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後編2の目録

旧記雑録 天正13年~文禄4年の文書・記事です。

全1,646件中 101~200件・2 / 17ページ

  1. 後編2-No.101 馬原重昌外二名連署起請文

    馬原重昌ら三名が、入田・三田井両家をめぐって前代から続く深い相談関係を、子孫の代まで変えず維持すると誓った連署起請文。互いに別心を抱かず、異変があれば使者を通じて知らせ、従来の取り決めに従って遅滞なく対応することを約束する。在地勢力の情報共有と相互援助を神仏への誓約で保証した盟約である。

  2. 後編2-No.102 島津義久譜

    本文はNo.100の前半と同文であるため省略すると注記した島津義久譜の記事。新納忠元の軍労・長陣を賞し、知行加増を約した感状が義久の譜にも採録されたことを示す参照記事である。

  3. 後編2-No.103 本田親貞書状

    本田親貞が蒲池殿へ、速やかな神文提出と熊本への人質差出しを格別の忠節として喜んだ書状。まず親貞自身から謝意を伝えて太刀一腰・織物一端を贈り、近く鹿児島からも正式な感謝が示されると告げる。神文・人質・贈答を組み合わせて蒲池氏を島津方へ結び付ける外交文書である。

  4. 後編2-No.104 足利義昭御内書

    足利義昭が島津兵庫頭(義弘)からの申し越しを了承し、忠功を尽くすことが肝要だと励ました御内書。詳しい内容は毛利輝元から伝えさせるとしており、義昭・毛利氏と島津義弘を結ぶ政治的な連絡経路を示す。

  5. 後編2-No.105 足利義昭御内書

    本文が別番号の文書と同文であるため省略された足利義昭御内書。この番号には独立した本文がなく、同じ御内書が別の出典・位置にも採録されていたことを示す参照記事である。

  6. 後編2-No.106 島津義久譜

    高知尾へ派遣された宮崎衆の田中筑前が帰還し、入田氏の薩摩方帰属は確実だと報告した島津義久譜の記事。これを受け、十一月二十四日に豊後方と対峙し、梅口・佐伯口から同時に薩摩軍を進発させる計画を記す。入田氏の帰属判断が豊後方面への二正面作戦へ直結したことが分かる。

  7. 後編2-No.107 上井覚兼日記

    天正十三年十一月から十二月、上井覚兼が入田氏の帰属交渉、高知尾・豊後方面への使者派遣、軍勢進発、人質・神文の授受を連日記録した長大な日記区間。押収船と積荷の処分、城番・兵糧・宿所の手配、京都や諸国から届く書状の回覧、豊後攻めをめぐる重臣協議が続く。蒲池氏や周辺勢力の去就を見極め、情報不足や返書遅延に…

  8. 後編2-No.108 伊集院忠棟書状

    伊集院忠棟が星野伯耆守へ、境目の陣での勝報を双方の慶事として喜び、今後も変わらぬ忠節を求めた書状。実信・経重との相談には疎意がないので安心するよう伝え、贈られた矢尻にも謝意を述べる。筑後方面の協力関係を維持するための軍事連絡である。

  9. 後編2-No.109 島津中務大輔家久書状

    島津家久が入田殿へ、高知尾との緊密な関係を重ねて聞いていると述べ、今後は薩州へ二心なく忠節を尽くすよう求めた書状。周辺勢力への働き掛けを進め、神文を取り交わし、母の扶養にも配慮すると約束して、入田氏の島津方帰属を具体的に固めようとしている。

  10. 後編2-No.110 近衛信輔信尹書状

    近衛信尹が新納忠元に、前年秋以来の禁裏近辺と堂上衆の動向、家門をめぐる事情を知らせた書状。 古川主膳入道の件にも触れ、進藤筑後守からも詳細を伝えるとして、京都の公家社会の近況を島津家臣へ直接伝えている。

  11. 後編2-No.111 進藤長治書状

    進藤長治が新納忠元に、古川主膳入道を御使として派遣することや、禁裏・近衛家周辺の事情を伝えた書状。 忠元がたびたび厚意を示していることに謝意を述べ、今後も近衛家への奉公を頼むとして、京都との取次役を果たしている。

  12. 後編2-No.112 島津義久書状案

    島津義久が新納忠元に、上杉方から届いた書状への返答と、京都方面の使者・仲介をめぐる情勢を知らせた書状案。 豊後との戦いが続くなか、諸勢力の和睦や上使派遣に関する情報を共有し、忠元へ今後も尽力するよう求める外交上の指示案である。

  13. 後編2-No.113 近衛信輔書状

    近衛信尹が北郷弾正忠(時久)へ、禁裏近辺と近衛家をめぐる事情を知らせ、従来どおり奉公するよう求めた書状。禁裏の移御や家門に関する難題への対応を述べ、扇子三本を贈っている。京都の公家と島津一門が直接書状・贈答を交わした関係を示す。

  14. 後編2-No.114 島津義久譜

    天正十三年十二月、島津家久・上井伊勢守らが宮崎方面へ進み、高知尾からの情報を受けて豊後勢と戦った経過を記す島津義久譜。敵兵を多数討ち取る一方、退路や補給に苦しみ、家久が高知尾へ援兵・兵糧を求め、入田氏にも働き掛けた。豊後方面の前線での苦戦と補給要請を具体的に伝える。

