← 史料目録へ

ARCHIVE DIRECTORY

後編2の目録

旧記雑録 天正13年~文禄4年の文書・記事です。

全1,646件中 901~1000件・10 / 17ページ

  1. 後編2-No.900 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、島津義久から朝鮮渡海についての言上と白糸二十斤が届いたことを喜び、詳しくは石田木工頭から伝えるとした朱印状。 軍事報告への返答と多量の白糸の贈答受領を一通にまとめており、秀吉と義久の間を石田三成が取り次いだことが分かる。

  2. 後編2-No.901 島津義久詠草

    島津義久が名護屋で、「千種咲く野辺の中でも、紫色の一株がひときわ親しく感じられる」と詠んだ和歌。 「子細あり」と注記され、紫の花に特定の人物や縁を重ねた可能性を感じさせる、朝鮮出兵期の名護屋滞在中の詠草である。

  3. 後編2-No.902 島津義弘譜

    義弘父子の朝鮮渡海途上、平戸に滞在した梅北国兼・田尻但馬守父子らが変心して一揆を起こし、国兼が佐敷城へ入り、田尻父子が松波瀬で放火した経過を記す。 松浦筑前らが田尻但馬・荒次郎・荒五郎以下百余人を討ち、国兼の一党も赤松太郎や球磨・彦北の兵に殲滅されたとして、梅北一揆の発生から鎮圧までを島津義弘譜にま…

  4. 後編2-No.903 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、朝鮮渡海の遅れに不満を抱いた梅北国兼が佐敷辺で一揆を起こしたため、義久からの報告と首を討つ旨の命令を受け、現地諸将へ即時の成敗を指示した朱印状。 島津兵庫頭の不安を除くよう申し聞かせることも命じ、梅北一揆を島津家だけでなく豊臣政権の軍事命令として鎮圧したことを示す。

  5. 後編2-No.904 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、梅北国兼による佐敷辺の一揆を早急に成敗し、島津兵庫頭を安心させるよう増田長盛・大谷吉継へ命じた朱印状。 No.903と同じ事件・処置を奉行衆へ伝えた別通で、現地武将への軍事命令と政権中枢への指示が並行して発給されたことが分かる。

  6. 後編2-No.905 浅野幸長書状

    浅野幸長が、梅北国兼を一揆の大将として成敗し、そのほか二百余人を討ち果たしたとの隈本からの報告を、注進状の写しとともに島津義久(龍伯)側へ知らせる。 後難を防ぐため自分たち父子の軍勢を肥後へ向かわせたとも述べ、梅北一揆鎮圧直後の軍事措置と情報伝達を具体的に示す。

  7. 後編2-No.906 細川玄旨書状

    細川玄旨が、翌日に義久と同道して下向するため慌ただしいと伝え、渡海以来、島津兵庫頭から一度も直接の注進がないことを注意する。 高麗へ渡った前後の衆からは報告が届いているとして、便船がない事情を考慮しつつも、今後は軍事情報を怠らず届けるよう求める書状である。

  8. 後編2-No.907 麻植長通書状

    麻植長通が、梅北国兼・田尻荒兵衛の逆意と佐敷での鎮圧を報じ、妻子の成敗のため龍伯と細川幽斎が薩摩へ向かうことを伊勢雅楽入道へ知らせる。 一揆が朝鮮渡海軍の遅参を招いたことを嘆き、義久・義弘・久保ら島津父子の高麗渡海を急ぐよう求めており、梅北一揆と出兵動員の直結を示す書状である。

  9. 後編2-No.908 島津義弘譜

    朝鮮を破ったのち明の援軍が来ると見込み、既渡海の十三万人に加えて六万人を送るという秀吉の追加動員構想と、増田長盛・石田三成・大谷吉継・浅野幸長ら諸将の兵数を列挙する。 小西行長・加藤清正・黒田長政らを交替で先陣とし、後援軍を配置して明へ進む戦略、明側が日本軍の侵攻に驚いて朝鮮救援を検討した事情まで記…

  10. 後編2-No.909 新納忠増日記

    『新納忠増日記』の該当記事について、「本田記と同文につき省く」と注記して本文を省略した記録。 独立した本文は収録されないが、同一内容の異本・参照関係が存在したことを示す編集上の注記である。

  11. 後編2-No.910 天正年中日々記

    天正二十年五月八日、島津義弘一行が鹿児島を発ち、伊集院・串木野を経て朝鮮渡海へ向かうまでを日次で記す。御座船の造作と乗組、兵糧・酒・武具・馬の積載、祈祷や送別の寄合、各地の地頭・代官・僧侶・使者との応接が細かく記録される。平戸・壱岐方面の航海では風待ち、暴風、停泊、船の破損が相次ぎ、石田三成・長束大…

  12. 後編2-No.911 島津義弘譜

    日本軍が朝鮮を急速に進撃したのち、明の祖承訓・史儒らが鴨緑江を越えて救援するも、地理を知らず敗れた経過と、秀吉が追加兵力を送り明への進攻を図った情勢を記す。 朝鮮側が明へ援兵を求める一方、明の石星らが冊封・朝貢を利用した講和策を検討し、小西行長らとの交渉を探った事情まで述べ、戦闘と外交の両面から文禄…

