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後編2の目録

旧記雑録 天正13年~文禄4年の文書・記事です。

全1,646件中 1~100件・1 / 17ページ

  1. 後編2-No.1 天正十三年覚書

    天正13年の出来事として、花山陣、撃隈庄の凶徒討伐と甲佐・堅志田などの攻略、阿蘇氏の降参を三項目で掲げる短い記事。肥後中央部で軍事拠点の制圧と阿蘇勢力の服属が進んだ局面を、年次記事の冒頭で簡潔にまとめている。

  2. 後編2-No.2 島津忠将一流系図

    島津忠将一流系図のうち久信の項。久信は守右衛門尉彰久の子で、初名を忠仍といい、又四郎・相模守を称した。天正13年に生まれ、母は太守島津義久の第二女であったことを記す。

  3. 後編2-No.3 島津氏老臣書状案

    新春の祝意に続き、前年冬の高瀬乗陣時に豊州衆の帰陣を申し入れ、相手も承諾したのに、今なお高良山に滞在しているのは不届きだと秋月殿へ伝える。高良山座主・蒲池・黒木から連日内通があることを挙げ、機会が到来して三家を味方に組み入れられれば、今後いっそう緊密に協議したいと申し送る書状案。筑後方面の調略と豊州…

  4. 後編2-No.4 島津氏老臣書状案

    新春の祝意と、長く音信を通じなかったことへの遺憾を述べる。前年冬に高瀬境から豊州衆の帰陣を申し入れたにもかかわらず、今なお高良山に滞留しているのは不当だとし、この方面について龍造寺氏と秋月氏が同心して協議するなら、今後も末永く緊密に連絡したいと両津江殿へ伝える書状案。同文二通が作成され、豊州衆の動向…

  5. 後編2-No.5 島津義久書状案

    龍造寺氏をめぐる事情から、秋月殿がたびたび島津の幕下に入りたいと懇望してきたことを受け、親交がいよいよ深まったと伝える。今回の祝意として甲冑が届いたことを喜び、今後も変わらぬ関係を約して、返礼の印に馬一疋を贈った島津義久の書状案。九州諸勢力の服属交渉が、武具と馬の贈答を伴って進められたことが分かる。

  6. 後編2-No.6 島津氏老臣書状案

    新春の祝意を述べ、長く連絡が途絶えていたことを不本意とする。前年冬に高瀬境から豊州衆の帰陣を強く申し入れたのに、なお高良山に滞在しているのは不当だとし、この方面について龍造寺氏と秋月氏が同心して協議するなら、今後も末永く連絡を取りたいと両津江殿へ伝える書状案。同文二通で、豊州衆の撤収をめぐる外交調整…

  7. 後編2-No.7 島津氏老臣書状案

    島津氏老臣が宮成殿・時枝殿へ同文二通を送り、新春の祝意と、前年冬の高瀬乗陣時に忠平から受けた懇書を今も重く受け止めていることを伝える。豊州衆に陣払いを申し入れたにもかかわらず、なお高良山に居続けているのは意外だとし、その方面の情勢を油断なく相談して対処するよう求めた書状案。差出人を島津義久と断定でき…

  8. 後編2-No.8 島津義久書状案

    島津義久が賀恵九郎へ、元服について丁重な使節が訪れたことを大いに喜び、申し出のとおり承認すると伝える。元服の祝儀として馬一疋を贈り、まずは祝意を示した書状案。「隈本三人へ」の御書案として収録され、使節による元服承認と馬の贈答を伴う武家儀礼が簡潔に記されている。

  9. 後編2-No.9 某書状案

    龍造寺氏は長年島津方と親交していたが、相良氏が離反した際に同調したため、島津方が高来方面へ軍勢を渡して戦い、龍造寺隆信を討ち取った経緯を述べる。その後、秋月氏が強く懇望して島津の幕下に入り、神名血判を取り交わして服属関係を定めたにもかかわらず、再び変心したとして、その表裏ある振る舞いへの警戒を促す。…

  10. 後編2-No.10 島津氏老臣書状案

    新春の祝意に続き、前年冬の高瀬乗陣時に豊州衆の陣払いを申し入れ、承諾を得たのに、今なお高良山に滞在しているのは極めて不届きだと秋月殿へ伝える。高良山座主・蒲池・黒木から連日内通があり、肝要な約束を忘れていないとしたうえで、機会を捉えて三家を味方に組み入れられれば、今後いっそう緊密に協議したいと申し送…

  11. 後編2-No.11 伊集院忠棟書状

    伊集院忠棟が、忠平を名代に定める内談について、極秘に意見と経過を報告した書状。忠平の名代就任を争う者はいないため神意を問う籤は不要との異論がある一方、伊作八幡は忠平の産土神でもあるとして、社参して籤を引き、神慮がかなえば忠平を八代へ移して肥後方面を見回らせる構想を伝える。情報漏洩を恐れ、飛脚の用件を…

  12. 後編2-No.12 島津義久譜

    天正十三年二月六日から十八日を中心に、島津義久が諸方の使者や上使を迎えた際の応接を日次で記す。宇都氏・土持弾正忠・北郷弾正忠らから賀札や贈物が届き、毛利殿の使僧五戒房が上使の到着を予告した。上使柳沢新右衛門尉元政の摩島往復、宿所の手配、義久との対面、席次をめぐる礼譲、太刀・段子・馬などの贈答、伊集院…

