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追録5の目録
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全2,955件中 1601~1700件・17 / 30ページ
追録5-No.1576 島津重年願書
重年が宝暦五年四月七日、同氏大隅守継豊の療養について願い出る。継豊は多年の病気のため国元で入湯しており、当夏の参府を考えていたが、なお長途の旅行に耐えられないとして、来夏まで国元に滞在し養生できるよう指図を求める。張紙に「可為願之通候」とあり、願いどおり許可する旨が記される。継豊公御譜中・正文在文庫…
追録5-No.1577 平田正輔首尾書
平田靱負が四月十一日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、御手伝普請の完成・内見と引き払いの見通しを報告する。一之手は三月二十七日完成、二十八・二十九日内見、二・三之手の大榑川切り等は二十八日完成し、定式・急破以外の手広工事も三月中の内見を見込み、四之手の油嶋等は十七日完成、十九日から四月六日まで内見を受け、油嶋…
追録5-No.1578 島津久馬・鎌田政昌在国家老連署返書
島津久馬・鎌田政昌が四月十八日、平田靱負へ、本文三箇条の趣旨を承知したと返答する。諸普請が完成したことを隅州様へ伝えたと知らせる。
追録5-No.1579 重年、登営シテ帰国ノ暇ヲ謝ス(記事)
宝暦五年四月十一日、家重の使者である老中松平右近将監武元が芝邸へ来て、重年に帰国の暇を告げ、白銀百枚・紗綾三十巻を賜った記事。家治の使者秋元但馬守凉朝からは縮緬二十巻を賜り、重年は翌日、老中各邸へ赴いて謝礼した。十五日に登営して家重に謝礼し、懇篤な上意と馬一匹を賜った。西城でも家治へ謝礼し、桜田邸に…
追録5-No.1580 堀田正亮外四名幕府老中連署状
西尾忠尚・松平武元・本多正珍・酒井忠寄・堀田正亮の五老中が宝暦五年四月十四日、松平薩摩守重年へ、明日五半時に登城して御暇の礼を申し上げるよう通知する。四月十五日の登城時刻と謝礼の目的を指定した連署状であり、各人の名を記す。出典は前号に同じとする「全上」と正文在文庫の注を持つ。
追録5-No.1581 登城令書
家来一人の御目見を仰せ付けるので、召し連れて罷り出るよう通知する短い登城令書。本文には日付・差出人・宛名が記されず、前号と同じ出典を示す「全上」と宝暦五年の朱注がある。御目見の申し出を許すだけでなく、家来を伴って出頭する指示を記す。
追録5-No.1582 島津重年内意書
重年が宝暦五年四月、江戸居附士の二男・三男以下を御番入りさせる扱いについて内意を伝える。今後は嫡子に御番入りを命じ、二男以下は物馴れして一身格の奉公や他所への派遣に適する者を事情に応じて採り、芸能のある者などは例外とする。二男以下を広く採ると居附士が増え、国許から江戸へ差し越す人数を減らしても支障が…
追録5-No.1583 義岡久仲・島津久郷在府家老連署書状
義岡相馬久仲・島津主鈴久郷が宝暦五年四月十六日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、江戸居附士の二男以下の御番入りに関する重年の内意を伝える。二男以下を採ると居附士が増え、国許から差し越す人数を減らしても差支えが出るため、今後は御番入りを認めないとする。別立などの難儀願いは吟味して口達し、国許の記録所に書き留める…
追録5-No.1584 義岡久仲・島津久郷在府家老連署書状
義岡相馬・島津主鈴が宝暦五年四月十八日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、太守が二十三日に当地を発駕する予定だったが、疝積のため旅行が難しく、出立を延期すると急飛脚で通知する。出立日は追って知らせ、病状は別紙に記すとし、御女中方にも伝えるよう求める。
追録5-No.1585 山田有隆書状
四月十八日付の家老通知に付く五月三日の取次朱注。家老通知本文を伝達したことを記し、御取次は山田元右衛門とある。巻末目録では五月三日付の山田有隆書状として立項する。
追録5-No.1586 義岡久仲・島津久郷在府家老連署首尾書
義岡相馬・島津主鈴が宝暦五年四月十八日、嶋津主殿・鎌田典膳へ太守の療養と発駕延期を詳しく報告する。前年伊勢兵部から聞いた持病の疝積が春になっても快方せず、村田長庵の薬で次第に回復し、十五日に登城して暇の礼を申し上げたが、翌朝から足の腫れが少し出た。医師らは長く続く疝積のため道中に障りがあるとし、見舞…
