← 史料目録へ

ARCHIVE DIRECTORY

後編2の目録

旧記雑録 天正13年~文禄4年の文書・記事です。

全1,646件中 701~800件・8 / 17ページ

  1. 後編2-No.701 北郷忠虎譜

    天正十八年秋、帰国した北郷忠虎が鷹一連を豊臣秀吉へ献上し、その返礼として朱印状を与えられたことを記す譜の記事。北郷氏の家譜に、上方への献上と秀吉からの栄典を一続きの奉公として記録している。

  2. 後編2-No.702 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が北郷忠虎から鷹一連が届いたことを喜び、遠路からの厚意をねぎらった朱印状。詳しい返答は石田木工頭から伝えるとしており、No.701の鷹献上に対する秀吉の直接の返礼である。

  3. 後編2-No.703 北郷忠虎譜

    北郷忠虎が紅糸三十斤を豊臣秀吉へ献上し、秀吉から朱印状を与えられたことを記す譜の記事。輸入品である紅糸が大名から天下人への進物に用いられた具体例で、続くNo.704がその返礼文書に当たる。

  4. 後編2-No.704 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が音信として贈られた紅糸三十斤の到着を喜び、遠路からの志をねぎらった朱印状。詳しい返答を石田治部少輔(三成)に委ね、No.703の献上へ応えた文書である。

  5. 後編2-No.705 桑山重晴書状

    桑山重晴が、先ほど竜伯の使者を受けたと知らせ、翌日に「上様」が当地へ来るため、その前に進物を差し上げるよう案内した書状。城へ出向く者はいないので宿へ取り次ぎ、夜明け前に来訪するよう求める。義弘の上洛を知らず連絡できなかったことを詫び、面会時に詳しく述べるとしている。

  6. 後編2-No.706 島津義久譜

    島津義久が鞍馬寺妙法坊で祈誓したのち、島津義弘と大和大納言家を訪れ、増田長盛・石田三成らと会した日程を記す。茶座、舞、宿泊、贈答などを伴う十一月から十二月の上方社交を日付順に掲げ、豊臣政権中枢との接触を具体的に伝える。

  7. 後編2-No.707 島津義久譜

    十二月二日、島津義久が清水寺で国家泰平・子孫繁栄を祈り、翌日は帰国の首途として北野天神へ参詣した。四日には島津義弘と会し、石田三成の席で薩摩・大隅の法度を協議する。五日には近衛前久・石田三成へ暇乞いし、細川幽斎ら多数の来訪を受けた、帰国直前の政治・社交記事である。

  8. 後編2-No.708 島津義久指出案

    島津義久が、自領で把握する田畠と銭成、川役・山役・浦役、そのほかの諸成物の員数を漏れなく提出したと誓約する指出案。隠し置いた分が判明すれば処罰されても異議はないと述べ、豊臣政権による領国把握に応じた厳格な申告文書である。

  9. 後編2-No.709 島津義久譜

    十二月六日、島津義久が京都を発って鳥羽から川舟に乗り、大坂へ着いた帰国行程を記す。近衛前久から馬を贈られ、松浦肥前守の使者とは宝刀と所持の刀を交換した。さらに東国の逆徒蜂起を受け、大和大納言・石田三成・増田長盛らが発向するとの報にも触れ、帰国途上の贈答と政情を併記する。

  10. 後編2-No.710 島津義弘譜

    島津義弘が龍伯に従って大和大納言家へ礼に赴き、京都・大坂を往復した十一月から十二月の日程を記す。細川幽斎の招き、龍伯の帰国、義久を大坂の私宿に招いた終日の酒宴に続き、東国の蜂起を受けて清須中納言秀次・石田三成らが出陣するとの報を載せる。

  11. 後編2-No.711 島津氏系図抄

    世人が豊臣秀吉を「大閤」と称したことを記す、島津氏系図抄の短い注記。秀吉に対する島津家側の呼称・敬称の用例として参照できる。

  12. 後編2-No.712 樺山忠助譜

    樺山忠助譜に収められた、七十九歳の老母・通善周慶大姉の書状と事績。上京して龍伯に供奉する忠助へ、主君への忠節を尽くし、酒色を慎み、病を養い、仏道を忘れないよう諭す。母の教養と家訓、忠助が書を珍蔵して繰り返し読んだこと、母の死と龍伯の追悼までを伝える、家族の情愛が鮮明な史料である。

