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鹿児島県史料第6集の目録
家・氏族・職掌・人物関係を調べるための補助史料です。試験導入中です。
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301 寺社奉行の設置
寛文六年八月十九日、使者を通じて入来院石見重頼に寺社方支配を命じた記事を、寺社奉行職の始まりと位置付ける。
302 入来院石見への寺社方支配申渡・寺社奉行沿革
入来院石見に領内の寺社方支配を命じ、一人で判断し難い事項は家老中へ相談して処理するよう定めた申渡を掲げる。続いて寛文六年以後の寺社奉行について、初任・兼務・転役・再任、横目頭その他の役との兼帯、寺社奉行役料の支給、御座候筋・役格・座次を複数の年代記事で追う。正徳期以後の改定や、寺社奉行を小身者に命じ…
303 御勘定奉行(附 御支配奉行・算用奉行)
慶長年間頃から御配当所・御支配所・御勘定所などと称した役所と、その担当者を御支配奉行・算用奉行などと呼んだ先例を挙げ、取扱う御用に応じて役名を用いたと考証する。永禄十四年とする自家系図の記事、宝永・正徳期以後の御勘定奉行任命を掲げ、初期には大身者、のち小身者も任用されたこと、御役料の支給・増額、座次…
304 御側詰御小姓頭
当時は置かれていなかった御側詰御小姓頭について、米良藤右衛門重矩と称していた比志島隼人範房が宝永四年に御側御用人となり、翌年に比志島家を相続して役職が替わった先例を起源とみなす。江戸御記録所の日帳を引用し、御側詰の呼称・格式を御番頭格としたこと、宝永六年に範房へ大御目附格を与えて御側詰御小姓頭を兼務…
305 御小姓組番頭(初名組頭)
寛永十九年十二月、城下士を十組に分け、さらに番組を設けて組頭を任命した記事を起点とする。一番から複数番組の組頭名を列挙し、島津・新納・佐多・桂・吉利・伊集院・鎌田などの歴任者を掲げる。のち組の増設・改編、御家老を組頭に任じた先例を述べ、享保七年頃まで組替がなかった旨を記す。続く文書306の『与頭衆え…
306 与頭衆・与之衆への申渡条々
与頭衆に対し、組内に不忠・野心の者があれば早急に言上し、隠した場合は与頭・談合衆も同意とみなすこと、喧嘩・口論は速やかに寄合で解決すること、奉公を病気等にかこつけて忌避する者、キリシタン・一向宗の者を摘発すること、組中の弛緩や公儀への直訴を取り締まることを命じる。続く与衆への条々では、与頭の下知に背…
307 当番頭(初名御番頭)
当番頭は初め御番頭と称し、寛陽院の代に置かれたが年代は不詳で、寛文年間頃とも考えられる。以前は参勤の供として一人ずつ江戸詰を命じられ、のち御用人を兼務した可能性を記す。天明六年七月、御番頭を当番頭と称するよう命じられた。
308 附録 奏者番
『万代記』の記事として、御礼の際の御前披露は従来御用人が勤めていたが、正徳三年三月に奏者番を別に置き、以後は奏者番が担当するよう命じられたとする。島津主計久名ら組頭・御番頭と義岡左平太忠守ら御用人に、奏者番の加役を命じた人名を列挙する。
309 御側御用人
宝永四年九月九日、米良藤右衛門・薬丸新五兵衛・壱岐某・弟子丸与次右衛門の四人を御側御用人に任じたことを、この職の初めとする。正徳二年正月には、御側表御用人のうち五百石以下の者へ役料百五十石を支給し、八人・乗馬一疋分の賄料を定めたという。
310 御用人(初名中山の役・出次の役・御使役)
