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後編2の目録
旧記雑録 天正13年~文禄4年の文書・記事です。
全1,646件中 401~500件・5 / 17ページ
後編2-No.401 佐々成政書状
手火矢一挺の贈与に礼を述べ、肥後一揆の多くが退散し、討捕や一部赦免によって事態が収束へ向かうと報告する。毛利輝元の着陣を控え、先手の太田藤四郎らが南関へ入り、和仁城を十余か所の付城で包囲する計画や山鹿・阿蘇への対処を義弘へ知らせた書状。
後編2-No.402 佐々成政書状(No.401と同文)
本文はNo.401と同文のため省略されている。手火矢一挺の贈与に礼を述べ、肥後一揆の多くが退散し、討捕や一部赦免によって事態が収束へ向かうと報告する。毛利輝元の着陣を控え、太田藤四郎らが南関へ入り、和仁城を十余か所の付城で包囲する計画や山鹿・阿蘇への対処を島津義弘へ知らせた佐々成政の書状。
後編2-No.403 安国寺恵瓊書状
七日付の書状を受け取り、対面して相談したかったものの、肥後一揆後の混乱で往来が遮られ、連絡も思うように進まない事情を伝える。京都で指示を受ける者の動向にも触れ、今後の相談と情勢確認を新納忠元へ求めた安国寺恵瓊の書状。
後編2-No.404 新納為舟忠元書状
返答が届かないため直書を送り、大木の件や在所の扱い、兵粮・雑事の手配が進まないことへ強い不満を示す。油断によるものか、野心があるのかと問い、現地の事情を詳しく返答するよう村田久右衛門へ迫った新納忠元の書状。
後編2-No.405 島津竜伯書状
川上三河守らと同様に、遠慮なく諸事を相談し、物事が滞りなく進むよう奔走することが肝要だと伝える。家臣相互の協調と実務遂行を求めた簡潔な指示書状。
後編2-No.406 島津竜伯書状
新春の祝意と長久の繁栄を祈り、祝儀として五明二本・真羽一尻・杉原十帖を贈る。島津義久と新納氏との年頭儀礼と贈答品の具体像を示す書状。
後編2-No.407 島津義久書状
歳暮の祝意を重ねて伝え、今後も変わらぬ関係が続くことを願う。恒例の書札を送り、明春の吉祥を祈った島津義久の年末挨拶状。
後編2-No.408 佐々成政書状
義弘の使札への返事が遅れたことを詫び、和仁・山鹿方面が落ち着き、中国衆が熊本へ到着したため情勢は平定へ向かうと知らせる。処置の詳細は安国寺恵瓊から伝えるとして、肥後国人一揆後の軍事情勢を報告した佐々成政の書状。
後編2-No.409 豊臣秀吉朱印状
歳暮の祝儀として島津義久から呉服三領が届いたことを喜び、詳しい返礼は石田三成から伝えるとした朱印状。九州仕置後も贈答を介した秀吉と義久の主従儀礼が続いていたことを示す。
後編2-No.410 天正年中日々記
六月十五日に島津義久が鹿児島を出発して上京へ向かった約一か月の旅程を、日付順に詳記する。帖佐・高田・高瀬・川尻などを経て陸路と海路を乗り継ぎ、風雨や逆風による停船、宿泊先、寺社参詣、茶湯・連歌・贈答、石田三成らとの面会を記録する。九州仕置直後の大名移動、宿駅・船便、接待・信仰を一体的に知ることができ…
後編2-No.411 佐々政元書状
安国寺方の書状を受け、城中へ籠もった者たちを前日午刻に討ち果たし、男女を残さず処断したことを報告する。津曲与兵衛尉を派遣して阿蘇口の情勢も早急に確認するよう求めた、肥後国人一揆鎮圧の苛烈な実態を伝える書状。
後編2-No.412 佐々成政書状(No.408と同文)
本文は「四〇八号文書と同文につき省略」と明記される。参照先のNo.408は、佐々成政が島津義弘へ返書の遅延を詫び、和仁・山鹿方面が落ち着き、中国衆も熊本へ到着したため情勢は平定へ向かうと知らせた書状。 処置の詳細は安国寺恵瓊から伝えるとしており、肥後国人一揆後の軍事情勢を報告した同文書の重出である。
後編2-No.413 新納忠元勲功記
