ARCHIVE DIRECTORY
後編2の目録
旧記雑録 天正13年~文禄4年の文書・記事です。
全1,646件中 1201~1300件・13 / 17ページ
後編2-No.1199 樺山紹釣自記
樺山紹釣が、京都・名護屋への参上から朝鮮渡海までの経過を回顧する。秀吉が朝鮮軍の追討を命じ、大軍を編成して渡海させたこと、島津勢が釜山・漢南方面で軍役に就いた状況を記す。 久保の死去後、義弘が家久に軍勢を託して帰国した経緯にも触れ、文禄の役における島津勢の行動を当事者の視点から追える自記。
後編2-No.1200 長谷場越前自記
長谷場越前が、島津勢の勇武と軍兵の士気、京都から渡海して朝鮮軍を追討した戦況を記す。多数の敵兵に対し、島津勢が寡勢ながら戦いを挑み、敵を敗走させた様子を具体的に描く。 秀吉の軍令や渡海後の戦闘を武功談として伝える自記で、島津軍の自己認識を知る上でも興味深い。
後編2-No.1201 池田貞安覚書
島津久保が朝鮮で死去したため、池田貞安の父・六左衛門がその遺骸に付き添って鹿児島へ帰り、さらに遺骨を高野山まで供奉したことを記す。 久保の遺骸・遺骨が朝鮮から鹿児島、高野山へ運ばれた経路を端的に示す覚書。
後編2-No.1202 増田長盛書状
増田長盛が島津義弘を見舞うため陣所へ赴いたものの、又一郎久保の死去で取り込んでいるだろうと察し、対面せず引き返したことを伝える。 まず使者を通じて弔意と心中への同情を申し入れた、久保死去直後の島津陣中の混乱をうかがわせる書状。
後編2-No.1203 安国寺恵瓊書状
安国寺恵瓊が、義弘の息子・又一郎久保の死去を聞いて驚き、紙上では慰め尽くせないほどの悲嘆を述べる。先ごろ久保本人と対面したばかりであったため、いっそう愁傷していると伝えた弔慰状。 朝鮮在陣中の久保急逝が周囲に与えた衝撃と、恵瓊との直接的な交流を示す。
後編2-No.1204 島津義弘譜
石田三成が朝鮮から帰朝する際、安楽伊予守と郷田源左衛門尉に十艘の船団運用を任せたことを島津義弘の譜に記す。 朝鮮在陣からの帰還に際し、船舶と将兵の輸送を誰が統率したかを示す記事。
後編2-No.1205 生駒親正外二名連署法度書
島内への商人や他所船の無許可立入り、切手を持たない者の往来、夜間の出船を禁じた法度。三人ずつ奉行を置いて違反者を捕らえ、やむを得ない用件は奉行へ届け出て通行させる仕組みを定める。 朝鮮在陣期の港湾・人員移動を厳しく管理した具体的規則が分かる。
後編2-No.1206 石田三成書状
石田三成が名護屋へ着岸し、翌日に大坂へ上る予定を知らせる。相手方の病が快方に向かい帰国したことを喜ぶ一方、又一郎久保の急死を思いがけない悲事として悼む。 義弘も京都にいると聞くため、三成の弔意を義弘へ伝えるよう依頼した書状。
後編2-No.1207 鎌田政親外二名連署覚書
鎌田政近・伊集院抱節・長寿院盛淳が、石田三成へ石火矢五十挺を進上することを記した連署覚書。内訳として幸侃から二挺、抱節から一挺など、各人の負担分を明記する。 朝鮮在陣期の火器調達と、島津家臣から三成への軍需品提供の実態を示す。
後編2-No.1208 島津歳久夫人書状
島津歳久夫人が惟新公(島津義弘)へ、家族や周囲の人々の安否、病状・服薬、使者や贈物、返書が届かない不安などを仮名で細やかに書き送る。 お菊や武蔵殿らの近況にも触れ、歳久没後の島津家女性たちの日常、感情、親族間の連絡を五頁にわたり伝える貴重な私信。
後編2-No.1209 島津氏略系図
島津義久・義弘・歳久・家久の兄弟を軸に、それぞれの妻子・後継者と婚姻関係を図示する略系図。久保・忠恒・常久ら次世代の位置づけに加え、没年や法名などの注記も添える。 文禄期の島津宗家・分家の継承関係と、女性を介した親族関係を一覧できる基礎史料。
後編2-No.1210 島津義久起請文
島津義久が袈裟菊丸へ、歳久の妻子・袈裟菊丸と母ら三人、さらに家臣までが宮之城を下城すれば、以後の安全を保障すると誓約する。違反時には日本六十余州の神々の罰を受けると明記する。 本箇所はNo.940と同文のため本文を省略しており、幼い後継者と一族に籠城終結を促した起請文の重出。
後編2-No.1211 細川幽斎玄旨起請文
細川幽斎が袈裟菊丸へ、秀吉の朱印は歳久本人の成敗のみを命じ、妻子や家臣まで処罰するものではないと保証する。下城後に義久へ従えば別儀なく扱われると神祇に誓う。 本箇所はNo.941と同文のため本文を省略しており、義久の安全保証を豊臣政権側から裏付けた起請文の重出。