  13. 後編2-No.912 伊集院幸侃嫡忠棟外二名連署坪付

    伊集院忠棟(幸侃)・本田三清・町田久倍の三名が、藤崎門のうち「こまい床」にある平佐一段を竹崎越中守へ示した連署坪付。 土地の所在と面積を簡潔に特定し、三名の連署で給地・所持の根拠を確認した文書である。

  14. 後編2-No.913 島津忠長外二名連署宛行状

    島津忠長・伊集院忠棟(幸侃)・町田久倍の三名が、田尻荒兵衛尉の旧跡を残らず一王雅楽助へ宛て行うことを認めた連署宛行状。 梅北一揆関係者である田尻氏の所領処分と、その跡地を新たな家臣へ再配分した具体例として重要である。

  15. 後編2-No.914 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、炎天下での朝鮮渡海の辛労をねぎらい、現地での働きについて情勢を見極めて精を入れ、油断なく指揮するよう命じた朱印状。詳しい指示は松井藤九郎と侍中貞右衛門尉から伝えるとしている。文禄元年七月十九日付で、朝鮮出兵中の豊久に対する秀吉の直接命令を示す。

  16. 後編2-No.915 町田久倍譜

    島津義弘・久保らが朝鮮へ渡る一方、名護屋留守中に梅北国兼・田尻荒兵衛らが平戸・佐敷方面で一揆を起こし、秀吉の命による厳しい捜索と鎮圧が行われた経過を町田久倍の譜に記す。 義久が細川幽斎を伴って帰国し、国中の秩序回復と家中統制に当たったことまで述べ、梅北一揆を政権・島津家双方の対応から捉える記事である…

  17. 後編2-No.916 長谷場越前自記

    梅北国兼・田尻荒兵衛が薩摩・肥後境で反乱を企てたため、島津義久(龍伯)が細川幽斎を伴って鹿児島へ帰り、文禄元年七月六日以降、国中の法度・神社仏領・村々の負担を改めた経過を記す。 一揆後の処分だけでなく、田畑・年貢や家臣統制、住民の反応、再発防止の軍事警戒まで述べており、島津領国再建の実務を当事者の自…

  18. 後編2-No.917 島津義久書状案

    島津義久が、遠国のため便りを欠いたことを詫び、五月四日に鹿児島を出たものの逆風で停滞し、六月五日にようやく名護屋へ着いた行程を説明する書状案。 名護屋到着後に梅北一揆への対応を迫られ、秀吉の命と援助を受けて帰国・鎮圧へ向かった事情を述べ、朝鮮渡海の遅延が義久個人の怠慢ではないことを弁明している。

  19. 後編2-No.918 島津義久書状案

    島津義久が、朝鮮渡海後の無音を詫びつつ、梅北国兼の予想外の反乱により名護屋で処置を命じられ、秀吉の裁可を受けて細川幽斎と帰国した経緯を又一郎殿へ伝える草案。 薩摩・大隅の置目改定と浅野長政による検地、一揆鎮圧後の肥後八代滞在にも触れ、領国再編と高麗方面の情報不足を同時に報じる。

  20. 後編2-No.919 島津義久書状案

    島津義久が、梅北国兼の反乱に驚き、秀吉の命で薩摩・大隅の置目改定に当たるため細川幽斎と帰国した事情を説明する書状案。 浅野長政による検地、肥後八代での一揆成敗、肝付氏の処遇や国元の所領問題について意見を求めており、戦時下の領国再編を相談する内容に重点がある。

  21. 後編2-No.920 島津義弘書状

    島津義弘が、薩摩・大隅で検地を行うとの風説に対し、主だった者が留守のまま拙速に進めれば国衆の反発や混乱を招くとして、龍伯尊老(義久)へ慎重な対応を求める。 石田三成を頼りに検地を進める相談はしているものの、治部少輔の帰朝後に改めて協議すべきだとし、朝鮮出兵中の領国検地に対する義弘の警戒を示す。

  22. 後編2-No.921 島津義久証状案

    薩州伊集院の寺脇名にある宣徳寺領五町を妙谷寺・霊徳寺・善勝寺の替地として寄進し、田中之門一町五段と野田名の浮免五段を雪窓妙安の菩提所へ加えると定めた証状案。 雲舟和尚へ土地を進め、後代に違背する者は貴久の子孫ではないと強く誓約する。表題は義久証状案だが、本文末には兵庫頭義弘の署名と龍伯尊老宛が見える…

  23. 後編2-No.922 島津義久譜

    島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡る途中だった梅北国兼・田尻但馬守らが平戸付近で変心し、佐敷城を占拠して八代方面へ兵を出した梅北一揆の全経過を詳述する。田尻勢の放火、松浦筑前らによる迎撃、赤松太郎や球磨・彦北勢の追討、国兼の妻子・一族の捕縛と処刑、諸将からの報告と秀吉方の処置までを収める。一揆発生から鎮…

  24. 後編2-No.923 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、義久の到着前に梅北一類を捕らえて首を差し出した処置を認め、残党への警戒と厳罰を徹底するよう島津修理大夫入道へ命じた朱印状。家道院・兵庫頭の従前の赦免にも触れつつ、高麗へ渡る本人は助命しても、家中の悪逆者は十人・二十人でも斬首して進上せよと迫る。本文末の文禄元年七月十七日付に基づき、梅北一…