天正十五年正月の野神城出陣から、肥後国人一揆とその後の各地の軍事行動まで、新納忠元の戦功を年代順に集成する。先陣・城攻め・籠城救援、敵兵の討取りや負傷、兵粮・人質・城番の処置に加え、島津・伊集院勢の動員、豊臣方との折衝、戦後の褒賞までを詳述する。忠元個人の勇猛さだけでなく、九州仕置後の島津軍の実務と…
後編2-No.414 天正十六年覚書
四月二十六日に島津義久が京都へ向けて出発し、義弘が伏見に在ったこと、義久が九月三日に京都を発って十月五日に細島へ着いたことを記す。天正十六年の島津兄弟の上洛・帰国日程を簡潔に示す覚書。
後編2-No.415 上井秀秋領知目録
日向国諸県郡山村内の土地を、大日寺領として上井秀秋が領知することを記した目録。九州仕置後の所領・寺領編成を具体的に示す短い史料。
後編2-No.416 島津竜伯義久書状
新春を祝い、五明二本を贈る。前年冬に帰国した幸侃の報告から、関白秀吉の島津家への機嫌がよく、京都の諸人もその評判を認めていると伝え、忠元の信心深い奉公を今後も続けるよう求めた島津竜伯の書状。
後編2-No.417 島津義久書状
二度にわたる籠城の労苦をねぎらい、今回は戦いが長引かなかったものの、才覚によって無事に帰属させた働きを評価する。薩摩国内の端地で堪忍している事情にも触れ、今後の奉公と速やかな対応を求めた書状。
後編2-No.418 近衛前久書状
昇殿をめぐる噂について、本人に望みがないのに世上で取り沙汰されていると知らせる。今出川家への照会や近衛信尹への確認を検討し、前年冬以来の事情で直接連絡していないことを説明した、公家社会内部の調整を伝える書状。
後編2-No.419 島津義弘起請文
家中に変事が起きても北郷時久・忠虎との盟約を守り、内外の者の逆心に同調しないと誓う。讒言や風聞は必ず真偽を確認し、伊東領近辺との私的交渉、鹿児島・飯野への無断往来を禁じ、子孫まで盟約を守ると神仏へ誓約した起請文。
後編2-No.420 豊臣秀吉朱印状
北郷勢が肥後国境に在陣する労苦をねぎらい、肥後が静謐になれば帰陣するよう命じる。詳しい指示は石田三成から伝えるとしており、肥後国人一揆後の北郷氏の軍事動員と撤収を命じた朱印状。
後編2-No.421 島津義弘譜
佐々成政が安国寺恵瓊の案内で京都へ赴き、正月には使節を京都へ派遣して豊臣秀吉の朱印を受けたことを記す。肥後国人一揆後、佐々氏が豊臣政権へ出頭して処分を受ける過程を島津義弘譜に収めた記事。
後編2-No.422 豊臣秀吉直書
派遣した使者の言上を聞き届け、義弘が肥後国境に在陣していることを確認し、肥後が静謐になれば帰陣するよう命じる。日向知行分をめぐる争いは上洛時に処置するとし、詳しい指示を石田三成から伝えるとした直書。
後編2-No.423 北郷一雲譜
島津義久が秀吉のもとへ上洛し、翌年九月まで上方に滞在した間、北郷時久(一雲)へ書状を与えたことを記す。九州仕置後の義久の長期在京と、留守国の北郷氏との文書連絡を示す譜記事。
後編2-No.424 島津義久書状
新春を祝い、自身が思いがけず上洛してなお滞在中であること、宗次郎兄弟が無事であることを知らせる。義弘と右衛門大夫の上国が朱印で命じられたため、日州口に在宅する北郷時久へ、留守中の領国と島津方諸城を庄内と同様に守るよう頼み、馬二疋を贈った書状。
後編2-No.425 島津義弘証状
御動座の際に島津家へ尽くした忠節を評価し、知行を扶助する旨が石田三成から島津義久へ伝えられたことを知らせる。 必ず領知を認めて知行を実施すると保証した島津義弘の証状で、家臣の奉公と恩賞の対応を示す。
後編2-No.426 島津義弘譜
安国寺恵瓊の働きで佐々成政の上京が進む一方、秀吉の帰洛後に肥後国人一揆が起こり、島津勢が鎮圧へ加わった経緯を記す。 一揆勢の城を攻め、多数を討ち取って肥後を平定したことを島津義弘の忠功として位置づける譜記事。