後編2-No.1212 某書状
袈裟菊丸が籠る宮之城へ義久方の使者が赴き、母子と家臣の安全、知行の維持を保証して下城を促した交渉経過を伝える。母は歳久と同様の赦免を求め、福昌寺・新納武蔵守らの再度の説得を経て下城したという。 歳久死後の宮之城籠城が、身分・知行の保障を条件に収束した過程を具体的に残す書状。
後編2-No.1213 島津義弘書状
諸県郡の逃亡・没収地を久保の蔵入地とする処置は、久保が死去しても変更せず、従来どおり収納するよう島津義弘が命じる。収納を拒む給人がいれば、墨付を取って証拠を残すよう指示する。 No.1181と同文のため本文を省略した、久保没後の所領管理に関する義弘書状の重出。
後編2-No.1214 島津竜伯義久追悼和歌
島津久保が朝鮮の島で早世したことを悼み、祖父・島津義久(龍伯)が六字の名号を各首の冒頭に置いて六首の追善和歌を詠む。武士としての久保の志を偲び、その冥福を阿弥陀仏に祈る。 若い後継者を失った義久の悲嘆と、仏教的な追善表現を伝える重要な和歌史料。
後編2-No.1215 近衛前久追悼和歌
近衛前久(龍山)が、義久(龍伯)の久保追善六首を読んで感涙し、その返歌として一首を詠む。言葉の「玉の光」が亡き久保の行く道を照らし、迷わせないよう願う内容。 公家の近衛前久が島津家の後継者喪失に和歌で応えた、両者の文化的交流を示す追悼歌。
後編2-No.1216 島津彰久祭文
島津彰久が、朝鮮で二十一歳の生涯を閉じた島津久保の霊前に捧げた祭文。異国の戦場で示した武勇と将来性を称えながら、若くして亡くなったことを漢文と韻文で深く嘆く。 久保が島津家の後継者として寄せられていた期待と、その死を家中が大きな損失として受け止めたことを示す。
後編2-No.1217 伊集院幸侃忠棟祭文
伊集院忠棟(幸侃)が、朝鮮で没した島津久保の霊前へ精進の供物を備えて捧げた祭文。久保の死から十余日を経て、遺骸が万里を越えて薩摩へ帰還したことを記す。 若き主君の武徳を称え、異国での死と遺骸帰還を長い韻文で悼む、久保葬送の経過を知る重要史料。
後編2-No.1218 平山氏系図
平山氏の系譜と平山忠房の経歴を記す。忠房は朝鮮で死去した島津久保の遺骸に付き添って帰国し、葬礼後には久保の菩提を弔うため牌を首に掛け、同行十二人と日本六十六州を巡歴した。 長年の回国修行と各地での供養を終えたのち、慶長五年の関ヶ原合戦で戦死したと伝える、家臣の追善活動を具体的に示す系図記事。
後編2-No.1219 川上胘枕忠智書状
川上忠智が、又八からの書状を喜び、久四は無事なので心配不要と伝える一方、武庫の身の回りには引き続き油断なく配慮するよう求める。 又一郎久保の不慮の死について、義弘の心中を察して自分も言葉を失うほど困惑していると述べ、その弔意を披露するよう頼む書状。
後編2-No.1220 島津義弘書状
島津義弘が、九鬼大隅守から託された書状を確かに受け取ったと返答する。名護屋へ送った船がまだ着岸していないため、到着後に算用を済ませ、墨付を添えて指定先へ渡すと約束する。 近所に滞在しているので、ほかにも用件があれば申し付けてほしいと伝えた、船舶・書状・会計処理に関する実務的な書状。
後編2-No.1221 安宅秀安書状
安宅秀安が、京都で石田三成らに働きかけ、久保死去後の跡目を又八郎忠恒に認めてもらうため尽力している状況を報告する。秀吉も幼少から知る久保の死を哀れみ、忠恒の上京後に後継問題を聞き届ける意向だという。 久保急逝を受けた島津家の家督継承が、京都での政治交渉として進められたことを示す重要書状。
後編2-No.1222 忠堯坪付
谷口忠堯が、大隅国清水のうち北辰神社に付属する土地の坪付を作成したもの。田畠を所在地ごとに分け、反・畝・歩および収量を記して、神社領の規模と内訳を示す。 戦国末期の神社経営を支えた土地配分と年貢基準を確認できる実務文書。
後編2-No.1223 北辰神社祭礼入目書
清水北辰神社の祭礼費として渡す米を「籾米七斗八」と定めた入目書。祭礼に必要な支出を、谷口忠堯が具体的な米量で記録する。 No.1222の坪付と対になり、神社領から祭礼経費がどのように賄われたかを示す短い会計文書。
後編2-No.1224 島津竜伯書状
