ARCHIVE DIRECTORY
後編2の目録
旧記雑録 天正13年~文禄4年の文書・記事です。
全1,646件中 1101~1200件・12 / 17ページ
後編2-No.1099 島津久保譜
島津久保が金化で警衛中、狩猟のため山へ入ったところ猛虎に襲われ、鳥銃で急所を撃って仕留めた逸話を記す。 文禄二年四月二十一日に諸将が王城から海口へ退くと、父・義弘とともに巨済へ退陣したことも記され、久保の武勇と撤兵経路を伝える家譜記事。
後編2-No.1100 島津義弘書状
朝鮮奥地での軍事行動が延期されたため、当面は前線の陣へ参着する必要はないと伊勢弥次郎へ知らせる。 ただし窮屈な状況はなお続くとして、人数を散らさず集結させ、いつでも動けるよう内々に準備しておくことを命じた書状。
後編2-No.1101 石田三成外二名連署状
当地に兵粮・大豆・雑穀があるため、黒田長政・大友吉統にこれを受け取って滞留するよう求める。御朱印には九州衆を在陣させる旨が記されており、船着場へ全軍を出しても兵粮の到着が間に合わない可能性があるという。 浅弾・黒勘と早急に相談して以後の指示を知らせるまで待機させる、撤兵途上の兵粮確保と九州勢の配置を…
後編2-No.1102 豊臣秀吉朱印状
本文はNo.869と同文であるとして省略され、毛利吉成・島津義弘・秋月氏・伊東氏・加藤清正・鍋島直茂ら九州諸将への宛名のみが掲げられている。 具体的な命令内容はNo.869との照合が必要だが、同一の秀吉朱印状が複数の在陣大名へ一括して伝達されたことが分かる。
後編2-No.1103 島津義弘譜
明使沈惟敬の開城到着を受け、日本軍の釜山浦退却、朝鮮領の割譲、明皇女との婚姻、王子・重臣の人質などを含む講和条件を諸将が評議した経緯を詳述する。 兵粮不足から撤兵を唱える意見に対し、島津義弘は占領地を捨てれば明軍に追撃される危険があるとして強く反対し、釜山浦への段階的退却と警戒を主張した。文禄の役の…
後編2-No.1104 島津義弘過所
大隅国敷根の船一艘が朝鮮から帰国するにあたり、船頭長門丞、中乗二十三人、加子十九人、朝鮮人二人の合計四十三人を乗せていることを記す。 島津義弘が船改衆へ、異状なく通行させるよう命じた過所で、帰朝船の乗員構成に朝鮮人が含まれていたことが分かる。
後編2-No.1105 島津義弘譜
王城から釜山浦へ退く講和局面で、島津義弘が大友吉統らの性急な撤兵を批判し、武門の名誉と占領地維持を重視して徹底抗戦も辞さない姿勢を示したことを記す。 一方で兵粮欠乏と諸将の撤退により釜山浦へ移り、明使沈惟敬との交渉に備えて加藤清正らと守備を固めたという。義弘の戦略観と秀吉への忠節を顕彰する長文の家譜…
後編2-No.1106 北郷三久譜
文禄二年初夏、沈惟敬の講和提案に三奉行が同意したため、島津義弘・久保父子が金化から釜山浦へ退いたことを記す。 同年七月、秀吉の命で義弘が巨済城へ移ると北郷三久も従い、その後三年間にわたって同城の警衛を務めたという、三久の朝鮮在陣経歴を伝える家譜記事。
後編2-No.1107 豊臣秀吉朱印状
高麗在番衆と各使者に、大友吉統が小西行長の守る拠点を十分に援助せず、敵情を確かめないまま退却したことを「臆病」として厳しく告知した覚書。豊臣秀吉が、九州征伐時にも大友氏救援のため自ら出馬した経緯を挙げ、吉統の所領没収と毛利輝元への預け置きを命じる一方、その子には扶持を与えて加藤清正の配下に置く方針を…
後編2-No.1108 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が島津豊久の長期在陣の辛労をねぎらい、帷子を下賜して今後も精勤するよう命じ、仕置について別書を遣わした朱印状。
後編2-No.1109 豊臣秀吉朱印状
泉又太郎が島津豊久の与力に命じられながら、仮病を装って船に留まり、軍役に加わらなかったことを秀吉が「前代未聞」の違反と断じる。 本来は成敗すべきところ命は助け、知行を没収して小西行長に預けるよう命じた、朝鮮在陣中の軍役忌避に対する具体的な処分状。
