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後編2の目録

旧記雑録 天正13年~文禄4年の文書・記事です。

全1,646件中 301~400件・4 / 17ページ

  1. 後編2-No.301 町田氏系図

    町田氏の梅久・忠栄・久徳・久倍らの系譜と官途を掲げたうえで、久倍の奉公を詳述する。久倍は島津義久の豊肥筑六国への出兵に従軍し、九州征伐後は伊集院地頭として太平寺へ向かう義久の道中警固を担当、二子忠綱・久幸とともに供奉した。さらに義久の上京にも父子で従い、聚楽第で秀吉に拝謁した際には伊集院幸侃ら少人数…

  2. 後編2-No.302 町田忠綱譜

    町田久倍の長男・町田忠綱が、天正十五年五月八日に島津義久の太平寺での豊臣秀吉への降参に供奉したことを記す短い譜記事。父久倍・弟久幸とともに義久の服属儀礼を支えた町田氏一族の役割を示す。

  3. 後編2-No.303 町田久幸譜

    十六歳の町田久幸が、太平寺で豊臣秀吉へ降参する島津義久に供奉し、義久の太刀を捧持した。義久の帰城後も人質として秀吉のもとに残され、拝謁して羽織を賜う。のちに義久が上京した際にも供奉したことを記し、若年家臣が服属儀礼と人質役を担った具体例を示す譜記事。

  4. 後編2-No.304 島津義久譜

    新納忠元が、兵糧に窮していると聞いた細川幽斎の陣へ少量ながら糧食を贈り、軍功を励ました逸話を記す。この振る舞いに軍勢は忠元の武勇の気象を感じ入ったという。忠元は義久の再三の説得で降伏し、秀吉の天堂尾本営へ出仕して長刀と道服を拝領した。さらに肥後へ向かう秀吉の行列を羽月園田付近で待ち受け、駕籠脇で秀吉…

  5. 後編2-No.305 島津義久譜

    木食興山上人に上京を急かされた島津義久(龍伯)が、祇園会後の六月十五日に鹿児島を発ち、高良山・岩屋を経て博多へ向かった旅程を記す。博多では細川幽斎・石田治部少輔の訪問を受け、秀吉の旅殿へ出仕して饗応され、翌日には秀吉自ら点てた茶を賜った。下関では京都へ人質として送られる久保・彰久・忠長ら城将の子女一…

  6. 後編2-No.306 豊臣秀吉判物

    豊臣秀吉が島津修理大夫(義弘)に対し、前年に定めた九州国分に従わず勝手な行動をしたため征伐したこと、義久が一命を捨てて降伏したので赦免したことを述べる。そのうえで薩摩一国を義弘に宛行い、今後は秀吉の掟を守って忠功を尽くすよう命じた朱印状。九州征伐後の島津領国処分を直接示す重要文書。

  7. 後編2-No.307 豊臣秀吉禁制

    本文はNo.309の豊臣秀吉禁制と同文であるため省略されている。鹿児島における軍勢の乱妨狼藉や放火などを禁じ、違反者を処罰して戦後の秩序を維持する趣旨の文書である。

  8. 後編2-No.308 島津義久譜

    豊臣秀吉から薩摩・大隅・日向三州の乱妨狼藉を禁じる朱印状が下され、領内へ伝達されたことを記す。あわせて、速やかに人質を差し出すよう命じられたことも記しており、治安統制と人質提出が降伏後の島津氏に同時に課されたことが分かる短い譜記事。

  9. 後編2-No.309 豊臣秀吉禁制

    薩摩国鹿児島において、軍勢による乱妨狼藉と放火、地下人への不当な言い掛かりを禁止し、違反者は直ちに厳罰に処すと定めた豊臣秀吉の朱印禁制。豊臣軍の進駐下で住民を保護し、戦後秩序を回復するための具体的な軍紀を示す。

  10. 後編2-No.310 豊臣秀吉禁制

    薩摩国内において、軍勢の乱妨狼藉・放火・地下人への不当な言い掛かりを禁じ、違反者を厳科に処すとした豊臣秀吉の朱印禁制。No.309と同趣旨ながら掲示先を薩摩国全体とし、占領後の軍紀と住民保護を広域に徹底する文書である。

  11. 後編2-No.311 豊臣秀長禁制

    賀治木において、秀長方の軍勢による乱妨狼藉、故意の放火、竹木の伐採を禁止し、違反者を厳罰に処すとした羽柴秀長の禁制。住民の家屋だけでなく生活・生産資源である竹木まで保護対象とした、九州征伐直後の占領軍規である。

  12. 後編2-No.312 豊臣秀長禁制

    薩州喜入院において、秀長方の軍勢による乱妨狼藉、故意の放火、竹木の伐採を禁止し、違反者を厳罰に処すとした羽柴秀長の禁制。No.311と同じ三か条を喜入院へ掲示したもので、地域ごとに禁制を発給して軍紀を徹底したことが分かる。

