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後編2の目録
旧記雑録 天正13年~文禄4年の文書・記事です。
全1,646件中 1001~1100件・11 / 17ページ
後編2-No.999 伊勢貞昌外二名連署知行目録
隅州栗野内木場村の知行目録について、慶長十九年に伊勢貞昌・三原重種・比志島国貞の三名が連署して確認した文書。 天正期の知行関係を後年に再確認した可能性があり、土地権利の継承と家中行政を追う材料となる。
後編2-No.1000 町田久倍領知目録
薩州大口のうち、牛野名の田地三反九畦十歩などを本村淡路守へ宛行った領知目録。 地名・地積を簡潔に示し、大口地域における家臣知行の配分を具体的に確認できる。
後編2-No.1001 島津義久袖加判領知目録
日州志布志のうち、志布志名の三反二畝余を町田出羽守へ領知させた目録。 島津義久の袖判を伴い、志布志における小規模な知行給付と受給者を明確にする。
後編2-No.1002 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が島津義久へ、島津方の蔵入地について細川幽斎と相談し、代官の法度を徹底して支配するよう命じる。船木の件も同様に処理し、詳細は長束正家・石田正澄から伝えるとした朱印状。豊臣政権が島津領内の蔵入地と代官行政へ直接関与したことを示す。
後編2-No.1003 正恒知行目録
切紙島地の井尻一反を前田源三郎へ宛行い、命令に従って確実に知行するよう伝えた知行目録。 一筆の土地を対象とする簡潔な給付文書で、小規模知行の実態が分かる。
後編2-No.1004 島津義久袖加判領知目録
薩州羽月のうち、石林庵先の青木の本・窪牟田などの田地を早水豊前守へ宛行った領知目録。 複数の小字と地積を列記し、羽月地域における知行地の構成を具体的に示す。
後編2-No.1005 豊臣秀吉朱印状
本文は「No.1002と同文につき省略」と注記された重複文書。No.1002と同じく、豊臣秀吉が島津義久へ、細川幽斎と相談して蔵入地を支配し、代官法度を徹底すること、船木の件も同様に処理することを命じた朱印状である。
後編2-No.1006 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が増田長盛・石田三成・大谷吉継へ、来春三月に渡海して一揆を成敗し、仕置を行う方針を伝え、それまで諸城を堅固に守って軽率な動きをしないよう命じた。 中川右衛門大夫が無人の番所へ出て待ち伏せに遭い戦死した件は忠節と認め、弟小兵衛に跡目を許す。一方、今後は物見や弓・鉄砲衆を先行させ、無謀な戦死者に…
後編2-No.1007 長寿院盛淳外三名連署正竜寺領目録
薩州山川の正龍寺領について、長田・西之俣・冷水ヶ坂・山畑など各所の田地を列挙した寺領目録。 鎌田政近・町田久倍・長寿院盛淳らが連署し、寺領の所在地と面積を公的に確認した基礎史料。
後編2-No.1008 細川幽斎書状
細川幽斎が正龍寺へ、国内寺社領を削減したものの、同寺の所在する山川は唐船などが往来する港であり、一寺を廃絶させるのは不都合だと伝える。寺領は従前どおり調進して領知し、寺務に励むよう求めた書状で、海外交通の要港であることが寺領保全の理由となっている。
後編2-No.1009 島津義久袖加判領知目録
薩州市来のうち、永里名四反二十歩を龍雲寺の先住宇都へ宛行った領知目録。 寺院関係者に与えられた田地の地名と面積を明記し、市来における寺院知行の一端を示す。
後編2-No.1010 島津竜伯書状
隅州正八幡領のうちから二百石を樺山入道へ宛行い、別紙目録に従って確実に領知するよう命じる。 まとまった石高を明記した島津竜伯の知行宛行書状で、朝鮮出兵期の家臣処遇を示す。
後編2-No.1011 島津義久袖加判領知目録
隅州蒲生のうち、山畑・加か山・みやの前・堂の脇・谷河つるなどの田地を列挙した領知目録。 島津義久の袖判と町田久倍・鎌田政近・長寿院盛淳の確認を伴い、蒲生地域の知行地構成を詳細に示す。
後編2-No.1012 町田久倍外二名連署領知目録
薩州郡答院のうち、黒木・一かへの園門など七反五畝余を指宿左近兵衛尉へ宛行った領知目録。 村田先の土地として地名・面積を記し、郡答院における家臣知行の具体的な配分を確認できる。
