ARCHIVE DIRECTORY
後編2の目録
旧記雑録 天正13年~文禄4年の文書・記事です。
全1,646件中 1501~1600件・16 / 17ページ
後編2-No.1498 島津竜伯覚書
境目の小城、狩皮の礼、馬・道具、徳川家康との関係、帰朝後の対応、又八郎への音信など、当面確認すべき事項を箇条書きにした島津義久自筆の覚書。 「さいしょう殿」、人物評定、蔵米の未着、国元の遅延、唐船、天子の病にも触れる。家中・外交・兵站・贈答を横断する、義久の関心事項が分かる実務メモ。
後編2-No.1499 島津忠清書状
島津忠清が二月十日付の書状を受け取り、島津家の両殿が健勝であることを喜んだ返書。忠清側も無事で、国元から多数が上洛して異変がないと伝える。 詳細は鹿右衛門から申し上げるとしており、家族・主君の健康と国元・上方間の人の移動を確認する短い近況報告である。
後編2-No.1500 島津家久譜
薩摩・大隅・日向諸県の島津領で前年から進められた検地・境界確定が終わり、豊臣秀吉が朝鮮在陣中の義弘を朱印状で召還した経緯を記す。 義弘の帰朝中、忠恒(家久)は朝鮮の陣営を堅固に守り、在番の務めを怠らなかったという。領国再編と軍務代行を結ぶ記事。
後編2-No.1501 石田三成書状
石田三成が、島津領の検地完了と、龍伯からの言上に秀吉が機嫌よく応じたことを伝える。領国仕置について義弘を呼び寄せて相談するため、義弘へ帰朝を命じる朱印状が出たという。 義弘の留守中は又八郎に朝鮮の番を堅固に守らせ、龍伯・義弘の相談で次の年貢徴収前に知行配分を行うよう勧める。検地後の政務日程と軍務引継…
後編2-No.1502 近衛竜山書状
近衛前久が、義弘に帰朝命令が出たと聞いて大いに喜び、積もる話は対面して述べたいと伝えた書状。 久四郎も帰国を喜ぶだろうとして安心させ、詳細は友枕斎から伝えるという。長期の朝鮮在陣から戻る義弘を、近衛家側が私的に待ち望んだことが分かる。
後編2-No.1503 豊臣秀吉朱印状
秀吉は、小西行長の任地に到着した島津義弘の在番の辛労をねぎらい、普請・番役を怠りなく申し付けるよう命じる。 大明からの返答を踏まえ翌年の軍勢派遣を予定し、詳細は山中長俊から伝えるとした、朝鮮在陣の継続方針を示す朱印状。
後編2-No.1504 島津義弘譜
昌原で捕らえた二頭の虎について、肉と腸を塩漬けにして数樽に詰め、平田五次右衛門尉に託して秀吉へ献上した経緯を記す。 秀吉はこれを喜び、四月二十八日の朱印状で「虎肉はもう十分なので、再び虎狩りをしないように」と命じた。
後編2-No.1505 島津家久譜
島津家久の譜として、慶尚道昌原で捕獲した虎の肉を日本へ送り、秀吉に献上した出来事を記す。 四月二十八日に秀吉から台書を賜り、献上を喜ぶ一方で今後は虎狩りをやめるよう命じられたことを伝える。
後編2-No.1506 豊臣秀吉朱印状
秀吉は、献上された虎の肉と腸を受け取って喜んだことを知らせ、今後は狩猟を一切行わないよう島津義弘に命じる。 朝鮮在陣中の珍しい献上品と、秀吉が現地での虎狩りを制止した事情が分かる朱印状で、詳細は石田三成が伝えるとする。
後編2-No.1507 島津義弘譜
久四郎忠清が暇を与えられ、五月十日に国元へ下着したことを記す短い譜記事。
後編2-No.1508 島津義弘譜
文禄四年五月十日に朝鮮国巨済を出航し、六月五日に薩摩国大坂へ到着したことを記す。 島津勢の朝鮮からの帰航日程を、出帆地と到着地の双方から確かめられる短い行程記事。
後編2-No.1509 伊集院幸侃書状
本文は「第二三〇七号文書と同一」として転記を省略しており、この箇所だけでは宛先や具体的用件を確認できない。 同一文書との照合が必要なため、内容を推測せず参照関係のみを記録する。