  13. 後編2-No.713 島津竜伯追悼和歌

    島津竜伯が、聡明で『源氏物語』などに親しんだ姉・通善周慶大姉の死を悼み、仏への帰依と別離を詠んだ追悼和歌。才知ある女性の教養と、姉を失った竜伯の深い哀惜が直接伝わる。

  14. 後編2-No.714 入来院重時知行方目録

    入来院家の所蔵文書として、市比野名のうち納拾八谷津殿先に関する知行方を東郷助左衛門尉へ示した目録。入来院領内における土地の所在と給付先を短い記載から確認できる。

  15. 後編2-No.715 天正年中日々記

    天正十八年の島津義久・義弘らの上方滞在を、日ごとの行動で追う長大な日記。京都・大坂・大和などの往来、寺社参詣、茶湯・連歌・舞・酒宴、近衛前久・細川幽斎・石田三成らとの会見、贈答、病気・天候・宿所までを細かく記す。東国の蜂起に伴う豊臣方の出陣や、帰国に向けた暇乞い・船旅も含み、豊臣政権下で島津家が中央…

  16. 後編2-No.716 島津義久譜

    豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたのち、諸侯へ明朝への渡海と服属を迫る構想を語り、異論を許さない姿勢を示した記事。島津義久も異国渡海の支度を命じられ、その準備のため帰国を許されたが、長い旅宿で病を得て海路に苦しみ、天正十九年正月十四日に鹿児島へ帰着した。朝鮮出兵準備が島津家へ及ぶ最初期の動向を伝える。

  17. 後編2-No.717 佐多久慶譜

    佐多久慶の母が島津左兵衛尉久の娘であったこと、永禄年間の出生、天正十九年に三州の所領改替を受けて旧領知覧から河辺へ移ったことを記す。久慶が同年六月二十一日に没したことも載せ、佐多氏の婚姻と所領移動を簡潔に伝える譜の記事。

  18. 後編2-No.718 樺山紹剣自記

    天正十九年、九州衆が名護屋の普請に動員された際の樺山紹剣の自記。武庫様が高麗渡海の支度と普請を進めるなか、紹剣が先に奉公を果たし、帰国や今後の出仕をめぐって指示を受けた経過を記す。朝鮮出兵を目前にした築城・渡海準備と家臣の奉公調整を当事者の言葉で伝える。

  19. 後編2-No.719 島津竜伯儀久吉書

    「天筆和合楽地福皆円満」の吉祥句に続け、新春の玉の年を祝い、神の加護と子孫繁栄を願った島津義久の吉書。天正十九年正月二日の年頭儀礼と、義久の信仰・祝意を伝える。

  20. 後編2-No.720 朝鮮出兵衆盛

    「唐入」に備える島津勢の軍役人数を一万五千人とし、鉄砲・弓・手鑓・長鑓・幟などの数量と又一郎分の装備を列記する。朝鮮出兵開始前に、島津軍が人員と武器をどの規模で整えようとしたかを具体的に示す動員・軍備資料である。

  21. 後編2-No.721 島津義久書状案

    島津義久が又一郎へ、前年の関東長期滞在の苦労をねぎらい、今年は重ねて入唐の出立準備があると知らせた書状案。度重なる召集と諸国事情のため思うように進まない困難を述べながら、油断なく備えるよう求める。今後、義久個人へ役目が命じられた場合には相手方の配慮を得たいとも依頼しており、朝鮮出兵前の島津家内部の負…

  22. 後編2-No.722 島津義久書状案

    本文はNo.721の天正十九年閏正月付書状案と同文のため省略されている。又一郎の前年の関東滞在をねぎらい、重なる入唐準備への対応と今後の配慮を求めた内容が、別の写しにも伝わったことを示す。

  23. 後編2-No.723 島津義弘書状

    島津義弘が新納武蔵入道へ、京都は平穏であると知らせ、遠国ゆえ長く無音となったことを詫びた年頭書状。若次郎が奉公に励んでいることを評価し、近習として引き続き教え導くよう求める。石田三成とはまだ面会できず、関東から帰る折に会えるだろうとも伝え、在京の政務連絡と家臣教育を併せている。

  24. 後編2-No.724 桑山重晴書状

    桑山重晴が、大納言家の不幸と葬礼のため返答が遅れたことを詫び、島津義弘からの書状内容を承知したと伝える。左様の用件は十八、九日ごろ近辺へ来た際に面会して話したいとし、公家の喪礼と島津方の連絡が交錯する書状である。