後編2-No.1013 島津義久袖加判領知目録
薩州河辺のうち、井新田之門を中心とする田畠・山畑十二町五反余、分米・大豆百三石余を記し、そのうち五十三石余を上原筑前守の領知とする目録。 平泉・河辺からの替地分と残る新知分を区別しており、土地交換を伴う知行再編の数量的な内訳が分かる。
後編2-No.1014 島津義久袖加判領知目録
薩州田布施のうち、内侍先・濱田・日置町などにある浮免田を列挙し、阿多掃部介へ宛行った領知目録。 島津義久の袖判に加えて比志島国貞・町田久倍・長寿院盛淳らが確認し、複数地点に分散した知行地の構成を示す。
後編2-No.1015 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が薩州和泉の留守居衆へ、又太郎が渡海後も兵庫頭の一手に加わらず、高麗で目立った働きがないとの報告を受け、徹底して糺明するよう命じる。又太郎の母・妻と留守居の妻子を名護屋へ召し連れるよう要求し、遅参すれば処罰すると警告した、軍役不履行に対する厳しい朱印状である。
後編2-No.1016 樺山紹剣自記
文禄二年春、朝鮮で日本軍が後退するなか、島津勢が奉行衆の命を受け、敵を十里ほど追って夜襲した経過を樺山紹剣が回想する。 鉄砲を用いた敵を城戸から追い散らし、一人を討ち取るなど、朝鮮出兵の現場での追撃・夜戦を当事者の視点から記した自記。
後編2-No.1017 朝鮮日々記
高麗の都へ向かう軍勢の編成、騎馬・鉄砲を備えた敵との遭遇、斥候や陣立て、戦闘後の処置を連続的に記す。 日本軍内部の命令伝達や諸将の動きだけでなく、現地住民・捕虜への対応も含み、朝鮮出兵の行軍と戦場秩序を具体的に伝える日記記事。
後編2-No.1018 朝鮮日々記
退陣時の宿営や敵襲への警戒、住民の動揺、小西勢への援軍と周辺部隊の配置を記し、軍中で情報が錯綜する様子を伝える。 末尾では文禄二年八月十五日の島津久保死去にも触れており、戦況記録と島津家の重大な喪失が結び付いた日記記事。
後編2-No.1019 新納忠増日記
島津久保の死去をめぐる記述を起点に、新納忠増が国内の宿駅をたどり、海路で朝鮮へ向かう長い旅程を日記形式で記す。 道中の宿主・使者との応対、和歌、渡船や暴風雨、難航する船中での祈願、朝鮮到着後の島津義弘への伺候までが細かく描かれる。 朝鮮出兵の軍事行動だけでなく、移動・宿泊・航海の危険、従軍者の感情と…
後編2-No.1020 泗川鑓毛付
泗川で用いられた鑓の毛付について、紫おどしや紺糸などの意匠があり、新納弥太右衛門尉の所用であったことを記す。 短文ながら、戦場で用いられた武具の装飾・識別方法と所用者を具体的に確認できる記録。
後編2-No.1021 大島忠泰高麗道記
大島忠泰が、薩摩で仕えた島津義弘を頼って高麗へ向かう道中を、宿泊地・人々との応対・贈答・風景とともに記した紀行。 旅先で詠んだ多数の和歌、金剛経読誦や神仏への祈り、故郷や知人を思う心情が随所に入り、従軍の道程を内面的に伝える。 軍事記事だけでは見えにくい、朝鮮出兵期の主従関係、旅の不安、宿の交流、武…
後編2-No.1022 大島忠泰書状
高麗在陣中の大島忠泰が、家族には自分を心配しないよう伝え、大蔵仲兵衛・九郎左衛門尉らに留守宅と家中のことを託した書状。 十八日以降の日付ごとに、宿泊地、進んだ里数、川口への船着きなど移動の経過を細かく報告し、書状や贈物の受け渡しにも触れる。 軍務の背後にある家族への気遣い、留守居の運営、朝鮮在陣者の…
後編2-No.1023 大島忠泰書状
か兵衛らの動向について、先に人足だけが到着し、本人は荷物を降ろすため遅れていると宿本へ知らせる。 留守中の人員配置や下女の扱いを相談し、湯尾の「こけさま」への礼、護符・守りや神慮に関する依頼も書き添える。 移動中の荷物処理、奉公人の配置、祈祷・護符への信頼が同時に現れる、家政上の細かな相談書状。
後編2-No.1024 大島忠泰書状
大島忠泰が内方へ、留守宅の火の用心を徹底し、仲兵衛の黒役や家中の作事について下代衆へ指示するよう頼む。 小吉・宮役殿・弥太右衛門らへの伝言、手紙や贈物の受け渡し、船を出す日取りについても細かく書き、三~五日中の好日を見て出船すると知らせる。 在外中の夫が妻へ家政・人間関係・輸送を託し、「心遣いあるま…
