珍義弘書状

    島津義弘が喜入摂津守へ、三江口で勝利した後、府内へ進むべきか南郡を固めるべきか、談合衆の意見が割れていると伝えた書状。霧島社の神慮も確かめつつ、家久らの判断や朽網氏との折衝を踏まえて進退を決めようとしている。前進と守備の二案が併存し、島津軍内部で指揮方針が定まらない緊張を示す。

  33. 後編2-No.233 九州動座之次第

    羽柴秀吉の九州出兵に従う諸隊を、正月・二月・三月の出陣日ごとに分け、羽柴一門、毛利・宇喜多勢、前備・後備などの配置と兵数を列挙した軍勢一覧。各大名・家臣ごとの人数を細かく掲げ、最後に御馬廻衆を除く旨と大きな合計数を記す。数値には誇張・伝聞の可能性があるが、島津側が把握した豊臣軍の編成と圧倒的規模を知…

  34. 後編2-No.234 殉国名藪

    島津方の戦死者を、戦場・年月日・所属・氏名・人数とともに列挙した名簿。豊後侵攻中の城攻めや各地の合戦で討死した武士について、主従関係や同族、地頭・外城衆ごとに記し、過去の戦死例も注記する。軍記の勝敗叙述だけでは捉えにくい家臣団別の損害と、個々の死者を追跡できる基礎史料である。

  35. 後編2-No.235 島津義久譜

    天正十五年正月二十六日、島津義弘が球珠郡野上城へ陣を移し、周辺諸城の多くを降伏させた記事。なお抵抗する城に川上久信・町田久倍・新納忠元らを向け、外郭と二の丸を破り、五日後に本丸を陥落させた。続いて北里・小国方面も降伏したが、二月には羽柴秀吉の大軍接近が記され、豊後・肥後戦線が攻勢から対豊臣防衛へ転じ…

  36. 後編2-No.236 島津義久琉球渡海朱印状

    島津義久が、大隅国根占湊の小嶋丸船頭・橋本右京亮に琉球への渡海を許可した朱印状。航海と積荷を島津氏の統制下に置いた史料で、豊臣軍との戦時下にも南方航路が維持されていたことが分かる。

  37. 後編2-No.237 足利義昭御内書

    足利義昭が島津義弘へ、和睦成立の報告を神妙と認め、豊臣秀長の示す条件に従うよう求めた御内書。昭秀を派遣し、昭光からも詳しく伝えさせるとしており、九州征伐直前の和平工作が義弘本人へ及んだことを示す。

  38. 後編2-No.238 島津義弘譜

    島津義弘が球珠郡に在陣し、野上・飯田方面の軍勢配置と敵の動きを記す。豊後方の反攻と豊臣軍の接近を受け、城郭を維持できず退却へ移る直前の状況が、義弘譜の記事として示される。

  39. 後編2-No.239 北郷忠虎譜

    北郷忠虎が豊後府内で太守の兵と合流した後、中国・四国から来援する豊臣方の大軍を迎えた記事。豊臣軍の兵船が西海へ達し、府内の守備が崩れて日向方面へ退く局面を簡潔に伝える。

  40. 後編2-No.240 樺山忠助譜

    豊後からの撤退に際し、樺山忠助が島津家久らとともに追撃軍へ抗し、白根城・松尾城を経て日向へ退いた経過を詳述する。夜戦、敵中突破、離散した味方との再合流、兵糧不足、城郭の放棄が連続し、豊臣方の大軍を前に島津勢が崩れながらも殿軍を組織して退く実態が具体的に分かる。

  41. 後編2-No.241 樺山久高譜

    豊州開陣の際、樺山久高が島津歳久らに従って退路を進み、白根城で敵の追撃を受けた記事。城兵と協力して敵を退け、夜間に次の城へ移るまでを記し、撤退軍の小規模な防戦を伝える。

  42. 後編2-No.242 内覚

    日田郡の攻略、彦山方面の敵への対応、城郭の処置、加勢や論功など、豊後・筑前方面の軍事案件を箇条書きで整理した「内覚」。撤退局面で未解決となった諸課題と、各方面へ確認すべき事項を一覧できる。

  43. 後編2-No.243 樺山紹剣自記

    樺山紹剣が高動野の合戦から日州への退却まで、自身の見聞と行動を記した自記。勝戦の直後にも進路を失い、阿蘇坂などで多数の敵と戦いながら諸隊が離散・合流する様子が描かれ、撤退時の混乱を生々しく伝える。