  13. 後編2-No.13 島津義久譜

    天正十三年二月二十日以降、島津義久が毛利氏の使僧五戒房、有馬氏・大村氏の使者らと対面した際の外交儀礼を記す。五戒房は先に摩島へ到着した上使の案内役で、龍造寺政家との和平に関する祝意を携えており、義久側と布・太刀などを贈答した。有馬氏の使者には太刀・甲冑を授けて三献を進め、大村氏の使節とも馬・甲冑等を…

  14. 後編2-No.14 羽月郷大島村若宮棟札

    天正十三年三月二日、羽月郷大島村の若宮社殿造営に際して掲げられた棟札。若宮の由緒と造営の趣旨を記し、島津義久をはじめ島津忠明・新納忠武ら関係者の名を伝える。地域寺社の修造に島津家中がどのように関与したかを確認できる建築・信仰史料である。

  15. 後編2-No.15 安国寺恵瓊書状

    安国寺恵瓊が鳴津へ、遠隔地のため自ら持参せず、休庵の飛脚を通じて一札と羽筑の書状を届けた書状。公家への奉公中という当時の事情を踏まえて内容を分別し、返報するよう求める。欄外記事によれば、毛利・小早川方の動向や豊州との和睦をめぐり、恵瓊が上方・筑州・豊州の間で書状と使者を仲介した経緯に関わる。鳴津が京…

  16. 後編2-No.16 上井覚兼日記

    上井覚兼が天正十三年正月朔日から二十八日まで、年始の礼式と日々の政務・交際を克明に記した日記。寺社参詣、家中や僧侶・使者の来訪、連日の酒宴、太刀・馬・酒肴などの贈答、狩猟、書状の往来を日付順に追える。単なる儀礼記録にとどまらず、家臣同士の相談、役人・医師・芸能者との接触、検地帳や公役関係文書の閲覧、…

  17. 後編2-No.17 島津義久譜

    町田羽州と伊地知伯州の両名を「然るべし」とし、ある役目または処置の担当として適任である旨を決定した短い記事。『島津義久譜』の抄録で前後が省略されているため、何の人選であったかは本文だけでは確定できない。

  18. 後編2-No.18 上井覚兼日記

    上井覚兼が天正十三年三月のほぼ一か月を日次で記した日記。寺社参詣や勤行、島津義久への出仕、家臣・僧侶・使者の来訪、書状と贈物の往来に加え、所領・境界争論の聴取、訴訟関係者の召喚、家中の談合など行政実務を詳しく伝える。一方で茶湯、連歌・酒宴、花や香を取り出して優劣を論じる遊興、酔客の振る舞い、病人への…

  19. 後編2-No.19 上井覚兼日記

    上井覚兼が天正十三年五月朔日から二十五日までを中心に記した日記。養子・相続をめぐる訴訟や刑罰の相談、家臣間の申次、書状・使者の往来を扱う一方、柳沢殿や毛利方使僧の来着、肥後・筑前方面の情報、兵船・武庫・軍記に関する話題も記録する。伊集院・新納・本田・平田ら家中諸氏との談合、島津義久への出仕、寺社参詣…

  20. 後編2-No.20 島津世録記

    天正十三年、忠平(島津義弘)を守護代として花山に置いた後、甲斐宗運の次子相模守ら阿蘇勢が花山を攻め、政虎・祐昌らが戦死した。報を受けた島津義久は数万を率いて八代へ進み、隈庄で二百余の首級を挙げ、甲佐・堅志田方面を攻略する。さらに甲斐親乗・満永宗甫らの離反、伊集院久春の不在を突いた津守城の失陥、新納忠…

  21. 後編2-No.21 新納忠元勲功記

    新納忠元の肥後方面における軍功と恩賞をまとめた記事。大口周辺の配置に続き、忠元が軍勢を率いて城攻めに加わり、敵の籠る横島方面を攻撃して戦功を重ねた経緯を記す。高森城・津守城をめぐる攻防にも関わり、長期在陣ののち十二月六日に感状を受け、三船地頭職を与えられた。戦闘の経過だけでなく、軍功が感状や地頭職と…

  22. 後編2-No.22 島津義久書状

    賀恵九郎が使者を通じて元服の儀を丁寧に申し入れたことを島津義久が喜び、その祝意として月毛の馬一疋と「一文字」を贈った書状。元服という人生儀礼に対し、馬と品物を下賜して関係を確認する武家社会の贈答慣行が分かる。

  23. 後編2-No.23 島津義久書状案

    「義久公御譜中」に案文があることを示すが、「天正文書一二四号文書と同文につき省略」とされ、本文は収録されていない。 ここでいう一二四号は本ExcelのNo.124ではなく、別に編成された「天正文書」の文書番号を指す。日付・宛先・具体的用件はこの頁だけでは確定できず、天正文書第124号との照合が必要で…

  24. 後編2-No.24 島津義久書状案

    久基が若年であるため、本田讃岐入道が諸事の下知に心を尽くしていることを島津義久が評価し、境目の重要案件では一層賢慮と才覚を働かせるよう求めた書状案。若年当主を補佐する現地有力者に、境界地域の実務と判断を託したことが分かる。