島津義久(龍伯)が、急な上洛の苦労をねぎらい、忠辰の進退をめぐって義久が諸事を画策しているという風聞を否定する。今後も隠し立てする事情はなく、京都で会えれば詳しく説明すると伝える。 島津家中の人事をめぐる疑念を解き、相手を安心させようとした私的な説明書状。
後編2-No.1225 島津久保譜
平山作右衛門忠続が、朝鮮で死去した島津久保の遺骸に付き添って帰国し、葬送を終えたのち忠房と改名して久保の位牌を背負い、日本六十六州を巡った経歴を記す。 同行十二人と各国へ法華経を奉納して菩提を弔ったといい、家臣による大規模な追善巡礼を久保の譜に位置づけた記事。
後編2-No.1226 島津彰久寄進坪付
島津彰久が、隅州清水にある一町一畝二分半の土地を、神への供物を賄う御供田として正八幡宮へ寄進した坪付。 寄進地の所在地と面積を明記し、神社祭祀を支える土地の規模を確定した文書。
後編2-No.1227 沢水温訓状
沢永温が、検地で漏れていた大隅国清水の土地を、彰久が正八幡宮の御供米用として新たに寄進した経緯を説明する。毎年正月三日の供米に充て、武運長久と領内安泰を祈るよう定める。 No.1226の坪付に寄進目的と祭祀上の用途を加えた温訓状。
後編2-No.1228 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が、先年の豊後侵攻で連行された男女を領内で捜し出し、元の国へ帰還させるよう命じる。匿った者は処罰対象とし、人身売買も一切停止せよと改めて厳命する。 九州平定後の捕虜返還と奴隷売買禁止を具体的に示す、社会史上重要な朱印状。
後編2-No.1229 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、朝鮮現地に在番として残り、長く苦労を重ねていることを察するとねぎらい、近頃はいよいよ静謐になったとの報告を喜んだ朱印状。特別な用件はないが使者を派遣し、詳しい指示は追って伝えるとしている。戦況報告や命令だけでなく、長期在陣中の豊久への気遣いが読み取れる短い文書。
後編2-No.1230 島津義弘譜
和議を不満とした加藤清正が兵を率いて安康を攻め、慶州から救援に来た明将・劉綎の軍を破って三百余級を討ち取ったと島津義弘の譜に記す。 清正の攻撃が講和交渉と並行して続いたこと、明軍との戦闘規模を伝える朝鮮出兵記事。
後編2-No.1231 東郷忠直譜
朝鮮の唐島で、東郷重虎が島津義弘の命により東郷姓を離れ、旧来の鳴津氏へ復したうえで忠直と改名したことを記す。 在陣中に行われた家名復帰と改名の経緯を示し、主君の命令が家臣の姓・名に及んだことが分かる譜記事。
後編2-No.1232 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が、長期在陣の苦労をねぎらい、普請を堅固に進めて油断しないよう命じる。主人から下々まで焚火を用意して寒さや病を防ぎ、必要があれば長束大蔵大輔・木下大膳大夫を通じて申し出よと指示する。 朝鮮在陣中の防寒・健康管理を具体的に命じた朱印状。
後編2-No.1233 島津義弘書状
島津義弘が上京する又八郎忠恒へ、家臣に酒を過ごさせず、見物人を伴うことも禁じ、京都での振る舞いに細心の注意を払うよう戒める。初めての上京なので知人を増やし、諸事を分別して義弘を困らせないよう求める。 久保死後に後継者となる忠恒へ、中央政界での礼儀と自己管理を説いた父の訓戒書状。
後編2-No.1234 町田久倍覚書
町田久倍が、九州・中国衆の朝鮮在番命令を受けた追加軍役と名護屋普請の負担について、国ごとの調達内容を記す。あわせて京都で借りた銀の返済では、唐目・日本目や後藤判の秤量差が問題となったことを挙げる。 軍役負担と銀の計量・決済という二つの実務問題を整理し、後日詳細を伝えるとした覚書。
後編2-No.1235 島津義弘書状
島津義弘が祈祷の札を受け取ったことを喜び、現地の寺社が検地から漏れて困窮している事情を理解したと返答する。正八幡宮は軽視できないため、翌春の帰国後に詳しく処置すると約束する。 朝鮮在陣中の義弘が、国元の寺社領問題を帰国後の課題として扱った書状。
後編2-No.1236 島津義弘書状
島津義弘が祈祷札の到来を喜び、現地の寺社が検地から漏れて諸事不如意となっていることを承知したと伝える。正八幡宮の扱いは重要なので、来春の帰朝時に詳細を申し渡すと約束する。 No.1235と同じ寺社領問題を、別の担当者へ回答した書状。