後編2-No.1025 大島忠泰書状
大島忠泰が、月内に引き陣して帰国する見込みと、複数の船の着岸・乗船、馬や荷物の手配を「やともと」へ細かく伝える。 道中の日程や同行者、家中の者への伝言、贈物の受け渡し、留守中の人員・家畜の扱いまで指示し、長期在陣から帰還へ移る際の実務と家族への気遣いを伝える私信。
後編2-No.1026 伊勢貞昌書状
大島忠泰が「御請国」の際に薩州様から知行を与えると約束されながら、出立時に必要な書状が付されず、給付が実現していない事情を伝える。 伊勢貞昌は弾正大弼・下野守へ書状を送り、大島側からも事情を申し入れるよう勧めており、未処理の知行給付を実現するための取次状。
後編2-No.1027 新納忠元勲功記
文禄初年、新納忠元が渡海軍の編成、兵糧・船舶の調達、留守役や家臣の派遣に奔走し、島津義久・義弘の命を受けて軍務を支えた経過を編年で記す。 船不足や家臣間の利害対立、讒言・虚偽の訴えによる処分、逆徒への対応など、朝鮮出兵期の島津家中に生じた深刻な混乱も詳述する。 忠元の忠節と軍功が最終的に認められ、後…
後編2-No.1028 島津義弘譜
文禄二年正月、李如松率いる明・朝鮮軍が平壌城を包囲・攻撃し、小西行長ら日本軍が城内で迎撃した戦闘を記す。 城壁の突破と兵力差により日本軍が退却する際、大友義統の離脱や追撃による混乱が生じ、残兵が王城へ集結するまでを描く。 平壌の戦いで日本軍の戦線が崩れた経過と、島津勢を含む諸将が朝鮮半島で直面した危…
後編2-No.1029 島津義弘譜
平壌退却後、朝鮮の群盗が王城―釜山間の往還を塞いだため、奉行衆が咸鏡道の加藤清正を王城へ戻して鎮圧させる方針を決める。 敷根仲兵衛が使者を志願し、猿渡掃部兵衛と鉄砲の巧者百人を伴って甲山城へ赴き、清正に帰城命令を届けた経過を記す。 島津家臣が危険な連絡路を突破し、全軍の再編命令を伝えた具体的な軍使活…
後編2-No.1030 征韓偉略
文禄二年正月二十七日、李如松が明兵二万を率いて碧蹄館へ進むと、小早川隆景は籠城では兵糧と釜山からの援路が絶えるとして野戦を主張する。 立花宗茂も、平壌勝利で油断した明軍を城外で迎撃すべきだと説き、諸将が碧蹄館の決戦へ向かう論議を記す。 碧蹄館の戦い直前の作戦判断を、補給路・敵心理・兵力運用の観点から…
後編2-No.1031 島津義久譜
文禄二年元旦、細川幽斎が甑島で越年し、試筆の発句や和歌を詠んだことを島津義久譜に記す。 あわせて王城の東大門を黒田長政、南大門を小早川隆景が守った配置に触れ、薩摩での文芸と朝鮮の軍事情勢が同時に記録される。
後編2-No.1032 細川幽斎玄旨詠草
細川幽斎が甑島で迎えた春を題材に、「旅衣は春を羨む今年かな」と旅中の越年を詠む。 さらに、東から来る春も薩摩路には早く立つ霞に追い越される、と当地の早春を詠んだ二首を収める。朝鮮出兵期に薩摩へ滞在した幽斎の旅情と文芸活動を伝える詠草。
後編2-No.1033 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉が島津豊久ら各地の留守居衆へ、高麗から私用のため帰航させた船に、船主の兵糧・荷物を期限までに積み、速やかに再渡海させるよう命じた朱印状。美濃部四郎三郎と松井藤介を奉行として派遣し、浦ごとの船数と兵糧量を案内者とともに調査・記録させ、空船には名護屋で米を支給すると定める。朝鮮出兵を支えた船舶・…
後編2-No.1034 島津竜伯久寄進刀目録
島津義久が天正二十一年に田布施の金峯山へ寄進した長刀一振の目録。刀身は長さ一尺七寸、両面に火入りがあり、赤銅拵で無銘と記す。 現状について錆付き、柄が破損していることまで記録しており、寄進武具の形状と保存状態が分かる。
後編2-No.1035 島津竜伯久寄進甲鎧目録
島津義久が天正二十一年に寄進した武具を記録し、御鎧一領と御甲一枚を掲げる。 長刀・矢之根の目録と並び、金峯山関係の寄進品の構成を知ることができる簡潔な物品目録。
後編2-No.1036 島津義弘寄進矢之根目録
島津義弘が寄進した矢之根一つの目録。長さ六寸、幅四寸五分で、二重の透かしがあり、無銘・錆付きと記録する。 大型で装飾性を備えた鏃の寸法と保存状態を具体的に伝える武具資料。
後編2-No.1037 島津竜伯義久寄進状