後編2-No.427 樺山忠助譜
樺山忠助が京都へ赴き、上原徳淵を経て大坂へ到着し、島津義弘の上京に随行した経過を記す。 義弘の妻子や家臣団の移動・滞在にも触れ、九州仕置後の上洛・参勤に伴う島津家臣の動向を伝える譜記事。
後編2-No.428 某起請文前書案
世上が大きく変転しても島津義弘とその子孫へ二心なく忠貞を尽くし、他方から謀略の誘いがあれば直ちに言上すると誓う。 讒者の讒言を聞いた場合も速やかに報告して釈明し、偽りがあれば神罰を受けるとした起請文前書の案。
後編2-No.429 島津義弘起請文
子や孫の代まで互いに違背せず、他国や第三者からの働きかけに応じないことを誓約する。 讒言や雑説は必ず相手に知らせて真偽を確認し、互いの礼節と信頼を末永く守ると、全国の主要神社・神々へ誓った起請文。
後編2-No.430 島津義弘起請文
土持弾正忠との誓約を末永く疎略にせず、異心なく守ることを約束する。 もし誓いに背けば魂魄まで罰を受けるとして、梵天・帝釈・四大天王、九州の神々、霧島六所権現などへ神罰を誓った島津義弘の起請文。
後編2-No.431 島津義弘起請文
義弘とその子孫に対して偽りなく忠節を尽くすことを誓い、違背すれば梵天・帝釈・四大天王、九州六十余州の神々、霧島六所権現などの神罰を受けるとした起請文。頴娃摂津守へ与えられた、家臣関係の誓約を示す短い史料。
後編2-No.432 近衛前久書状
京都・遠国の政務をめぐり、義弘に速やかな上洛と判断を求める。徳川家康への相談、伊集院忠棟を介した国分、信州・甲州・駿州・遠州などの知行や人事、寺社領の扱い、肥後国人一揆後の処置まで多岐にわたる案件を列挙し、書中の趣旨を関係者へ伝えて実行するよう促した近衛前久の長文書状。中央政界と島津家を結ぶ調整の具…
後編2-No.433 樺山紹剣自記
樺山忠助が武庫様(島津義弘)に暇を申し、穆佐で関係者と相談したのち、天正十六年二月十三日に出船した旅程を記す。佐土原を経て大坂へ赴き、本多因幡守の取り成しで神文を提出して龍伯に奉公した。秋には義弘の上洛と交替する龍伯らの下向船に供奉して国元へ戻り、そこで越年した。上方奉公と薩摩帰還の移動を具体的に残…
後編2-No.434 小早川景隆書状
小早川隆景が新納忠元へ新春を祝い、太刀一腰・青銅三百疋を贈った書状。前年、屋形様に拝謁した折の飛脚を鹿児島まで無事に送り届けてもらったことへ深く礼を述べる。境目に位置する事情を踏まえ、今後も隔意なく相談し合うよう求めており、小早川氏と島津重臣の実務的な交流を示す。
後編2-No.435 福智長通書状
福智長通が上井覚兼から届いた書状と太刀一腰・馬一疋に礼を述べ、当国の御蔵入・代官および所領に関する申し越しを了承した書状。伊集院右衛門大夫が赴く際に相談し、どのような処置にも疎意なく応じると約す。上方での用務にも協力し、義久・義珍にも意向を伝えるとして、家中と中央を結ぶ連絡役を引き受けている。
後編2-No.436 勝部兵右衛門聞書
島津義弘が大口に在陣していた時期から、肥後国人一揆鎮圧へ派兵し、諸将が城や集落を攻略した経過を記す聞書。 加藤主計介ら豊臣方の諸将、肥後・薩摩の軍勢、現地住民への被害や帰陣までを伝え、戦場側の見聞を具体的に残す。
後編2-No.437 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が島津義弘の肥後表からの無事帰陣をねぎらい、祝儀として届いた太刀一腰・黄金十両を喜んだ朱印状。先に朱印を与えた日向衆は、現在の領主が誰であっても確実に付属させるよう命じ、領主から異議が出た場合は証拠となる墨付を取っておくよう指示する。詳細は長岡法印・石田三成から伝えるとした。
後編2-No.438 島津義弘譜