上代には中山の役または出次の役と称し、忠治公の代に二階堂左馬助・本田治部左衛門が中山の役を勤めたことが旧記に見えるという。近世には御使役・御使衆と称し、当主から家老職への仰出の取次、諸用の執奏、家老衆から各方面への通達などを担う繁忙な職だったと説明する。延宝年間頃、御用人の役名が定まった可能性を考証…
311 町奉行
町奉行系図帳に見える三原備中・山口民部・蒲池備中らの先例を引き、のち家老職に就いた者が、それ以前に町奉行を勤めた可能性を考証する。元和元年の町場整備に伴う家老衆からの指示、宝永二年の御礼時の座次決定、正徳二年の持高百五十石以下に対する役料百石、賄料・乗馬などの待遇を掲げ、町奉行が古くから続く役である…
312 御側役(初名御目付・御側目附・御近習役)
御側役は当初御目付と称したとし、設置年代は不詳ながら、御小姓の中から選んだ者や家老の子弟などを近侍に置いた先例を多数掲げる。御近習役・御側目附などへの役名変更、御小納戸方との役格比較、御使番・奏者番等との兼務、御礼時の座次、役料高百石または百五十石、知行高に応じた給付、江戸・国元での勤務を年代順に記…
313 御側役並(初名御小納戸役の格・御近習役、当時無之)
当時は置かれていなかった御側役並について、宝永年間以前に『御小納戸役』とは別格の『御小納戸役の格』があり、宝永二年頃に御近習役並と称するようになった経緯を述べる。御小納戸方との相対的役格、御使番・奏者番の次などの座次、役料・知行高に応じた給付、江戸・国元での任用を記す。のち御側役並へ改称され、差免・…
314 御目附(初名吟味役)
寛永二十年、諏訪李右衛門兼利を吟味役に任じた記事を起点とし、これを御目附職の始まりとする。寛永十七年頃に見える十人衆との関係を考証し、吟味役から御目附への改称、奏者番との兼務・分離、御側目附との役格・座次の関係、定員や任免の変化を年代順に掲げる。冊子後半に別系統で現れる横目座取次系の『御目付』とは区…
315 江戸御留守居
慶長十二年に家久が初めて江戸へ参勤した際、まだ江戸屋敷がなく愛宕山真福寺を旅館としたことから説き起こす。江戸屋敷の拝領・整備を経て、寛永十六年に新納右衛門久詮を初めて江戸御留守居に任じたとする。その後は長期在番、交代、他家との相掛り、江戸での公儀・諸家対応や諸用の取次などを記し、いったん常置でない時…
316 京都御留守居
家久在洛期の京都蔵奉行や京都屋敷・町屋敷の記録を引き、木下右衛門久高、新納右衛門久詮らの在京勤務を京都御留守居の先例として考証する。江戸・大坂の留守居と同様、当初は蔵奉行等の名で用務を担い、宝永期頃に京都御留守居の役名・任用が整えられた可能性を述べる。のち一人役・長詰とし、役料、付人、乗馬などの待遇…
317 大坂御留守居(初名大坂蔵奉行)
大坂屋敷の創設年は不詳だが、慶長初年から大坂蔵奉行が見えるとする。宝永元年十二月に役名を大坂御留守居へ改め、以後の任命は家老衆が直接申し渡すこと、一人役で長期在番させることを定めた。正徳三年十二月には村田某を任じ、先役犬島某と交代して勤めるよう命じた。
318 御納戸奉行(旧称表記要確認)
古い御荷内役・御荷口役とみられる役名を、御納戸奉行の前身として家系図・家譜・諸記録から考証する。御用物の管理・取次、諸方への配分、帳簿・記録、御前への差出しなどを担い、御納戸奉行への改称と、御納戸方・御用方との分掌を記す。歴任者の任免、役格・座次、役料高、定員、江戸・国元勤務、宝永・正徳期の制度整備…