追録5-No.1587 島津久柄(佐土原城主)願書
嶋津淡路守が宝暦五年四月、同氏加賀守の療養を願い出る。加賀守は眩暈・疝積が長く治らず、前年十二月に隠居を許されたが、なお歩行も不自由で、寒い時期は特に難儀するという。在所は寒気が薄く保養に適し、日州白鳥の温泉で入湯すれば快復も見込めるとして、在所へ差し越し、しばらく養生させたいと願う。署名は淡路守で…
追録5-No.1588 島津久柄(佐土原城主)願書
加賀守の眩暈・疝積と歩行不自由について、前年十二月の隠居許可後も病状が続き、寒い時期は難儀すると記す。日州白鳥の温泉に入湯して保養すれば快復も見込めるとして、淡路守の在所へ差し越して養生させる願いを、淡路守の願いとして申し出る文案である。宝暦五年四月二十五日付、署名は「御名」と記す。願いのとおりにす…
追録5-No.1589 徳川家重御内書
徳川家重が宝暦五年五月二日、松平大隅守継豊へ、端午の祝儀として献じた帷子・単物が届き、喜んだと通知する。詳しくは堀田相模守から伝えるとし、家重公の墨印を持つ。継豊公御譜中・正文在文庫の注がある。
追録5-No.1590 秋元凉朝書状
秋元凉朝が宝暦五年五月二日、松平大隅守継豊へ返答する。端午の祝儀として使者をもって帷子・単物を献上したことを受け、順次披露したところ、一段の御仕合であったと伝える。凉朝の署判があり、前号と同じ出典を示す「全上」の注がある。
追録5-No.1591 琉球王尚穆起請文前書
琉球中山王尚穆が宝暦五年五月九日、太守へ提出した起請文前書。先王の跡職を継ぐことを命じられた厚恩を忘れず、琉球の安泰が貴国の恩によることを述べ、親子兄弟のように高恩を忘れないと誓う。逆意を持たず、貴国の指図を守り、子孫にも霊社神文を継承させ、嫁の子孫でも悪意や国法違反があれば披露して処罰するとする。…
追録5-No.1592 島津継豊請書
継豊が宝暦五年五月十一日、五老中と大納言方秋元但馬守へ許可を承知した旨を伝える。公方・大納言の健勝を喜び、自身は病気が快復しないため、同氏薩摩守が伺ったところ、来夏まで国許に滞在して養生する願いのとおりにすると通知されたことをありがたく承知したと記す。その謝意を申し上げるための飛札である。宛所は堀田…
追録5-No.1593 重年、江府ニテ病勢ススム(記事)
重年が以前から疝積を患い、日ごとに病状が悪化した記事。官医村田長庵が脈を診て薬を薦めたが効き目がなく、武田長春院も来て長庵とともに療治したものの、病気のため帰国できなかった。長庵には昌和、長春院には信・壽郷との元注が付く。六月五日、重年はしばらく江戸に留まって療養したいと老中酒井左衛門尉忠寄へ願い、…
追録5-No.1594 島津重年届書
重年が宝暦五年五月十三日、国許へ帰る暇を許され出立する予定だったが、持病の疝積が治まらず長途の旅行は難しいとして、しばらく保養し、快復次第早速出立すると届ける。重年公御譜中・扣正文在文庫の注があり、署名は「御名」と記す。
追録5-No.1595 秋元凉朝書状
秋元凉朝が宝暦五年五月十三日、松平大隅守継豊へ返答する。大納言の機嫌を喜ぶ礼状を受け、三月二十六日の東叡山至心院御霊前への参詣を喜ぶ継豊の祝意を承知し、書面の趣旨を言上したと通知する。至心院には家重妾・梅渓氏の小字注があり、凉朝の署判と継豊公御譜中・正文在文庫の出典注を持つ。
追録5-No.1596 平田正輔普請首尾書
平田靱負が五月十四日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、御手伝普請成就後の見分・木屋引払い・人員引取を報告する。牧野織部・細井九助らは四月十五日着、翌日から一之手を見分して二十一日に済み、石田を二十三日に見分、二之手は二十四日から五月十日、三之手は五月十二日までに済み、四之手も十二日に完成、十三日の金廻・葉名の…
追録5-No.1597 島津久馬・鎌田政昌連署返書
島津久馬・鎌田政昌が七月二十一日、平田靱負から申し越された趣旨を承知したと返答する。普請が完成して御手伝方の人員を引き取らせたとの報告を、隅州様へ伝えたと知らせる。
追録5-No.1598 義岡久仲・島津久郷在府家老連署首尾書
島津主鈴・義岡相馬が六月六日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、御手伝普請の完了届・通知と人員帰還を報告する。一~三之手の成就と見分済みを五月十七日の飛脚で知らせ、四之手も二十二日までに見分が済んで木屋を引き払い、翌日堀田相模守へ届書写一通・留守居名書一通、一色周防守へ留守居名書を渡したと記す。近衛・御三家・御…
