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追録5の目録

暫定版です。原文との照合により、概要や文書の区切り等を修正する場合があります。

全2,955件中 501~600件・6 / 30ページ

  1. 追録5-No.487 堀田正亮・本多正珍老中連署状

    堀田正亮・本多正珍が継豊へ、生見玉の祝儀として献じられた黄金十両を披露したと連署で返答する。献上があったことと、披露を済ませたことを知らせる。

  2. 追録5-No.488 秋元凉朝書状

    秋元凉朝が継豊へ、生見玉の祝儀として献じられた黄金十両を披露したと返答する。継豊の献上について披露を済ませたことを伝える。

  3. 追録5-No.489 堀田正亮・本多正珍老中連署状

    堀田正亮・本多正珍が宗信へ、生見玉の祝儀として献じられた黄金十両を披露したと連署で返答する。宗信の献上について披露を済ませたことを知らせる。

  4. 追録5-No.490 秋元凉朝書状

    秋元凉朝が宗信へ、生見玉の祝儀として献じられた黄金十両を披露したと返答する。宗信の献上があったことと、その披露を済ませたことを伝える。

  5. 追録5-No.491 島津久柄外四名家老連署届書

    島津久柄ら家老五名が島津矢柄・島津主鈴へ、宗信の病状を知らせる。前日の六日にも飛脚で伝えたとおり、小用の通りが少なく、陰嚢とその周辺から小用が漏れて落ち着けず、昨夜から今朝にかけて衰弱が増し、病勢が甚だ重くなったとする。今朝の容体を急いで知らせるため飛脚二人を差し立て、容体書一通を添付した。留守殿へ…

  6. 追録5-No.492 島津宗信容躰書

    宗信の容体書は、五月中旬から浮腫が見られたものの、気分や食事などは普段と大きく変わらない状態が続いたと記す。六月末から食事などに出来不出来が生じ、七月初めには病状が悪化した。小用の通りがいっそう少なくなり、浮腫も増して重い容体になったと報告する。

  7. 追録5-No.493 島津宗信願書

    宗信が堀田正亮・本多正珍・松平武元へ、病気が重くなり急変の恐れがあるため、弟島津兵庫を養子として認め、跡職を継がせるよう願う。当年二十二歳の宗信は、三月に帰国の暇を許されたことを述べ、弟兵庫の年齢を二十一歳と記す。病気のため印判を用いた旨の注記がある。

  8. 追録5-No.494 島津宗信願書

    宗信が堀田正亮・本多正珍・松平武元へ、五月中旬からの浮腫に手医師の薬を服用して保養しても改善せず、御医師を国元に招く願いも出したが、病状が重くなり急変の恐れがあると述べる。三月に帰国の暇を許され在国している弟島津兵庫(二十一歳)を養子として認め、跡職を継がせるよう願う。病気のため印判を用いた旨を付記…

  9. 追録5-No.495 島津宗信届書

    宗信の届書として、懐胎している婦人はいない旨を記す。七月付で、日付と御名はないとの注記がある。

  10. 追録5-No.496 宗信逝去、福昌寺ニ葬ル

    帰国後に浮腫を病み、官医の招聘や祈願にも改善がなかった宗信について、七月八日に江戸へ急使を出して弟兵庫久門の養子・家統相続を願い、十日巳刻に薩摩府城で死去した経過を記す。享年二十三、法諱は俊厳良英大居士。十三日に福昌寺へ霊棺を移し、十四日に玉龍山下西へ埋葬した。入棺・鎖龕・葬列・神主奉持・遺髪と葬衣…

  11. 追録5-No.497 鎌田政昌書状

    寛延二年七月十五日、鎌田典膳が嶋津矢柄・主鈴へ送った書状。慈徳院の位牌を大圓寺に安置することについて隅州様の許しがあり、姫君の事情に伴い、故隅州様への御志の法事を執行するよう申し付けられたことを伝える。法事の日数などを先例に従って相談し、首尾を整えるよう求め、その旨を知らせる。

  12. 追録5-No.498 島津久富・島津久郷連署返書

    八月九日付の返答。七月十五日の鎌田典膳書状で申し越した趣旨を承知し、慈徳院位牌の大圓寺安置と法事について答える。御守殿から荻原殿を通じて村路まで伝えられたことと、隅州様が国元にいるため姫君様に法事の執行を申し付ける意向を承知したと記す。先例写を参照して三日間の執行を手配し、隅州様が施主となる件は御守…

  13. 追録5-No.499 伊勢貞起申渡書

    伊勢貞起が上原十郎左衛門・中馬源兵衛へ、家督相続は願いのとおり島津兵庫に仰せ付けられたと申し渡す。宗信の逝去を公表する際に、詰合の者へこの旨を伝えるよう命じる。

  14. 追録5-No.500 堀田正亮外二名老中連署状

    堀田正亮・本多正珍・松平武元が宗信へ、病気について上聞に達したところ、油断なく養生するようにとの上意があったと連署で伝える。病気の届けに対する上意を知らせる返書である。