  15. 後編2-No.115 島津義弘起請文前書案

    島津義弘が龍造寺政家へ、今回の和睦を表向きだけのものとせず、誠実に守るよう求めた起請文前書案。互いに虚言・違背・疎略がないことを神前で誓わせ、秋月種実らを介した関係調整を踏まえて島津・龍造寺間の講和を保証しようとする。北部九州情勢の安定を図る政治的な誓約案である。

  16. 後編2-No.116 新納忠元勲功記

    天正十四年正月、新納忠元が家臣を率いて大口を発し、豊後方の野尻城・高城などへ攻め込んだ戦功を記す「忠元勲功記」。城兵を討ち、城主・人質を確保して諸城を押さえ、入田氏側の人質との交換や服属処理まで進めた。諸隊の配置、城攻め、降参者の扱い、戦後の知行・褒賞を連続して述べ、新納忠元の豊後侵攻における軍事・…

  17. 後編2-No.117 新納忠元譜

    新納忠元が忠増らを率いて豊後方面の城々を攻め、城兵を討ち取った経過をまとめた譜記事。忠元は兵を分け、平田豊前守ら諸将と連携しながら権現城・城ケ尾城・茶飯城などを攻略したとされ、豊後侵攻における新納勢の軍功を顕彰する。

  18. 後編2-No.118 島津忠平義弘起請文

    島津義弘が頴娃左馬助へ、今後も心変わりせず約束を守り、互いに違背・疎略がないことを誓った起請文。梵天・帝釈、四大天王、霧島六所大権現、薩摩鎮守八幡など多数の神仏を勧請し、違反時の神罰を掲げる。軍事行動を前に家臣との結束を神文によって保証した誓約である。

  19. 後編2-No.119 上井覚兼日記

    天正十四年正月、上井覚兼が新年儀礼と豊後戦線への対応を連日記録した日記区間。新納忠元らによる諸城攻略、人質・城郭の処置、高知尾・入田氏との交渉、使者・書状の往来を報告し、軍勢・兵糧・宿所を調整する。羽柴秀吉からの停戦要求や中央情勢も意識される一方、年始の参会、祈祷、寺社参詣、酒宴、連歌、贈答が続く。…

  20. 後編2-No.120 島津義久譜

    天正十四年正月、島津方が豊後の護摩所へ攻め入り、肥後・日向口で軍事行動を進めたことを記す島津義久譜。正月二十三日には羽柴秀吉から新年の書状が届き、義久が細川兵部大輔入道を通じて返書した。豊後侵攻と中央政権への外交が並行していたことを示す。

  21. 後編2-No.121 島津義久書状

    羽柴秀吉が関白として九州の戦乱停止を命じ、島津方が従わなければ討伐すると通告した書状を、上井覚兼の日記から採録した文書。島津義久は正月十一日付で返答し、豊薩和睦への姿勢を述べながら、現状では命令を受け入れ難い事情を説明した。秀吉の九州停戦令と島津氏の抵抗が正面から現れる、九州征伐直前の重要史料である…

  22. 後編2-No.122 島津義久譜

    天正十四年二月十六日、豊後の入田宗和が宮崎へ使者を送り、高知尾境の情勢と志賀道益の動きを報告した島津義久譜の記事。志賀方が大友方の拠点・所領を奪ったのち入田氏との盟約へ傾き、豊後国内へ進出しやすくなったと伝える。入田氏の帰属が豊後侵攻の足掛かりとして評価されたことが分かる軍情報である。

  23. 後編2-No.123 上井覚兼日記

    天正十四年二月十八日から同月末まで、上井覚兼が参会・贈答・酒宴・連歌・寺社参詣と、豊後・肥後方面の軍事情報や秘密書状の取次を記した日記区間。二十三日条では、関白となった豊臣秀吉から九州の停戦と国境裁定の受諾を求める書状が、細川玄旨・宗易の副状とともに届いた件を終日協議する。義久は秀吉を「無由来仁」と…

  24. 後編2-No.124 上井覚兼日記

    天正十四年二月から三月にかけて、上井覚兼が島津家中の参会・贈答・酒宴・連歌・祈祷と、豊後・肥後方面の軍事・外交を日々記録した長大な日記区間。羽柴秀吉の停戦命令への返答、細川・近衛家や京都との書状往来、諸将の出陣・帰陣、城郭・人質・兵糧の処置を協議する。入田氏、高知尾、志賀道益らをめぐる豊後情勢を追い…

  25. 後編2-No.125 島津忠長外二名連署状

    島津忠長・本田親貞・伊集院忠棟の三名が星野伯耆守へ、前年に豊州勢が坂東寺へ在陣した際、肥前との和睦によって速やかに陣を解いた経緯を確認した連署状。その後も合意に背き高良山で対立が続くことを問題視しつつ、秋月種実と龍造寺政家が一致して協議している点を評価する。両家が島津方に属する立場を踏まえ、星野氏に…

  26. 後編2-No.126 殉国名藪

    天正十四年三月二十七日の伊地知蔵人重増をはじめ、天正年間に豊後・筑前・筑紫・日向などで討死した島津方武士を、氏名・戦場・年齢・所属・同時戦死者とともに列挙する『殉国名藪』。岩屋城攻め、豊後陣、高城・赤城など各地の戦死者を収め、父子・兄弟・主従がともに戦死した例や遺族関係まで付記する。九州統一戦で島津…