後編2-No.1510 昭高院如雪書状
如雪は、二月二十一日付の書状と贈物を受け取った礼を述べ、長期在番の労苦をねぎらう。 番船を出して敵人数を討ち取り即時に退かせた戦功を喜び、祈念を怠らないこと、近日の便で改めて詳報することを伝える。
後編2-No.1511 寺沢正成書状
寺沢正成は、諸城に置く兵粮・武具について出された秀吉の朱印状を持参し、家久が受領したことを確認する。 あわせて、家久の使者から口上で託された内容を承知し、こちらからも口上で返答したと知らせる。
後編2-No.1512 寺沢正成書状
標題と所収情報のみが掲げられ、この箇所には書状本文が収録されていない。 宛先・用件は確定できないため、同じ箱・家久公御譜中の関連史料との照合を要する。
後編2-No.1513 島津義弘起請文
島津義弘が子の又八郎(忠恒)へ、家職相続が思うように進まない状況でも私情を捨て、国家安泰を第一として意見を述べ、別心を抱かないと誓った起請文。 和議を理由に忠恒を敵として久四郎を重用するとの風聞を否定し、親子間に讒言や不審が生じたときは互いに直接確かめ、遺恨を残さないよう求める。島津家の継承をめぐる…
後編2-No.1514 健軍猪右衛門尉請取状
健軍猪右衛門尉が、本田家に伝わる請取申文・日記・目録・書状袋などの文書群と、銀子、鉄製品、酒肴、進上物等を受け取ったことを列挙する。 家蔵文書と諸道具の引き渡し内容を具体的に示す請取状で、当時の家財管理を知る手掛かりとなる。
後編2-No.1515 町田存松書状
町田存松は、川上善左衛門尉を介して受けた厚意に礼を述べ、武庫様の帰朝に関する朱印が届いたため帰国を待ち望んでいると伝える。 一同帰帆との風聞から若殿も同時に戻ると期待し、京都での仕合も順調なので安心するよう知らせる。
後編2-No.1516 島津竜伯書状
竜伯は、相手方で和睦が整い一同帰国するとの情報を喜び、帰朝に多数の船が必要になると見越して先に船を送ったと知らせる。 現地で必要となる物資・手配は平田藤左兵衛尉に言い含めたとして、帰航準備の実務を家久へ伝える。
後編2-No.1517 新納旅庵長住譜
秀吉の召しに応じて義弘が朝鮮から上洛することとなり、その旨が北原勘右衛門尉を通じ栗野へ伝えられたため、新納旅庵も五月十七日に名護屋へ向かった。 旅庵は川上久右衛門尉の助けで船を得て義弘に従い、八月の帰国まで同行した経過を記す。
後編2-No.1518 樺山忠征譜
「樺山太郎三郎忠征規久譜中」と所収先のみが示され、この頁には対応する本文が見当たらない。 具体的な出来事・年代を補える材料がないため、別巻・関連譜の照合が必要である。
後編2-No.1519 島津義弘書状
義弘は、川上四郎兵衛尉と伊勢弥九郎に特に念を入れて奉公させるよう家久へ指示し、本田助丞らの乗船・船の所在について知らせる。 悪天候で渡海が遅れているが順風を待って出航すると述べ、在番を油断しないこと、伊勢弥八から京都・国元の様子を聞くことも伝える。
後編2-No.1520 島津竜伯書状
竜伯は、朝鮮京跡を描いた墨絵図を受け取り、皆で閲覧したいので書き込みをせず、別に写しを作るよう家久へ求める。 さらに、仁比丘で召し仕えられていた人物から得た歌書も差し越すよう頼んでおり、戦地からもたらされた絵図・書籍への関心がうかがえる。
後編2-No.1521 小谷光秋書状
小谷光秋は、相手の帰朝が決まり無事に出船したことを喜び、豊前守が在陣しているため又八様へも詳しく意向を伝えたので安心するよう知らせる。 贈られた二百疋への厚礼を述べ、細部は使者へ口上で託した、帰航直前の連絡と贈答を示す書状。
後編2-No.1522 伊勢貞成書状