後編2-No.1110 豊臣秀吉朱印状
朝鮮国内の十八城を九州諸将へ割り当て、各城の担当者と城数を列挙したうえで、築城・土塁構築・守備人数・兵粮蔵・塩・火薬・鉄砲薬などの備蓄を命じる。 城の大小や必要兵力を検分し、翌年の海上防備と在番体制まで整えるよう指示した、講和期の日本軍占領地再編を具体的に示す大規模な朱印状。
後編2-No.1111 豊臣秀吉朱印状
長期在陣の辛労をねぎらい、使者二人を派遣したので、引き続き朝鮮での任務に励むよう島津義弘へ命じる。 現地の「御仕置」に関する詳細は別の書面と熊谷半次・水野久右衛門が伝えるとした、在陣慰労と軍令伝達の朱印状。
後編2-No.1112 石田正澄書状
都への軍勢進入と城内の処置について知らせ、秀吉が現地の配置に不満を抱いているため、熊谷半次・水野久右衛門を改めて派遣したと島津義弘へ伝える。 秀吉の機嫌に異状はなく、義弘の早い帰朝を待っているとも述べた、朝鮮の戦後処理と使者派遣を知らせる書状。
後編2-No.1113 豊臣秀吉朱印状
朝鮮在陣中の奉公人が勝手に日本へ帰れば、発見次第成敗するよう島津義弘へ命じる。 逃亡者を匿ったり処分を妨げたりする者も報告させ、厳罰に処すとした、在陣兵の脱走と庇護を禁じる朱印状。
後編2-No.1114 稲葉重通・浅野長政連署奉書
朝鮮在陣の奉公人が無断で日本へ帰った場合は成敗し、逃亡者を匿う者も報告して厳しく処分するという秀吉の命令を島津義弘へ伝達する。 稲葉重通・浅野長政が連署し、前号の朱印状と同内容を奉書形式で念押しした軍紀維持文書。
後編2-No.1115 豊臣秀吉朱印状
朝鮮在陣の奉公人が勝手に帰国した場合は成敗し、匿う者や処分を妨げる者も報告して厳罰に処すよう島津豊久へ命じる。 No.1113と同趣旨ながら、島津豊久の配下に対して軍紀維持の責任を負わせた宛先違いの朱印状。
後編2-No.1116 豊臣秀吉朱印状
朝鮮在陣者の無断帰国を禁じ、違反者と庇護者を厳罰に処すよう島津豊久へ命じた朱印状。 永吉邸蔵本に伝わる同内容の別写であり、同一軍令が複数系統の史料に残されたことを確認できる。
後編2-No.1117 島津義弘譜
明使沈惟敬を介した講和が進む中、秀吉が朝鮮国王の王子を日本へ渡すこと、明皇女との婚姻、朝鮮諸道の割譲などを要求し、自ら渡海する構想まで示した経緯を記す。 島津義弘は秀吉の渡海を諫めるため、朝鮮の地勢や民情、補給の困難を説明し、諸将とともに渡海軍の人数・城割を具体的に算定した。講和交渉と再出兵準備の双…
後編2-No.1118 豊臣秀吉朱印状
端午の祝儀として帷子五重が届いたことを秀吉が喜び、島津義久へ礼を伝えた朱印状。 詳しい返答は石田三成が申し伝えるとしており、戦時下における秀吉と島津家の季節贈答を示す。
後編2-No.1119 島津竜伯書状
島津竜伯(義久)が宛先不明の人物へ、上洛するとの知らせを聞いて喜び、以前に受けた懇意を忘れていないと伝えた書状。 近隣へ来訪してほしいと待ち望み、自身からも訪ね、詳しくは面会時に話したいと述べる。義久が中央の人物との私的な交誼を保とうとする姿勢がうかがえる。
後編2-No.1120 島津竜伯書状
国元からの報告が途絶えていることを案じ、拝領した御朱印・条書が届いていないため、所在を探して早急に送るよう命じる。鹿児島の普請が中止されず続いていることを問題視し、関係者を処罰して工事を止めるよう求める。 さらに三奉行・明使の帰朝に伴う船の手配、在陣者の帰国、兵粮と人員配置にも触れた、島津義久から国…
後編2-No.1121 浅野長吉長政・山中長俊連署奉書
帰朝した二人の使者から現地事情を聞き、蔵米と兵粮帳簿を照合するよう島津義弘へ命じる。古米を新米にすり替えたり、員数を偽ったりした場合は御朱印に基づき処分するよう求める。 兵粮の横領・不足を防ぎ、国元の番折や軍需品管理まで厳格に行わせる、朝鮮在陣地の兵站監査を指示した連署奉書。
後編2-No.1122 豊臣秀吉朱印状