  25. 後編2-No.924 島津義久譜

    豊臣秀吉が、九州征伐時に参礼せず祁答院で行軍を妨げたとして島津歳久を逆心と見なし、検使の細川幽斎に討伐を命じた経緯を義久譜に記す。 歳久が祁答院から竜ヶ水方面へ退き、病身のまま少数の家臣と追手を迎え撃った末に死に至るまでを述べ、豊臣政権への服属と島津家内部の悲劇が交差する記事である。

  26. 後編2-No.925 島津晴蓑歳久辞世

    島津歳久(晴蓑)が、「晴蓑めが魂の在り処を人が尋ねても、白雲の行方のように分からないだろう」と詠んだ辞世。 死後の魂の行方を白雲に託した簡潔な歌で、追討を受けて死を迎える歳久の覚悟と無常観を直接伝える。白浜次郎左衛門・比志島紀伊守宛の形で残る。

  27. 後編2-No.926 島津義久譜

    島津義久が、秀吉への背反を理由に処刑された歳久を実の弟として嘆き、涙を拭って遺書を読んだ心情を記す。 義久は歳久の書状を自害の直前に右筆へ書かせたものと考え、歳久に従った家臣十四人が前言に違わず戦死したことも記録する。政治的処罰の裏側にある兄弟の悲痛を伝える重要記事である。

  28. 後編2-No.927 島津歳久譜

    根白坂合戦の敗北と忠隣らの戦死後、秀吉の九州平定に服さなかった歳久が背反を疑われ、病身のまま追討を受けて竜ヶ水付近で最期を迎えるまでを記す。 白浜次郎左衛門が義久の命を伝えると、歳久は駕籠・船で移動するが、家臣らは追手と戦い、多数が主君に殉じた。義久による葬送・供養、竜伯の哀悼と秀吉の処断への批判ま…

  29. 後編2-No.928 島津歳久生害書

    秀吉方から歳久処罰の厳命が下る一方、義久が病気を理由に助命を求めた経緯と、梅北一揆・邪答院での事件などが歳久の罪状として扱われた事情を詳述する。 家臣たちは城中で防戦や人質策を相談するが、歳久は領民を戦乱に巻き込むことを避けて退去し、病身で逃れる途中も自害を望む。最終的な死と首級の扱い、従者の殉死、…

  30. 後編2-No.929-1 米良重良書状

    米良重良(石見守)が米良勝右衛門尉へ、懇望を受け、互いが同姓であることを理由に、続く米良氏系図を書き写して送ると伝える。 書写は後日の証拠に備えるための一筆であり、ほかの者には決して見せないよう念を押す。同族の系譜情報が、閲覧を制限しながら内部で伝授された事情を示す書状である。

  31. 後編2-No.929-2 米良氏系図

    藤原鎌足を祖とし、政則・則隆・経高へ系統をつなぎ、「此間十代略」「十八代略」と世代の省略を挟んで、武房・時高以下の米良氏歴代を図式化する。 後段には重吉・重恒・重純・重棟・重武らの諱・通称・官途や年月日の注記が添えられる。No.929-1で書写と他見禁止が述べられた系図本体であり、米良氏が藤原氏の後…

  32. 後編2-No.930 島津義弘書状

    島津義弘が米良勝右衛門尉へ、予定していた当月の参陣は「此表」の軍事行動が翌春へ延期されたため、ひとまず延引すると通知する。 ただし内々に出陣準備を整え、改めて知らせが届いた際には油断なく渡海するよう命じる。朝鮮出兵に向けた待機と動員準備の具体的な指示である。

  33. 後編2-No.931 島津竜伯義久直書

    島津義久(竜伯)が歳久へ、邪答院での以前の振る舞いと今回の不慮の事件を理由に、切腹させるとの秀吉の朱印命令が届いたことを告げる。 上意に従って早々に切腹すれば妻子眷属は保全され、家と国のためにも名誉ある最期として後世に名を残せると説く。兄義久が弟歳久へ処断を直接伝えた、歳久事件の核心文書である。

  34. 後編2-No.932 島津晴蓑遺書

    島津歳久(晴蓑)が近習衆へ、自分は病で手足も不自由であり、秀吉に反逆する意図はなかったと弁明する遺書。島津家累代を守るため自分一人が自害すると家臣へ繰り返し伝えたが、家臣が承諾しなかった事情も記す。 病身の当主と従臣との葛藤、処断直前の心情を本人の言葉で伝える重要な史料である。

  35. 後編2-No.933 加藤清正書状

    加藤清正が浅野長政へ、五月十六日に都を発して六十八日進軍し、朝鮮王子兄弟と官人あわせて二百余人を生け捕ったと報告する。国王が明国方面へ退いたとの供述を得たため、さらに追跡する構えを示す。 朝鮮側が弱く十分な戦闘にならなかったと述べ、翌日には北方へ進発して秀吉の武威を示すと宣言する、朝鮮侵略の進展と武…

  36. 後編2-No.934 島津義久書状案

    島津義久が琉球国王へ、前年から命じた船の調達が国役・借銀などを理由に滞り、従来の盟約に背く結果となったことを厳しく問いただす返書案。細川幽斎・石田三成を通じた秀吉の上意にも触れる。 朝鮮・唐・南蛮をめぐる政務と「四海一統」を掲げて協力を迫り、建善寺和尚らを使者として渡海させる。豊臣政権下で島津氏が琉…