伊勢貞成が、前年正月に在所を出て渡海を企てたものの船が整わず、三月初めまで待機したこと、帰国した使者の指示や木付の京衆への対応で一度引き返し、再出航後も無風・降雨・潮や寄港地の違いに悩まされた経過を詳しく報告する。 後半では、長陣中の弟弥九へ人物を派遣したこと、蔵人殿・長寿・大坊主らの関係や検地時の…
後編2-No.1523 島津忠清書状
忠清は、義弘が帰朝して直ちに上洛したと聞いて喜び、長い旅と渡海の苦労をねぎらう。 自身も暇を得て五月十日に国元へ戻り、前年以来の体調不良を竜伯の薬と養生でかなり回復したと報告し、詳細を使者に託す。
後編2-No.1524 島津忠清書状
忠清は、帰国して上洛した一行の労苦をねぎらい、島津忠恒がなお在番しているため気遣われると伝える。 漢国と日本の和睦をめぐる使節が目前に来ているとの風聞に触れ、自身の病状は竜伯の薬と養生で快方に向かったと報告する。
後編2-No.1525 石田三成書状
石田三成は、家久の帰朝を公私の大慶として祝い、小西行長・寺沢正成と同様に今後も隔意なく相談するよう求める。 自分にできる用事は遠慮なく申し付けるよう述べ、朝鮮在陣からの帰還後も政権中枢との連絡を保つ姿勢を示す。
後編2-No.1526 豊臣秀吉朱印状
秀吉は、大明の勅使が渡海した場合には現地へ人数を残して帰朝するよう命じつつ、まずは次の指示が届くまで城に留まるよう家久へ命じる。 講和使節の到来を見据えながらも、朝鮮の持城を直ちに空けないという在陣方針を示す朱印状。
後編2-No.1527 石田三成副状
石田三成は、秀吉の朱印状に従って行動し、たとえ既に途中まで出船していても引き返すよう家久へ念を押す。 大明使節と帰朝命令が錯綜するなか、次の指示まで在城させる朱印状の実行を補足した副状。
後編2-No.1528 豊臣秀吉朱印状
秀吉は、長期の在陣を労い、この機会にも格別の働きを尽くすことが肝要だと家久へ命じる。 あわせて道服と帷子を下賜し、詳細は石田三成・増田長盛・大谷吉継から伝えるとした、慰労と軍役督励を兼ねる朱印状。
後編2-No.1529 豊臣秀吉朱印知行方目録
会津・出羽をはじめ諸地域の石高、人員、蔵入地、新知などを細かく列挙し、合計や配分方法を示した知行方目録。 検地前後の蔵入や十八万石・五万石の扱い、京都・伏見・大坂の留守居等への給付にも触れ、豊臣政権の領地配分を数量で追える重要史料。
後編2-No.1530 島津義弘書状
義弘は、知行方の詳しい処理は石田三成に相談し、図書や旧来の名簿を整えて関係者へ割り付けるよう家久へ指示する。 出船する船と城米の徴収、悪天候時の対応にも触れ、針や薬など珍しい品を贈るとして、領地実務・兵站・贈答を一通で伝える。
後編2-No.1531 島津義弘譜
薩摩・大隅・日向における島津氏分領の境界が確定し、秀吉の割地指示が細部まで伝えられた経過を記す。 朝鮮にいた義弘が四月十二日付朱印状で召され、五月十日に巨済を出航、荒天を経て六月五日に日本へ着き上洛へ向かった帰還日程も併記する。
後編2-No.1532 島津義弘書状
義弘は、又八郎が元気に残番しているので安心するよう妻の宰相殿へ知らせ、秀吉の朱印で上洛を命じられたため五月十日に朝鮮を出船したと報告する。 五月雨と逆風のなか自船だけが先に着岸し、供船を待って上洛する予定や、久四郎の下向を家族が喜んでいるだろうとの心遣いも記す私信。
後編2-No.1533 島津義弘譜
義弘が乗船して日本へ到着したのち伏見城へ上り、秀吉に拝謁してその健勝と平安を祝ったことを記す。 朝鮮から帰還した義弘が、ただちに豊臣政権へ出仕した動きを簡潔に示す譜記事。
後編2-No.1534 小西行長書状