美濃部四郎三郎・山城小才次の帰朝報告を受け、島津義弘の在番・普請の働きをねぎらう。家中で番替を行い、知行支配と兵粮確保に注意し、現地の蔵米には勝手に手を付けないよう命じる。 古米は傷まないよう新米と入れ替え、員数を正確に保つことまで指示した、城番交代と兵粮管理の朱印状。
後編2-No.1123 豊臣秀吉朱印状
帰朝使者から在陣地の様子を聞いた秀吉が、島津豊久に家中の番替、知行支配、兵粮の継続確保を命じる。 御蔵米を勝手に消費せず、古米は入れ替えながら帳簿上の員数を守るよう求めた、No.1122と同趣旨の宛先違いの朱印状。
後編2-No.1124 島津忠恒寄進状
島津忠恒(又八郎)が、名称を確認できない三種の品を、父・島津義弘と兄・久保の祈念のため白鳥山御宝前へ奉納した寄進状。 文禄の役で朝鮮に在陣していた父兄の無事を願うもので、島津家の家族関係と白鳥山信仰を具体的に示す。
後編2-No.1125 島津家久自筆状
「一段と異なる切れ」で尺八の袋を縫ってほしいと頼み、見本または本体として尺八を使者に持たせたと伝える。 戦陣・政治文書が続く中で、楽器袋の仕立てを具体的に依頼した家久の私的な一通で、日常的な趣味と調度への関心がうかがえる。
後編2-No.1126 豊臣秀吉朱印状
「もくそ城」を包囲する諸将と兵数を部隊ごとに列挙し、合計人数を算定したうえで、包囲線の各持場を割り当てる。 城を取り巻く策、築山・つなぎの城の構築、兵粮船の配置、手負人を出さない攻め方まで命じた、攻城軍の編成と工事分担を詳細に示す朱印状。
後編2-No.1127 豊臣秀吉朱印状
釜山浦・加徳島・東莱・竹島などに蓄えた城米が古米にならないよう、各隊の手前兵粮と入れ替え、元の員数を正確に積み置くよう命じる。 福島正則・毛利高政を奉行として派遣し、各軍の人数に応じて城米を割り振り直させた、朝鮮在陣地の大規模な備蓄更新を指示する朱印状。
後編2-No.1128 浅野長吉・山中長俊連署奉書
秀吉が城米の積替えについて改めて朱印状を出し、福島正則・毛利高政を奉行として派遣したことを島津義弘へ通知する。 古米を手前兵粮と交換し、兵数に応じた割符で御蔵米を再配置するよう求めた、No.1127の命令を具体的に伝達する連署奉書。
後編2-No.1129 細川幽斎・石田三成連署覚書
物書衆二十人と各郡の案内者一人ずつを差し出し、薩摩・大隅の指出、田畠と作人、浦浜の土地を書き上げるよう求める。 出水の指出は使者を通じて命じ、「もくそかた郡」の帳簿を京都の伊藤へ渡すことも指示した、太閤検地に向けた人員・土地台帳提出の覚書。
後編2-No.1130 水野重次・熊谷半次連署状
秀吉から拝領した帷子二つと御朱印一通を送り、受領後に請状を返すよう求める。 あわせて朝鮮在陣地の「御仕置」に関する朱印状と、処罰条項を記した三人連署の朱印状も同封した、複数の重要文書と拝領品の送達を知らせる連署状。
後編2-No.1131 島津義弘書状案
泉又太郎が軍役を果たさなかったため、本来は成敗すべきところ命を助け、知行を没収して小西行長に預けるという秀吉の朱印状を受け取ったと報告する。 島津義弘が処分命令を謹んで承知し、秀吉へ謝意を伝えてほしいと両使へ依頼した返書案。
後編2-No.1132 島津義久袖加判領知目録
薩摩国大口内の「かつけの門」ほか多数の田畠を、地名・旧給人・面積ごとに列挙し、合計四町九反余を濱田民部左衛門尉へ与えた領知目録。 島津義久が袖判を加え、長寿院盛淳・町田久倍・鎌田政近が連署しており、大口地域の土地配分と給付規模を具体的に確認できる。
後編2-No.1133 長寿院盛淳外二名連署領知目録
薩摩国内の諸所に散在する田畠・屋敷を、地名、旧給人、面積ごとに列挙して長谷場越前守へ与えた領知目録。 中原・岩崎・畠田・柳原・長野田・横手屋敷など多数の土地をまとめ、長寿院盛淳・町田久倍・鎌田政近が連署して給付内容を確定している。
後編2-No.1134 飯野穀役盛
