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後編2の目録

旧記雑録 天正13年~文禄4年の文書・記事です。

全1,646件中 501~600件・6 / 17ページ

  1. 後編2-No.501 石田三成書状

    義久の知行について、播磨国の所領が各地に散在していることや、能勢郡の年貢収納・奉行派遣の扱いを石田三成が説明する。 安三郎兵衛に事情を言い含めたこと、給人・代官の不正や収納遅滞を避けるため、現地の所務を明確にする必要を伝えた書状。

  2. 後編2-No.502 島津竜伯義久・同義弘連署状

    日向国南郷が伊東氏へ与えられたと聞き、同地の浦は薩摩・大隅間の上下交通と物資輸送に不可欠で、他家領になれば大きな支障が出ると義久・義弘が訴える。 知行への執着ではなく、国役や京都での奉公を続けるため港の利用を確保したいとして、細川幽斎・石田三成らに所領調整を懇願した連署状。

  3. 後編2-No.503 島津義久譜

    日向国南郷の帰属と港湾利用について、義久・義弘が細川幽斎・石田三成らへ調整を求めた文書を、義久譜にも収録した重出記事。 本文は前掲文書と同文として省略され、島津側が南郷問題を重要案件として家譜へ残したことが分かる。

  4. 後編2-No.504 島津義久書状案

    義久が琉球国王へ、秀吉によって京都が平穏となり日本全国が統一され、高麗も朱印を受けて従ったと説明する。 琉球だけが度重なる命令に応じないのは無礼で、天下に背く者として処罰されかねないと警告し、秀吉への服属・入貢を促した外交書状案。豊臣政権の対外秩序を島津氏が伝達した重要史料である。

  5. 後編2-No.505 石田正澄書状

    長らく書状を送れず疎遠になったことを詫び、龍伯から届いた書状を拝見して返書を作ったため、本人へ届けてほしいと依頼する。 いずれ上洛した際に直接会うことを約した、石田正澄と島津側の取次・書状往来を示す短い書状。

  6. 後編2-No.506 島津義弘書状

    京都の状況に変わりがなく、義久も近く帰国できる見込みだと知らせ、国元で苦労する伊集院忠棟を気遣う。 忠棟の身上・進退は義弘自身に任せるよう求め、たとえ小さくとも居所を必ず用意すると約束した、家臣処遇に関する私的な書状。

  7. 後編2-No.507 島津竜伯証状

    思いがけず在京が長引くなか、前年以来の忠棟の厚意に報いるため、龍伯が摂津・播磨で与えられた一万石から毎年米四十石を贈ると約束する。 知行を保持している間は贈与を変えないと証文同様に保証し、義久と忠棟の緊密な主従関係を示した証状。

  8. 後編2-No.508 豊臣秀吉朱印状

    薩摩和泉・肥後水俣から、侍・百姓が男女を問わず薩摩・大隅や近隣国へ移住していると指摘する。 法度に従って早急に召し返し、元の居所へ還住させ、命令に背く者は厳しく成敗するよう命じた、領民移動統制の朱印状。

  9. 後編2-No.509 新納拙斎忠元書状

    普請での働きぶりを高く評価し、技能のある者として今後も怠りなく勤めるよう新納忠元が励ます。 普請の負担を察して人夫二十人を追加すると伝え、参加人数と作業状況を日記に記して報告するよう求めた実務的な書状。

  10. 後編2-No.510 天正年中日々記

    龍伯らが上方から帰国するまでを日付順に記す長編日記。京都・大坂での茶会、参詣、面会、祈祷、衣類・銀子・酒・茶・馬などの贈答と、石田三成ら諸家との往来を詳細に記録する。 出帆後は風雨や潮待ちでたびたび停泊し、上関・細島などへの寄港、船の手配、宿所での接待、随行者と使者の動向まで続く。戦国大名の帰国旅行…

  11. 後編2-No.511 八幡山泉坊有純書状

    帰国船中の安全を祈るため、不動護摩供を七日間修し、御札・香水・煎餅子を送ったと報告する。 今後も神前で武運長久・国家泰平を祈り、以前依頼された姫君の祈念も怠らないと約束した八幡山泉坊有純の書状。

  12. 後編2-No.512 島津義久譜

    天正十六年九月三日、龍伯が京都を辞して鳥羽から船に乗り、淀川を下って大坂へ到着した経路を記す。 七日に大坂へ滞在中、八幡山泉坊へ帰国船中の安全祈祷を依頼し、その返書を後掲したことを説明する譜記事。