  37. 後編2-No.935 島津常久譜

    祖父・島津歳久(晴蓑)が秀吉の意に背いたとして竜ヶ水で討たれ、従った家臣も相次いで戦死した後、幼い島津常久(袈裟菊丸)が家の存続を担うことになった経緯を記す。 六尺にも満たず母の膝を離れない年齢の当主と形容し、残党の籠城で家が滅びかねない危機のなか、義久が歳久を追悼しつつ後継者保護と家の存続を図った…

  38. 後編2-No.936 島津竜伯書状

    島津義久(竜伯)が大慈寺へ、歳久が秀吉の九州下向時に兵糧提出を拒み矢を射掛けたことなどから処断命令を受け、一身を犠牲にして家を残そうとしたと説明する。 歳久の家臣が殉死し、さらに宮之城へ籠城する動きが続いたため、龍雲寺の一岳和尚とも連携し、残党を説得して国家と家を存続させるよう依頼した書状である。

  39. 後編2-No.937 島津竜伯書状

    島津義久(竜伯)が大慈寺へ、歳久の処断によって島津家の安全を図ったにもかかわらず、家臣たちが戦死し、残る衆が宮之城に籠城したことを「天道を恐れず君臣の法に背く」と厳しく非難する。 大慈寺に対し、袈裟菊丸以下の者が下城すれば安全を保障すると伝え、籠城衆を説得するよう求める。武力衝突の回避と歳久家の救済…

  40. 後編2-No.938 島津歳久跡目覚書

    袈裟菊丸らが宮之城に籠城した際、義久が比志島紀伊守や福昌寺・龍雲寺の僧を派遣し、袈裟菊丸の家督と知行を保障して下城を促した交渉経過を記す。 袈裟菊丸の母は、歳久と同様に処断されるなら助命に意味はないと一度は拒むが、重ねて身上・知行の保全を約束され、最終的に下城して入来へ移った。歳久家存続の具体的条件…

  41. 後編2-No.939 島津常久譜

    袈裟菊丸らが宮之城へ籠城した際、義久が東郷藤兵衛尉重位へ密命を与え、船木口から宮之城近辺へ赴かせた経緯を記す。重位は野伏の兵を避けつつ鍋倉将監を呼び出し、義久の命を伝えた。 その後、籠城側へ義久と細川幽斎の誓紙が与えられたことを記し、武力衝突を避けて幼主常久の家を存続させる交渉の舞台裏を示す。

  42. 後編2-No.940 島津義久起請文

    島津義久が袈裟菊丸へ、歳久の妻子・袈裟菊丸と母ら三人、さらに家臣までが今回の取り扱いに従って宮之城を下城すれば、以後の安全を保障すると誓約する。 約束に違反した場合は梵天・帝釈天をはじめ日本六十余州の神々から罰を受けると明記する。幼い後継者と一族を安心させ、籠城を終わらせるための義久側の起請文である…

  43. 後編2-No.941 細川幽斎玄旨起請文

    細川幽斎(玄旨)が袈裟菊丸へ、秀吉の朱印は歳久本人の成敗だけを命じ、そのほかの者を処罰する文言はないと明言する。妻子・母ら三人と家臣が下城後に義久へ従えば、別儀なく扱われると保証した。 義久の起請文を豊臣政権側の幽斎が裏付ける内容で、違反時には日本中の神祇の罰を受けると誓う。籠城側が求めた安全保証を…

  44. 後編2-No.942 島津竜伯書状

    島津義久(竜伯)が、秀吉の九州下向時に忠節を尽くした王雅楽へ知行を与える約束が、空き地不足のため延引していた事情を伝える。 約束の筋目に従い、田尻荒兵衛の旧知行を残らず王雅楽へ与えるよう手配したので、その旨を本人へ知らせるよう細川幽斎らに依頼した書状である。

  45. 後編2-No.943 島津義久詠草

    島津義久(竜伯)が、歳久(晴蓑)の旧宅跡を訪れて詠んだ追悼歌。「露ではないのに袖が濡れる」と、亡弟を思う涙を露になぞらえて表現する。 政治的には歳久を処断せざるを得なかった義久の、兄としての悲嘆が直接表れた短い詠草である。

  46. 後編2-No.944 島津義久譜

    歳久(晴蓑)の首級以下が京都へ送られ、聚楽第東方の戻橋でさらされた後、秀吉から朱印状が下されたことを島津義久譜から記す。 歳久追討が薩摩国内の処断にとどまらず、首級の京都送付・公開によって豊臣政権への服従を示す政治事件となったことが分かる。続く八月十四日付朱印状群への導入記事である。

  47. 後編2-No.945 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津義久へ、邪答院一族を早々に成敗し、首級と注文を添えて届けたことを「神妙」と評価する朱印状。詳しい上意は細川幽斎を通じて伝えるとする。 歳久事件に関係した勢力への処罰を確認・承認し、義久が豊臣政権の命令を実行したことを示す文書である。

  48. 後編2-No.946 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津義久へ、邪答院氏の旧知行を検地して義久の蔵入地とするよう命じる。寺社領や売却済みの土地も、どのような証文があっても除外して蔵納させる方針を示す。 さらに薩摩国全体へ奉行を派遣して検地を行うとし、歳久事件後の処罰を土地支配の再編へつなげた朱印状である。

