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鹿児島県史料第6集の目録
家・氏族・職掌・人物関係を調べるための補助史料です。試験導入中です。
全432件中 101~200件・2 / 5ページ
101 源姓蒲地氏
本文は源姓蒲地氏について、治承二年に貞宗なる者が七島和蛇島を与えられ、のちに硫黄島・平島などの郡司職を代々勤めたとする。国分の蒲地仲右衛門家に系図・文書が伝わること、日新・竜伯代の蒲地五郎右衛門が加世田間之瀬川で戦死したこと、その子伊賀入道南心と後裔の奉公、地頭職・養子関係を記す。
102 今井氏
本文は今井氏の祖を泉州堺の茶人・出部屋道与の養子とし、茶湯を通じて惟新と親交を結んだとする。関ヶ原後に道与が島津方を支援したこと、養子筋が薩摩へ召し出され、今井市兵衛入道松閑らとして家老役・軍役・知行を務めたことを記す。京都林光院、唐津での戦死、安左衛門家・仁礼仲兵衛家など複数の養子・分家関係も載せ…
103 藤原姓丹生氏
本文は丹生氏が初め中臣氏で、のち藤原姓となったとし、祖先は伊勢国から来たと伝える。慶長五年秋に倉岡地頭を務めた丹生備前、その子孫の丹生弥兵衛、佐土原島津但馬守母堂の竜盛院との関係を記す。
104 毛利氏
本文は毛利氏を大江姓であろうと推測し、毛利覚右衛門の祖が因幡国主・宮部中務法印善祥坊の家臣であったとする。惟新に召し抱えられ、高城合戦で武功を挙げ、慶長五年の関ヶ原では殿軍として戦死したこと、弟家が毛利肥前と称して地頭職を与えられ、その三代の孫が毛利覚右衛門であると記す。
105 藤原姓日野氏・田中氏ほか
本文は藤原姓日野氏の祖について、上方から来た人物を太守が召し置き、田中門を食邑として与えたという由緒を記す。子孫は日野を名乗らず田中を称し、天文年間以後の日野監物、日野堅助、田中藤次兵衛らについて、名字・入道名、唐津での戦死と後裔を記す。田中氏・後藤氏など同族とされる諸家も掲げるが、祖名と成立時期は…
106 藤原姓児玉氏
本文は藤原姓児玉氏について、上代は不詳で、中古に長井を称した者と児玉を号した者がいたとする。貴久代の児玉備前・新四郎、近衛前久書状の所持、家久代に重用され諸所の地頭職を務めた児玉筑後とその子四郎兵衛を挙げる。さらに筑後の父・新四郎(後の主水)の高麗陣供奉、次郎左衛門・主水を四郎兵衛の二男家とする系譜…
107 平姓家村氏
本文は平姓家村氏を渋谷重国の嫡子・中山太郎の子が遠州家村を領したことに始まる家とする。中古に島津家へ参ったとし、竜伯代に家村筑後が特に召し仕えられて以後、別に召し出された系統を記す。筑後の嫡孫・家村次郎右衛門、その次男とされる友仙・次郎右衛門、家村平八家を先祖の弟筋とし、その他の家村氏は不詳とする。
108 平姓森氏
本文は平姓森氏の古例として、建武頃の大隅国守護代・森三郎次郎平行重を挙げ、当時の守護代を家老に当たる役と説明する。本田・酒匂氏にも守護代の記録がある一方、森氏の記事はその後途絶えたとする。帖佐吉村の百姓が、師久の判物、森源次郎跡の闕所処分、森五郎三郎宛文書、九州探題の証判などを多数所持することから、…
109 久留氏
本文は久留氏の姓・上代を不詳とし、義久代の久留半五左衛門の武勇を中心に記す。牛根陣で新納武蔵の下知により本村筑前と敵城を崩し、筑前方の手に入れたこと、元亀三年の木崎原合戦で惟新の一戦に高掃部左衛門と一番槍を務めて戦死したことを述べる。その後、両人の戦死を知った軍勢が総崩れになったとの伝承、その他の軍…
110 逆瀬川氏
本文は逆瀬川氏の姓を後考とし、天正頃の逆瀬川豊前兵衛を起点に、その武功が旧記に多く見えるとする。天正十五年、豊前野津で伊地知丹後とともに戦死したとの旧記を掲げる一方、『西国太平記』『大友興廃記』は鬼塚刑部左衛門と伊地知丹後の戦死と記し、鬼塚系図にも野津戦死の記事があるため、諸記録の小異から全面的な信…