高麗渡海を「一大事」と捉え、無事に帰朝して成就できるよう祈願し、金峯山で千句を興行して奉納すること、鎧一領と長太刀を寄進することを誓う。 朝鮮出兵に際し、島津義久が武具奉納と文芸的な千句興行を組み合わせて戦勝・帰還を祈った寄進状。本文は冊子662頁末から663頁冒頭へ続く。
後編2-No.1038 入来院重時知行宛行状
安藤二介に関する算用として、百石を田中源介へ遣わすことを入来院重時が認めた知行宛行状。 同日付の三通のうち最大の石高で、給付対象と数量を明記した家中の配分文書。
後編2-No.1039 入来院重時知行宛行状
安藤二介に関係する一か所について、春口屋敷用として「三十三反こたか先地石」を勝田平左衛門尉へ遣わすことを認める。 同日付の宛行状の中でも、屋敷用途と土地・数量の表現を具体的に示す文書。
後編2-No.1040 入来院重時知行宛行状
安藤二介に関する算用として、三十石を勝田源左衛門尉へ遣わすことを入来院重時が認める。 百石・屋敷用土地の宛行状と同日に出された一通で、受給者と石高の違いを比較できる。
後編2-No.1041 昭高院如雪書状
長く音信が途絶えていた島津兵庫頭に、友枕斎を介して消息を伝える。豊臣秀吉が当春に渡海するとの風聞に触れ、現地で静謐を命じられるのか、帰国となるのかを案じる。 前年九月二十八日付の書状を前日に受け取ったと述べ、無事の帰朝を日々祈念していること、又一郎への伝言も託す。朝鮮在陣者を気遣う具体的な心情が見え…
後編2-No.1042 細川幽斎書状
新たに渡された土地について、島津義久(竜伯)へ申し入れたうえで伊勢上総介に引き渡したことを伝える。 この土地には別途の公役などを課さないため、その趣旨を心得て領知することが肝要だと念を押した知行関係の書状。
後編2-No.1043 長寿院盛淳外二名連署状
大隅国正八幡領のうち加治木にある浮免分七十一石四斗八升六合三勺について、四十五石の請負として定める。風害・干害・水損があっても収納を果たす一方、満作の年でも四十五石を超えて徴収しないと取り決める。 検地で田畠・山林などが確認されてもこの条件を変えないと保証しており、年貢請負額を固定して双方の負担限度…
後編2-No.1044 肝付中将証状案
文書番号の直下には「案文」とのみ記され、前掲No.1043が肝付中将側の証状案であることを示す短い注記。 独立した本文は収録されておらず、正八幡領加治木の浮免分・四十五石定請に関する具体的内容はNo.1043と目録表題から確認する必要がある。
後編2-No.1045 島津義久譜
文禄二年正月十九日に細川幽斎が名護屋へ赴き、翌二十日には島津義久(竜伯)も鹿児島を出発したと記す。 義久は名護屋にしばらく滞在したのち帰国したとし、護国廟の碑文にもその経緯が見えるという。朝鮮出兵期の義久の移動日程を伝える譜記事。
後編2-No.1046 豊臣秀吉朱印状抄
高麗へ派遣された船頭・水夫が病にかかり、過半が死亡したため、領国内の各浦から代替要員を渡海させるよう命じる。 要員は十五歳以上六十歳以下を限度とする趣旨で、朝鮮出兵が海上輸送を担う人々に与えた損耗と、補充動員の年齢条件を伝える朱印状抄。
後編2-No.1047 豊臣秀吉朱印状抄
豊後国を豊臣秀吉の蔵入地としたところ百姓が逃散したため、逃げた百姓を帰村させるよう命じる。百姓を抱え置く在所は成敗するとし、薩摩・大隅・日向の島津義久留守居中へ朱印状を出したことを記す。 豊臣政権が直轄領の耕作者確保を優先し、島津領へ流入した逃散百姓の送還を強制したことが分かる。
後編2-No.1048 加藤清正書状
京都から来た二、三人が持参した書状への返書を託し、伊東を介して壱岐守方などへ確実に届けるよう求める。京都への使者については、加藤清正の別紙を持たない者を不用意に通さず、信頼できる者をまとまった人数で送るよう指示する。 戦時下の書状輸送で、通行証・取次・護送人数を用いて情報と使者の安全を管理していたこ…
後編2-No.1049 宗房書状
石治少の切手を持つ使者に書状を託し、確かな便で早く帰すよう依頼する。あわせて、彫物のある備前三郎国宗の刀をこの使者に与えてほしいと重ねて願い、他人へ渡っている場合も入手できるよう才覚を求める。 刀を陣中へ持参した際の受渡方法まで指定しており、名刀への強い執着と人を介した入手交渉が具体的に見える書状。