小西行長は、二、三日中に日本へ向かう便船が出るため、必要な用件があれば承ると家久へ知らせる。 前日に日本から到来した滝七右衛門尉へ口上を託しており、詳しくは同人から聞くよう求める、渡海便を利用した連絡状。
後編2-No.1535 島津竜伯書状
竜伯は、知行方の処理は国元ではおおむね済んだとし、家久のもとでさらに熟談させるため伊集院幸侃を使者として渡海させたと伝える。 事情を聞き届け、父子で相談して今回の知行処理を滞りなくまとめることが肝要だと求める。
後編2-No.1536 根占重虎書状
根占重虎は、本田六右衛門尉に一件の筋目を託したので、相違なく取り計らうよう鎌田政近へ依頼する。 根占家への厚い配慮に礼を述べ、久四郎の件も申し請けたいとして、今後も変わらぬ取り成しを重ねて求める。
後編2-No.1537 町田存松書状
町田存松は、武庫様が六月五日に着船し、十二日に上洛したことを鎌田政近へ報告する。 若殿様も無事で、御本所へ朝鮮在陣の様子を詳しく報告する予定だと伝え、島津家中の帰朝後の動きを知らせる。
後編2-No.1538 島津義久詠草
義久が、家の由緒につながる姫千松を詠み、「昔からの縁がなければ、末葉に家の風が深く吹くこともない」と祈念した和歌。 島津家の血統・家運の継承を、祖先との縁と末裔へ続く風に託した文芸史料である。
後編2-No.1539 安宅秀安覚書
安宅秀安は、取次役の決定、老中役の免除、家中の訴訟や処分、京都と国元の連絡方法などを箇条書きで定める。 竜伯への奉公や三成との関係にも触れ、讒言・私的対立を避けて法度を堅固に運用し、家中の秩序を保つよう求めた政務覚書。
後編2-No.1540 小西行長書状
小西行長は、家久側の番船が出動したものの成果なく引き取ったとの報告を受け、事情を確認する。 前日にも使者を送っており、今後も続報を伝えるとして、朝鮮沿岸での番船行動をめぐる連絡を行う。
後編2-No.1541 加藤清正書状
加藤清正は、竹島から家久側の番船出動を知らされ、状況が分からず心配しているため詳しい返報を求める。 一方、自らが守る境目には変化がないので安心するよう伝え、詳細は使者の口上に託す。
後編2-No.1542 豊臣秀吉朱印状
秀吉は、見舞いの使者を受けたうえで、家久が朝鮮で長く在番を続けている苦労を察すると伝える。 現地が静謐であることを喜び、今後も状況を報告するよう求めた、慰労と在番継続の確認を兼ねる朱印状。
後編2-No.1543 米良勝右衛門尉差出
米良勝右衛門尉が、高城左京亮・新納狩野介の承知事項や、高麗で久保が借り上げた銀子の処理、上地田数、延命寺分、太平寺への付分などを石高別に列挙した差出。 総石高を三百二十九石二斗七升一合、そのうち上地分を七十四石七斗九升三合と算出する。朝鮮出兵時の貸借を在地の土地・寺社領勘定へ組み込んだ経過が分かる史…
後編2-No.1544 豊臣秀吉朱印状
秀吉は、薩摩二十八万余石、大隅十七万余石、日向国諸県郡十二万余石など、島津領の国別石高を示す。 検地後の御蔵入や石田三成関係分を除き、約五十五万九千余石を島津義弘へ領知させることを確定した朱印状。
後編2-No.1545 島津義弘譜
薩摩・大隅と日向国諸県郡の割地について、秀吉から朱印状とその目録を賜ったことを記す短い譜記事。 島津領の石高と支配範囲が豊臣政権の検地・朱印によって確定された転換点を示す。
後編2-No.1546 豊臣秀吉朱印知行方目録
大隅国始羅郡、隅州・日州の諸村について、村ごとの石高を細かく列挙し、石田三成知行分や伊集院幸侃入道知行分などの区分を示す。 木田村・高井田村・帖佐村など多数の村名と端数まで記し、太閤検地後の領地編成を地名単位で復元できる目録。
後編2-No.1547 豊臣秀吉朱印知行方目録