111 北山氏
本文は北山氏の姓を後考とし、上代に薩摩国日置郡西郷および日向国北郷・飫肥の弁済使であったとする。源頼朝の奥州藤原泰衡追討に供奉した際、忠久へ進められたという書状写や、薩摩国御家人としての文書を所持すると記す。系図には北山号の由来が明記されないが、北郷を領したことによるのではないかと推測し、市来衆中の…
112 紀姓河田氏
本文は紀姓河田氏を、上古に薩摩国のある郡の郡司であった家とし、将軍家・島津家の証判その他の証書を数通所持すると記す。元弘・建武頃には河田知門坊が活躍し、慶長四年の島津家老連判日録には河田勘兵衛宛書があるとする。当時までは帖佐衆で、その後財部辺へ移ったが子孫は絶え、系図・文書は親類が保管していると述べ…
113 酒井姓築瀬氏
本文は酒井姓築瀬氏の上代を不詳とするが、福昌寺仏殿奉加帳に名が見えるため永享頃までは知られる家だったと考える。中古以後は記録が途絶える一方、龍造寺隆信を討った際、築瀬兵右衛門が川上左京付の足軽大将として働いたと記す。その父・勝軍坊は山伏として奉公し、新納武蔵・肝付弾正からの書状や知行証書を、子孫の築…
114 園田氏
本文は園田氏の姓・上古を不詳とし、代々小野辺に住んだ家とする。貴久が小野へ移った際に園田清左衛門宅へ入り、清左衛門が宅後の聖之宮に貴久を隠して忠節を尽くしたという著名な由緒を記す。嫡孫を園田新右衛門とし、代々親しく召し仕えられた二男家その他の園田氏を同族とする。ただし園田九兵衛の祖は相良氏の小名字・…
115 藤原姓高崎氏・堀氏・木上氏・南雲氏総説
本文は藤原姓高崎・堀・木上・南雲の諸氏を豊後国大友氏の庶流で、島津家へ出仕した家々と総括する。『吾妻鏡』の記事を引き、波多野四郎経家(大友貞親)と斎院次官親能、大友能直の関係を考証する。能直を親能の子、経家をその外祖と捉え、能直が外祖の大友家を継承し、その後に豊後・筑前・肥前三国を与えられたとの由緒…
116 高崎氏
本文は高崎氏について、貞久の御簾中となった大友因幡守息女の輿入れに際し、小田原氏とともに供奉して来た家とする。上代の詳しい系譜は不明としつつ、貞久代の高崎播磨入道が伊作地頭に任じられ、その子播磨も地頭職を継いだと記す。高崎四郎以下の嫡家、播磨弟・越前守から出た高崎藤左衛門家、中務家などの諸流と相互の…
117 堀氏
本文は堀七郎について、忠昌の御簾中の輿入れに古後氏と堀氏が供奉したとの由緒を掲げる。子孫には天正頃の堀四郎左衛門がおり、足軽大将として奉公したとする。さらに子の神左衛門代の地頭職、四郎左衛門入道宗勲代の御使役・地頭職、元弘頃の文書や同族とされる子孫を記す。
118 木上氏
本文は木上掃部(後の和泉)が大友家にいた時、小笠原備前守に有職方を学ぶため在京したとする。大友家没落後は大口辺で牢人していたが、家久が小笠原家から有職方を学ぼうとした際、既に一流を皆伝された人物として小笠原側から推薦され、島津家へ召し出された経緯を記す。子孫を蒲生の木上清左衛門とし、養子の木上筑右衛…
119 南雲氏
本文は南雲氏が島津家へ参った時期を不明とし、永禄頃の南雲壱岐とその子新四郎が旧記に見えるとする。壱岐に武功があったこと、外城にも庶流があること、壱岐の嫡孫を南雲新介とする。
120 古後氏
本文は古後氏の姓を後考とし、天正頃の日帳に古後氏の記事があるとする。忠信氏と同様に包丁役を務め、正月の御規式などを調えた家と記し、古後七郎右衛門の祖先に当たるのではないかと推定する。
121 里村氏
本文は里村氏の姓を後考とし、連歌宗匠里村昌休・昌叱の一族ではないかと推測する。家久代に召し抱えられ、その子孫が里村茂兵衛であり、曾祖父の里村織部から家伝を相伝したと記す。