追録5-No.1599 島津久馬・鎌田政昌連署返書
島津久馬・鎌田政昌が七月二十一日、島津主鈴・義岡相馬から申し越された趣旨を承知したと返答する。紙面によって隅州様へ伝え、女中方へも報告したと知らせ、送られた別紙は留め置くと記す。
追録5-No.1600 島津重年届書
宝暦五年六月朔日、島津重年が濃州・勢州・尾州の川の御手伝普請の完了を届ける。御手伝を命じられていた場所はすべて完成し、先月二十二日までに見分も済んだと、現地から知らせがあった。小屋を引き払い、差し置いていた家来も順次引き取る旨を伝え、この経過を届けると結ぶ。署名は「御名」と記す。
追録5-No.1600-1 島津重年届書(の一)
宝暦五年六月朔日、島津重年が濃州・勢州・尾州の川の御手伝普請の完了を届ける。御手伝を命じられていた場所はすべて完成し、先月二十二日までに見分も済んだと、現地から知らせがあった。小屋を引き払い、差し置いていた家来も順次引き取る旨を伝え、この経過を届けると結ぶ。署名は「御名」と記す。
追録5-No.1600-2 岩下方峯届書(の二)
宝暦五年六月朔日、岩下佐次右衛門が御名内として、川の御手伝場所のうち四之手の普請完了を届ける。四之手の普請が完成し、先月二十二日までに見分も済んだと現地から申し越されたので、その旨を申し上げると記す。この届書を堀田相模守へ届けたとの朱注を伴う。
追録5-No.1600-3 岩下方峯届書(の三)
宝暦五年六月朔日、岩下佐次右衛門が御名内として、川の御手伝普請の完了と役人の出府を届ける。御手伝場所はすべて完成し、四之手の見分も先月二十二日までに済んだため、小屋を引き払い、惣奉行ほか担当を命じて残していた役人も順次出府すると、現地から申し越された旨を伝える。この届書を一色周防へ届けたとの朱注を伴…
追録5-No.1601 岩下方峯首尾書
六月朔日付、岩下佐次右衛門が主鈴へ、三通の届書を差し出した首尾を報告する。一通は、御手伝場所の見分を終えて小屋場を引き払った旨の届書で、堀田相模守の用人春日井庄兵衛へ持参して差し出し、届出の内容を承知したと聞いたことを記す。もう一通は、四之手の見分を終えた旨の届書で、先と同じように差し出し、追って申…
追録5-No.1602 島津重年願書
重年が宝暦五年六月五日、四月に国元へ帰る暇を許されたが、疝積が治まらず、先月御用番松平右近将監へ発駕延期を届けたと述べる。武田長春院の薬を服用しても草臥れがあり、長途の旅行は難しく、暑気にも向かうため、当九月まで江戸に滞府して養生したいと願い出る。重年公御譜中の文書で、署名は「御名」、公方に願う旨の…
追録5-No.1603 島津重年願書
巻末目録に宝暦五年六月十二日付の島津重年願書として収載される。重年の病気に関する願書である。
追録5-No.1604 島津重年届書
重年名義で、病気のため保養しているが草臥れが増し、具合がすぐれない旨を届ける。宝暦五年六月十一日付、署名は「御名」、扣正文在文庫の注を持つ。
追録5-No.1605 山沢盛福届書
山沢小左衛門が宝暦五年六月十一日、相馬へ病気届提出の首尾を報告する。重年の病気がすぐれない旨の届書一通を、御用番酒井左衛門尉の用人長沢半兵衛へ持参し、半兵衛を通して受け取られたと記す。覚には届書の通数・内容・提出先・用人名を列記する。
追録5-No.1606 義岡久仲外二名在府家老連署首尾書
義岡相馬・嶋津主鈴・伊集院十藏が六月十二日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、重年の病状届と跡目の事前相談の首尾を報告する。前夜から容体がすぐれず、酒井左衛門尉へ病状の届書を渡し、長患いの間に急な変症があれば跡目を一類と相談しにくくなるため、相馬・主鈴を通じて前もって内談したところ異論なく同意したと記す。堀田相…
追録5-No.1607 島津久馬・鎌田政昌連署返書
島津久馬・鎌田政昌が七月十二日、義岡相馬・嶋津主鈴・伊集院十藏から申し越された趣旨を承知したと返答する。六月二十八日に隅州様へ伝え、女中方にも報告したと知らせ、送られた別紙は手元に留め置くと記す。
追録5-No.1608 堀田正亮外二名幕府老中連署状
宝暦五年六月十二日、西尾隠岐守・松平右近将監・酒井左衛門尉・堀田相模守の四名が、松平薩摩守重年へ連署で通知する。御用のため、翌日五ツ半時に、重年の名代として一類の者から一人を登城させるよう命じる。重年公御譜中の文書で、正文が文庫にあるとの注を伴う。
追録5-No.1609 将軍家重、重年ノ病ヲ問ハシム(記事)
