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後編2の目録
旧記雑録 天正13年~文禄4年の文書・記事です。
全1,646件中 801~900件・9 / 17ページ
後編2-No.801 新納忠元勲功記
新納忠元の勲功記。天正十七年以降、忠元への使書、松齢をめぐる内意、大口城普請、家中の調停、日置・児島方面の事件、栗野・鹿児島での動向を年次を追って記す。伊集院忠棟らとの関係や、忠元が讒言・対立のなかで忠節を訴えた経緯も詳しい。末尾では家老・一門・人質の組分け、京都在番と交替まで列挙し、豊臣政権下で再…
後編2-No.802 島津久保覚書
島津久保が、又八郎を公家に取り立てる件、知音の確保、小嶋屋道察への相談、馬乗・旅中役・代官などの担当者を箇条書きにした覚書。上井神五郎には二役、樺山権左衛門尉には旅中の役を命じるなど、久保周辺の随行・家政・交渉を担う人員配置を具体的に示す。
後編2-No.803 島津義弘伝
島津義弘が文禄元年三月二十七日に栗野を発ち、肥前名護屋へ到着したのち、四月十二日に諸将と名護屋を出船し、五月三日に朝鮮慶尚道の釜山浦岸へ着いた経過を記す。領国出発から渡海までの日付と経路を追える、文禄の役初動の記事。
後編2-No.804 豊臣秀吉掟書
大明国出兵に伴い、軍勢が通る海道筋や陣取地の地下人・百姓に逃散を禁じ、従来どおり宿・町で商売を続けさせる掟書。押買・押売や乱妨狼藉を一銭切とし、逃亡した奉公人の受入れ、兵粮・飯米、物資徴発の手続、軍役と人足の扱いまで規定する。行軍先の住民・商業を維持しつつ、軍勢と兵站を統制する重要な軍令。
後編2-No.805 豊臣秀吉条書
唐入りの陣中秩序を定めた条書。侍・中間・小者や人夫の逃亡について本人だけでなく、匿った者や主人・一類にも責任を負わせ、確かな墨付がなければ帰還を認めない。人足・飯米、遠国からの物資、給人の知行・夫役、軍役人数と奉公人の召集などを規定し、身分ごとの動員と兵站を厳格に管理する。
後編2-No.806 年代記
天正二十年正月十二日の大地震、三月十八日の再度の大地震と細河殿の死、七月十八日の淹水で金吾が死去したことを記す。朝鮮出兵期に相次いだ地震・洪水と人的被害を簡潔に伝える災害記録。
後編2-No.807 島津義久起請文前書案
島津義久が、今回の上洛は相手から頼まれたためではなく、京都から数度命じられた趣旨を申し開くためだと述べる起請文前書案。心底に別儀はなく、将来も相手を見捨てないと誓い、中央の上洛命令をめぐる立場と相互信頼を確認する。
後編2-No.808 堀内氏善書状
堀内氏善が島津義弘へ新年を祝い、年頭の礼に宿所へ参上したが、前年に義弘が下向したことを知らなかったと述べる。綺羅三端を贈られた厚意に礼を言い、高麗出陣中に必ず申し述べたいことがあること、当地で用向きがあれば命じてほしいことを伝えた書状。
後編2-No.809 町田久倍・平田歳宗連署状
正月十七日に栗野を出発し、日向国の浜浦から海路を取り、二月二日に大坂へ到着した経過を記した連署状。島津義弘の上方への移動日程と経路を簡潔に確認できる。
後編2-No.810 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が大明国への発向に際し、琉球支配について先年の義久の取次と礼参を踏まえ、従来どおり島津方へ任せる趣旨を示す。あわせて渡海軍の一手としての編成、関所・陣所での裁判と軍役遂行を命じ、詳細は石田三成から伝えるとした朱印状。朝鮮出兵と琉球統制を結び付けた命令。
後編2-No.811 島津忠辰譜
島津忠辰が朝鮮国征伐に際して豊臣秀吉から朱印の教書を与えられたことを記す忠辰譜の記事。次号の朱印状を導入し、忠辰が渡海軍へ組み込まれた経緯を示す。