  25. 後編2-No.25 島津義久書状案

    「義久公御譜中」に書状が存在したことを示すが、「天正文書一三三号文書と同文につき省略」とされ、本文は収録されていない。 一三三号は本ExcelのNo.133ではなく、別に編成された「天正文書」の文書番号を指す。日付・宛先・用件はこの頁だけでは確定できず、天正文書第133号との照合が必要である。

  26. 後編2-No.26 島津義久書状案

    No.34と同文につき本文を省略した参照記事。参照先No.34は、豊州をめぐる上意と度重なる協議、柳沢殿の書状への謝意、言上時期を内評のうえ決めること、諸家の助力を望み詳細を伊集院忠棟から説明させることを述べた島津義久書状案である。

  27. 後編2-No.27 島津義久書状案

    No.35と同文につき本文を省略した参照記事。上書には、天正十三年に貞方右衛門佐を使者として宇久方へ送った際の返答案とある。参照先No.35は、肥州での勝利と静謐を祝し、使僧・太刀・馬などの贈物に礼を述べ、関係継続を誓う島津義久書状案で、末尾に義久の名がある。

  28. 後編2-No.28 島津義久書状

    「中原藤兵衛蔵」と伝来元を掲げ、『旧記雑録前編』所収の同文文書を参照して本文を省略した記事。 この頁には日付・宛先・具体的用件がなく、従来の四月十九日という推定は根拠を確認できない。内容の確定には『旧記雑録前編』の参照先との照合が必要である。

  29. 後編2-No.29 島津義久譜

    天正十三年四月二十四日、島津義久は町田出羽守・伊地知伯耆守を使者とし、上井伊勢守・鎌田出雲守・山田新介らを介して忠平へ命令を伝えた。前年春から忠平を義久の名代として八代へ移し、国政裁判を担わせようとしていたが、忠平は固辞を続けていたため、二十六日に重臣五名へ書状を託して再度説得させる。肥後支配を担う…

  30. 後編2-No.30 島津義弘譜

    天正十三年四月、島津義久が忠平を守護代に任じ、肥後八代へ移って国政を裁判するよう、島津図書頭忠長・町田出羽守久倍・伊地知伯耆守を通じて命じた記事。忠平は重任に耐えないとして再三辞退したが、義久は受諾を強く求め、忠平は八代へ赴任した。肥後の警衛を絶やさぬため役務を分担させ、田賦を定めたことにも触れ、守…

  31. 後編2-No.31 島津義久書状

    前年九月四日付の御内書が二月十五日に到着し、太刀一腰・鞍一口も受領したことへの礼を述べる島津義久書状。柳沢殿が入洛を計画していると聞いて長久の慶賀を表し、遠国にあっても忠節を尽くし、命令に従って働く意思を伝える。中央の取次役との関係を、贈答への謝礼と奉公の誓約によって維持しようとした文書。

  32. 後編2-No.32 島津義久書状

    久しく音信が途絶えていたところへ御内書を受け、島津義久が丁重に拝領の礼を述べた返書。入洛の企てを祝し、遠国のため力は限られるが、命令に従って忠勤を尽くすので、諸事の取り次ぎを依頼したいと伝える。返礼として打刀一腰と沈香三十斤を贈っており、中央の仲介者との関係を贈答によって固めたことが分かる。

  33. 後編2-No.33 島津義久書状案

    豊州への対応について、内々に検討中との返答を受け、九州の大守とする公方様の御判が調う見込みを伝える。 芸州に早期の働きかけを求め、兵船その他の支援を期待する島津義久の返札案で、中央交渉と軍事支援の結び付きが分かる。

  34. 後編2-No.34 島津義久書状案

    豊州をめぐる上意と度重なる協議、柳沢殿の書状に謝意を示し、言上の時期は内評のうえ決めると伝える島津義久書状案。 諸家の助力を望み、詳細は伊集院忠棟から説明させるとして、中央折衝の実務を重臣に託している。

  35. 後編2-No.35 島津義久書状案

    肥州方面で前年に勝利し、地域の過半が静謐となったことへの祝意と、使僧・太刀・馬などの贈物に礼を述べる島津義久書状案。今後も疎遠にならぬことを神仏に誓い、自らも太刀などを返贈して関係の継続を図る。宛所は宇久大和守殿で、末尾に義久の名がある。

  36. 後編2-No.36 島津義久書状案

    豊州問題での懇切な上意と協議に礼を述べ、宇久大和守へ今後も取り成しを続けるよう求める島津義久書状案。 太刀・鞍などの贈答を添え、中央への働きかけを人的関係によって確保しようとした外交文書である。

  37. 後編2-No.37 島津義久書状案

    前年九月の御内書と太刀などの拝領に礼を述べ、一色駿河守の入洛を祝う島津義久書状案。 義久への忠節を求められたことに応じ、生糸十斤と黄金十両を進上して支援の意思を具体化している。

  38. 後編2-No.38 島津氏老臣連署状案

    入洛をめぐる取り成しと義久への変わらぬ忠節に謝意を示し、御内書・助宗の太刀一腰・縮五端を拝領したことを喜ぶ返札案。 返礼として黄金十両を進上し、さらに沈香百両・手火矢三丁を贈って披露を頼む。中央との交渉を支えた真木島殿・一色殿への具体的な贈答内容が分かる。