122 相良氏
本文は相良氏を藤原姓とし、遠江国村良に住した祖先が建久九年に肥後国球磨郡人吉へ移ったとの由緒を掲げる。島津家へ参った相良・稲留系の人物について、永禄四年の戦死、稲留から本姓相良への復姓、地頭職・御使役、朝鮮出兵や島原などでの戦死を列挙する。さらに相良十左衛門家、竹之下助太夫を祖とする相良四郎兵衛家、…
123 佐々木氏流四氏総説
本文は野村・田中・大山・中江の四氏を源姓佐々木氏の一族とする。佐々木氏そのものも存在するが由緒の分かる家はないとし、『吾妻鏡』に見える佐々木三郎盛綱の薩摩配流と召返しを引いて、在国中の子孫がいた可能性を推測する。
124 野村氏
本文は野村一党の多くを日向国出身とし、天正頃の野村四郎左衛門らを起点に、地頭職、兵衛役・軍役、御使役や地頭職への召出しを記す。福永・加賀・蒲生などに関わる複数の野村家と後裔を列挙するが、本文で明示されない家同士の続柄は確定しない。
125 田中氏
本文は田中半右衛門家の由緒が祖先田中善兵衛から明らかになるとし、その子田中伊豆が特に召し仕えられたことを記す。慶長頃の木多佐渡守からの書状、知行証書、御旗本佐々木中務から本名の佐々木を名乗るよう命じた証書を所持し、当代半右衛門も佐々木源兵衛へ申し入れて証書を取り置いたとする。
126 大山氏
本文は龍伯に召し仕えた大山稲介・大山三次を起点とし、稲介の高麗陣での軍功と、孫が本名佐々木を称したことを記す。別系統では大山主馬の曾祖父大山平七が馬術によって召し出され、御賦別当役、御使役、地頭職へ進んだとする。入来院家来で勝久の書状を受けた大山源左衛門、近年町人から御赦免を受けた多数の大山氏にも言…
127 中江氏
本文は中江氏を佐々木一族とし、近江国の中江を領したことを名字の由来とする。家没落時に生き残った幼少者が京都へ出て医道を修め、名医となったため、近衛稙家の紹介状を得て島津貴久に召し抱えられたという。近衛家からの書状、御供・遣明使関係とみられる奉公、瑞仙・寿院以下の医者の後裔、寺院住職・還俗・家督相続を…
128 山田氏
本文は源姓山田氏について、天文頃に京都の乱を避けて薩摩国坊津辺へ移住し、橘隠軒と号した祖が茶人として島津家へ召し出されたことを起点とする。男子が真言宗寺院を経て長寿院盛淳となり、還俗して家老を務め、関ヶ原で島津兵庫入道を称して戦死した経緯を記す。盛淳の子孫について、阿多・淡路などの名乗り、地頭職、軍…
129 山口氏
本文は山口氏に複数の流れがあるとし、山口五郎兵衛の祖父山口内蔵之介を山口勘兵衛直友の弟とする系統をまず掲げる。庄内・関ヶ原後の特別な関係を背景とする召抱え、高千石の所務、内蔵之介家の子孫・養子・二男家を記す。さらに渋谷家の庶流ともされる別系統や、入来院家から召し出された山口五郎右衛門家、尊氏公以下の…
130 救仁郷氏
本文は見出しで救仁郷氏を源姓としながら、当初は伴姓許村氏の庶流で伴姓に相違ないとも記す。志布志内の蓬原城に居住して周辺を領した救仁郷氏の女に、応永頃に九州探題として下向した渋川満頼の子頼氏が婿入りし、救仁郷を名字として源姓を称したとする。その後、飯隈山別当職を勤め、先達に任じられたとし、救仁郷陽慶坊…
131 大井氏
本文は大井氏を紀姓とし、上古不詳ながら道鑑からの文書を所持するため譜立ての家と推定する。永禄頃の大井石見守の帖佐地頭職と河辺の子孫を記した後、『吾妻鏡』に見える紀姓大井実春の子が薩摩へ下向したという説を掲げる。さらに小笠原長清流の源姓大井氏が相州から島津家へ参った可能性も示すが、子孫関係は不明として…
132 吉井氏
本文は吉井氏の姓と起源を不詳とし、龍伯に殉死した吉井佐渡を中心に、その嫡孫吉井郷左衛門と二男家の吉井七左衛門を挙げる。佐渡は浜田永林と並び称された人物とするが、その他は不詳と結ぶ。