肥後国人一揆への出陣を終えた島津義弘が使節を送り、その戦功への慶賀として豊臣秀吉から朱印状を受けたことを記す。 続く朱印状の由来を示す義弘譜の記事で、豊臣政権による戦功評価の経緯が分かる。
後編2-No.439 豊臣秀吉朱印状
本文はNo.437と同文として省略されている。肥後から無事に帰陣した義弘を賞し、太刀・黄金の贈答を喜ぶとともに、日向衆の知行を保護するよう命じた朱印状。 同内容の文書が別系統にも伝来したことを示す。
後編2-No.440 島津義弘譜
龍伯が在洛中、肥後の乱逆が京都へ伝わると、豊臣秀吉は伊集院忠棟を諸将への命令を伝える使者として下向させた。忠棟はまず薩摩へ戻って佐々氏討伐の命を伝え、その後肥後へ赴こうとしたが、相良氏が北・八代方面の通路を塞いだため通行できなかった。やむなく京都へ引き返して復命した経過を記す島津義弘譜の記事。
後編2-No.441 某書状案
若年の「又七」(時期から島津豊久か)について、高崎越前守から幾度も教諭するよう求める。続いて山内の処置を論じ、右松宗納・黒木入道らが関係するなか、日州の巣鷹を義弘が受け取るよう関白朱印で命じられ、その趣旨に従って山内の儀を処理したと説明する。 当事者間の朱印が前後しても後の朱印を実効あるものとし、兄…
後編2-No.442 木食応其書状
木食応其が上井覚兼へ、遠国のため音信が途絶えたことを詫び、以前からの厚意を忘れていないと伝えた書状。覚兼から贈られた『大師行状記』十巻が無事に到着したことを喜び、由緒ある書物として大切に受け取った。今後上洛する際には訪ねてほしいと述べ、旧交の継続を願っている。
後編2-No.443 島津義弘書状
島津義弘が本多因幡守・比志島紀伊守へ、度重なる上洛命令を受けながら、家中の資金が払底し、供回り・乗船者・装備を整えられず困窮している実情を訴えた書状。それでも上洛を遅らせれば御家のためにならないとして四月二十六日の出立を決めた。又一郎兄弟や在京衆の費用にも触れ、龍伯下向後も両名が京都にしばらく留まり…
後編2-No.444 細川玄旨・石田三成連署状
細川幽斎・石田三成が新納忠元へ、二月五日付の書状を京都で受け取ったと知らせ、寒中の肥後出兵と島津義弘の働き、とりわけ忠元が先手を務めて一国平定に貢献したことを賞した連署状。相良氏の逆心で上洛路が塞がれているため通路を整えるよう求め、八代・芦北の処置を了承する。忠元の子・左京亮についても、希望に沿うよ…
後編2-No.445 島津義弘願書
島津義弘が上洛の成功と道中の安全を祈り、留守中も家中の者が心変わりせず、義久・義珍・久保を守るよう白鳥山座主坊へ祈祷を依頼する。 又八郎らの妻子と家内の安全、義久・義珍・久保の上下向の無事も祈願し、翌朝から祈念を始めるよう太刀一腰を奉納した願書。
後編2-No.446 伊東祐兵書状
飫肥の処置は島津義弘の指示に従うと伝え、先に使僧を介して相談した件への返事を受け取ったことを報告する。 上長入をめぐる交渉や荒廃地の処理、京都での公役・人員配置について協力を求めた伊東祐兵の書状。
後編2-No.447 豊臣秀吉朱印状
端午の祝儀として帷子五領のうち生絹三領が届いたことを喜び、詳しい返礼は石田三成から伝えるとした朱印状。 島津義弘と伊東祐兵を連名の宛所とし、日向の隣接領主間に対する豊臣政権の儀礼的統制を示す。
後編2-No.448 島津豊久譜
島津豊久譜の記事。父の島津家久が佐土原で降参し、日向の居城・領地を差し出した際、豊久は羽柴秀長の帰陣に従って上京した。豊臣秀吉から佐土原城と周辺諸所を返し与える旨の台書を受け、兵庫頭義珍からの書状も伝来したという。翌天正十六年八月の朱印目録へつながる、九州仕置後の豊久家再建の経緯を示す。
後編2-No.449 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が嶋津又七(島津豊久)へ、鉄砲に関係する品四十三が到来したことを確認し、喜ばしく思うと伝えた朱印状。詳しい用件は山中山城守(山中長俊)から申し伝えるとしており、九州平定後の豊久と秀吉政権との間で、軍需品の受領と取次が行われていたことを示す短い文書。