薩摩国分について、先高・出来高、寺社領、給人領、義久・義弘の蔵入、伊集院幸侃入道知行などを項目別に集計する。 国別総高から各人・各用途への配分を示し、島津家中の直轄領と家臣知行の構成を比較できる知行方目録。
後編2-No.1548 知行方目録
明地として残る石高を、竜伯・又八郎・兵庫頭の蔵入、義久・義弘の兵庫頭内知行、新知分、上方分などに区分して集計する。 知行割付後の未配分地と各家の直轄分を比較でき、島津家内部の領地再編を数量から追える目録。
後編2-No.1549 島津以久朱印知行方目録
島津以久に対し、諸給人の知行所、三殿の蔵入、上方兵粮分三万石などを含む領地配分を示す。 所付を割り替えるか据え置くかは裁量に委ね、無役の蔵入として扶助し領知させることを定めた朱印知行方目録。
後編2-No.1550 島津以久譜
秀吉の薩摩・大隅・日向三州検地に際し、島津以久が大隅国熊毛郡の種子島・永良部島・屋久島三島一万石を領知する朱印を受けたことを記す。 島嶼部支配が太閤検地後の知行として確定した経緯を示す譜記事。
後編2-No.1551 豊臣秀吉朱印知行方目録抄
種子島・屋久島・永良部島など島嶼部の役米・出米と石高を抜き出し、合計一万石となる内訳を示した目録抄。 島津以久へ与えられた三島知行について、島ごとの負担と算定根拠を数量で確認できる。
後編2-No.1552 石田三成書状
石田三成は、代官として下国する両筑の使礼として太刀一腰・馬代銀子十枚が博多へ届いたことを知らせ、祝儀への礼を述べる。 自身も四、五日中に伏見へ戻る予定で、上方で必要な用件があれば承るとし、袋と一樽を家久へ贈る。
後編2-No.1553 島津忠清一流系図
島津忠清は義弘の五男で、幼名を長満丸といい、天正十年に生まれ、文禄四年七月四日に十七歳で早世したと記す。 母を島津家久と同母とする系譜情報や葬地も載せ、忠清一流の出自と短い生涯を確認できる。
後編2-No.1554 川上氏支流系図
川上忠高が人質として上方へ赴く島津忠清に随行し、伏見で忠清の病没に立ち会った経過を記す。 さらに川上忠虎の朝鮮病没後、幼い長千代丸が成長するまで北郷三久が家督を補佐し、のちに家を返した支流の成立事情を伝える。
後編2-No.1555 島津竜伯義久・同義弘連署条目
竜伯と義弘は、屋久島の材木を国元の公用以外に差し出さず、他国商人への売却や船材としての提供を禁じる。 大仏用材として指定された木を厳守し、従来どおり使者を派遣して山林を管理するよう定めた、森林資源統制の連署条目。
後編2-No.1556 北郷三久譜
北郷三久の幼名・通称・官途と、天正元年三月十日の出生、母が北郷左馬助忠孝の娘であることを記す。 北郷家の系譜上の位置と、後続する家督補佐・相続関係を理解するための基礎となる譜記事。
後編2-No.1557 島津竜伯・同義弘連署証状
北郷忠虎の実子が幼少のため、宗次郎こと北郷三久を名代として諸職を勤めさせ、長千代丸が十七歳になるまで家督を補佐するよう認める。 若年相続人を保護しつつ家の継続を保証した、竜伯・義弘連署の家督証状。
後編2-No.1558 島津彰久譜
島津彰久が文禄四年七月五日に朝鮮で病死し、享年二十九、法号を天宗慈雲大禅定門としたことを記す。 家臣の安田次郎兵衛が主君の死を追って殉死した逸話も載せ、朝鮮在陣の人的損失と主従関係を伝える。
後編2-No.1559 北郷三久譜
本文は「二五五五号文書と同文」として省略され、この箇所には北郷三久譜の具体的記事が転記されていない。 内容の確定には参照先文書との照合が必要なため、推測せず同文関係のみを記録する。
後編2-No.1560 島津家久譜
巨済の陣所整備を命じられ、四国勢二陣の兵器、門・堀、矢倉、小屋、材木などを移して城の構えに用いたことを記す。 朝鮮在陣中の築城資材が部隊間で再配分された実態を示す譜記事で、続く連署状の背景となる。