133 愛甲氏
本文は愛甲氏の姓と上古を不詳とし、『吾妻鏡』の愛甲三郎と、建武頃に戦死して足利尊氏の感状を得た愛甲弥三郎を挙げる。薩摩の愛甲氏をその子孫かと推定し、中納言に殉死した愛甲次右衛門の跡目を愛甲次左衛門が継いだとする。
134 関氏
本文は関氏の姓と上古を不詳とする一方、永正年間頃からの知行目録に関備中守が見え、その目録を関九郎左衛門が所持しているため嫡家かと推定する。別に関為兵衛の曾祖父関主殿が上伊集院守に従い、日向国高崎に居住した記事を挙げる。
135 押川氏
本文は押川氏を為川とも書くとし、姓・上古を不詳とする。押川郷兵衛が初め新納武蔵に従って各地を転戦し、敵将を討って鹿児島へ召し出された後、高麗以来とくに惟新へ奉公したと記す。関ヶ原前後の勢州で敵首を取り、石田三成から一番鎗の感状と黄金一枚を得たとし、嫡孫押川六兵衛と、加治木から召し移された押川喜左衛門…
136 千葉氏
本文は平姓千葉氏が上古から島津家中にいたかを疑問形で記し、弘安頃の千葉太郎宗胤の軍役と、花押を備えた一見状を挙げる。子孫は不明だが、後代に林肥前家に千葉氏がいたとする。大系図の宗胤を常胤七代孫とする記載には、三、四代ほどではないかとの編者疑問を付す。
137 牧氏
本文は牧氏を千葉氏庶流とし、永享年間に大覚寺殿の事件へ立ち会った牧氏の記事と、旧記に見える牧彦四郎を挙げる。嫡孫は不明とし、系図を所持する牧源七の流れではないかと推定する。
138 印東氏
本文は印東氏を千葉氏庶流とし、『吾妻鏡』に印東某が見えること、下総国印東を名字地とすることを記す。印東玄胤の祖父印東彦兵衛が摂津国能勢村領内の支配に関わり、関ヶ原の乱の際に少人数を差し出したことを島津家へ召し抱えられた理由とする。印東玄柱を玄甫の養子とし、祖父系統が能勢村に居住したと続ける。
139 岩元氏
本文は源姓岩元氏の上古を不詳とし、建武頃の名帳と、元久から岩元清左衛門へ下された文書を由緒の手掛かりとする。家久代に小番を勤め、代々わずかながら存続したと推定し、当時小番を勤めた家が多くなかったことから、現清左衛門家をその子孫とする。
140 曽木氏
本文は曽木氏を藤原姓・菱刈氏の二男家とし、菱刈氏から曽木一所を与えられて代々領したが、中古以後に衰微したとする。惟新に仕えた曽木弥五郎(後の五兵衛)の小山原陣・騎馬供奉と知行、嫡孫甚左衛門、加治木から召し移された甚右衛門家を挙げる。
141 中条氏
本文は中条氏を源姓・源義国の系統とし、建仁頃に薩摩へ下向したと伝える。建武三年頃の軍奉行中条左衛門入道祐心、康応二年九月二十八日の合隈合戦での戦死、将軍足利義詮から中条弥六へ下された感状を挙げる。中古以後に衰えたとし、島津玄蕃家中の中条六右衛門が所持する系図は旧記と符合しないが、まったくの誤りとも見…
142 鳥丸氏
本文は鳥丸氏を平姓・東郷氏庶流とし、東郷内の鳥丸名を領したことを名字の由来とする。中古のことは不明とし、天正三年頃に鳥丸紀伊守が中郷地頭職を命じられた記事を挙げ、代々東郷家から出た家と推定するが、子孫は不明とする。
143 瀬戸口氏
本文は瀬戸口氏を平姓・東郷氏庶流とし、東郷十左衛門尉家の祖と同氏藤兵衛家の祖を兄弟で、瀬戸口藤兵衛の子とする。兄の日向介は後に安房介と称し、武辺の誉れによって地頭職を命じられた。弟の藤兵衛は後に肥前守重位と称し、在京中に善吉和尚から示現流兵術を伝授されたと記す。
144 三渡氏
本文は三渡氏を平姓・東郷氏庶流とし、東郷内の三渡を領したことを名字の由来とする。三渡伝右衛門から出た家といい、その養子となった伊地知伯耆守の三男が三渡次兵衛を称した。次兵衛は高麗出陣前から五百石相当の軍役を自力で勤め、帰朝後に五百石を与えられ、のち兵具奉行を勤めた。伊集院幸侃成敗時には数寄屋口に配置…