319 物頭(初名御兵具奉行)
物頭は初め御兵具奉行と称し、義久の代にはすでに存在したとする。宝永元年十二月、御兵具奉行の役名を物頭に改め、以後、家老衆から直接申し渡す役と定め、十四人・乗馬一疋分の賄料を置いた。
320 御鑓奉行・御弓奉行・御鉄炮奉行の申渡
天明二年二月、御鑓奉行・御弓奉行・御鉄炮奉行を新設し、各奉行へ申し渡した服務規定を列挙する。物頭の次席として物頭を兼務し、三奉行間で相互協議すること、武具・兵器・弾薬・鉛・火薬・銃砲等の受払・保管・点検・修理、諸所への配備と帳簿管理、番人・職人の監督、江戸・琉球等との物資往来を担当させる。御礼・式日…
321 御近習役(当時無之)
上代にはこの職の所見がなく、光久代から始まったかと考証する。寛文十二年に木脇刑部左衛門祐春が御近習役から吟味役へ転じた際の知行・分地記事を初期例として挙げ、酒匂左衛門らの長年勤務、賄料、歴任者の任免を記す。のち御使番・奏者番等との座次・役格、知行高に応じた役料、御目見・御礼時の扱いを整え、改称・差免…
322 御守殿添御用達(当時無之)
享保十四年、浄岸院の入輿に伴って御守殿を設けた際に新設された御用達職である。役格は物頭の次、御船奉行の上とし、江戸詰の賄料と米七十五俵の役料を定めた。安永元年に浄岸院が逝去して御守殿が撤去され、付属の諸役も引き取られたため廃止された。
323 御船奉行
文禄二年の朝鮮出兵で伊地知佐渡重順が兵船奉行として出陣した記事や、義久の国分居住期に林某が御船奉行を勤めた旧記を引き、古くからの職と位置付ける。宝永三年以後、御目見の次第、御勘定奉行・御記録奉行等との座次、役料米七十五俵、江戸詰の賄料などを定めた経緯を述べ、正徳期の任免・待遇記事へ続く。
324 附・久見崎奉行
御船奉行の附録として、家久代の久見崎船手の由来と奉行職の沿革を考証する。久見崎の船手は島原出陣時の船・水軍記事や、水引新田宮・高江・山田など川内周辺の地頭・水引高城の配置と結び付けて説明される。宝永六年の役格整備、御船奉行との相掛・兼務、御目見・御礼時の座次、役料・知行、歴任者の任免を列挙する。病死…
325 御使番
宝永二年五月、江戸で初めて三名を御使番に補任したことを起点とする。任命は時々の意向によるものとし、平常の勤方を定め、御船奉行の次・御近習役並の上に置き、家老衆から直接申し渡す役格とした。正徳二年には知行・切米の高に応じた支給と賄料を定めた。
326 御小納戸頭取
天明二年正月、御小納戸の早川半蔵兼以を初代の御小納戸頭取に任じ、役格を御使番の次、賄料を二十一人分、役料・心附銀を御小納戸と同様に定めた。御小納戸方を統括し、天明四年には谷村孫右衛門純章を頭取のまま御用御取次見習とし、御用部屋勤務、御用御取次、諸証文・他所文通で用いる役名などの服務細則を申し渡した。…
327 御小納戸役(当時無之)
宝永二年の継豊の御上下召初に関する記事などから御小納戸役の成立を考証するが、いつ初めて置かれたかは明確でないとする。享保八年の家村幸右衛門任用、御前・御間人座での勤め、御近習廻り、江戸御跡乗などの先例と歴任者を掲げる。安永二年十二月には御小納戸役本役を置かず、御小姓のうちから御小納戸方を勤めさせ、鋤…
328 御広敷御用人(旧称・奥家老等)
中古には独立職として分かれておらず、奥方の用務を納殿から差し引いたと考証する。近世には奥家老・納殿役人・納殿御代官などと称し、伊藤家の記録を用いて家久代の伊藤孫兵衛祐貞、光久代の納殿役人・奥方支配の先例を掲げる。納殿御代官、御広敷頭を経て御広敷御用人へ至る役名変遷、役料・扶持・賄料、奥家老との関係、…