  15. 追録5-No.501 秋元凉朝書状

    秋元凉朝が宗信へ、病気について言上したところ、油断なく養生するようにとの御諚があったと伝える。病気の届けに対する返答として、その命を知らせる。

  16. 追録5-No.502 西尾忠尚書状

    西尾忠尚が宗信へ、病気について言上したところ、油断なく養生するようにとの御諚があったと伝える。病気の届けへの返答として、その命を知らせる。

  17. 追録5-No.503 将軍、宗信ノ病ヲ問ハシム

    三御所の執政が七月二十七日、宗信の病状を問う奉書を継豊宛に用意し、宿次証印を添えて留守居へ渡した経過を記す。宗信がすでに死去していたため、継豊が奉書を拝受して使者を返し、八月二十五日に高崎惣四郎直富・川田曽右衛門国弘を薩摩から江戸へ護送付きで出発させた。小倉・中国・東海の道を経て九月十九日に江戸へ着…

  18. 追録5-No.504 松平武元宿次証文

    松平武元の宿次証文は、状箱を江戸から薩摩国鹿児島の松平薩摩守のもとへ届け、返礼を持ち帰る際は江戸の月番老中へ急いで持参するよう記す。書状と返礼の往復を宿次で取り扱うための証文である。

  19. 追録5-No.505 松平武元書状

    松平武元が宗信へ、長年病気の継豊が半年ほど国元で湯治する暇を許されたものの、長旅で衰弱し、暑さで入浴できず病状も改善しなかったとの願いを受け取ったと述べる。翌夏まで滞在して十分養生したのち参府したいとの趣旨を相談して上聞に達したところ、願いどおりにするよう仰せ出されたと知らせる。

  20. 追録5-No.506 岩下方峯届書

    岩下佐次右衛門(方峯)が、松平薩摩守宗信の病気について、先に届けたとおり保養を続けても改善せず、しだいに衰弱が増したとの知らせが国元から届いたため、その旨を届け出る。

  21. 追録5-No.507 徳川宗勝書状

    徳川宗勝が継豊へ、同氏の薩摩守宗信が病気であると聞き、心配していることと思うと述べる。宗信の様子がどうであるかを知らせてほしいと、病状を尋ねる書状を送る。

  22. 追録5-No.508 島津継豊申渡書

    継豊が、宗信が死去し跡職がまだ仰せ出されていない時期であるとして、家老をはじめ諸役人はいっそう入念に勤めるよう申し渡す。跡職未決の間の職務遂行を指示する書付である。

  23. 追録5-No.509 島津継豊申渡書

    継豊が、宗信が死去し跡職がまだ仰せ出されていない時期であるとして、国中の静謐を保つことをとくに心掛けるよう申し渡す。この旨を各所へ伝えるよう命じる。

  24. 追録5-No.510 樺山久初外三名家老連署返書

    樺山久初・伊勢貞起・鎌田政昌・平田靱負が、継豊の申渡しを承知したと連署で返答する。奉行・頭人から、それぞれの支配下へ漏れなく申し渡すよう取り扱うことを伝える。

  25. 追録5-No.511 重年、兄宗信ノ死ニヨリ忌服ヲ受ク

    重年公御譜が、久門は島津久季の養子で家を継いでいたが、宗信の重病により新たに宗信の養子として家統を継がせる遺書が江戸へ送られた経過を記す。宗信は七月十日巳刻に死去し、八月五日に訃報が継助へ伝わり、執政から久門への服制書が交付された。九月三日に使者が薩摩へ届き、六日に家老が久門へ服制書を渡して忌服を受…

  26. 追録5-No.512 島津久柄外二名家老連署書状

    寛延二年八月三日、嶋津主鈴久郷・矢柄久寛・主殿久柄が、樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、太守様(宗信)の病状悪化に伴う養子・家督相続の相談と願書提出の経緯を報告する。主殿が相続に関する書付を差し越し、姫君様への願いと菊姫様への申し進めについて村路を通じて取り次いだ。八月朔日夜、新御書院で荻原…

  27. 追録5-No.513 樺山久初外三名家老連署返書

    八月二十五日付の返答。樺山主計久初ほか三名が、嶋津主鈴・矢柄・主殿から八月三日に申し越した宗信の病状悪化と養子願の相談・提出の報告について、一々承知して隅州様の貴聞に達したと答える。差し越された別紙五通を留覧したことも伝える。返答自体には独立した署名・宛名は記されない。日付と周辺の宗信死去記事との前…

  28. 追録5-No.514 島津宗信願書

    宗信が堀田正亮・本多正珍・松平武元へ、病気が重く急変の恐れがあるため、三月に帰国の暇を許され在国している弟島津兵庫(二十一歳)を養子として認め、跡職を継がせるよう願う。病気のため印判を用いた旨と、御実名がない旨の注記がある。

  29. 追録5-No.515 島津宗信親類名書

    相詰める一類として、松平越中守・阿部伊豫守・鳥居伊賀守・水野肥前守・松平河内守・島津加賀守・同姓又四郎・山本大膳の八名を列記する。八月付で、相談に加わる関係者を示す名書である。

  30. 追録5-No.516 島津宗信容躰書

    宗信の容体書は、五月中旬から浮腫が見られたものの、気分・食事などは普段と大差のない状態が続いたと記す。六月末から出来不出来が生じ、七月初めには病状が悪化した。小用の通りがいっそう少なくなり、浮腫も増して重い容体になったと報告する。

