ARCHIVE DIRECTORY
後編2の目録
旧記雑録 天正13年~文禄4年の文書・記事です。
全1,646件中 601~700件・7 / 17ページ
後編2-No.601 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が、八朔の祝儀として島津義弘から帷子五領・生絹などが届き、北政所・秀頼にも贈答があったことを喜んだ朱印状。 秀吉一家へそれぞれ品を贈った島津方の八朔儀礼を示し、返答は石田三成に託されている。
後編2-No.602 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が、八朔の祝儀として羽柴薩摩侍従から帷子五領・生絹が届き、北政所・秀頼にも同様の贈答があったことを喜んだ朱印状。 No.601と同じ秀吉一家への八朔贈答を、別の島津家人物に対して受領確認した文書である。
後編2-No.603 島津義弘寄進状
島津義弘が、大隅国百引・丸之門の田地計一町五段を大興寺領として安堵した寄進状。 うち五段は仏神領で、天正八年に島津義久が寄進した由緒を確認し、義弘が改めて寺領として保証している。
後編2-No.604 島津義弘譜
天正十七年八月十日、島津義弘が豊臣秀吉から帰国の暇を与えられ、大坂を辞して領国へ向かったことを記す譜の記事。 長期在京を終えて国元へ戻る転機を簡潔に示し、同時期の書状群に見える帰国願望が実現したことが分かる。
後編2-No.605 島津久保書状案
島津久保が、相手の長期在京の苦労を気遣い、自身の上洛が六月以来延引していることへの困惑を伝えた書状案。 来月には必ず上洛する覚悟を述べ、在京者との交替・合流をめぐる島津家内の調整をうかがわせる。
後編2-No.606 島津義弘書状
島津義弘が、関白の命令に基づいて琉球へ申し渡すべき条項を使者に託し、現地で回答を取り付けるよう指示した書状。 使僧の派遣と交渉手順、状況に応じた判断を命じており、豊臣政権による琉球服属要求を島津氏が仲介した過程を示す。
後編2-No.607 島津忠長譜
島津忠長譜の記事。天正十七年八月二十日、島津義久(龍伯)が上洛のため出発し、九月二十四日に摂津国大坂へ着船した経過を記す。 忠長の館を経て聚楽へ向かう一方、大徳寺前龍室の玉仲宗琇を訪ねたことも記し、義久の上洛行程と禅僧との交流を伝える。
後編2-No.608 島津竜伯書下
島津竜伯(義久)が大慈寺へ、琉球へ渡り、琉球使節とともに帰着して上京する運びとなった働きを喜び、先年の豊州方面での度重なる苦労も賞した。 これらの奉公と大慈寺の懇望を受け、同寺の寺役を天正十七年から十年間免許した書下。島津氏の琉球外交・豊州出兵と寺院保護が結び付く史料である。
後編2-No.609 本田三清親貞外二名連署坪付
加世田大浦名の「山之田」にある一作一段八畝を、有木蘭門の内として記した三名連署の坪付。 本田三清親貞らが土地の所在・面積・区分を確認したもので、加世田地域の知行地把握と土地管理の実務を具体的に示す。
後編2-No.610 島津義久譜
天正十七年八月二十四日、島津義久(龍伯)が鬼島を出て京都へ向かい、九月二十四日に大坂へ着船した後、聚楽第で豊臣秀吉に謁見した記事。 義久は長く在洛し、聚楽に諸侯をしのぐほど華美な屋形を営んだと記され、豊臣政権下での島津当主の在京生活を伝える。
後編2-No.611 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が、重陽の祝儀として島津義弘から呉服一重が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。 詳しい返答は石田治部少輔(三成)から申し伝えるとしており、九月節句に行われた衣料贈答を示す。
