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後編2の目録

旧記雑録 天正13年~文禄4年の文書・記事です。

全1,646件中 1401~1500件・15 / 17ページ

  1. 後編2-No.1398 島津家久譜

    十月八日深夜、忠恒が名護屋で碇を解き、翌九日申刻に壱岐国勝本へ到着したと記す。現地の小川氏は宿舎を用意して忠恒一行をもてなし、酒肴を贈ったうえ、十一日には義弘からの迎船も到着した。 忠恒が名護屋から朝鮮へ向かう途中、壱岐で宿泊・補給・迎船を受けた具体的な航海経過を伝える家譜記事。

  2. 後編2-No.1399 島津義弘書状

    義弘は九月二十八日夜以来、敵船が唐島への航路を遮断し、四国衆の陣や自陣へ連日接近したと報告する。敵が火矢・半弓・鉄砲を放つと、島津方は大鉄砲で応戦し、その後は敵船が磯近くまで寄らなくなったという。 あわせて霧島山座主から届いた祈祷札と祈念に感謝し、栗野が無事であることを喜び、在京中の久四郎のためにも…

  3. 後編2-No.1400 毛利友重高政書状

    毛利友重高政は前日に義弘へ面会できたことを喜び、長年の厚意に礼を述べる。島津方奉行衆が以前処置した請取書を受け取り、交換分を船頭に持たせて返送したことを報告する。 さらに借用していた大切な船を無事に返却し、深く感謝する。朝鮮在陣中の諸大名間で行われた船の貸借、証文交換、返還手続を具体的に示す実務書状…

  4. 後編2-No.1401 島津義弘書状

    義弘は敵の番船によって日本船の出入りと唐島への航路が遮断され、多数の船が釜山浦などで足止めされている状況を詳報する。陣中の古米を新米に替えることもできず、兵糧が尽きれば在陣継続が困難になるため、国元から年内に米と船を確実に送るよう強く求める。 又八郎忠恒の渡海、国元検地、義久・幸侃らの対応にも触れ、…

  5. 後編2-No.1402 島津義弘書状

    義弘は敵の番船が九月二十九日から十月七日まで海上を押さえ、八日に六、七里ほど退いたと竜伯義久へ報告するよう長寿院・幸侃へ求める。春になれば敵番船が再び活動し、唐島への日本船航路が完全に塞がれる恐れがあると警告する。 兵糧が届かなければ陣の維持はできないため、年内に国元から米を送るよう重ねて催促する。…

  6. 後編2-No.1403 石田三成書状

    石田三成は使者の口上を承知し、島津方の人数については義久が在京中なので相談し、幸侃が国元にいるため経過を伝えると回答する。不審な点があれば遠慮なく直接知らせ、隔心なく連絡するよう求める。 さらに又八郎忠恒の内儀が京都に住む件は義久へ働きかけ、国元の処置も穏当に決着させると約束する。海上輸送に関する手…

  7. 後編2-No.1404 昭高院如雪書状

    昭高院如雪は、夏以来の便りに義弘から丁寧な返書を受けたことへ礼を述べ、長期在陣の苦労をねぎらう。翌春には帰朝できるだろうと見込み、帰国後に積もる話を聞きたいと伝える。 例年どおり大峯で祈祷を行い、その巻数と焼物、甘味の品を送ったことも記す。戦地の義弘を宗教者が祈祷と贈答で支えた、親交の深さが伝わる書…

  8. 後編2-No.1405 島津家久譜

    忠恒は十月十四日に壱岐勝本を出帆し、強風を受けながら対馬府中へ到着して池田紀伊介の宿に入った。二十六日に対馬皇浦を発ち、同日夜に釜山浦へ着くと、翌日には白浜次郎五郎らを早舟で唐島へ送り、到着を義弘側へ報告した。 二十八日には唐島から樺山権左衛門・喜入摂津守らが迎えに来た。忠恒の朝鮮渡海を日付・風向・…

  9. 後編2-No.1406 新納旅庵長住譜

    文禄三年十月、忠恒が名護屋を出帆して同月末に朝鮮の唐島へ到着した経過に関連し、新納旅庵長住が京都へ赴いたと記す。旅庵は義久に太守父子の意向を伝え、その後薩摩へ下国して栗野の在番を怠らなかった。 朝鮮在陣中の忠恒・義弘側と、京都の義久、薩摩国元を結ぶ伝達役として旅庵が活動したことを示す家譜記事。

  10. 後編2-No.1407 新納康久譜

    新納康久は忠恒に従って朝鮮へ渡り、軍務に服した。唐島へ急進する際に兵糧確保が難しくなると、早舟を出して食糧を運ばせ、忠恒の到着時には御膳を献じ、従軍者にも食事を行き渡らせたという。 戦闘ではなく補給によって軍を支えた功績を顕彰した記事で、朝鮮出兵における兵糧輸送と給食の重要性が分かる。

  11. 後編2-No.1408 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津義弘に付与する知行地について、村ごとの「先高」と出米高を列記した朱印状。播州豊饒郡の杤野村・木代村や能勢郡などに及び、合計六千九百八石二斗二升とする。 朝鮮在陣中の義弘に宛てた畿内近国の知行方目録で、豊臣政権下の領地配分と村別石高を知る具体的な史料。