  31. 追録5-No.517 堀田正亮外二名老中連署奉書

    堀田正亮・本多正珍・松平武元が宗信へ、病気が改善しないことを聞き、油断なく療養するようにとの上意があったと連署で伝える。そのため見舞いとして粕漬鯛が下されたことを知らせる。

  32. 追録5-No.518 秋元凉朝書状

    秋元凉朝が宗信へ、病気が改善しないことを聞き、油断なく療養するようにとの御諚があったと伝える。宗信の病状に対する命を知らせる返書である。

  33. 追録5-No.519 西尾忠尚書状

    西尾忠尚が宗信へ、病気が改善しないことを聞き、油断なく療養するようにとの御諚があったと伝える。宗信の病状に対する命を知らせる返書である。

  34. 追録5-No.520 徳川家重、宗信ノ病ヲ問ハシム

    家重が宗信の病気を問い、執政の奉書・宿次証印と粕漬鯛を贈り、吉宗・家治の執政の奉書も添えられた経過を記す。留守居が本多正珍の屋敷でこれらを受け取り、使者が八月二十五日に薩摩へ到着したが、宗信はすでに死去していたため継豊が拝受した。その後、柏原弥太右衛門公明・田中源之丞国盤らを護送付きで江戸へ送り、九…

  35. 追録5-No.521 本多正珍宿次証文

    本多正珍の宿次証文は、状箱と箱一個を江戸から薩摩国鹿児島の松平薩摩守のもとへ届け、返礼を持ち帰る際は江戸の月番老中へ急いで持参するよう記す。書状と見舞い品の送達、返礼の往復に用いる証文である。

  36. 追録5-No.522 忌服届書

    宗信が病気療養の甲斐なく七月十日に死去したため、継豊と菊姫の忌服を届ける。両者とも忌二十日は七月十日から同月二十九日まで、服九十日は七月十日から十月十日までと記し、八月四日付でこのとおり忌服する旨を届ける。

  37. 追録5-No.523 忌服届書

    宗信が病気療養の甲斐なく七月十日に死去したため、菊姫の忌服を届ける。忌二十日は七月十日から同月二十九日まで、服九十日は七月十日から十月十日までと記し、八月四日付でこのとおり忌服する旨を届ける。

  38. 追録5-No.524 家老座覚書

    慈徳院殿の追善のため、薩州に常念仏堂を建立する件を記した御筆の写し。出典注に写しの正文が家老座にあると記す。本文は建立についての短い記録で、完成や実施日までは述べない。朱書年記は「寛延三年」にママ注があり、目録の寛延二年と異なる。月日は記されていない。

  39. 追録5-No.525 島津久柄外二名家老連署書状

    寛延二年八月五日、嶋津主鈴・矢柄・主殿が樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、嶋津兵庫の忌服・江戸への呼寄せと急使派遣を報じる。本田伯耆守の用命で留守居一人を小笠原縫殿助宅へ遣わすことになり、赤松甚右衛門が赴いたところ、太守様の死去の日から忌五十日・服十三月を受けるよう兵庫へ伝え、忌服の書付を追…

  40. 追録5-No.526 樺山久初外三名家老連署返書

    九月三日付の返答。樺山主計ほか三名が、嶋津主鈴・矢柄・主殿から八月五日に送られた兵庫の忌服・出府に関する主書について、その書面を貴聞に達し、別紙をもって返答する旨を記す。差し越された別紙は控え置いたと伝える。返答自体に独立した署名・宛名は記されない。

  41. 追録5-No.527 幕府指図書

    幕府が島津兵庫に、松平薩摩守宗信の死去の日から五十日・十三月の忌服を受けるよう指図する。忌服の書付は追って差し出すこととし、兵庫を当地へ呼び寄せ、到着後に届けるよう命じる。小笠原縫殿助に関する朱注がある。国元への伝達を実行した旨はこの文書にはなく、その承知と申越しは次の忠雅請書に記される。

  42. 追録5-No.528 島津忠雅請書

    島津加賀守忠雅が八月五日、嶋津兵庫の忌服と呼び寄せについての上旨を承知したと答えた請書。兵庫は松平薩摩守の死去の日から五十日と十三月の忌服を受けること、当地へ呼び寄せて到着したら申し届けることが指示されていた。その指図を直ちに国元へ伝え、請けを行うよう取り計らう旨を述べる。署名に一類の注、忠雅の人名…

  43. 追録5-No.529 幕府指図書

    幕府が兵庫の家来に、五十日・十三月の忌服の受け方を伝えるよう指図する。兵庫が彼地で承知した日から受けるよう心得させ、追って書付を差し出すと記す。八月五日の指図にある宗信死去の日を起算日とする記述とは異なり、ここでは兵庫が国元で承知した日を起点とすることが明示されている。八月七日付の忌服起算に関する指…

  44. 追録5-No.530 島津久柄外二名家老連署書状

    寛延二年八月五日、嶋津主鈴・矢柄・主殿が樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、兵庫の定式忌服と出府について幕府側から書付による指図を受け、急使を差し立てたことを報告する。本多伯耆守宅へ召された小笠原縫殿助を通じ、別紙のとおり忌服を受けて江戸へ出府するよう書付を渡されたため、その内容を急飛脚で国元…