後編2-No.612 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が羽柴薩摩侍従へ、薩摩・大隅両国内の鶴・白鳥・雁・鴨などを、前年同様に鉄砲衆や猟師へ命じて捕らえ、進上するよう求めた朱印状。 御鷹場では他者に鳥を捕らせず、確実に集めることを命じ、詳細は島津中山城守から申し伝えるとしている。
後編2-No.613 島津義弘証状
島津義弘が、日向国求仁郷大崎の横瀬名窪之門にある田地一町六段余を、安養院の仏神領・造営田として安堵した証状。 長年途絶えていた神領を島津義久の造営田として再確認し、寺社経営の基盤を保証している。
後編2-No.614 年代記
天正十七年九月、島津義久が上洛し、二十八日の大雪の日に妙谷寺の地引が行われたことを記す年代記の記事。 義久の在京と寺地造成の時期を天候まで含めて記録した、簡潔だが具体性の高い記事である。
後編2-No.615 吉田天神社棟札
吉田天神社の社殿一宇を再興した際の棟札で、奉行として島津義弘、久保、忠恒らの名を記す。 天満大自在天神を祀る社殿造営の年次と島津一門の関与を伝え、地域寺社の復興事業を知る建築史料である。
後編2-No.616 島津竜伯書状
島津義久(龍伯)が、上洛前に伝授した三か条の「まじない」を秘密として口外しないよう河田駿河入道へ命じた書状。 伝授内容の扱いと相伝の方法を指示し、あわせて槨絵一枚を送っており、島津家中の秘法・呪術伝承をうかがわせる珍しい史料である。
後編2-No.617 北郷一雲時久譜
唐船が北郷時久(一雲)の領する内浦の津へ着き、積載してきた品々を検分して豊臣秀吉へ献上した記事。 秀吉から礼状と目録付き朱印状が下された経緯を記し、日向沿岸に到着した海外船と豊臣政権への珍品献上を結ぶ史料である。
後編2-No.618 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が、唐船の到着に伴い目録どおり多様な品々が献上されたことを喜び、北郷時久(一雲)へ受領を伝えた朱印状。 品物を漏れなく取りそろえた働きを評価し、詳しい返答は石田木工頭から申し伝えるとしている。
後編2-No.619 豊臣秀吉朱印状
唐船から献上された品々の目録で、砂糖五百斤をはじめ、花入・茶碗・唐金製品などの数量を具体的に列挙する。 No.618の朱印状に対応する附属目録で、十六世紀末の海外交易品と珍品献上の実態を知る上で価値が高い。
後編2-No.620 島津義弘書下
島津義弘が、琉球への渡航で国のために尽力し、無事帰朝して上洛まで果たした大慈寺関係者の功績を認めた書下。 その褒賞として大慈寺の寺役を十年間免除し、外交使節を担った寺院の負担軽減を承認している。
後編2-No.621 島津義弘条書
島津義弘が、御料人と又一郎の上洛時期、諸国船衆からの借銀、島津義久・米方への借銀返済、天草表、南蛮船という五項目を列記した条書。 家族の移動、債務整理、海上交通・対外関係を同時に管理するための実務的な備忘・協議事項である。
後編2-No.622 島津久保書状
島津久保が、京都にあって相手の懇切な書状を受け取り、国元の様子を知らせてくれたことに礼を述べた書状。 疎意はないと強調し、今後も国元の諸事に心を配って忠節を尽くすよう比志島紀伊守へ求めている。
後編2-No.623 石田三成書状
石田三成が、島津家からの礼状を拝見し、当日は暮れるまで御前に詰めていたため返答が遅れたと説明した書状。 今後も用件を取り次ぎ、義久・久保らの意向に沿って対応する旨を伝える、豊臣政権中枢との日常的な連絡文書である。