  39. 後編2-No.39 島津尚久一流系図

    島津尚久を祖とする一流について、子孫の実名・通称・官途などを掲げて系統を示す系図記事。 島津一族内の分流と人物の位置関係を確認する基礎資料で、同名・通称の識別にも役立つ。

  40. 後編2-No.40 島津義久譜

    天正十三年四月二十九日、帰京する上使柳沢新右衛門尉に黄金百両・馬三疋・鷹一連を贈り、五月二日には琉球使僧の船が到着した。七日、肥州大野氏から、豊後軍が筑後の城島を攻めたものの二百人を失って退却したとの軍報が届く。八日には琉球国使僧天王寺と対面し、琉球産の織物・香・器物など多数の献上品を受け、返礼と酒…

  41. 後編2-No.41 中山王尚寧書状

    目録表題に従い、中山王尚寧が近年の敵勢掃討と天下平定を祝い、その喜びを伝えるため使僧の天王祖庭和尚を派遣した書状として整理する。軽微ながら土産を別紙のとおり贈ると述べ、欄外注記から上井伊勢守覚兼に関係する書状と分かる。琉球王府と島津家臣との外交連絡を示す。

  42. 後編2-No.42 島津義久書状案

    遠国のため門跡との音信が絶えていることを詫び、宇智院義昭大僧正をめぐる件について井関殿の取り成しを求める島津義久書状案。 生糸を献上し、詳細は宗誉に説明させるとして、京都の宗教者・取次を介した交渉を進めている。

  43. 後編2-No.43 島津義久書状案

    京都で必要な事柄をたびたび調えてきた宗誉の働きに謝意を示し、今後の待遇について約束した島津義久書状案。 短文ながら、島津方が京都での用務を担う宗教者・取次の功績に報い、継続的な奉仕関係を結ぼうとする内容である。

  44. 後編2-No.44 島津義久書状案

    龍造寺との和睦が長年の懇望にもかかわらず変転したことに触れ、高木方面で思いがけない勝利を得たとの風聞を彦山座主へ伝える島津義久書状案。 座主の仲介と贈物に礼を述べ、年寄から詳細を伝えさせるとして、和戦両面の交渉を続けている。

  45. 後編2-No.45 賦何人連歌

    天正十三年六月三日、島津義久・伊集院忠棟ら多数が参加した長篇の「賦何人連歌」。梅雨の雲と川、水辺の月、松、旅人、秋風、紅葉、雪、春の花など、季節と場所を移しながら句を連ね、百韻規模の文芸世界を形づくる。忠長・忠辰・宗運・可丹・賀雲・久茂・正信ら家中の武将や連歌参加者の名が各句に残り、軍事行動の続く時…

  46. 後編2-No.46 島津義久書状案

    島津義久が琉球国の安泰を祝い、国王の使僧から伝えられた厚意と琉球産の献上品に謝意を表した書状案。近年、薩摩・大隅・日向の三国が島津の支配下となり、国内が安定した近況を伝え、天運と神明の加護によるものと位置づける。返礼品を贈り、今後も琉球国王との関係を保つ意思を示した、島津氏の領国認識と対琉球外交を併…

  47. 後編2-No.47 木脇祐昌辞世

    肥後の花之山で鎌田左京亮らとともに戦死した木脇祐昌が、敵も味方も同じく現世の夢を見終えるという趣旨を詠んだ辞世。 激戦の最期を背景に、討つ者と討たれる者を等しく無常の中に置く武将の死生観が表れた、印象的な一首である。

  48. 後編2-No.48 新納忠元書状

    新納忠元が、伊集院忠棟から届いた書状を文箱に収めて送り、内容を確認したうえで御所へ届けるよう平田濃州の一行に依頼した書状。肥前秋月から来た使僧は東禅寺へ取り次ぐよう指示し、先に秋月へ遣わした八田に関する書状の返送も求める。文箱、寺院、使僧、家臣を組み合わせた書状伝達の具体的な経路が分かる。

  49. 後編2-No.49 上井覚兼起請文前書案

    上井覚兼が武庫様(島津義弘)に対し、家督相続後も子孫に至るまで変わらず崇敬し、世情が変転しても忠誠を守ると誓った起請文前書案。讒言によって訴えられた場合には、直ちに処断せず本人の弁明を聞いたうえで裁断すること、子孫・親類との関係も損なわないことを求める。家臣側の忠誠誓約とともに、公正な聴聞を主君へ条…

  50. 後編2-No.50 島津忠平義弘起請文

    島津忠平(義弘)が上井覚兼に対し、家督相続をめぐって結んだ親交を子孫の代まで変えず、覚兼の奉公を粗略に扱わないと神文で誓った起請文。境目での軍事奉公についても、覚兼の事情を踏まえて取り扱うことを約束する。No.49の覚兼側の誓約に対応し、主君側も親類・子孫を含む関係維持と公正な処遇を保証した相互誓約…