  49. 後編2-No.947 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、義久・島津侍従の蔵入分から近年売却された田畑を調べて元の蔵入へ戻し、寺社領を検地して当年の年貢を義久蔵入とするよう命じる。 あわせて島津家中の諸代官の算用を改め、異議を唱える者は成敗すると定める。島津領国の財政・土地管理を豊臣政権が直接再編しようとした命令書である。

  50. 後編2-No.948 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が細川幽斎へ、邪答院氏の成敗と首級到着を賞し、梅北一揆残党の妻子まで捜し出して名護屋へ送り処刑するよう指示する。薩摩・出水・日向諸県郡の検地についても、名護屋帰陣後に処置するとした。 義久知行の売却地回収、蔵入・代官算用の精査、寺社領の内検地など六項目を列挙し、反乱処罰と領国支配の再編を一体…

  51. 後編2-No.949 島津久保書状

    島津久保が新納忠元へ、留守番のため現地に残っていると聞き、その苦労を察すると労う。持ち場を精いっぱい守り、油断なく番を務めるよう依頼した。 左京亮が格別に奉公していることにも触れ、朝鮮出兵で主力が不在となるなか、薩摩国内の守備を担う忠元への信頼を示す書状である。

  52. 後編2-No.950 島津義弘書状

    朝鮮へ渡った島津義弘が新納忠元へ、薩摩から届く人数が少なく、現有兵力では軍役継続も明国への進軍も困難だと訴え、さらに兵を渡海させるよう強く求める。 自分と久保ら父子、左京は無事であると伝える一方、梅北一揆関係者が大口衆に捕らえられたとの国内情報にも触れる。朝鮮出兵で島津勢が直面した深刻な兵力不足を率…

  53. 後編2-No.951 前加賀法印東尊公帖

    前加賀法眼東尊が執印越前守へ、大隅国正八幡宮の執印職に紀越後儀景が補任されたことを通知する。 石清水八幡宮善法寺法印掌清の命を受けた執達文で、任命を承知し、儀景が神事に専念できるよう取り計らうことを求める。中世の大隅正八幡宮と石清水八幡宮の人事関係を示す史料である。

  54. 後編2-No.952 石田正継書状

    石田正継が島津義久らへ、名護屋にいる木工を秀吉の御用に立てるよう求め、唐国に関する義久の報告が秀吉の関心を得たと伝える。 梅北一揆を早速鎮圧したことを称賛し、朝鮮の戦争も翌春には決着して静謐になることを期待して、義久の上京を待つと結ぶ。国内反乱の鎮圧と朝鮮・唐をめぐる政権中枢の見通しが交差する書状で…

  55. 後編2-No.953 北郷一雲時久譜

    秀吉が細川幽斎を薩摩・大隅・日向三州へ派遣し、貢税と領域境界を整えさせた際、北郷時久(一雲)が都城の館へ迎えた記事。時久の領内教化を幽斎が評価したという。 宴席では幽斎が「神無月さながら春の都かな」と発句し、時久が時雨と山霧を詠んで脇句を付けた。検地・領国統制の使者と在地領主との文化的交流を伝える。

  56. 後編2-No.954 島津久保書状

    島津久保が新納忠元へ、朝鮮の戦況はおおむね収まったものの、敵兵が山中に潜んでいて全容を判断できないと知らせる。秀吉の威光が広く及んでいるため、情勢は安心してよいとも述べる。 一方で梅北一揆を「是非なき次第」と嘆き、島津領国の今後が穏当になるよう家臣たちが力を合わせることを求め、詳細は使者に託した。

  57. 後編2-No.955 島津義久譜

    島津義久譜に、No.954と同日・同内容の書状が出田越前入道へも送られたことを記す。本文は「同案有之、略ス」として省略されている。 朝鮮の情勢、梅北一揆への嘆き、領国安定への協力要請を、新納忠元だけでなく出田氏にも共有したことが分かる控え記事である。

  58. 後編2-No.956 島津義久袖加判福昌寺領目録

    福昌寺領として、田方五十二町七段余・分米五百二十七石余、畠方九町余・大豆四十五石余、山畠二十四町八畝余・大豆六十石余を列挙する。合計は田畠・山畠九十五町八段余、分米・大豆六百三十四石余とする。 町田久倍が署名し、島津義久が袖判を加えた寺領目録で、豊臣政権期の検地後に福昌寺領の規模を確定した数量史料で…

  59. 後編2-No.957 島津義久袖加判町田久倍書状

    町田久倍が興国寺へ、島津義久の下知によって国内寺社領を削減したが、興国寺については別紙に定めた寺領を従来どおり認め、寺の収入として確保すると通知する。 認められた寺領を基盤に寺院を興隆させることが肝要だと命じる。豊臣政権下の検地・寺社領整理後に、個別寺院の所領を再確認した書状である。

  60. 後編2-No.958 島津義久袖加判町田久倍書状

    町田久倍が泰平寺へ、国内の寺社領は義久の下知で削減されたものの、秀吉の九州下向時に泰平寺が陣所となったため、他寺とは区別して寺領を保全すると通知する。 寺領の安堵と引き換えに、戦陣の記憶に関わる寺として懇ろに祈祷を行うよう求める。秀吉の宿陣が寺領処遇の特例となったことを示す。