後編2-No.812 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が島津忠辰へ、陣普請は兵庫頭義弘の一手として務め、薩州一国を義弘の支配に任せた以上はその意向に従うよう命じる。忠辰と義弘が従来疎遠な間柄であっても、互いに心を合わせて協力するよう求め、詳細は二位法印・石田三成から伝えるとした朱印状。
後編2-No.813 島津忠辰譜
島津忠辰が秀吉の厳命で朝鮮へ渡海した後、釜山浦で病を得て軍務に就けず、密かに帰帆しようとして暴風で漂流した経緯を記す。帰国を断念して朝鮮へ戻ったものの、病状が悪化し、八月二十七日に異国の島で四十一歳で死去したという忠辰最期の記事。
後編2-No.814 島津忠辰譜
島津義久が、忠辰は天下に不忠を尽くし、西征で一矢の戦功もなく、かえって外城を狙う謀りをしたため罪を容赦できないと断じた記事。絶家後は子・孫にも再興させないと述べ、忠辰家断絶を正当化する島津家側の論理を示す。
後編2-No.815 石田三成・細川玄旨連署状
石田三成と細川玄旨が、出水の扱いは朱印状により薩州と同様、島津方の一手として命じられたと伝える。琉球については、亀井茲矩への旧命があったものの島津方の取次と琉球国の礼参が上聞に達し、亀井には替地を与えて従来どおり島津方の手力とすると説明する。渡海人数を整え、名護屋で指示を受けるよう求めた連署状。
後編2-No.816 島津竜伯義久覚書
度重なる唐入り準備の命令を受けながら、遠島からの渡海で馬・武者などの仕立てが整わず、十分な軍備が難しい事情を記す。義久は不調法ながら義弘を出立させ、二郎夫婦を上洛させ、自身も秀吉の名護屋着座前に参着すると述べ、安宅・麻生両名に治部少輔・幽斎との取り成しを頼む。
後編2-No.817 島津竜伯・同義弘連署状
昨冬以来相談してきた前代未聞の唐入りについて、全員に残らず命令が下った以上、準備に力を尽くすよう求める。京都からの知らせを受けて倅が出立する前に注進し、その翌日に栗野へ参着して供をすること、決めた出立日を延ばさないことを喜入久道へ命じた連署状。
後編2-No.818 豊臣秀吉朱印状(No.2058と同文)
本文は「二〇五八号文書と同文」との注記により省略されている豊臣秀吉朱印状。本頁だけでは命令の具体的内容や宛先を確定できないため、No.2058との照合を要する重複文書として記録する。
後編2-No.819 島津義弘書状
唐入りに伴う役務について四名が肝煎りしていることを「誠に大切」と評価し、国家のための重大な時節なので、なお一層油断なく尽力するよう励ました書状。本文の「徳役」の具体的内容は断定せず、渡海準備を担う在国実務者への督励として整理する。
後編2-No.820 豊臣秀吉朱印状
高麗渡海を急ぐ秀吉が、小西行長・対馬守宗義智を先行させ、島津義弘にも対馬へ着陣するよう命じた朱印状。四国衆を壱岐に置き、異国相手に手ぬるくしてはならないと戒め、秀吉自身の出馬が遅れても早船で名護屋へ向かうので、油断なく準備するよう督促する。
後編2-No.821 島津義弘譜
豊臣秀吉が朝鮮国征伐を企て、文禄元年二月十七日、栗野にいた島津義弘へ渡海を命じたことを記す。軍勢・兵器の準備が終わらず進発できないなか、わずか二十三騎がこの日に義弘へ供奉したという、島津勢の切迫した出兵開始を伝える。
後編2-No.822 島津久保譜
豊臣秀吉の朝鮮征伐命令を受け、軍勢・兵器・船の準備が整わないまま、島津久保が義弘とともに少人数で栗野を出立した経緯を記す。肥前名護屋・壱岐・対馬を経る航海では、船不足と強風による漂流、諸将の滞留、船団の分散が続き、朝鮮渡海初期の混乱と困窮を具体的に伝える。
後編2-No.823 新納旅庵長住譜
新納旅庵長住が島津義弘・久保父子に従い、二月十二日に栗野を発って肥前名護屋へ着き、壱岐・対馬を経て五月朔日に釜山浦へ上陸した行程を記す。その後、朝鮮国内を進んで江原道金化城に至り越年しており、島津勢の渡海・進軍経路を日付とともに追える。
後編2-No.824 島津彰久譜
文禄元年春、島津彰久が兵庫頭島津義弘の配下として朝鮮へ渡り、義弘の供奉・軍務に従ったことを簡潔に記す。彰久が島津軍の一員として渡海した事実を確認できる人物履歴。