  51. 後編2-No.51 伊集院忠棟起請文前書案

    伊集院忠棟が八城の城番として遠方勤務に就くにあたり、主君への忠節を神文で誓った起請文前書案。遠隔地にいる間、嫉妬や讒言によって自分が疑われることを懸念し、風聞があれば直ちに知らせ、本人の弁明を聞いて糾明するよう求める。以前の神文の条項を守り、世情に動揺せず、境目での奉公を続けると定めており、軍事任務…

  52. 後編2-No.52 島津義久書状案

    島津義久が、肥州八城方面の境目を伊集院忠棟が無難に守っていることと、神文で心中を明らかにしたことを評価した書状案。 今後、忠棟に対する讒言・中傷があれば本人の望みどおり糾明すると神仏に誓い、前文書で示された不安に応えている。

  53. 後編2-No.53 上井覚兼日記

    上井覚兼が天正十三年六月十四日頃から七月二十八日まで、約一か月半の日々を記した日記。来客・使者・書状の往来、島津家当主・重臣への出仕、寺社参詣、連歌、酒宴、狩猟を記す一方、八城・肥後方面から届く軍報、城番や境目への人員配置、使者の派遣と返書の作成を詳しく追う。大雨・洪水、病気、馬や薬の手配、宿所での…

  54. 後編2-No.54 本田親貞書状

    本田親貞が秋月殿の使節と芳書・太刀の到来に礼を述べ、弓箭すなわち軍事上の協議を今後も怠りなく進めるよう求めた書状。 島津忠平(義弘)が前年から八城方面に在陣していることを示し、諸方面の作戦を熟談するよう促したうえで、太刀などを返贈している。

  55. 後編2-No.55 島津義久譜

    天正十三年七月十三日以降、吉利下総守らが上井覚兼へ伝えた諸方の軍事情報をまとめた『島津義久譜』の記事。羽柴筑前守の軍勢が四国で戦い、七、八百人を失って敗れたとの風聞、甲斐宗運が病死したとの情報が届くが、謀略の可能性も疑っている。続いて島津図書頭忠長・伊集院忠棟らが宮崎・高知尾方面の作戦と兵器輸送を協…

  56. 後編2-No.56 島津義久書状案

    島津義久が中山王へ、琉球国の安泰と文武の徳を祝い、近隣諸国が島津の支配下に入った近況を伝えて、今後も永く和通を続けるよう求めた書状案。 天正十三年七月十八日付で「進上 中山王」と明記され、九州での勢力拡大を背景に国王との外交関係を維持しようとした文書である。

  57. 後編2-No.57 伊集院忠棟外二名連署状

    伊集院忠棟・平田親貞・美濃守光宗が琉球国三司官へ、琉球の安泰を祝い、近隣諸国が島津の支配下に入った状況と、永続的な和通への期待を連署して伝える。 琉球からの蚕糸・太平布に謝し、島津方から白麻を返贈しており、義久の中山王宛書状を重臣側から補完する外交文書である。

  58. 後編2-No.58 薩州島津義虎譜

    薩州家の島津義虎が天正十三年七月二十五日に没したことと、子女・妻の系統を簡潔に示す譜記事。 法号や妻が母川上上野守忠克の娘であることなどを掲げ、薩州島津家の親族構成と後継関係を確認できる。

  59. 後編2-No.59 島津義久譜

    天正十三年八月、宮崎・高知尾方面から相次いで届いた軍報と島津方の対応を記す。島津家久らが兵器・兵員を送り、花山城をめぐって甲斐宗運の子相模守が率いる阿蘇方の大軍と交戦した。敵味方に多数の死者を出し、城の包囲、救援、撤兵が繰り返されるなか、伊集院忠棟らが上井覚兼へ戦況を伝え、島津忠長らが守城・増援策を…

  60. 後編2-No.60 島津義弘譜

    天正十三年八月、島津忠平(義弘)が大軍を率いて八代から肥後の隈庄方面へ進み、阿蘇・甲斐宗運方と対峙した長篇の軍事記事。花山城救援、城下や河川での攻防、敵船との戦い、諸隊の進退と戦死者を詳しく記し、義弘は各地の軍報を受けながら包囲・撤兵を判断して八代へ帰陣した。その後、隈部親泰・合志親重ら在地勢力の使…

  61. 後編2-No.61 島津義弘起請文前書案

    「案文有之」とし、『天正文書』第125号と同文のため本文を省略した参照記事。天正十三年閏八月二十三日付の島津義弘起請文前書案であることは確認できるが、この頁だけでは誓約条項や宛先は分からない。

  62. 後編2-No.62 島津義弘譜

    天正十三年閏八月二十六日、田代宗典父子以下五人が島津義弘を訪ね、翌二十七日には矢部の居所から五人が来て太刀・馬を持参した。二十九日には島津家久の使者三原宮内少輔が田代直経を介して矢部・山中方面の動きを報告し、高知尾の三田井氏にも触れる。在地勢力の出仕・贈答と情報連絡をまとめた譜記事。

  63. 後編2-No.63 島津忠長譜

    天正十三年閏八月十一日以降、島津忠長が義弘の肥後八代出陣に従い、堅志田方面で放火・城攻めを進めた戦闘記事。敵二百余を斬り、首級を挙げた一方で攻城側も損害を受け、梅北国兼らの軍が合流した。忠長は無衣無食に近い軍中で薄酒を与えて兵を励まし、翌日の攻撃に備えており、前線指揮の具体像が見える。