宝暦五年六月十二日、家重が使者の松平紀伊守信岑を遣わして重年の病気を尋ねた記事。信岑には御奏者衆との元注が付く。重年は懇篤な見舞いを受け、島津淡路守久柄に自分の代わりとして謝礼を勤めさせた。出典は重年公御譜。
追録5-No.1610 島津重年届書
重年名義で、病気のため養生しているが草臥れが増し、昨晩届けたとおり今朝まで具合がすぐれないと報告する。宝暦五年六月十二日付、署名は「御名」、扣正文在文庫の注を持つ。
追録5-No.1611 岩下方峯首尾書
岩下佐次右衛門が宝暦五年六月十二日、相馬へ病気届提出の首尾を報告する。重年の病気が今朝まで回復しない旨の書付一通を、御用番酒井左衛門尉の用人長沢半兵衛へ持参したことを記す。覚には届出の内容と提出先を掲げ、末尾で自ら勤めた経過を申し上げる。
追録5-No.1612 義岡久仲外二名在府家老連署首尾書
義岡相馬・嶋津主鈴・伊集院十藏が嶋津主殿・鎌田典膳へ、川普請成就の届出、時服の拝領と御礼の手配を報告する。六月十一日に堀田相模守へ届け、十二日に一類の松平河内守が名代として登城し、濃州・勢州・尾州の普請手伝に対する時服五十を拝領したため、重年の病気中の御礼は家来・使者・御文で勤め、公方・大納言への御…
追録5-No.1613 島津久馬・鎌田政昌連署返書
島津久馬・鎌田政昌が七月十二日、義岡相馬・嶋津主鈴・伊集院十藏の普請成就・御礼の首尾書へ、申し越された趣旨を承知し、隅州・女中方へ伝えたと返答する。長崎・隣国への通知と祝儀の済んだことは朔日便で知らせ、隅州の連署御格書と内証御文二通は六月六日付で仰せ付けられたと記す。簾中の御礼は大納言への御文に入れ…
追録5-No.1614 義岡久仲外二名在府家老連署書状
義岡相馬・嶋津主鈴・伊集院十藏が六月十三日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、重年の病状届と嫡子又三郎の跡式願の取次を急報する。容体は前日と同じながら草臥れが増して重くなったため、御用番酒井左衛門尉へ重病の届書を出し、一類への相談では異存のない返答を受け、堀田相模守へ隠岐守を通じて内談し、治定すれば嫡子の届書を…
追録5-No.1615 島津久馬・鎌田政昌連署返書
島津久馬・鎌田政昌が七月十二日、義岡相馬・嶋津主鈴・伊集院十藏の別紙を添えた書状へ、申し越された趣旨を承知したと返答する。六月二十八日に隅州へ伝えて女中方にも報告したと知らせ、送られた別紙は手元に留め置くと記す。
追録5-No.1616 島津重年病気首尾一件
重年の病状悪化と家督継承に関する七件の書付。病気が重く大切な容体になった旨の届書と、急変した場合に当年十一歳の嫡子松平又三郎へ跡式を相違なく継がせてほしいとの願書を収める。施療医師名書は武田長春院・井上交泰院・村田長庵・森宗乙の四人の薬を服用したと記し、別に望月三英を掲げる。縁者一類名書は容体を知ら…
追録5-No.1616-1 島津重年届書(の一)
重年名義で、病気が差し重く、容体が大切な状態となった旨を届ける。宝暦五年六月十三日付、署名は「御名」と記す。病状の悪化を短く通知する届書である。
追録5-No.1616-2 島津重年願書(の二)
宝暦五年六月十三日、松平薩摩守が堀田相模守・酒井左衛門尉・本多伯耆守へ出した願書。病気が重く大切な状態であり、もし急変した場合には嫡子松平又三郎へ跡式を相違なく継がせてほしいと願う。又三郎は当年十一歳と記す。署名脇に「手振印判相用申候」との注が付く。
追録5-No.1616-3 島津重年施療医師名書(の三)
松平右近将監・西尾隠岐守宛ての施療医師名書。御医師として武田長春院・井上交泰院・村田長庵・森宗乙の四名を掲げ、右四人の薬を服用したと記す。武田には信郷、井上には方正、村田には昌利、森には春山との小字注が付く。別に望月三英を掲げ、君彦との小字注を付す。本文には日付・差出人の署名は記されない。
追録5-No.1616-4 島津重年縁者一類名書(の四)
宝暦五年六月十三日、重年名義で容体を知らせる相手を列記した名書。松平隠岐守・松平越中守・阿部伊豫守・鳥居伊賀守・松平河内守・柳生采女・水野肥前守・嶋津淡路守の八名を掲げ、相詰めている一類を含むと記す。署名は「御名」と記す。
追録5-No.1616-5 島津重年容体書(の五)
宝暦五年六月十三日付、重年の容体書。四月中旬から持病の疝積が発し、村田長庵の薬を服用した後、武田長春院の薬へ替えたが、日ごろ具合がすぐれないため井上交泰院の薬を服用したと記す。草臥れが増し、一昨日から森宗乙の薬を服用しているものの、ますます大切な状態になったと報告する。署名は「御名」と記す。