  44. 後編2-No.244 長谷場越前自記

    九多縄城の留守を命じられた長谷場越前らが、阿蘇方の攻撃を受けて籠城した経過を記す。少数の城兵が鉄砲・弓・太刀で攻撃をしのぎ、敵の侵入を防ぎながら救援を待ったことが具体的に描かれる。

  45. 後編2-No.245 長谷場越前自記

    長谷場越前が九多縄城の籠城から撤退し、日向へ向かう島津軍に合流するまでを長大に記した自記。城内の兵糧不足、夜襲、敵中突破、馬を失って徒歩で戦う者、落武者狩り、味方の離散と再集結が続く。三重城へ至る道中でも各地の城兵や農民勢と交戦し、武具・食糧の欠乏に苦しみながら退いた現場の極限状態を伝える。豊後撤退…

  46. 後編2-No.246 長谷場越前自記

    島津義久らが三重城に到着し、城内の人員・兵糧・武具を確認したうえで、翌十七日に進発したことを記す。豊後撤退の途中で一夜を過ごし、態勢を立て直して移動を再開した短い記事である。

  47. 後編2-No.247 日向記

    京勢の下向を受け、島津方に従っていた豊後国衆が離反し、陽城などをめぐる戦況が逆転した経過を記す。日向へ退く島津軍が各城で敵の攻撃を受け、味方の帰趨が急速に変化して豊後支配が崩れていく様子を伝える。

  48. 後編2-No.248 島津義弘譜

    豊州から退く島津軍が各地で豊臣方の追撃を受け、鉄砲を交えた戦闘を重ねながら日向へ移動した経過を記す。諸将の戦死や離散が相次ぐなか、義弘らが殿軍として敵を食い止め、城を渡り歩きつつ本国への退路を確保した。

  49. 後編2-No.249 島津義久譜

    高野山木食興山上人と一色駿河守が豊後府内へ来て、島津義久に豊臣方との和睦と早期帰国を勧めた記事。義久は直ちに帰国せず、三月十八日に長谷川内へ進んで敵を退け、翌十九日に高城へ入った。和平勧告を受けながら軍事行動を続けた島津方の判断と、高城決戦前夜の動きを示す。

  50. 後編2-No.250 島津義久譜

    豊臣秀長が二十万騎と記される大軍を率い、四月六日に日向高城・財部間へ五十一か所の陣を構えた。十七日の根白坂合戦で島津方は敗れ、島津忠隣ら三百余人が戦死。興山上人・安国寺・一色駿河守の説得を受けて義久は和議を受諾し、伊集院忠棟を人質として秀長本陣へ送った。五月一日の開陣と義久・義弘の帰国までを記す、九…

  51. 後編2-No.251 肥後口・日向口合戦従軍者交名

    天正十五年三月、肥後から日向口へ退く島津軍について、義久・義弘の本隊、各備、供衆、戦死者などを所属別に列挙した交名。退陣時の部隊構成と家臣団配置を具体的に復元でき、個々の従軍者・被害者を追跡する基礎史料である。

  52. 後編2-No.252 島津義久譜

    羽柴秀長が十二万騎と記される大軍を率いて豊後へ進み、島津方が追撃を受けながら日向へ退いた記事。高城・三重城などを経る撤退路、諸将の戦死、伊集院忠棟らの動きがまとめられ、豊後戦線崩壊後の全体経過を伝える。

  53. 後編2-No.253 島津征久譜

    豊臣秀吉の大軍西下を受け、島津義珍と家久が諸将を二手に分けて帰国させた記事。義珍・家久らは日向路、歳久・征久・新納忠元・伊集院久春らは別路を進み、敵の追撃を退けて本国へ入った。

  54. 後編2-No.254 島津中務大輔家久譜

    天正十五年三月十八日、岡城主の軍勢が密かに襲来し、小牧と鍋田両城を陥れたことから始まる記事。島津方は多数の戦死者を出し、残兵が松尾城へ退いて防備を整えた。岡城勢の奇襲によって日向への退路が脅かされる局面を、戦死者と移動経路を交えて記す。

  55. 後編2-No.255 島津義珎書状

    豊州の大半が敵方に属し遠方との連絡も難しいとして、島津義珍が星野伯耆守に油断なく備えるよう求めた書状。太刀一腰を祝儀として贈り、危機的な戦況下でも忠節を期待する意向を示す。