後編2-No.1561 寺沢正成・小西行長連署状
寺沢正成と小西行長は、四国勢二陣の武具、堀・矢倉・小屋・道具を家久の城へ運ばせるので、到着次第受け取るよう命じる。 受領後は目録を提出させ、その目録をもって四国勢側へ確認するとした、築城資材移管の連署状。
後編2-No.1562 細川幽斎玄旨書状
細川幽斎(玄旨)が島津義久・義弘へ、島津領の検地後に行われた知行配分が上意どおり整ったことを祝い、島津家の面目となる処置だと評価した書状。 続いて、幽斎自身へ三千石を与えるとの申し出を承知したが、奉公らしい奉公もしていないとして以前から辞退してきたため困惑していると述べる。検地担当者への恩賞と島津領…
後編2-No.1563 豊臣秀吉朱印状
秀吉は、関白豊臣秀次に不届きの事情があったため高野山へ送ったと島津義弘へ知らせ、ほかに異常はないので心配しないよう命じる。 秀次事件の処分を大名へ直接伝え、詳細を前田玄以・石田三成ら奉行衆に託した重要な朱印状。
後編2-No.1564 島津忠恒家久書状
忠恒は、武庫様の上洛後にさまざまな相談が行われたと推察し、知行配当がどのように整ったかを新納武蔵入道へ尋ねる。 御両殿が力を入れている時期なので、気付いたことを遠慮なく申し上げ、家のために尽力するよう求める。
後編2-No.1565 島津義弘書状
義弘は、竜伯を伴って下国する予定だったが、京都の混乱で諸将が在京するため、石田三成からまず義弘一人が帰国するよう指示されたと伝える。 公儀の命令に従って下国し、長期在陣の労苦をねぎらいながら国元の政務を整える意向を示す。
後編2-No.1566 島津義弘書状
義弘は、京都の混乱により竜伯の下国が延び、石田三成の指示で自分が先に帰国することになった経緯を伊集院抱節へ知らせる。 在陣の労苦をねぎらい、国中の人数・政務を滞りなく処理するよう求めた、同日付の帰国準備に関する書状。
後編2-No.1567 島津竜伯書状
竜伯は、平田吉兵衛尉が家久のもとから帰り、旧領での処遇や兄弟二人の在陣について相談を受けたことを伝える。 伏見での豊前関係の案件と伊地知駿河らの取次にも触れ、現地で適切に申し付けるよう家久へ求める。
後編2-No.1568 伊勢如貴貞知起請文
如貴貞知は、秘密として聞かされた事柄を一言たりとも他言せず、表裏のある振る舞いをしないと誓う。 以前にも一紙で誓約したことを重ねて確認し、日本国中の神々、とくに伊豆・箱根権現や八幡大菩薩の神罰を掲げた起請文。
後編2-No.1569 島津竜伯書状
竜伯は、国元の置目を整えるため義弘が下向し、自身も帰国する予定だったが、関白秀次事件で京都・伏見が不穏なため在京を続けると知らせる。 国元の知行替えや諸屋形の処置は大儀の趣旨に沿って進め、図書頭へも相談するよう求める。
後編2-No.1570 島津竜伯書状
竜伯は、鹿児島で起きた過去の密会・使者の処置について家久へ指示し、白浜二郎九郎と市来七郎次郎を早々に処断するよう求める。 図書頭と相談し、事情にふさわしい者へ実行を命じるよう重ねて述べた、家中統制の厳しさが分かる書状。
後編2-No.1571 小西行長書状
小西行長は、家久からの礼物を受けた謝意を述べ、四か所の陣を取り壊した後の材木処理を七右衛門尉に命じたと知らせる。 讃岐殿の城米の扱いにも触れ、陣所撤去後の資材と兵粮を調整する実務連絡。
後編2-No.1572 島津義弘書状
義弘は長寿を東寺まで見送った厚意を謝し、自身が七月十九日に大坂を出船、二十四日に細島へ無事着いたと知らせる。 京都の様子を尋ねる一方、船作奉行として河内にいる次郎兵衛尉、歩行困難な弥太右衛門尉の近況にも触れる帰国報告。