  13. 後編2-No.513 豊臣秀吉朱印状

    重陽の祝儀として呉服三領などが届いたことを秀吉が喜び、北政所・西丸関係の贈答品も受領した旨を伝える。 詳細は石田治部少輔(三成)から申し伝えるとした、義弘の季節贈答への返礼朱印状。

  14. 後編2-No.514 豊臣秀吉朱印状

    重陽の祝儀として呉服一重が届いたことを秀吉が喜び、詳しくは石田治部少輔(三成)が申し伝えるとした朱印状。 No.513と同日の季節贈答に対する返礼だが、受領品と宛名表記が異なる別文書である。

  15. 後編2-No.515 島津義久譜

    天正十六年九月八日、義弘が大坂の茶室へ細川幽斎と石田三成を招いて饗応し、その後、義久らが秀吉へ登城した記事。 秀吉から義久とその娘へ衣服二領ずつを賜り、大坂の重陽会で龍伯が詠んだ漢詩・和歌も収める、茶会・贈答・文芸が結び付いた史料。

  16. 後編2-No.516 島津竜伯書状

    国元が平穏であることを喜ぶ一方、領内の法度と境目での振る舞いを厳しく徹底するよう龍伯が新納忠元へ命じる。 大口から離散した者がまだ還住していないため、命令どおり召し戻すことを求め、油断して問題が起きれば忠元の責任になると警告した統治書状。

  17. 後編2-No.517 島津以久征久譜

    天正十六年、以久が大隅国清水の所領を嫡子・彰久へ譲り、自身は上井城へ移ったことを記す。 この年に秀吉から判物を受けたことも添え、豊臣政権下での島津一族の家督・所領再編を伝える譜記事。

  18. 後編2-No.518 豊臣秀吉判物

    秀吉が島津右馬頭(以久)に対し、従来の本知・領地を以前どおり相違なく領有することを認めた判物。 以久が清水を彰久へ譲って上井城へ移った後も、その所領権を豊臣政権が正式に安堵した文書である。

  19. 後編2-No.519 島津義久譜

    天正十六年九月十一日、大坂で秀吉が龍伯へ徽山里の茶壺を与え、帰国の道中用に携行させた記事。 龍伯が堺浦へ到着した時点までを記し、秀吉からの拝領品と島津氏の茶の湯文化、帰国旅程が結び付く史料。

  20. 後編2-No.520 豊臣秀吉朱印状

    九州の領内で鶴・白鳥・雁・鴨などを鉄砲で撃つことを禁じ、必要な鳥は猟師に命じて捕らえ、進上するよう求める。 畿内・近国で鷹狩を行うため、遠国でも鳥を保護して近隣へ集まるよう管理し、油断なく命令を徹底させた朱印状。

  21. 後編2-No.521 島津義弘書状

    新納忠元譜に収録された義弘書状で、本文はNo.545と同文であるとして省略されている。 年月日は参照先に基づく十一月十二日で、忠元への用件の詳細はNo.545本文によって確認する重出史料として整理する。

  22. 後編2-No.522 島津義弘書状

    義久が帰国する運びとなったことを喜び、飯野の見舞い・支援に繰り返し心を配るよう義弘が新納忠元へ求める。 秀吉の法度に従って諸所の公役を確実に割り当て、責任者として勤めを進めることが肝要だと命じ、細部は伊集院久九へ言い含めた書状。

  23. 後編2-No.523 山中長俊書状

    秀吉の鷹狩のため、義弘の分領内で鶴・白鳥・雁・鴨などを鉄砲で撃つことを止め、鳥を集めて進上するよう山中長俊が伝える。 すでに秀吉朱印が出されており、違反すれば私的な鷹狩と見なされかねないとして、鳥類保護と献上を油断なく徹底するよう求めた書状。

  24. 後編2-No.524 島津義久書状

    肝付郡の目録を受領したことを伝え、前年分の所務・年貢について当年中にすべて処理し、進納すると義久が約束する。 現地で納入が滞る者があれば島津側から代わって納めるため心配は不要だとし、豊臣政権側の取次へ履行を保証した書状。

  25. 後編2-No.525 島津義久譜

    天正十六年九月十四日、義久が娘とともに泉州堺から船出し、逆風による長い停滞を経て二十二日夜に薩州上関へ着いた記事。 到着後、上刑部少輔とその子・源三郎へ使者を送り、刑部不在のため翌日に源三郎が挨拶に来たことまで記す帰国旅程史料。