  56. 後編2-No.256 佐多久政譜

    佐多氏の譜中に、久政に続く「忠常・又太郎・常陸介」の名乗りを列記した極短い記事。人物関係や通称を確認するための系譜的注記で、戦闘経過を記した文書ではない。

  57. 後編2-No.257 島津義久書状

    島津義久が佐多久太郎へ、年頭の祝意と飯野での年越し番の辛労をねぎらい、近日中の境目出張に備えて軍勢を催促するよう求めた書状。必要人数や期限の細目は老者衆から伝えるとしており、出陣準備の実務を示す。

  58. 後編2-No.258 佐多久政譜

    佐多久政が豊州瀧田城を守備中、大軍の攻撃を受けて奮戦死したことと、享年四十二・法名を記す譜記事。城を守ったまま最期を迎えた久政の事績を簡潔に伝える。

  59. 後編2-No.259 島津義久譜

    島津義久が、前年冬以来の大友氏との戦いで忠節を尽くした梶山安藝守を賞し、今後も境目で辛労を重ね忠勤するよう求めた書状。戦功への感謝と国境防備の継続要求を一通にまとめる。

  60. 後編2-No.260 島津義久感状

    本文を省略し、島津義久の署名と「伊集院下野守殿」の宛所だけを掲げた短い掲載形態。前掲文書と同趣旨の感状である可能性があるが、切り抜き上は本文を確認できないため、戦功内容の断定を避ける。

  61. 後編2-No.261 長谷場越前自記

    長谷場越前らが敵の追撃を受け、山際や谷川沿いを夜通し退いた際の戦闘を記す。道を切り開き、鉄砲で応戦しながら日向方面へ離脱する切迫した状況が描かれ、退却中にも敵味方が入り乱れたことが分かる。

  62. 後編2-No.262 長谷場越前自記

    敵の猛攻を受けた島津勢が迎撃と退却を繰り返し、山田越前守らが高城への武具・兵糧輸送を担った経過を記す。戦功への褒賞や酒宴の記述もあり、敗走中にも軍勢を再編し士気を保とうとした現場が分かる。

  63. 後編2-No.263 勝部兵右衛門聞書

    豊後進攻では諸城が次々に降参する一方、岩屋城だけが抵抗し、島津家久・新納武蔵守らが攻め落としたものの大きな損害を出した。その後、関白秀吉と大和大納言秀長の大軍下向を知って撤退を決断し、豊後国内で味方を失いながら追撃を受ける情勢を記す。

  64. 後編2-No.264 勝部兵右衛門聞書

    豊臣勢の接近を受け、島津軍が府内方面から夜半に退却し、阿蘇内坂などで追撃戦を行った経過を詳述する。敵を討ちながら各城へ退く道筋、伊集院肥前守らの配置、各地の守将・戦死者名を列挙し、敗走時の部隊再編と人的損害を具体的に伝える。

  65. 後編2-No.265 長谷場越前自記

    京都から来た豊臣方の軍勢が高城周辺へ布陣し、島津方約三百人が日夜防戦した状況を記す。喜入摂津守らの配置と各隊の構成、兵糧・武具の補給、少数の城兵が大軍へ抗する戦闘が続き、高城攻防の実態が分かる。

  66. 後編2-No.266 長谷場越前自記

    天正十五年四月二十五日、豊臣秀吉が川内の太平寺へ着陣し、西国諸将の大軍と舟橋で人馬を渡した。平佐城へ降伏を迫ると、城方は「賢人は二君に仕えず」と旧主への忠義を理由に拒絶。二十八日には城門・藤崎小路で激戦となり、高木帯刀・谷山紀伊守らが奮戦して京衆・在地衆を感嘆させた。

  67. 後編2-No.267 長谷場越前自記

    木食上人と一色宮内太輔が、豊州在陣中の島津方へ和睦の上使として来訪した。島津軍は帰国後に評定するため開陣し、細島・美々津を経て都於郡へ到着。義久は国の安全につながるなら上使の意向に従うと答え、和平後には伊集院忠棟を人質として遣わし、平野六郎左衛門に敵陣を見分させた。

  68. 後編2-No.268 勝部兵右衛門聞書

    豊臣勢が次々に陣を進めるなか、根白坂付近で島津方が籠城・迎撃し、鉄砲戦と接近戦を重ねた状況を記す。物資と兵糧が尽き、城兵が疲弊しても降参せず、伊集院忠棟らが後陣を支えながら戦い続けたことを強調する。