329 覚(奥家老・納殿役人・御広敷役名関係)
高輪奥方の用務は奥家老の定役として相役と協議し、奥家老には十人分の乗馬賄と扶持米五十石を給するという覚書を掲げる。寛文十年の岡元千右衛門宛記事、赤塚吉右衛門重種の納殿役人勤務、修学院の宝物をめぐる誓詞・取扱いを記す。さらに宝永二年以後の奥家老・納殿役人の呼称整理、安永七年の御広敷頭、天明六年の御広敷…
330 教授(初名聖堂奉行)
安永六年六月、聖堂方掛の山本伝蔵を初めて聖堂奉行に任じた記事を職の起点とし、役料米五十俵、賄料・役格を定める。天明六年正月に役名を教授へ改め、学問所・聖堂の運営、入学者・諸生の取扱い、講義・書役、御目見・御礼時の座次、文書・記録、定員、役料などの服務規定を整えた。天明七年には役格・賄料を改訂し、小十…
331 御作事奉行(初名御普請奉行)
家久・光久の時代に御普請奉行を置いた記事を起点として、御家作・小屋作をはじめとする建築・修繕の請方、申請・文書処理、諸材料の調達を担当した沿革を記す。後に職名を御作事奉行へ改め、御勝手方との支配関係、役格・席次・役料、担当者の任命と下役の配置を整えた経過を掲げる。後続の御普請奉行再設置記事とあわせ、…
332 御普請奉行
天明三年十月、御普請奉行を新設して御勝手方支配に置き、席次を御作事奉行の次とした申渡である。従来御作事方が処理してきた普請事務を引き受けることとし、専任者が任命されるまで御作事奉行が兼務し、下役もこれに準じて扱うよう命じる。
333 御記録奉行
家々の系図・由緒書や伝来文書を家老の一人に預けて管理した旧制を述べ、家久期に吉岡常内久高らを文書関係の奉行へ任じたことを職掌の起源として掲げる。御文書奉行・御書物奉行の呼称と職務、御納戸奉行との兼務・分掌を経て、記録・系図・文書の収集、保管、調査を担う御記録奉行へ整理された経過を記す。あわせて定員、…
334 長崎御使人
幕府が元和二年頃に長崎の支配機構を整えた後、薩摩藩から長崎へ使人を派遣するようになった由来を記す。承応元年二月に薬丸八次兵衛を長崎へ命じた記事を職の始まりとみなし、以後の任命・在勤、役格、扶持・賄などを列挙する。外国船・海外情報への対応に伴い、長崎御使人の職務が異国方その他の役職と結びつき、後代に所…
335 高奉行
元和五年に本田甲斐・佐多越後・本田新助・三原次郎左衛門が高奉行を勤めたことを初見として掲げる。諸士・寺社知行の一部召上げ、御蔵入地の設定と総配当、知行高の格付けを実施するために同職が設けられた可能性を考証するが、詳細は不明と明記する。
336 物奉行
帖佐で綿新様に仕えた有川伊豆が物奉行を勤めたという旧記を掲げ、役名は古いものの、当初の職掌・格式は詳らかでないとする。元和・寛永期以後の歴任者を挙げ、諸物・物資の取扱い、役料・切米、役人数、御納戸奉行・御小納戸など納戸系職掌との関係を後代の記事からたどる。附録では諸役人の誓詞や物奉行兼役の事例も収め…
337-A 過奉行(申渡中は道奉行)
安永二年七月に過奉行を新設した記事で、申渡中では道奉行と称し、田村幸太夫ら四名を補任する。表方支配、席次は物奉行の次・御馬方の上とし、服制を定め、鹿児島城下の町家・橋・道路・小路・水道を巡察して不良箇所の修繕を命じる職務を掲げる。
337-B 御馬頭