飯野郷に属する各家・給人について、負担する穀物の石高・斗升、門や屋敷の数を一人ずつ列挙した穀役台帳。 迫間・柏原・中条・松田・山田など多数の村・屋敷単位で負担量を記し、文禄期の飯野における村落構成、年貢・軍粮調達、家ごとの負担差を具体的に検討できる基礎史料。
後編2-No.1135 殉国名藪
六月に山下周防が主君に従って死に、坂元伴助・福永八・藤井右馬丞・川野太兵衛ら六人も殉死したことを記す。 その一人である久木崎佐弥太は朝鮮で戦死したとの注記もあり、島津家臣団における殉死者と朝鮮出兵の人的損失を伝える記事。
後編2-No.1136 島津義弘譜
加藤清正に捕らえられた朝鮮王子の臨海君・順和君と随行者が、厚遇への謝意を述べつつ帰国を願い出た書状を引き、釈放交渉の経緯を記す。 沈惟敬や三奉行が秀吉の意向を受け、王子返還を講和条件の一部として処理したといい、捕虜となった王族の待遇と文禄の講和外交を伝える重要な家譜記事。
後編2-No.1137 入来院重時屋敷宛行状
上原にある屋敷一か所を入来院重時方へ宛てた、きわめて短い屋敷宛行状。 本文量は少ないが、所在地と給付対象を確認できる入来院家の所領文書。
後編2-No.1138 島津義弘書状
大坂の多鍋屋から入手した栗毛馬を知行所に置いているため、旅庵と相談して朝鮮へ送り下すよう忠恒に依頼する。 前年に送られた鉄砲五丁への礼、使者の渡海と船の手配、国内の用務にも触れており、義弘が戦地から馬・武器・交通を細かく差配した書状。
後編2-No.1139 島津義弘書状
音信として義弘に金子二両、又一郎に一両、計三両が届いたことへ礼を述べる。 公役のたびに受けている格別の尽力に感謝し、門中の者へも一人ずつ謝意を伝えてほしいと長善寺へ頼んだ、寺院との贈答・奉仕関係を示す書状。
後編2-No.1140 島津彰久譜
秀吉の朝鮮渡海命令を受けながら病床にあった島津彰久が、文禄二年五月十一日に渡海し、六月十一日に釜山へ入津、十四日に「コチャハン」、七月三日に「キンムイ」へ在陣した経路を記す。 町田伝右衛門が供奉しており、彰久の病後の出陣時期と朝鮮での移動を日付入りで確認できる家譜記事。
後編2-No.1141 島津彰久書状
六月十一日に釜山へ無事入津し、十四日に「ちゃはん」へ着いたこと、当初の軍務が順調であることを家族らへ知らせる。 戦地では手火矢の音が聞こえる状況や、石田三成らへの対応、自身の健康・今後の滞陣にも触れており、若い彰久の朝鮮到着直後の実感を伝える仮名書状。
後編2-No.1142 宇喜多秀家書状
「もくそ」の成敗に諸将が出動する中、島津義弘が現在地の番を守る意向であることに理解を示しつつ、他の諸将と同様に奉行衆の指示へ従うのがよいと助言する。 宇喜多秀家自身も二、三日中に赴き、軍務を直接相談すると伝えた、攻城参加と留守番配置を調整する書状。
後編2-No.1143 豊臣秀吉朱印状
豊後国が秀吉の蔵入地となった直後、百姓が逃散していることを重大な違反とし、直ちに元の村へ還住させるよう命じる。 帰村しない百姓だけでなく、逃散者を匿う村や領主も処罰するとして、分領内へ厳しく触れさせた、改易後の豊後支配と農民統制を示す朱印状。
後編2-No.1144 島津久保書状
しばらく音信がないことを寂しく思い、当初は近く帰れると考えていたが、翌年の春まで滞陣するよう命じられたと伝える。 自分の無事と相手の安否を気遣う言葉が中心で、若い久保が朝鮮在陣の長期化を家族へ知らせた私的な仮名書状。
後編2-No.1145 島津義弘書状
久四郎が上洛するとの知らせを受け、旅支度や随行者、京・大坂での手配がどのように進んでいるかを妻の宰相殿へ尋ねる。 朝鮮では「もくそ」攻め後の城番や兵の配置に追われ、自身も日本へ戻れない状況を伝えつつ、金銭・家中の用務・家族の安否を細かく気遣った義弘の私信。
後編2-No.1146 島津義弘書状
朝鮮へ渡海して各地の城番を務める島津勢の配置や、久四郎をめぐる処置について報告し、帰国・上洛後の扱いを相談する。 鉄砲・刀・脇差などの武具の配分、酒宴や家中の振る舞いにも触れ、在陣中の軍務と親族・家中への細かな指示が入り交じる義弘書状。