  25. 後編2-No.725 島津義久覚書

    琉球・泉・佐土原、御唐入の仕立て、付衆・馬・武者・山立・国振、船、又一郎夫妻の上洛、借物の返済、人質について、検討すべき事項を箇条書きにした島津義久の覚書。朝鮮出兵と上洛を前に、軍勢・輸送・家族・債務・人質を同時に整理していた島津家の実務課題が一望できる。

  26. 後編2-No.726 覚書(義久譜中)

    義久譜中に収載された覚書。又一郎夫妻の上洛、供衆・役人の酒宴、京都での辛労、名護屋への参着、隠居・墓所・国役・国替などの検討事項を列挙する。本文範囲内に義久の署名・実名はなく、差出人比定は収載位置に依存する。

  27. 後編2-No.727 島津竜伯書状案

    島津義久が安宅三郎兵衛尉へ、在京中に龍山から受けた厚意を謝し、大坂出船後に日向細島へ着岸したものの、寒風と虫気に苦しみ帰宅が遅れたと伝える。依頼された歌人名を書き送り、柳介を介した紅糸一斤にも触れる、帰国海路・病気・文芸依頼を併せた書状案。

  28. 後編2-No.728 島津義久書状案抄

    閏正月十日付の島津義久書状案から、大坂を出船して二十七日に日向細島へ着岸し、海上の寒風で虫気を発して帰宅が遅れた部分を抜き書きしたもの。宛先を意斎老と明記し、No.727と同じ帰国海路の苦難が別の相手にも伝えられたことを示す。

  29. 後編2-No.729 島津竜伯書状

    島津義久が安宅三郎兵衛尉へ、在洛中の懇切な厚遇を謝し、順風を得られず途中に滞留した末、十四日にようやく帰着したと報告する。便がなく無音となったことを詫び、今後は島津義弘へいっそうの扶助を加えるよう頼んだ書状。

  30. 後編2-No.730 島津義弘書状

    島津義弘が、祢占重虎から預かった月毛の馬を澤原野の父馬に用いる手配を伝えたのち、伊達政宗の「逆意」をめぐる奥州情勢を詳報する。秀吉が尾張・三枚橋方面へ動座し出馬するとの風聞、石田三成らの動向、場合によっては自身も供をする覚悟を述べ、相手の上洛と名誉にも配慮を求める。家政と中央軍事情勢を一通に収めた書…

  31. 後編2-No.731 前田玄以書状

    前田玄以が又一郎からの書状と厚意に礼を述べ、秀吉の帰京は来月十日までの予定であると知らせる。奥州の件も伊達政宗が間もなく出仕するので安心するよう伝え、又一郎の上洛時に詳しく相談するとした書状。豊臣政権中枢の帰京予定と伊達氏処置を簡潔に報じる。

  32. 後編2-No.732 島津義弘書状

    島津義弘が又八郎へ、中山三めしきの処遇、具足を野副帯刀長に持参させる手配などを伝える。家中の子らが勇健であることを喜び、久保への奉公に疎意がないよう戒めるとともに、伊達政宗の反抗と石田三成の出陣にも触れ、学問・手習いを怠らないよう求めた書状。

  33. 後編2-No.733 島津久保起請文

    島津久保が、前に申し上げた内容に偽りがあれば神罰を受けると誓った起請文。梵天・帝釈天・四大天王、日本六十余州の大小神祇、霧島大明神、天満大自在天神などを列挙し、誓約の厳格さを示す。

  34. 後編2-No.734 川上経久譜

    川上経久が正月二日に八十四歳で没し、法号を祥翁芳麟居士としたことを記す譜の記事。本文は年号を天正十九年壬辰と記す一方、「即文禄元年也」と注記しており、年次表記に注意を要する。

  35. 後編2-No.735 島津義弘書状

    島津義弘が新納伊勢守へ、次郎四郎の暇乞いが石田三成の都合で遅れていること、伊達政宗の突然の上洛で京都が静謐となったことを知らせる。屋形造営、旧来の借物返済、又一郎夫妻の在京処置を鎌田出雲守と熟談し、栗野留守居にも配慮するよう求めた実務書状。

  36. 後編2-No.736 島津義弘書状

    島津義弘が、伊達政宗の上洛が遅れて討手派遣も取り沙汰されたが、四日に突然上洛したため京都は静謐になったと知らせる。屋形造営や諸懸案について鎌田出雲守と相談し、手抜かりなく処置するよう新納武蔵入道へ求めた書状。