  12. 後編2-No.1409 島津義弘書状

    島津義弘は、相手方がこの地まで船を差し回したとの風聞を喜び、順風であればそこから直接「當島」へ渡海するよう求める。船頭を送る手筈や船の乗員・物資を優先して用意させることも依頼した。 渡海船の確保と運航をめぐる現場の切迫した連絡で、朝鮮在陣中の人員・物資輸送の実情がうかがえる。

  13. 後編2-No.1410 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉は島津忠恒に、以前から五か城に残してある兵糧をそれぞれ新しい米に入れ替え、再び各城に備蓄するよう命じる。 翌年には軍勢を渡海させ、情勢次第では秀吉自身の出動もあり得るとし、油断のない準備を命じた。五か城の米備蓄と翌年の再出兵構想を示す重要な朱印状。

  14. 後編2-No.1411 島津義弘譜

    忠恒は日本から航海して朝鮮の巨済島の陣に戻り、義弘と対面した。義弘に衣服二領・道服一領・帯二筋、大刀・脇差・馬代などを献上し、陣中での父子再会を記す。 その後、福島正則の船で西次郎四郎が到着し、左衛門大夫正則は四国陣へ向かった。義弘公の倉庫を巡る警備、熊川への出兵、鉄炮配備なども日付順に載せる。

  15. 後編2-No.1412 島津家久譜

    北郷宗次郎は十月二十九日、唐島から釜山浦に着き、辰刻に方浦を経て金海川口へ至った。降雪と強風のため船を追ったが乗員数を把握できず、巨済岸に帰着した経過を記す。 加徳島の水主らを船内で捕え、船上の綱などを接収したという。冬の朝鮮沿岸における船舶追跡と捕縛の実情が分かる。

  16. 後編2-No.1413 某覚書

    龍伯に対して決して油断せず心を配り、常日頃から養生を勧めることを書き留めた覚書。「おくかた」への見舞いについては平豊前・川善左へ固く申し含め、折々の音信に礼を述べることも記す。 龍伯の健康管理と家中の人間関係に関わる、短いながら私的で具体的な備忘記録。

  17. 後編2-No.1414 島津家久譜

    原資料には「家久公御譜中」という出典表示のみがあり、対応する記事本文は記載されていない。 本文の脱落、または編纂上の空白である可能性があるため、内容を推測せず出典情報だけを記録する。

  18. 後編2-No.1415 島津忠恒書状

    島津忠恒が、相手の帰着を喜び、陣中や国元の様子、病気・養生、人々の消息を詳しく知らせるよう求めた私信。本文範囲内に島津義久・龍伯の実名、法号、明示的宛所はない。

  19. 後編2-No.1416 島津義弘書状案

    島津義弘は石田三成に、朝鮮在陣中の島津軍が合計三千三十人、うち水主四百八十人であると報告する。帰朝させる者と陣に残す者を分け、龍伯や家中と相談して配置を決めたことを説明する。 各街の兵数と米・石高を細かく列記し、不足する兵糧を至急送るよう求めた。文禄の役における島津軍の実員数と補給事情を具体的に示す…

  20. 後編2-No.1417 島津義弘書状案

    島津義弘は石田三成に、十月朔日付の書状を受け取ったことを報じ、大明国の使者・朝鮮での知行配分・来春の勤めなど、豊臣政権の方針を至急教えてほしいと求める。国元の検地や人数確認についても、具体的な指示がないため困っていると訴えた。 福州衆から届いた茶や、茶入・茶会の段取りにも触れる。外交・領地配分・国内…

  21. 後編2-No.1418 島津義弘書状案

    島津義弘は、近年は自分の知行だけを基準に軍役や諸公役を負担し、不釣り合いな状態にあったと訴える。分国中の諸侍にも同様の公役を負わせるとの秀吉の命令を歓迎し、家中の負担を公平化するよう取り成しを求めた。 文禄の役における軍役の偏りと、島津家内の負担調整を義弘が政権に訴えた書状案。

  22. 後編2-No.1419 島津竜伯書状

    島津龍伯は忠恒に、使者が無事に当地へ着き、池田甚介の書面も届いたことを報じる。帰帆を急がせるいっぽう、食料・兵糧をどの方向へ運ぶべきか判断できず、本国から近渡来する船の到着を待っていると伝えた。 大閤秀吉の御前での忠恒の立場や、朝鮮との和睦、来春の渡船計画を聞かせるよう求める。帰国船と補給の指示を待…

  23. 後編2-No.1420 島津竜伯書状

    島津龍伯は義弘に、唐の帝王から朝鮮との和睦が懇望され、日本側も大明国との和睦を望んでいると伝える。来春に渡海船を準備するという義弘の計画に対し、勘合の成否や使者の消息が判明するまで急がないよう忠告した。 龍伯は伊勢・多賀・春日などへ参詣し、和睦成就を祈願していた。日明交渉の情報が薩摩国元にどう伝わり…

  24. 後編2-No.1421 島津家久譜

    十一月十三日、島津忠恒(家久)が船で四国陣へ渡り、福島正則から酒五荷・鯛五尾・昆布五十貝などの馳走を受けた。十六日に晴時武庫から弓を贈られ、十八日に正則が来訪すると、太刀・馬代青銅・衣服を与えて父子でもてなしたことを記す家久譜記事。