145 鬼塚氏
本文は鬼塚氏を源姓・佐々木氏流とし、佐々木四郎秀綱の子八郎左衛門季成が初めて鬼塚を号したと伝えるが、子孫が島津家へ参った時期は不明とする。天正年間、鬼塚刑部左衛門が豊後国野津で戦死したと系図にあり、『西国太平記』にも刑部左衛門戦死の記事があると比較する。嫡家を鬼塚源右衛門家とする。
146 鹿島氏
本文は平姓鹿島氏の代々の由緒を不詳とし、小川氏が鹿島を領する以前、鹿島氏が七島を領したとの伝承を掲げる。天正年間に『鹿島殿河』と読める人物が特に奉公し、その嫡孫を鹿島郷兵衛とする。泊の上にも鹿島某という者がいたと記す。
147 深柄氏
本文は深柄氏を源姓・大友家の者とし、大友氏没落時に牢人となった後、家久代に深柄左衛門が島津家へ召し抱えられたとする。左衛門の父を七左衛門とし、酒井勘兵衛家中の深柄氏を親類とする。左衛門の孫として深柄嘉右衛門・七左衛門らを挙げる。
148 矢野氏
本文は矢野氏の姓を後考に待つとし、矢野権左衛門の曾祖父自徳院を琴を弾く者で、初め出家、後に楽人となり家久に召し抱えられたとする。清左衛門を二男家とし、もとから薩摩にいた別の矢野氏にも触れる。矢野主膳は別家かとの注記を付し、惟新に馬術で仕えたが、子孫は絶え、主膳は切支丹のため大辟に処されたと記す。
149 市来崎氏
本文は市来崎氏を平姓とし、平貞盛の五代孫権別当種国が薩摩国山門院を領したとする。種国の子国秀の死後、国秀の子秀忠へ将軍家政所下文が下され、安堵されたといい、その写しを本田次郎左衛門が所持する。秀忠の子孫は建武の乱で軍功があったが、後裔は不明とし、市来崎庶流に多数の小名字があり、分米市兵衛も同姓で系図…
150 汾陽氏
本文は汾陽氏を郭姓の異朝人とし、郭国安が光禹と称して永禄二年、二十三歳で日本へ渡り、後に理心と改めたとする。周王季の後裔が汾陽王に封じられて当地に住んだという遠祖伝承を掲げ、文禄の高麗陣では理心が書物の運用や敵陣への謀計に関わり、明将諸葛疑名義の書状で糧倉焼却を図ったと記す。のち内通を疑われたが、謀…
151 林氏
本文は林氏を異朝の人とし、林久兵衛の祖父が異国から来住したとする。ある御屋形の時、意伯から庭前の梅花について百韻の詩を命じられ、上覧後に『百梅』の名を与えられた。その子道甫は医道を勤め、道甫の子を林久兵衛とし、系図では林放の子孫とする。
152 江夏氏
本文は江夏氏の祖を友賢という異国人とし、代々易者の家であったとする。来日後も易をもって参内し、禁中から品を拝領したといい、友賢から一閑、自徳、江夏仲左衛門へ続く系譜を記す。
153 高橋三官(許氏)
本文は高橋三官を許氏とし、肥前名護屋において権現へ薬を差し上げたことで知られた人物とする。子孫はいないと記すため、一代限りの人物記事として整理する。
154 頴川氏
本文は頴川友官の跡目として、頴川伝右衛門と同安兵衛を挙げる。出自・血縁・奉公内容は記さない極短条であり、後続する別の頴川氏跡目記事とは分割番号に従って別項目に保持する。
155 平城氏
本文は平城一官の跡目を平城市左衛門が継いだことだけを記す。出自・血縁・奉公内容は明記されない極短条である。
156 大原氏
本文は大原一官の跡目を大原佐五右衛門が継いだことだけを記す。出自・血縁・奉公内容は明記されない極短条である。
157 塩官氏
本文は塩官泰官の跡目を塩官六兵衛が継いだことだけを記す。血縁・養子など継承の性格は記さない極短条である。
158 公岡氏
本文は為足の養子として公岡甚左衛門を挙げる。為足の名字・身分や、養子縁組の時期・経緯は記さない極短条である。
159 頴川氏(第二条・末尾注記付)
本文は頴川二官の跡目を頴川八左衛門尉三官が継いだとし、光久が中将として幼年であった時、薬を差し上げて養生に関わったと記す。従来No.160冒頭に含めた短い跡目関係注記は、修正版PDFの緑線により本条末尾へ帰属することが確認された。注記本文の細字は引き続き判読対象とする。