後編2-No.1147 島津義弘譜
文禄二年六月の晋州城再攻撃を記し、加藤清正・小西行長・毛利秀元ら諸将の布陣、城中への突入、敵兵の大量死と落城までを詳述する。 島津義弘の軍勢も攻撃に加わり、明・朝鮮側の抵抗を破った「奇捷」と評価された晋州城攻略の経過を伝える軍記的な譜記事。
後編2-No.1148 島津豊久譜
文禄二年六月、諸将が大軍で晋州城を攻めた際、島津豊久も城内へ突入したことを記す。 横目の片桐主膳正・藤懸三河守が戦況を記録し、味方の戦死者も出たという、豊久隊の晋州城攻撃参加を示す譜記事。
後編2-No.1149 雑抄
豊後国を秀吉の蔵入地とした後に百姓が逃散したため、速やかな帰村を命じ、逃散者を匿う在所も処罰するとした朱印状の要旨を記す。 薩摩・大隅・日向の島津義久留守居中へ宛てたことまで明記され、No.1143の朱印状を別記録から照合できる記事。
後編2-No.1150 征韓偉略
沈惟敬が晋州城へ書状を送り、釜山方面から毛利秀元・黒田長政・浅野長政・島津義弘ら日本軍諸将が集結した状況を記す。 晋州城を包囲する大軍の将名と配置を列挙しており、講和交渉のさなかに進んだ第二次晋州城攻撃の規模を示す記事。
後編2-No.1151 島津竜伯書状
島津竜伯が長寿院・町田出羽守・鎌田出雲守へ、鹿児島留守番のうち、奥の管理は納戸衆を中心とし、外城番衆への用件も納戸衆から申し付けるよう指示する。 田代入道は老齢のため夜番から外し、奥向きの女性一人だけに番を負わせないよう求める。川上日向が表方へ出た際は代役二人を選び、備後入道と相談して外城番衆の交替…
後編2-No.1152 征韓偉略
文禄二年七月、晋州城陥落と講和の動きを受け、豊臣秀吉が諸将を朝鮮沿海の諸城へ配置して休兵を命じる。宇喜多秀家・毛利秀元らを帰国させ、小西行長を金海、加藤清正を梁山、鍋島直茂を竹島、黒田長政を機張に置き、島津義弘父子も在陣した。 一方、明軍は劉綎の指揮下で大丘に集結し、月餉五万両、累計軍費百余万に達し…
後編2-No.1153 豊臣秀吉朱印状
『島津氏文書』所収の朱印状を掲げる項目だが、「本書二七五号文書と同文につき省略」とされ、本文は収録されていない。 この頁だけでは命令の具体的内容や宛先を確定できないため、原資料のNo.275との照合が必要。
後編2-No.1154 豊臣秀吉朱印状
永吉郷に関する秀吉朱印状の項目だが、「本書一三四六号文書と同文につき省略」とされ、本文は掲載されていない。 命令内容と正式な宛先はNo.1346を参照しなければ確定できない。
後編2-No.1155 豊臣秀吉朱印状
『島津氏文書』所収の秀吉朱印状について、「本文書は本書一二六五号文書と同文につき省略」とのみ記す。 本文固有の用件・宛先はこの頁から読めないため、No.1265との照合を要する。
後編2-No.1156 諏訪大明神々事之入目
諏訪大明神の神事費用を、元日祭礼、三月三日・七月七日・九月九日の神楽、春秋彼岸、月々の神楽、御明油に分けて計上する。 座主・香花役・鐘突・掃除役・代官など社役の人数と、仏供・明油・先師供に充てる寺役分も記した、神社運営の具体的な収支・役務一覧。
後編2-No.1157 島津久保書状
『新納氏文書』所収の島津久保書状だが、「本書一二六九号文書と同文につき省略」とされ、本文は掲載されていない。 宛先や固有の用件はNo.1269との照合が必要であり、この項目だけからは確定できない。
後編2-No.1158 宇喜多秀家書状
晋州城落城の知らせを喜び、島津義弘から早々に使者が届いたことへ礼を述べる。 今後の仕置を協議するため昌原まで進んだと伝え、石田三成・大谷吉継・増田長盛も到着する見込みなので、詳しい状況は改めて知らせるとした書状。
後編2-No.1159 島津義弘譜
晋州城陥落に衝撃を受けた明軍が、李如松を中心に善山・大邱・南原・開城などへ諸将を配置し、日本軍への反撃と講和交渉を進めた経過を記す。 明軍の再進出と撤退・和議の動きを連続的に示し、晋州城攻略後の朝鮮戦線を中国側の将名とともに追える譜記事。