後編2-No.624 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が、歳暮の祝儀として島津義弘から呉服三重が届き、秀頼へ三重、北政所へ二重の呉服も贈られたことを喜んだ朱印状。 秀吉・秀頼・北政所へ贈り分けた数量が明記され、島津方の年末贈答儀礼を具体的に示す。
後編2-No.625 安芸法印書状
安芸法印休松が島津義弘へ、帰国後しばらく便りがなく恋しく思っていたこと、無事に下向した満足を推し量ることを伝える。上様から懇ろな言葉があったことや、義弘の翌春の上洛予定にも触れる。 さらに三月朔日の東国出馬に供奉するとの知らせを受け、無事帰陣した後に詳しく聞きたいと述べ、珍しい唐墨一丁を贈られた礼を…
後編2-No.626 天正十八年・十九年覚書
天正十八年の小田原陣に続き、天正十九年正月の貴明公の下向、同年九月の松齢公の伏見からの帰国と人質番組を列挙する。 さらに同年冬の高麗渡海命令、十二月に貞明公が名護屋へ加わったことを記し、豊臣政権下で島津家が相次いで軍事動員を受けた経過を簡潔にまとめた覚書である。
後編2-No.627 島津義久譜
天正十八年正月朔日、島津義久が在京中に北野天神へ国家安全・七難消滅・戦事終息を祈願し、神拝を終えた記事。 同日申刻には豊臣秀吉が華麗な行列で参内したことも記され、年頭の宗教儀礼と秀吉の朝廷儀礼を併記する。
後編2-No.628 樺山紹剣自記
樺山紹剣が、豊臣秀吉の小田原征伐に応じるため、国中の有力者・役負担者から銀銭を集めて出納し、在国・他国奉公中の者の氏名と人数も記録するよう説いた自記。 全国の諸大名が太閤の命に従って軍勢を出す情勢を踏まえ、島津領内でも人員・資金を漏れなく把握して出陣に備える必要を述べ、豊臣政権の軍役が在地社会へ及ぶ…
後編2-No.629 帖佐彦左衛門日記
帖佐彦左衛門が、小田原征伐に従う島津久保の軍勢について、将軍役・軍資金、川越えに備えた兵糧や渡河用具、軍馬の準備と配分を記した日記。 身分に応じて馬を割り当て、不足時には先陣の馬を回すことまで定めており、長距離遠征を支えた装備・輸送・馬匹管理の実務を具体的に知ることができる。
後編2-No.630 国老記
天正十八年、島津義弘が飯野から栗野へ移った際の「御在城御家」として、川上四郎兵衛・有川雅楽助・上井次郎左衛門の名を記した国老記の記事。 居城移転に伴って近侍した家臣を具体的に示し、義弘の身辺組織を確認できる。
後編2-No.631 島津義弘書状
島津義弘が、又一郎の関東出陣に際して供を務めるよう佐多宮内少輔へ命じた書状。 危険の多い遠征であるため忠節を尽くし、又一郎を高城まで無事に伴うよう求める、小田原陣直前の随行命令である。
後編2-No.632 島津義久譜
本文はNo.637と同文のため省略された島津義久譜の記事。No.637は新春の祝意と国家安全への祈りを述べ、扇十本を贈る年賀書状である。 同一文書が譜にも重ねて収録されたことを示す重出記事で、本文注記の参照番号は明瞭に確認できる。
後編2-No.633 島津義久譜
天正十八年、関西諸侯が小田原征伐のため上洛するなか、島津久保は領国を発ち、三月二十四日に上着、同二十八日に京都から東国へ進発した。 騎馬十五騎、歩卒以下を合わせて四百五十八人を率い、島津義久が三条橋口で行列を見送ったと記され、久保初陣の出発日程・兵力・奉送儀礼を具体的に伝える。
後編2-No.634 島津義久譜
本文はNo.635と同文のため省略された島津義久譜の記事。No.635は北郷忠虎が大仏殿用の巨杉を献上し、上洛して太刀・馬代銀子を年始に贈った経過を記す。 大仏造営への材木供出と秀吉への年賀奉公が、別の譜にも重ねて収録されたことを示す。
後編2-No.635 北郷忠虎譜
北郷忠虎が大仏殿建立用の巨大な杉を領内で探し出して献上し、翌年正月に上洛した経過を記す譜の記事。 忠虎は年頭の進物として太刀一腰・馬代銀子三枚を贈り、大規模建築への資材供出と秀吉への年始奉公を続けた。