後編2-No.1237 豊臣忠恒書状
忠恒が、前日に相手が訪ねてくれたことと、親しく話せたことを喜ぶ。夕方に伊源のもとへ出向くなら自分も同行したいと伝えた短い私信。 後継者として上京した忠恒の、京都での交友や日常的な往来をうかがえる書状。
後編2-No.1238 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が、島津家中に留め置かれた朝鮮人のうち、細工職人、縫工、手業に秀でた者を調べて進上するよう命じる。技能者を召し抱えて御用に使うため、家中を改めて該当者を差し出せとした朱印状。 朝鮮人捕虜が技能によって選別・移送された実態を示す重要文書。
後編2-No.1239 長束正家書状
長束正家が秀吉朱印状の趣旨を伝え、島津家中にいる朝鮮人の縫工・手業者・女性・細工職人を調査し、該当者がいれば早急に進上するよう求める。 No.1238の命令を実務担当者が取り次いだ書状で、捕虜技能者の選別が家中全体に及んだことが分かる。
後編2-No.1240 田野郡租房書状
田野郡相房が、国元は平穏であること、京都や伏見で秀吉の屋形造営が進み、十一月二十一日に移徙が行われたことなどを報告する。長期在国の相手を案じ、京都周辺の普請・政務の近況を知らせる。 伏見城下整備と秀吉の移転を、島津家関係者の視点から伝える書状。
後編2-No.1241 島津義弘書状
島津義弘が上京中の又八郎忠恒へ、家臣や客に酒を強いず、商人・役人から贈物や賄賂を受けず、特定の者をひいきしないよう厳しく戒める。石田三成・安宅秀安の指示に従い、遊興を避けて公務を第一にせよと命じる。 後継者忠恒に中央政界での廉潔・節制・公平を求めた、具体性の高い訓戒書状。
後編2-No.1242 島津義弘書状
上京中の忠恒に、酒宴の強要、商人・役人からの贈物、えこひいきや遊興を禁じ、石田三成・安宅秀安の指示に従って公務へ専念するよう義弘が命じる。 No.1241と同文のため本文を省略した、忠恒の政治的成長と廉潔な振る舞いを求める訓戒状の重出。
後編2-No.1243 島津義弘書状追而書
島津義弘が、釜山浦へ番船百余艘が押し寄せて鉄砲戦となり、さらに島付近に数百艘が集まっているとの報告を伝える。大軍の来襲を警戒し、日本勢の撤収や防備を急ぐ状況を説明する。 忠恒には迎船を送るまで不用意に渡海せず、国元で普請を整えて待つよう厳命した追而書。
後編2-No.1244 島津家久譜
島津家久(忠恒)が海路を無事に渡って播州大坂岸へ着き、十二月十五日に石田三成と面会したことを記す。年内の秀吉拝謁は難しいため、泉州堺で越年して機会を待つよう三成から助言された。 忠恒が島津家後継者として中央へ赴き、秀吉への初拝謁を待った経過を示す譜記事。
後編2-No.1245 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、縫工一人を進上したことを喜び、手配に力を尽くして送り届けた働きを「神妙」と評価した朱印状。詳細は長束大蔵大輔(長束正家)から伝えるとしており、朝鮮出兵期に技術を持つ職人そのものが贈答・人員供給の対象となっていたことを示す珍しい史料。
後編2-No.1246 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、歳暮の祝儀として秀吉用の呉服一重と北政所用の呉服一重が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。詳しい返答は長束大蔵大輔(長束正家)に託しており、豊久が秀吉夫妻へ同時に歳暮を贈った、豊臣政権下の贈答関係を具体的に示す文書。
後編2-No.1247 小西主殿助書状
小西主殿助が、前日に届いた書状と見事な鉄砲一挺への礼を述べる。歳暮の挨拶に出向くべきところ、軍務で取り込んでいるため、来春早々に訪問して改めて礼を尽くすと約束する。 在陣武将間で鉄砲が贈答品となり、年末年始の訪問儀礼が重視されたことを示す書状。
後編2-No.1248 某書状
差出人が祈祷札と約束の品二種を受け取った礼を述べ、熊川方面への遊撃船の出動や、明後日に日本へ使者が渡る予定を知らせる。石田三成への用件があれば書状を託せるとも伝える。 軍事情報、渡海使節、書状取次を一通で扱った在陣中の連絡書状。
後編2-No.1249 島津竜伯書状案