後編2-No.1160 小西行長書状
城米をめぐって「枡」の出入りが問題になっているとの義弘の問い合わせに対し、当地での受け取り方は使者へ説明したので書中では省くと返答する。 兵糧米の計量・受領実務を使者の口頭説明に委ねた、朝鮮在陣中の補給調整を示す短い書状。
後編2-No.1161 羽柴美作守書状
義弘から「もくそ城」落城の注進が届き、秀吉が大いに感賞したと伝える。 自身の渡海も急に命じられたが心配は不要とし、毛利壱岐守との協力を評価しながら、今後も当地の用務を遠慮なく申し付けてほしいと応じた書状。
後編2-No.1162 豊臣秀吉朱印状
城の普請が堅固に完成したとの報告を受け、以前命じた兵糧を各地から取り寄せ、念を入れて蔵へ詰め置くよう命じる。 あわせて秀吉自身の病気は快復したので心配無用と知らせた、築城・兵糧備蓄と将軍の健康報告を併せた朱印状。
後編2-No.1163 太田久右衛門尉書状
島津義弘が明・朝鮮側との応接や使者の接待に尽力したことを石田三成へ報告し、陣替え候補として金海から三里の唐島を知らせる。 大谷吉継・石田三成・小西行長が「唐人」に伴われ釜山海へ向かったことも伝え、講和交渉期の奉行衆と島津勢の動きを具体的に示す書状。
後編2-No.1164 生駒近規書状
生駒近規が守っていた陣所を島津義弘側へ引き渡したことを確認し、城の普請や小屋を、次の在番者が困らない状態で渡したと報告する。 義弘の礼状と四奉行の折紙を受け取ったことにも謝意を示す、朝鮮の城・陣所交替の実務を伝える書状。
後編2-No.1165 豊臣秀吉朱印状
唐島の城に置く二千人規模の兵と、侍従・小姓・武具・飯米などの内訳を列挙し、合計二千三百石の兵糧を蔵へ積むよう命じる。 帰朝まで十か月分として保管し、余剰が出ても勝手に使用せず城内へ残すよう厳命した、在番兵力と補給計画を具体的に示す朱印状。
後編2-No.1166 島津義弘書状
朝鮮から名護屋へ来た岐阜中納言秀信が、浅野幸長の屋敷に入り秀吉へ拝謁した経過を記す。 秀吉は秀信を厚く接待し、浅野幸長の渡海との関係にも触れたうえで、秀信が岐阜へ帰るまでを伝える譜記事。
後編2-No.1167 島津義弘書状
帰国・上洛や船旅の手配、京都での滞在先について又八郎へ細かく指示し、長陣で疲れた身体を気遣う。 妻への土産、枕や小袖など身の回りの品、家臣の処遇にも触れ、朝鮮在陣中の義弘が嫡子の旅程と家庭生活まで心配した私信。
後編2-No.1168 島津義弘書状
又八郎の気分が回復し、上洛するとの知らせを「千秋万歳」と喜び、京都から詳しい便りを寄せるよう求める。 長陣の地へ来るかどうか、供の人数や滞在場所、旅の安全を案じ、息子の進退を具体的に相談する義弘の家族書状。
後編2-No.1169 島津久保書状
久保に仕える者の知行が不当に上地されたとして、直ちに返付するよう新納忠元へ命じる。 前年以来に放棄・没収された所領と二年分の年貢を回収し、諸県郡で抵抗する者がいれば処罰せよと、利安を派遣して領地整理を徹底させた書状。
後編2-No.1170 豊臣秀吉朱印状
朝鮮の城へ送った武具・兵糧・塩噌などを帳面どおり蔵へ収め、現地で炭を大量に焼いて城内へ備蓄するよう命じる。 冬の寒さに備えて炬燵を用意し、帰国できない水夫には薪・小屋を与えるなど、越冬時の燃料・住居・健康管理まで具体的に定めた朱印状。
後編2-No.1171 豊臣秀吉朱印状
熊谷半次・垣見弥五郎を帰朝させるにあたり、各城の絵図・城主の受取札・在番割を確認し、帳面に基づいて交替を処理するよう命じる。 金山浦などの兵糧、船・武具の残置と引継ぎも定め、朝鮮沿岸の城郭・兵站を記録によって管理した朱印状。
後編2-No.1172 豊臣秀吉朱印状
城の本丸には、同国人であっても他家の者を一切入れず、客の応接は二の丸に広間と台所を設けて行うよう命じる。 昼夜油断なく警戒せよとした、朝鮮在陣中の城内立入りと機密保持を厳しく定める朱印状。