後編2-No.450 豊臣秀吉朱印状
端午の祝儀として生衣・帷子三領が届いたことを喜び、受領の意を伝える。 秀吉が島津豊久の季節の贈答に応え、詳細は長束大蔵大輔(正家)から申し伝えるとした朱印状。
後編2-No.451 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が島津義弘へ、端午の祝儀として帷子五領、染色した生絹のほか、段子の幕二張と走馬用の鈴三掛が届いたことを喜び、重なる懇志へ謝意を示した朱印状。鈴については『唐人』に事情を心得させるよう求め、詳しくは石田三成が伝えるとした。贈答品の具体像と豊臣政権の取次実務が分かる。
後編2-No.452 島津義弘書状
島津義弘が川田義朗へ、近日の上洛にあたり、京都での首尾、御家の長久、家中が心を一つにした国の守り、家内安穏を祈念するよう依頼した書状。愚息又八郎(島津忠恒)をはじめ家内のため重ねて祈祷を頼み、祝儀として鵞目百疋を贈っている。上洛前の義弘が家中と留守家族の安泰を切実に願ったことが分かる。
後編2-No.453 島津義弘願書
上洛の首尾、家中が心を一つにして家運が続くこと、又八郎の妻子らの留守中の無事を神前に願う。 道中の安全と義久・義弘・久保の早い帰国も祈り、帰国時には神殿造替と神領寄進を行うと誓った願書。
後編2-No.454 島津義久譜
島津義弘が四月二十六日に領国を発ち、五月二十三日に泉州へ着岸、六月四日に大坂城で豊臣秀吉へ謁見した経過に続け、八月に帰国を許された龍伯と在京の娘との別離を記す。龍伯は親子の別れを和歌に詠み、細川幽斎が返歌した。幽斎がその歌を秀吉に披露すると、秀吉は涙して娘にも帰国を許したため、龍伯が歓喜して謝礼した…
後編2-No.455 島津義久譜
龍伯が九月三日早朝に京都を辞して大坂へ向かい、十月十四日亥刻に鹿児島の居宅へ帰着したことを記す島津義久譜の記事。帰国した龍伯を、重臣・旧臣から老若の家中まで残らず喜んで迎えた。豊臣政権への服属と在京を終え、島津家当主が領国へ戻った時点を簡潔に伝える。
後編2-No.456 島津義弘願書
上洛の無事、家中の団結と家運の継続、又八郎の妻子らの留守中の安全、義久・義弘・久保の早期帰国を光明院に祈願する。 願いがかなえば神殿造替と神領寄進を行うと誓い、祈願のしるしとして馬一疋を奉納した願書。
後編2-No.457 島津義弘願書
上洛の首尾、家中の団結と家運の継続、又八郎の妻子らの留守中の安全、義久・義弘・久保の早期帰国を光明院に祈願する。 願いがかなえば神殿造替と神領寄進を行うと誓い、馬一疋を奉納した願書。No.456とほぼ同文だが、別の伝本に収められた本文である。
後編2-No.458 島津義弘願書
法華経を修する僧に七日間の参籠を行わせ、島津家中が心を一つにして家が長久するよう光明院の守護を願う。 義久・義弘・久保の無事帰国、留守中の妻子の安全、上洛奉公の成就もあわせて祈った願書である。
後編2-No.459 島津竜伯書状
龍伯が在京中、新納忠元から僧の使者が上洛したことを喜び、近く「武庫」が上洛するため国元の情勢が気掛かりだと伝える。 老臣たちと相談し、領国をできる限り堅固に保つための才覚を尽くすよう忠元に依頼した書状。
後編2-No.460 細川玄旨書状
新納忠元から贈られた巻物への礼を述べ、前年の筑後で越中守と会った話を忠興から聞いたと伝える。 依頼された和歌は使僧の帰国が急だったため間に合わず、後便で送ると約束した細川幽斎の返書。
後編2-No.461 生駒近親親正外八名連署状
肥後の悪徒が少人数で北方へ退いたため、薩摩方面へ入り込んだ場合は直ちに成敗し、その結果を秀吉へ注進するよう新納忠元に命じる。 領国内にも厳命を行き渡らせるよう求めた九名連署状で、九州平定直後の肥後国人一揆への警戒と島津領の治安維持を示す。