追録5-No.1616-6 山沢盛福首尾書(の六)
宝暦五年六月十三日、山澤小左衛門が重年の病気が大切な状態である旨の届書一通を、御用番酒井左衛門尉の用人関茂太夫へ持参して差し出した首尾を記す。届書が受け取られたことを関から聞き、そのように勤めた経過を申し上げると報告する。覚には届書一通・病気大切・御用番酒井左衛門尉・御用人関茂太夫を掲げる。
追録5-No.1616-7 島津重年伺書(の七)
六月、松平薩摩守が相馬へ、重病に際する家督と琉球国の扱いを内々に相談した伺書。持病の疝積が再発し、滞府して養生しても快くならず、草臥れが増して今は急変するほどの状態となり、帰国も難しいと述べる。大切なことになった場合に嫡子又三郎へ家督を相違なく継がせ、琉球国を含む領地も渡すよう願いたいという。しかし…
追録5-No.1617 酒井忠寄書状
酒井左衛門尉忠寄が宝暦五年六月十三日、松平大隅守継豊へ返答する。公方・大納言の機嫌を喜ぶ礼状を受け、継豊の病気がなお快くならないため来夏まで在国して養生したいという重年(同氏薩摩守)からの願いは、願いのとおり許されたと知らせる。礼状の紙面はそれぞれ一覧に供した旨を記し、忠寄の署判と正文在文庫の注を持…
追録5-No.1618 秋元凉朝書状
秋元但馬守凉朝が宝暦五年六月十三日、松平大隅守継豊へ返答する。公方・大納言の機嫌を喜ぶ礼状を受け、継豊の病気がなお快くならず来夏まで国許にとどまり養生したいという重年(同氏薩摩守)からの願いは、願いのとおり許されたと通知する。秋元凉朝の署判を持ち、継豊公御譜中に収められる。
追録5-No.1619 重年、帰国ヲ前ニ病没ス(記事)
宝暦五年四月十一日、家重が重年に帰国を告げ、先例どおり品物を賜った記事。老中松平右近将監武元が芝邸へ来て伝え、重年は同月二十三日に江戸を発つ予定だった。ところが重年は以前からの疝積が日ごとに激しくなり、旅行に耐えられなかったため、幕府へ願って当年九月まで江戸に留まる許可を受けた。医師村田長庵・武田長…
追録5-No.1620 家重、再度重年ノ病ヲ問ハシム(記事)
宝暦五年六月十五日、家重が重年の病気を再び尋ね、使者の阿部飛騨守正因を芝邸へ遣わした記事。正因には御奏者衆との元注が付く。重年は懇篤な上意を受け、「鮮干鱸」一箱を賜った。家治も見舞いの懇旨を示し、島津淡路守久柄が重年に代わって恩旨への謝礼を勤めた。松平越中守定賢も老中各邸へ赴き、重年のために謝恩した…
追録5-No.1621 義岡久仲外二名在府家老連署書状
義岡相馬・嶋津主鈴・伊集院十藏が六月十五日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、重年の重病届と跡目願の御書付を御用番へ差し出した経過を報告する。十三日に申し越したとおり提出し、療養に努めているが長患いで日ごとに草臥れが増し、極めて重い状態となったと記す。上使の御肴を拝領したため、上使側へ別紙三通の御書付を小笠原縫…
追録5-No.1621-1 島津重年容体書(の一)
重年名義で六月十五日、病気が差し重く、先に申し上げたとおり極めて重い状態になったことを届ける。
追録5-No.1621-2 島津重年施療医師名書(の二)
重年が服用した薬の医師として、武田長春院・井上交泰院・村田長庵・森宗乙の四名を列記する。別に望月三英の名を掲げる。
追録5-No.1621-3 島津重年縁者一類名書(の三)
重年名義で六月十五日、容体を知らせる相手として松平越中守・松平河内守・柳生采女・水野肥前守・嶋津淡路守の五名を列記する。相詰めている一類の者も含む旨を添える。
追録5-No.1622 島津久馬・鎌田政昌連署返書
島津久馬・鎌田政昌が七月十二日、義岡相馬・嶋津主鈴・伊集院十藏から申し越された趣旨を承知したと返答する。六月二十九日に隅州へ伝え、女中方にも報告したと知らせ、送られた別紙三通は手元に留め置くと記す。
追録5-No.1623 重年死ス(記事)
重年の病気が甚だ重くなり、宝暦五年六月十六日未刻、江戸の芝邸で死去した記事。法名は圓徳院殿覺滿良義大居士と記す。同月二十九日の夜に訃報が薩府へ到達した。出典は重年公御譜。
追録5-No.1624 義岡久仲外二名在府家老連署書状
義岡相馬・嶋津主鈴・伊集院十藏が六月十六日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、重年の死去と届出の経過を急報する。十五日の報告後も病状が悪化して十六日未刻に逝去したため、淡路守名義の届書を御用番酒井左衛門尉へ出して受領され、姫君の忌十日・服二十日の届出は石川伝太郎から承知し、隅州・又三郎・菊姫の忌服届も酒井へ、菊…