後編2-No.1173 島津忠恒家久書状
父・島津義弘の書状を読み、無事と各地の静謐を喜んだうえで、以前から伝えているとおり是非とも渡海するよう催促する。 渡海の支度を待っていること、自分たちも無事であることを伝えた、忠恒が在国側の関係者へ送った短い書状。
後編2-No.1174 樺山規久譜
樺山規久が義弘に従って朝鮮へ渡り、京畿を経て金化と称する地へ移陣し、弟の久高と同宿して越年した経過を記す。 元日、兄弟が立春・雪・旅衣を題に詠んだ和歌三首を収め、朝鮮陣中で迎えた新年の心情が伝わる譜記事。
後編2-No.1175 安宅秀安書状
大隅・諸県の知行や、逃亡・没収地を義弘父子の蔵納地とする処置について、細川幽斎や奉行衆との協議経過を詳しく報告する。 所領配分を性急に決めず、石田三成らと談合して不公平を避け、京都での折衝にも備えるよう勧めた、島津領国再編をめぐる長文書状。
後編2-No.1176 島津義弘譜
秀吉が宇喜多秀家・毛利秀元らへ命じた朝鮮諸城の越冬準備を記し、兵器・兵糧・塩噌の蔵入れと炭・薪の確保を具体的に挙げる。 深雪や寒気に備えた小屋・炬燵、水夫の収容、諸城への物資配置まで定めた命令の内容を、義弘譜が要約した記事。
後編2-No.1177 安宅秀安書状
細川幽斎による銀子徴収、朝鮮へ出陣しない者や逃亡者への新知給与、没収地の処理を「一段不可然」と厳しく批判する。 義弘父子の蔵納地を守るため、石田三成を頼って京都へ使者を送り新たな朱印を得るよう勧め、書状は父子で読んだ後に焼却せよと求めた秘密書状。
後編2-No.1178 大谷吉継・石田三成連署状
名護屋から秀吉朱印が届いたので内容を確認した後に返送し、兵糧米や諸道具を受け取る奉行人を急いで釜山浦へ派遣するよう命じる。 大谷吉継・石田三成が島津義弘・豊久ら四将へ連署で伝えた、朱印の回覧と補給物資受領の実務指示。
後編2-No.1179 石田三成覚書
島津勢の扶持米を蔵米で賄い後日精算すること、番船の火矢を避けて小屋や船を陸へ上げること、蔵を増設することを指示する。 家中船による刈田・乱妨を禁じ、船の帰国・再招集、普請人員や大豆の扱いまで列挙した、朝鮮在陣の兵站・軍紀に関する石田三成の覚書。
後編2-No.1180 石田三成事書
島津久保(又一郎)の死去を受け、弔いを理由とする帰国を厳禁し、義弘の許可を得た百人以外は渡海してはならないと定める。 久保の陣所を老臣・有力者に守らせ、普請・城米・後続船の兵糧収納を急がせ、下人を含む無断帰国を処罰するとした軍中統制の事書。
後編2-No.1181 島津義弘書状
諸県郡の逃亡・没収地を久保の蔵入地とする処置は、久保が死去しても変更せず、従来どおり収納するよう命じる。 給人や鎌田杢助が替地を理由に収納を拒む場合は、その旨の墨付を取って証拠を残すよう指示した、久保没後の所領管理に関する義弘書状。
後編2-No.1182 豊臣秀吉朱印状
島津豊久から鹿皮三十枚が届いたことを喜び、遠路からの厚意と長期在番の苦労をねぎらう。 近く帰朝を命じる予定なので、それまでは引き続き在城に励むよう求め、詳細は長束大蔵大輔正家から伝えるとした朱印状。
後編2-No.1183 征韓偉略
朝鮮渡海を望む徳川家康に対し、浅野長政が、海を渡る兵の疲弊と国内での一揆・混乱を招く危険を挙げて強く諫めた逸話を記す。 秀吉は激怒するが、前田利家らの取りなしを経て議論が収まり、朝鮮出兵をめぐる政権内部の意見対立を伝える記事。
後編2-No.1184 町田忠綱譜
町田久倍の子・忠綱が文禄二年春に朝鮮へ出陣し、旧都で島津義弘・久保に拝謁した後、両公に従って巨済島の唐島へ移った経過を記す。 忠綱は唐島の陣中で病死し、享年二十九歳だったという、若い家臣の朝鮮在陣と最期を伝える譜記事。
後編2-No.1185 新納旅庵長住書状
伊東平右衛門尉が栗野へ帰着し、朝鮮在陣中の島津義弘以下が無事であると報告したことを伝え、長期在陣からの帰朝に備える。 栗野周辺の知行・蔵入地・年貢収納、寺社領、武庫の武具、家臣や代官の勤務を一件ずつ検討し、不正な取立てや無断処置を避けるよう両名へ求めた、留守居支配の実務を詳述する長文書状。