後編2-No.462 島津義弘願文
狗留孫権現に対し、大幣十二本を供え、御神舞を執り行うことを願い出た願文。 天正十六年五月十五日付で、義弘が上洛期に神事の具体的な奉納内容を示した短い祈願文書である。
後編2-No.463 島津義弘書下
今回の上洛に際して申し出た諸案件について、諸役人と十分に相談し、一つ一つ注意して準備を整えるよう鎌田出雲守に命じる。 たとえ多くの者から誘いがあっても他方へ交わらず、義弘への奉公に専念して懇切に勤めることを求めた書状。
後編2-No.464 島津忠長譜
天正十六年閏五月、龍伯らが里村紹巴を訪ねて連歌を催し、聚楽第では細川幽斎・天王寺屋宗及・忠長らが秀吉の茶亭に招かれた。 発句・付句、飛雁の声を詠んだ句、茶会での拝領品まで記され、島津家が京都・大坂の連歌師・茶人と交わった文化史料として興味深い。
後編2-No.465 島津竜伯書状
上原長門入道に対し、治部少輔とともに早く上京し、前年以来の出入・争論を言上することが肝要だと龍伯が指示する。 国人らの訴えや処分に関する事情も記すが欠字が多く、具体的な争点と人名には判読上の不確実さが残る。
後編2-No.466 島津義弘譜
天正十六年、義弘が秀吉への参勤・上洛のため飯野を出発し、閏五月三日に日向国徳淵から船出した経路を記す。 佐土原を経て摂津国尼崎へ到着するまでの旅程を示し、九州平定後に義弘が上方へ向かった動きを追える記事。
後編2-No.467 豊臣秀吉朱印状
秀吉が佐々成政について、柴田勝家への加担、織田信雄領での抗戦など、過去に赦免してきた反逆行為を列挙する。 さらに肥後一国を与えられながら国人を人質に取り、妻子を大坂へ送らせるなどして一揆を招き、鎮定にも失敗した経緯を罪状として示す。成政処分の論理と肥後国人一揆の認識を知る重要な朱印状。
後編2-No.468 町田一玄倍・本田三清親連署状
以前知らせた祈願用の馬を当日送り届けたため、雨が続く翌日・翌々日を避け、吉日を相談して祈念を行うよう求める。 特に祈念すべき一頭であるとして、日延べせず実施することを念押しした町田一玄・本田三清親の連署状。
後編2-No.469 島津義弘譜
天正十六年閏五月二十三日夜、上洛途上の義弘が泉州境浜浦に着き、北の神明町経王寺を宿所とした記事。 龍伯(義久)が旅宿を訪ねて兄弟が対面を喜び、ほかにも多くの諸士や使者が来訪したという、上洛中の再会を伝える。
後編2-No.470 福智長通書状
秀長が相手を疎略に扱ったのではないかという疑念に対し、事情を説明して決して軽んじたものではないと福智長通が弁明する。 新右衛門尉を介した対応にも触れ、不審が残れば改めて説明すると伝えるが、本文に欠字・難読箇所があり細部は要確認。
後編2-No.471 島津義弘書状
義弘が上洛航海を又八郎へ詳しく報告する。日向出帆後、豊後佐伯・蒲江付近から瀬戸内海にかけて暴風雨に遭い、島陰や港で幾度も待避した。 船頭・水先案内の判断、潮待ち、塩飽島・家島・坂越・堺への航路に加え、船中の恐怖、神仏への祈り、各地の見聞まで生々しく記す。戦国武将の海上旅行と航海信仰を知る長文の私信。
後編2-No.472 北郷忠虎譜
天正十六年六月十四日、都城を発って上洛した北郷忠虎が大坂城で秀吉に拝謁し、義弘・細川幽斎・筑紫広門らとともに湯漬の饗応を受けた。 秀吉は東山に造営中の大仏殿へ巨大な柱二本を献上するよう命じ、忠虎に帰国を許した。九州大名・国衆が上方政権の造営事業へ動員されたことを示す記事。
後編2-No.473 島津義久起請文前書案
重要事項を互いに相談して将来も違背せず、困難があっても旧来の関係を忘れて身勝手に離反しないことを誓う。 内訴・密告は明白な道理がなければ信用せず、違反すれば梵天・帝釈・八幡・春日・稲荷など諸神の罰を受けるとした家中結束の起請文。