後編2-No.636 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が、年頭の祝儀として北郷忠虎から太刀一腰と馬代銀子三枚が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。 No.635の記事に記された上洛・年始献上を、秀吉側から確認できる対応文書である。
後編2-No.637 近衛前久書状
近衛前久書状として収められた正月十三日付の年賀書状。新春の慶賀を述べ、国家安全を祈るとともに、ささやかな祝儀として扇十本を贈る。 龍伯(島津義久)と近衛前久の間で、賀礼と贈答を通じて関係が維持されていたことを示す。
後編2-No.638 町田久倍・平田蔵宗連署状
町田久倍・平田歳宗が、乗馬を梅北宮内左衛門尉に預けて使用させるという飯野からの命令を伝えた連署状。 馬の扱いをめぐって関係者が十分に相談し、油断なく管理するよう川上・町田両名へ求めている。
後編2-No.639 天正十八年記事
豊臣秀吉の小田原征伐に際し、島津久保が天正十八年正月二十七日に栗野を出発し、日向油津から海路を取った記事。 海上不順のため航海が遅れ、二月二十二日に大坂へ着船したと記し、久保初陣の具体的な旅程と遠征初動を伝える。
後編2-No.640 池田貞安覚書
池田貞安が、島津久保の小田原出陣時に木村主殿佑・親六左衛門とともに御馬の別当を命じられ、供奉したことを記す覚書。 久保軍中での馬匹担当者と役割分担を具体的に確認できる。
後編2-No.641 島津義久譜
天正十八年二月八日、豊臣秀吉が小田原征伐へ向けて大坂を発ち京都へ進んだ際、島津義久が京橋口で行列を見送った記事。 同月四日・五日に近衛前久と交わした春の松・梅を題とする和歌も載せ、東征開始時の奉送儀礼と、在京中の義久の公家文化交流を一つの記事で伝える。
後編2-No.642 能真書状
能真が上井入道へ、関白豊臣秀吉が琉球国王に与えた書状、渡海船の手配、京都での相談、小田原陣後の情勢を詳しく伝えた返書。 琉球側の返答や渡海準備が進まない事情、船と使者の差配、関係者との面談を述べ、豊臣政権の対琉球交渉を島津方へ伝達する実務を示す。
後編2-No.643 豊臣秀吉書状
豊臣秀吉が琉球国王へ、献上品への礼を述べる一方、日本国内を統一した勢威を示し、高麗を経て大明へ軍威を及ぼす構想を明らかにした書状。 早急に渡海して服属の意を示すよう迫り、従わなければ処置する含意を持つ。朝鮮侵攻前の豊臣政権による琉球への強圧的な参上要求を示す重要な外交史料である。
後編2-No.644 島津義久譜
豊臣秀吉から琉球国王へ送られた返書が存在し、その案文を以下に記すと紹介する島津義久譜の記事。 豊臣政権の琉球服属要求に関する外交文書を収録するための前置きで、続く案文との関係を示す。
後編2-No.645 島津義久書状案
島津義久が、東国表の戦況と帰陣、屋形造営の協議、久保ら二人の上洛、悪天候による航海遅延など複数項目を列記した書状案。 小田原征伐後の帰国・上洛日程と家中の建築・人員配置を同時に調整する実務文書である。
後編2-No.646 島津久保譜
島津久保が小田原征伐に初陣し、京都から東海道を進んで豊臣軍へ加わった経過を、日付・宿駅・部隊編成とともに詳記する。騎馬・歩卒計四百五十八人の陣容、徳川家康・細川忠興・福島正則ら諸将との行軍、韮山城・山中城など北条方諸城への攻撃、島津勢の戦死傷者や軍馬の損耗を具体的に載せる。 さらに小田原包囲、北条氏…
後編2-No.647 島津義弘譜