  45. 追録5-No.531 樺山久初外三名家老連署返書

    九月七日付の返答。樺山主計ほか三名が、嶋津主鈴・矢柄・主殿から八月五日に申し越された忌服・出府の指図書受領と急使派遣の報告について、承知して隅州様へ伝えたと答える。別紙はこちらに留め置き、この件について返答すると記す。返答自体に独立した署名・宛名は記されない。

  46. 追録5-No.532 島津久郷書状

    寛延二年八月六日、嶋津主鈴が樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、定式忌服の届書を本多伯耆守へ提出した経緯を報告する。前日五日に書付を差し出すよう命じられたため、昨夜申し遣わしたとおり、六日に留守居の名書を整えて届書を用意した。佐久間源太夫が本多宅へ赴き、取次の千馬文太夫を通じて差し出したところ…

  47. 追録5-No.533 樺山久初外三名家老連署返書

    九月七日付の返答。樺山主計ほか三名が、嶋津主鈴から八月六日に申し越された定式忌服の届書提出報告について、本文を承知し、送られた別紙を控え置いたと答える。返答自体には独立した署名・宛名は記されない。

  48. 追録5-No.534 忌服届書

    島津兵庫方の佐久間源太夫が、松平薩摩守宗信が養生かなわず七月十日に死去したため、兵庫が忌服を受けている旨を届ける。忌は七月十日から八月十九日まで、服は十三月で七月十日から翌午年七月までと期間を掲げる。八月六日付で、控えの正文が家老座にある。忌と服を別々に示した、宗信死去に伴う兵庫の服制届である。

  49. 追録5-No.535 堀田正亮外二名老中連署奉書

    堀田相模守正亮・本多伯耆守正珍・松平右近将監武元が、松平大隅守継豊へ宗信死去の報告への返答を送る。薩摩守の死去が将軍の上聞に達したところ、継豊が悲しんでいるであろうと思し召した旨を伝えるよう命じられたと記す。八月六日付の三名連署奉書で、将軍の意向を継豊へ伝達する。署名・判と大隅守宛所が揃い、正文は文…

  50. 追録5-No.536 秋元凉朝書状

    秋元但馬守凉朝が松平大隅守継豊へ、宗信死去の報告が上聞に達し、継豊が悲しんでいるであろうと思し召した旨を伝えるよう命じられたと返答する。八月六日付で「御諚」により申し伝える形式を取り、No.535の三名連署奉書と同じ訃報への奉達を別紙で行う。末尾に凉朝の判と大隅守宛所があり、出典は前項と同じ継豊公御…

  51. 追録5-No.537 西尾忠尚書状

    西尾隠岐守忠尚が松平大隅守継豊へ、宗信の死去を言上したところ、継豊が悲しんでいるであろうと思し召したとの返答を送る。その旨を御諚によって申し伝えると記し、八月六日付で忠尚が署名・判を据える。本文には「由脱」の注があり、前二通と同趣旨の訃報に対する奉達である。

  52. 追録5-No.538 島津久富・島津久郷家老連署書状

    寛延二年八月八日、嶋津主鈴・矢柄が樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、慈徳院殿宗信の死去に伴う兵庫の忌服と出府について報告する。逝去の日から定式の五十日・十三月の忌服を受け、届出も済んだことは六日の便で伝えていたが、七日に本多伯耆守から留守居一人を呼ぶ切紙が届き、佐久間源太夫が赴いたところ、国…

  53. 追録5-No.539 樺山久初外三名家老連署返書

    九月三日付の返答。樺山主計ほか三名が、嶋津主鈴・矢柄からの兵庫の忌服と出府に関する報告を条ごとに受け、隅州様へ伝え、兵庫も承知したと答える。当日三日から十月十二日までの忌と十三月の服を受けること、届書を相談して御用番へ差し出し、本多伯耆守へ首尾を申し上げる扱いを記す。兵庫は来る十三日に出立する予定で…

  54. 追録5-No.540 島津継豊書状

    継豊が老中らへ、三御所の健勝を喜び、国元での入湯養生と参府に関する許可の御礼を述べる。年来の病気により入湯を願って暇を得たが、昨夏以来とりわけ不調で十分な養生ができず、参府時期について宗信が願い出たところ、願いどおりとする旨が下されたという。八月十三日付で、堀田・本多・松平に送り、西尾・秋元にも同文…

  55. 追録5-No.541 将軍家重、宗信ノ訃ヲ弔ハシム

    宗信の訃報が将軍家に届き、八月七日、奏者衆金森兵部少輔頼錦が弔問の上使として江戸芝邸へ来た。家重から賻銀五十枚が贈られ、水野肥前守忠見が拝領した。当日、島津又四郎久柄が各執政と若年寄の邸へ出向いて謝礼した。八月十日には家重から御文と干菓子一箱が菊姫へ贈られ、継豊が仮名文で拝謝した。家治からも御文と干…