  27. 後編2-No.127 上井覚兼日記

    天正十四年三月上旬から四月初旬、上井覚兼が狩猟・花見・寺社参詣・酒宴・連歌・贈答を続けながら、豊後・肥後・日向・筑紫方面の使者往来と軍事相談を連日記録した日記区間。羽柴秀吉や近衛家からの書状、九州停戦命令への返答、入田氏・高知尾衆との交渉、諸将の出陣と城郭・兵糧の処置を協議する。返書の遅延や情報不足…

  28. 後編2-No.128 島津義弘譜

    天正十四年三月、近衛信尹から島津義弘へ使者と書状が届き、京都の諸事情が伝えられた島津義弘譜の記事。使者の古川宗心は、羽柴秀吉が近衛家の猶子となったうえで関白に任じられた経緯にも言及した。島津方が公家との連絡網を通じて秀吉の政権掌握を把握していたことを示す重要な記事である。

  29. 後編2-No.129 島津義久書状

    島津義久が島津義弘へ、義弘が筑前へ自ら出陣する意向を了承し、現地の反島津勢力を討つため速やかに行動するよう求めた書状。筑前・筑紫方面の帰趨を島津方へ引き寄せるため、関係者と相談して軍勢を進めるよう指示しており、兄弟間で共有された北部九州進攻の方針が分かる。

  30. 後編2-No.130 島津義久起請文

    島津義久が龍造寺政家へ、龍造寺家との関係を「無二深重」とし、政家の政務を疎かにせず、家中に政家へ背く者がいれば処罰すると誓った起請文。義久自身も家中統制の責任を負い、政家との合意に違背しないことを梵天・帝釈・霧島神などへ誓う。島津氏が龍造寺政家を保護しつつ、その家中を統制しようとした政治関係を示す。

  31. 後編2-No.131 古川宗心書状

    古川宗心が上井覚兼へ、今回受けた厚い懇遇への礼を述べ、飯野に二十日余り滞在し、新納忠元からも格別の厚意を受けたことを報告した書状。十分に礼を申し尽くせないと恐縮し、詳しい事情は対面の際に伝えるとしている。上井・新納両氏による使者接待と、重臣間の人的交流をうかがえる私信である。

  32. 後編2-No.132 渋谷大夫勧進能桟敷之盛

    天正十四年四月十八日から三日間催された渋谷大夫の勧進能について、円形の桟敷に誰が何間分の席を占めたかを図示した配置図。伊集院・本田・上井・平田など島津家中の諸氏を席順と広さで配置し、中央の舞台を取り囲む観覧空間を視覚化する。催事における家格・序列と会場運営を同時に読み取れる、きわめて珍しい図像史料で…

  33. 後編2-No.133 島津義弘譜

    天正十四年四月六日、肥後の伊集院忠棟が、隈部親泰父子に反抗の動きが明白で軍勢派遣を急ぐべきだと注進した島津義弘譜の記事。義弘は上井覚兼を介して日向勢の出動を促したが、十二日の評議で意見が割れ、進発は遅延した。志賀氏・入田氏を支援するため高知尾へ兵を増し、日向勢を警衛に充てようとした経緯から、肥後・豊…

  34. 後編2-No.134 上井覚兼日記

    天正十四年四月から五月にかけて、上井覚兼が豊後方面への出陣準備、入田氏・志賀氏・高知尾衆との連絡、軍勢・兵糧・船・使者の手配を記録した長大な日記区間。近衛家・京都からの書状や羽柴秀吉方への返答をめぐる相談が続き、使者の遅延、情報不足、家中の意見の食い違いに覚兼が苛立つ場面も見える。寺社参詣、法華経講…

  35. 後編2-No.135 久盛坪付

    肥州菊池郡内で久盛に与えられた屋敷・田畠などを、地名と段数・町数によって列挙した坪付。横枕之門、そなか町などの場所ごとに、屋敷・溝越・川めくり等の土地の種別と面積を記す。所領給付の内訳を具体的に示し、菊池郡における土地把握と家臣への知行配分を確認できる土地台帳である。

  36. 後編2-No.136 島津義久譜

    天正十四年五月一日、京都から帰着した鎌田刑部左衛門尉が、羽柴秀吉の九州国分・和平案を島津方へ報告した島津義久譜の記事。肥後半国・豊前半国・筑後一国を大友氏、肥前一国を毛利氏、筑前一国を京都方の知行とし、その他を島津領として和平を成立させるという構想が示された。秀吉が九州諸国を再配分して戦争を終結させ…

  37. 後編2-No.137 伊集院忠棟書状案

    伊集院忠棟が秋月種実へ、昨春以来中国方面へ派遣された使僧の帰国が遅れ、消息が分からないことを案じた書状案。忠棟は秋月氏に、隣国で使僧の動向と開戸辺の状況を聞き合わせ、判明したことを速やかに知らせるよう求めている。広域外交を担う使僧の行方を、筑前の秋月氏を通じて捜索しようとした情報収集の文書である。

  38. 後編2-No.138 島津義久譜

    天正十四年六月七日、兵庫頭島津義弘が、前日の評議を踏まえて豊後への進軍をこれ以上ためらうべきではないと主張した島津義久譜の記事。三之山今宮の託宣が今月中の出陣を促したことを根拠とし、前年に堅志田・三船を手に入れた際にも神託があったとして、今回の出兵にも疑いはないと説く。軍議と神託が作戦決定を支えたこ…