  37. 後編2-No.737 川上芳麟経久起請文

    川上芳麟経久が、弓馬の技について尋ねられた事柄を心底から残らず申し上げ、将来その者が親類や他家から推挙された際にも力量に応じて取り立てるよう願った起請文。申し立てに偽りがあれば多数の神仏の罰を受けると誓い、人材評価を神前の誓約で裏付けている。

  38. 後編2-No.738 島津義久書状案

    島津義久が伊地知勘解由左衛門尉へ、在京中の厚意を謝し、大坂から日向細島へ渡海したものの、途中で虫気を発し、唐人の薬も効かず療養中だと伝える。平野某の処遇と玄法印への取次を頼み、紅糸一斤と紫貝十個を贈った書状案。帰国海路・異国薬・贈答が一通に記される。

  39. 後編2-No.739 島津義久書状案

    東国方面の情勢がどのようになっていると聞いているかを問い、情報がなく心もとないと述べた短い書状案。遠隔地の政情について相手からの報告を待つ義久の不安を簡潔に伝える。

  40. 後編2-No.740 島津義久書状案

    島津義久が兵庫頭へ、当地は平穏だが又一郎の上洛準備が進まず、遅くとも八月初めには出立させたいと相談する。白浜二郎左衛門尉の書面、大房下向、図書頭の遅延を問い、長雨で海陸の往来が滞るなか忠長に詳意を託した。銀子百二十目を贈り、上洛・使者・交通難をまとめて報じた書状案。

  41. 後編2-No.741 島津義弘書状

    島津義弘が、伊達政宗の上洛遅延で討手派遣が論じられたものの、四日に突然上洛して京都が静謐になったと伝える。竜伯下向前に協議した屋形造営や又一郎上洛をめぐる手配、白浜二郎左衛門尉からの書面などを挙げ、遅滞なく処置するよう兵庫頭へ求めた書状。

  42. 後編2-No.742 川上芳麟起請文

    本文はNo.737の川上芳麟経久起請文と同文のため省略されている。弓馬の力量についての申し立てと人材推挙を神前の誓約で保証した文書が、伊地知氏所蔵資料にも伝わったことを示す。

  43. 後編2-No.743 長谷場越前自記

    長谷場越前の自記。豊臣秀吉が高麗国王との取り決めが不首尾に終わったことへ憤り、和国の武兵を渡海させるよう命じたと記す。その船津として西国の肥前名護屋に石垣の城を築いた経緯を掲げ、朝鮮出兵前夜の対外認識と軍事拠点造成を伝える。

  44. 後編2-No.744 島津義弘書状

    島津義弘が宰相殿へ、夜に相手の夢を見たこと、月の光や老いの波に重ねて恋しさを語った仮名書きの私信。又一郎や「ゆたん」ら家族の様子、衣類や贈物、月日の暮らしにも細やかに触れ、離れて暮らす妻への思慕と日常感覚が生々しく伝わる。戦況だけでなく家族への心情を読める貴重な書状である。

  45. 後編2-No.745 島津義久書状案

    島津義久が神龍院へ、大汝八幡は大和国三輪から勧請したとする由緒を尋ね、三輪と八幡の関係が判然としないので教示を求めた書状案。遷宮時の書物を差し出し、銀子百二十目や花を贈り、三位殿への取次も依頼する。神社由緒・遷宮資料を照合しようとする義久の宗教的・古典的関心が分かる。

  46. 後編2-No.746 島津歳久一流系図

    島津歳久一流系図の常久の項。幼名を襲装菊丸といい、又吉・常陸守・下総守を称したこと、天正十五年正月十八日に祁答院宮城で生まれ、母が歳久の嫡女であったことを記す。歳久流の血縁と出生を確認できる基礎史料。

  47. 後編2-No.747 島津竜伯証状

    島津竜伯が襲装菊殿へ、父忠隣が先年の日向表で上方勢と戦い、戦死した忠節を証明した文書。忠隣の功名を今後も忘れないと述べ、在洛が続いて発給が遅れた事情を詫びる。幼くして父を失った遺児へ戦功を公式に継承する証状である。

  48. 後編2-No.748 島津義弘譜

    豊臣秀吉が秀次への関白職継承と聚楽第行幸を進める一方、愛児鶴松の死を嘆き、明・朝鮮への征服構想を強めたとする島津義弘譜の記事。北京を帝都として日本を豊臣秀次に委ね、自ら大明へ進む意向を述べ、高麗国王の不服従を理由に諸国へ軍船・兵粮・兵員の渡海を命じた。朝鮮出兵の理念と巨大な動員計画を島津側の記録から…