豊臣秀吉が北条氏直を朝敵として東征を企てると、島津久保は大軍への従軍を望み、天正十八年正月下旬に領国を出発した。 三月朔日には京都から秀吉の本隊とともに進発しており、久保の小田原征役参加の出立時期を示す島津義弘譜の記事。
後編2-No.648 北郷三久譜
豊臣秀吉の小田原征伐に際し、関東の諸将へ参陣を命じ、北条方への加担を禁じた条書を掲げる。 島津久保の隊列や供奉人数、北条氏滅亡後の奥州進軍までを記し、豊臣政権による東国平定の軍事編成が分かる。
後編2-No.649 島津豊久譜
豊臣秀吉の親征により小田原北条氏が降伏し、豊臣方が九月朔日に会津へ入った経過を記す。 奥州まで豊臣軍に随行した島津久保らの労苦と、東国・奥州平定の行程を簡潔に伝える譜記事。
後編2-No.650 樺山久高譜
北条氏退治ののち、豊臣秀吉が島津久保の関東出兵と供奉の労苦をねぎらい、近衛前久にもその働きを伝えた。 久保が秀吉の東征で評価を得たことを示す、樺山権左衛門久高譜所収の記事。
後編2-No.651 島津義久譜
島津義久が上洛中、近衛前久らを招いて酒宴や花見を催し、伊勢神宮参詣後には和歌を贈答した経過を記す。 京都の公家・寺社との交際、贈答、遊覧を具体的に伝え、豊臣政権服属後の義久の文化的・政治的な人脈がうかがえる。
後編2-No.652 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が北条氏直の小田原城を包囲し、城主らを討ち取って関東を平定する方針を伝える。 箱根山中城の攻略後、小田原表での戦況を報じ、左右の者へ披露するよう島津義弘に命じた朱印状。
後編2-No.653 島津義久譜
島津文七忠豊が大和から島津義久を訪ね、天正十八年四月六日に対面したことを記す。 上洛中の義久のもとへ一族・家臣が参会した動向を伝える短い譜記事。
後編2-No.654 島津義久譜
島津義久が時鳥の声を「雲井に隔てられた」と詠み、雨のため思うようにならない心情を和歌に託す。 上洛中の義久の感慨を伝える短い詠歌記事。
後編2-No.655 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が遠路参陣した島津勢をねぎらい、小田原城を二十万余の兵で包囲して城方の逃散が相次ぐ戦況を報じる。 先手が周辺の城を攻略しているため、小田原落城も間もないとの見通しを伝えた朱印状。
後編2-No.656 島津義久譜
泉州に滞在する島津義久のもとへ吉小春太夫が訪れ、終日慰問した。 宿を三か所に設けて諸士をもてなしたことから、上洛・遠征中の義久一行の接遇と宿営の様子が分かる。
後編2-No.657 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が小田原城を鉄砲数百挺で攻撃し、堀の埋め立てや楼・塀の構築、海上への軍船配置を進めた包囲戦の状況を伝える。 八州の諸城が降伏し、城内の物主らも退去・服属しているとして、関東平定が近いとの見通しを示す朱印状。
後編2-No.658 近衛前久書状
近衛前久が東国出陣の御気遣いを承知したとして、島津方の無事を願い、今後の上洛時には詳しく聞きたいと返答する。 使者を急ぎ帰した事情にも触れ、遠征中の安否を気遣う公家の書状。
後編2-No.659 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が端午の祝儀として帷子・生絹が届いたことを喜び、同じ品を北政所へも贈った心遣いを評価する。 石田治部少輔にも申し伝えるよう命じた、島津義弘の贈答に対する礼状。
後編2-No.660 島津義久譜
天正十八年四月二十四日に島津義久が大坂を発って京都へ入り、賀茂の見物や松下殿からの樽酒、紹巴宅での連歌など、五月中旬までの在京行動を日付順に記す。 五月二十一日には近衛龍山前久から戦勝を祝う書状と和歌が贈られ、秀吉の東征期における義久の公家・連歌師との交流を伝える。