後編2-No.825 北郷忠虎譜
豊臣秀吉の命で島津義弘・久保父子が朝鮮へ渡ったため、北郷忠虎も家臣を島津軍に付け、自ら再渡海して従軍した経緯を記す。のちに大明軍が攻めた泗川新城の戦いでは強敵一人を討ち取り、忠虎の具体的戦功を伝える。
後編2-No.826 島津忠長譜
文禄元年三月二十八日、島津義弘・久保父子が薩摩・大隅・日向三州の兵を率いて朝鮮へ渡ったことを、京都にいた島津忠長が聞いたと記す。在京中の忠長に伝わった島津軍渡海の報知を示す短い記事。
後編2-No.827 桂忠昉譜
文禄元年の朝鮮征伐で、桂忠昉が兵庫頭島津義弘の配下として五月に渡海し、以後六年間にわたって軍務に従ったと記す。長期の海外従軍を簡潔に伝える家臣の履歴記事。
後編2-No.828 樺山忠征譜
樺山忠征が朝鮮征伐に従軍し、島津義弘の近習として供奉したことに加え、義弘から御馬の術を伝授され、繰り返し稽古して身につけたと記す。戦闘だけでなく、陣中における主従間の馬術伝授を伝える珍しい人物記事。
後編2-No.829 大田忠好譜
大田忠好が島津義弘・久保父子に従って朝鮮へ渡り、文禄四年の義弘帰国・上洛にも随行し、二年後の再渡海後も義弘の麾下を離れなかった経歴を記す。大明軍が朝鮮を攻めた際には強敵一人を討ち取ったとし、長期従軍と具体的戦功を併せて伝える。
後編2-No.830 島津竜伯誓詞
島津義久・義弘が、新納忠元の示した三か条と神前での深い決意を高く評価し、島津家と自分たちのための忠勤を決して忘れないと誓った文書。春日・八幡・天満天神を証人に挙げ、主従の結束を神に誓う形式を取る。
後編2-No.831 細川忠興書状
細川忠興が、久しく音信が途絶えたことを詫び、父・細川幽斎の下国を機に新納忠元へ近況を伝えた書状。近日中に島津の国衆が高麗へ渡海すると聞き、子息らも従軍するだろうと気遣い、上方で用事があれば力になると申し出ている。
後編2-No.832 島津義久書状案
島津義久が唐入りに関する厚意へ礼を述べ、義弘が近日出立し、自身も名護屋へ赴いて直接相談すると伝えた書状案。名護屋の仮屋普請では人夫をすでに過半数集め、領国内の準備も遅滞なく進めていると報告する。
後編2-No.833 息長道武立願状
息長道武が、唐入りで留守となる間、毎月十七日の参籠、毎月の百韻連歌、千度参詣を行うと誓った立願状。島津義弘・久保父子の武運長久と大勝利、四海太平、船中安全、軍兵の繁栄を神前に祈願する。
後編2-No.834 島津義久詠草
樺山玄佐の家で島津義久が詠んだ新春の歌と、「子細有て」の返歌を記す詠草。年の暮れから新春へ移る時を寿ぐ歌に対し、池水に深く根差しながら引き悩む真菰草を詠む返歌が添えられ、両者の機微を伝える。
後編2-No.835 盛香集
文禄初年、朝鮮へ渡海する島津義弘の門出に際し、樺山玄佐が主君のために詠み留めた祝歌を載せる。「君が代」を八十余りの自身の年齢に重ね、危険な海外出兵を前に義弘の長寿と無事を願う。
後編2-No.836 盛香集
高齢の新納忠元が、朝鮮へ向かう島津義弘を船元まで見送った際の歌。「唐土まで付き従いたいと思ったのも昔になった」と詠み、老齢のため渡海できない忠元の無念と主君への強い思いを伝える。
後編2-No.837 盛香集
島津義弘が新納忠元の見送りの歌に答えた返歌二首。唐土へ心を通わせる忠元の忠誠を受け止めつつ、身は故国へ帰るという趣旨を詠み、遠征する主君と在国の老臣の別れを映す。
後編2-No.838 樺山紹剣自記
文禄元年、秀吉が名護屋へ下向し、朝鮮へ出征するなかで、樺山紹剣が島津義弘・久保らの移動や各地での宿泊・歓待・贈答・詠歌を記した記事。船や宿の手配と歌の応酬から、渡海準備を支えた家臣団の実務と文化的交流が分かる。
後編2-No.839 長谷場越前自記
島津義弘・久保の出国と、翌日の島津義久出馬、肥前名護屋への参陣、船団の渡海を追った自記。壱岐・対馬を経る途中では風波に遭って船が離散・引き返し、朝鮮上陸後も軍勢の配分や補給に苦心する様子を記し、島津勢の出兵行程を実見に近い形で伝える。