  56. 追録5-No.542 島津宗信親類名書

    宗信の一類として、松平越中守、阿部伊豫守、鳥居伊賀守、水野肥前守、松平河内守、島津加賀守、同姓又四郎、山本大膳の八名を列記する。冒頭は「相詰罷在候一類共」で、列挙された者が詰めている旨を記す。八月の年記があり、控えの正文は右筆所にある。本文は名書で、家督や弔礼の相談・通知先として作成されたという具体…

  57. 追録5-No.543 島津久柄届書

    島津又四郎久柄が、松平薩摩守宗信の死去に際して上使を遣わされたことを受け、その御礼を述べる旨を届ける。八月七日付で久柄の署名があり、控えの正文は右筆所にある。同日、前の記事に上使金森頼錦による弔問と賻銀贈呈が記されるが、この届書自身は上使派遣への御礼を短く申し述べる内容である。

  58. 追録5-No.544 島津久柄届書

    島津又四郎久柄が、宗信死去に際し上使金森兵部少輔を通じて香奠を拝領したことについて、一類ともどもありがたく存じ、御礼を申し上げるため伺公すると届ける。八月七日付で、正文の控えは右筆所にある。上使派遣そのものへの御礼を述べた前項に対し、本書は香奠拝領と一類の謝意を明記する。若年寄への書付の調整・差出し…

  59. 追録5-No.545 宗信ノ中陰ニ一族祭文ヲ献ス

    八月六日から三十日まで福昌寺で宗信の中陰の梵儀を修し、法式に従って弔祭した。至親の大家親戚は、それぞれの家格と従来の先規に従い、日を定めて祭文を献じた。各人の祭文を以下に掲げると記す。

  60. 追録5-No.546 島津貴儔祭文

    貴儔が慈徳院殿宗信に献じた祭文。七月十日の死去、十三日夜の殯、二十四日の葬礼と玉龍精舎の霊場を記し、中陰に供物を捧げる。本文の対句は宗信を三国の柱石、文武に優れ仁徳・忠孝を備えた君主とたたえ、二十二歳で失った悲しみを表す。君臣の思い、面影と遺徳、日月や山川の比喩を重ね、末尾で霊に供物を受けるよう願う…

  61. 追録5-No.547 島津忠紀祭文

    周防忠紀が慈徳院殿宗信に献じた祭文。病中の薬や祈祷もかなわず七月十日に死去し、福昌寺へ霊柩を移して二十四日に葬礼を行った経緯を記す。中陰に献祭し、文武に通じた君主の徳と民衆への恩をたたえ、二十二歳で失った嘆きを述べる。衰えた老人と幼い子を残した悲しみを対句に託し、雲水や月、夢の比喩を用いて故人の霊を…

  62. 追録5-No.548 島津三次郎某祭文

    三次郎某が八月七日の中陰に、慈徳院殿宗信へ清らかな供物を捧げた祭文。病気が長引き医療・祈祷も実らず七月十日に死去したことと、玉龍で葬礼を行ったことを述べる。君主の仁愛と教化、文武の威儀をたたえ、子と父、臣と君の関係を失う悲しみを重ねる。詩句では一族と家臣の嘆き、世の移ろい、故人への思いを表し、供物を…

  63. 追録5-No.549 島津久門祭文

    兵庫久門が亡兄宗信に献じた祭文。宗信が薩摩府城で病み、医療・祈祷もかなわず七月十日に亡くなり、十三日夜に福昌寺へ霊柩を安置し、二十四日に葬礼を終えたと記す。「不肖弟臣」と自らを称し、中陰に薄い供物を捧げる。対句は兄の文武・温良・民への恩をたたえ、二十余歳の早世、君主を失った民衆と家中の嘆きを述べ、最…

  64. 追録5-No.550 島津久定祭文

    又六郎久定が慈徳院殿宗信の中陰に献じた祭文。病のため府城の寝室で亡くなり、七月二十四日に福昌寺で葬礼を行った経緯を述べ、天命と短い生涯への無念を記す。詩句では仁による政治、礼にかなう行い、国を支える徳をたたえる一方、医療も役立たず国の要を失った悲しみを表す。残された一族とともに霊に供物を捧げ、守護を…

  65. 追録5-No.551 島津久尚祭文

    中村大學久尚が八月七日に慈徳院殿宗信へ供物と祭文を献じる。六月から病が重くなり、医療・祈祷もかなわず七月十日に死去し、玉龍へ霊柩を移して葬礼を行ったと記す。対句は仁政と民への恩、二十二歳の若さをたたえ、国を治めた手が失われたこと、城中と民衆の嘆きを述べる。死後も面影をしのび、祭礼を受けてほしいと願う…

  66. 追録5-No.552 島津久亮祭文

    図書久亮が八月八日に慈徳院殿宗信へ献じた祭文。六月以来の病に医療を尽くしたが七月十日に死去し、玉龍で葬礼を行ったと記す。対句は文武の徳、三国・九州に及ぶ政務、功名を求めぬ清廉さと寛容をたたえる。君主を失った家臣と領内の悲しみを描き、二十余歳で亡くなったことを嘆く。末尾では各地の人々、妻子、比丘にも呼…