本文は御馬頭の初名を御厩別当・御馬方、別称を御馬奉行とする。天正期の御厩奉行や家久代の同分帯刀を先例に挙げ、光久代に城下の上下二か所へ厩を設けて御馬八十疋を置き、上厩を大山伊予広綱、下厩を財部淡路盛秀が別当として担当したと記す。正徳二年の役料規定、享保二十年九月に御厩別当を御馬方と称したこと、安永七…
338 御小姓頭取(御部屋御附等関係記事を含む)
天明六年十月に御小姓頭取を新設し、役格を御馬頭の次、賄料を十人分と定め、奥・表の御小姓、御近習番など小姓系役人の頭取とした申渡を掲げる。適任者が決まるまで御側口付などに兼務させる扱い、御部屋御附・御小納戸頭取との関係を示し、同年十二月に藤田小十郎政亮を初めて御部屋御附兼御小姓頭取に任じた記事など、任…
339 御側口付
天明六年に御側口付を新設し、江戸で御目附御裁許掛の高田源太夫利公を任じた記事である。役格を御小納戸の上、賄料を六人分とし、奥向をはじめその他の御目代を担当させる旨を申し渡す。
340 御小納戸
御小納戸の職務は当分の役格だけでは明確でなく、古くからの設置時期も詳らかでないとした上で、宝永・正徳期以後の記録から役格、役料・切米、人数、任命と改定をたどる。天明元年の御部屋御附の御小納戸役に関する記事を附録し、薬丸弥之助兼陳らの任命、御小納戸役・御小納戸頭取との関係、部屋附勤務の扱いを記す。
341 御小納戸並(初名御小納戸役並・当時無之)
御小納戸役並と御小納戸並の区別は必ずしも明瞭でないとし、正徳二年前後の役料・切米、後年の役名・役格・人数の変更を記録からたどる。享保期以後の任命・待遇の改定と、天明元年前後の取扱いを掲げ、最終的に同職が置かれなくなった経過を述べる。
342 御供目付(中通御目付)
宝永元年に御供目付を新設し、正徳二年に役料切米五十俵を定めたのち、正徳三年二月に中通御目付へ改称した沿革を記す。表御目付と同格で御供方を兼ね、席次は御小納戸の次、表御目付の上とされた。
343 御門附寄(御供目付・中通御目付関係申渡)
堀某右衛門・中村八兵衛・富山伝内左衛門・二階堂八十郎の四名について、従来担当した御供目付の職務を踏まえて御目付へ任じ、取扱うべき用務を広げる旨を申し渡す。中通御目付と表御目付の同格性・分掌、御供・伺い・連絡の手順、席次などを定めた記事で、正徳三年前後の御目付制度再編を補足する。
344 御目付(横目座取次系)
横目座取次役を初名とし、大御目付座取次を経た御目付系職掌の由来を記す。宝永四年の横目頭・大目付の再編、正徳二年の表御目付への改称、役格・席次・役料・勤務手続きを列挙し、御裁許掛の兼務・任命例や後代の比較記事を附録する。吟味役系の御目付とは別系統として、横目座の取次と表方監察が制度化された経過を示す。
345 御軍師
寛政五年八月に御軍師を新設して表御支配に置き、園田与藤次盛康を任じた申渡である。役料米三十五俵を与え、御近習通の役格とし、諸事は御目付と同格と定めた。
346-A 御右筆
御右筆は古くから存在したものの起源・役名は明確でないとし、伊勢兵部貞昌や福寿伊賀兼昭らが御使役・御用人とともに右筆を勤めた事例、元禄九年前後の御側御右筆の勤務・呼称を記す。
346-B 御広敷番之頭(初名御納殿役・御広敷番)
初名を御納殿役・御広敷番とし、貴久代以来の沿革、奥向と外城番衆の取次・統轄を述べる。義久(竜伯)の書状を引用して職掌を説明し、後代の任命・待遇・役料の改定を掲げる。
347 御守殿御鎖口添番(当時無之)