後編2-No.840 島津義弘願状
島津義弘が渡唐に向けて名護屋へ出陣するにあたり、神慮によって武運を得て面目を失わず、島津家が長久し、無事帰国できるよう祈った願状。帰国がかなったなら、愛宕へ八木百石ずつを七年間奉納すると誓い、祈念を願っている。
後編2-No.841 島津義弘譜
島津義弘・久保父子が三月上旬に大口へ出発し、肥前唐津で諸将の集結に加わったことを記す。渡海船が到着しなかったため唐津で日を重ね、般若寺別当坊に滞在して出航を待った、朝鮮渡海直前の足止めを伝える。
後編2-No.842 豊臣秀吉朱印状
琉球国への返書について、出馬時の混乱で作成した先の文面が秀吉の意向に沿わないため、改めて書き直して遣わすよう命じた朱印状。旧朱印状を返上させ、琉球使者には路銀として銀子百枚を与えることも指示する。
後編2-No.843 石田三成書状
石田三成が、島津久保の内儀がまだ上洛していないため秀吉の機嫌を損ねていると伝え、早急な上洛と細川幽斎による取次を求めた書状。渡唐軍勢の人数不足、船・兵糧・武具の手配にも触れ、島津父子の出陣準備を細かく督促する。
後編2-No.844 島津義弘書状
島津義弘が渡唐準備の米・銀・船・兵糧の不足と借用・調達方法を相談し、家中の担当者へ具体的な処置を指示した長文書状。久保内儀を日向の船本から上洛させる手配、義弘自身の持病と参陣の遅れ、久保への連絡など、兵站と家族問題が重なった切迫した状況を伝える。
後編2-No.845 島津義久書状案
島津義久が、安宅船三艘への配慮を喜び、久保方の船による上洛について、悪天候で船便が全面的に止まったものの、天候の回復後には出船できる見込みを知らせる。 自身も早く参陣する予定だったが、持病のため養生を余儀なくされ、諸事の手配も進まず延期していると説明する。用事が済み次第参上するとし、前年の下国以来頼…
後編2-No.846 朝鮮日々記
秀吉の朝鮮出兵に伴い、日本軍が肥前名護屋から壱岐・対馬を経て朝鮮へ渡る航路、港間の距離、船団・軍勢の規模を記した日記。釜山浦への上陸までの行程と、加藤清正・小西行長・島津義弘ら諸将の配置を列挙し、渡海作戦の全体像を示す。
後編2-No.847 島津義弘書状
島津義弘が、渡唐に必要な米・船・人員などの処置を示し、国元の重臣四名に相談のうえ速やかに実行するよう求めた書状。軍船・兵粮・人員の調達遅延が出陣と家中の体面に関わるとして、各所への催促と役割分担を厳しく督促する。
後編2-No.848 落合重次書状
落合重次が、長く書状を送らなかったことを詫び、鷹之巣の件で朱印を受けたものの、椎葉山に以前からの主張があるため下向を延引していると伝える。先に使者を遣わして根拠を調べ、前年に置いた鳩もこの便で渡してほしいと頼み、朱印を持参したので受け取るよう四名へ求めた。
後編2-No.849 島津久保書状
島津久保が、左京亮の普請での苦労をねぎらい、留守中の国元の諸事を新納忠元に任せると伝えた書状。渡唐船がまったく回らず体面を失いかねない窮状を訴え、船を確保して島津義弘に従い渡海できるよう尽力を求める。
後編2-No.850 島津義弘書状
島津義弘が、十分な出陣準備が整わないまま渡唐へ向かう事情を述べ、義久の身上と島津家のため国元を支えるよう新納忠元に頼んだ書状。兵粮・船・人員の不足を挙げ、油断なく調達を進め、久保と義弘の渡海を遅らせないよう強く求める。
後編2-No.851 島津竜伯書状案
綾船の進物の扱いがなおざりだと石田三成が聞き、気の毒に思って安宅船を早く下着させたと伝える島津義久の書状案。三成から直接申し渡された以上、油断なく船・進物の処置を進めるよう建善寺へ求める。
後編2-No.852 長寿院盛淳書状
長寿院盛淳が、島津義久の上洛中、神前で毎日油断なく祈祷するよう二之宮隠岐守へ伝えた書状。祓についても怠りなく行い、何か不足や問題があれば事前に知らせるよう求める。