  49. 後編2-No.749 樺山規久譜

    天正十九年、豊臣秀吉が肥前名護屋城を築いた際、樺山規久も島津義弘に従い、築城・出兵準備に尽力したことを記す譜の記事。朝鮮出兵の拠点造成に島津家臣が動員されたことを簡潔に示す。

  50. 後編2-No.750 安宅秀安書状

    安宅秀安が島津義弘側からの書状を読み、道察を介した相談を承知したと返答する。道察と再度相談するため早く上京したいが、関白の大津動座に伴い石田三成が滞在中なので帰京を待つと説明し、十二日に佐和山を発ち十三日に京都へ着く予定を知らせる。道察を在京させ、用件を整えるよう求めた書状。

  51. 後編2-No.751 島津竜伯書状

    島津竜伯が、筑摩の件を京都から命じられ、求麻へ通路確保をたびたび申し入れたが同意を得られないと伝える。阿蘇方面へ二人を通すため僧侶の路次に支障が出ないよう処置を求め、近隣として今後も互いの用件を取り次ぐよう頼んだ書状。

  52. 後編2-No.752 島津義弘書状

    島津義弘が常喜院へ、栗野への移転が進んでいるかを問い、家内のことに加えて今回の在京には特に心配が多いと述べる。屋形造営の準備が大事業なので援助と祈念を頼み、詳細は普門坊から伝えるとした書状。

  53. 後編2-No.753 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津義弘から端午の祝儀として帷子五領(うち薄絵二領)、染帷子二領、生絹が届いたことを喜ぶ朱印状。北政所にも帷子五領(うち薄絵二領)と生絹二疋が贈られており、義弘夫妻からの進物を具体的に記録する。

  54. 後編2-No.754 島津義久夢想和歌

    島津義久が夢中で得たという一首を記す。「無事の世」を願う趣旨が込められ、戦乱後の安泰を希求する義久の心情をうかがわせる短い夢想和歌。

  55. 後編2-No.755 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津義弘から端午の祝儀として小袖五領を受け取ったことを喜び、返礼の意を伝えた朱印状。詳しい返答は石田三成から申し渡すとしており、島津家の豊臣政権への贈答手続を示す。

  56. 後編2-No.756 安宅秀安書状

    安宅三河守秀安が島津義弘側へ、猪山源右を早々に下すよう求め、本田源右の用件や必要な指示を伝えた書状。末尾に三月五日、安宅三河守秀安(花押)、義弘様参人々御中とある。

  57. 後編2-No.757 安宅秀安書状

    安宅三河守秀安が島津義弘側へ、所持の刀が必要なら申し付けるよう述べ、普請や自身の用向きについて伝えた書状。末尾に五月七日、安宅三河守秀安(花押)、義弘様参人々御中とある。

  58. 後編2-No.758 島津義弘書状

    島津義弘が、聚楽で怪事が続くとの噂から女房衆が荷物を運び出し、国替えや島津家滅亡などの風聞が京都に広がった状況を安宅秀安へ報じる。借物・荷物・京都屋敷の処置、竜伯と久保の立場、関白・石田三成方への説明、借銀や材木不足まで詳述し、誤解を招かぬよう慎重な取次を求める。京都島津家の政治的不安と財政難、生活…

  59. 後編2-No.759 島津義久覚書

    大仏造立用の銅・地金・材木と木食上人との談合、国役負担、伏見城番の人数召集、大膳部少輔への関役一件を奏聞させる件、関屋七郎の勤仕、馬に関する礼などを列挙した覚書。中央の造営・城番負担と家臣・馬の処置を同時に整理している。

  60. 後編2-No.760 島津義久書状案

    本文はNo.740と同文のため省略されているが、No.740の「二月」に対し本号では「五月」と記す注記がある。又一郎の上洛準備、使者の遅延、長雨による交通難などを扱う書状案の異写である。

  61. 後編2-No.761 島津久保起請文案

    島津久保が神文をもって忠勤を誓い、竜伯・義弘の前で不実の讒言があっても事情を明らかにして相手を支えると約した起請文案。天下の事情を踏まえ、今後互いに遺恨を持たず、讒言を避けて精明に談合し、京都でも助け合うことを誓う。

  62. 後編2-No.762 島津竜伯書状案

    島津竜伯が大谷吉継へ、在京中に受けた厚意と帰国後に届いた書状への礼を述べる。琉球から新たに渡来した酒壺一つを贈り、披露を頼んだ書状案で、豊臣奉行との関係と琉球渡来品を用いた贈答が分かる。