後編2-No.661 近衛竜山前久外一名連署状
近衛龍山前久らが、若衆が集まり見事な酒席になっているので早く来るよう相手を強く誘った連署状。来なければ二人で盃を交わし、後から恨まれても困ると冗談を交え、返事が来るまで八幡の盃を待つと催促する。 公家と島津方の私的な交際や、宴席への親密で軽妙な誘い方が伝わる珍しい書状である。
後編2-No.662 島津義久譜
天正十八年五月二十七日、在京中の島津義久が紹巴法橋の連歌会に参加し、再三辞退した発句を強く請われて詠んだ記事。 「柏よりいつ枝も花にあふち哉」と署名龍伯の句を載せ、義久が京都の連歌師と交わした創作の具体例を伝える。
後編2-No.663 島津久保譜
石田三成が東奥へ進発する日に島津久保が本営へ赴き、三成から酒を振る舞われた。 増田長盛も同席し、久保に千卯花威の品が与えられたことを記す、奥州仕置出発時の譜記事。
後編2-No.664 島津久保書状
島津久保が伊勢雅楽入道へ、関白豊臣秀吉に度々拝謁して数々の上意を受けたことを伝えた書状。防戦について緊張を保っている一方、関東八州は残らず秀吉方に属し、小田原も間もなく落着すると見通す。 帰陣の際に詳しく報告すると約し、小田原征伐終盤の戦況と、久保が秀吉から直接遇された様子を知らせている。
後編2-No.665 島津義久譜
島津義久が紹巴に誘われて社寺や邸宅を巡り、連歌・酒宴・庭園鑑賞を楽しんだ数日間を詳しく記す。 昌叱らとの挨拶、西方寺の庭や樹木を題材にした和歌も収め、上洛中の義久の文化交流を伝える。
後編2-No.666 島津竜伯義久証状
島津義久が税所越前守の忠勤を認め、今後も私心なく細部まで心を配って奉公すれば、肝要の者として取り立てる旨を保証する。 二度の神載を頼むほどの慎重な誓約で、主従関係と奉公評価を示す証状。
後編2-No.667 島津義久譜
島津義久が清水寺で観音を拝し、豊臣秀吉から諸将へ朱印状が与えられたことを記す。 奥州伊達氏の件は未処置であるとの情報も添え、上洛中の寺社参詣と豊臣政権の奥州対応を結び付ける。
後編2-No.668 筑前岩屋城合戦従軍者交名(No.143と同文)
本文はNo.143と同文のため省略されている。No.143は筑前岩屋城合戦に参加した島津方の諸将・部隊を、所属・役職・戦死・負傷の注記とともに列挙した従軍者交名である。 島津忠長・伊集院忠棟・新納忠元・上井覚兼・北郷忠虎らの配下まで記し、岩屋城攻めの軍勢編成と人的損害を復元できる名簿史料の重出である…
後編2-No.669 島津義久譜
足利義輝の後室・大陽院が死去した際、島津義久が霊前へ参り、露に消える野辺の跡を詠んだ追悼歌を奉納した。 京都の武家・公家社会との関係と、義久の弔意を伝える和歌記事。
後編2-No.670 小早川隆景書状
小早川隆景が、たびたびの連絡に謝し、九州は平穏で懸念はないと島津方を安心させる。 奥州・伊達氏や小田原の処置にも触れ、遠征中の島津勢へ情勢を伝えた書状。
後編2-No.671 島津久保譜
豊臣秀吉の小田原攻めで島津久保が各地の城攻めに従軍し、忍城・成田氏や山中城などの戦況を見聞した経過を詳述する。 北条方の内通・降伏、小田原城内の動揺、家臣の処罰まで記し、小田原征伐終盤の情勢を島津側から伝える重要な譜記事。
後編2-No.672 島津義久譜
島津義久が紹巴宅で連歌興行を行い、天王寺で茶会・見物を楽しんだのち、大坂へ戻った日程を記す。 上洛中の寺社参詣、連歌、茶の湯を通じた義久の文化交流が具体的に分かる。
後編2-No.673 北郷一雲時久譜
京都にいた島津義久が北郷一雲時久および忠広へ御書を与えたことを記す。 本文は収録されず、正文が別に存在するとされるため、具体的な用件は確認できない。