  26. 後編2-No.526 豊臣秀吉朱印状

    秀吉が大隅・薩摩両国で鶴・白鳥・雁・鴨などを鉄砲で撃つことを禁じ、必要な鳥は猟師に捕らえさせて進上するよう命じる。 他国にも同様の命令を出して鷹場へ鳥を集めるため、入念に管理し、詳細は山中長俊から聞くよう義弘へ指示した朱印状。

  27. 後編2-No.527 豊臣秀吉朱印状

    本文を省略し、『本文書ハ六二二号文書ト同文ニツキ省略ス』との編者注記だけを掲げる重出資料。対象動物や具体的内容は本条本文からは確認できない。

  28. 後編2-No.528 小早川隆景書状

    小早川隆景が中納言秀長に供奉して到着したことを知らせ、島津領国の用件を説明する使者を一人派遣するよう義弘へ勧める。 石田三成との内談が可能であること、翌月中旬に秀長が上洛し山口玄蕃頭が供奉する予定も伝えた、豊臣政権への取次書状。

  29. 後編2-No.529 島津義久譜

    天正十六年九月晦日、安芸から戻った村上刑部少輔が、先日の使者への礼を述べた際の交渉を記す。 今後、安芸国の船が薩摩方面へ来た時には他国商船より優先して便宜を与えると約し、証書・沈香・宝刀を交換した海運・商船保護の譜記事。

  30. 後編2-No.530 島津義久証状案

    島津義久が、今後も相互に誼を結び、両者の船をそれぞれの領内で保護することを約した証状案。 安芸方面の船には薩摩・大隅の津浦で便宜を与え、上関を通る島津方の船も同様に扱うよう求めた、瀬戸内海航路の安全確保を示す。

  31. 後編2-No.531 昭高院如雪書状

    昭高院如雪が、これまで直接の音信はなかったものの、旧来の由緒を踏まえて今後の交誼を望むと義弘へ申し入れる。 使者の口上を聞き届け、以後は隔意なく取り次いでほしいと頼んだ、島津義弘との関係構築を意図する挨拶状。

  32. 後編2-No.532 豊臣秀吉朱印状

    有馬で湯治中の秀吉へ島津義弘から見舞いの品々が届いたことを喜び、受領した旨を伝える朱印状。 詳しい返答は石田治部少輔(三成)から申し伝えるとしており、秀吉の療養と島津方の贈答関係を示す。

  33. 後編2-No.533 島津義久譜

    島津義久一行が順風を待って上関を出帆し、日向国細島へ到着した航海記事。 女性たちを細島で下船させた後、旧臣宅に迎えられて歓待を受けた道程を記し、義久帰国時の海路と接遇を具体的に伝える。

  34. 後編2-No.534 島津忠長譜

    島津忠長が官暇を得た島津義久に娘一人を伴わせ、京都から帰国させた経過を記す。 沓無島・備後鞆津などを経て新宅の完成を待ち、翌年二月に移居した道程が、忠長家の移動と居所整備を伝える。

  35. 後編2-No.535 島津義久書状案

    義久が石田三成へ、秀吉から命じられた大仏殿用の柱を調達するため、直ちに屋久島へ使者を派遣し、市来掃部兵衛も上洛させる予定だと報告する。 一方で国中は疲弊し、義弘父子が長く在京しているため家中の立て直しも困難だとして、帰国実現への取り成しを懇願する。豊臣政権の造営負担と島津領国の窮状が同時に見える書状…

  36. 後編2-No.536 嵐香御祓之事

    「嵐香御祓之事」として、月・江・菊・天・気などの語に対応する祓詞と、町田左京亮・伊集院掃部助ら家臣名を列記した儀礼関係の記録。 季節語・歌語のような語句と担当者を組み合わせた一覧で、島津家中の祓・献詠に関わる構成を知る手掛かりとなる。

  37. 後編2-No.537 久信署判坪付

    「きのさこ」の畠地について、一反以上の坪付を示し、川田権対馬守へ宛てた久信署判の土地関係文書。 地名・面積・受給者を簡潔に記したもので、知行地の所在と配分を具体的に確認できる。