  63. 後編2-No.763 島津義弘書状

    本文はNo.1133の島津義弘書状と同文のため省略されている。新納忠元家に収められ、新納次郎四郎忠堯の所蔵と注記されており、同じ書状が新納氏関係史料にも伝来したことを示す。

  64. 後編2-No.764 島津義弘譜

    豊臣秀吉が諸侯へ、翌年に朝鮮へ渡海して八道を征伐する大事業を命じたことを記す島津義弘譜の記事。命令を薩摩へ伝えるため白浜次郎左衛門尉と良庵が五月二十四日に京都を出発し、六月二十一日に鹿児島へ到着した。対外出兵命令が中央から国元へ届く経路と日程が分かる。

  65. 後編2-No.765 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津竜伯から大仏殿用の柱木二本を献上されたことを特に喜ぶ朱印状。詳しい返答は石田三成から伝えるとしており、島津氏が大仏造営資材を負担したことを示す。

  66. 後編2-No.766 豊臣秀吉朱印状

    本文はNo.765の豊臣秀吉朱印状と同文のため省略されている。大仏殿用の柱木二本を献上した文書が別の伝来資料にも収録されたことを示す。

  67. 後編2-No.767 島津忠辰書状案

    島津忠辰が町田出羽守へ、前年に安芸法印の使者が下向し、田畠・浦浜の坪付調査を詳しく済ませたと聞いたことを述べる。指出を添えて進上すべきところ、自身の知行分は安芸法印がすでに提出しているため重ねては出せないと説明し、今回の事情は二人の使者から申し上げるとした書状案。検地・指出提出の実務を伝える。

  68. 後編2-No.768 石田三成書状

    石田三成が島津義弘へ、薩州から近況の連絡がなく、帰国の用意を専一にすべきだと伝える。盆の祝儀として義久から帷子五領、義弘から五領が進上され、大津で披露すると秀吉が喜んで朱印を下したと報告し、自身に帷子三領が贈られた礼も述べる。

  69. 後編2-No.769 島津義弘書状

    島津義弘が、前年に石田三成・細川幽斎・竜伯らの談合で定められた薩摩・大隅の指出提出が遅れていることを問題視する。村数・屋敷・田畠、家臣の知行、米・大豆などの収納を国枡で明確にし、京へ帳面を提出して軍役人数の基礎とするよう重臣四名へ命じた。遅延や隠田・隠人を厳しく戒め、領国把握と軍役編成を連動させる統…

  70. 後編2-No.770 島津義弘譜

    豊臣秀吉が朝鮮出兵に備えて定めた諸大名の軍役人数を、徳川家康・前田利家以下、大名別に列挙する島津義弘譜の記事。島津・九州勢を含む全国諸将の割当兵数が並び、渡海軍を全国規模で編成した準備段階を数量面から示す。

  71. 後編2-No.771 石田正澄書状

    石田正澄が島津義弘の湯治を見舞い、帷子五領を秀吉へ披露すると朱印が下されたと報告する。義弘の帰国に際して大坂へ直行する段取り、軍役人数、隠田・隠人の調査、百姓・家臣の把握にも触れ、渡海軍編成の前提となる領国調査を急がせた書状。

  72. 後編2-No.772 豊臣秀吉朱印掟書

    豊臣秀吉が奉公人・侍・中間・小者から百姓・町人までを対象に、在所と土地支配の原則を定めた朱印掟書。田畠・屋敷の勝手な売買、地下人への不当な夫役、住民の連れ去りや相論を禁じ、居住者を把握して役負担を秩序立てる。違反者を処罰し、地域社会と軍役基盤を統制しようとする法令。

  73. 後編2-No.773 中山王尚寧書状

    琉球中山王尚寧が、使節として下向した直林寺の無事到着を報告し、関八州追伐への祝意を伝える。船を渡海させるにあたり諸事の調達を島津竜伯へ依頼し、国が衰微して十分な方物を献上できない代わりに、表楽人らによる儀式を整えたことも記す。豊臣政権下の島津・琉球外交を示す。