  39. 後編2-No.139 島津義久書状案

    島津義久が進藤筑後守へ、前年十二月十三日付の書状を四月に受け取ったことを報告し、禁裏周辺の御殿整備と警固への尽力を喜んだ書状案。義久も助力したいが、国境各地で防戦が続くため直ちに上洛・奉公できない事情を説明する。京都側との関係を保ちながら、九州での軍事対応を優先せざるを得ない状況を伝える。

  40. 後編2-No.140 島津義久譜

    天正十四年六月十日、豊後の志賀道益・入田氏が上井覚兼へ使者を送り、肥後の新納武蔵守からも同趣旨の注進が届いたことを記す島津義久譜の記事。海合人助に「調伏の矢」を持たせ、六月十四日に豊後へ向かう路上、国見の城腰付近で矢を射させた。軍事情報の共有だけでなく、敵を呪詛・制圧する祈祷的行為を作戦に組み込んだ…

  41. 後編2-No.141 上井覚兼日記

    天正十四年五月から六月、上井覚兼が雨天の軍議、豊後・筑前への使者派遣、志賀道益・入田氏・高知尾衆との書状往来を連日記録した日記区間。近衛家・京都からの返書や羽柴秀吉方への対応を協議し、諸将の出陣、軍勢・船・兵糧の準備、祈祷や調伏の実施を進める。一方で連歌・酒宴・贈答・寺社参詣が続き、覚兼自身の病気や…

  42. 後編2-No.142 島津義久譜

    天正十四年夏、筑紫広門の離反を受けて島津義久が大軍を率い、八代から筑前方面へ諸将を進めた経過を記す島津義久譜の記事。島津忠長・伊集院忠棟を将帥とし、新納忠元・北郷忠虎・上井覚兼らを動員して、大友方の要衝・岩屋城を攻撃した。高橋紹運が籠城して激しく抗戦し、島津方も多数の死傷者を出しながら七月六日に城を…

  43. 後編2-No.143 筑前岩屋城合戦従軍者交名

    筑前岩屋城合戦に参加した島津方の諸将・部隊を、所属・役職・戦死や負傷の注記とともに列挙した従軍者交名。島津忠長、伊集院忠棟、新納忠元、上井覚兼、北郷忠虎らの配下まで記し、鉄砲・弓などの攻城部隊や各家の動員状況も追える。岩屋城攻めの軍勢編成だけでなく、誰が戦死・負傷したかを具体的に復元できる名簿史料で…

  44. 後編2-No.144 上井覚兼日記

    天正十四年六月一日から七月二十九日まで、上井覚兼が筑前・筑紫方面への出陣準備と軍中の日々を記した長大な日記。鹿児島・肥後・豊後・京都との使者や書状の往復、船・兵糧・武具の手配、諸将の参陣、軍議と進発日程を逐日追う。宗麟・志賀氏への対応や秀吉・近衛家をめぐる交渉も軍事行動と並行し、祈祷・連歌・酒宴・射…

  45. 後編2-No.145 新納忠元譜

    新納忠元譜の記事。天正十四年六月、宗和が使者を遣わし、十六日に忠元の弟と記される家久が書状で返答した。十二月二十日には忠元が宗和へ書を与えたことを記し、両者の使者・書状往来を簡潔に伝える。

  46. 後編2-No.146 島津中務大輔家久書状

    島津家久が入田殿へ、大友宗麟下向の風聞を踏まえ、志賀氏一党との「入魂」を固めて豊後国内の味方をまとめるよう求める。京都に置いた使者や鹿児島への照会で返答が遅れた事情を説明し、近日中に加勢を三城表まで差し寄せ、高知尾へ逐次注進するよう促した。豊後国衆の調略と出兵準備を結ぶ書状である。

  47. 後編2-No.147 北郷忠虎譜

    北郷忠虎譜の記事。天正十四年六月十八日、島津義久が筑紫勢の攻略を企てて大軍を鹿児島から出し、七月二日に肥後八代へ入り、諸将が筑紫へ直進したことを簡潔に記す。忠虎が参加した筑紫進攻の発動と行軍を示す記事であり、鷹取城・岩屋城での個別の戦功までは本文に記されていない。

  48. 後編2-No.148 島津義久書状案

    島津義久が毛利右馬頭へ、大坂に派遣した使節が関白殿との対談と懇ろな承諾を得たことを喜び、毛利方の取り成しに謝意を示した書状案。今後も関係を疎略にせず、細部は五戒房が説明すると伝える。秀吉政権との交渉を毛利氏の仲介で継続しようとする外交文書である。

  49. 後編2-No.149 島津忠平書状

    島津忠平が伯耆殿へ、相手方の退治に際して容易に没落へ至ったことを「隣邦の大慶」と述べ、祝儀として届いた使書・太刀・織筋に礼を述べる。今後も吉報を重ねて知らせてほしいと結ぶ祝賀と謝礼の書状であり、筑紫進攻や秀吉方との外交を依頼した文書ではない。

  50. 後編2-No.150 島津世録記

    『島津世録記』の記事。天正十四年六月十八日に筑紫討伐を決し、七月二日に肥後八代へ軍勢を集結した経過を記す。島津忠長・伊集院忠棟・新納忠元・北郷忠虎ら諸隊の編成と進路を列挙し、鷹取城や筑紫広門の降伏、岩屋城での高橋紹運との激戦、双方の討死者へと展開する。大軍の構成から各城攻略までを一続きに示す戦役記事…