  38. 後編2-No.538 新納拙斎書状

    新納拙斎が、未決着の案件について先方の判断を求め、法式に背く行為や相手方の訴えを詳しく検討するよう申し入れた書状。 双方の言い分が対立するなか、命令書や証拠を踏まえて穏当な裁定を下すよう求めており、家中紛争の調停過程をうかがわせる。

  39. 後編2-No.539 年代記

    天正十六年十月、島津義久が下向し、播磨国に一万石の領地を拝領したと記す年代記の記事。 豊臣政権への服属後における義久の帰国と新たな所領拝領を、短文ながら同時に伝える。

  40. 後編2-No.540 長谷場越前自記

    関白の意向を受けて島津義久らの帰国が決まり、石田三成の取り次ぎや船の手配、京都での別れを経て国元へ向かった経過を長谷場越前が回想する。 義久一行の帰国準備、贈答、鹿児島への到着・出迎えまでを具体的に記し、豊臣政権下での島津家の移動と儀礼を伝える。

  41. 後編2-No.541 祐乗房法印書状

    祐乗房法印が島津義久へ、前年以来の懇切、とりわけ養生への配慮に深く礼を述べる。義久の下向時に取り紛れて十分に閑談できなかったことを惜しみ、十月十四日の帰国を喜び、蜜壺を進上して今後も薬種などを用意すると申し出た書状。 「義久公御譜中、石田殿宛御案文の次に入る」という収録位置の注記と、考按が「十四日帰…

  42. 後編2-No.542 桑山重晴書状

    桑山重晴が、相手が京都を訪ねた際に不在だったことを詫び、伊集院本国が国元へ下ったとの情報を確かめた書状。 以前宿に置いた留守居へ用件を命じてよいこと、彦次郎にも別紙を送る予定であることを伝え、京都での取次を申し出る。

  43. 後編2-No.543 島津義弘書状

    島津義弘が、長期の留守を守った義功の辛労をねぎらい、領内諸城の構えを点検して警固を整えるよう求めた書状。 井吹次郎左衛門尉とも相談し、城郭の状態を見合わせながら用捨・格護を進めることを指示する、帰国後の領国防備に関する内容である。

  44. 後編2-No.544 島津義弘書状

    島津義弘が、島津義久の帰国後も京都が平穏であることを伝え、航海中の長期滞留を経て無事帰国したとの知らせを喜んだ書状。 九日に飯野から届いた報告に触れ、国元の安堵と今後の見届けを伊地知伯耆入道へ伝えている。

  45. 後編2-No.545 島津義弘書状

    島津義弘が、島津義久の帰国を祝うとともに、諸県郡の移衆・配当を飯野で実施する方針を新納武蔵入道へ伝えた書状。 担当者を早急に差し越して処置を進めるよう求め、国元再編に伴う人員・所領配分の実務を示す。

  46. 後編2-No.546 島津義弘書状

    島津義弘が、島津義久の帰国を祝し、諸県郡の移衆・配当を飯野で行うため早々に出向くよう山田越前入道へ求めた書状。 前文書と同じ政策を別の担当者へ指示しており、地域再編を複数の家臣に分担させたことが分かる。

  47. 後編2-No.547 桑山重晴書状

    桑山重晴が島津義弘へ、先日は義弘の他行により面会できなかったことを惜しみ、大納言殿のもとで義弘の仕合せが整ったことと、右衛門大夫殿が無事に下国したとの知らせを祝う。 当地の普請で多忙なため音信が滞ったと詫び、後日参上して詳しく相談したいと申し入れ、翌春には阿弥陀寺で必ず対面したいと伝えた書状。

  48. 後編2-No.548 島津義弘書状

    島津義弘が伊地知伯耆入道へ、渡唐船の件を一途に決着させるよう、油断なく厳重に処置することを求める。あわせて琉球への使者を十分に整えず派遣するのは不適切で、白石治部少輔からもその旨を命じられたとして、細部まで調えるよう促した。 白濱次郎左衛門尉・谷少とも直接相談するため、これらの趣旨をしかるべく披露す…

  49. 後編2-No.549 島津竜伯起請文

    島津義久(龍伯)が、家中で謀叛・逆心を企てず、違背者を知れば直ちに届け出ることなどを誓わせた三か条の起請文。 関白・天皇への奉公、所領支配、琉球使者への対応にも触れ、豊臣政権服属後の北郷氏統制と相互監視を示す重要史料である。