  74. 後編2-No.774 琉球国献上物目録

    中山王尚寧が島津竜伯へ贈った献上物の目録。焼酒一壺、太平布二拾端など琉球産品の品目と数量を記し、No.773の外交書状に伴う贈答の具体像を示す。

  75. 後編2-No.775 島津竜伯書状

    島津竜伯が新納武蔵入道へ、先日の神文提出を賞し、これまでの忠節を改めて評価する。今後も変わらず慎み深く奉公するよう求めた、主従間の誓約確認を示す短い書状。

  76. 後編2-No.776 石田正継書状

    本文はNo.953と同文のため省略された石田正継書状。具体的な用件はNo.953の本文によって確認する必要があり、本号は同文書の別伝来を示す。

  77. 後編2-No.777 島津竜伯書状

    島津竜伯が又一郎へ、公儀用の船十艘を造るため、材木・船大工・道具を急ぎ整えるよう命じる。石田三成の使者が来着して催促した事情、幸侃や長寿院を介した船五艘の分担、京都での人質交替にも触れ、朝鮮出兵を前に造船負担を国元で調整するよう求めた。

  78. 後編2-No.778 島津義久譜

    豊臣秀吉が朝鮮国征伐のため肥前名護屋に本営を築き、西国諸将を現地へ赴かせたことを記す島津義久譜の記事。竜伯も名護屋へ向かうことになり、朝鮮出兵の拠点整備へ島津氏が組み込まれた経緯を示す。

  79. 後編2-No.779 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が来春の唐土征伐に向け、日限を定めて肥前名護屋へ参集するよう命じた朱印状。武具・馬具・鉄砲・銀、兵粮などを準備し、上方からの軍勢に先んじて九州勢が渡海の用意を整えるよう指示する。朝鮮出兵直前の全国動員と兵站準備を伝える重要文書。

  80. 後編2-No.780 伊集院忠棟証状

    伊集院忠棟が、薩州南方山寺の勧化・勧進について、薩摩・大隅両国で寄進を集めることを認めた証状。肝付郡内の鹿屋・高隈・串良・小原・柏原などでも同様に勧進へ応じるよう求める一方、後年の扱いは予測し難いと留保する。寺院勧進の範囲と地域社会への働きかけを示す。

  81. 後編2-No.781 島津忠長譜

    豊臣秀吉が全国の軍勢を催し、朝鮮征伐のため肥前名護屋に本営を築いたことを記す島津忠長譜の記事。竜伯は京都を辞して帰国したが、忠長は島津方の人質として聚楽に残された。豊臣政権下での従属と人質政策を示す。

  82. 後編2-No.782 近衛前久書状

    近衛前久が島津図書頭へ、久しく音信がなかったことに触れ、見立てた栗毛の馬一疋を贈る。馬の詳しい様子は友松斎から伝えさせ、暇ができた折の来訪を待つとした親交の書状。

  83. 後編2-No.783 名護屋城普請次第

    名護屋城普請で島津方に割り当てられた石垣・屋敷の寸法と数量を記した次第。石垣の横幅・高さ、大石崩所、屋敷の間数などを具体的に示し、朝鮮出兵の本営建設で島津氏が負担した普請量を数量的に確認できる。

  84. 後編2-No.784 書状案(義久譜中)

    義久譜中に案文として収載された書状。名護屋普請のため舟本へ赴き、順風を待つ間に虫気を発したこと、兵庫頭が不意に上洛して自身の遅参が本意に背くことを述べ、詳細を町田出羽守に託す。本文範囲内に差出人署名・義久の実名はなく、義久比定は収載位置に依存する。

  85. 後編2-No.785 島津義久書状

    本文は掲載されず、「案文有之」とのみ注記された島津義久書状。具体的な宛先・用件は本頁からは確認できないため、推測を避ける。

  86. 後編2-No.786 島津義久書状案

    島津義久が中山王へ、直林寺書状の日付が六月十一日であることを確認し、寒中の労を気遣う。名護屋の普請場では京都での想定と違う事態が重なり、究明が難しいと伝え、普請衆の尽力を求める。さらに久保が栗野へ着いた際の養生や留守中の混乱、家中の取次にも触れ、琉球関係と普請・家中事情を併せて伝える書状案。

  87. 後編2-No.787 島津竜伯書状案

    島津竜伯が兵庫頭義弘へ、以前からの起請・誓約を重んじ、讒言があっても互いに心を合わせて支え合うよう求める。秘密事を残さず率直に相談し、久保が栗野へ移った後も家中を落ち着かせ、留守中の軽率な振舞いを慎むよう諭した書状案。兄弟と後継者の結束を確かめる内容。

  88. 後編2-No.788 大覚寺宮性舜空性親王書状

    大覚寺宮性舜空性親王が、琉球船の安全祈願を依頼され、七日間の護摩供を勤めたことを知らせる。祈祷の巻数・札守・板物一端を使者に託し、今後も祈念すると約した書状で、琉球航海と寺院祈祷の結び付きを示す。