後編2-No.674 島津竜伯書状
島津義久が北郷入道・北郷讃岐守へ、今回の上洛で安宅殿の件を承知し、関係者の意向を詳しく伝えた書状。近年に得た朱印により公役が当家へ混入しないこと、公儀への畏れから当面は処置を差し控えることを説明する。 今後の扱いは家中でよく相談し、油断なく分別するよう求めており、上洛後の北郷家領・公役問題を調整する…
後編2-No.675 島津竜伯書状
島津義久が上洛後も公儀の用件が重なり、京都では十分に面会できなかった事情を詫びる。 帰国後の取り計らいと今後の進入・面談を約し、大乗院との関係維持を図った書状。
後編2-No.676 島津久保譜
小田原城の降伏過程を、徳川家康・小早川隆景らの交渉、北条氏政・氏直の処分、城兵の武装解除まで詳述する。 島津久保が豊臣秀吉の本陣で勝利を見届け、諸将への褒賞や軍議にも立ち会ったことを示す、小田原征伐終結の重要記事。
後編2-No.677 島津義久譜
天正十八年七月二十二日、島津義久が京都を通過して栗野へ向かう朝鮮国使節を見物し、異形の装束を記した記事。続いて紹巴宅・大徳寺で再び朝鮮人を見物し、毛利輝元の招宴では意斎・梅松・福原氏・後藤光乗らと献酬を重ね、芸者十八人の座や太刀・馬代の贈答にも触れる。 朝鮮使節の風俗観察と、上方大名・文化人との宴席…
後編2-No.678 島津竜伯書状
島津義久が京都滞在中の祈祷巻数や黄金の到着を慰労し、伊勢参詣を済ませた近況を伝える。 関東が平定され、年内の帰国を見込むとして、今後の連絡と寺院側の祈祷を求めた書状。
後編2-No.679 入来院本村諏訪座敷定日記
入来院本村諏訪社の座敷における左右の席次を、役職・人名ごとに列記した定日記。 御座、衛門尉、東兵部少輔など二十数名の配列が分かり、地域家臣団の序列と祭礼・会合運営を知る資料。
後編2-No.680 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が八朔の祝儀として帷子五・生絹三が届いたことを喜び、北政所や石田三成にも贈った心遣いを評価する。 島津義弘の贈答に対する秀吉の礼状で、政権中枢への進物関係が分かる。
後編2-No.681 島津義弘書状
島津義弘が在陣中の労苦を述べ、国元に所領が残らない状況と軍務遂行のため、帰国または暇の許可を求める。 千秋万歳の祝意を添え、上京時には直接事情を説明するとした石田三成宛の書状。
後編2-No.682 近衛竜山書状
近衛龍山前久が、使者と書状の往来に謝し、互いの誠意を確かめながら今後も連絡を続けたいと伝える。 使者の到着時刻や返書の手配にも触れた、京都公家と島津家の交際を示す書状。
後編2-No.683 島津義久譜
島津義久が洛中を離れる際、昌叱と連歌を興行し、公家衆・紹巴らと同席したことを記す。 月夜の香を詠んだ義久の句も収め、帰国前の京都での文芸交流を伝える。
後編2-No.684 島津義久譜
豊臣秀吉が小田原城の陥落を聞き、北条氏の城主を誅したのち、勝利の勢いで会津へ直征した経過を記す。 小田原征伐から奥州仕置への移行を簡潔に示す島津義久譜の記事。
後編2-No.685 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が奥州会津まで遠路着陣した島津勢をねぎらい、太刀・腰物・銀子を祝儀として贈る。 羽柴・陸奥守などへの進物も記され、奥州仕置参加に対する褒賞の具体像が分かる朱印状。
後編2-No.686 島津義久譜
島津義久が愛宕若山で祈願し、神拝を終えたのち長林坊で盛んな酒宴と饗応を受け、下山した。 帰国途上の寺社参詣と接待の様子を伝える短い譜記事。
後編2-No.687 島津義久書状案