  50. 後編2-No.550 島津竜伯書状

    島津義久が、在京中から長く音信が途絶えていることを案じ、京都での御用や国元の状況を知らせるよう松浦肥前守へ求めた書状。 自らは満足して帰国したと述べつつ、今後も連絡と尽力を頼み、年末の進物を添えて関係維持を図っている。

  51. 後編2-No.551 細川玄旨・石田三成連署覚書

    細川玄旨・石田三成の連署覚書として収録されるが、この箇所には「島津義久譜中にあり、天正十六年との朱書がある」とする典拠注記のみが見える。 本文が省略されている可能性があり、具体的な用件・宛先は本頁から確定できない。

  52. 後編2-No.552 北郷一雲時久譜

    北郷時久(一雲)が、秋月・高橋・伊東の諸氏とは私的な盟約を結ばず、島津義久(龍伯)へ忠節を尽くすことを誓った記事。 同月、時久への書状と忠虎への誓状が発給された経緯も記し、豊臣政権下で北郷氏を島津方へ再統合する過程を伝える。

  53. 後編2-No.553 島津竜伯書状

    島津義久(龍伯)が、長く音信を欠いたことを詫び、先の滞在中に神裁を交わして確認した誠意に変わりがないと伝えた書状。 帰国後も互いに違背しないことを重ねて述べ、島津修理大夫との盟約関係を維持しようとしている。

  54. 後編2-No.554 北郷忠虎譜

    天正十六年十二月、島津義久(龍伯)が北郷忠虎へ誓状を与えたことを記す北郷忠虎譜の記事。 正文が存在すると明記され、北郷氏との主従関係を誓約文書によって再確認した事実を伝える。

  55. 後編2-No.555 島津竜伯起請文

    島津義久(龍伯)が北郷忠虎へ与えた起請文で、本文はNo.549と同文であるため省略されている。 北郷時久と忠虎に同内容の誓約を課した重出資料で、家中の謀叛防止、違背者の通報、関白への奉公などの条項はNo.549本文によって確認できる。

  56. 後編2-No.556 豊臣秀吉直書

    豊臣秀吉が、島津義弘が鹿児島へ無事到着したとの報せを喜び、遠路の辛労をねぎらった直書。 緞子二巻などの贈答にも触れ、詳細は石田治部少輔(三成)から申し伝えるとしている。

  57. 後編2-No.557 島津豊久譜

    島津豊久が豊臣秀吉の命を受け、母とともに上方へ赴き、その後数年間京都に滞在したと記す譜の記事。 島津一門の若年当主と母が在京した事実は、豊臣政権による大名統制・人質政策を考える手掛かりとなる。

  58. 後編2-No.558 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、歳暮の祝儀として島津豊久から小袖一重が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。 詳しい返答は長束大蔵大輔(正家)から申し伝えるとしており、在京中の豊久と秀吉の贈答関係を示す。

  59. 後編2-No.559 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、歳暮の祝儀として島津義弘から呉服一重が届き、北政所にも同様の進物があったことを喜んだ朱印状。 返答を石田治部少輔(三成)に託しており、島津方が秀吉夫妻双方へ行った年末贈答の実態が分かる。

  60. 後編2-No.560 新納忠元勲功記

    新納忠元の在洛中、秀吉から直書・扇子・数珠を賜り祈願を命じられたことに始まり、肥後国人一揆後の城郭調査、城の受け渡し、家臣配置、普請・兵粮・所領処置をめぐる働きを詳述する。 忠元は石田三成・細川幽斎らを介して命令を受け、国衆の召集や肥後表の警固、島津家中の転封・知行再編に関与した。九州仕置直後の軍事…

  61. 後編2-No.561 天正十七年・十八年覚書

    天正十七年の十七か条誓紙連判、八月の実明公上洛、同年秋の松齢公下向、天正十八年の久保公関東出陣を列記した覚書。 二年間の島津家中の主要行事を見出し形式でまとめたもので、誓約・上洛・帰国・軍事動員の時系列を簡潔に確認できる。

  62. 後編2-No.562 飯野衆中名書上

    天正十七年二月吉日付で、飯野衆中に属する多数の武士を官途名・通称とともに列挙した大規模な名書上。 冊子427~431頁にわたり、有河・河田・上井・長野・黒木・池田・土持・伊地知など広範な家々を収録する。豊臣政権服属直後の飯野地域における家臣団の構成、同族名の分布、人的規模を調べる基礎史料で、細字の人…