享保十四年、浄岸院の入輿に伴って御守殿御鎖口添番を設けた記事である。御守殿添御用達と同様の役とし、納殿と同格、御目見時は納殿役の先頭、江戸詰では七人賄、役料米四十五俵・支度料銀五枚と定めた。複数の初任者を列挙し、浄岸院一代に限って置かれたとする。
348 山奉行
山奉行系図帳の寛永四年記事を初見とし、それ以前の記録がないため同年頃の設置かと推定する。延宝二年に山奉行のうち二人を柚山方、延宝八年に二人を新村木方へ任じ、元禄十年頃まで両職が見えるが後に廃止されたとする。正徳二年には役料高五十石以下・銀二枚の支給を定めた。
349 麓山奉行
寛文・延宝頃に麓山奉行が置かれ、川上右京久昌以下六人が勤めたとする附録である。六人はいずれも吟味役から同職に就き、麓山奉行所が扱った山方の事務は、後に山奉行へ申し送って処理する仕組みになったとみられる。設置時期は不明と明記する。
350 郡奉行
慶安三年に惣田地座を設け、東郷肥前と猪俣猪右衛門則康を初めて郡奉行に任じた記事を起点とする。郡方を大御支配に属させ、朱印高外の増高、米都坐付御蔵入・新開地の石高を別立てにして帖佐御蔵入と称した由来を述べる。正徳二年には役料高五十石以下・銀三枚の支給を定めた。
351 殿役奉行
殿役奉行は上代の記録には見えないが、寛永七年の御家譜には既に確認できるとする。宝永七年八月の申渡を掲げ、殿役方の呼称・編成と郡奉行等との関係を説明する。さらに宝永・正徳期の任命例を挙げ、御細工奉行・山奉行・屋久島奉行等との席次、役料・支給基準の変遷を記す。
352 金山奉行・金山物奉行・金山町奉行(当時無之)
寛永十七年に長野金山を初めて掘り出したことを起点に、金山物奉行の任命と山中の繁栄、金山奉行・金山町奉行の設置を述べる。寛文元年の金山奉行任命、比志島主膳国治が御物奉行方・金山方・御城下町奉行を兼ねた例を挙げ、その後の金山関係職の分化と役格、正徳二年の役料・支度銀の基準を記す。
353 竹細工奉行
慶長十三年の御家譜に細工奉行森喜右衛門が見え、本田半兵衛親紀も御細工奉行として御前・奥方に仕えたとする。職の古さは確認できるが、設置時期と役格は不詳であり、正徳二年正月に持高五十石以下へ役料銀六枚を支給すると定めた。
354 御祈念方(御祈念奉行・当時無之)
御祈念奉行がいつ設けられたかは不明とし、家中の記録と宝永二年の兼役記事から、島津光久代には置かれていた可能性を示す。正徳二年の役料制定、寺社奉行・寺社方取次と関係する祈祷・祈念、寺社の申渡・掃除・水汲み等の職務を掲げ、当時は置かれていないと注記する。
355 屋久島奉行
屋久島はもと種子島氏領で、慶長四年に種子島旧領が復された際も屋久島・口永良部島は借地のまま返還されなかったとする。寛永十九年以後に屋久島代官が見え、元禄八年九月には代官を免じて別に屋久島奉行を任じた。宝永期の役名推移と諸役人誓詞での記載を示し、正徳二年には持高五十石以下へ役料銀四枚を支給すると定めた…
356 宗門改役(初名宗躰奉行・宗躰改方・宗門改方)
明暦元年に宗躰座を設けて宗躰奉行二名を任じ、元禄十二年に宗躰改方へ改称した。宝永六年には従来の『宗躰』『宗旨』の呼称を『宗門』へ統一して宗門改方と称し、正徳二年に持高五十石以下への役料銀五枚を定め、安永七年五月に再び宗門改役へ改称した。
357 御鳥見頭・御鳥見頭格
安永七年五月に御鳥見頭を新設して鮫島次郎兵衛常政・石原善助近高を任じ、役料米三十五俵、六人賦、御鷹匠頭次の役順とし、御側支配のもとで御鳥見取次・野場綱元を管掌させた申渡を収める。続いて天明元年五月に御鳥見頭格を新設し、谷村孫右衛門純章を御鳥見勤兼帯で任じ、六人賦、御鳥見頭次の役順とした記事を掲げる。