後編2-No.1050 本田正親坪付
加世田地頭所の名内にある「淀免いち口」一反四畝を、前田小右衛門尉へ宛てた坪付。 所在地・地目と面積を簡潔に示し、本田因幡介正親の花押をもって土地の給付範囲を確定した文書。
後編2-No.1051 入来院重時知行方目録
白下・赤下・上之原・田島山畑などに散在する田畠・屋敷を、地目ごとの面積とともに列挙して東郷助左衛門尉へ与える。 合計は二町一反二畝一分、米高二十石二斗五升三合三夕二才と算定されており、入来院重時家中の知行を面積と収穫高の両面から確認できる目録。
後編2-No.1052 麻植長通書状
前年九月二十八日付の書状を薩摩で受け取り、長期在陣の苦労を慰める。島津義久(竜伯)と細川幽斎が名護屋へ向かい、幽斎が天候のため八代に滞留した状況も知らせる。 薩摩・大隅の蔵入地と検地について、検地なしでは蔵入収入や諸奉公人の軍役を定められないと指摘し、石田三成との緊密な折衝を勧める。領国行政と朝鮮在…
後編2-No.1053 島津義弘譜
加藤清正が咸鏡道から金山方面へ進む際、斎藤・立本・荘林隼人・龍造寺又八郎ら五千を先発させ、群盗に包囲された金山を救援した戦闘を記す。与三右衛門や伊東勘平・井出市左衛門以下二百余人が戦死し、援軍は遺骨を焼いて翌日帰陣した。 清正は咸鏡道を離れて二月五日に王城へ入り、休息せず五、六日間群盗を追討して城内…
後編2-No.1054 豊臣秀吉朱印状
高麗へ伴った船頭・水夫が病気となり過半が死亡したとの報告を受け、島津領の各浦に残る水夫を調査し、十五歳以上六十歳以下の者を奉行付きで渡海させるよう命じる。拒否者は後日成敗するとし、高麗から用務で戻った船も早急に再渡海させるよう厳命する。 浅野長政・長束正家・木下半介を取次として名指しした、朝鮮海上輸…
後編2-No.1055 長寿院盛淳外二名連署領知目録
薩州隈城内の城岡之門をはじめ、屋敷・田畠・山畑などの所在と面積を列挙して長谷場越前守へ与えた領知目録。 新知三十石に九石一斗を加え、先知行と合わせて六十石の役を勤める条件で付与したことを明記する。三奉行が連署し、給付地の内訳と軍役負担を結び付けた家臣知行文書。
後編2-No.1056 豊臣秀吉朱印状
日向島津に関する用務のため落合新八を派遣したので、案内者を付けて関係者を捜し出し、落合のもとへ来させるよう命じる。 落合新八を現地に留める場合は宿泊以下を十分にもてなすよう指示しており、豊臣政権の使者に対する島津方の探索・接待責任を定めた朱印状。
後編2-No.1057 豊臣秀吉朱印状抄
No.1046の豊臣秀吉朱印状抄と同文であるため、原資料では本文を省略している。高麗へ派遣した船頭・水夫の過半が病死したことを受け、領内各浦から十五歳以上六十歳以下の代替要員を渡海させる命令。 同一命令が別の伝来・収録箇所にも残されたことを示す重複記事。
後編2-No.1058 豊臣秀吉朱印状
日向島津に関する用務で落合新八を派遣したため、案内者を添えて対象者を捜し出し、落合のもとへ来させるよう新納忠元へ命じる。 落合を現地に留める際は宿泊などを十分に世話するよう求めており、No.1056と同趣旨の命令を別の現地責任者へ発した朱印状。
後編2-No.1059 豊臣秀吉朱印状
船が揃い次第渡海するため、高麗にある船だけでなく各領地にも命じて船数を確保し、名護屋で引き渡すよう求める。船を組ごとに編成し、総奉行と弾正奉行を付けて差し出すことも指示する。 兵粮は実際の保有量を正確に申告させ、下々に無理な負担をかけず、受取証を出して便利な場所で集積するよう命じた、船舶・兵粮の総合…
後編2-No.1060 島津義弘譜
李如松率いる明軍十万が開城から王城へ迫るなか、日本軍が偽情報・退却・伏兵を組み合わせて迎撃した経過を詳述する。小早川隆景が諸隊を分け、立花宗茂らが激戦を展開し、李如松の騎兵を崩して多数を討ったとする。 戦後、王城側の兵も追撃に出たが、明軍退却後の城内混乱や川での溺死まで記す。碧蹄館の戦いを軍勢配置・…
後編2-No.1061 後陽成天皇宸翰
『大閤記』に収録された後陽成天皇宸翰で、原資料はNo.127と同文であるため本文を省略すると注記する。 同じ宸翰が本巻の別番号でも参照されていることを示す重複収録情報であり、内容確認にはNo.127との照合が必要。