後編2-No.1573 小西行長・寺沢正成連署状
連署者は書状の到着を受け、早々に出立して釜山海へ来るよう催促する。 当地で渡海を待つ者がいる事情を示し、相談すべき用件があれば急いで申し入れるよう求めた、朝鮮在陣中の移動命令に近い連署状。
後編2-No.1574 島津義弘書状
義弘は久四郎の死去を悼み、悲嘆を抑えて国事に当たるよう鳴津又八郎を励ます。 祈祷の僧や八幡座主・貞徳院のこと、京都出立から細島着までの帰路、栗野在番衆の交替や船の手配まで伝える、公私の用件が重なる書状。
後編2-No.1575 島津彰久譜
島津彰久が文禄四年七月五日、朝鮮巨済島の陣中で病没し、殉死者を伴って葬られた経緯を記す。 法号「天宗慈雲大禅定門」と、同年八月十日に義久が追悼文を贈ったことを掲げ、朝鮮在陣中の死と島津家の服喪を結びつける譜記事。
後編2-No.1576 島津義久追悼文並詠草
義久が「天宗慈雲」の法号を持つ彰久を悼み、朝鮮から魂が帰るよう仏に願う追悼文と和歌。 「露の玉」「葛の葉」など無常を表す語を重ね、若くして異国で没した一族への深い哀惜を示す、島津家の心情史料として貴重である。
後編2-No.1577 立花親成宗茂書状
立花方は大明との和平に関する知らせを喜び、しばらく滞留する件を了承したと鳴津又八郎へ伝える。 海路・陸路とも警戒を固め、用件があれば申し越すよう求めるなど、講和局面でも交通と軍事上の用心を解かなかったことが分かる。
後編2-No.1578 島津竜伯書状
龍伯(島津義久)が「きよ□母」へ、薩摩・大隅諸方の人事や所替について、図書・興意らの配置を案じ、関係者との相談や取り計らいを頼む。修右衛門から音信を受け、元気と聞いて喜んだことも伝えている。 追伸では「くりかへ」の件を大変なことだと気遣い、薬をきちんと服用しているか尋ねる。家中人事の相談と相手の体調…
後編2-No.1579 島津義弘譜
秀次事件について、秀吉が秀次に高野山行きを命じ、切腹後に妻子・近臣まで処刑した経緯を義弘譜が詳述する。 義弘も聚楽城内で外出を禁じられたが、木村常陸介の助言を受けて脱出し、その後の召喚や弁明に対応したという緊迫した体験を伝える。
後編2-No.1580 豊臣秀吉朱印知行方目録
播磨国揖東郡福地村・蓮城寺、石見国の釜村・大市郷村などにある知行地と石高を列挙し、検地による改定後の領知を認めた目録。 秀吉が島津義弘へ畿内・中国地方の飛地的知行を宛行った実態を、村名と数量から確認できる。
後編2-No.1581 豊臣秀吉朱印状
島津豊久譜に収められ、正文が島津安芸守久雄家に伝来した秀吉朱印状。本文は別文書と同文として省略されており、この頁だけでは命令内容を復元できない。 伝来先と収録譜の情報を残す参照記事として整理する。
後編2-No.1582 豊臣秀吉朱印状
永吉領主所蔵の正文に基づく秀吉朱印状だが、本文は別文書と同文として省略されている。 この頁から確認できるのは所蔵・伝来情報に限られ、具体的な宛先や用件は参照先本文との照合が必要である。
後編2-No.1583 島津竜伯書状
竜伯は鳴津又八郎に対し、久四郎が七月四日に死去したとの知らせを受けたと記し、言葉に尽くせない驚きと嘆きを伝える。 短文ながら、朝鮮出兵期の島津家中における近親者の死の伝達と心情が直接表れる弔意の書状。
後編2-No.1584 島津家久譜
家久譜は秀次が聚楽で陰謀を企てたとの嫌疑から、高野山へ追われ自害し、妻子・侍女らも処刑された事件を記す。 岡田勝五郎が上使として事件の次第を詳しく語り、聞く者が涙したという叙述を含み、島津家に伝わった秀次事件像を示す。
後編2-No.1585 豊臣秀吉朱印状