  89. 後編2-No.789 石田三成署判人質番組

    石田三成が島津家に対し、京都に置く人質の番組と交替方法を定めた書状。島津一門や北郷・新納・肝付・種子島・入来院・根占・喜入などの親類・年寄の子を三組に分け、本田下野入道・町田出羽守・平田左近将監も加えて一組四人ずつ在京させる。義久・義弘・久保が在国する場合の補充、交替期限、私的な相談による勝手な交替…

  90. 後編2-No.790 石田三成署判人質番組(No.789と同文)

    本文はNo.789と同文のため省略されている。石田三成が島津家の親類・年寄の子らを三組に分け、京都に一組四人ずつ在京させる人質番組と交替方法を定めた文書の別写である。

  91. 後編2-No.791 島津竜伯書状

    島津竜伯が石田三成へ、兵庫頭義弘の下向時に相談した所領処置について改めて裁定を求める。朱印地でありながら薩摩から離れているため管理が難しく、水帳・石役などをめぐって国中との調整にも支障があると説明し、替地を含む解決を依頼する。

  92. 後編2-No.792 細川玄旨・石田三成連署覚書

    細川玄旨と石田三成が、大隅・薩摩・日向の蔵入地、寺社領、給人方の諸成物を残らず指出させる覚書。家作・人数についても屋数を付して報告させ、男・女・中間などを分け、判形を添えて提出するよう命じる。豊臣政権による領国把握の実務を示す。

  93. 後編2-No.793 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津修理大夫(義弘)へ、鉄砲以下の武具を整え、国元に残した奉公人も召し連れて来春の高麗渡海に備えるよう命じた朱印状。留守居・妻子・扶持方・人数を帳面にして墨付を取り、帰朝まで統制するよう指示し、詳細は浅野長政・石田三成・石田正澄から伝えるとする。

  94. 後編2-No.794 新納旅庵長住譜

    新納旅庵長住の譜の記事。天正十九年十二月十七日に京都を発ち、名護屋へ使者として向かったことを記す。十二月二十九日に到着して島津方の命を細川幽斎・石田三成らへ伝え、諸国との連絡や唐入り準備に従事した経過が分かる。

  95. 後編2-No.795 島津義久書状

    島津義久が、東国への二度の軍労をねぎらい、遠国ゆえ音信が途絶えたことを詫びる。名護屋へ向かう途中で虫気を発したため義弘と交替して上らせた事情を説明し、唐入りについては準備を怠らず奔走すると伝えた書状。

  96. 後編2-No.796 島津義久書状

    島津義久が琉球国王へ、琉球船の遅滞について京都から重ねて厳しい催促があり、従来の疎略を看過できないとして早急な履行を求める。唐入りと名護屋普請はいずれも天下一統の国役で、九州・端島まで責任を負うべきだと諭し、詳細は新納伊勢守に申し含めた書状。豊臣政権の出兵・普請負担を琉球へ及ぼす内容。

  97. 後編2-No.797 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、来る三月の高麗渡海と仕置に備え、浅野長政の渡海時に島津義久も同時に渡るよう命じる。新納武蔵は妻子を京都へ差し出したうえで義久に従軍させ、大隅・薩摩・日向に残す留守居の妻子も調査して京都へ置き、在陣者を帳面に載せるよう指示する。渡海しない侍を厳罰に処すとした、出兵と人質管理を一体化した朱印…

  98. 後編2-No.798 島津義久譜

    豊臣秀吉が日本を統一した後、朝鮮を経て大明国を征服しようとした構想を記す島津義久譜の記事。日本を神国と位置付け、古代の対外関係や先例を引きながら、朝鮮・明への出兵を正当化する議論を詳述する。文禄の役の思想的背景を知る重要史料。

  99. 後編2-No.799 島津義弘書状(No.730と同文)

    本文はNo.730と同文のため省略され、久保公御譜中にあると注記される。祢占重虎から預かった月毛の馬の手配に続き、伊達政宗の「逆意」をめぐる奥州情勢、秀吉の出馬の風聞、石田三成らの動向、自身も供をする覚悟を伝えた島津義弘書状の別写である。

  100. 後編2-No.800 島津歳久譜

    島津歳久の譜の記事。太守竜伯が祁答院へ赴いた際、宴席で和漢百韻が催されたことを記す。「ふりも来ぬ雨をこめたるわか葉哉」など参加者の句と名を掲げ、島津家周辺の文芸交流を具体的に伝える。