160 前川氏
本文は前川休宅の祖父・前川為仙を朝鮮人とし、中将様の幼年時に読書と詩作を指南したと記す。既存K-143の『医療奉公』という評価は、No.159の医薬記事との混同とみて学問奉公へ訂正する。
161 松木氏
本文は藤原姓松木氏について、慶長初年に松木少将が勅勘を受けて配流となったことを起点とする。公家諸家との婚姻・子女関係、配流後の処遇、島津家への関係形成を記し、松木少兵衛ら後裔の召抱え・奉公へ接続する。記事中には系譜・婚姻関係の入り組んだ説明と、典拠未詳の伝聞を含む。
162 那須氏
本文は源姓那須氏を那須与市宗高の嫡子小太郎宗治に始まる家とし、宗治が日向国へ移住して子孫が軍功を重ねたとする。左近将監の子弾正は、義久の日向進攻に際して先手を務め境目を案内し、以後御旗下で奉公すると申し出たという。しかし義久への出頭命令を殺害の企てと疑って山境へ退き、領知を離れたと記す。光久代の那須…
163 米良氏
本文は米良氏を藤原姓・菊池氏一族とし、代々日向国山中の米良を領したことを家号の由来とする。伊東家に随身して各地の地頭職を務め、島津家へ出仕後も旧地の地頭職を命じられたという。忠恒からの感状・五百石拝領、米良隼人所持の証判、寿椿・権之介ら後裔を記す。
164 赤塚氏
本文は源姓赤塚氏が武蔵国赤塚に居住して家号としたとし、元弘・建武の乱での軍功を掲げる。氏久代に島津家へ出仕し、天正年間の赤塚源太左衛門の軍役、野津・高原城方面での働き、赤塚三右衛門の人質奉公を記す。清左衛門・吉右衛門ら後裔と、利七の高麗での戦死も載せる。
165 中村氏
本文は中村氏の姓を後考に待つとし、古来の薩州御家人であったとする。文和・暦応頃の中村四郎家忠・弾正忠秀総を旧記から挙げるが後裔は不明とする。別に、伊東家から来た和泉某が中村氏の養子となって続く与左衛門家、源家と伝える肥後矢崎城主中村一太夫・二太夫系を併記する。
166 福屋氏
本文は福屋氏の姓を後考に待ち、石見国出身で、もとは将軍家に仕えたとの伝承を掲げる。島津家への出仕経緯を述べ、永禄頃の福屋日向守、光久代に祐筆を務めた福屋伊賀を挙げる。伊賀の養子には竹之内備前の二男を迎え、福屋助左衛門家が地頭職・御用人役などを代々務めたとする。
167 竹之内氏
本文は竹之内氏を紀姓とするが出自は不詳とし、永禄頃に祁答院家へ仕えた竹之内備前を掲げる。祁答院家衰退後の離仕、関ヶ原後に肥後勢が出水・来の津方面へ侵入した際の軍功、八左衛門・内膳へ続く家系を記す。別に、納言秀家に随行して来国し、のち召し抱えられて包丁人となった竹之内助市系を併記する。
168 大野氏
本文は大野氏の姓と上代を不詳とし、慶長頃の大野外記、その子孫である大野堅物を挙げ、薩州家中の名列に属すると記す。
169 小森氏
本文は藤原姓小森氏を鎌田氏の庶流とし、鎌田蔵人から小森八左衛門へ系図が渡されて保管されたことを記す。
170 原口氏
本文は大蔵姓原口氏を加治木氏の庶流とすることだけを記す極短条である。
171 聞世田氏
本文は聞世田氏の姓を後考に待つとし、聞世田刑部左衛門が市来に居住して奉公したこと、その後一族が川上左近将監に付いて志布志へ移り、川上因幡の代まで与力を務めたこと、のち鹿児島へ召し移されたことを記す。聞世田七兵衛は刑部左衛門の子孫とする。
172 野田氏
本文は平姓野田氏を阿久根氏の一族とし、古来野田辺を領して野田を号したと記す。元弘・建武期の旧記にも見えるが、その後の系譜は不明とし、勘兵衛祖父の加治木居住、横川への移住、近年の鹿児島召移を述べる。野田玄蕃ほか一族がいるものの、古来の筋目は不詳とする。
173 白坂氏