島津義久(龍伯)が琉球の中山王尚寧へ、朝鮮出兵では九州衆の在番が継続すると説明し、天下の命令に従って軍役・兵站への協力を重ねて求める。薩摩・大隅・琉球は一体であり、陣中の備えが重要だと強調する。 宗光明院ら使僧に託した書状案で、島津氏が琉球へ朝鮮役の負担を要求した外交・支配関係を示す重要史料。
後編2-No.1250 中山王尚寧書状
琉球の中山王尚寧が発給した書状。直前のNo.1249では龍伯が朝鮮在番に伴う軍役・兵站協力を琉球へ要求しており、その交渉に対応する返書と考えられる。 ただし本冊では本文が省略されているため、承諾・異議・献上内容など具体的な回答は確認できない。
後編2-No.1251 高麗本陣番帳
朝鮮の日本軍本陣における在番・警備担当を記した番帳。諸将・家臣を一定の組や日程に割り当て、本陣防衛の勤務編成を示す文書である。 本冊では旧記雑録後編の同文書を参照して本文を省略しているため、担当者名や番次の詳細は参照先での確認を要する。
後編2-No.1252 新納忠元勲功記
検地から外されて困窮した国元の寺社を救うため、新納忠元らが京都・大坂で石田三成や増田長盛に訴え、寺社領の扱いを交渉した経過を記す。請願者や奉行との面談、書状の取次を重ねて処置を求めた。 朝鮮在陣期にも忠元が寺社保護と所領回復のため中央政権と折衝したことを、勲功として位置づけた記事。
後編2-No.1253 殉国名藪
文禄の役において朝鮮で戦死・病死した島津家臣を、死亡日とともに列挙する。伊地知左近将監重治、佐藤太郎五郎家元、土持三九郎清綱、津曲小左衛門兼祐、北郷讃岐守忠虎らの最期を記す。 合戦死だけでなく陣中の病死も含み、朝鮮出兵が島津家中に与えた人的損失を一覧できる記録。
後編2-No.1254 島津義弘譜
秀吉が秀頼への天下継承を考える一方、秀次の立場が残るなかで隠居所を計画し、大和多聞から交通に便利な城州伏見へ築城地を変更した経緯を記す。増田長盛・石田三成が候補者を選び、六人の普請担当者を定めた。 伏見城築城の政治的背景と、城壁・道路・宿・茶屋まで含む大規模普請の編成を伝える記事。
後編2-No.1255 島津義弘袖加判覚書
島津義弘が、龍伯や自分の添書がない書状を受け入れないこと、神名を他人と取り替えないこと、無益な雑談や交際を避けることなどを箇条書きで定める。酒を一口も飲まず、不要な人物を側に置かず、旧来の悪習をやめるよう求める。 後継者とその周辺の生活・交友・文書受理を厳しく統制した覚書。
後編2-No.1256 島津義弘書状
島津義弘が又八郎忠恒へ新年を祝い、今年はいっそう満足のいく年となるよう祈る。義弘側の状況は従前どおりであり、詳しいことは野添帯刀長から聞くよう伝えた年頭の書状。 父から上京中の後継者へ送られた簡潔な新年挨拶と使者取次の連絡。
後編2-No.1257 島津義弘袖加判覚書
添書のない書状を受け取らず、無益な交際や雑談、飲酒、旧来の悪習を禁じるなど、義弘が後継者周辺の生活規律を箇条書きで定めた覚書。 No.1255と同文のため本文を省略した重出で、忠恒の行動と人間関係を厳格に管理しようとした方針を示す。
後編2-No.1258 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が、寺沢志摩守らの意見を受けて当年の軍事行動を見送り、翌年には関白秀次の出馬と諸勢の渡海を予定すると伝える。城郭・中継拠点を整え、既給分の兵粮を入れ替え、追加の三万石余も配置するよう命じる。 朝鮮再出兵を見据えた城・兵粮・軍勢の準備を具体的に指示した朱印状。
後編2-No.1259 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が長期在番の辛労をねぎらい、島津豊久へ小袖一重を下賜した朱印状。毛利豊前守・平野新八からも詳細を伝えるとしている。
後編2-No.1260 島津忠清書状
島津忠清が、上井神五郎を通じて銀の瓢箪、香箱などを受け取ったことを喜び、秘蔵すると礼を述べる。あわせて種子島方から送られた銀製品についても、祝着の意を伝えてほしいと頼む。 朝鮮在陣期の島津家中で交わされた銀工芸品の贈答と取次関係を示す礼状。
後編2-No.1261 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が、島津方で建造した五百石船五艘を青木紀伊守へ、三百石船五艘を寺沢志摩守へ引き渡すよう命じる。水夫は両人から割り当てるため、諸道具を揃えて確実に受け渡せと指示する。 朝鮮出兵の海上輸送に用いる大型船十艘の配属を具体的に定めた朱印状。