後編2-No.1062 豊臣秀吉朱印状
在陣地から逃げ出す者がいるため、手判のない者を一切通さず、不審者は捕縛して差し出すよう命じる。逃亡者を隠した場合は、発覚次第その在所全体を処罰すると警告する。 留守番所に領主責任で堅固な番衆を置き、朱印状を書き写した高札を立てるよう求めた、脱走防止と地域連帯責任を組み合わせた取締令。
後編2-No.1063 島津義弘譜
李如松が、豊臣秀吉が二十万の兵で渡海侵攻すると明朝へ報告し、明帝が劉綎・陳璘ら水陸軍を動員して軍資二十万両を支給したと記す。 李寧・祖承訓らを開城・平壌・臨津などに配置し、査大受が龍山に蓄えられた宇喜多秀家軍の大量の兵粮を焼却したため、日本軍に飢えと死者が生じたという兵站攻撃の記事。
後編2-No.1064 征韓偉略
明軍が日本軍二十万来攻との情報を受けて防備を固め、査大受が龍山の兵粮を焼いたことを記す。日本軍側では毛利吉成・島津義弘・伊東民部守らが在京城の守備・撤収に関わり、加藤清正・鍋島直茂らも陣を離れたという。 黒田長政が殿軍を務め、宇喜多秀家を中心に諸将が王城から移動する際の軍勢配置と退却秩序を伝える記事…
後編2-No.1065 征韓偉略
咸興の加藤清正が明使から朝鮮王子の引渡しを条件に帰国を促されるが拒絶し、宇喜多秀家らからも明軍接近と釜山路遮断を理由に帰陣を求められた経過を記す。 交渉使の人選が難航するなか島津義弘が引き受け、敷根伊兵衛・猿渡掃部兵衛に鉄砲兵二百人を付け、敵地を十余日進んで清正へ書状を届けさせた。島津方の危険な使者…
後編2-No.1066 征韓偉略
四月十八日の軍事行動について、小早川隆景が黒田長政に大河を渡らせたことを記す。別記では島津義弘父子と毛利吉成が殿軍を務めたと注記する。 短い記事ながら、渡河作戦と後衛担当の諸将を確認できる。
後編2-No.1067 石田正澄書状
豊臣秀吉の渡海は四、五月頃になる見込みで、先発衆の渡海後となるため船の到着次第だと伝える。島津義久の御目見は秀吉に時間がなく未実現だが、細川幽斎らと相談して早く実現させると述べる。 高麗では平壌の小西行長軍が朝鮮・明軍との戦いで敗れて江陰まで退いたとの注進を報告する一方、兵庫頭島津義弘は無事なので安…
後編2-No.1068 豊臣秀吉朱印状
高麗の都から来た使者を用務のため直ちに送り返すので、都まで順次送り届けるよう命じる。浅野長政・黒田孝高が後から渡海し、軍勢と兵粮を送るまでの間は、手近な御蔵米を人数に応じて渡すよう指示する。 急ぎ渡海して現地の仕置を公平に行い、引継ぎに落ち度がないよう求めた、使者輸送・兵站・占領行政を一体化した朱印…
後編2-No.1069 島津義弘・同久保連署宛行状
公儀の使者として奥地の陣へ赴く薩摩衆を命じたところ、猿渡掃部兵衛尉が異議なく引き受けたことを「無比類」と賞する。 無事に帰国した際には、この軍忠に対して知行を宛て行うと島津義弘・久保が連署して約束した。危険な使者任務と恩賞を直結させた宛行状。
後編2-No.1070 長寿院盛淳立願状
八幡新田宮の宝殿造立を願い、島津義久・義弘・久保の息災延命、子孫繁昌、心身の勇健、領国の安泰を祈願する。 願いが速やかに成就するよう神前に誠を尽くすことを誓った立願状で、朝鮮出兵期の島津一族の安全と家運を寺社造営に結び付けている。
後編2-No.1071 長寿院盛淳寄進状
八幡新田宮へ終夜灯二灯を寄進し、島津義久・義弘・久保が今回のさまざまな災難を退け、武運長久と国家安全を得られるよう祈る。 神の憐れみと納受によって安穏泰平となることを願った寄進状で、No.1070の宝殿造立願と対になる具体的な奉納内容を示す。
後編2-No.1072 豊臣秀吉朱印状
在番交代のため福島正則を派遣するので、城普請を堅固に進め、小勢でも城を守れるよう備えることを命じる。兵粮は春中に順次送るため、油断なく在番するよう求める。 長期の辛労をねぎらい、詳細は交代要員の福島正則から伝えるとした城郭守備の朱印状。
後編2-No.1073 豊臣秀吉朱印状
在番交代として福島正則を派遣するため、城普請を丈夫に仕上げ、小勢でも籠城できる態勢を整えるよう島津豊久へ命じる。兵粮は春中に追加輸送するとし、長期在番の労をねぎらう。 No.1072と同趣旨だが、宛先が島津義弘ではなく豊久で、年次も文禄二年と記された朱印状。