後編2-No.474 島津義弘譜
天正十六年六月四日、義弘が大坂城で秀吉に拝謁し、侍従への任官を命じられた後、湯漬の饗膳を賜った。 宴席の座順を記すほか、秀吉が東山に造営中の大仏殿へ巨大な柱二本を献上するよう命じ、義弘を帰国させた経緯を伝える。
後編2-No.475 上井秀秋書状
上井秀秋が、寺社の座配や所領をめぐる争論について、図田帳・新旧の日記・棟札・証文を照合し、どの証拠に基づいて裁くべきか伊勢雅楽入道へ意見を求める。 石田三成や秀長方への働きかけ、郡境・旧記の食い違い、証人の扱いにも触れ、公平な裁定のため史料提出と現地調査を依頼する。中世末の土地紛争で文書証拠がどう用…
後編2-No.476 島津義弘書状
上洛後の混乱で書状を送れなかったことを詫び、川田駿河入道から祈念の御札が届いたことへ深く礼を述べる。 今後も祈祷にいっそう精誠を尽くしてほしいと依頼した、義弘の上洛中の信仰と国元との連絡を示す書状。
後編2-No.477 島津義弘書状
国元が無事であることを喜び、留守中に問題が起きないよう山田有信へ周到な統制を求める。 有信の上洛を求める声については義久へ詳しく伝えたとし、高城衆が生活に困っているとの情報を確かめ、堪忍できるよう処置することも依頼した。
後編2-No.478 島津義弘書状
「御前帳」に関する使者が到着し、豊久が注意深く対応したことを義弘が評価する。 あわせて諸県地方のことにも引き続き心を配るよう求め、細かな指示は使者に言い含めたと伝えた書状。
後編2-No.479 豊臣秀吉判物
秀吉が義弘の在京中の賄料として、播磨国・摂津国のうち一万石を知行として与えると定めた判物。 島津氏の上洛負担を支えるために畿内近国の所領を給付したことが分かる重要な知行宛行文書。
後編2-No.480 島津義久譜
義久(龍伯)が在京中、秀吉から播磨国・摂津国のうち一万石を与えられ、その旨を記した判物を受けたとする譜記事。 島津氏の上洛・在京を経済的に支える畿内近国の知行給付を、家譜側から記録している。
後編2-No.481 豊臣秀吉判物
秀吉が義弘の在京賄料として播磨国・摂津国のうち一万石を与えた判物で、本文は同文書番号「八四七九号」と同文のため省略されている。 No.479と同内容を別の伝来文書として収録した重出資料であり、知行給付の複数伝本を示す。
後編2-No.482 豊臣秀吉知行方目録
秀吉が義弘へ与えた播磨国・摂津国の知行について、木代村・切畑村・吉川村・地黄村など各村の石高を列挙する目録。 冊子401~402頁にわたり村別の具体的な高を掲げ、合計四千八百七十七石五斗を示す。在京賄料一万石の構成を知る基礎史料である。
後編2-No.483 島津義久詠草
義久が近衛前久から『古今和歌集』の伝授を受け、歌会で「寄道祝」の和歌を詠んだ記事。 さらに京都の連歌師・里村紹巴の邸を訪れた際の発句も収め、義久が上方の公家・連歌文化へ深く参与したことを示す。
後編2-No.484 豊臣秀吉法度
備後・伊予間の厳島周辺で盗船が出たことを受け、諸国の海上で刀・弓・鉄砲などを備えた武装船を厳禁する。 海賊船を取り逃がした領主・給人・代官も処罰し、船頭・漁師を含め海上を利用する者への監督を徹底させた、全国的な海賊停止令として重要な朱印状。
後編2-No.485 豊臣秀吉掟書
諸国の百姓が刀・脇差・弓・鉄砲などを持つことを禁じ、武器を取り上げて東山大仏建立の釘・鎹に用いると命じる。 農民を耕作に専念させ、領主・給人・代官にも徹底を負わせた、兵農分離政策を象徴する「刀狩令」の本文。
後編2-No.486 喜入季久譜
天正十六年七月十四日、喜入季久が五十七歳で没し、法号を昌円季久としたことを記す譜記事。 没年月日・享年・法号を簡潔に伝える、喜入氏人物史の基本記録である。
後編2-No.487 島津義弘譜