後編2-No.1186 島津義弘書状案
島津義弘書状の案文を掲げる項目だが、「本文書は本書一二九一号文書と同文につき省略」とされ、本文は掲載されていない。 具体的な宛先と用件はNo.1291との照合が必要。
後編2-No.1187 豊臣秀吉朱印状
見舞いの使者を派遣したことを伝え、朝鮮の現地が引き続き静謐かどうかを尋ねる。 義弘が長年にわたり在番して気力を尽くしていることを察し、今後も状況を報告するよう求めた秀吉朱印状。
後編2-No.1188 豊臣秀吉朱印状
見舞いの使者を派遣し、朝鮮の現地が静穏であるかを島津豊久へ尋ねる。 長年の在番による苦労をねぎらい、さらに状況を知らせるよう求めた、義弘宛のNo.1187と対になる秀吉朱印状。
後編2-No.1189 安宅秀安書状
細川幽斎が主家へ十分な届け出をせず知行や家中の処置を進めているとして、その専断と側近の動きを安宅秀安が厳しく批判する。 石田三成への相談も含め、義弘父子が今後の対応を慎重に決めるよう求め、内容を他言せず読み終えた書状は焼却するよう念を押した秘密書状。
後編2-No.1190 安宅秀安書状
秀吉朱印を確認した安宅秀安が、細川幽斎の仕置は朱印の趣旨に背き、知行や役職を側近へ恣意的に配分していると批判する。 義弘父子が主導権を取り戻すための対応を助言し、内容は幽斎側へ漏らさず、家中でも厳重に秘すよう求めた書状。
後編2-No.1191 島津義弘書状案
薩摩・大隅の没収地を義久・義弘の蔵入地とする秀吉朱印に反し、細川幽斎が代官や在国者へ新知を重複して与え、合計一万一千余を配分したと訴える。 その配分が秀吉の意思でないなら、残る没収地を又一郎久保の蔵入地とする新たな朱印を得たいとして、長束正家に披露を頼む義弘書状案。
後編2-No.1192 島津義弘譜
明との講和報告が定まらないため、秀吉が援軍を送り朝鮮を平定すると威嚇した経過を記す。 沈惟敬の往復と贈答、明軍の撤退、朝鮮側の処罰や諸将の動きを挙げ、文禄の役の講和交渉が虚報と猜疑の中で揺れた状況を伝える譜記事。
後編2-No.1193 寺沢正成広高書状
島津義弘の船四十七艘へ、米五千七百五石と、水夫六百十八人の三十日分飯米百九十七石四斗を積み渡したと報告する。 合計五千九百二石四斗を確実に受領し、受取状を返すよう求めた、朝鮮渡海船団への大規模な兵糧引渡し書状。
後編2-No.1194 島津久保譜
島津久保が文禄二年九月八日、朝鮮の巨済島・唐島で病により死去したことを記す。 享年二十一歳で、法名・葬送・遺髪の扱いにも触れ、島津家の後継者を朝鮮陣中で失った経過を伝える重要な譜記事。
後編2-No.1195 島津義弘書状
兄・久保が九月八日夜半に急死したことを又八郎忠恒へ知らせ、壱岐・対馬まで来ている場合でも、無理に朝鮮へ渡らず在国へ戻るよう諭す。 久保見舞いという渡海の目的が失われた以上、留守宅の宰相殿ら家族を支えることが大切だとして、海路の危険と忠恒の身を案じた義弘の私信。
後編2-No.1196 島津家久譜
兄・久保の死を知った忠恒が号泣し、日々悲嘆を深めたことを記す。 その後、石田三成が吉岡蔵人を遣わして上洛を促したため、忠恒は十一月に栗野を発ち、日向赤江浦から乗船したが、冬の北風に妨げられ諸所の海岸で日を送った。
後編2-No.1197 新納旅庵譜
久保死去後、石田三成の使者・吉岡蔵人が忠恒の上洛を促すと、竜伯は新納旅庵を京都へ派遣し、三成・細川幽斎へ家督問題を取り次がせた。 秀吉から忠恒の家督相続が認められるまでの交渉と、忠恒の名護屋・朝鮮方面への旅、旅庵がこれに随行して島津家の継承を支えた経過を詳しく記す。
後編2-No.1198 樺山久高譜
樺山久高が、唐島で病死した島津久保の遺骸を薩摩へ送るため、平田太郎左衛門尉とともに剃髪して遺骸に付き添った経過を記す。 福昌寺で葬送を終えた後、久高は翌年冬に再び朝鮮へ渡り、船中で越年して高麗岸へ着き軍務に復帰した。