追録5-No.1625 島津久馬・鎌田政昌連署返書
島津久馬・鎌田政昌が七月十二日、義岡相馬・嶋津主鈴・伊集院十藏の報告を隅州へ伝え、女中方にも申し上げたと返答する。死去の周知などが済んだことは七月五日の急飛脚で知らせたと記す。送られた別紙は手元に留め置き、問い合わせの書状は海陸二手で送られたため一通を控え置くと知らせる。
追録5-No.1626 赤松則正届書一件
宝暦五年六月十六日、菊の忌服について、松平又三郎内の菊・赤松甚右衛門の名を記して御用番へ届ける。故薩摩守重年は菊の実兄であるが、養子となったため甥の続柄にあると述べ、忌三日を六月十六日から十八日まで、服七日を同日から二十二日まで請う。赤松甚右衛門には則正との注があり、御用番へ届けたとの朱注を伴う。
追録5-No.1626-1 島津久柄届書(の一)
宝暦五年六月十六日、島津淡路守久柄が、松平薩摩守重年は病気の養生がかなわず、同日未刻に死去したと届ける。右に添える別紙との表示を伴い、死去の日と刻を明記する。末尾に六月十六日と島津淡路守の名を記し、宛先は記されない。
追録5-No.1626-2 島津忠洪忌服届書(の二)
宝暦五年六月十六日、松平又三郎が、同氏薩摩守重年は病気の養生がかなわず同日死去したとして、自らの忌服を届ける。忌五十日は六月十六日から八月六日まで、服十三月は亥六月十六日から子六月までと記す。右のとおり私の忌服を届けると結び、末尾に六月十六日と松平又三郎の名を記す。
追録5-No.1626-3 島津継豊・菊忌服書(の三)
松平大隅守が、松平薩摩守重年は病気の養生がかなわず当日死去したとして、忌服を記す。重年は実子であるが養子となったため嫡孫の続柄にあると述べ、忌十日を六月十六日から二十五日まで、服三十日を同日から七月十五日までとする。菊については、重年が実兄であるが養子後は甥の続柄にあるとして、忌三日を六月十六日から…
追録5-No.1626-4 菊忌服請書(の四)
宝暦五年六月十六日、菊が松平薩摩守重年の死去に伴う忌服を請う。病気の養生がかなわず当日死去した重年は実兄であるが、養子となったため甥の続柄にあると述べる。忌三日は六月十六日から十八日まで、服七日は同日から二十二日までとし、右のとおり忌服を請うと結ぶ。末尾に松平又三郎内の菊・赤松甚右衛門の名を記す。
追録5-No.1627 将軍父子、重年ノ訃ヲ弔ハシム(記事)
宝暦五年六月十九日、家重が奏者の井上河内守正賢を芝邸へ遣わして重年の死を悼み、香奠銀五十枚を賜った記事。家治も哀悼の意を示した。島津淡路守久柄が嗣嫡忠洪に代わり、弔問の恩旨を受ける役を勤めた。出典は重年公御譜。
追録5-No.1628 島津忠洪伺書
松平又三郎が宝暦五年六月十九日、亡父薩摩守重年の遺骸を、先祖の墓所がある国元へ送りたいとして指図を願う。又三郎本人の帰国暇ではなく、遺骸を国元へ差し越すための伺いである。扣正文在文庫の注があり、願いのとおり許す旨の朱付紙を添える。
追録5-No.1629 堀田正亮外四名幕府老中連署奉書
西尾隠岐守忠尚・松平右近将監武元・本多伯耆守正珍・酒井左衛門尉忠寄・堀田相模守正亮が宝暦五年六月二十日、松平大隅守継豊へ連署で通知する。同氏薩摩守重年の死去を申し上げたところ、愁傷であろうとの御意があったため、その旨を伝える。各人の署判と正文在文庫の注を持つ奉書である。
追録5-No.1630 秋元凉朝奉書
秋元但馬守凉朝が宝暦五年六月二十日、松平大隅守継豊へ通知する。同氏薩摩守重年の死去を言上したところ、愁傷であろうとの旨を申し達すよう命じられたと伝える。凉朝の署判を持ち、継豊公御譜中に収められる奉書である。
追録5-No.1631 岩下方峯願書
松平又三郎内の岩下佐次右衛門が宝暦五年六月二十日、酒井越中守・河野豊前守・戸田近江守・市川出雲守へ願い出る。重年の遺骸を棺に納め、江戸から薩摩国鹿児島の菩提所福昌寺へ送るため、箱根・今切両関所を相違なく通せる手判を求める。遺骸を送った後に出入りが生じれば自ら取り計らい、後日証文を差し出すと請け合う。
追録5-No.1632 河野通喬外三名御留守居連署関所手形
重年の遺骸を棺に納め、江戸から薩摩国鹿児島の菩提所福昌寺へ送る際、箱根・今切の関所で相違なく通すよう指示する。松平又三郎内の岩下佐次右衛門の断りに基づく宝暦五年六月二十一日付の関所手形で、越中・出雲・近江・豊前の印を備え、宛先を箱根・今切の人改中と記す。
追録5-No.1633 酒井忠寄書状