後編2-No.853 島津義弘譜
秀吉が朝鮮征伐を決めて筑紫へ向かうにあたり、群臣の諫言に対して国内統一後の対外出兵の意図を述べた経緯を記す。朝廷での奏聞、石清水での秘楽・祈祷、京都出発と各地の見物、名護屋への兵粮下賜、四十八万余の大軍と水陸諸将の動員までを連ね、朝鮮出兵を正当化する政治・儀礼・軍事動員の叙述となっている。
後編2-No.854 北郷三久譜
文禄元年春、北郷三久が秀吉の朝鮮出兵命令を受けた島津義弘・久保父子に従い、朝鮮の陣に加わったことを記す。従軍中に数多くの城郭攻略へ参加して戦功を挙げたとする、三久の軍歴記事。
後編2-No.855 北郷久武譜
文禄元年三月、北郷忠虎が朝鮮へ軍を率いて渡海した際、北郷久武もこれに従ったことを記す。久武が北郷勢の一員として海外遠征に参加した事実を示す短い家譜記事。
後編2-No.856 樺山久高譜
肥前名護屋で島津久保が樺山久高を召し出し、朝鮮従軍を命じるとともに「樺山権左衛門尉」と改名させ、知行を与えた経緯を記す。島津義弘・久保軍への編入と、出兵を契機とした家臣の登用・身分形成が具体的に分かる。
後編2-No.857 征韓偉略
小西行長・宗義智・松浦鎮信らの軍が釜山周辺へ上陸し、城を攻略して敵を追撃した経過と、その後の海上戦を記す軍記記事。追撃中の混戦や味方同士の誤射、朝鮮水軍の攻撃による船兵の損害、敵船への反撃・奪取までを描き、陸海両面の戦闘の混乱を伝える。
後編2-No.858 薩隅日寺社領注文
薩摩・大隅・日向各地の寺社領を、地域・寺社・村ごとに「上地」と「寺付」に分け、町・反・畝・歩単位で列挙した大部の土地注文。伊集院・谷山・永吉・田布施・日置・帖佐・入来院など多数の地域について、寺社に残す分と召し上げる分を数量で示す。島津領国内の寺社所領再編、地域別の土地把握、寺社政策を比較できる基礎…
後編2-No.859 吉松般若寺領覚書
吉松般若寺と周辺寺社家の所領について、田畠の三分二を召し上げること、小寺社も同様に扱うこと、寺社衆の格式を保つことなどを定めた覚書。上田・中田・下田の等級ごとに一町当たりの銀子額を示し、寺領再編時の補償・評価基準を具体化している。
後編2-No.860 般若寺領京縄田数書上
般若寺領の京縄による田数を、本坊分・島方分などに分け、反・畝・歩と米高で書き上げた記録。寺領内部の耕地面積と収穫・負担量を具体的に把握でき、前文書の寺領再編を数量面から補う。
後編2-No.861 豊臣秀吉朱印状
秀吉が高麗渡海に用いる九州・四国・中国の船団に対し、諸将が相談して一斉に海を渡り、高麗側の舟着場へ陣取って注進するよう命じた朱印状。順風を十分に見極めて越度のないよう慎重に渡海することを求め、先勢の行き詰まりを受けて秀吉自身が四月十九日に小倉へ着いたことも知らせる。
後編2-No.862 島津義弘譜
文禄元年四月十五日夜、唐津からの出航を控えた島津義弘の船団が暴風に遭った経過を記す。西海へ進んだものの逆風で航行できず、数里進んだ後に引き返して風本へ戻ったという、渡海直前の海難と遅延を伝える。
後編2-No.863 豊臣秀吉禁制
「禁制 高麗国」と題する豊臣秀吉の禁制であることのみを掲げた史料。本頁には具体的な条文が収録されていないため、現地での禁止事項や適用範囲は確認できない。
後編2-No.864 豊臣秀吉掟書
高麗へ渡る軍勢のうち兵粮のない者へ切手に応じて三人扶持を渡すこと、帰住した百姓・町人には米銭を相応に支払い、勝手に物資を取らないことを定めた掟書。留守宅の財物管理、犯罪者の上申、誓紙による法度遵守も命じ、占領地での補給と住民・財物の扱いを具体的に規制する。
後編2-No.865 島津竜伯感状
島津義久が、唐入りという島津家の危機に際し、新納忠元が地頭職分を差し出し、長年粉骨して奉公した功を賞した感状。忠元の忠節は他に比べるものがなく、今後も決して忘れないと約束しており、主従関係を示す重要史料。