  67. 追録5-No.553 島津久起祭文

    左近久起が慈徳院殿宗信の中陰に献じた祭文。府城で病み、治療もかなわず七月十日に亡くなり、玉龍精舎へ霊柩を移して葬礼を行ったと記す。供物を捧げ、故人の文武、信義、慎み、君主としての徳を対句でたたえる。若くして亡くなったため一族が悲嘆し、妻子を残した痛みと、故人が家を支えた恩を述べる。最後は霊場への祭祀…

  68. 追録5-No.554 島津久峯祭文

    木工久峯が亡兄宗信の中陰に献じた祭文。七月十日の死去、玉龍精舎への霊柩移送と葬礼を記し、自らを「不肖弟臣」と称して供物を捧げる。対句では父祖の徳を受け継いだ宗信の文武、三国を治める威、民への仁政をたたえる。一族や子孫の学び、若くして家の支えを失った悲しみを述べ、故人の霊に祭礼を受けるよう願う。末尾に…

  69. 追録5-No.555 島津久茂祭文

    筑後久茂が宗信の中陰へ献じた祭文。宗信が七月十日に府城で死去したことを悼むが、自身も養病中で思うように赴けず、弟の北郷久綿を玉龍精舎の道場へ遣わして供物を捧げさせると述べる。詩句は宗信の大度、老成、礼楽・文武、民への恩をたたえ、長寿と家の繁栄を願った思いが死によって絶たれた悲しみを記す。

  70. 追録5-No.556 種子島久鴻祭文

    種子島久鴻が八月九日に宗信へ供物を捧げた祭文。七月十日に病で亡くなり、二十四日に玉龍精舎で葬礼を行ったと記す。対句では宗信の仁義、兄弟への思い、忠実な行動と威を誇らない姿、民衆への恩をたたえる。医療と祈祷にも効果がなかった無念、残された家中の悲嘆を述べ、将来の家を支える願いを託す。末尾に種子島久鴻献…

  71. 追録5-No.557 島津久柄祭文

    十殿久柄が宗信の死を悼んだ祭文。七月十日の死去と二十四日の福昌寺での葬礼を記し、自分は江戸で公務に就き千里離れていたため葬礼に従えなかったと述べる。本文は百日の期に当たり、供物を備えて献祭する旨を記す。詩句では君主の文武、民と弟への徳、忠実な政務をたたえ、医療も及ばなかった無念と遠方での悲嘆を表す。

  72. 追録5-No.558 忠雅父子贈銀・祭文ヲ献ス

    島津宗信の訃報が日州佐土原に届いたため、佐土原城主島津加賀守忠雅と嫡男又四郎久柄が使者を薩府へ遣わしたと記す記事。使者は私邸に「信宿」し、九月五日に福昌寺へ登って弔銀と祭文を奉献した。弔銀は忠雅から五枚、久柄から三枚であり、それぞれの名が割注で示される。祭文については、忠雅は献じ、久柄は献じなかった…

  73. 追録5-No.559 島津忠雅祭文

    島津加賀守忠雅が島津宗信の小祥に寄せて奉献した祭文。冒頭に宗信の戒名・官位を掲げ、薩摩・大隅・日向三国の国主で琉球国を兼領したこと、寛延二年己巳七月十日に州城の正寝で没したことを記す。続いて当年を庚午とし、小祥の礼典が終わったと述べる。忠雅は高源の支派であり、世代を隔てて子孫へ分かれても、受けた恩の…

  74. 追録5-No.560 中山王尚敬、経典贈銀等ヲ献ス

    宗信の訃報が琉球に届き、国王尚敬は深く悲しみ弔使を派遣しようとした。海路が遠く容易に往返できなかったため、寛延三年夏に美里按司・圓學禅寺長老らを薩摩へ遣わした。八月十日、按司と長老が福昌禅寺へ登り祭文を捧げ、尚敬からの大乘妙典(写経)一部・大官香十把・賻銀三百両を慈徳院殿の霊前へ献じた。

  75. 追録5-No.561 中山王尚敬祭文

    寛延三年五月の年記を持つ尚敬の祭文。古徹らが王命を受けて海を渡り、宗信の訃報に深く心を動かされた旨を述べ、在世のように礼を尽くすとする。古徹らによる経典八軸の書写と妙典全部、供物を福昌寺で霊前へ捧げる旨を記す。詩句では宗信の英邁、三代にわたる徳、庇護と統治をたたえ、遠方からの追慕を表す。冒頭の五月は…

  76. 追録5-No.562 堀田正亮書状

    堀田相模守正亮が松平大隅守継豊へ九月六日に返書を送る。継豊の書札を受け取り、三御所の機嫌伺について、いずれも安全であるので安心されるよう知らせる。添えられた干鯛一箱は関係者と相談して披露し、喜ばれた旨を伝える。正文は継豊公御譜所収で文庫にあると注記され、正亮の署名・判と大隅守宛所を持つ。

  77. 追録5-No.563 秋元凉朝書状

    秋元但馬守凉朝が松平大隅守継豊へ九月六日に返書を送る。三御所の機嫌伺を承知し、いずれも勇健であるので安心されるよう伝える。継豊が添えた干鯛一箱を披露し、喜ばれた旨を知らせる。前の堀田正亮返書と同趣旨だが、こちらは「勇健」と記し、関係者との相談を明記しない。末尾に凉朝の署名・判と大隅守宛所がある。