  61. 後編2-No.959 島津義久袖加判泰平寺領目録

    泰平寺領として、田方六町八段余・分米六十八石余、畠方一町五段・大豆七石五斗、山畠一町五反余などを列挙した目録。 No.958で特例的に安堵された泰平寺領の具体的な規模を、田・畠・山畠と収穫高に分けて示す。検地後の寺院経済を数量から確認できる基礎史料である。

  62. 後編2-No.960 島津義久袖加判町田久倍書状

    町田久倍が南林寺へ、義久の下知で国内寺社領を削減したことを前提にしつつ、同寺には別紙記載の寺領を従来どおり認め、寺の収入として確保すると通知する。 安堵された所領を用いて寺院の興隆に努めるよう求める。九州平定後の寺社領再編における南林寺の位置を示す書状である。

  63. 後編2-No.961 島津義久袖加判町田久倍書状

    町田久倍が慶済寺へ、義久の下知で国内寺社領を整理・削減したが、同寺には別紙記載の寺領を従来どおり認め、寺の収入として全うさせると通知する。 安堵された寺領を基盤に寺院の興隆へ専念するよう求める。南林寺などへ出された同種文書と比較できる寺領安堵状である。

  64. 後編2-No.962 広済寺領目録

    広済寺領として、田方五町・分米五十石、畠方四町・大豆二十石、山畠十五町・大豆三十石などを列挙する寺領目録。 田・畠・山畠の面積と収納高を対応させ、寺領安堵の対象となった広済寺の経済基盤を数量で示している。

  65. 後編2-No.963 島津義久袖加判霧島社領目録

    霧島社領のうち田口所在分として、田方二十町・分米二百石を記した目録。島津義久が袖判を加え、町田久倍が署名している。 寺院目録が続くなか、神社領についても所在地・面積・石高を確定した例であり、検地後の霧島社領の一部を具体的に把握できる。

  66. 後編2-No.964 島津久保書状

    島津久保が三名へ、朝鮮の現地情勢は使者が詳しく説明するとしたうえで、当地が静謐になれば間もなく明国へ渡ることになり、そのまま入唐する可能性もあると伝える。 遠征の長期化を見越し、国内の留守居について決して油断しないよう念を押す。「再会を望む」と添え、先行きの不確かな出陣者の心情も表れた書状である。

  67. 後編2-No.965 島津義久袖加判町田久倍書状

    町田久倍が般若寺へ、義久の下知によって国内寺社領を削減したが、同寺は他と異なる扱いとして、別紙記載の寺領を従来どおり認め、寺の収入として確保すると通知する。 安堵された寺領を基盤に、国家繁栄のため懇ろに祈祷するよう求める。寺領保障と国家祈願を結び付けた書状である。

  68. 後編2-No.966 島津義久袖加判般若寺領目録

    般若寺領として、田方六町五反・分米六十五石、畠方六反・大豆三石、山畠九反・大豆一石八斗を列挙する目録。 No.965の寺領安堵書状に対応し、般若寺へ認められた田・畠・山畠の面積と収納高を具体的に示す。

  69. 後編2-No.967 島津義久袖加判町田久倍書状

    町田久倍が、薩摩・大隅国内から別紙目録に掲げた土地を知行として認めると通知する。今回、細川幽斎の意見に従って内容を改めたうえで、領知を確実にし、今後は奉公と忠節に励むよう求める。 豊臣政権の検地・領地再編に幽斎が関与し、島津家臣の知行が再確認された過程を示す書状である。

  70. 後編2-No.968 島津久保書状

    島津久保が比志島紀伊守へ、通路が危険で報告が遅れたと断ったうえで、梅北国兼の反乱、歳久の自害、細川幽斎の薩摩下向と領国処置について所感を述べる。 薩摩勢に先立って朝鮮へ渡ったのは義久と島津家を守るためだったと弁明するが、国元から兵船が来ず借船で渡海し、兵・船とも不足して軍役が立たない窮状を詳述する。…

  71. 後編2-No.969 島津久保書状

    『雑抄』に収められた島津久保書状だが、本文には「本書は九六八号文書と同文につき省略」と注記され、内容は掲載されていない。 No.968と同じく、梅北一揆・歳久自害・幽斎下向と、朝鮮での兵員・船舶不足を比志島紀伊守へ伝えた書状の別伝・重複記録である。

  72. 後編2-No.970 島津義弘書状

    島津義弘が比志島紀伊守へ、朝鮮では百姓の一部が帰住したものの武士は山中に潜み、道路で待ち伏せするため、使者一人にも百~二百人の護衛が必要だと報告する。 薩摩から兵船が来ず、借船と少人数で渡海した結果、軍勢・船・物資が不足し、連絡も軍役も立ちゆかない窮状を列挙する。国元から人員と船・諸道具を早急に送る…

  73. 後編2-No.971 島津義弘書状

    島津義弘が比志島紀伊守へ、国元に滞在して朝鮮へ着陣しないとの風聞を厳しく問いただし、直ちに渡海して自分のもとへ来るよう命じる。 命令に従わなければ石田正継に知られて身上処分となり、国元へも詳しく報告すると警告する。遠征参加をめぐる主従間の緊張と、豊臣奉行の処罰権を背景にした強硬な督促状である。