  64. 後編2-No.64 島津中務大輔家久譜

    天正十三年秋、島津家久が肥後・筑後での軍功後も高知尾進出を図った記事。家久は高知尾の大友方勢力を警戒しつつ吉田右衛門佐・高崎越前守らを派遣し、小崎城への人員・兵糧の集積と現地勢力の服属を進めた。高知尾を島津方の軍事拠点へ組み込む過程を伝える。

  65. 後編2-No.65 北郷忠虎譜

    天正十三年閏八月、薩摩・大隅・日向の軍勢が肥後へ進発し、堅志田城を攻めた際の北郷忠虎の戦功を記す。忠虎は敵中へ斬り込み、首級二つを挙げたとされ、短文ながら肥後攻略における北郷氏の働きを顕彰する譜記事である。

  66. 後編2-No.66 樺山規久譜

    天正十三年閏八月十三日の肥後堅志田城攻めで、樺山規久が敵兵と接戦した記事。牧之瀬筑前守・長田筑前守・緒方仲右衛門尉らが各一人を討ち、川添惣右衛門尉は規久の目前で負傷した。個人名と戦果・負傷を列挙し、規久隊の近接戦闘を具体的に伝える。

  67. 後編2-No.67 樺山久高譜

    天正十三年閏八月十三日の肥後甲佐・堅志田城攻めで、樺山久高が城門へ進み、防戦する敵兵と交戦した記事。高田中軍兵衛・森山主計が各一人を討ち、高崎大蔵兵衛正顕が首級を挙げるなど、久高配下の戦功を具体的に列挙する。

  68. 後編2-No.68 殉国名薮

    天正十三年八月の肥後戦線における島津方の戦没者を、日付・戦場・戦死状況とともに列挙した「殉国名薮」。花山城を守って戦死した鎌田政虎、堅志田城攻めで倒れた木脇祐昌・西俣七郎・村山源太らを記し、矢部兵部左衛門尉が三人に囲まれて戦死したことなど、個別の譜では見えにくい損害の広がりを伝える。

  69. 後編2-No.69 新納忠元譜

    天正十三年秋、新納忠元が肥後方面へ出陣し、阿蘇方との戦いや堅志田城攻めに関与した経過を記す。田宗和へ帰順を促す書状を送り、十二月には島津家久の書状、古川主膳入道宗忍の来訪を受けた。さらに島津義久の家督継承を祝う使者・贈答にも触れ、戦闘と外交・家中儀礼が連続して進む様子が分かる。

  70. 後編2-No.70 上井覚兼日記

    天正十三年八月、上井覚兼が肥後戦線から届く書状・使者の報告を連日記録した長大な日記区間。花山・堅志田・隈庄・八代方面の戦況、戦死者、城番・兵員配置、兵糧や鉄砲の手配、敵方の帰順・人質処置をめぐり、島津義久・義弘、伊集院忠棟らと協議して返書を作成する。寺社参詣、連歌、酒宴、病気見舞い、贈答も併記され、…

  71. 後編2-No.71 長谷場越前日記

    天正十三年八月十八日以降、島津義弘が肥州隈府方面の成敗を命じられ、諸軍を率いて出馬した経過を長谷場越前が記す。松尾の柵を越えて敵と交戦し、兵庫頭義弘の奮戦、敵将の討取り、諸隊の進退や戦死者を伝える一方、合志方との使者・太刀をめぐる争い、在地勢力の去就や帰順交渉にも触れる。肥後出陣の戦闘と調略を現場に…

  72. 後編2-No.72 勝部兵右衛門聞書

    同年八月下旬、肥後の合志方に加わった島津軍の戦闘と、阿蘇家・隈部氏など周辺勢力の動きを勝部兵右衛門が記した聞書。吉松への着陣、松尾城の可否、赤星方の降参・追討、敵陣への突入と首級獲得を述べるほか、薩摩方の旗や太刀をめぐる使者の応酬、諸勢力の帰順と離反も記す。島津軍が戦闘と交渉を併用して肥後支配を進め…

  73. 後編2-No.73 日向記

    天正十三年九月上旬、合志方と島津軍が連携して肥後の敵勢へ進み、阿蘇・隈部方との交戦や使者による折衝を重ねた経過を記す「日向記」。 敵を誘い出して退路を断つ戦術、首級獲得、降参者の処置まで述べ、肥後諸勢力をめぐる戦闘と調略が同時に進んだことを示す。

  74. 後編2-No.74 大口土浜川西市丞覚書

    天正十三年閏八月十三日、島津軍が甲佐・堅志田の両城を攻め落とした際、川西市丞が堅志田城内で敵と接戦し、手傷を負いながら戦功を挙げた覚書。 戦功により褒賞を受けたことと、関係者の名が記録上欠けていることにも触れ、足軽・下級武士の働きを伝える貴重な個人記録である。

  75. 後編2-No.75 上井覚兼日記

    天正十三年閏八月、上井覚兼が肥後戦線と島津家中の動きを連日記録した長大な日記区間。八代・隈庄・堅志田方面の城番、普請、兵員・武具・兵糧の配置、敵方の帰順、捕虜・人質の処置をめぐり、島津家中の当主・重臣らと書状・使者を往復させる。軍事協議の一方で寺社参詣、連歌、酒宴、贈答、病気見舞い、家臣の訴訟処理も…