後編2-No.1262 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が発給した朱印状であるが、本冊では『旧記雑録後編』の同文書を参照して本文を省略している。 このため命令の対象者、軍役・船舶・兵粮など具体的な用件は本頁だけでは確定できず、参照先本文の確認を要する。
後編2-No.1263 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が見廻役として美濃部四郎三郎・山城小才次を派遣し、義弘の長期在番と堅固な普請・警備を評価する。兵数と兵粮を改めて報告し、春には船を揃えて兵粮を順次渡海させるよう命じる。 小袖一重を贈って在番を慰労しつつ、朝鮮拠点の兵員・補給状況を点検した朱印状。
後編2-No.1264 町田存松久倍書状
町田久倍が新年を祝い、義弘の三月帰朝を待ち望むと伝える。又八郎忠恒は十二月十三日に大坂へ着き、十五日に石田三成と面会して順調だが、秀吉への目見得日はまだ未定だと報告する。 忠恒の拝謁後に久四郎が帰国する予定も知らせ、島津後継者の中央交渉の進捗を国元へ伝えた書状。
後編2-No.1265 島津忠恒家久書状
島津忠恒が、秀吉への目見得はまだ済んでいないものの、石田三成の尽力で支障はない見込みだと報告する。拝謁と御礼を終え次第、朝鮮へ直接渡海する覚悟を示す。 自身の不在と入唐に備え、武庫の留守、栗野上下、城内を女性たちまで含めて油断なく守るよう命じた書状。
後編2-No.1266 樺山忠助譜
秀吉の命で薩摩・大隅・日向三州の旧田数と境界を改める検地が行われ、石田三成の家臣らが下向した経緯を記す。薩摩では黒川右近が筆頭となり、樺山忠助が案内・指南を務めた。 日向は伊地知某、大隅は吉利某が担当し、高城・出水など公領は検地対象外だったことも示す譜記事。
後編2-No.1267 樺山紹剣自記
京都からの命令で石田三成配下が下向し、国中で竿打ちによる検地を実施したことを樺山紹剣が自記する。薩摩は黒川右近、日向は伊地知氏、大隅は吉利氏が案内を担当した。 薩摩十三郡を測量した一方、泉・高城郡から山北は竿入れの対象外だったと、現場側の役割分担を具体的に記す。
後編2-No.1268 松本武辰署判当納目録
播州の知行三千九十七石五斗について、その年に納める分を村ごとに記した目録。乃保村・連城寺村・坂上村・福地村などの石高、当納分、差引残高を列記する。 知行高と実際の収納額を照合できる、近世初頭の領地経営・年貢算定に関する会計文書。
後編2-No.1269 東郷軍広知行分検地帳
東郷軍広の知行分について、田方の各所を石高・斗升・面積とともに列記した検地帳。東郷助左衛門尉の名を掲げ、黒尾迫・牟田・藤渡・橋口・小長山など各地の田を一筆ごとに記録する。 文禄検地後の知行構成と村落内の耕地配分を数量から追える基礎史料で、松本武辰の署判を伴う。
後編2-No.1270 安宅秀安書状
長寿院や石田三成との協議を踏まえ、島津忠恒(又八郎)の礼が済んだ後は旧来の振る舞いを改め、国家の役儀を第一にすべきだと義弘方へ進言する。名護屋・朝鮮渡海時の人手不足と苦難を忘れず、自ら覚悟して政務を続けるよう迫る。 豊臣政権下での取次と島津家の立て直しをめぐる率直な内部意見であり、機密性のため「火中…
後編2-No.1271 後陽成天皇宸翰
後陽成天皇が大閤・豊臣秀吉へ、近衛信尹(前左府)が高麗への渡海を志しているとの話を聞き、摂家の家統が絶えかねないと案じて、思い止まらせるのがよいのではないかと意向を示した宸翰。 末尾には、この件によって信尹が勅勘を蒙り、配流にまで及んだとの注記がある。朝鮮出兵期における天皇・秀吉・近衛信尹の緊張関係…
後編2-No.1272 町田存松領知目録
薩州伊作領内にある町田存松の領知を、門・集落ごとの石高とともに列記した目録。田代野の門、三枚田、道上、楠木か丸、山の口、山神の前、新山など多数の地名を掲げ、畠方・浮免を合算する。 伊作地域の村落構成、地名、知行高を具体的な数値で復元できる土地台帳である。
後編2-No.1273 島津義弘譜
秀吉が公武を率いて大坂から吉野へ花見に赴いた一方、朝鮮在陣の長期化で丹波少将秀勝・東郷侍従・長谷川秀一・加藤光泰ら諸将が病死し、残る兵も疲弊したと記す。 華やかな吉野の花見と朝鮮陣中の死病・疲労を同時に伝え、文禄の役をめぐる中央と戦地の落差が鮮明な島津義弘譜の記事。