  78. 追録5-No.564 西尾忠尚書状

    西尾隠岐守忠尚が松平大隅守継豊へ九月六日に返書を送る。書札を受け取り、三御所の機嫌伺を承知したうえで、いずれも安全であるので安心されるよう知らせる。継豊の紙面の趣旨も言上したと記す。前二通にある干鯛献上は本書には記されない。

  79. 追録5-No.565 徳川宗睦書状

    尾張中将宗睦が松平大隅守継豊へ九月六日に返書を送り、継豊の無事を喜ぶ。継豊がその地に到着した際の祝儀を宗睦から申し入れたことへの謝礼として、目録に記す品物を贈られたと述べ、心遣いをありがたく受け取ったと答える。贈物の具体的な品名は本文にない。正文には重陽や祖父の無事という用件を記しておらず、到着祝儀…

  80. 追録5-No.566 徳川家重御内書

    将軍家重が松平大隅守継豊へ九月七日に御内書を送る。重陽の祝儀として継豊から小袖一重が届いたことを喜び、詳しいことは松平右近将監から伝えると記す。継豊の小袖献上への将軍自身の礼答で、末尾に家重公墨印の表示と大隅守宛所がある。前の宗睦返書にある到着祝儀とは用件が異なり、この文書は明記された重陽の贈答を扱…

  81. 追録5-No.567 秋元凉朝書状

    秋元但馬守凉朝が松平大隅守継豊へ九月七日に返書を送る。重陽の祝儀として使者を介して小袖一重を献じたことについて、品物を披露したところ大いに喜ばれたと伝える。末尾に凉朝の署名・判と大隅守宛所を持つ。前の家重御内書と同じ小袖献上に関する礼答で、本書は老中から披露と受納の結果を知らせる。

  82. 追録5-No.568 徳川宗勝書状

    尾張中納言宗勝が松平大隅守継豊へ九月十二日に返書を送り、継豊の無事を喜ぶ。継豊の国元到着に際して祝儀を送ったことへの謝礼として、両種と樽代を贈られ、心遣いをありがたく受け取ったと述べる。本文に重陽とは記されず、国元到着の祝儀に対する謝礼を扱う。宛所・御報の注と宗勝の署名・判があり、正文は継豊公御譜と…

  83. 追録5-No.569 堀田正亮書状

    堀田相模守正亮が松平大隅守継豊へ九月二十一日に返書を送る。宗信の病中、願いに従って医師平賀玄純を遣わしたことについて、ありがたいとの継豊の礼状を受け、その意を承知したと答える。本文の医師名には玄を元とする注がある。紙面の趣旨も読んだと記す。今後継豊を診察する許可ではなく、宗信病中の派遣への御礼に対す…

  84. 追録5-No.570 秋元凉朝書状

    秋元但馬守凉朝が松平大隅守継豊へ九月二十一日に返書を送る。宗信の病気の際、願いどおり医師平賀玄純を派遣したことへの御礼を受け、その謝意を承知し、継豊の紙面の趣旨を理解したと答える。堀田正亮の前書と同件の礼答で、末尾に凉朝の署名・判と大隅守宛所を持つ。

  85. 追録5-No.571 西尾忠尚書状

    西尾隠岐守忠尚が松平大隅守継豊へ九月二十一日に返書を送る。宗信の病中に医師平賀玄純を願いどおり遣わしたことについて、継豊からの御礼を承知したと伝え、紙面の趣旨も理解したと述べる。前の堀田・秋元書状と同じ医師派遣に対する返答で、忠尚の署名・判と大隅守宛所を持つ。

  86. 追録5-No.572 堀田正亮書状

    堀田相模守正亮が松平大隅守継豊へ九月二十二日に返書を送る。三御所の健勝を喜ぶ継豊の意を受け、長年の病で国元の入湯養生を願い、暇を得たものの不調が続いた件に答える。翌夏まで国元に留まり十分に養生して参府することを宗信が願い出て、願いどおりとする指示が下されたことへの御礼を承知したと述べる。参府延期の許…

  87. 追録5-No.573 秋元凉朝書状

    秋元但馬守凉朝が松平大隅守継豊へ九月二十二日に返書を送る。三御所の健勝を喜ぶ意を承知し、継豊の国元入湯養生と参府延期に関する御礼に答える。暇を得ても病状がよくならず、翌夏まで国元に留まって養生し参府したいとの宗信の願いが認められたことについて、その謝意と紙面を理解したと記す。堀田書状と同件だが、凉朝…

  88. 追録5-No.574 西尾忠尚書状

    西尾隠岐守忠尚が松平大隅守継豊へ九月二十二日に返書を送る。三御所の健勝を喜ぶ意を受け、継豊が国元入湯の暇を得ても不調が続いたため、翌夏まで養生してから参府することを宗信が願い出た件に答える。既に願いどおりとする指示が下されており、その許可への継豊の謝意を承知し、紙面の趣旨も理解したと記す。堀田・秋元…