後編2-No.866 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が、名護屋に三十日ほど滞在して先に軍勢を渡海させ、その後に本隊を進めるよう命じた朱印状。 十分な軍勢と直轄船を整え、一方面二万人規模で高麗へ進む構想を示し、拙速な渡海を戒めている。
後編2-No.867 豊臣秀吉朱印状交附目録
四月二十八日付の豊臣秀吉朱印状を、島津義弘・久保をはじめ、松浦・有馬・加藤・黒田・小西などの諸将へ各一通ずつ交付した目録。 同一命令がどの軍団・大名へ伝達されたかを一覧でき、朝鮮渡海軍の命令網と編成を復元する手掛かりとなる。
後編2-No.868 島津豊久譜
豊臣秀吉は民間の出身ながら寛仁・勇猛で関白に昇り、四方の朝敵を討って天下を一統したが、なお満足せず明・朝鮮を掌中に収めようとしたと叙述する。肥前名護屋に陣営を築き、文禄元年春に二十余万の軍勢を集めたところまでを記し、島津豊久の従軍記事に先立つ朝鮮出兵の背景説明となっている。
後編2-No.869 豊臣秀吉朱印状
秀吉が島津豊久へ、名護屋に三十日ほど滞在する間に先勢を渡海させ、その後に本隊を進める構想を伝えた朱印状。各自の船を慎奉行とともに名護屋へ差し上げ、兵力をまとめて一方面二万人ほどで高麗へ進み、準備や軍勢の状況を注進するよう命じ、拙速な渡海を戒めている。
後編2-No.870 島津義久譜
肥前名護屋で徳川家康が大病を患った際、島津義久が秘蔵の薬と処方を提供し、典薬らの診療を助けたという記事。 家康は薬を服用して回復し、義久に謝意を示したとされ、朝鮮出兵の本営で生じた大名間の医療交流を伝える珍しい逸話。
後編2-No.871 島津義弘譜
四月二十八日に日本軍船団が順風を得て釜山浦へ渡り、上陸後に釜山城・東萊城を攻略した経過を詳述する義弘譜の記事。 鉄砲射撃、秘密の進路を使った包囲、守備兵との激戦を経て、小西行長らが忠州方面へ進撃するまでを描き、侵攻初期の戦術と損害が分かる。
後編2-No.872 島津義弘譜
忠州に集結した小西行長・加藤清正らが漢城進軍の先陣を争い、複数の進路に分かれて王城へ迫った経過を記す。 行長勢が先着して城門を破り、朝鮮国王が逃れた都を占領するまでを描き、諸将間の競争と侵攻速度が分かる。
後編2-No.873 殉国名藪
朝鮮出兵中に死亡した島津家臣について、年月日・姓名・所属や死因の注記を列挙した戦没者記録。 尾崎新兵衛正義、持永右馬允盛政、野々村伝右衛門、伊集院関係者などを挙げ、島津軍の人的損失を個人単位で追える。
後編2-No.874-1 島津義久詠草
「時しもあれ、けふ又夏に咲きかへる池の藤、なみなみにやは見ん」と、夏に返り咲いた池の藤を詠む。 続く返答文では、珍重な作意を殊勝と評価し、口上で承った趣旨をよく理解したと述べる。季節外れの藤をめぐる和歌と消息が一体で残る、島津義久の文芸交流を示す史料である。
後編2-No.874-2 島津竜伯詠草
冒頭に「観音薬師」と題する仮名書きの一節を掲げ、続いて松葉を濡らす夕日の時雨、浪間に現れる夜の千鳥、風もない神垣の雪を詠んだ歌を収める。 末尾には「右三通」と竜伯の署名があり、自然景を光・音・静けさの対照で捉えた詠草である。冒頭部分の語句と歌意は難解なため、解釈は要確認。
後編2-No.875 島津竜伯詠草
「夕立の朝まだきよりかかり来て、流れの堤こゆる白波」と、夜明け前から降りかかる夕立が、堤を越える白波のようになる景を詠む。 端書には「薩州太守嶋津殿」「龍伯短」「壬辰」などの記載があり、按記は壬辰を文禄元年と比定する。竜伯の自然観と伝来時の整理情報を併せて確認できる詠草である。
後編2-No.876 島津竜伯感状
島津義久が、前年の日向で忠節を尽くした功を改めて賞し、希望された大隅山田城の所領・処置を認めた感状。 今後も引き続き奉公に励むよう求めており、戦功評価と城地給付を結びつけた文書である。