後編2-No.1274 島津家久譜
島津家久が前年冬から堺の町に滞在し、秀吉への再謁見を待つ間に重い疱瘡へ罹患したことを記す。長く病床に伏したものの、療養を怠らず幸いに一命を取り留めた。 家久の上方滞在と急病、その回復を本人の視点に近い表現で伝える家譜記事である。
後編2-No.1275 近衛前久書状
近衛前久が見舞いの使者を差し下し、又八郎が疱瘡を患ったとの知らせを受けて深く案じ、油断なく療養することが肝要だと伝える。詳細は嶋田与兵衛尉から申し述べるとしている。 又八郎の病状をめぐり、公家の近衛前久が川上三河入道へ配慮と取次を依頼した具体的な見舞状。
後編2-No.1276 島津義弘書状
義弘が塩漬け桶二つを贈り、又八郎の上着と秀吉への出仕の成否、現在の滞在先を尋ねる。諸事は幸侃の指南に従うよう勧め、野副帯刀・久四郎の在京や下向についても消息を求める。 こちらは異状ないと知らせつつ、急便のため供衆への伝言を簡略化した、上方の動静を細かく気遣う私信。
後編2-No.1277 豊臣秀吉朱印状
「本文書は八二〇号文書と同文につき省略」と注記され、本文は再録されていない豊臣秀吉朱印状。御文庫二十二番箱十二巻中の写しで、義弘公御譜には正文が巻本にあると記される。 内容確認にはNo.820を参照する必要があり、この頁だけでは命令の具体的用件や宛先を確定できない。
後編2-No.1278 新納旅庵長住譜
文禄三年春、新納旅庵が薩摩への使者を命じられ、二月二十八日に大坂を発って薩摩へ赴いたことを記す。忠恒の翌秋の朝鮮渡海に備えるためで、龍伯は旅庵に宝刀を与えた。 同年四月には旅庵が忠恒に従って泉州堺から上京し、秀吉へ謁見した経過を伝える家譜記事。
後編2-No.1279 島津義弘譜
三月三日、秀吉が高野山へ登り青巌寺を宿所とし、父母の冥福のため焼香して山内の僧徒八千人へ糧米を与えた。奥院から金堂・大塔を巡り、金堂の額を見て改築を命じる。 造営費として穀一万石を施し、木食応其上人に工事を掌らせたとする、秀吉の宗教政策と大規模寄進を伝える記事。
後編2-No.1280 伊勢如貴貞知書状
伊勢貞知が、長期在陣中の相良五郎左衛門尉を見舞えなかったことを詫び、久四郎への奉公に油断はないと伝える。正月十四日付の書状への返礼、久四郎の在京と健康、灸治・服薬、前年の敵船来襲時の手柄にも触れる。 帰朝が近いとの噂を喜び、必要な用向きがあれば参上すると申し出た、朝鮮在陣者と上方を結ぶ詳細な近況報告…
後編2-No.1281 昭高院如雪書状
昭高院如雪が重ねて届いた懇書への感謝を述べ、新春の祝儀として品を贈る。現地で少数の番船が現れたものの、羽柴侍従の働きで早々に退いたと聞き、その手柄を称える。 日々祈祷を怠らず、必要があれば隔意なく申し付けてほしいと伝え、詳しい口上は友林斎に託した書状。
後編2-No.1282 島津義弘書状
義弘が、又八郎の秀吉への謁見が済んだかを尋ね、石田三成の後押しにより近日中に実現することを待ち望む。謁見後は高麗へ渡る予定で、若輩の在陣を支える供衆の手配も頼む。 又八郎は生来の下戸なので、座興を損ねても酒を一切口にさせないよう強く依頼する。源次郎の健康にも触れた、父親としての細かな心遣いが際立つ書…
後編2-No.1283 島津忠恒書状
忠恒が現地の静穏を喜び、秀吉が十八日に上洛する予定であること、石田三成から伏見で謁見するよう命じられたため急ぎ上洛すると知らせる。 自身の朝鮮渡海も確定しており、追って薩摩へ戻る覚悟だと述べ、詳しい事情は赤三右が渡航する際に伝えるとして披露を依頼する。
後編2-No.1284 長寿院盛淳起請文
長寿院盛淳が島津家への奉公と龍伯への忠節を誓い、縁者・親類であっても贔屓せず法に従って処断すると約束する。家中への賞罰は独断せず、上意を受けて相談の上で決定することも明記する。 誓約に偽りがあれば梵天・帝釈・日本六十余州の大小神祇などの罰を受けると誓った、領国統治の原則を示す起請文。
後編2-No.1285 年代記
文禄三年三月に島津義久が上洛し、島津家門の一行が坊津へ下向したことを記す。同年十月には京衆が下向し、薩摩・大隅・日向三か国で竿打ちによる検地が行われた。 義久の上方参勤と太閤検地の実施時期を簡潔に結び付ける年代記の記事。