358-A 御鷹匠頭
本文は天明元年五月に御本丸御鷹匠頭を初めて設け、小納戸役並の者に兼務させ、御鷹匠頭を配下として勤務させたことを記す。天明二年六月には御本丸御鷹部屋と山下御鷹部屋の呼称を整理し、役名中の『御本丸』を『山下』へ改めた。後半では山下御鷹匠頭の前身を〔屋畔または尾畔〕御仮屋守・尾畔奉行とし、御仮屋建立時期は…
358-B 御同朋頭(初名御茶道頭)
御同朋頭の初名を御茶道頭とし、歴任者、宝永・正徳期の役料・待遇、江戸での役名改称を記す。
359 御隠居御附御茶道頭
天明七年正月に御隠居御附御茶道頭を新設し、同年二月、奥御同朋の福崎琢阿弥正興を任じて役料銀二枚三十二匁を与え、琢寿と改名させた。役順は御同朋頭の次と定め、新設の旨を関係者へ通達した。
360-A 御記録方添役(本条)
寛保元年十二月に御記録方添役を置き、初任者、六人賦、席次・役格、扶持等を定めた経過を記す。
360-B 御記録方添役(申渡)
御記録方添役という役名を新設し、御記録奉行との連署、御役人帳・稽古帳等の取扱い、初任者への申渡方法を定めた記事。
361-A 御作事奉行見習(初名御普請奉行見習)
旧称を御普請奉行見習とする御作事奉行見習について、設置、初任者、人数・扶持、席次、御作事奉行への進退と役料を記す。見出しは旧No.360末尾、本文は旧No.361冒頭に分かれていたため両者を結合した。
361-B 物奉行見習
本文は安永六年七月に物奉行見習を新設し、岸谷市助と小田善兵衛を初任者として、六人賦、役格・席次および申渡の手続きを定めたと記す。その後、寛政三年に吉井新右衛門泰処が同役に任じられ、役料米三十五俵を給されたとする。姓名・諱の細字はなお確認を要する。
361-C 御馬預見習
本文は寛政八年十二月に御馬預見習を新設し、西郷八郎次を初任者として、六人賦、役料米三十五俵、物奉行見習の次に当たる役名順、御馬預と同じ支配・勤方を定めたと記す。諱と末尾の日付の細字はなお確認を要する。
361-D 吟味役並若役(当時無之)
吟味役並若役について、当時は廃止されていた旨を掲げ、旧例・初任者、人数・席次・扶持、本役への進退、後代の役格変更を家系図等も用いて考証する。
362 唐船改(初名異国座中取・唐船方受込・唐船方)
元禄二年閏十月に四元休左衛門忠昭を異国座中次へ任じた初見を掲げ、正徳二年に持高五十石以下への役料銀八枚を定めた。正徳三年十二月に唐船方受込、安永七年五月に唐船方、天明六年二月に唐船改へ改称した経緯を記す。
363 唐船奉行
上代には領内諸港へ異国船・諸国船が多数渡来し、坊津・京泊等で商売したため、船数・積荷・商取引・御用物買入を改める唐船奉行が置かれたとする。慶長八年の本田助之丞親貞・五代右京久道らの勤務、義弘から家久への書状、寛永期の山田民部少輔・吉田次郎兵衛らの例を引く。鎖国後は恒常職でなく来船時に任じた可能性を指…
364 寺社方取次(初名寺社座中取)
初め寺社座中取、また寺社奉行所中取と称し、寛文八年正月に野村助左衛門を初任者として置いた。延宝三年に二人、貞享三年にさらに一人を増し、その後人数は一定しなかった。正徳三年に寺社方取次へ改称し、天明三年にその呼称を用いるよう改めて通達した。
365 御勘定方小頭(初名勘定所中取)