後編2-No.877 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が、端午の祝儀として生絹三疋・染物二点・帷子五領を受け取ったことに礼を述べた朱印状。詳しい返答は石田三成から伝えるとしており、野村備中守から秀吉への季節贈答と取次関係が分かる。
後編2-No.878 島津竜伯書下
島津義久が、義弘・久保父子の渡海後、自身も名護屋へ参陣するため、高麗への補給、名護屋在陣、京都での調達・執代を重臣たちに協議させた書下。 長年の在京で領国が困窮するなか、各担当が昼夜油断なく職務を果たし、留守中の国政を支えるよう命じる。
後編2-No.879 島津竜伯書下
前文書とほぼ同じく、義弘・久保の渡海と義久の名護屋参陣に伴い、高麗への見継ぎ、京都・名護屋での調達、領国内の執務を家臣団へ分担させた書下。 交付先を別の家臣群にした同文系統で、島津家が複数の重臣へ同時に留守国統制を命じたことが分かる。
後編2-No.880 島津義久袖判覚書
島津義久が、大豆・代米の調達、高麗・名護屋・京都への見夫、軍勢の配置、夜昼の談合、耕作、造船材、反米・徳役米、返地配当など、出陣期の国元運営を列挙した袖判覚書。 案件が決着するまで拙斎・肱枕・利安・鎌雲らを帰宅させず、鹿児島に交替で三人ずつ詰めさせるなど、実務担当者の勤務体制まで具体的に定める。
後編2-No.881 島津又一郎久保書状
島津久保が、国元の船一艘と各地で借りた船を乗り継ぎ、ようやく朝鮮の釜山海まで渡った状況を宰相殿へ知らせる。 諸大名が船を飾って渡海する様子や、船不足・同行者への気遣いをかな書きで伝えており、若い久保の朝鮮渡海を身近に伝える私信である。
後編2-No.882 島津義弘書状
島津義弘が、国元から船が上らないため、名護屋から壱岐、対馬を経て借船を乗り継ぎ、供五・六人ほどで朝鮮の釜山海へ到着した経緯を妻の宰相殿へ知らせる。 船酔いと航海の苦労、船の破損や修理、同行者の動静を細かく記し、釜山周辺の広さや現地の様子にも触れる、朝鮮渡海直後の私信である。
後編2-No.883 島津義弘書状
島津義弘が、国元の船が来ないため四月二十七日に対馬の名室湊から雇船で渡海し、毛利壱岐守の船と合流して夜間に川口へ入った航程を報じる。朝鮮での城取り・軍役、諸船の遅延、兵粮・替米、国元の家族・所領処置まで案じ、山田理安・鎌田出雲にも別紙を送るなど、渡海直後の軍事・兵站・家政上の懸念が交錯する長文書であ…
後編2-No.884 島津義弘書下
島津義弘が、渡唐船が一艘も戻らない状況下で高麗へ渡海した船頭の働きを「粉骨無比類」と評価し、帰国時に栗野へ出頭させるよう伊勢長門入道へ命じる。 危険な朝鮮航路を担った船頭への褒美を約した書下で、渡海船員の功績認定を具体的に示す。
後編2-No.885 島津義弘書下
島津義弘が、高麗渡海を果たした船頭の働きを比類ないものとして褒賞し、帰国の際には栗野へ出頭させるよう本田紀伊入道へ命じる。 No.884と同趣旨ながら宛先が異なり、複数の担当者へ船頭の功績と褒美方針を周知した書下である。
後編2-No.886 加藤清正書状
加藤清正が、翌日の陣替えについて自分の分は八年衆へ申し付けたことを伝え、前夜に右馬・幸侃が訪れて相談できたことへの満足を述べる。 先陣で改めて話すとして筆を省いた短い書状で、朝鮮陣中における部隊交替と武将間の打合せが分かる。
後編2-No.887 島津忠恒(のち家久)書状
島津忠恒が、出陣以来便りがないことを案じ、近日中に引陣するとの情報が確かなら、武庫様父子の動静を直ちに知らせてほしいと抽斎へ求める。 帰陣をめぐる不確かな情報のなかで、父子の安否と軍の動向を急いで確認しようとする短い陣中書状である。
後編2-No.888 島津義久譜
文禄元年五月、秀吉が肥前名護屋へ下向した後、島津義久も鹿児島を発ち、伊集院・串木野を経て移動した日程を記す。十八日には朝鮮から串木野へ帰着した船が、義弘・久保父子が無事に釜山浦へ到着したと報告した。その後も船の帰着・出航、風向、寄港、乗員や荷物の動きを日ごとに追い、国元と朝鮮戦線を結ぶ海上交通と情報…