後編2-No.1286 島津義久譜
島津義久が参覲のため京都へ向かう途中、諸法華嶽の薬師に旅の安全を託して詠んだ歌を収める。「旅たちし行方をたのむ御仏」の心と、南風に花が散らないよう願う歌を伝える。 上洛途上の義久の信仰と旅情を読み取れる家譜記事。
後編2-No.1287 某書状
差出人某が、使者からの書状を拝見したうえで、上使衆が当日対州へ渡り、翌日は四国衆のもとへ向かう予定だと伝える。自身も参上したいが、四国衆の陣所へ数日深く立ち入る時機ではないとして差し控え、状況によっては出向くと説明した。 すぐ参上できず意外に思われることを詫び、近日中に相手の陣所へ赴いて面会・取次を…
後編2-No.1288 伊集院幸侃忠棟書状
幸侃が、又八郎の渡海準備をいったん止め、龍伯の上洛と家中の諸事・祝儀を済ませた後に渡海させるという石田三成の内意を極秘に伝える。龍伯到着までは他言しないよう念を押す。 国元検地の時期は未定で、安宅某の病が治らなければ実施困難とも報告する。京都滞在中の又八郎が各家の招きや舞に参加する様子まで記した機密…
後編2-No.1289 島津忠恒書状
「本文書は二〇一号文書と同文につき省略」と注記され、本文が再録されていない島津忠恒書状の案文。宛先は川上四郎兵衛である。 具体的な用件の確認にはNo.201を参照する必要がある。
後編2-No.1290 島津家久譜
三月、家久の疱瘡が次第に治まり、十九日に堺を発って二十日に京都へ到着した。二十六日には伏見へ赴き、石田三成の案内で登城して秀吉へ拝謁したことを記す。 重病からの回復後、豊臣政権への出仕を再開した経過が日付順に分かる家譜記事。
後編2-No.1291 島津義弘書状
義弘が又七の帰国を知らせ、又八郎が「かさ」を患ったと聞いて病状を案じ、詳しい様子を知らせるよう求める。御目見えの遅れや国元への渡海時期にも気を揉む。 久四郎が京都・大坂のどこにいるか、誰を側近に置いているかも分からないとして強い不安を示し、飛脚を重ねて消息を求めた家族的な書状。
後編2-No.1292 島津家久起請文前書案
島津家久が武庫様への忠孝と奉公を誓い、家督相続後も両殿の意向に従って家中を治める方針を列挙した起請文前書案。縁者を含めて不正を許さず、家中の安泰と法度の遵守を重視する。 讒言や中傷を退け、奉公人の処遇や家中の争いを公正に扱うという、当主の統治姿勢を示す草案。
後編2-No.1293 徳満宗与・船木重勝連署状
徳満宗与と船木重勝が、宗与の家中で夫婦・奉公人の不和や讒言が生じ、宿所や家人の処遇をめぐって混乱している事情を詳しく説明する。双方の言い分を聞き、内談と調停によって家中を収めるよう求める。 家臣団内部の対立、噂、宿泊・奉公関係まで具体的に伝える連署状で、当時の家中統制の難しさが分かる。
後編2-No.1294 伊勢如貴書状
如貴が尊書への返礼を述べ、上洛後の謁見、龍山様・聖門様への取次、進上物や銀子の扱いを細かく指示する。渡海予定と帰朝後の奉公にも触れ、酒宴では無理に飲ませないよう配慮を求める。 上方での礼式・贈答・人間関係と渡海準備を一通にまとめた実務的な書状。
後編2-No.1295 木下宗固書状
木下宗固が京都の安泰を知らせ、能や茶湯が催された近況を伝える。羽柴筑前守が秀吉の御前で能を演じ、金春の能役者も来演したこと、参会者や席次・饗応の様子を記す。 豊臣政権中枢の芸能・社交の場を具体的に描き、上方出仕者が共有した宮廷的文化を知る書状。
後編2-No.1296 北郷一雲時久譜
勅勘を受けた近衛左大臣信輔が薩摩へ配流され、都城に滞在して和歌会を催したことを記す。その後は坊津を経て鹿児島へ移り、龍山から書一巻を贈られた。 公家の薩摩配流と北郷領・島津家による受け入れ、和歌文化の交流を伝える北郷時久譜の記事。
後編2-No.1297 豊臣秀次朱印状
秀次が、薩摩へ遣わされる近衛信輔を日向国綾から島津修理入道の居城まで送り届けるよう命じる。人足百人と乗懸馬十三疋を奉行に用意させ、島津又四郎にも同じ命令を出したと伝える。 公家配流の護送人員・馬数・経路を具体的に定めた朱印状。
後編2-No.1298 豊臣秀次朱印状
秀次が、近衛信輔を日向国綾から島津修理入道の居城まで護送するため、人足百人と乗懸馬十三疋を手配するよう島津又四郎へ命じる。北郷左衛門入道にも同趣旨を命じたと付記する。 No.1297と対になる朱印状で、同一の護送任務を地域の両担当者へ分担させたことが分かる。