  51. 後編2-No.151 長谷場越前自記

    長谷場越前の自記。天正十四年六月十三日に義久が国元を出馬し、肥後八代に在陣して筑後・筑紫へ先陣を送った経過を述べる。島津義弘・歳久・家久、忠長、忠棟、北郷忠虎、新納忠元らの部隊と配下を列挙し、高良山から筑紫方面へ進む島津軍の軍勢編成・指揮系統を詳しく残す。岩屋城内の白兵戦ではなく、合戦前の動員と行軍…

  52. 後編2-No.152 勝部兵右衛門聞書

    勝部兵右衛門聞書。筑紫討伐の評議が起こり、筑紫上野守弘門が以前は帰属を申し出ながら境目へ兵を出したため、義久・義弘・歳久・家久と一門・有力諸将が肥後八代へ集結した経緯を記す。薩州守義虎・島津忠長らを先陣大将とする布陣を示し、筑紫進攻開始時の判断と軍編成を伝える。

  53. 後編2-No.153 日向記

    『日向記』の記事。六月から筑紫出兵を定め、義久が八代に留まり、忠長・忠棟らを大将として軍を進めた経過を編年で記す。七月の高良山着陣、鷹取城・和賀山・筑紫広門の居城攻略を経て、岩屋・宝満方面へ戦線を広げたこと、討死や攻城後の動向をまとめる。筑紫戦役の進行順序を追える記録である。

  54. 後編2-No.154 上野隼人覚書

    天正十四年七月六日辰刻の鷹取城攻撃で、二十九歳の上野隼人佑が土師兵部と一歩も退かず戦い、互いに刺し違えて討死したことを記す覚書。末尾の歌は、その名を「高取の露」として後世に残す忠節をたたえる。個人の年齢・対戦相手・最期が具体的に分かる短い戦功・討死記事である。

  55. 後編2-No.155 長谷場越前自記

    長谷場越前自記。七月六日、筑紫方との防戦を破って町口・板城戸を突破し、筑紫広門の居城へ攻め入った過程を描く。河上左京亮が十文字・八ツ花形に切り回って奮戦し、多数の傷を負って倒れ、介錯された最期を中心に、城内へなだれ込む島津兵と双方の死者を記す。岩屋城ではなく、筑紫方居城攻略の白兵戦を伝える。

  56. 後編2-No.156 勝部兵右衛門聞書

    勝部兵右衛門聞書。七月六日、境目に出た筑紫広門方の軍勢を追い崩し、鷹取城・和賀山を落としたのち筑紫の居城へ押し寄せた戦闘を記す。外構・本丸口で数度の合戦となり、河上左京亮が諸方を駆け回って戦い、多数の傷を負い倒れた。No.155と同じ攻略戦を別証言で照合できる記録である。

  57. 後編2-No.157 勝部兵右衛門聞書

    勝部兵右衛門聞書。七月十四日、島津軍が岩屋城を十重二十重に包囲し、鉄砲・石火矢を交えて攻める一方、高橋紹運は降伏を拒み、城門・岸・城内で激しい白兵戦を展開した。攻め口ごとの進退、将兵の負傷・討死、守兵の奮戦を具体的に描き、落城後は箱崎・香椎への参詣、秋月種実との相談、高良山への軍勢預置、豊後進攻をめ…

  58. 後編2-No.158 島津義久譜

    島津義久譜の記事。天正十四年七月十日に筑紫広門が勝山城を明け渡したのち、十二日に島津軍が天拝嶽へ進み、十四日から高橋紹運の守る岩屋城を包囲した。少数の守兵が矢・鉄砲・石火矢で激しく抗戦し、島津方も多数の死傷者を出しながら城門・城壁へ攻め寄せた経過を詳述する。落城と紹運方の最期に加え、島津方の討死者・…

  59. 後編2-No.159 島津歳久譜

    島津歳久譜の記事。義久が肥後八代へ進んで筑紫城・宝満城・岩屋城を攻略した経過を前置きし、続いて大友氏を討つため豊後進攻を決したことを記す。家久には一万余騎を率いて三重方面へ、義弘には三万七百余騎を率いて肥後から長野峠へ進ませ、歳久も義弘軍に従った。岩屋城一戦の軍功記事ではなく、筑前平定から豊後侵攻へ…

  60. 後編2-No.160 島津忠隣譜

    島津忠隣譜の記事。筑紫進攻で副将となった忠隣は、七月六日の鷹取城攻撃で外門へ迫り、強敵と槍を合わせて八か所余りの傷を負いながら生還した。家臣の脇元城介は忠隣をかばって一歩も退かず討死し、河上左京亮も同日に戦死した。翌七日には忠隣が板添口から岩屋城へ直進して攻略に加わったと記し、忠隣本人が岩屋城で戦死…

  61. 後編2-No.161 島津忠長譜

    島津忠長は筑紫城攻略後、七月七日の岩屋城攻めで自ら前進し、城兵の長刀・鉄砲・投石を受ける接近戦を家臣らと戦った。攻城の激しさと味方の死傷を記したのち、落城後に高橋紹運の子・弥七郎直次(高橋統増)が宝満城から人質として来たこと、なお立花城が降らず使僧を送って開城を迫った経過までを載せる。