  25. 後編2-No.1422 島津忠恒書状

    島津忠恒は平田豊前守と川東善左衛門尉に、奥方に関する事情を二人に特に頼んでおいたと伝え、女房の法度に反する者があれば身分に関わらず厳格に処置するよう命じる。 男女の私通や家中の風紀を厳しく取り締まり、たとえ親しい女房でも例外にしないと記す。忠恒が在陣中から国元の奥方と家政を統制した書状。

  26. 後編2-No.1423 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、献上された弟鷹一羽が届き、念を入れて運んだため尾羽に損傷がないことを「無類」と高く評価して、格別に喜んだ朱印状。あわせて、寒い時期まで長く在陣している豊久の苦労をねぎらい、詳細は長束大蔵大輔(長束正家)から伝えるとしている。鷹献上の品質評価と在陣慰労が一通に収めら…

  27. 後編2-No.1424 島津忠恒書状

    島津忠恒は抽斎に、遠境にいるため相手の事情を十分に量れないが、老後を云々に任せず龍伯に奉公し続けるよう励ます。個人の知行配分が困難なときでも、気持ちを緩めず奉公を尽くすよう求めた。 在陳中の忠恒が、国元の年長の家臣をねぎらいつつ奉公を促した書状。

  28. 後編2-No.1425 島津義弘書状

    島津義弘は新納武蔵入道に、弥太右が前年秋以来病を患い、在地の医者では十分な養生が難しいと報じる。まず帰朝させて治療に専念させ、快気したなら再び参陣させるよう求めた。 弥太右の母にも配慮するよう依頼し、来春は京都で御殿普請が予定されていることも伝える。戦傷ではなく病気の将兵を帰国療養させる判断が分かる…

  29. 後編2-No.1426 島津家久譜

    十二月朔日、寺沢志摩守正成が忠恒の本営を訪れ、その日のうちに帰った。十四日には武庫公へ太刀一腰を献じたが、これは石田三成が忠恒に与えた刀であった。 同日、小西行長が忠恒を訪問し、太刀一腰と馬代の青銅を持参した。島津・寺沢・石田・小西の間で行われた訪問と武具贈答を記す。

  30. 後編2-No.1427 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉は、治部少輔石田三成を通じて献上された品を上覧し、気に入ったため手元に留め置いたと伝える。 品物の種類は本文だけでは確定できないが、詳細は石田三成から伝えさせるとする短い朱印状。島津家の進上品が秀吉に受納されたことを示す。

  31. 後編2-No.1428 喜斎・永□連署状

    喜斎と永斎は羽柴兵庫頭に、先日依頼された「手本」の件を承知し、完成次第送ると回答する。 高昌新蔵が渡海する際に書状を託すので、ほどなく届くだろうと伝えた。朝鮮への渡海者が書状や依頼品を運ぶ連絡網を示す連署状。

  32. 後編2-No.1429 島津竜伯書状

    島津龍伯は忠恒に、石田三成から送られた馬を指示どおり受け渡すと伝える。国元の検地は荒廃のため希望どおりに実施できず、知行を与える人物や配分方法を慎重に決める必要があると説明した。 有能な者の推薦・登用についても書き、書状と帰朝船を頻繁に送るよう求めた。馬の贈答から検地・知行・人事・船便まで、国元運営…

  33. 後編2-No.1430 島津家久譜

    十二月十八日、島津忠恒は父とともに熊川を渡り、小西行長を訪問して太刀一腰・青銅千匹を進上し、鷹一居を贈られた。十九日には五島氏が忠恒を訪れ、太刀・馬代青銅・樽酒・鯛を持参した。 二十六日は歳暮の詞礼のため四国陣の福島正則を訪ね、宴応を受けて帰陣した。年末の軍陣で大名間に行われた訪問・進物・返礼を日付…

  34. 後編2-No.1431 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉は島津義弘に、長期の在番と普請をねぎらい、寒中の養生と健康維持を命じる。軍勢のうち、大人数の隊は三分の一、小人数の隊は半分を陣に残し、国元の人員と交代させるよう指示した。 春には早く船と兵糧米を渡海させ、釜山浦・山中・浅茅野の配置を正すよう求める。朝鮮在陣軍の交代比率と春の補給計画を具体的に…

  35. 後編2-No.1432 浅野長吉長政・木下吉俊吉隆連署状

    浅野長吉長政と木下吉俊吉隆は、大閤秀吉の養生に用いる「虎」を捕らえ、十分に塩漬けして送るよう島津義弘に依頼する。頭と肉・腸なども一頭分残さず、塩で処理して渡すよう細かく指示した。 朝鮮出兵という軍事行動の中で、現地の虎が秀吉の薬用・養生品として求められたことを示す非常に特徴的な連署状。

  36. 後編2-No.1433 浅野長吉・木下吉俊連署状

    No.1432と同文のため本文を省略した重出。浅野長吉・木下吉俊が島津義弘に、豊臣秀吉の養生に用いる虎を捕らえ、頭・肉・腸まで十分に塩漬けして送るよう依頼した連署状である。

  37. 後編2-No.1434 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、歳暮の祝儀として秀吉用の呉服一重と北政所用の一重が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。詳細は長束大蔵大輔(長束正家)から申し伝えるとしている。前年のNo.1246と同様、豊久が秀吉夫妻へ継続して歳暮を贈っていたことが分かり、豊臣政権下の年中贈答関係を示す文書。