島津義久が琉球国王の書状受領を踏まえ、京都への服属姿勢を保ち、唐船の用途や硫黄・馬などの献上に遅滞なく応じるよう求める書状案。 豊臣政権下で島津氏が琉球への外交窓口を担ったことを示す重要資料。
後編2-No.688 島津義久書状案
島津義久が肥後以東の所領を失った後、豊臣秀吉の威光で再び領国を得た経緯を述べ、琉球にも服属と献上を促す書状案。 京都で多数の大名が秀吉に従う現状を示し、命令に背けば派兵もあり得ると警告する。
後編2-No.689 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が日本へ漂着した外国船について、乗員を保護し、積荷の生糸は商売として適正に買い取らせるよう命じる。 船を修理して朝鮮へ帰航させ、買い取った生糸の一部を石田三成へ届けるよう指示した、海難救助と交易統制の朱印状。
後編2-No.690 島津義久譜
豊臣秀吉が坂東征伐を終えて帰洛するのを祝うため、島津義久が京都を発ち、大津・八幡山方面へ迎えに出た経過を記す。安土では城跡を見物し、九月一日の秀吉入洛後、義久も翌日に帰京した。 九月七日には奥州から戻った島津久保も京都へ着き、秀吉から軍功を賞されて酒を賜った。小田原・奥州仕置からの凱旋と、義久父子が…
後編2-No.691 島津久保譜
島津久保が豊臣秀吉の奥州仕置に従軍し、伊達政宗の出迎えや会津到着、諸将への褒賞を見届けた経過を記す。 帰京後は秀吉から歓待と酒宴を受け、義弘主従ともども労をねぎらわれた、久保の豊臣政権内での評価を示す記事。
後編2-No.692 島津竜伯書状
島津義久が、口切の儀礼を済ませたことや返礼品を受け取ったことへの謝意を伝える。 明後日の来訪を心待ちにしており、対面の準備を整えて待つ旨を述べた書状。
後編2-No.693 島津義久譜
島津義久が幽斎の来訪を受けて茶湯を催し、紹巴宅へ移って夜まで談話した。 翌日には清水寺で祈願し、再び紹巴宅を訪れるなど、京都での茶・文芸・寺社交流を記す。
後編2-No.694 島津義久琉球渡海朱印状
島津義久が大隅国根占湊の船・小鷹丸に対し、琉球への渡海を許可した朱印状。 船頭の橋和泉掾を名指ししており、島津氏による航海許可・海外交易統制の実務を示す。
後編2-No.695 島津義久譜
島津義久が大坂の島津義弘宿所に入り、連日の酒宴や茶会、僧侶との談義を重ねた様子を記す。 義久が義弘のもとへ渡御し、深夜まで舞や酒を楽しんだことから、帰国前後の兄弟と側近の親密な交流がうかがえる。
後編2-No.696 島津義弘譜
天正十八年九月下旬から十月にかけ、龍伯(島津義久)が大坂・京都を往来し、近衛前久・宗叱・徳雲らの招きで茶会・酒宴・連歌を楽しんだ経過を記す島津義弘譜の記事。 東魯の徳義門では明人の学者から中国の文物・詩文・武具の講義を受け、事情を聞いた義弘も入洛した。島津兄弟が上方の公家・僧侶・海外知識人と接した文…
後編2-No.697 島津久保書状
島津久保が返礼の品を確認し、明朝の立ち寄りを待っていると伝える。 相手の都合に配慮しつつ、京都での滞在中に面会したい意向を示した短い書状。
後編2-No.698 近衛前久書状
近衛前久が島津義弘の大坂下向を聞き、紅葉の時期に面会できるよう日程調整を求める。 洛中での滞在・出立をめぐる連絡と、義弘との親しい公家交流を示す書状。
後編2-No.699 島津義久譜
島津義久が清水寺で夜を徹して祈願し、東山寺で近衛前久らと連歌を行った日程を記す。 聖護院で法論を聴聞し、洛中で歓待を受けたことから、帰国前の寺社・公家交流が分かる。
後編2-No.700 前田玄以書状
前田玄以が島津義弘の退出予定を聞き、秀吉の明確な許可がないうちは出立しないよう求める。 座所の用意や翌日の高麗人来訪にも触れ、京都での義弘の行動を豊臣政権が管理していたことを示す書状。