  62. 後編2-No.162 樺山久高譜

    樺山久高は島津忠長・伊集院忠棟らの軍に加わり、七月十九日の筑紫広門の居城攻撃で、城門を開いて打って出た敵と白兵戦を交えた。久高は大刀で斬りかかる敵に応戦し、左手などに複数の傷を負いながら戦い続け、敵兵を討ち取ったという。岩屋城ではなく、筑紫広門の居城をめぐる具体的な戦闘記録である。

  63. 後編2-No.163 北郷忠虎譜

    北郷忠虎は七月十四日の岩屋城攻めで、高橋紹運が守る城を四方から包囲する陣の一角を担った。二十七日の総攻撃では、石・木・鉄砲で抵抗する城兵に対し、忠虎も岸壁近くまで進んで攻城に加わった経過を記す。

  64. 後編2-No.164 樺山忠助譜

    秋月種実が、豊後へ進むにはまず筑前の岩屋城を落とすべきだと進言したことから説き起こし、島津軍が城を包囲して総攻撃に移るまでを記す。岩屋城では高橋紹運方が鉄砲・石・長刀などで激しく抗戦し、島津方も多数の死傷者を出した。樺山忠助も城際で負傷しながら退かず、家臣に救われたことを含め、攻城の戦略と個々の戦闘…

  65. 後編2-No.165 大口土浜川西市丞覚書

    七月七日の筑紫岩屋城攻めを起点に、落城後の筑前・筑後・肥前方面の軍事行動を日付順に回想する。秋月種実らとの折衝、諸将・使者の往復、城々の降伏と人質、兵糧・船・鉄砲の手配、仙石秀久ら大友方援軍の情報などを収録する。島津軍が岩屋城攻略後に北部九州を掌握し、さらに豊後侵攻を構想する過程を、現場の軍務・補給…

  66. 後編2-No.166 上井覚兼日記

    上井覚兼が七月朔日から二十九日までの軍務を日ごとに記した長大な陣中日記。筑紫表への出陣準備、諸将との軍議、日州・薩州各衆の配置、使者・書状の往復、兵糧・酒・船・鉄砲の調達を追う。岩屋城では包囲・総攻撃、城兵の抵抗、味方の負傷・戦死と高橋紹運の最期、落城後の捕虜・人質・戦功確認を記録する。さらに秋月氏…

  67. 後編2-No.167 長谷場越前自記

    長谷場越前の回想。七月十四日に武蔵方面へ陣を移し、天拝山を経て岩屋城へ迫った島津軍の配置と、二十七日の総攻撃を詳述する。鉄砲・石火矢・弓・長刀が飛び交い、城戸口や岸壁で敵味方が入り乱れ、長谷場配下も多数の死傷者を出した。高橋紹運方の頑強な抗戦、城内突入と落城、戦後の戦功・死傷確認に加え、安楽寺・太宰…

  68. 後編2-No.168 樺山紹剣自記

    樺山紹剣が、豊後へ進む前提として岩屋城を攻めることになった経緯から、七月二十七日の総攻撃と落城までを回想する。城兵は石・長刀・鎗などで激しく防戦し、島津方も岸壁や城際で組み討ちとなって多数の死傷者を出した。配下の樺山忠助が重傷を負いながら退かず戦ったこと、各隊の攻撃位置や討死・負傷者、落城後の処置ま…

  69. 後編2-No.169 旧伝集

    岩屋城主高橋紹運が島津忠元の降伏勧告を退け、城兵とともに抗戦して討死した理由と、その忠節を語る。大形宗肌責の説話を引き、少数でも主君への恩に報いるべきだという紹運の覚悟を示す、敵将評価として注目される記事である。

  70. 後編2-No.170 前田兼政立願状

    前田兼政が当日の城攻めで高名を立て、武運長久を得ることを願い、願いが成就した場合には鵲戸で七日間参籠し、八幡宮へ連歌百韻を奉納すると誓った立願状。岩屋城攻め当日、武将が戦功と生存への願いを参籠・連歌奉納という具体的な宗教行為に結び付けたことが分かる。

  71. 後編2-No.171 島津義久書状案

    島津義久が彦山座主坊へ、秋月種実の要望に応じた出勢によって筑紫方を容易に退治し、鬱憤を晴らして満足していると報告する。 使僧が丹精した巻数と織筋の到来を喜び、今後も彦山の神慮を仰ぐと述べる。軍事行動の成功と宗教勢力からの祈祷・贈答が結び付いた書状案である。

  72. 後編2-No.172 島津義久書状案

    島津義久が甲斐左近将監・甲斐長門入道へ、方角から回ってきた文書を速やかに取り次ぎ、こちらの願意を届けた対応を賞した書状案。誠実な心底を重んじ、今後も忠節を尽くせば格別に感賞すると約しており、在地勢力との連絡と軍事的な忠節確認を示す。

  73. 後編2-No.173 島津義久譜

    島津義久が岩屋城陥落後、立花城の高橋統増(宗虎)へ降伏を勧めた交渉を記す。 宗虎は、父紹運が義理を守って討死した以上、自分だけ領地と命を惜しんで降るのは恥辱だとして拒絶し、義久もその義理と勇気を認めた。