  38. 後編2-No.1435 豊臣秀吉朱印状

    原資料は「本文書ハ二二四五号文書ト同文ニツキ省略ス」と記し、朱印状の本文を転載していない。 対応する同文書を本頁だけで確定することはできないため、内容を推測せず、「豊臣秀吉朱印状の重複・省略記事」として記録する。

  39. 後編2-No.1436 豊臣秀吉朱印状

    原資料には「御文庫三番箱中」という出典表示のみがあり、対応する朱印状の本文は記載されていない。 本文の脱落または編纂上の省略の可能性があるため、文禄三年十二月二十八日付の豊臣秀吉朱印状というインデックス情報だけを保持する。

  40. 後編2-No.1437 上野隼人覚書

    文禄三年十二月十日、栗野で兵庫頭忠恒の御前に定められた人員移動と土地配置を記す覚書。上野彦九郎や吉田等松田弥蔵、飯野衆、多藤五郎などの移転先・召集・交代を列記する。 吉田・馬関田・小林・高原などの人々について、合計約百六十人をどこへ配置するかを具体的に示す。朝鮮出兵期の薩摩国元における家臣団の再編と…

  41. 後編2-No.1438 野田善左衛門書立

    「飯野衆中」から高麗へ御供する人々を、野田善右衛門重俊をはじめ、高麗に渡った者・各隊に付けられた者ごとに列記した書立。高麗・釜山・加徳島などでの配置先や、どの家臣の手に属したかが分かる。 書状ではなく、朝鮮渡海に動員された薩摩の将士を一人ずつ把握できる人員名簿。地域別の動員と島津軍の編成を調べる上で…

  42. 後編2-No.1439 朝鮮日々記

    島津義弘・忠恒の隊を中心に、小西行長・福島正則・加藤清正ら諸大名と家臣の配置、加徳島・釜山・熊川など朝鮮各地の在陣状況を記した「朝鮮日々記」。将士名と所属、軍勢数、諸陣間の距離や移動経路を細かく列挙する。 島津軍だけでなく、四国・中国・九州の諸大名が朝鮮でどのように陳取りしたかを俯瞰できる軍勢配置記…

  43. 後編2-No.1440 高麗入日記(文禄三年八月廿五日至同年一二月卅日)

    文禄三年八月二十五日から十二月三十日まで、朝鮮在陣中の出船・帰館・使者往来・軍務・宴会・寺社参詣をほぼ日々書き継いだ「高麗入日記」。島津義弘・忠恒の行動に加え、寺沢志摩守、小西行長、福島正則ら諸将との交流を、太刀・馬・青銅・魚・茶・酒などの贈答まで含めて具体的に記録する。 船の渡航と水主の手配、武庫…

  44. 後編2-No.1441 朝鮮出陣賦

    朝鮮出陣にあたり、地域・番立ごとの人数を書き上げた「朝鮮出陣賦」。一番立の大村衆五十五人、山野衆四十人、三番立の高山衆百十人、一番立の馬越衆三十五人などを列記する。 地域別の動員数と隊編成を数値で確認できる短い賦役表。一部は「本文無之」とされ、底本だけでは内容を完全に復元できない。

  45. 後編2-No.1442 新納忠元勲功記

    文禄三年三月二十日の伏見登城と太閤秀吉への御目見を起点に、新納忠元が三月二十三日に出立し、大口・佐土原を経て乗船、大坂から伏見へ上って秀吉に召し出された経過を日付順に記す。 島津義弘から忠元へ届いた書状、忠佐への暇、忠増が朝鮮で奉公していること、忠元一族の働きへの評価に加え、京都での用務や検地役人の…

  46. 後編2-No.1443 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、年頭の祝儀として白鳥一羽が届いたことを喜び、受領の謝意を伝えた朱印状。詳しい返答は長束大蔵大輔(正家)から伝えさせるとしており、文禄四年正月の豊久と秀吉の贈答関係を示す。

  47. 後編2-No.1444 高麗国動人数帳抄

    文禄四年正月十五日付で仰せ渡された高麗国への動員人数帳から、島津勢に関わる一隊一万八千人の記載を抜き出したもの。 全体の余部は省略される一方、島津家の石高を五十五万九千五百三十三石と付記し、軍役負担の根拠をうかがわせる。

  48. 後編2-No.1445 国老記

    島津義弘が栗野から帖佐へ移り、同地を居城としたことを記す。あわせて阿多長寿院・上井次郎左衛門・伊集院肥前入道一雄を家老として掲げる。 義弘の本拠移転と、その時期の家老構成を同時に確認できる記事である。

  49. 後編2-No.1446 町田存松久倍譜

    豊臣秀吉は島津家当主の居城を大口に定めたが、当主は富隈へ移り、町田存松が大口城代を命じられた。存松は文禄四年に大口へ移って長年守備したという。 のちに石谷の市山一所、一之宮村・長羽村などを加増された経緯も記し、城代任命と知行褒賞を結び付ける。

  50. 後編2-No.1447 伊勢如貴貞知書状

    新年を祝い、相良五郎左衛門の早い帰朝を待つと伝える。前年冬に上井甚五郎と旅庵を介して二通の書状を受け取り、現地が無事であることを喜んでいる。 久四の在京と健康、龍伯への申入れ、祈祷や扶持の件にも触れ、茶碗一組を贈る。朝鮮在陣者と国元・京都を結ぶ具体的な私信である。