本文は白坂氏の姓を後考に待ち、代々北原家に随身した家とする。北原氏衰微後に召し出され、白坂佐渡らが地頭職を命じられたこと、岡の孫とされる白坂宗兵衛が高麗役以来とくに奉公し、その家が高五、六百石を所持したことを記す。白坂市部右衛門の養祖父・白坂大学坊意益は関ヶ原から供奉し、感状と知行を受けたとし、末尾…
174 大脇氏
本文は源姓大脇氏について、小林衆中の大脇嫡家が系図・文書を所持し、将軍の御判など多数の証書があると記す。中古以後の系譜は明らかでないが、大脇正右衛門などの諸家はこの一、二家の系統であるとする。
175 長崎氏
本文は長崎氏の姓・上代を不詳とする。長崎為右衛門・喜兵衛の祖父らが寺沢氏に随身し、のち肥前で奉公したこと、喜兵衛の祖父佐渡の父を恒吉城主とする伝承を記す。別に長崎千々石衛門の先祖が伊集院内の長崎村を所持したとし、諸家が在名の長崎を名字とした可能性を述べる。為右衛門の父助左衛門は祐筆であったとする。
176 中神氏
本文は中神氏を相良氏の庶流とするが、上代は不詳とする。伊集院幸侃に随身した中神祐右衛門を内蔵之充の祖父とし、その父・内蔵之充が島津下野守の与力を務めたと記す。
177 中西氏
本文は中西氏の姓を後考に待ち、慶長頃に虎屋長門が島津家へ召し抱えられたことを起点とする。長門が能を修め、家久から特に取り立てられ、正月二日の太刀持参や禁中・公方御成の際に能を務めたことを記す。家号は中西ながら長門代には大方虎屋を称したとし、本阿弥光悦の状に虎屋長門の勧進能記事があるという。長門来住後…
178 上村氏
本文は上村氏の姓と初期由緒を不詳とし、上村堅物の父を久左衛門とする。別に上村茂兵衛の父茂兵衛は水野丹後守に仕え、のち伊集院幸侃に仕えた者で、召し抱え時には榊原山二郎と称したと記す。召抱え後に上村平右衛門の跡目を命じられ、のち奏者番を務めたとする。
179 清水氏
本文は清水氏の姓を後考に待ち、清水弥兵衛の祖父堅物を志布志町人とする。堅物が赦免されたのち鹿児島へ召し移され、その子孫では弥三左衛門の代から騎馬身分に召し成されたと記す。
180 貴島氏
本文は源姓貴島氏を源頼政の余裔とする。外城にいた貴島某が島津忠国から下された書状を所持するとし、貴島仁左衛門ほか一族はいずれも同系統であると記す。
181 福崎氏
本文は福崎氏の姓・初期由緒を不詳とする。氏久が筑前国金隈で戦死した際、伊地知弾正の家人福崎主税助が遺骸を博多の林香庵に託して奉護し、帰国後に召し成されたとの伝承を掲げ、元久の書状に見える福崎太郎次郎との関係を述べる。さらに、伊地知氏・丹波守系など複数の福崎家、忠久下国前後の家伝、福崎新兵衛の奉公・知…
182 中馬氏
本文は中馬氏を橘姓とするが、初期由緒は不詳とする。忠久下国以前に薩州へ下った者や、伊地知弾正が当国へ下向した際に供をした中馬三郎迫安を掲げる。近年伊地知を称する中馬氏が多いが、橘姓であるため伊地知氏の庶流ではないことは明らかだと論じる。
183 藤崎氏
本文は橘姓藤崎氏について、氏久代に藤崎佐渡守広頼が薩州へ来て向島に住み、その子孫藤崎正兵衛が桜島衆中に属したと記す。慶長六年夏に義弘が藤崎氏宅へ約二か月滞在したことを伝え、旧記が残るとする。別に藤崎六太夫の養祖父六郎左衛門は、もと別家に随身し、のち肥後で奉公したとの由緒を併記する。
184 長沼氏
本文は長沼氏の姓を後考に待ち、伊東家から来た家とする。長沼七右衛門の養曾祖父に関わる戦死記事が首注文に見え、伊東家では清武地頭を務めたと記す。その子孫は島津家へ参り、祐筆・寺社奉行を務めたという。
185 野津氏
本文は野津氏の姓・初期由緒を不詳とする。元和・寛永頃の野津安右衛門が島津下野守の騎馬与力を務め、のち物奉行を命じられたと記す。その子弥五左衛門は後に安右衛門を称し、光久の納戸役から地頭職・御用人に登用された。その子を野津藤左衛門とし、別に祖父安右衛門の父が佐土原から来て石細工をしたとの由緒を付す。