  13. 後編2-No.313 福智長通書状

    福智三河守長通が兵庫頭へ、羽柴秀長が翌十四日に都於郡を出発し、中務殿も同行する予定だと知らせた書状。秀長が兵庫頭の病状を案じているため、可能なら鹿児島へ赴き、難しければ子息を出頭させるよう勧める。使僧へ自分の考えを残さず伝えたので、その説明を聞いて判断してほしいとも述べる、豊臣方との接触を調整する実…

  14. 後編2-No.314 福智長通書状

    福智三河守長通が桑山修理亮の側近へ、二通の書状を披露したことを伝え、兵庫頭に翌日参上するよう返事を出すべきだと相談する。兵庫頭を同道して太平寺へ赴き、豊臣秀吉への礼参が遅れている件を協議するよう求めており、島津方家臣の出仕と礼儀を豊臣方が具体的に調整した書状。

  15. 後編2-No.315 北郷一雲入時譜

    羽柴秀長の大軍が日向高城を囲むなか、北郷時久(一雲)が義久・義弘に従って根白坂の豊臣方陣地を攻めた事績を記す。敗退時には久保・頴娃久虎らが踏みとどまり、来住備前守が戦死するなど、援兵のない窮地で激戦となった。五月八日の和睦後、義久が秀吉から薩摩一国を認められ、同月十六日に時久へ書状を与えたところまで…

  16. 後編2-No.316 豊臣秀吉禁制

    日向国において、軍勢による乱妨狼藉と放火、地下人への不当な言い掛かりを禁止し、違反者は厳罰に処すと定めた豊臣秀吉の朱印禁制。九州征伐後、日向へ進駐した軍勢の行動を規制して住民を保護するための基本的な軍紀を示す。

  17. 後編2-No.317 島津義久譜

    伊集院に退いた島津義久が、豊臣方から厳しく人質提出を迫られ、娘を差し出した経過を記す。娘はいったん鹿児島へ戻されたのち五月十五日に川内へ向かい、親子の離別は言葉に尽くせないものだったという。義久が秀吉への拝謁を終えて無事帰ると一門・城将が祝賀に集まった。さらに五月十八日、秀吉が太平寺から平佐・山崎方…

  18. 後編2-No.318 島津義久譜

    新納忠元は島津家の衰勢と主君の退去を嘆き、細川幽斎へ兵糧を贈りつつ徹底抗戦を唱えた。曹操の赤壁敗走や田単の斉国回復を例に、少兵でも勝機はあると主張するが、島津義久は、すでに秀吉と和議を結んだ以上これを破れば信義を失い家を滅ぼすと説得する。忠元は降伏して秀吉の本営へ出仕し、長刀・道服に加えて行列途上で…

  19. 後編2-No.319 山口又左衛門覚書

    天正十五年五月十八日、義久が太平寺から平佐城へ移った後、新納忠元は島津家が秀吉へ降参したことを「何より口惜しい」と強く反発した。義久は、家久の降参や伊集院右衛門大夫を介した和平がすでに進み、従わなければ島津家滅亡の原因になると説得する。忠元はやむなく降参し、秀吉から長刀一振、さらに道中で道服と扇を直…

  20. 後編2-No.320 古物語

    太閤秀吉と「幽斎」の対面を、会話と所作を交えて伝える古物語。幽斎が終始うつむいて顔を上げないため、秀吉は顔を見ようとして扇・兜・盃を次々に与えるが、それでも応じない。秀吉が鼻の辺りの松虫を詠み込んだ歌を詠むと、幽斎も髭を「ちんちろりん」とひねり上げる趣向で返歌したという。秀吉が幽斎の城下を避けて通っ…

  21. 後編2-No.321 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が大口方面への陣替えを前に、鹿児島への途中で花道院城へ二、三夜宿営する計画を伝えた朱印状。先手衆が宿営を迷惑だと申し立てたため、伊集院右衛門大夫・石田治部少輔・木食上人に現地へ赴いて説得させ、返答次第では処罰すると告げる。島津義久にも重ねて事情を説明するよう命じ、豊臣軍の移動・宿営を強く徹底…

  22. 後編2-No.322 木食応其書状

    木食応其が島津義久へ、府内以来伝えてきたことが一向に進まず、事態の遅延を強く案じていると訴えた書状。義久が正式に礼を尽くせば諸事は速やかに整い、豊臣秀吉も早く上洛できて島津家・領国のためになると説く。すでに人質を差し出した以上、なお油断して交渉を滞らせるのは嘆かわしいとして、昼夜を分かたず処置を急ぐ…

  23. 後編2-No.323 島津義弘譜

    根白坂の豊臣方陣地を攻めて敗れた島津義弘が、木食興山上人・一色駿河守らの仲介で和議に応じ、人質を出して飯野へ帰った経過を記す。五月十九日に野尻の羽柴秀長陣へ出仕すると、さらに人質を求められたため、赤塚三右衛門・佐谷田覚右衛門を桑山重晴へ預けた。両人の父はいずれも島津方で顕著な軍功を立てており、その功…