  69. 後編2-No.269 勝部兵右衛門聞書

    豊臣大軍の来攻と長雨で兵糧輸送が滞るなか、島津義久は再起の余地を残すため和睦を決断し、伊集院忠棟に降参を申し入れさせた。家久・忠棟の見参と和平成立後、佐土原・都於郡へ豊臣勢が入り、続いて秀吉麾下の大名と九州諸勢の帰属を列挙する。島津方の降伏を境に勢力関係が連鎖的に変わる様子が分かる。

  70. 後編2-No.270 勝部兵右衛門聞書

    島津義久が豊臣方へ降参した後、各城の明け渡し、人質、兵船・武具の処置、守将の退去を進めた経過を詳述する。豊臣勢が城へ入り、島津方が領国へ戻るための船と道筋を整える一方、法体となった義久が召見・拝領を受けるまでが続く。軍事的敗北から服属儀礼と領国秩序の再編へ移る過程を具体的に伝える。

  71. 後編2-No.271 長谷場越前自記

    五月上旬、島津義久・義弘らが豊臣秀吉の陣へ供奉し、太平寺で召見を受けた記事。義久が剃髪して竜伯と称し、服属の意を示したのち鹿児島へ帰ることを許され、国中が安堵したと記す。島津家の豊臣政権服属を象徴する儀礼である。

  72. 後編2-No.272 日向記

    筑後・筑前・肥前が秀吉方に属した後、豊臣軍が各城へ入り、兵船を使って河川・海路を渡りながら日向へ進んだ経過を記す。雨天の渡河、兵站、城郭の受け渡し、島津方の退路が描かれ、九州制圧を支えた進軍経路を具体的に追える。

  73. 後編2-No.273 日向記

    秀吉の進発後、豊臣軍は山田有信の守る高城を包囲した。四月十七日、島津方は根白坂の豊臣陣へ夜襲し、宮部法印の陣を破ったが、黒田官兵衛らの反撃で大敗し、島津忠隣以下多数が戦死。敗戦後は伊集院忠棟を人質として差し出し、豊臣秀長の本陣で和睦が成立する。高城攻防の転機を伝える重要記事である。

  74. 後編2-No.274 日向記

    豊臣秀吉が八代から佐敷・日州方面へ船団と兵糧を送り、諸城の降参を受けながら進軍した経過を記す。海上輸送、船橋、陣取りを組み合わせた補給体制と、島津義久が赦免・安堵を求めて服属へ進む政治交渉が併記される。

  75. 後編2-No.275 喜入忠賢喪譚

    豊臣秀吉の大軍下向によって九州諸勢が豊臣方へ属し、島津義久が日向から都於郡へ退いた後、重臣らが今後の方針を協議した記事。北郷一雲斎・伊集院下野入道・鎌田出雲守・本田下野入道・喜入氏父子らが談合し、北郷一雲斎は義久を庄内へ迎えて最後の一戦を行い、島津家の運を開くべきだと強く主張した。降伏か抗戦継続かを…

  76. 後編2-No.276 喜入忠賢喪譚

    山田越前入道利安らが豊後から帰国する途中の動向と、戦後に龍伯のもとへ出仕した経過を記す。太平寺で召し出され、諸家臣とともに御供・拝領を受ける記事が続き、敗戦後に家臣団の秩序を立て直す主従関係が具体的に表れる。

  77. 後編2-No.277 伊地知季安考

    太平寺で島津義久に近侍した「御供七人」について、姓名と人物関係を考証した伊地知季安の注記。伝承によって人数・顔触れ・通称が異なることを示し、古記・家譜・口伝を照合しながら家臣名を確定しようとする史料批判の跡が分かる。

  78. 後編2-No.278 樺山紹剣自記

    豊臣軍の日向進攻で島津方が敗退し高城も包囲されたため、都於郡の義久は討死を覚悟するが、老臣らは大友氏との争いのために天下へ敵対すべきでないと説得した。義久は五月八日に川内で服属し、義弘も十九日に出向く。三州の所領が保たれたため義久は謝礼に上洛し、石田三成・細川幽斎が取次を務めた。

  79. 後編2-No.279 上野隼人覚書

    上野隼人が幼少期から島津家に仕え、高城合戦や豊臣軍との戦いを経て、戦後も奉公と所領給付を受けた歩みを記す覚書。家族・養子、役職、知行の変遷にも触れ、一家臣の履歴を短くまとめた記録である。

  80. 後編2-No.280 勝部兵右衛門聞書

    島津義久の上洛・降伏後、秀吉が九州を治定し、一族を人質に定め、日向諸県郡を又一郎久保へ与えるなど諸大名の知行を再編した経過を列挙する。続いて肥後を拝領した佐々成政が検地を急いで国衆一揆を招き、鎮圧に失敗して摂津で切腹し、その後の肥後が小西摂津守・加藤主計頭へ分与されたことまで記す。九州仕置と検地抵抗…