  63. 後編2-No.563 飯野衆中名書上

    飯野士壱岐七右衛門家に伝来した写本をもとに、飯野衆中の諸士名を列挙した別系統の名書上。 冊子431~432頁にわたり、No.562と重なる家名を含みつつ人名の配列・収録範囲が異なる。飯野家臣団名簿の異本比較、同名人物の識別、系譜調査に利用できるが、細字のため個々の人名は要照合。

  64. 後編2-No.564 島津義久書状案

    島津義久が、近年は帰国できない見込みのなか、義弘と交替して在京する意思を示す。国元はいまだ戦乱後の状態にあるため、義弘・又二郎らと交替し、一年に一人ずつ上洛する構想を述べている。 前年に自身の下国を認められた恩を忘れず、今後も長く奉公する覚悟から引き続き取り成しを願う内容で、領国統治と豊臣政権への出…

  65. 後編2-No.565 樺山紹剣自記

    樺山紹剣が、春夏の国元遊覧、島津義久の上洛への随行、京都での越年、豊臣秀吉の鷹狩などを回想した自記。 京都で見聞した武家・公家の動きや贈答、帰国航海までを本人の視点で記し、島津家臣が豊臣政権中枢に接した体験を伝える。

  66. 後編2-No.566 島津義弘書状案

    島津義弘が、京都で関白の外出や鷹狩を見聞した近況を伊地知伯耆入道へ伝え、国元の様子も詳しく知らせるよう求めた書状案。 判形・公家衆への披露や進上物の扱いにも言及し、在京中の義弘が朝廷・豊臣政権周辺の儀礼と情報交換に気を配っていたことが分かる。

  67. 後編2-No.567 島津竜伯久義久書状

    島津義久(龍伯)が新年の祝意を述べ、相手方の領内が現在どのような状態かを尋ねるため使者を送った書状。 国境・領内の情勢を報告し、引き続き賢慮を尽くして対応するよう新納武蔵入道へ求めている。

  68. 後編2-No.568 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津義弘へ、大仏材木について伊集院右衛門大夫入道(忠棟)・島津図書入道へも朱印状を出したと知らせ、その趣旨を確実に申し渡すよう命じる。 材木調達の実務を両名に担わせ、返答は石田三成を通じて行うとした、豊臣政権の命令伝達系統が分かる朱印状。

  69. 後編2-No.569 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津義弘へ、大仏造営に用いる島津義久・兵庫頭領内の杉・檜を、大小を問わず念入りに調査して注文へ書き上げるよう命じる。 寺社の神木であっても大仏造営を優先し、伐採・供出を滞らせず、材木の内訳を詳しく言上するよう求め、詳細な返答は長岡幽斎・石田三成に託した朱印状。

  70. 後編2-No.570 石田三成・細川玄旨連署副状

    石田三成・細川玄旨が、秀吉の大仏材木調達命令を受け、伊集院忠棟と島津図書入道の二人が自ら屋久島へ渡って杉・檜を調査するよう指示した連署副状。 島内では私用の伐採を一本も許さず、材木を残らず書き上げ、判断しにくい点は照会するよう命じる。

  71. 後編2-No.571 細川玄旨・石田三成連署副状

    石田三成・細川玄旨が、大仏殿造営用材の調達について、国ごとの割当や材木の寸法・本数、船による搬送方法を島津義弘へ詳しく指示した連署副状。 材木の不足や遅延を許さず、現地で検分して帳面を作り、指定分を確実に積み出すよう求める、豊臣政権の大規模資材動員を示す史料である。

  72. 後編2-No.572 島津義弘書状

    島津義弘が伊地知伯耆入道へ、右馬頭の下向、大仏殿材木の選定・集積、屋久島の杉檜の検分、船と人夫の確保などを国元へ細かく指示した長文書状。材木の私的伐採を禁じ、京都へ送る品や金銀、在京中の諸費用、公家衆への進物、『御両所』の動静も取り上げる。『御両所』に義久が含まれるか確定できないため、義久関係文書か…

  73. 後編2-No.573 島津義弘書状

    島津義弘が、左京亮の奉公ぶりと母への配慮を新納武蔵入道へ伝え、京都が平穏であることや飯野の留守態勢を報告した書状。 一郎の暇願い、召し下しの可否、現地事情の探索なども京尭を通じて確認するよう求め、在京者と国元の家族・家臣を結ぶ具体的な連絡内容を含む。