  24. 後編2-No.324 桑山重晴書状

    桑山重晴が島津義久の側近へ、毛利方の番衆が「当城」へ入る予定で、三ツ山に近いため警戒が必要だと伝えた書状。谷下へ兵が寄せて来ても自分が受け取り、城内へ人数を入れるつもりだと述べ、さらに兵を置くべきか現地の様子を知らせるよう求める。豊臣方進駐後の城郭守備と兵員配置を相談する実務連絡。

  25. 後編2-No.325 島津竜伯義久書状

    島津義久(龍伯)が鹿児島老中へ、飫肥を伊東氏へ引き渡すよう度々命じたのに、なお処理されていないことを厳しく指摘する。遅延に細川幽斎・石田治部少輔が強く立腹し、飫肥で軍勢が集結したとの報告もあるため、長門父子の立場も危ういと警告。これ以上難渋すれば島津家のためにならないとして、長門入道へ即時引き渡しを…

  26. 後編2-No.326 新納忠元書状

    新納忠元が三名へ、籠城支援の厚意に謝しつつ、上意に背けず和議へ応じると報じた書状。秀吉軍は大口へ進み、先勢は五月二十四日に天堂尾へ着いたが洪水で渡河できなかった。忠元は菱刈本城で抗戦を決めていたものの、石田治部少輔・伊集院忠棟の交渉と、義久・義弘からの重ねての降伏命令、妻子らがすでに人質となった事情…

  27. 後編2-No.327 伊集院久信書状

    伊集院久信が三名からの問い合わせに答え、豊臣秀吉が必ず大口へ進軍すると見込まれる状況を報じた書状。五月二十一日に宮城を攻めたが堅固なため津留田へ退き、近く秀吉が大口へ向かうと伝える。自分の内意として、ここで弓箭を構えて上方の大軍に抗するのは甚だ不利で迷惑を招くとして、抵抗回避を勧めている。

  28. 後編2-No.328 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が九州の領国を改め、島津兵庫頭(義弘)へ新恩として大隅国を宛行い、今後の奉公を命じた朱印状。ただし肝付一郡は以前からの命令どおり伊集院右衛門大夫へ渡すよう明記する。九州征伐後の大隅国処分と、島津一門・重臣間の知行配分を直接示す重要文書。

  29. 後編2-No.329 島津久保譜

    島津氏が九州征伐に敗れて豊臣秀吉へ降伏した際、島津久保も人質として秀吉の行列に従ったことを記す。その際、久保に日向国真幸院・諸県一郡を与える朱印状が発給されたとして、次のNo.330へ文書本文を掲げる導入記事。久保が若年の人質であると同時に、新たな知行を認められた処遇を示す。

  30. 後編2-No.330 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津又一郎(久保)へ、日向国真幸院に付属する一郡を宛行い、完全に領知することを認めた朱印状。今後は忠勤を尽くすよう命じており、人質として秀吉に従った久保を個別に豊臣政権下の領主として位置付ける知行文書である。

  31. 後編2-No.331 豊臣秀吉朱印状

    本文はNo.328の豊臣秀吉朱印状と同文のため省略されている。豊臣秀吉が九州の領国を改め、島津兵庫頭(義弘)へ新恩として大隅国を宛行い、今後の奉公を命じた文書である。ただし肝付一郡は従前の命令どおり伊集院右衛門大夫へ引き渡すよう明記し、九州征伐後の大隅国処分と重臣への知行配分を示す。

  32. 後編2-No.332 豊臣秀吉朱印状写

    豊臣秀吉が、島津右馬頭(征久)が義久に次いで覚悟を定め、人質を伴って秀吉本陣へ出仕したことを認めた朱印状の写し。その見返りとして、征久の城を今後も維持し、本来の知行を相違なく安堵するよう島津兵庫頭(義弘)へ命じている。降伏・人質提出と城・本知安堵が交換条件となったことを示す。

  33. 後編2-No.333 島津義弘譜

    島津義弘が、天正15年5月26日に豊臣秀吉から朱印の条目を与えられたことを記し、続くNo.334にその全文を掲げる導入記事。九州征伐後、義弘を中心に島津一族・家臣の人質提出、所領安堵、上洛奉公などの処遇が具体化される起点となる。

  34. 後編2-No.334 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津義弘へ示した九州征伐後の処分条目。義久・義弘の赦免と人質提出、久保への真幸郡、義弘への大隅国、伊集院忠棟の一郡を認める一方、家久には佐土原城・本知、征久や本郷氏には人質提出を条件として城・本知を安堵する。北郷氏には子の在京奉公を求め、違背時の成敗も明記するなど、島津一門・有力家臣を人質…