  74. 後編2-No.972 入来院重時知行方目録

    入来院重時の知行方として、岩之上・宮之脇・宗楽寺・権門・木場田・上別当・市・洞辺・新開などの田地を、上田・中田・下田の等級と面積に分けて列挙する。 島津義弘の花押を伴い、田中氏に伝来した目録で、検地後に入来院氏関係の知行地を地点ごとに配分・確認した史料である。

  75. 後編2-No.973 島津義弘譜

    明皇帝が李如松を提督、宋応昌を経略使に任じ、朝鮮救援の大軍を編成したことを島津義弘譜から記す。李如松は鴨緑江を渡り、兵を三列に分け、楊元・張世爵・呉惟忠らを配置した。 南兵三千を含む総勢五万余と記され、日本軍に対する明の本格介入と指揮系統・軍勢配置を島津側が把握していたことを示す。

  76. 後編2-No.974 征韓偉略

    李如松が薊州・遼東・保定・山東の軍務を統べ、朝鮮救援の総兵官として派遣された経緯と、明軍が諸将を各城へ配置して防備を整えた状況を記す。 朝鮮各地の城郭・軍勢配置、金化・春川などの要地をめぐる動向を列挙し、日本軍と明・朝鮮軍が衝突する前段階の作戦配置を伝える『征韓偉略』の記事である。

  77. 後編2-No.975 征韓偉略

    十二月二十三日に明軍後隊が遼陽を発した頃、島津義弘・久保父子は、咸鏡・江原・慶尚三道の要衝である金化城を守っていた。三方面から敵が来攻すると、久保は軽騎で突撃して敵を退けた。 久保が自ら敵を追い、虎にも組み付くほどの勇を示したため、義弘は軽率な勇は大将の振る舞いではないと戒め、山野で獣を追うことも禁…

  78. 後編2-No.976 木下宗固書状

    木下宗固が道正へ、小刀三本と剃刀一本を贈り、前年に若休甫が薩摩へ下向した際の厚遇を聞いたと礼を述べる。 日本軍が朝鮮へ渡海するにあたり、竜伯の菩提・祈願に関わる寺社や僧侶への依頼、祈祷・使僧・金銭や物品の取り扱いを細かく相談する。軍事遠征を宗教面から支える祈願と寺院間交渉を示す書状である。

  79. 後編2-No.977 石田三成書状

    石田三成が新納忠元へ、二度の書状と三郎兵衛の口上を受け取ったと返答し、長く京都にいる次郎四郎の帰国希望について説明する。 朝鮮出兵に伴い中国・九州から人質を再び召し上げているため、以前からの人質だけを今帰国させることはできないとする。一方、幽斎在国時の朱印では忠元への配慮が示されているとして、状況を…

  80. 後編2-No.978 島津竜伯書状

    島津義久(竜伯)が、朝鮮への軍勢・兵糧輸送を優先するため上洛を延期したと伝え、船がないことを理由に渡海を遅らせれば処罰対象になると厳しく警告する。 船を購入してでも、まず千五百人ほどを早急に渡海させ、番衆と兵糧も確実に送るよう命じる。島津領内における兵員・船舶・食糧調達を具体的な人数付きで督促した軍…

  81. 後編2-No.979 島津義弘書状

    島津義弘が大野金七・浮田与一へ、春川方面で明・朝鮮軍の攻撃を受けて加勢要請が来たため、兵を派遣し、自身の金化への陣替えも延期して春川の情勢を待つと伝える。 混乱のため十分な人数を割けないことを詫びながら、可能な兵を送ったので部隊に加えるよう依頼し、詳細は使者に託した。複数戦線間で限られた島津兵を融通…

  82. 後編2-No.980 黒田孝高書状

    黒田孝高が島津義弘へ、久しく連絡していなかったことを断り、自身の渡海後の移動と、釜山浦で数日滞留した事情を報告する。 軍勢の到着が遅れ、思うように進めず、国元の者が京都へ遅参して外聞・面目を失うとの懸念にも触れる。黒田勢の渡海・集結が計画どおり進まなかったことを伝える近況書状である。

  83. 後編2-No.981 島津義久袖加判町田久倍書状

    町田久倍が米屋源三郎へ、父・彦兵衛が京田で奉公したことを理由に、源三郎も引き続き召し抱え、当郡内の知行を与えると通知する。 別紙目録の土地を確実に領知し、今後も奉公に励むよう求める。父の功績を子の召抱えと知行安堵へ結び付けた家臣処遇の書状である。

  84. 後編2-No.982 島津義久譜

    島津義久譜に収める記事だが、本文には「九八五号記事ト同文ニツキ省略ス」と注記され、内容は掲載されていない。 No.985と同じく、薩摩・大隅両国の寺社にある梵鐘を調査し、主要寺社を除いて供出候補を報告するよう求めた命令の重複記録である。

  85. 後編2-No.983 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津義久へ、薩摩・大隅両国の寺社領から義久が存続を望む所を除き、残りを没収して義久の蔵入地とするよう命じる。翌年に正式な検地を行うまで、暫定的に年貢収納を進める方針も示す。 さらに帰国後、大晦日までに処置を確定し、造船用の楠・杉・松の大木を領内で調査して報告するよう求める。寺社領再編と軍船…