  51. 後編2-No.1448 高麗国動人数帳

    朝鮮へ動員する諸大名の軍勢を番組ごとに分け、小西行長・加藤清正・黒田長政・島津義弘・鍋島直茂・宗義智らの名と人数を列挙する。 各隊の構成に加え、高麗国内の城の留守衆や関白側近衆の人数も集計し、文禄四年段階の再動員計画を数量的に示す。朝鮮出兵の軍団編成を比較できる重要史料。

  52. 後編2-No.1449 伊勢如貴書状

    No.1447と同文であるため、本文を省略した重出文書。相良五郎左衛門の早い帰朝を待つこと、上井甚五郎・旅庵を介して書状を受け取ったことを伝える。 久四の在京と健康、龍伯への申入れ、祈祷・扶持、茶碗一組の贈答を含む私信であり、別系統の伝来資料に同文が収められたことを示す。

  53. 後編2-No.1450 豊臣秀吉朱印状

    厳寒下の在陣をねぎらって綾小袖と染道服を贈り、寺沢志摩守から詳細を伝えるとした豊臣秀吉の朱印状。明軍の蔚山攻撃と日本側の救援で敵が退いた情勢にも触れる。 朝鮮の諸城・船舶・兵糧を整え、帰朝者には敵情を十分に確認させるよう指示する。増田長盛・徳善院・長束正家を取次に据えた、蔚山戦後の軍令として重要。

  54. 後編2-No.1451 島津家久譜

    島津家久が前年八月に京都を出発し、同月二十五日に肥前名護屋へ着いたものの、領国から従兵と渡海船が届かず、長期間出航できなかった事情を記す。 家久は遅延理由を石田三成の家老・安宅三郎兵衛尉秀安へ書き送り、その返書を次の文書として掲げる。朝鮮渡海を妨げた輸送準備の遅れが具体的に分かる。

  55. 後編2-No.1452 安宅秀安書状

    家久の朝鮮渡海後、無事の着陣と国元の検地完了を喜び、知行と家中への配分を慎重に行うよう助言する。明との和平が成立しなければ翌春に諸勢が再渡海するとの見通しも伝える。 次回は関白自身の出馬もあり得るため、武具を平素から整えるよう勧め、在京中の安宅秀安が調達を支援すると申し出る。軍役・領国行政・兵站準備…

  56. 後編2-No.1453 安宅秀安書状

    北原勘右衛門尉が持参した書状と口上を受け、石田三成にも披露して返答させたと伝える。伏見城普請は前年十二月二十日まで行い、正月三日から再開したという。 朝鮮在陣の労苦をねぎらい、高麗から返納する米や蔵米の処置にも触れる。中央政権の普請と朝鮮在陣側の兵糧処理を結ぶ実務書状。

  57. 後編2-No.1454 島津義久譜

    文禄四年正月二十日、近衛龍山公の東山邸で和歌会が催され、島津義久が参加して詠草を残したことを記す。 豊臣政権下の京都で、義久が近衛家の文化的な交遊圏に加わっていたことを示す短い記事で、次の詠草の成立事情となる。

  58. 後編2-No.1455 島津義久詠草

    近衛龍山公の東山邸で催された歌会における島津義久の詠草。「当座鶯」では軒端に近づく鶯の声を玉簾と結び、「待花」では枕に聞く雨音を待ち望む花のよすがとして詠む。 義久の京都滞在中の教養と、公家社会との交流を具体的な二首から伝える。

  59. 後編2-No.1456 立花親成宗茂・寺沢正成広高連署状

    立花宗茂と寺沢広高が、関係者から受け取った書物二通を送り、判形・継ぎ目・押紙に先例どおり印判を押して返すよう求めた連署状。 図書頭へ早急に渡し、石田治部少輔・増田右衛門尉にも了承を得るよう指示する。豊臣政権内で文書を回覧・認証する実務手続が分かる。

  60. 後編2-No.1457 町田存松書状

    No.1234と同文であるため本文を省略した重出書状。九州・中国衆の朝鮮在番命令に伴う追加軍役と名護屋普請の負担、京都で借りた銀の返済における唐目・日本目・後藤判の秤量差を扱う。 軍役動員と銀決済という二つの実務問題を島津又八郎へ報告した文書で、異なる伝来形態で同内容が残されたことが分かる。

  61. 後編2-No.1458 庭松突久和歌

    東山歌会で、島津義久(龍伯)が「庭松契久」を題として詠んだ和歌。植えてから幾代もの春を経た松が、変わらぬ緑の陰をつくる情景に永続性を重ねる。 近衛家の歌会に参加した義久の文化活動を、本人の署名と作品から確認できる。

  62. 後編2-No.1459 殉国名藪

    文禄四年中に戦死・病死した島津方の家臣を、日付と所属を添えて列挙する。北郷忠虎の臣・鶴田市右衛門尉貞明、松下源二郎、島津義弘の臣・山本勘左衛門親臣や鬼塚三蔵らの最期を記録する。 個々の戦功記事では見えにくい人的損耗をまとめた名簿で、朝鮮出兵期の島津家臣団の犠牲を追える重要史料。