  35. 後編2-No.335 北郷一雲譜

    島津義久が娘を人質として差し出し鹿児島へ帰った後も、北郷一雲・忠虎らが都城・安永・末吉・財部の砦を守って秀吉の命令に従わなかった経過を記す。秀吉は出頭しなければ征伐すると迫り、本知安堵の代わりに別の人質と在京奉公を要求した。北郷三久らの上洛と、北郷氏が服属条件を受け入れる過程を伝える。

  36. 後編2-No.336 島津彰久譜

    豊臣秀吉の九州征伐後、島津一門の諸将に人質提出が命じられたため、島津彰久が父・久敏に代わって人質として京都に置かれ、数年を過ごしたことを記す。島津一族が服属の保証として若年者を在京させられた実例である。

  37. 後編2-No.337 北郷三久譜

    島津義久が泰平寺で秀吉に降伏した一方、北郷一雲・忠虎らが荘内でなお服属しなかったため、北郷三久が交渉と上洛を担った経過を記す。北郷側は追加の人質を出し、三久は上方で奉公した後、筑前箱崎で秀吉に拝謁して道服を賜り、約束どおり日向三俣院千町の朱印を受けた。北郷氏の抵抗から服属・知行安堵までを示す。

  38. 後編2-No.338 島津義久書状

    島津義久が島津中務少輔(家久)へ、近年の混乱後で世上が不安定ななか、豊臣政権への服属を外れて公儀に背くことのないよう慎重な判断を求めた書状。家久が上洛するとの風聞にも触れ、詳しいことは高崎某に言い含めたとしており、家久の進退を強く案じる内容である。

  39. 後編2-No.339 豊臣秀吉朱印状(No.334と同文)

    本文はNo.334の豊臣秀吉朱印条目と同文であるため省略されている。義久・義弘の赦免、人質提出、久保・義弘・伊集院忠棟らへの知行、家久・征久・本郷・北郷各氏の城・本知安堵と服属条件を定めた戦後処分条目が、別の収録箇所にも伝わったことを示す。

  40. 後編2-No.340 豊臣秀長書状

    豊臣秀長が島津中務少輔(家久)へ、家久の身上について申し上げた結果、佐土原城と本来の知行を返還することになったと伝え、その旨を承知するよう求めた書状。豊臣政権への服属後、家久の本拠と旧領が正式に安堵されたことを示す。

  41. 後編2-No.341 伊集院久治書状

    伊集院久治が、桑山重晴・福智長通から数か所へ送られた書状を受け、人質提出の処置や自身の出頭時期を相談した書状。秀吉上洛時の通路・宿泊、日向越え、内之倉・八郎ヶ野付近の悪路、志布志・鹿児島方面の道路整備にも触れ、戦後処理と交通確保を同時に進める実務連絡である。

  42. 後編2-No.342 豊臣秀長書状

    豊臣秀長が、島津中務少輔家久の突然の死を受けた島津又七郎(豊久)へ、生死は世の習いなので分別を失わぬよう慰めた書状。藤堂某を派遣して諸事を相談させ、豊久の覚悟次第で今後取り立てると約しており、父を失った若い豊久の後見と処遇を示す。

  43. 後編2-No.343 島津義久条書

    島津義久が、日向国を一円・半国・三分一のいずれの規模で与えられた場合に納める礼銭額と、一か月以内の納入を示した条書。島津久保や家久の跡目、伊東祐兵の旧知行は別扱いとし、義久家臣への直知行も自らの配分に含めるよう求める。秀吉の九州国分に際し、知行配分と礼銭を具体的に交渉した文書である。

  44. 後編2-No.344 島津竜伯義久書状

    島津義久が上井覚兼へ、日向知行の際に境目を塞ぎ、豊後での防戦にも働いた功績を将来忘れないと伝えた書状。当時伊集院に在宅して難儀している事情を察し、分領地を添えるため配慮すると約しており、九州征伐後の家臣処遇を示す。

  45. 後編2-No.345 安国寺恵瓊書状

    安国寺恵瓊が上井覚兼へ、宮崎の件を福智三河守長通と相談するため、早々に一人を派遣するよう求めた書状。過分の下地に関わるため相応の礼儀を整える必要があるとし、詳細は使者に託して、所領処分の交渉を促している。

  46. 後編2-No.346 桑山重晴書状

    桑山重晴が、当地へ来て以後も島津義久・伊集院右衛門大夫忠棟から連絡がないと指摘し、北郷氏の処置を急ぐよう求めた書状。関係者の出頭・人数派遣を調え、諸勢をいつまでも滞留させず早急に決着して報告するよう強く催促している。

  47. 後編2-No.347 安国寺恵瓊書状

    安国寺恵瓊が島津義弘の家臣へ、豊臣秀長が日向にもうしばらく滞在するため、早々に一人を出して礼を尽くすよう勧めた書状。日向土持に残る福智三河守長通と何事も相談し、秀長の御座所で問題が起こらないよう調整すれば安心だと伝える。