後編2-No.1074 宇喜多一之書状
奉行三人からの緊急書状を受け取り、順次送り届けることを報告する。熊牛次が一、二日中に帰る予定なので、義弘方へ向かう場合は事前に知らせてほしいと依頼する。 自身の帰路に送りを付けてもらったことや、日頃の厚意への感謝を述べた、書状配送と移動連絡に関する実務的な返書。
後編2-No.1075 町田久倍譜
細川幽斎が豊臣秀吉の命で薩摩に滞在し、旧規を改め新法を出して政務を改革した時期の町田久倍の対応を記す。新恩を求める者や旧臣の衰退を嘆く者が多いなか、久倍は私的栄達を求めず領国の安泰を願い、三か条の誓詞を島津義久へ差し出した。 義久も盟書を返し、久倍が家宝として伝えたという、豊臣政権下の領国改革と家臣…
後編2-No.1076 島津竜伯誓詞
町田久倍が神々に誓った三か条によって本心を深く示したことを、島津義久が「当家のため、我らのため」と高く評価する。 春日・八幡・天満天神も照覧するなか、互いに同心する誓いを決して忘れないと返答した盟書で、No.1075の誓詞に対する主君側の保証文書。
後編2-No.1077 島津義弘譜
文禄二年三月、王城の日本軍十万余が攻撃を止めているなか、諸将が再攻勢を論じた経過を記す。晋州・慶州方面の城郭や朝鮮軍の守備を偵察し、鉄砲・弓による攻防、援軍・兵粮不足、城攻めの困難を具体的に検討する。 日本側の損害と兵力不足から大規模派兵が難しく、豊臣秀吉が明征服を果たせないことを嘆いたという結末ま…
後編2-No.1078 伊東祐兵書状
大刑少殿宛の荷物を滞りなく陣所へ届け、鎌田蔵人への伝言も届いたか確認する。唐人が「しおん」という場所に集結したとの情報を二度得たため、内々に警戒を固めるよう義弘へ知らせる。 唐人を発見した場合は昼夜を問わず連絡すれば、人数を率いて出動すると約束し、捕虜を得た際は事情を尋問するよう求めた警戒・情報書状…
後編2-No.1079 島津竜伯書状
在陣中の又八郎からの書状を喜び、辛相殿の上洛については伊勢弥八から詳しく伝えると返答する。兵庫頭と又一郎が都と金山浦の間をつなぐ城の番手を務め、大川まで退いたとの報告に満足したと述べる。 前線の親族・家臣の配置と退却状況を、島津義久が国内側から確認していたことが分かる書状。
後編2-No.1080 島津義弘書状
国元で又八郎がたびたび酒を飲んでいると聞き、酒は一時の楽しみであっても身体と家を損なう「家の大敵」だと島津義弘が強く戒める。身分の上下を問わず、酒を知る者ほど節度を持つべきだと諭す。 あわせて烏丸兵部少輔に急用があるため、早く義弘のもとへ来させるよう指示する。戦況報告ではなく、家族・近親者への生活訓…
後編2-No.1081 脇坂安治書状
公儀の使者である山城小才次・美濃部四郎三郎が釜山浦まで来ており、東方の各所を確認してから義弘方へ向かう予定だと知らせる。現地衆が番替で帰朝するため、使者はまず脇坂の陣所へ来て指示を伝えるという。 向かい風のため到着が遅れ、夜船か翌日になる見込みを報告した、使者の移動予定と海上交通事情が分かる書状。
後編2-No.1082 毛利吉成書状
しばらく音信がなかったことを詫び、当地に異変はないと島津義弘へ伝える。前日に「かせんはしま」方面へ物見を出したが唐人は確認されず、ひとまず安心してよいと報告する。 義弘から馬大豆十石の援助を受けたことに深く感謝し、必要があれば「ふさんかい」方面でも用務を引き受けると申し出た、偵察報告と兵站支援への礼…
後編2-No.1083 山中長俊書状
博多に保管された兵粮を人数に応じて渡すよう命令が出たことを知らせ、島津方の船が着岸する頃に受け取りへ来るよう求める。 詳しい手順は二人の使者が伝えるため、油断なく船を差し渡して到着を待つとした、博多での兵粮受渡しを調整する書状。
後編2-No.1084 長寿院盛淳・鎌田政近連署領知目録
日向国蓬原内の市園屋敷・新開・とものきれ・道下などの土地を、面積ごとに列挙して鹿屋周防介へ与えた領知目録。 屋敷・畠を合わせた給付地の内訳を示し、一部を「御加恩」、残りを寄替として処理している。土地の所在と面積を具体的に確認できる家臣知行文書。
後編2-No.1085 長寿院盛淳・鎌田政近連署領知目録