  89. 追録5-No.575 徳川宗勝書状

    尾張中納言宗勝が松平大隅守継豊へ九月二十七日に返書を送る。宗信の病中、油断なく療養するよう宿次奉書で伝えられたことについて、継豊の書札と贈物一種を受け取ったと述べる。大御所・大納言からの御諚を記す奉書が届いた旨も承知し、心遣いをありがたく受け止めたと答える。宗勝の署名・判と御報注を持つ。

  90. 追録5-No.576 堀田正亮書状

    堀田相模守正亮が松平大隅守継豊へ九月二十八日に返書を送る。宗信の病中に上意を宿次奉書で伝え、大御所・大納言からも御諚を記す奉書が届いたことについて、継豊からの御礼を承知したと答える。使者の来訪に伴い、書札の趣旨を関係者と相談して上聞に達したと記す。宛先は継豊で、病人として記されるのは宗信である。

  91. 追録5-No.577 秋元凉朝書状

    秋元但馬守凉朝が松平大隅守継豊へ九月二十八日に返書を送る。宗信の病中、上意を宿次奉書で伝え、大御所・大納言の御諚も奉書で知らせたことに対する継豊の御礼を承知する。使者の到来に伴い、継豊の紙面の趣旨を言上したと述べる。堀田の前書と同件だが、本書は凉朝の署名・判と大隅守宛所を持つ独立した返書である。宗信…

  92. 追録5-No.578 西尾忠尚書状

    西尾隠岐守忠尚が松平大隅守継豊へ九月二十八日に返書を送る。宗信の病中の宿次奉書、大御所・大納言からの御諚を伝える奉書に対して、継豊の謝意を承知したと答える。使者の来訪に伴って紙面の趣旨を言上したと記す。

  93. 追録5-No.579 島津重年忌服届書

    島津兵庫重年が宗信死去に伴う自身の忌服を届ける。宗信が七月十日に死去したことと、忌服を受けるよう命じられた旨を九月三日に薩州で承知したことを記す。承知当日から忌五十日を九月三日~十月二十二日、服十三月を九月三日~翌午年九月までと定める。九月の届書で重年自身の署名があり、控えは右筆所にある。宗信は重年…

  94. 追録5-No.580 島津久富・島津久郷家老連署書状

    寛延二年十月三日、嶋津主鈴・矢柄が嶋津主殿・樺山主計・伊勢兵部・義岡左平太・鎌田典膳・平田靱負へ、兵庫の忌服と出府に関する届書・幕府への取次手続を報告する。八月七日に本多伯耆守から受けた指図は八日に知らせ、片道二十三、四日目の承知を見込んだ。その後、八月五日の小笠原縫殿助の指図も吟味して九日に申し越…

  95. 追録5-No.581 島津久柄外五名家老連署返書

    十一月四日付の返答。嶋津主殿久柄ほか五名が、嶋津主鈴久郷・矢柄久寛から十月三日に申し越された兵庫の忌服と出府の手続について承知し、隅州様へ伝えたと答える。送られた別紙はこちらに留め置いたと記す。返答自体には独立した署名・宛名は記されない。

  96. 追録5-No.582 伊勢貞起書状

    十月十三日、伊勢兵部が嶋津主殿・樺山主計・義岡相馬・鎌田典膳・平田靱負へ送った書状。本文を披見したこと、兵庫にも申し上げて差し越したことを伝える。署名は伊勢兵部で、宛名は五名を列記する。

  97. 追録5-No.583 小笠原持広口上書

    小笠原縫殿助の九月二十九日付口上書。宗信死去に伴い兵庫が五十日・十三月の忌服を受け、江戸へ出府するよう指図されたことについて、兵庫が九月三日に薩州で承知し、同月十三日に出発したとの報告を申し上げる。正文の控えは家老座にある。

  98. 追録5-No.584 島津久富・島津久郷家老連署書状

    寛延二年十月三日、嶋津主鈴・矢柄が嶋津主殿・樺山主計・義岡左平太・鎌田典膳・平田靱負へ、宗信の死去後の兵庫の相続・忌服・出府と、隅州様から幕府への御礼の手続を報告する。慈徳院殿宗信の死去に伴う相続を兵庫に命じ、忌五十日・服十三か月を受けて出府するよう指図されたため、隅州様から堀田相模守へ御礼を申し上…

  99. 追録5-No.585 島津久柄外四名家老連署返書

    十一月四日付の返答。嶋津主殿久柄ほか四名が、嶋津主鈴・矢柄から十月三日に申し越された兵庫の相続・忌服・出府と御礼の手続について、その本文内容を隅州様へ伝えたと記す。送られた別紙はこちらに留め置いたと答える。返答自体には独立した署名・宛名は記されない。

  100. 追録5-No.586 徳川宗勝書状

    尾張中納言宗勝が十月三日、松平大隅守継豊へ送った返書。相手の礼状を披閲し、同氏薩摩守の死去に際して奉書が到来し、大御所・大納言からの御諚の趣を伝える奉書も届いた旨を受ける。その件について寄せられた芳簡を、御念入りなことと感じ入る旨を述べ、「恐々謹言」で結ぶ。 冒頭に「継豊公御譜中」「正文在文庫」があ…