  81. 後編2-No.281 阿蘇玄与入道黒斎書出

    天正十五年、阿蘇玄与が豊後・日向方面から島津勢が後退するなか、薩州へ帰陣するまでの軍勢配置と籠城戦を回顧した書出。豊臣方の大軍が迫るなか、少勢で城を守り、鉄砲・放火・夜討ち・援軍到着を交えた攻防と死傷を詳述する。やがて関白方の諸将に包囲・追撃され、城兵の命を守るため城明渡しを約して撤退した。戦線崩壊…

  82. 後編2-No.282 新納忠元譜

    天正十五年三月十五日、新納忠元は豊後府内に着き、岡城の志賀氏らが坂梨に陣して退路を遮ったと聞く。以後、坂梨・深水・球磨川・大口城などを経て帰還するまでを日付順に記し、途中の戦闘、城の守備・移動、討死者、伊集院忠棟・平田増宗らの動向までを列挙する。豊後から薩摩方面へ退く島津軍の経路と混乱を凝縮した譜記…

  83. 後編2-No.283 天正十五年覚書

    天正十五年、太閤豊臣秀吉の薩摩出陣、薩摩・大隅・日向三州についての朱印拝領、貫明公(島津義久)の上洛という三項目を簡潔に記す。九州征伐後、島津家が所領認定を受けて豊臣政権下へ組み込まれた政治的転換点を示す覚書である。

  84. 後編2-No.284 島津義久書状案

    島津義久が、前年十二月四日付の御内書を三月五日に拝受したと述べ、敵への防戦について下知を受けたことを謝す返書案。秀吉の命令に背かず別心を持たないと誓い、太刀一腰・馬一疋を進上する。九州征伐直前、義久が恭順の言葉と礼物を示した文書である。

  85. 後編2-No.285 島津忠隣譜

    四月六日、羽柴秀長が二十万騎と記される軍勢を率い、高城・財部間の五十一か所へ陣を構えた。義久・義弘は都於郡で援兵を整え、十七日の根白坂合戦で島津忠隣らが進撃したが、忠隣以下三百余人が戦死した。高城攻防の損害と忠隣の最期を記す譜記事である。

  86. 後編2-No.286 九鬼嘉隆外三名連署禁制

    九鬼嘉隆・脇坂安治・加藤嘉明・小西行長らが、船軍による乱妨・狼藉、放火、住民や船への不法行為を禁止し、違反者を厳しく処罰すると定めた連署禁制。各条の違反者と戦死・負傷者も挙げ、秀吉方水軍が九州沿岸と船団の軍紀を統制したことが分かる。

  87. 後編2-No.287 豊臣秀吉定書

    豊臣秀吉が薩摩国長嶋で百姓への乱妨、無断の伐採、敵対行為などを禁じ、違反者を厳科に処すと定めた定書。九州征伐下で進駐軍と住民双方の行動を統制し、地域秩序を維持するための具体的な禁止条項が並ぶ。

  88. 後編2-No.288 山口伊賀守覚書

    城攻めの際に城内外で戦った武士を、一番から五番までの組、門・櫓・城壁などの持ち場ごとに列挙した覚書。鉄砲・刀・槍による戦闘、誰が討死・負傷したか、敵がどこから侵入したかを細かく記す。守備隊の編成と攻城戦の現場を人名単位で復元できる長大な実戦記録である。

  89. 後編2-No.289 原田市兵衛書

    平佐城が豊臣方の攻撃を受けた際、城兵が門・櫓・城壁の持ち場で応戦した経過を記す原田市兵衛の書。寄手の大将小出大隅守らに対し、少人数の守兵が鉄砲・刀で戦い、討死・負傷者を出しながら城を支えた。平佐城攻防の配置と被害を伝える実戦記録である。

  90. 後編2-No.290 島津義久書状

    島津義久が北郷入道へ、大隅方面の案件と防戦の見通し、領内の処置について返答した書状。困難な情勢でも領分を保持し、後日の相談に備えて日々の措置を怠らないよう求めており、九州征伐直後の所領防衛と家中調整を示す。