  76. 後編2-No.76 勝部兵右衛門聞書

    肥後花山城を阿蘇方の大軍が攻めた際の籠城戦を、勝部兵右衛門が詳細に回想した聞書。三艘の船で入城した島津方は少人数ながら城門から打って出て敵を斬り、城妻子を福島へ退避させつつ、鉄砲・太刀・弓で抗戦した。城内の兵糧不足、味方の負傷と戦死、敵の攻城、退却後の再合流までを生々しく記し、木脇祐昌・鎌田政虎らの…

  77. 後編2-No.77 日向記

    天正十三年春、八代から北川海道を山越えして花山へ根陣を構えた島津方に対し、阿蘇方が八月十日から攻撃した経過を記す「日向記」。木脇刑部左衛門らが防戦するなか、隈庄へ向かった軍勢が呼び戻され、同十三日には甲佐・堅志田両城の陥落へ戦局が進む。花山籠城と周辺の城攻めが連動していたことを示す。

  78. 後編2-No.78 長谷場越前日記

    肥州八代の花山城を阿蘇方が攻めた際、鎌田左京亮政虎ら島津方が少人数で籠城した戦闘を長谷場越前が記す。敵は城を包囲して火を放ち、守兵は騎馬・弓・鉄砲で応戦し、城外へ打って出て挟撃した。武器を失っても敵を追う兵、負傷者、首級、討死の状況まで描かれ、花山合戦の激しさと個々の兵の動きが具体的に分かる。

  79. 後編2-No.79 島津義久譜

    天正十三年七月三日に甲斐宗運が死去したことを記す、島津義久譜中の短い記事。 肥後・阿蘇方の軍事と外交を支えた宗運の死は、その後の島津氏による肥後進出を考えるうえで重要な転機となる。

  80. 後編2-No.80 島津義久譜

    木脇刑部左衛門尉祐昌と鎌田左京亮政虎が肥後国花之山で戦死し、祐昌が辞世を残したことを記す島津義久譜の記事。 No.47の辞世本文と対応し、二人の戦死を島津家の公式的な譜記事から確認できる点に史料的価値がある。

  81. 後編2-No.81 長谷場越前日記

    天正十三年閏八月十二日、薩摩・大隅・日向の軍勢が肥後の敵城を攻めた経過を長谷場越前が記す。城下の町を焼き、鉄砲・火攻めで城戸を破り、逃れる敵を追撃した。島津義弘・伊集院忠棟らが軍勢や兵船を差配し、城主の妻子・降参者の処置、占領後の守備配置まで進めており、攻城から支配確立までを連続して伝える。

  82. 後編2-No.82 勝部兵右衛門聞書

    「勝目覚書」の本文は、No.76「勝部兵右衛門聞書」の後半と同文であるため省略すると注記した参照記事。独立した本文はなく、花山城籠城戦に関するNo.76との対応関係を示す。

  83. 後編2-No.83 日向記

    「日向記」の本文はNo.77の記事後半と同文であるため省略すると注記した参照記事。花山・甲佐・堅志田をめぐる肥後戦線の記事に対応し、この番号には独立した本文がない。

  84. 後編2-No.84 池田貞安覚書

    豊後出陣の折、堅志田で池田貞安の父・六左衛門が敵を討ち取ったところ、上野半助との間で首の帰属をめぐる争論が起きた経緯を記す。両者は各自の分捕首を御前へ差し出し、親六左衛門の説明を受けた両殿から感賞された。戦功認定、首実検、褒賞の実態を具体的に示す覚書である。

  85. 後編2-No.85 池田貞安覚書

    島津義弘が豊後から退く際、阿蘇地越で川上四郎兵衛が乗物の前を進み、池田貞安の父・左衛門が後方に付き従ったとする短い覚書。撤退時に主君の乗物を誰が前後から警護したかを伝える点に特徴がある。

  86. 後編2-No.86 樺山紹剣自記

    島津義弘の八代出陣後、堅志田城攻めに参加した樺山久高(紹剣)が自らの戦闘を記す。城際へ進んで敵武者と太刀を交え、相手の刀を押さえて討ち取り、城門・堀際で逃げる敵を追撃した。配下の働き、打物や太刀の扱い、負傷・討取りの瞬間まで細かく述べ、武将個人の近接戦闘を臨場感豊かに伝える自記である。

  87. 後編2-No.87 島津義弘譜

    天正十三年九月朔日、飯田山の陣中で家臣の内通・謀議が発覚した経過を記す島津義弘譜。関係者の証言や密書を照合し、虚偽の訴えや若年者の軽率な関与を見分けながら処分を進めた。戦陣で軍事行動と並行して家中秩序を維持し、義弘が証拠を確かめて裁断する様子が分かる。

  88. 後編2-No.88 島津義弘譜

    天正十三年九月四日以降、島津義弘が肥後支配を固めるために行った交渉と軍事処置をまとめた長文の譜記事。阿蘇氏や隈部・高知尾方面から使者・書状・太刀・馬を受け、降参条件、旧領安堵、人質、城番、軍勢・兵船の配置を伊集院忠棟らと協議する。帰服情報を吟味して返書を送り、敵城への備えや謀反の処理も進める一方、祝…