  48. 後編2-No.348 島津義弘譜

    豊臣秀吉が太平寺から平佐城へ本営を移した後、島津義弘が山崎・鶴田を先導として秀吉に拝謁したことを記す。義弘は父子へ大隅国と日向国真幸院を与えられた厚恩に謝し、飯野へ帰還した。九州国分直後の義弘の所領安堵と服属儀礼を示す。

  49. 後編2-No.349 島津忠長譜

    豊臣秀吉が6月12日に太平寺から平佐城へ移り、祁答院・菱刈院・牛屎院を経て肥後へ出て、筑前博多から帰京しようとした経路を記す。15日には島津義久が鹿児島を発って秀吉を追い、京都の聚楽へ赴き、島津忠長も随行した。降伏後の義久らの上洛過程が分かる。

  50. 後編2-No.350 北郷一雲時久譜

    豊臣秀吉が出水義虎・島津家久・北郷時久を直臣に取り立てようとした際、時久は十一代にわたり島津氏へ仕えた旧約を捨てられないとして固辞した。秀吉はその忠節を認め、時久を島津義久の与力とする朱印状を与えた。旧主への忠義と豊臣政権による家臣団再編がせめぎ合う逸話である。

  51. 後編2-No.351 豊臣秀長書状

    豊臣秀長が北郷左衛門入道(時久)へ、先に渡した諸国の法度書について、詳しい事情は福智三河守長通から説明させるので相談し、諸事を確実に申し付けるよう命じた書状。今後も少しも疎略にしないよう念を押しており、九州仕置後の法令施行を北郷氏に求める。

  52. 後編2-No.352 新納旅庵長住譜

    新納旅庵長住の経歴を記す。秀吉の九州征伐時に薩摩へ来た後、鹿児島を発して玉泉院に宿し、諸国を経て秀吉に拝謁、僧俗双方に通じた働きから墨衣を与えられ政務にも関わったという。のち島津家久に仕え、刀・馬を賜り、硫黄島への急使を果たした功で門・村など五か所を領し、高原・栗野・市来の地頭を歴任した。

  53. 後編2-No.353 伊集院忠大書状

    伊集院忠大が伊集院加賀守へ、帰国後に下野守の書状を確認するよう求め、使者から聞いた情勢を報じた書状。ある人物は知行に加えて扶持を与えられる好待遇となった一方、兵部少輔を人質に差し出すこと、下城の要望は法度を理由に認められず、飯肥と同様の扱いになることを伝える。

  54. 後編2-No.354 島津義久譜

    木食応其に上洛を促された島津義久が、天正15年6月15日に鹿児島を発って京都へ向かう長い旅程を日付順に記す。薩摩・肥後から海路へ出て、各地の港・島・寺社に宿泊し、逆風・豪雨・船の故障で幾度も足止めされながら航海した。途中で酒・刀・馬・茶などの贈答や饗応を重ね、厳島などを経て京都四条道場へ到着。病に倒…

  55. 後編2-No.355 天正年中日々記

    天正15年6月27日、島津義久が辰刻に高田を出発し、小川路を経て申刻に到着した行程を記す。同夜、新納武蔵守が義久を迎えて饗応し、金銀を進上した。上洛途上の日程と家臣による接待を簡潔に伝える日記記事。

  56. 後編2-No.356 桑山重晴・福智長通連署状

    桑山重晴・福智長通が上井覚兼へ、先日の丁重な書状への礼を述べ、安国寺恵瓊からの意向も承知したと返した連署状。両人は同日豊後まで供奉して間もなく帰る予定を伝え、諸事の連絡を求める。末尾に「唐犬」の語が見えるが、前後の係り受けと具体的な用件は判然としない。

  57. 後編2-No.357 島津竜伯書状

    島津義久が義弘へ、島津久保の病状が重く祈祷と養生を尽くしていること、上洛は今日・明日にも出立する予定だったが病状次第で七月まで延期し得ることを知らせる。渡唐船に関する朱印を承知したことや茂木への連絡にも触れ、後継者の病と上洛・海外航海の実務が交錯する書状。

  58. 後編2-No.358 伊集院久治書状

    伊集院久治が土持大膳進へ、武庫様の警護や下城への派遣に関する配慮へ礼を述べ、京衆が前日に通過し、今日・明日には下城を出立する見込みだと知らせた書状。帰還前の慌ただしさを詫び、平豊への返書が手元に留まっているので、適切な者に持たせるよう頼んでいる。

  59. 後編2-No.359 樺山玄佐久願書

    樺山玄佐久が正八幡宮に三か条を祈願し、黄金一つを寄進した願書。戦乱中に宝殿へ集め置いた品々の早期返還と、京勢に関わって国元を離れた人々、嶋津又七殿(島津豊久)の早期下国を願う。九州平定直後の混乱と豊久の動向を神仏へ託す心情が表れる。