  74. 後編2-No.574 石田三成書状

    石田三成が島津義弘からの書状を拝見し、義弘の帰国時期は公儀の判断に属するため確約できないと返答した書状。 義弘の心情を気遣いつつ、早期の帰国が実現するよう働き掛ける意向を伝えている。

  75. 後編2-No.575 島津忠倍譜

    島津忠倍が、父・島津忠長に薩摩国東郷が与えられたことを受け、串良を離れて島津征久の館で越年し、翌年二月に忠長に従って東郷へ移った記事。 島津一門の所領替えに伴う家族単位の移住経路と時期を具体的に伝える。

  76. 後編2-No.576 島津久元譜

    天正十七年二月、島津久元が父・兄とともに東郷から薩摩国祁答院の宮城へ移った記事。 No.575に続く一門の居所移動を記し、忠長家が東郷から祁答院へ再配置された経過を補う。

  77. 後編2-No.577 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、島津義久から鉄砲で仕留めた雁二十羽と鴨五十羽が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。 詳しい返答は石田治部少輔(三成)と山中山城守から申し伝えるとしており、島津方による獲物贈答の具体的な数量が分かる。

  78. 後編2-No.578 島津義弘書状

    本文はNo.649の文書と同文であるため省略すると注記された島津義弘書状。 この箇所には本文・宛先が掲載されておらず、具体的な用件はNo.649との照合が必要である。

  79. 後編2-No.579 島津竜伯証状

    島津義久(龍伯)が福昌寺の僧衆へ、師命に背く者や師の死後に逆心を起こす者の相続を認めず、寺務・公役を厳格に守るよう定めた証状。 寺僧の派中統制、住持継承、公儀への訴訟や他寺への出頭を規制しており、島津氏菩提寺の内部秩序を知る重要史料である。

  80. 後編2-No.580 島津義弘書状

    島津義弘が屋形造営と旧来の借物返済、又一郎夫婦の在京費用を整理するため、鎌田出雲守を国元へ派遣すると伝えた書状。 関係者間で帳簿と負担を突き合わせ、双方に遺恨が残らないよう精算することを三名の奉行へ求めている。

  81. 後編2-No.581 島津義弘書状

    島津義弘が、京都で決めた国元の置目を引き続き協議し、鎌田出雲守の口上を聞いて実施するよう命じた書状。 諸地域の負担や入用を調べ、両人が相談して混乱なく処理することを求め、在京中の決定を国元行政へ落とし込む役割を託している。

  82. 後編2-No.582 島津義弘書状

    島津義弘が川上武蔵入道へ、京都は平穏であると知らせ、折よく手に入った扇子二本を贈った書状。 龍伯以来対面できず残念に思うこと、義久の下向により国元も安堵しただろうことを述べ、特別な用件がなくても便宜のよい時に音信を寄せるよう求める。

  83. 後編2-No.583 島津義弘書状

    島津義弘が右馬頭へ、妙谷寺について下命を受け、使僧を通じて申し入れたところ、早く上洛するとの返事を得たと伝える。 上洛の遅延を案じる一方、山里で催された茶会に武衛・長谷川藤五郎・羽柴左衛門督らが参会した近況も知らせ、早期の上洛を促した書状。

  84. 後編2-No.584 伊地知季安考

    伊地知季安が、島津義弘から新納武蔵入道へ下された草案中の「右馬頭下向」「安宅三郎兵衛尉の馳走」という語句を検討した考証記事。 文言と人物関係から、文書の年代を天正十七年から十八・十九年頃と推定しており、編者による年代比定の根拠が分かる。

  85. 後編2-No.585 島津義久土宣注文

    島津義久の注文として、杉原紙百帖を調達するよう数量を明記した短い物品注文。 大量の杉原紙を必要とした島津家の文書行政・儀礼用紙の調達規模を具体的に示す。

  86. 後編2-No.586 島津義弘書状

    島津義弘が伊地知伯耆入道へ、佐多方から訴えられた渡唐船をめぐる争いについて、船・帆・積荷の押収や分配、門之浦・和泉での取扱い、使僧による訴えの経過を詳しく報告する。 公儀の法度と当事者双方の言い分を突き合わせ、没収物の返還・船の処置・責任者の処罰を慎重に決め、結果を京都へ知らせるよう求める。薩摩沿岸…