後編2-No.889 島津義弘譜
小西行長が進南大門から侵攻し、加藤清正が王城へ入ったのち、逃れた朝鮮王子を追って捕縛するまでの軍事行動と、王子の扱いをめぐる清正・行長らの応酬を記す。 秀吉への報告や、清正を東北道、行長を西北道へ向かわせる軍勢配分にも触れ、漢城攻略後の追撃と占領方針を島津側の譜から見た重要な記事である。
後編2-No.890 新納為舟忠元坪付
新納忠元(為舟)が、薩州牛山院大口のうち太田名一段について、永代買得地として坪付を作成した文書。 土地の所在と面積、買得による権利を簡潔に証明しており、戦時下における薩摩国内の土地取引を示す。
後編2-No.891 島津忠長外四名連署坪付
島津忠長ら五名が、日向国志布志の伊屋松門・山口・山の口・松か迫などに散在する田地を列挙し、合計一町七反八畝五歩として上原筑前守へ与えた連署坪付。 各小字の反別を細かく積み上げた土地台帳で、島津家中の給地配分と五名の連署による権利確認の実務が分かる。
後編2-No.892 豊臣秀吉覚書
豊臣秀吉が、諸将の代官所内に所領がある場合、代官の在陣・留守中はその郡の物成を収納して保管し、担当する代官所の法度を各自が厳重に申し付けるよう定めた覚書。朝鮮出兵で在地支配者が不在となるなか、年貢収納と領内秩序を維持するための留守居行政を示す。
後編2-No.893 豊臣秀吉高麗出勢書立並法度
豊臣秀吉が、小西行長・加藤清正ら朝鮮出兵諸将を複数の先懸隊に分け、各隊の人数と指揮官を詳細に列挙したうえで、一日交替で進軍するよう定めた書立・法度。総勢十二万人規模の編成、三組による番替、軍律の遵守、後続部隊との連携を命じ、渡海兵を順次投入して明国へ進む構想を具体化した、朝鮮出兵初期の動員・作戦計画…
後編2-No.894 川上久辰譜
川上久辰が五月に渡海して王城へ向かう途中、六月十五日に山中で数千の敵兵に襲撃され、豪雨で火縄が使えなくなるなか久保城助ら十五人が戦死した経過を記す。 久辰は負傷者とともに清州の小早川隆景陣へ入り、乃美孫兵衛らの保護を受けて釜山から帰国した。島津勢の渡海・行軍・遭難と損害を個人の譜から追える貴重な記事…
後編2-No.895 止上社領坪付
止上社領として、北俣免の宮之前・おとかてん・宮田・国まつに所在する田地の坪付を作成し、反別を列挙して谷口安房介へ示した文書。 複数の小字に分かれた社領の位置と面積を確認する土地台帳で、神社領の管理と給付の実務を伝える。
後編2-No.896 昭高院如雪書状
昭高院如雪が、生糸三斤の贈答に礼を述べ、高麗が早く平定されたことへの労いと、島津久保の内儀が上洛する際には相応の世話をしたいとの意向を鳥津入道へ伝える。 詳細は友枕斎に申し含めたとしており、朝鮮出兵の戦況認識と、島津家女性の上方移動をめぐる支援が同時に記された書状である。
後編2-No.897 近衛前久書状
近衛前久が、義久の息女のことを安心するよう伝え、扇十本を贈るとともに、三月十八日付の書状を六月三日に受け取ったことや、義弘・久保の渡唐、久保内儀の上洛などを話題にする。 金子・所領・建築をめぐる相談にも触れ、朝鮮出兵中も続いた近衛家と島津家の私的・政治的な交流を具体的に伝える龍伯宛の長文書状である。
後編2-No.898 朝鮮日々記
名護屋に徳川家康ら東国・北国・畿内の軍勢が集まり、秀吉の朝鮮出兵を支える一方、島津義久の家臣である比志島紀伊・伊集院下野・本田刑部・東郷安房らが召し出された経緯を記す。 梅北一揆への関与を疑われた島津側について、浅野弾正の取り成しや秀吉の吟味を経て処置が定まるまでを述べ、朝鮮役と島津家中事件が交差す…
後編2-No.899 島津義久譜
文禄元年六月九日、島津義久が近衛前久へ鷹を献じ、同十一日には近衛殿の使者が贈物を届け、十二日には長束大蔵・石田木工頭らから朝鮮渡海に関する連絡があったことを記す。 鷹・単衣などの贈答と軍事連絡が同じ日記記事に並び、義久と近衛家・豊臣奉行衆との交渉の実態を短く示す。