  86. 後編2-No.984 長束正家・石田正澄連署状

    No.985の長束正家・石田正澄連署状と同文のため、本文を省略した重複記録。 薩摩・大隅両国の寺社が所有する梵鐘を調査し、主要寺社に不可欠なものを除いて、所在地とともに報告させる命令を別の伝本から収録したものである。

  87. 後編2-No.985 長束正家・石田正澄連署状

    長束正家・石田正澄が島津義久らへ、秀吉が「撞鐘」を必要としているため、薩摩・大隅両国の寺社にある梵鐘を調査して書き上げるよう命じる。 大社や存続に不可欠な寺の鐘は除外し、それ以外は所在地を添えて報告するよう求める。朝鮮出兵期に寺社の金属資源を把握・動員しようとした具体的な命令書である。

  88. 後編2-No.986 細川玄旨副状

    細川幽斎が島津義久へ、秀吉の命令に基づき、薩摩・大隅の寺社領から義久が残したい所を除いて没収し、義久の蔵入地とする処置を改めて伝える副状。翌年の検地までの暫定収納にも触れる。 あわせて造船用の楠・杉・松、寺社の梵鐘を調査して報告するよう求め、朱印状と奉行連署状の実施を仲介した文書である。

  89. 後編2-No.987 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津久保へ、献上された雁二羽が遠路にもかかわらず無事に到着したことを喜び、入念な手配を評価する朱印状。 詳細は石田木工頭正澄から伝えるとする。朝鮮在陣中の久保が秀吉へ贈物を届け、主従関係を維持していたことが分かる短い礼状である。

  90. 後編2-No.988 島津竜伯書状

    細川幽斎の取り成しを受け、鹿児島のうちから少分の知行を別紙目録のとおり宛行うので、確実に領知するよう伝える。 朝鮮出兵期の島津領内で、中央文化人の仲介が知行給付に結び付いたことを示す書状。

  91. 後編2-No.989 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が羽柴薩摩侍従(島津義弘)へ、炎天の渡海と寒天に及ぶ長期在陣の苦労をねぎらい、兵糧を十分に集積して占領した城々を堅固に守るよう命じた朱印状。翌春三月に秀吉自身が渡海して平定すると告げ、将兵を倦ませないこと、船を残らず送って兵糧輸送に用い、船子は帰郷・休養させて次の御用に備えるよう指示している…

  92. 後編2-No.990 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、長期在陣と寒天の苦労をねぎらい、小袖二重を与えた朱印状。翌春に自ら渡海して一気に平定すると告げ、それまでは性急な軍事行動を避け、城々を堅固に守り、兵糧を十分に集積するよう命じている。No.989の島津義弘宛と同日付だが、豊久に対しては城郭守備と軽率な出撃の抑制を重…

  93. 後編2-No.991 島津竜伯書状

    国内が北から乱れないよう替儀を禁じ、細川幽斎が在国中であるため、各人の知行に従って軍務・警固を厳重に勤めるよう求める。 朝鮮出兵で主力が渡海する一方、島津領国の留守と秩序維持を歳久に託した書状で、国内統制の緊張が分かる。

  94. 後編2-No.992 長束正家書状

    細川幽斎の遺失と国替えへの対応を伝え、翌春の渡海に向けて兵糧を加増し、城普請・船の準備を急ぐよう求める。 熊谷直盛・垣見一直と協議し、兵を国内に残さず渡海させることまで念押しした、奉行長束正家による朝鮮出兵準備の督促状。

  95. 後編2-No.993 島津義弘譜

    加藤清正が女真方面へ進軍している間に朝鮮軍約六万人が金海城を包囲したため、救援兵を派遣して敵を退散させた経過を記す。 その後、諸将の移動・金化への駐屯・渡海関係の軍事行動を述べ、島津義弘父子が朝鮮各地で担った作戦の位置を伝える譜記事。

  96. 後編2-No.994 北郷三久譜

    文禄元年冬、島津義弘・久保父子が諸将の評議に応じ、永平城や江原道金化方面の警備・移動に従ったことを記す。 北郷三久が両公に従軍した事績として、朝鮮出兵初年の島津勢の配置と行動を家譜に残した記事。

  97. 後編2-No.995 豊臣秀吉朱印状

    高麗王子兄弟と官人二百余人を捕らえた戦功を賞し、引き続き都へ押し進むよう加藤清正に命じる。 炎天下の長距離進軍を「武心棟梁」と称え、褒美として黄金五百両を与えると伝えた、朝鮮出兵初期の戦果評価を示す朱印状。

  98. 後編2-No.996 島津義久袖加判領知目録

    薩州加世田のうち、浮免一町四反余などの土地を前田源三郎へ宛行った領知目録。 地積を具体的に記し、文禄元年の島津領内で家臣知行がどのように割り付けられたかを確認できる。

  99. 後編2-No.997 豊臣秀吉朱印状

    本文は「No.987と同文につき省略」と注記された重複文書。No.987と同じく、豊臣秀吉が島津久保から献上された雁二羽の無事到着を喜び、遠路の入念な手配を賞し、詳細は石田正澄から伝えるとした朱印状である。

  100. 後編2-No.998 町田久倍領知目録

    薩州大口のうち、浮免・くろとり・野間口など合計二百九十余歩の土地を記した領知目録を内田備前守へ送る。 野田七郎右衛門家に伝来した文書で、村名・地積を伴う小規模知行の具体像が分かる。