薩摩国田布施内の深溝・川野先にある浮免一反を二宮掃部助へ与えた領知目録。島津義久(竜伯)の上洛中、二宮が諏訪大明神へ毎日参詣した忠節により畠一反を与えられ、その後、田方へ所替した経緯を記す。 単なる面積記録ではなく、祈願奉仕への恩賞と土地交換の履歴まで伝える史料。
後編2-No.1086 熊谷半次書状
石田三成・大谷吉継から派遣される両使が御朱印を携えて諸大名のもとへ向かうため、宿継ぎと道中の安全に念を入れるよう島津義弘へ依頼する。 さらに桑嶋左近の宿を手配し、小荷駄が続かない場合には一、二疋の馬を宛てがうよう求めた、使者の移動・宿泊・輸送を具体的に調整する書状。
後編2-No.1087 安国寺恵瓊書状
安国寺恵瓊が島津義弘へ、浅野弾正(長政)と黒田勘解由(孝高)が派遣され、京都の人数を引き取る方針となったため、義弘にも出発するよう促した書状。 詳しいことは面会時に伝えるとしており、朝鮮在陣軍の移動・撤収に関する命令が、諸将へ迅速に伝達される様子を示す。
後編2-No.1088 島津忠長譜
島津忠長が文禄二年二月に帰国し、翌三月には再び朝鮮へ渡って、薩摩・大隅・日向の諸将とともに軍務に従事したことを記す。 島津軍の再渡海時期と忠長の在陣を簡潔に確認できる家譜記事。
後編2-No.1089 島津忠倍譜
島津忠倍が朝鮮で島津忠長とともに軍務を続け、慶長元年冬にいったん帰国したのち、翌年二月に再渡海した経歴を記す。 慶長二年八月の南原城攻略では強敵を斬り、その後は泗川城に在陣したといい、忠倍の朝鮮役での戦歴をまとめた家譜記事。
後編2-No.1090 北郷一雲時久譜
北郷時久(一雲斎)が名護屋在陣中の豊臣秀吉へ見舞いとして味噌百桶を献上し、その礼として朱印状を受けた経緯を記す。 直後のNo.1091に掲げる秀吉朱印状の由来を説明する家譜記事。
後編2-No.1091 豊臣秀吉朱印状
北郷時久(一雲斎)から見舞いとして味噌百桶が届いたことを豊臣秀吉が喜び、謝意を伝えた朱印状。 詳しい返答は石田正澄(石田杢頭)が申し伝えるとしており、名護屋在陣中の秀吉への贈答と取次関係が分かる。
後編2-No.1092 長寿院盛淳書状
本文はNo.853と同文であるとして『旧記抄』で省略されている。 この箇所だけでは用件や宛先を再確認できないため、内容の特定にはNo.853との照合が必要となる参照記事。
後編2-No.1093 島津義久袖加判領知目録
薩摩国川辺内の川口・城下・木場平・松木河原・野間口・四反田などにある田畠を、地名・旧給人・面積ごとに列挙した領知目録。 島津義久が袖判を加え、鎌田政近・町田久倍が連署して一乗院の領知を確認したもので、川辺地域の土地構成を具体的に追える。
後編2-No.1094 島津義久袖加判領知目録
一乗院の領地について、一反を含む合計一町一反三畝六歩と、鹿児返地のうち二反および門代内三畝六歩余を記した領知目録。 島津義久の袖判に鎌田政近・町田久倍が連署し、返地分を含む給付面積の内訳を確定している。
後編2-No.1095 大友吉統義統書状
大明国から重ねて講和の申し入れがあり、遊撃に将軍一人を添えて小西行長の陣所へ送ったことを島津義弘へ知らせる。唐の人質から事情を聴取するため自身は帰陣を延期し、先手の小早川・宇喜多勢はすでに川向こうへ退き始めたという。 五日以内の撤兵が見込まれる一方、情勢の急変に備えて油断しないよう警告した、講和交渉…
後編2-No.1096 大炊直豊書状
唐人使節の到着後、五日以内に諸軍を都から引き揚げるとの談合を伝えるが、戦況は時々刻々変わるため油断せず慎重に構えるよう島津義弘へ警告する。 御朱印の到着遅延や、国元衆をめぐって石田三成の機嫌が悪く、島津歳久も度々注意を受けている事情を明かし、国元の体制を改めなければ三成への取りなしが難しいと忠告した…
後編2-No.1097 毛利吉成元就書状
撤兵にあたり、島津勢が中川小兵衛の城跡を経由して進むこと、宿所や座次を整えること、馬・大豆・兵粮の受取りを関係者と相談することを島津義弘へ伝える。 前年極月の朱印に従って進退するよう念を押し、先礼状や宿の手配まで依頼した、帰陣時の行軍・補給・宿営を細かく調整する書状。
後編2-No.1098 毛利吉成書状
島津義弘が翌日に出立するとの情報を受け、吉成自身は後から到着して島津勢に同行すると知らせる。 中川小兵衛の城までは一手として進み、その先は吉成が先行する段取りを示した、撤兵路上の合流と行軍順序を調整する書状。