酒井左衛門尉忠寄が六月二十七日、松平大隅守継豊へ返答する。酷暑の折、公方・大納言の機嫌がよく、いよいよ安泰であるとの問い合わせを受け、心安く思うよう伝える。継豊が献上した鰹節一箱は申し合わせて披露し、たいへんよい献上であったと報告する。
追録5-No.1634 秋元凉朝書状
秋元但馬守凉朝が六月二十七日、継豊の書状に返答する。酷暑の折、公方・大納言が機嫌よく安泰であることを知らせ、心安く思うよう伝える。献上された鰹節一箱を披露したところ、たいへんよい献上であったとして、その旨を通知する。
追録5-No.1635 酒井忠寄書状
酒井左衛門尉忠寄が六月二十九日、松平大隅守継豊の礼状に返答する。公方の機嫌がよいことと、四月二十日に東叡山の御霊前へ参詣したことを承知して喜ぶ。書状に記された事柄は申し合わせて上聞に達したと伝える。
追録5-No.1636 重年、子忠洪ヘノ襲封ヲ乞フ(記事)
重年はそれ以前、自分の病気が回復しないと悟り、嫡子又三郎忠洪に襲封させることを上書して願っていた。幕府の命令がまだ届かなかったため、継豊が三州へ命令を下した記事。その指図の内容を左に掲げるとする。出典は継豊公御譜。
追録5-No.1637 島津継豊申渡書
継豊が、薩摩守重年の死去と、跡職を又三郎忠洪へ継がせる願いを提出してあることを国中へ知らせる。まだ幕府の仰せが出ていない状況であるため、国内の静謐を心掛けるよう命じる。
追録5-No.1638 島津継豊申渡書
継豊が家老その他の諸役人へ、重年の死去後、又三郎忠洪への跡職相続を願っているが、まだ幕府の仰せが出ていない旨を知らせる。この時節に当たって、諸役人はいっそう念を入れて職務を勤めるよう命じる。
追録5-No.1639 島津久馬・鎌田政昌家老連署申渡書
島津主殿(久馬)・鎌田典膳(政昌)が七月、隅州継豊の申渡しを承知したとして、奉行頭から支配下へ漏れなく伝達するよう指示する。欄外には、明和元年甲申十一月十二日に左京殿から渡され、御文書箱に納めたこと、郡山次郎左衛門が取り扱ったことを記す。
追録5-No.1640 忠洪襲封許サル、継豊政務ヲ代行(記事)
宝暦五年七月二十七日、島津淡路守久柄が忠洪のために老中西尾隠岐守忠尚の邸へ赴き、列座していた老中のうち忠尚から幕命を受けた記事。重年の遺領すべてを忠洪へ与え、忠洪が幼少のため四封内および琉球国の政務は継豊が先例に従って取り計らうよう命じ、継豊へ奉書を与えた。その知らせは八月二十二日に薩府へ届き、翌二…
追録5-No.1641 堀田正亮外二名幕府老中連署奉書
西尾忠尚・松平武元・堀田正亮が七月二十七日、松平大隅守継豊へ幕府の意向を伝える。薩摩守重年の願いどおり、遺領を嫡子又三郎忠洪へ相続させるが、忠洪は幼少なので、領分と琉球国の仕置などは先例に違わないよう継豊が心を配って取り計らうことを命じる。外箱にも、忠洪の相続と幼年に伴う継豊の政務代行を要約して記す…
追録5-No.1642 堀田正亮外二名幕府老中連署状
西尾隠岐守・松平右近将監・酒井左衛門尉・堀田相模守の四名が七月二十六日、松平又三郎忠洪へ御用のための呼出しを通知する。翌二十七日の九時前に、西尾隠岐守の邸へ忠洪の名代として一類の者一人を差し越すよう命じる。
追録5-No.1643 幕府、忠洪ノ政務ヲ継豊ニ代行セシム(記事)
宝暦五年七月二十七日、忠洪の名代の島津淡路守久柄が、御先手小笠原縫殿助持廣とともに老中西尾隠岐守忠尚の邸へ赴いた記事。堀田相模守正亮・松平右近将監武元・忠尚が列座し、大目付能勢因幡守頼次も同席した。忠尚が進み出て、亡父重年の遺領すべてを忠洪へ与え、幼少のため領国および琉球国の政務は継豊が先例に従って…
追録5-No.1644 老中奉書扣
幕府は、又三郎忠洪が幼少であるため、領分と琉球国の仕置その他の事柄を先例に違わないよう、大隅守継豊が心を配って取り計らうことを命じる。この意向を奉書によって継豊へ伝える旨を記した、右筆所所在の書付である。
追録5-No.1645 島津忠洪家重宛請書
松平又三郎忠洪が七月二十七日、亡父薩摩守重年の遺領を相違なく与えられたことへの礼を述べる。自身が幼少なので領分の仕置その他は大隅守継豊が先例どおりに取り計らうよう命じられ、その旨の奉書が継豊へ渡されたと承知した。恩命への謝礼を、名代の島津淡路守久柄を通じて申し上げる。
追録5-No.1646 忠洪襲封、幕府封国ヲ管理ス(記事)
七月二十七日、使者久柄が西尾忠尚から世子の襲封命令を受けたと記す。八月十五日には久柄が朝献し、家重へ太刀一腰・刀一腰・縮緬十巻・白銀百枚・馬二疋、家治へ太刀一腰・刀一腰・白銀百枚・馬一疋、御簾中へ白銀十枚・縮緬十巻を進め、白書院で両公に謝恩した。幼少当主の封国管理のため、九月九日に島津圖書久亮、十一…