  63. 後編2-No.1460 島津義弘譜

    明の神宗が豊臣秀吉を日本国王に封じるため、国王印・冠服・冊封詔書を用意し、李宗城を正使、楊方亨を副使として日本へ派遣した経緯を記す。沈惟敬も同行した。 使節は日本軍が釜山浦など朝鮮諸城から撤兵するのを待って進む計画だった。文禄・慶長の役における講和交渉と冊封使節の構想を伝える重要記事。

  64. 後編2-No.1461 近衛竜山前久書状

    近衛前久が便宜に託して島津又八郎へ送り、現地が無事であることを喜ぶとともに、望みどおり早く春中に帰陣することを待つと伝えた書状。 長期在陣の苦労を察し、伏見の女房衆への急便に合わせたため詳細は省くとしている。近衛家と家久の私的な連絡が分かる。

  65. 後編2-No.1462 島津竜伯義久感状

    平田豊前守が度々の合戦で挙げた軍功を忘れないとし、その娘が長年京都に滞在して夫婦で数年奉公したことも高く評価した感状。 軍功だけでなく、家族ぐるみの在京奉公を忠節として認定し、今後も忠貞を尽くすよう求める。

  66. 後編2-No.1463 島津竜伯感状

    平田豊前守が七年間京都に在住し、夫婦で重ねた辛労を島津義久が「感悦」と評価した感状。 長期の在京奉公を今後も忘れず、いっそう忠勤に励むことを求める。直前の感状とは、軍功よりも七年間の夫婦の奉公を中心に顕彰する点が異なる。

  67. 後編2-No.1464 島津義弘感状

    本田六右衛門尉が神前で示した深い決意を、島津家と義弘父子に対する忠節として高く評価した感状。春日・八幡・天満大自在天神を証人に挙げる。 今後は忠恒に特に心を添えて忠節を尽くすよう頼み、義弘から次代への主従関係を固めようとする内容である。

  68. 後編2-No.1465 島津義弘感状

    伊集院下野入道が神前で示した決意を、島津家と義弘父子への忠節として評価した感状。神々の照覧を掲げ、今後も心変わりなく奉公することを求める。 本田六右衛門尉宛の前文書と同系統で、義弘が有力家臣に忠恒への支援を誓わせた主従再編の一例となる。

  69. 後編2-No.1466 島津忠恒家久感状

    『旧記雑録後編三』所収文書と同文であるため、本文を省略した島津忠恒(家久)の感状。慶長四年二月二十四日付であることと、別冊の同文書を参照すべきことだけが示される。 この頁だけでは受給者や評価対象となった具体的な軍功・奉公を確定できないため、確認度を低とした。

  70. 後編2-No.1467 島津竜伯感状

    鎌田出雲守が三か条にわたり神前で示した深い決意を、島津家と義久らへの忠節として高く評価した感状。春日・八幡・天満天神の照覧を掲げる。 その同心・忠勤を決して忘れないと誓い、主従の結束を宗教的誓約によって確認している。

  71. 後編2-No.1468 島津竜伯感状

    No.830と同文であるため本文を省略した重出感状。新納忠元が三か条と神前で示した深い決意を義久・義弘が評価し、島津家と自分たちへの忠勤を忘れないと誓う。 春日・八幡・天満天神を証人に挙げて主従の結束を確認する文書で、別系統に同文が伝来したことが分かる。

  72. 後編2-No.1469 島津竜伯感状

    伊集院下野入道が三か条にわたり神前で示した決意を、島津家と義久らへの忠節として評価した感状。春日・八幡・天満天神の照覧を掲げる。 同心の意志を決して忘れないと約束しており、鎌田出雲守宛の感状と同じ形式で、有力家臣との結束を個別に確認した文書である。

  73. 後編2-No.1470 島津義久譜

    文禄四年二月二十九日、薩摩・大隅・日向諸県の検地と境界確定が終わり、豊臣秀吉がその功績を聞いて土地支配の書を与えた経緯を記す。 さらに朝鮮在陣中の島津義弘を召還し、四月十二日付の台書を与えたとする。太閤検地後の領国支配と義弘の帰国命令を結ぶ記事。

  74. 後編2-No.1471 島津義久譜

    文禄四年三月二日、島津義久が近衛邸の糸桜を見て和歌を詠んだことを記す。当時、近衛信輔は薩摩に滞在しており、邸の主人が不在だった事情も付記される。 近衛家と島津家の往来を背景に、義久が京都の邸宅と花見文化に親しんだ様子が分かる。

  75. 後編2-No.1472 島津義久詠草

    院御所の花見から夜更けに帰る際の桜、泉涌寺で御代の墓と仏舎利を拝した折の散る花、吉野の花への執心などを詠んだ島津義久の詠草。 洛東禅林寺で近衛龍山公と催した当座では、住吉の松に君の長久を重ねる。義久の京都社寺巡礼と連歌師・公家との交流を一群の歌から追える。

  76. 後編2-No.1473 島津義弘書状

    島津義弘が書状と贈物の到来を喜び、在京する供衆の苦労にも配慮するよう三名へ頼んだ書状。明から新たな来訪がないため、朝鮮での在陣は長期化すると見込んでいる。 吉美作・喜大炊・平豊前らから届いた音信や樽への返礼ができない事情を伝え、後日あらためて連絡するとする。長期在陣中の国元連絡と贈答実務が分かる。