  74. 後編2-No.174 内田実久書状

    内田実久が三沢村八十町を給付し、外聞を保ちながら収納するよう税所新介へ指示した書状。 所領の引渡しと年貢収納をめぐる実務を具体的に示す文書で、同文の正文が藤野家文書に伝わる。

  75. 後編2-No.175 内田実久書状

    内田実久が三沢村八十町を下地職として与えられたことを税所新介へ伝え、外聞を保ちつつ収納を滞らせないよう求めた書状。No.174に本文を省略して掲げられた同文の実体であり、所領給付後の収納実務と文書伝来を併せて確認できる。

  76. 後編2-No.176 島津義久譜

    立花宗虎が降伏を拒んだのち、島津方が立花城を攻めようとする一方、秋月種実が羽柴秀吉の九州進出を警戒した情勢を記す。 蒲池氏の帰順や筑紫上野介の動向も交え、筑前攻略と中央政権への対応が同時進行したことが分かる。

  77. 後編2-No.177 島津義久起請文前書案

    島津義久が島津義弘との間で、互いに邪心なく協力し、違反者があれば神罰を受けると誓った起請文前書案。 豊後攻めを控えた時期に兄弟の結束を神文で確認した文書で、島津家中の意思統一を示す重要史料である。

  78. 後編2-No.178 島津義久譜

    七月二十九日以降、島津義久が豊後侵攻を見据えて川田駿河守らを派遣し、筑後・筑前の諸勢力と城々を処置した経過を記す。和田玄蕃助の帰参、筑紫上野介・蒲池氏・西牟田氏らの帰順、高良山や周辺諸城への入城・警衛、立花方面に兵を残す配置を列挙する。諸氏の服属が一度に完了したのではなく、使者・人質・守備兵の配置を…

  79. 後編2-No.179 島津義弘譜

    島津義弘が足利義昭から「義」の一字を与えられ、忠平から義珍へ改名したことを記す。続いて仙鏡房や肥後の地衆、新納武蔵守忠元の家臣中馬源丞らが入田氏と書状を交わし、志賀道易ら豊後方の内応を働きかけた経過を載せる。島津方が豊後侵攻に先立ち、現地勢力との秘密交渉と離反工作を進めていたことが分かる記事である。

  80. 後編2-No.180 上井覚兼日記

    上井覚兼が八月朔日から晦日までを記した長大な日記。岩屋城攻めで負傷した覚兼は帰路と療養の様子を記しつつ、立花・宝満・筑紫方面の処置、豊後出兵をめぐる評定、諸将・使僧・寺社との面会を続ける。書状や使者の往復、降伏者・人質・知行の扱い、兵糧・酒・贈物、医師の治療や負傷者への見舞いまで日々記録する。北部九…

  81. 後編2-No.181 上井覚兼日記

    上井覚兼が九月朔日から月末までの動静を記した長大な日記。療養を続けながら出仕・宿所移動・帰陣を重ね、立花・筑紫・秋月方面の処置と豊後侵攻の進発計画を諸将・使者と協議する。書状・起請文・使僧の往復、船・兵糧・武具の手配、降参者・人質・知行をめぐる判断、戦死者遺族や負傷者への対応を日々記録する。茶・酒・…

  82. 後編2-No.182 島津義久譜

    七月十四日、吉利下総守が三城から宮崎へ至り、国境に異変がない旨を上井伊勢守へ報じたこと、井尻伊賀守が八代から封物を携えてきたことを記す。さらに長寿院・大善坊を京都へ遣わし、前年に鎌田刑部左衛門尉を介して関白へ伝えた件を再度説明しようとしたが、鎌田の病で果たせなかったという。国境情報と京都外交の連絡経…

  83. 後編2-No.183 島津義久書状案

    島津義久が鎌田刑部左衛門尉政近を上洛させ、九州境目の事情と島津方の立場を関白へ説明しようとした書状案。 大友氏との対立が続くなか、戦争回避と領国保全を中央政権に訴える外交文書である。

  84. 後編2-No.184 島津義久書状案

    島津義久が石田治部少輔へ、前年春に鎌田刑部左衛門尉を上洛させ、関白への取次を頼んだ経緯を述べた書状案。上意への返答を急ぐべきところ、夏以来の肥後・筑前境の混乱に妨げられて遅延したのは本意ではないと釈明し、今後も仲介を求める。九州の軍事情勢が中央政権との外交実務を直接遅らせたことを示す。

  85. 後編2-No.185 島津義久書状案

    島津義久が、前年春に派遣した使節が到着しなかった事情を述べ、京都との連絡が滞ったことへの釈明と今後の取次を関白へ求めた書状案。 九州情勢を中央へ報告しようとする一方、使者・交通の不確実さが外交を左右したことを示す。

  86. 後編2-No.186 島津義久感状案

    島津義久が筑前若杉で星野一族の兄弟が戦死したことを悼み、今後も変わらぬ忠節を尽くすよう星野氏へ伝えた感状案。 一族の犠牲を顕彰し、遺族を島津方へつなぎ留める戦後処遇の文書である。

  87. 後編2-No.187 島津義久書状案

    島津義久が星野氏へ、いまだ親しく往来してはいないものの、その人物と働きを聞いて頼みに思うと伝え、前年に送った一通の書状が届いたかを尋ねた書状案。世情の変転は予測し難いとして、親子が一致して将来に備えることを求め、内々に相談すべきことがあれば隠さず知らせてほしいと促す。単なる戦功賞賛ではなく、現地勢力…