  87. 後編2-No.587 島津義弘書状

    島津義弘が鎌田出雲守へ、帰国後の国元運営を見据え、屋形・借物・借銀・扶持・馬・進上物など多数の家政事項を一項ずつ指示した長文書状。 関白の意向や京都での交際費、国元の負担、家臣・奉公人の処遇を照合し、帳簿と口上によって遺恨なく精算するよう求める。豊臣政権下で在京を続ける義弘が、限られた財源を配分しな…

  88. 後編2-No.588 島津義弘書状

    島津義弘が、島津義久(龍伯)の上洛に際し、父子が在京する場合の礼法や席次を遠国大名の先例に照らして調べるよう伊地知伯耆入道へ求めた書状。 上洛時の対面・披露に手違いがないよう事前確認を命じており、豊臣政権下での島津家の儀礼対応を示す。

  89. 後編2-No.589 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、端午の祝儀として島津義久から帷子五領などが届き、北政所にも生絹五疋が贈られたことを喜んだ朱印状。 返答を石田治部少輔(三成)に託しており、秀吉夫妻へ品を分けて贈った端午節句の贈答内容が分かる。

  90. 後編2-No.590 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、端午の祝儀として羽柴薩摩侍従から帷子五領が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。 詳しい返答は石田治部少輔(三成)から申し伝えるとしており、No.589とは贈答者と品数が異なる。

  91. 後編2-No.591 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が羽柴薩摩侍従へ、端午の祝儀として帷子二領が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。 返答は石田治部少輔(三成)から申し伝えるとしており、同時期のNo.589・590とは贈答者と帷子の数量が異なる。

  92. 後編2-No.592 島津竜伯条目

    島津義久(龍伯)が島津又七郎(豊久)へ、福島に滞留する秋月殿に関して家中の意見を一致させ、私的な争論を禁じるよう命じた条目。 逃散者の取締り、科人の隠匿禁止、虚説・中傷の相互究明、他方の動静の報告を定め、違反時は諸神の罰を受けると誓わせる。移封後の領内秩序を豊久に担わせた史料である。

  93. 後編2-No.593 平田舜盧外二十名連署起請文

    平田氏・伊地知氏・新納氏ら二十名余の家臣が、島津義久(龍伯)・義弘(惟新)へ忠節を尽くし、互いに秘密の謀議や派閥を結ばないことを誓った連署起請文。 命令には一致して従い、共同で奉公し、違背した場合は梵天・帝釈・八幡・天満天神など諸神の罰を受けると記し、豊臣政権服属後の家中結束を図った重要史料である。

  94. 後編2-No.594 島津竜伯書下

    島津義久(龍伯)が、先に申し出た案件への懇切な返答を喜び、今後も忠節を尽くすよう新納武蔵入道へ求めた書下。 相手の誠意を評価して忠勤を励ます短文で、連署起請文提出後の家臣に対する慰労・確認の性格を持つ。

  95. 後編2-No.595 島津竜伯書下

    島津義久(龍伯)が、長年にわたり内外で格別の奉公を続け、今回も神文によって心底を示した伊集院下野入道を称賛した書下。 これまでの忠勤への謝意を述べ、今後も忠貞を励むよう求めている。

  96. 後編2-No.596 島津竜伯書下

    島津義久(龍伯)が、鎌田出雲守が数年間にわたり境目の在宅勤務を務めた辛労をねぎらい、神文で忠誠を示したことを喜んだ書下。 国境地域での長期奉公を評価し、引き続き忠節を尽くすよう励ましている。

  97. 後編2-No.597 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、島津義弘から帷子三領と生絹二疋が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。 詳しい返答は石田治部少輔(三成)から申し伝えるとしており、夏季の衣料贈答の品目と数量を示す。

  98. 後編2-No.598 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、盆の祝儀として島津義弘から帷子五領が届いたことを喜び、丁寧な贈答への謝意を示した朱印状。 返答は石田治部少輔(三成)に託され、No.597とは贈答の名目と品数が異なる。

  99. 後編2-No.599 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、盆の祝儀として羽柴薩摩侍従から帷子五領が届いたことを喜び、懇意への謝意を伝えた朱印状。 同日付のNo.598と同種の贈答文書だが、宛先が羽柴薩摩侍従である点が異なる。

  100. 後編2-No.600 小早川隆景書状

    小早川隆景が、夏の間は京都から暇を得て領国へ戻っていたことを島津義久へ知らせた書状。 新納武蔵から先に伝えた用件に触れ、自身が再び上洛する際、義久が年内に京都へ着けば参上して挨拶したいと申し入れている。