186 徳永氏
本文は徳永氏の姓を後考に待ち、高麗御屏風に見える徳永助右衛門を徳永甚平の曾祖父とする。徳永善左衛門家については関係が分からないと記す。
187 黒木氏
本文は黒木氏の姓を後考に待つ。慶長三年十一月十八日の番舟取合で、敵方に奪われた舟印を取り返すため黒木左近兵衛が海へ飛び入り、番舟へ泳ぎ着いて奪回した軍功を記す。その子孫は出水衆中に属し、そのほかの由緒は不詳とする。
188 黒田氏
本文は黒田氏の姓を後考に待ち、高麗以来武功のあった黒田友右衛門を掲げる。友右衛門はのち嘉兵衛を称し、もとは町人であったが、その働きによって召し出されたと記す。そのほかの由緒は不詳とする。
189 久保氏
本文は久保氏の姓・初期由緒を不詳とし、二系統を併記する。一つは義弘の飯野在城時に仁礼蔵人の父とともに付属された久保七兵衛家で、その子七兵衛が高麗・関ヶ原で奉公したとする。もう一つは久保平兵衛の曾祖父久保筑前を祖とし、初め少八と称して新納武蔵に属し、各地で軍功を立てたとする家で、近年まで大口衆中にいた…
190 木藤氏
本文は木藤氏の姓・初期由緒を不詳とする。御記録奉行浅葉三右衛門らから書き与えられた系図を所持すると聞くが、筆者は未見であると記す。葬礼時に特定の役儀を代々務める家とみられ、木藤宇左衛門をその子孫、長左衛門らを庶流とする。
191 伊丹氏
本文は伊丹氏の姓を後考に待つ。堺で牢人していた伊丹道甫が惟新公に召し抱えられ、以後茶湯者として名があったと記す。道甫を伊丹大和守の子孫とし、その由緒を裏づける証書があるという。加治木士伊丹孫兵衛は道甫の嫡孫とする。
192 宇都氏
本文は宇都氏を宇治姓・阿蘇氏一族とし、代々肥後宇都を領した家の庶流と記す。国分士の宇都某左衛門が系図などを所持するが、内容は明らかでないとし、宇都長兵衛も同族であろうと述べる。
193 安藤氏
本文は藤原姓安藤氏について、忠宗代の家老安藤四郎左衛門景綱を掲げるが、その子孫は不詳とする。別に安藤仲左衛門の曾祖父安藤左近が、竜伯公の太平寺御出の際に御輿を担いだため知行五石を与えられたと記し、二系統の嫡庶関係は不明とする。
194 渋江氏
本文は渋江氏の姓を後考に待ち、北原氏家中に渋江上総・渋江兵庫などの人物がいたと記す。
195 竹崎氏
本文は紀姓竹崎氏について、文明頃の竹崎伊賀守を掲げ、天正頃の竹崎越中をその子孫かとする。さらに、人物名の難読箇所を伴う某左衛門の家来に竹崎仲右衛門がいたと記す。
196 松崎氏
本文は源姓松崎氏の初期由緒を不詳とする。天文頃に松崎丹後が実久方にいたが、その子孫は分からないと記す。別に肝付家で犬追物の射手を務めた松崎某を掲げ、肝付氏家臣であったとする。
197 福山氏
本文は福山氏の姓を後考に待つ。家久代に福山副連という剃髪の人物がいて納戸役を務め、その子が福山平左衛門であると記す。
198 大窪氏
本文は見出しに源姓大窪氏と置く一方、姓は不詳とする。慶長頃に大窪備前が特に召し仕えられ、関係する御状があると記し、その子孫を大窪源八左衛門とする。家伝系図は吉田重忠の子孫と系譜づけるが、根拠のない妄作であると批判する。
199 上床氏
本文は上床氏の姓を後考に待つ。高麗の新寨合戦で上床吉左衛門が夜に敵陣へ忍び入り、未明に一番首を取った軍功を詳述する。一番首を争う者がいたが、義弘が城櫓から見ていたこと、吉左衛門の具足羽織の特徴から本人に確定したという。吉左衛門は小田原参陣十六騎の一人でもあり、子の上床藤右衛門も義弘に仕え、のち江田を…
200 美坂氏
本文は美坂氏の姓を後考に待つ。美坂太郎左衛門の曾祖父は大工を務めたとし、祖父宇右衛門以後は奉行職を仰せ付けられたと記す。