  77. 後編2-No.1474 島津義弘書状

    No.1080と同文であるため本文を省略した重出書状。又八郎がたびたび酒を飲むと聞いた義弘が、酒は身体と家を損なう「家の大敵」だとして節制を厳しく求める。 烏丸兵部少輔に急用があるため早く来させるよう指示する内容も含み、朝鮮在陣中の父が後継者の生活態度を心配した私信である。

  78. 後編2-No.1475 島津義弘譜

    豊臣秀吉への献上を意識し、朝鮮在陣中の島津勢が猛虎を狩った経過を詳述する。昌原付近で虎を追い、兵が負傷・戦死する中、安田次郎兵衛らが刃を振るい、忠恒も自ら虎に迫った。 虎の肉や内臓を秀吉へ進上する計画、山中での追跡と射撃、家臣の働きを伝える臨場感ある狩猟記事。戦場外で行われた虎狩りの危険と主従の行動…

  79. 後編2-No.1476 島津彰久譜

    島津彰久が義弘に従って昌原浦辺の大山で虎狩りに参加し、家臣の安田某が剣で虎を討ち、忠恒から宝刀を与えられたことを記す。 彰久は同年七月五日に朝鮮国巨済の陣中で二十九歳で病没した。死後は家老の川上忠実が軍勢を率いて在陣を続け、義弘の命で旧館岩を守ったという。

  80. 後編2-No.1477 小西行長書状

    小西行長が、島津義弘が当地に滞在して虎狩りを行い、二頭を仕留めたことを「奇特」と称賛した書状。義弘から鹿の枝角二十を贈られたことにも謝意を示す。 詳細は七右衛門尉に伝えさせるとしており、虎狩りの成果が朝鮮在陣中の大名間で共有・祝賀されたことが分かる。

  81. 後編2-No.1478 島津家久譜

    豊臣秀吉へ薬用の虎肉・内臓や毛皮を献上するため、朝鮮在陣中の島津勢が虎を追った経過を家久譜から詳述する。島津彰久の臣・安田次郎兵衛や長野助七郎らが接近戦を挑んだ。 虎の逆襲で死傷者を出しながら二頭を仕留め、小西行長へ成果を報告したという。狩猟の危険、家臣の戦い方、献上品調達が一体となった臨場感ある記…

  82. 後編2-No.1479 小西行長書状

    小西行長が島津家久からの書状を読み、虎二頭を仕留めたとの報告を「奇特」と称賛し、家久の満足を推察した返書。 詳細は後日あらためて伝えるとして簡潔に結ぶ。直前の家久譜に記された虎狩りが、当事者間の書状でも確認できる。

  83. 後編2-No.1480 前田玄以外二名連署副状

    前田玄以・増田長盛・長束正家が、朝鮮各地の「仕置」に関する豊臣秀吉の朱印状へ添えて送った連署副状。 具体的な命令内容は朱印状に詳しいため、この副状では細目を省くとしている。秀吉の命令を三奉行が島津義弘・家久へ伝達する文書経路を示す。

  84. 後編2-No.1481 豊臣秀吉朱印状

    城の兵糧として米二千石を博多で渡し、山中山城守・石川紀伊守が受け取って蔵へ納めるよう命じる。船頭の飯米は百石につき四石と定める。 釜山浦の貯蔵兵糧も各城へ配分し、寺沢志摩守の指示で蔵へ保管すること、非常時以外の流用を禁じる。朝鮮在陣軍の兵站管理を数量と担当者まで示す重要命令。

  85. 後編2-No.1482 豊臣秀吉朱印状

    朝鮮へ送る石火矢・火薬・鉛玉を諸将ごとに割り当てた豊臣秀吉の朱印状。島津義弘をはじめ、柳川侍従・高橋主膳正・筑紫上野介らの配分量を列記する。 総計は石火矢十四挺、火薬二千五百斤、鉛二千四百斤。朝鮮在陣軍へ火器と弾薬をどのように配給したかを数量で確認できる兵站史料。

  86. 後編2-No.1483 島津竜伯書状

    遠国のため音信が途絶えたことを詫び、寺沢志摩守が下国前に指示した「実用方」の件は、柏原殿をはじめ関係者が油断なく進めていると報告する。 義久自身も当地と国元の代官へ命じており、寺沢がいつ上洛するかを尋ねて待っている。国元行政と中央取次の連絡を示す書状。

  87. 後編2-No.1484 長束正家書状

    朝鮮各地の城の普請、兵糧・玉薬などについて豊臣秀吉の朱印状が出され、竹中貞右衛門・松井藤介を使者として送ったと長束正家が伝える。 使者の指示に従い、現地の苦労をいとわず御用を果たすよう求める。朝鮮の築城と軍需整備を朱印状・奉行・使者の系統で伝達した実務書状。

  88. 後編2-No.1485 島津義弘書状

    義弘が、四名の者について朝鮮での在陣以来の辛労は比類なく、島津家への奉公としてこれ以上ないものだと評価した書状。 祢占七太郎に対し、今後はその功績を十分に心得て処遇するよう求める。個人名を列挙せず、四名をまとめて顕彰・取次した点に特徴がある。