  60. 後編2-No.360 福智長通書状

    福智長通が島津義弘へ、河上大炊助ら島津家中の者が豊臣方の公領で違乱を働いているとの訴えを伝えた書状。公儀に聞こえれば重大だとして早急な処置を求め、当事者を召し連れて直接注進させるよう指示する。西田氏らへの配慮も頼み、戦後の公領統制を義弘に迫っている。

  61. 後編2-No.361 北郷一雲譜

    豊臣秀吉が日向国の県・三城・宮崎を高橋元種に、高城・財部・福島を秋月種長に与え、両家を入部させたことを記す。島津側から見れば旧知行の引渡しを伴う領地再編であり、九州仕置によって日向の支配者が交替したことを具体的に示す記事。

  62. 後編2-No.362 豊臣秀長書状

    豊臣秀長が北郷左衛門入道(時久)へ、豊前小倉城の普請中であることを知らせ、日向へ入る秋月種長・高橋元種と協力して領国を固めるよう命じた書状。境目などに問題があれば聞き届けて速やかに処置し、京都での用事も申し越すよう求め、詳しくは福智長通に伝えさせるとしている。

  63. 後編2-No.363 佐々成政書状

    佐々成政が島津義弘へ、遠路の使者と太刀二腰・馬の贈り物に厚く礼を述べた書状。秀吉本陣での対面後、秀吉が博多に滞在していたため返礼が遅れたと詫び、上方往還の際は助力すると約す。肥後在留中は隣国の義弘の指南を頼み、双方の家中に問題があれば互いに糺明しようと申し入れている。

  64. 後編2-No.364 佐々成政書状(No.363と同文)

    本文はNo.363の佐々成政書状と同文のため省略されている。義弘からの太刀二腰・馬と遠来の使者に礼を述べ、上方往還時の助力、肥後在留中の隣国としての指南、双方の家中に問題が起きた際の相互糺明を申し入れた書状が別に伝来したことを示す。

  65. 後編2-No.365 重頼・野村良綱連署状

    重頼・野村良綱が上井覚兼へ、秀吉の下向後、大隅国が島津義弘へ与えられたため、末吉・財部も大隅の内として義弘から改めて給付されると伝えた連署状。その安堵の保証として北郷忠虎を人質に上洛させ、公役として在京させるよう関白の朱印が出たこと、上井村は当地で保護することを知らせる。

  66. 後編2-No.366 福智長通書状

    福智長通が義弘へ、秀長の命で秋月種長・高橋元種が日向の公領を与えられ、数日前に土持領へ到着したと報じた書状。飫肥郡・志布志・大崎など各地から境界をめぐる訴状が出ていること、諸帳の引渡しに同意しない者もいることを伝え、義弘に慎重な判断を求める。

  67. 後編2-No.367 福智長通書状

    福智長通が島津義弘方へ、上井伊勢守と同名の右馬頭のもとに「白唐犬」と「白野牛」がいると豊臣秀長が聞き、両方を所望していると伝えた書状。両人宛の書状を伊下野殿に託して依頼したが、まだ動物が到着しないため、書状が届かなかったのか、そもそも該当する動物がいないのかを確認するよう求める。入手できれば佐土原へ…

  68. 後編2-No.368 福智長通書状

    福智長通が義弘へ、綾新右衛門尉が作成した国の案内・郡分の目録写しを送った書状。野尻の扱いには秀長が同意しなかったものの、上聞に達したうえで決着すると説明し、安国寺恵瓊の返答を尋ねる。秋月・高橋両氏への公領引渡しについて協議し、諸事を取り計らうよう求めている。

  69. 後編2-No.369 島津義弘寄進状

    島津義弘が霧島権現の神領として、高原七十町名内から毎年の俵物を寄進し、永代にわたり神事・祈念へ充てることを定めた寄進状。九州仕置直後にも霧島信仰の祭祀基盤を維持しようとしたことが分かる。

  70. 後編2-No.370 伊集院氏系図

    伊集院久春(千代・源助・肥前守、入道名元巣)を起点に、母を伊地知左近将監重貞の娘と記す伊集院氏系図。久春が島津義弘の代に家老職へ補任されたことを掲げ、伊集院氏の家格と家中での位置を示す。

  71. 後編2-No.371 島津義弘感状

    島津義弘が伊集院肥前守の忠節を比類ないと評価し、今後も忠勤を尽くすよう求め、褒賞として青毛の馬一疋を与えた感状。家臣の奉公を具体的な贈り物で顕彰したことが分かる。

  72. 後編2-No.372 長谷場越前自記

    島津義久が菊を題に詠んだ和歌が上方で評判となり、雲居の上にまで聞こえて金輪上皇も喜んだという逸話を記す。義久は諸大名が見物する場で特別に召され、桟敷で褥を拝領し、のち淀川の川狩にも諸大名と参加した。秀吉の上意がとりわけ厚いとして家中が祝った、降伏後の義久の文化的受容と名誉回復を伝える。