  88. 後編2-No.188 島津義久書状案

    島津義久が羽柴美濃守へ、前年春に鎌田刑部左衛門尉を通じて申し入れた後、連絡が途絶えた事情を述べる。肥後・筑前方面への軍事対応で返書が遅れたが、関白の命令に従う意向を示し、取次を改めて依頼した。軽い贈物として生糸三十斤を送っており、軍事的緊張のなかで中央との外交関係をつなぎ直そうとした書状案である。

  89. 後編2-No.189 島津義久書状案

    No.188と同文のため、本文を省略して掲げた島津義久書状案。鎌田政近を介した上洛交渉、肥後・筑前方面の軍務による返答遅延、関白への取次依頼、生糸三十斤の贈答を内容とする。同内容が別の文書群にも伝わったことを示す異本・伝来資料である。

  90. 後編2-No.190 島津義久感状案

    No.186と同文の感状案で、若杉における星野一族の戦死を悼み、残る者の忠節を賞して今後の奉公を促す。異なる文書群に同文が収められたことで、感状案の保存・伝来を比較できる。

  91. 後編2-No.191 島津義弘判物案

    島津義弘が志賀安房入道の忠節成就を賞し、本領を望みどおり安堵すると約した判物案。境目の土地事情がまだ十分に分からないため、入り組んだ所領については後日さらに熟議するとしている。豊後侵攻を前に、帰順者へ所領保障を示しながら境界問題の調整を留保した政治文書である。

  92. 後編2-No.192 島津義久譜

    七月十八日に土持氏が県から宮崎へ赴き、上井伊勢守へ兵糧や国境情勢を報じた記事から始まる。大友方の動きと志賀氏らへの帰順工作を重ね、九月には肥後・日向・筑前など各方面の兵を動員し、島津義弘を中心に豊後へ進攻する軍勢と経路を整えた。兵糧の確保、使者・密書、諸将の配置、各城の攻略を連続して記し、島津軍が外…

  93. 後編2-No.193 北郷忠虎譜

    十月十日、北郷忠虎が府内から豊前境へ至る方面の軍に加わり、南郡へ攻め入った経過を記す。鳥嶽城攻略では先陣の兵が城内へ登り、忠虎方も指揮して敵を討ち取ったが、家臣の津曲玄蕃兼詮と前原弥七郎国実が戦死した。高崎城の記事ではなく、豊後侵攻中の鳥嶽城攻めと北郷家臣の犠牲を伝える戦功・戦死記事である。

  94. 後編2-No.194 北郷三久譜

    北郷三久は祖兄の忠虎と十月十日に庄内を発ち、肥後で島津義弘の軍に加わって豊後南郡へ進攻した。鳥嶽城攻めでは北郷勢が先陣を務め、兄弟が城内の屋上へ登って軍を指揮し、敵兵を討ち取った戦功を記す。

  95. 後編2-No.195 島津義久譜

    鎌田政近を介して羽柴秀吉に九州の処置を求めたところ、秀吉は島津領を薩摩・大隅・日向・肥後半国などに限り、豊後を大友、筑前を公領、肥前を毛利領とする案を示した。島津義久は「九州すべてを島津の土地とするならよいが、そうでなければ兵革は止められない」と応じ、軍勢を増強して豊後侵攻へ踏み切った。九州国分案と…

  96. 後編2-No.196 島津義久譜

    島津家久が豊後南郡へ進み、府内近辺の諸城を攻略する一方、大友義統・仙石秀久・長宗我部元親らの大軍が十二月十三日に家久の利光陣へ迫った経過を記す。家久方は河川の増水と地形を利用して伏兵を置き、敵の渡河を待って反撃し、長宗我部信親らを討つ。戸次川合戦から大友方の退却、島津軍の追撃・府内進出までを連続して…

  97. 後編2-No.197 島津義弘譜

    島津義弘勢の豊後侵攻を、進軍路・城攻め・兵員配置・戦死者まで詳しく記す。義弘は肥後口から南郡へ入り、志賀氏らの諸城を攻め、夜襲や伏兵、城内突入を重ねて敵を退けた。各地の軍勢、使者、兵糧、負傷・討死の記録が連続し、島津軍が険路を越えて府内方面へ進む実態と、豊後方の抵抗を具体的に伝える長文の軍記記事であ…

  98. 後編2-No.198 島津征久譜

    島津義久が大友氏討伐のため弟らを豊後へ派遣した際、島津征久も従軍したことを記す。義弘・家久らが南郡へ進み、城郭攻略と追撃を進める中で、征久が一門として担った役割を簡潔に伝える。

  99. 後編2-No.199 島津中務大輔家久譜

    島津義久が日向・大隅・薩摩・肥後・筑後の軍勢を動員して豊後へ向かわせ、義弘が肥後口から南郡へ、家久が日向側の険路から進んだ配置を記す。家久勢は城を攻め、敵の救援軍を河川・険路で迎撃して多数を討ち、府内方面へ追撃した。戸次川合戦を含む家久軍の進路、兵数、攻城と追撃を詳述する軍記記事である。

  100. 後編2-No.200 島津忠長譜

    天正十四年十月、島津義弘が三万七百余騎を率いて肥後境から豊後南郡へ進攻した際、島津忠長もその軍に従ったことを記す。豊後征伐における忠長の所属と従軍経路を示す短い譜記事である。