秀吉は鳴津又八郎が当番衆として残り、引き続き辛労していることをねぎらう。 詳しい事情は岡田勝五郎に申し含めたとし、静謐が進んでいるので心配は不要と伝え、増田長盛・石田三成・山中山城守からも説明させる朱印状。
後編2-No.1586 島津家久譜
日明和平が定まり、明国使節が日本へ渡航することになったため、巨済島の諸陣を加徳島へ移した経緯を記す。 小西行長・寺沢正成が明の遊撃官人を伴って来て、和平が偽りでないことを示したという、講和交渉と撤兵の具体像を伝える記事。
後編2-No.1587 小西行長・寺沢正成連署状
小西行長・寺沢正成は、唐島の人々が加徳島へ移ることに伴い、唐島割の奉行を二人任命したと伝える。 移転処理に十分注意するよう命じ、唐人に状況を見せるため明国の遊撃官人一人を派遣した、講和後の撤収実務を示す連署状。
後編2-No.1588 石田三成書状
三成は遠路からの使札に謝し、長期在陣の苦労をねぎらったうえで、竜伯・義弘の帰国と国元の知行配分を知らせる。 義弘の帰朝後も在陣側で番や法度を厳守し、失態がないよう申し付けることを求めた、領国再編と軍紀維持を結ぶ書状。
後編2-No.1589 島津義久書状
義久は帰朝の時期について繰り返し尋ね、諸将が一斉に上洛するなかで一人だけ国元へ戻るのは不都合だとして慎重な判断を促す。 宮内少輔や石田三成からの伝言にも触れ、在所・上洛・在陣の動きを周囲と合わせるよう諭した書状。
後編2-No.1590 石田三成・増田長盛連署状
石田三成・増田長盛が島津又八郎へ、京都の情勢は鎮まり、御朱印のとおり処置されたので心配はないと伝える。又八郎が現地に残って御番を務める長年の苦労をねぎらい、詳細は岡田勝五郎から申し入れるとした連署状。
後編2-No.1591 伊集院幸侃忠棟・本田三清貞親連署証状
薩摩国河辺郡野崎名の土地について、惣高九百四拾石余の内訳と返地分を示し、京の石田三成との相談どおり本田六右衛門尉へ給与する。 今後加増があれば両名の判断で配分する旨も記した、検地後の知行再編を数量で追える連署証状。
後編2-No.1592 伊集院幸侃・本田三清連署証状
財部の米良家に伝わった証状で、宮里一所を打ち替え、石高三百五拾九石余の土地を米良勝右衛門へ給与する。 返地分を差し引き、残余は京都で石田三成と相談して配分するという、領国検地後の所替えと知行算定の実務を示す。
後編2-No.1593 島津忠長譜
忠長譜は、文禄四年に島津忠恒が談合衆へ誓紙を与え、忠長もその一員として受領・保存したと記す。 続く誓約文の伝来事情を説明し、忠恒の当主権力と家中合議層との関係を知る手掛かりとなる記事。
後編2-No.1594 島津忠恒家久起請文
忠恒は薩摩で処罰を受けた後も主命に背かず、家中の配置や軍事・政務について勝手な判断や私的な談合をしないと誓う。 意見があれば包み隠さず申し出て、当主の決定に従うことを神仏に誓約した、若い忠恒と談合衆の統制関係を示す起請文。
後編2-No.1595 樺山玄佐善久寄進状
樺山玄佐善久が、武運長久・子孫繁昌・家中安全を願って国安作の刀一腰を正八幡宮へ寄進する。 社外へ持ち出さず社内に安置するよう定め、寄進後も証書を作成した、武家の信仰と刀剣奉納を伝える史料。
後編2-No.1596 島津忠恒書状
忠恒は新納武蔵入道がなお京都へ到着せず、長く辛労していることを気遣い、交替要員がいない事情にも触れる。 義弘が早く帰国するとの見通しのもと、国元の処置に遺漏がないよう念を入れ、速やかな対応を求めた書状。
後編2-No.1597 島津義弘書状
忠恒は長期在陣の辛労をねぎらい、現地に特別な異変がないとの報告を喜ぶ。 又八郎への奉公に一層心を配り、在地の事柄も油断なく処理するよう求めた、在陣者への慰労と忠勤督励を兼ねる書状。