  73. 後編2-No.373 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が島津義久から祝儀として小袖二領が届いたことを喜び、長谷川右衛門尉や玄旨にも伝えるよう述べた朱印状。上洛中の義久と秀吉の贈答・主従儀礼を示す。

  74. 後編2-No.374 近衛龍山前久書状

    近衛前久が、前日の島津義久の来訪と懇志に礼を述べ、外聞・実儀ともに祝着で安心したと伝えた書状。在京中は折々に会って物語をしたいと望み、近衛家と島津氏の公家社会での親交を示す。

  75. 後編2-No.375 吉田清在書状

    吉田清在が執印河内守へ、新田神社の祭礼に例年どおり太刀・馬を奉納したことを伝えた書状。馬屋を預かる立場から、七歳で置いた馬が九歳となったが、戦乱のため鹿児島領内から移して飼育し、傷んで見苦しくなった事情を説明し、今後の祭礼用の馬をどうするか判断を求めている。

  76. 後編2-No.376 福智長通書状

    福智長通が義弘方へ、真幸郡は義弘の子へ与えられたため、諸県郡の処置は上意次第になると伝えた書状。安威五左衛門を通じて上申して墨付を得たが、その後に適切な使者を差し出して御理をしなかったため秀長が立腹していると警告し、伊集院忠棟らと相談して早急に対応するよう求める。

  77. 後編2-No.377 島津義久・同義弘連署状

    島津義久・義弘が根占七郎へ、肝付郡は御朱印どおり伊集院幸侃が拝領したため、大姶良・西俣・鷹城の三か所がその郡内に組み込まれると伝えた連署状。細川幽斎・石田三成の判断で鷹城は返付され、大姶良には替地を与えるとし、今後は義久・義弘へ忠節を尽くすよう求める。九州国分に伴う具体的な知行替えを示す。

  78. 後編2-No.378 島津義久譜

    九州の戦乱後、島津義久が一族の女性らを伴って上洛した際、食料不足に陥ったため、豊臣秀吉から扶持として五千石を与えられた記事。 人質的な上洛生活を支えるための扶持給付を記し、豊臣政権下に置かれた島津一族の境遇を伝える。

  79. 後編2-No.379 豊臣秀吉朱印状

    日向の鷹巣に関する奉行職を島津義弘へ命じ、詳しい内容は石田三成から伝えるとした朱印状。 九州仕置後の地域支配に義弘を組み込み、豊臣政権の奉行を介して指示する体制を示す。

  80. 後編2-No.380 豊臣秀吉朱印状

    八木二千石を島津義久へ与えるので確実に受領するよう命じた朱印状。 上洛中の島津義久に対する具体的な扶持・知行給付を示す短い文書である。

  81. 後編2-No.381 豊臣秀吉朱印状抄

    前文書と文言・月日付・御朱印が同じで、八木千石を原文表記「そうふへきうない」に与えることを記した朱印状抄。 給付対象の人物比定はできないため、島津義久への扶持とする従来の推定を削除した。同時期の八木における知行配分を示す簡潔な記録。

  82. 後編2-No.382 豊臣秀吉朱印状抄

    前文書の「同」を受け、文言・月日付・御朱印はNo.381と同じで、八木千石を「こいてはりまのかミ」(小出播磨守)に与える朱印状抄。 島津義久への給付ではなく、同日に八木の知行が複数の給付先へ配分されたことを示す短い記録である。

  83. 後編2-No.383 豊臣秀吉朱印状

    蜂須賀阿波守が借用していた米千石を島津義久へ与えるので、確実に受け取るよう命じた朱印状。 単なる所領給付ではなく、他大名の借米を島津家の扶持へ振り替えた具体的な財政措置が分かる。

  84. 後編2-No.384 島津義久譜

    十一月、近衛前久邸で催された華道・和歌の会に島津義久が参加し、歌を詠んだ記事。 上洛後の義久が公家文化へ接近し、近衛家との交流を通じて政治的関係を整えたことを示す。

  85. 後編2-No.385 島津義久譜

    天正15年11月23日、島津義久が高野山へ詣で、満天の白雪に覆われた山景を目にして詠んだ漢詩・和歌を記す。九州征伐後の上洛・参詣のなかで、義久が雪景色に託した宗教的感興と文芸活動を伝える。

  86. 後編2-No.386 豊臣秀吉判物

    豊臣秀吉が島津義久の在京生活を支えるため、上方で一万石を宛行うと定めた判物。具体的な所付は翌春に決めることとし、当年分は物成の半納分として八木五千石を与え、関係者に配分するよう命じる。降伏後に京都へ留め置かれた義久の生活基盤を豊臣政権が保障したことを示す。

  87. 後編2-No.387 島津義久譜

    島津義久が京都滞在中、連歌師里村紹巴を招いて連歌会を催し、その懐紙を記録した記事。 九州平定後の義久が京都の文芸人脈と交流し、連歌を通じて文化的・政治的関係を築いたことを示す。