追録5-No.1647 島津忠洪伺書
忠洪が七月、遺領相続を許され、幼少のため領分・琉球国の仕置を継豊に任せる奉書が出たことを受け、御礼をどのように勤めるべきか国許の継豊へ伺う。朱注には、堀田相模守方への内談は水野肥前守を通じて行うこと、同じ内容の書付を送る必要はなく使札で勤めるよう申し渡したことを記す。この扱いは岩下佐次右衛門が承知し…
追録5-No.1648 島津久郷・伊集院久東在府家老連署書状
伊集院十蔵・島津主鈴が七月二十七日、島津主殿・鎌田典膳へ、幼少の忠洪の政務をめぐる相談と老中からの指示を報告する。忠洪が十七歳未満であるため、隠居して病身の継豊にも用筋を聞いてもらうよう願い出たいとの意向があり、願いや内意を申し上げる方法について義岡相馬と相談し、主鈴が水野肥前守へ事情を説明して堀田…
追録5-No.1649 島津久馬・鎌田政昌家老連署返書
島津久馬・鎌田政昌が九月六日、伊集院十蔵・島津主鈴の書状と別紙に返答する。本文と張紙の趣旨を御聴に達し、途中に義岡相馬から届いた知らせについて改めて尋ねても張紙の内容と変わらなかったと記す。隠岐守への挨拶を漏らさず手配するよう求め、幼年であるため今後の跡目を心配しなくてよい旨の内意を知らせる。内用の…
追録5-No.1650 島津久郷・伊集院久東在府家老連署返書
十二月二十一日付の朱返答。忠洪が内々の用筋を聞くことについては、御上の考えがあるので、願いや内意の申し出を差し控えるよう伝える。その件は水野肥前守から承知していると記し、内々の御養に関する付書は別紙によって知らせる旨を添える。
追録5-No.1651 島津久郷・伊集院久東在府家老連署書状
伊集院十蔵・島津主鈴が七月二十七日、義岡相馬へ忠洪の政務に関する内意を知らせる。幼少の忠洪は内々の御事を望み、隠居し病身の継豊に代わって用筋を聞き、継豊が御座間敷い場合は堀田相模守へ申し入れたいと願った。主鈴が水野肥前守を通じて相談し、二十一日に堀田、翌二十二日に水野の返答を受けた。別紙の問い合わせ…
追録5-No.1652 義岡久仲書状
島津主殿・鎌田典膳が八月九日、義岡相馬へ継豊の養子・隠居と忠洪の政務について返答する。重年の遺言の際、主殿の相続や忠洪との養子関係を西尾隠岐守経由で堀田相模守へ内談したところ、忠洪の幼少はやむを得ず、直ちに家督とするよう命じられたという。継豊は、その後の跡目を案じて隠居の意向とともに政務を聞く方法を…
追録5-No.1653 島津久郷・伊集院久東在府家老連署書状
伊集院十蔵・島津主鈴が七月二十九日、島津主殿・鎌田典膳へ、忠洪の家督が命じられたことを知らせる。幼少のため、隅州継豊が領分の仕置その他を先例どおり心を配って取り計らうよう奉書が渡されたことを承知し、その恩命をありがたく思うと述べる。継豊は病中であり手数を掛けるが、万端を取り計らって進めるよう頼む旨を…
追録5-No.1654 島津久馬・鎌田政昌家老連署返書
島津主殿・鎌田典膳の八月十五日付朱返答。七月二十九日の在府家老からの知らせを承知し、継豊へ奉書の趣旨を伝えたと答える。継豊は病身ながら万端を取り計らうよう命じられたことをありがたく受け止め、忠洪へは元気にしている旨を伝えてほしいと述べたという。
追録5-No.1655 島津久馬・鎌田政昌連署伺書
島津主殿・鎌田典膳が、重年(圓徳院)の鬢髪を高野へ登山させる儀礼について、諸家の先例を照会して伺う。江戸の尾張・水戸・加賀・陸奥・細川の各家へ問い合わせたところ、加賀家では万治年間の例で石塔を建立したが鬢髪の登山の有無は不明で、その後は取りやめたという。陸奥家にも登山例はなく石塔を建立し、その他の家…
追録5-No.1656 島津忠洪内意書
鬢髪の高野登山について、本文を伝えて意向を伺ったところ、鬢髪を高野へ登山させるに及ばないとして、その旨を話し合い、首尾を報告するよう命じられたと記す朱注。八月十二日付で、取次は山田元右衛門(原注有隆)と記す。
追録5-No.1657 島津久馬申渡書
島津主殿(久馬)が八月、近代は代々の鬢髪を高野へ登山させてきたが、圓徳院重年の鬢髪については登山に及ばないとの継豊の意向が出たため、この件を書き留め置くと記す。今回の鬢髪登山を行わない決定を伝える書付である。
追録5-No.1658 島津忠洪家重宛願書
松平又三郎忠洪が八月七日、家督御礼の際に家来九人の御目見を命じられる先例があるが、今回は名代によって御礼を申し上げるので、家来の御目見は願わないと届ける。自身の初御目見を願う時に、家来もあわせて御目見を願う予定であるとして、今回の扱いを承知しておくよう求める。