  89. 後編2-No.1486 樺山紹剣自記

    豊臣秀次が謀反を疑われ高野山で自害した事件に続き、薩摩・大隅・日向で地頭替えと所領再編が進み、代々の土地や知行を失う人々が悲嘆した状況を記す。 一石につき五斗の賦課や替地にも触れ、国や御家のためとして異議を言えない空気を伝える。さらに明・朝鮮使節の来訪と講和の噂、朝鮮沿岸の日本陣についても記録する。

  90. 後編2-No.1487 石田三成書状

    石田三成が島津又八郎(忠恒)へ、二月十日付の書状が伏見へ届いたことを伝え、国元に下った検地衆の近い帰洛後、義弘の帰朝を待って領国の仕置を進める意向を示す。薩摩から送った米が手ぬるい扱いのためまだ着岸していないとして督促したことを知らせ、国元の番を堅くするよう求めた。検地後の統治準備と年貢米輸送の遅延…

  91. 後編2-No.1488 安宅秀安書状

    安宅秀安が島津義弘へ、国元の検地衆が四日に伏見へ帰着し、打出知行は約三十万石、前年収納の米・大豆は約四万石、大坂・堺への到着分は約二万石、京都借銀は元利約百二十貫目余と報告する。さらに検地が整っても国中の侍・百姓・町人が納得せず、龍伯も承知しないため統治が危ういと警告し、義弘の覚悟一つで国を保てるか…

  92. 後編2-No.1489 伊集院幸侃忠棟書状

    No.1238と同文であると注記され、本文を省略した伊集院忠棟書状。参照先は、島津家中に留め置かれた朝鮮人から細工・縫工などの技能者を選び、豊臣秀吉の御用へ進上するよう命じる内容である。 ただし参照先の標題は「豊臣秀吉朱印状」で本標題と異なるため、伊集院忠棟が命令を伝達した形態や宛先は、この頁だけで…

  93. 後編2-No.1490 徳岡宗与・船木重勝連署状

    No.1293と同文であるため本文を省略した連署状。宗与の家中で夫婦・奉公人の不和や讒言が生じ、宿所や家人の処遇をめぐって混乱した事情を説明し、内談と調停を求める。 参照先の標題は「徳満宗与・船木重勝連署状」で、本標題の「徳岡」と表記が異なるため、人名の確認度を低とした。

  94. 後編2-No.1491 新納弐右衛門尉起請文

    新納弐右衛門尉が、上洛以来の奉公に感謝し、御前で聞いたことを他言せず、主君に害となる情報は必ず報告すると誓った起請文。世情が変転し親子兄弟が分かれても、他人・他国を頼まず忠節を守るとする。 さらに流行する一向宗へ心を寄せないことも明記する。秘密保持・情報提供・宗教的立場まで具体化した、家臣統制の重要…

  95. 後編2-No.1492 伊勢如貴書状

    No.1294と同文であるため本文を省略した伊勢如貴の書状。上洛後の謁見、龍山様・聖門様への取次、進上物と銀子の扱いを指示し、渡海予定と帰朝後の奉公にも触れる。 酒宴では無理に飲ませないよう求めるなど、上方での礼式・贈答・人間関係と渡海準備を一通にまとめた実務的な内容。

  96. 後編2-No.1493 征韓偉略

    文禄四年四月二十六日、豊臣秀吉が数年の戦功を賞し、宗義智へ薩摩国出水郡一万石を加増したと記す。六月には島津義弘を朝鮮から召還し、忠恒に軍務を代行させたという。 さらに薩摩・大隅・日向三州の境界を正して帳簿を義弘へ与えたとし、朝鮮軍務の交代と島津領国再編を一続きに記録する。

  97. 後編2-No.1494 島津義弘譜

    豊臣秀吉の命による薩摩・大隅・日向の島津領内の境界確定が完了し、文禄四年四月十二日付朱印状で朝鮮在陣中の島津義弘を召還したことを記す。 次の文書に朱印状本文を掲げるための導入記事で、太閤検地後の領国仕置と義弘帰朝命令の関係を示す。

  98. 後編2-No.1495 豊臣秀吉朱印状

    薩摩国の知行割と仕置を命じるため、島津義弘へ朝鮮から早急に帰朝するよう命じた豊臣秀吉の朱印状。在番軍は又八郎忠恒と家老衆へ託して出船し、遅延しないことを求める。 詳細は石田三成から伝えるとし、朝鮮軍務の引継ぎと太閤検地後の領国再編を同時に進める命令である。

  99. 後編2-No.1496 樺山久高譜

    三州の検地・境界確定後、秀吉の四月十二日付朱印状を受けた義弘が朝鮮を発ち、播州・難波を経て京都で秀吉に謁見した経過を記す。六月二十九日には三州半の領知を認める朱印状を受けた。 義弘は大隅へ下向後、再び朝鮮へ渡り、樺山久高は帰朝と再渡海の双方に供奉したという。久高の軍務と義弘の移動を結ぶ人物譜。

  100. 後編2-No.1497 島津竜伯書状

    島津義久が、豊臣秀吉から早々に帰朝するよう命令が出たため、義弘に速やかな判断と帰国準備を求めた書状。 詳細は藤島右衛門尉から伝えさせるとしている。秀吉の朱印状を受け、国元の義久が朝鮮在陣中の義弘へ帰朝を督促した短い連絡文書。