秀吉から羽柴姓・豊臣姓と称号を与えられ、義弘が「羽柴薩摩侍従豊臣義弘」と称するようになった経緯を記す。 さらに同月二十六日に昇進の口宣を受けたことを添え、義弘が豊臣政権の官位秩序へ編入された節目を示す。
後編2-No.488 蔵人葉室頼宣奉口宣案
従五位下・豊臣義弘を従四位下へ叙する旨を、上卿の久我大納言のもと蔵人左中弁・藤原頼宣が奉じた口宣案。 義弘の朝廷官位昇進を正式に伝える文書で、島津氏と豊臣・朝廷秩序の関係を示す。
後編2-No.489 蔵人葉室頼宣奉口宣案
義弘を従四位下へ叙する口宣案で、本文はNo.488と同文のため省略されている。 同じ官位昇進文書が別の伝来資料として収録された重出史料であり、口宣案の複数伝本を示す。
後編2-No.490 蔵人頭万里小路充房奉口案
従五位下・藤原義弘を侍従に任ずる旨を、上卿の勧修寺大納言のもと蔵人頭右大弁・藤原充房が奉じた口宣案。 義弘が朝廷の侍従職へ正式に補任されたことを伝える官位文書である。
後編2-No.491 蔵人頭万里小路充房奉口案
藤原義弘を従五位下へ叙する旨を、上卿の勧修寺大納言のもと蔵人頭右大弁・藤原充房が奉じた口宣案。 No.490の侍従補任と対になる叙位文書で、義弘の朝廷官位取得の手続きを示す。
後編2-No.492 蔵人葉室頼宣奉口宣案
義弘を従四位下へ叙するNo.488の口宣案と同文であるため、本文を省略した重出史料。 本文には独自の日付が記されていないため年月日は空欄とし、同じ官位昇進文書の別伝本として整理する。
後編2-No.493 某書状案
丁寧な書状への礼を述べ、京都が平穏である一方、三州の情勢を案じていると伝える。 近く帰国するよう命じられたため到着後に国元で相談するとし、帷子二重と白銀三両の贈答にも謝意を示した、差出人・宛先未詳の書状案。
後編2-No.494 島津義弘譜
天正十六年八月五日、義弘が秀吉から日向国諸県郡一郡を与えられ、判物・朱印状と知行目録を受けたことを記す。 九州平定後の島津領再編のなかで、義弘の所領が豊臣政権から正式に安堵された経緯を示す譜記事。
後編2-No.495 豊臣秀吉判物
秀吉が義弘に対し、日向国諸県郡の知行地千四百四町を、別紙目録のとおり領有するよう認めた判物。 九州平定後の義弘領を町数で具体的に確定した、島津氏の所領編成を知る重要文書。
後編2-No.496 豊臣秀吉判物
日向国諸県郡千四百四町を義弘へ与えたNo.495の判物と同文であるため、本文を省略した重出史料。 同じ知行宛行文書が別伝本にも収録されたことを示し、所領安堵文書の伝来を確認できる。
後編2-No.497 豊臣秀吉知行方目録
義弘に与えられた日向国諸県郡の知行について、真幸院・救仁院・田尻・荒田・八代・野尻など各地の町数を列挙する目録。 冊子405~406頁にわたる村別の内訳と合計千四百四町を示し、No.495の判物に付属する所領明細として島津領再編の実態を伝える。
後編2-No.498 豊臣秀吉知行方目録
豊久に与えられた日向国内の知行について、都於郡院・三納・佐土原・那賀・広原・新名爪など各地の町数を列挙する目録。 天正十六年八月五日付で、翌行のNo.499判物に関係する所領明細として、豊臣政権下で豊久領が地域別に編成された具体像を示す。
後編2-No.499 豊臣秀吉判物
秀吉が島津又七郎(豊久)に対し、日向国内の知行地合計九百七十九町を、別紙目録のとおり領有するよう認めた判物。 九州平定後に豊久の所領を豊臣政権が正式に確定した文書で、前掲No.498の地域別目録と対をなす。
後編2-No.500 島津義弘書状
義弘が国元を発つ際の見送りに謝意を示し、留守中の番役や普請について新納忠元を頼りにしていると伝える。 普請の件は老中へ詳しく申し置いたこと、義久にも帰国許可が出て近く戻る見込みであることを知らせ、引き続き国元の処置を託した書状。