  89. 後編2-No.89 島津忠長譜

    天正十三年十月朔日、飯田山在陣中に樺呂木新介の乱企てと倉岡讃岐守の虚言が発覚し、上井覚兼・島津忠長らが兵を出して関係者を討った経過を記す。その後、秋月・龍造寺・筑紫・星野氏や高良山から戦勝祝賀の使者・書状が相次ぎ、家中の反乱処分と北部九州諸勢力の島津方接近を続けて示す。

  90. 後編2-No.90 上井覚兼日記

    天正十三年九月、上井覚兼が戦勝後の肥後支配と島津家中の実務を連日記録した長大な日記区間。阿蘇・隈部・高知尾方面の使者や書状を受け、降参者・人質、城番、所領、城の修築、兵糧・武具の配置を協議する。密書や謀議、家臣間の訴訟を処理し、島津家中の当主・重臣らへの報告・返書を作成する一方、寺社参詣、連歌、酒宴…

  91. 後編2-No.91 羽柴秀吉直書

    羽柴秀吉が島津義久へ、九州の国郡境界をめぐる争いを停止し、双方の言い分を京都で審理して裁定すると命じた直書。使者を上洛させて「天下静謐」の方針に従うよう求め、命令を受け入れなければ処罰する意向も示す。豊臣政権が九州停戦・国分裁定へ直接介入し、島津氏へ服属を迫る段階を示す重要文書である。

  92. 後編2-No.92 新納忠元譜

    新納忠元譜の記事だが、本文は「本文ハ六九号記事ノ後半ト同文ニツキ省略」と注記された参照記事。独立本文はなく、対応する既出記事との重複関係のみを示す。

  93. 後編2-No.93 有馬久賢書状

    有馬久賢が伊集院忠棟へ、島津軍が肥後へ出陣して各地で勝利し、無事帰陣したことを祝った書状。久賢は勝報を喜び、今後も変わらぬ関係を望んで祝意を伝える使者を送っており、有馬氏が島津方の肥後戦勝へ接近する姿勢を示す。

  94. 後編2-No.94 新納忠元書状

    新納忠元が入田殿へ、京都の仲介で薩摩・豊後間に和議が成立した後も、前年以来の筑後表での長陣や、大友義統の廻文が各地へ回る緊迫した情勢を伝えた書状。入田側の進退と本意を明らかにし、返答を証拠として披露できれば忠元も奔走すると約して、内々の準備を促している。豊後内部への調略をうかがわせる。

  95. 後編2-No.95 北郷一雲時久譜

    天正十三年十月七日、島津義久が家久・忠長・伊集院忠棟・北郷一雲・上井覚兼ら重臣を召集し、豊後征伐と羽柴秀吉の九州下向への対応を評議した記事。評議後の饗膳では義久を中座に、左右へ重臣を配置した座次を具体的に列挙する。対豊後・対秀吉の軍事方針と、島津家中の序列・意思決定構造を同時に伝える重要な譜記事であ…

  96. 後編2-No.96 島津義久譜

    天正十三年十月十一日、島津義久が本田親貞を肥後警衛へ向かわせ、上洛帰りの北郷一雲家臣から羽柴軍の九州下向・増勢が避けられないとの情報を得た。十四日には新納忠元書簡により、薩摩方へ属した豊後南郡の入田氏が大友勢に攻撃され、一門・士卒六千人が籠城して窮地にあると知り、領内へ救援兵の催促を出している。

  97. 後編2-No.97 島津義久書状案

    島津義久が羽柴美濃守へ、伊集院忠棟・本田親貞宛の伝書を披見したことに謝し、関白就任によって天下が静謐となったことを祝う書状案。前年夏の厚意への返礼が遅れたと詫び、礼の使節を上洛させて幽斎にも申し入れたと述べ、取り成しを依頼する。生糸十斤を贈り、秀吉政権成立後も中央人脈との関係維持を図る外交文書である…

  98. 後編2-No.98 上井覚兼日記

    天正十三年十月、上井覚兼が豊後・肥後の軍事情勢と羽柴秀吉の九州介入への対応を連日記録した長大な日記区間。入田氏救援、城番・兵船・宿所・人質・帰服者の処置を協議し、島津家中の重臣らと秘密書状や京都使節の取次ぎを進める。秀吉の停戦・国分要求をめぐる情報、阿蘇・豊後方との折衝、諸将への返書が続く一方、寺社…

  99. 後編2-No.99 新納忠元等起請文

    丹後入道宗和・玉林老・新納忠元が、忠貞を尽くした者の知行安堵、近隣人数の招集などを申し合わせ、違反時には梵天・帝釈・霧島神ほか諸神の罰を受けると誓った起請文。本文範囲内に島津義久の実名・法号・宛所はない。

  100. 後編2-No.100 島津義久感状

    島津義久が新納忠元の度重なる軍労と敵境での長期在陣を「神妙」と評価し、今後も忠節を尽くすよう求めた感状。知行について年寄衆へ申し渡して加増し、他所での客人待遇も整えると約束しており、軍功評価が具体的な恩賞へ結び付くことを示す。