  88. 後編2-No.388 賦何船連歌

    「賦何船」を題として、里村紹巴・島津義久・昌叱・心前・日野中納言らが百韻を連ねた連歌作品。 秋の月・露・紅葉から雪・春霞へと季節と景物を巧みに移し、義久も複数句を詠んでいる。九州平定直後、義久が京都の公家・連歌師・島津家臣と築いた文化的交友を示す文芸史料。

  89. 後編2-No.389 島津義弘譜

    豊臣秀吉が九州征伐後に佐々成政へ肥後一国を与えたものの、成政が国人の習俗を顧みず検地・苛政を進めたため国人一揆が起きた経過を記す。義弘は伊集院忠棟を先鋒として軍勢を進め、自らも飯野から大口へ出陣し、豊臣秀長も鎮圧に加わった。新領主の統治失敗と、島津勢が豊臣方の一揆鎮圧軍へ組み込まれた転換を示す。

  90. 後編2-No.390 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が、たび重なる赦免にもかかわらず肥後で国人の習俗を無視して一揆を招いた佐々成政の統治を非難し、反乱者の討伐を命じた朱印状。国人の妻子を人質として上方へ送り、城・鉄砲・玉薬・兵粮を接収し、検地と百姓の再配置を進めるよう細かく規定する。伊集院忠棟を派遣するので島津義弘らと協力し、油断なく鎮圧に当…

  91. 後編2-No.391 細川玄旨・石田三成連署状

    細川玄旨と石田三成が新納忠元へ、肥後の処置について豊臣秀吉の朱印状が出され、伊集院忠棟が派遣されたことを通知した連署状。詳しい命令は朱印状に示されているため重ねて述べないとし、その趣旨を理解して伊集院忠棟と示し合わせ、遅滞なく行動するよう求めている。

  92. 後編2-No.392 北郷一雲譜

    佐々成政の苛政に反発して肥後国人一揆が起こり、秀吉が北郷一雲時久・忠虎父子へ鎮圧の朱印状を与えた経過を記す。肥後が鎮静した翌天正16年2月11日にも父子へ朱印が下され、帰陣を認められた。北郷氏が豊臣方の軍事動員に応じたことを示す譜記事。

  93. 後編2-No.393 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉が北郷讃岐守へ、佐々成政の不届きな肥後統治を受けて一揆鎮圧を命じた朱印状。反乱者を討ち、国人の妻子を人質として大坂へ送り、城・鉄砲・玉薬・兵粮を接収し、検地と百姓の再配置を行うよう細かく規定する。伊集院忠棟を派遣するため義弘の下知に従い、毛利・秋月・高橋ら九州諸勢と協力するよう求めた。

  94. 後編2-No.394 北郷一雲譜

    伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥・曾井・清武を与えられ、本城へ移住したことを記す。日向南部で伊東氏の領地が再建され、北郷・島津方の旧支配地が組み替えられた九州仕置の具体例である。

  95. 後編2-No.395 島津竜伯書状

    島津義久が喜入季久から献上された馬について、当家の乗馬にふさわしく早道にも使える優れた馬で、由緒や毛色にも問題がないと賞した書状。多数の馬から選んで贈った心遣いに礼を述べ、武庫様への披露や馬具の扱いにも触れる。

  96. 後編2-No.396 島津義久書状

    島津義久が川上武蔵入道へ、京都から帰国する予定だったが、肥後の騒乱を受けて親子とも暫く滞留するよう命じられ、大坂でも帰国できず迷惑していると知らせた書状。肥後へは伊集院忠棟を急派したとし、帰国後の領内情勢や供の人々の事情を詳しく相談するよう求めている。

  97. 後編2-No.397 島津義久譜(No.384と同文)

    本文はNo.384と同文のため省略されている。No.384は、十一月に近衛前久邸で催された華道・和歌の会へ島津義久が参加して歌を詠んだ記事で、上洛後の義久が公家文化に接近し、近衛家との交流を深めたことを示す。同じ記事が島津義久譜の別箇所にも収録されたことが分かる。

  98. 後編2-No.398 島津歳久追悼和歌

    島津歳久が、根白坂の戦いで戦死した頴娃久虎の生前をしのんで詠んだ追悼和歌。弓馬の家に生まれて武芸に励み、酒宴や舞曲の場でも人々と交わった久虎の人柄をたたえ、「桂岳林昌居士」と唱えて霊前へ手向けている。

  99. 後編2-No.399 島津竜伯書状

    前日に申し出た件への早急な返答を求め、二人が交わした雑談も決して漏らさないよう厳命する。八幡神に誓って他言・露顕を禁じた、秘密保持を強く求める書状。

  100. 後編2-No.400 島津義弘書状

    長期の勤番をねぎらい、又一郎家の扱いと諸県郡内の諸城・郷村について、実情を見極めたうえで保全する意向を伝える。上井次郎左衛門尉と同心して各城を実見し、腹蔵なく熟談するよう新納忠元へ求めた書状。