  91. 後編2-No.291 島津義珎書状

    島津義珍が、高原の城主・吉田某を庄内へ退かせる件と、高原・飯野の防備を指示した書状。飯野は手堅く保持し、高原は城が弱いため敵が埋草を用いて攻め寄せた場合の対応を説く。また日州安堵が実現すれば宮崎を霧島へ寄進し、高原も同様に寄進するとの立願を示しており、軍事防備と信仰上の誓願が一通に併記される。

  92. 後編2-No.292 新納忠秀譜

    豊後から退陣し、肥後の関城を経て八代へ向かう途中、豊臣方の軍勢が近くまで迫った際の新納忠秀の動きを記す短い譜記事。追撃を受ける撤退路での忠秀の対応を伝えるが、本文量が少なく細部は限定的である。

  93. 後編2-No.293 島津義久譜

    肥後からの退陣時、白仁に在番した島津歳久勢が岡城主志賀道輝らの追撃を迎え撃ち、新納忠元・伊集院久春らが谷山・高城・水引などの防備と撤収に奔走した経過を詳述する。追撃戦や九鬼水軍との交戦、城兵・船の配置、戦死者を記したのち、島津義久が伊集院で剃髪して龍伯と号し、太平寺で豊臣秀吉に出仕して刀二腰と薩摩一…

  94. 後編2-No.294 桂忠昉譜

    島津軍が豊後へ進出したのち、豊臣秀吉の大軍来援を受けて日向・肥後の二路から撤退するなか、桂忠昉が肥後路を退き平佐城へ入った経過を記す。秀吉方の小西摂津守・脇坂中務少輔・九鬼大隅守らが平佐城を包囲すると、城兵は討死を覚悟して抗戦し、高田橋安藝・阿久根權介らも城門で奮戦した。忠昉は落城後に秀吉へ出仕し、…

  95. 後編2-No.295 島津義弘譜

    羽柴秀長が二十万余騎を率いて日向高城を包囲し、島津方が守備兵を増強したのち、四月十七日に根白坂の豊臣方陣地を攻撃した経過を記す。島津忠隣ら三百余人が戦死する大敗となり、島津義久は「天による敗北」と嘆いて和議を決断、伊集院忠棟を人質として秀長の陣へ送った。義久が鹿児島へ、義弘が飯野へ帰り、秀吉への出仕…

  96. 後編2-No.296 桑山重晴書状

    桑山重晴が、島津義久の秀吉への出仕が済み、秀吉の機嫌もよく赦免が認められたことを知らせる。鹿児島の引き渡しも求めないとの意向が示された一方、義久には早急に上洛して、まず羽柴秀長へ礼を述べるよう促している。降伏後の所領処分が緩和され、島津氏が豊臣政権との関係を整え始めた具体的な局面を伝える書状。

  97. 後編2-No.297 島津中務大輔家久譜

    羽柴秀長の大軍が日向高城を包囲すると、島津家久・豊久父子が根白坂の豊臣方陣地を攻めたが、後陣が進まず敗れて佐土原へ退いた。佐土原城も包囲され、藤堂与右衛門尉の勧告を受けて和議・開城に応じる。家久は野尻で秀長と会見して饗応を受けたのち重病となり、六月五日に佐土原で四十二歳で没したと記す。九州征伐最後の…

  98. 後編2-No.298 島津忠長譜

    豊臣軍の九州進攻を受け、府内にいた島津方が軍を日向路・肥後路の二手に分けて撤退したことから説き起こす。島津忠長は義久・義弘に従って根白坂の豊臣方陣地を攻めたが、島津忠隣ら三百余人を失って敗北し、伊集院忠棟を人質に和議を結んだ。その後、義久が剃髪して龍伯と号し太平寺で秀吉に出仕したこと、忠長も剃髪して…

  99. 後編2-No.299 新納忠元譜

    根白坂で島津軍が敗れ、島津義久が和議・出仕に応じたのちも、新納忠元は「ただちに降れば薩隅日三州に男子がいないと思われる」として降伏を拒み、秀吉の首を取る策さえあると主張した。義久は、いったん降伏を約した以上これを破れば忠信を失うと重ねて説得する。忠元は六月中旬にようやく秀吉へ出仕し、長雨で増水した川…

  100. 後編2-No.300 島津中務大輔家久長女譜

    島津家久の長女で根占右近大夫重張の妻となった女性について、天正十五年四月、父家久が羽柴秀長に降伏した際に人質となり、秀長の帰洛に従って上方へ送られたことを記す。上方に長く滞在し、のちに命を受けて豊臣秀吉へ拝謁した際、伊集院幸侃らわずかな随員だけが付き従ったという。九州征伐後に島津家の女性が政治的人質…