宝永四年十二月、平田治左衛門宗賀・伊地知重左衛門重評を勘定所中取に任じた初見を掲げる。同月に御勘定奉行の役格が別格へ改められたため、その際に中取も新設されたと推定する。正徳三年に御勘定方小頭へ改称し、天明三年にはその呼称を用いるよう通達した。
366 御勘定方吟味役
享保頃から同時期の末年まで存在したとみられる御勘定方吟味役について、御勘定方小頭の次席に置かれ、五人賦とされ、役料を支給された形跡があると記す。それ以外の沿革・職掌は不詳とする短い附録である。
367 御薬園奉行
寛政四年十二月、御薬園奉行を初めて設け、御庭奉行の大田筑左衛門用嵩と表御小姓の村田藤之助常陶を任じた。役料米二十七俵を支給し、役順を御勘定方小頭の次、支配を奥支配と定め、表方その他へ新設を通達した。
368 御庭奉行
天明三年十月に御庭奉行を新設し、近習通・五人賦、役料米二十七俵、御勘定方小頭の次で御代官の上という役格を定めた。人選は追って命じるとして表方・奥掛・御勝手方へ通達し、同年四月の記事として桐長一郎兵衛常政を初の御庭奉行・御薬園掛に任じたことを掲げる。さらに天明六年七月新設の磯奉行を御庭奉行の加役とした…
369 磯奉行(附録・延享以前の磯奉行)
天明六年に磯奉行を新設して御庭奉行の加役とし、磯御茶屋・御庭その他の掛務を受け持たせる通達を掲げる。附録では延享以前の磯奉行を初名『磯御仮屋守』として考証し、磯の屋敷地が鎌田出雲政近に与えられた大磯下津浜門山下屋敷であったこと、寛永期に御用地化して御仮屋を建て、八郎大夫と記される人物らが守役を勤めた…
370 尾畔奉行
天明四年に尾畔奉行を新設し、赤崎源四郎兼明を初任者とした。役順は御庭奉行の次、所属は奥支配と定め、従来御鷹匠頭が担当していた御用のうち御鷹方関係を除く業務を引き継がせた。宮内源内の従来の居宅を尾畔奉行の役宅として、転居して勤めるよう命じ、表方・奥掛・御勝手方へ通達した。
371 御鳥預頭取
従来は独立した御鳥預頭取職がなかったが、天明五年以後、御鳥見・御庭方関係者に御鳥預頭取の勤務を命じる例が現れた。寛政元年には職名と役料米三十九俵、従来どおりの勤方を定め、鳥方の者を精勤させるよう命じた。さらに寛政二年二月、同職を正式に新設し、役順を尾畔奉行の次、所属を奥支配とした。
372 御膳所頭
天明五年正月、江戸で不破伝右衛門周則を初めて御膳所頭に任じ、役料米五十八俵を与えた。同年二月の申渡で、役順を尾畔奉行の次、五人賦とし、平常は御膳所へ出勤せず、御招請など重要な儀礼時にのみ出勤する新設職と定めた。
373 表方御代官
万治二年の記録を引き、御郡代方に日州与・南与・出水与の三組があって『三与代官』と称したことを述べる。寛文十年以後も三与の編成を継承したが、天明二年に定員を減じて御蔵入方代官として勤務させ、表方代官と称した。天明六年七月には『代官』を『御代官』と書くよう改称した。正徳二年の規定として、持高五十石未満の…
374 帖佐与御代官
寛文五年に郡座附代官を設け、伊東孫左衛門祐豊・宮里五右衛門正行を任じた。寛文十一年から帖佐与代官と称し、延宝三年には帖佐与を新田方・古田方に分け、国分与の新田高八千七百五十石余を帖佐与に付属させた。貞享四年に新田代官座を設けて東郷伴右衛門重依を新田方代官とし、元禄八年には代官座を再編して新田代官座を…
375 御台所頭
天正八年頃の記録に御台所代官が見え、元禄年間までは同称を用いたが、御台所頭への改称時期は不明とする。正徳二年にはすでに御台所頭の名が確認でき、持高五十石未満の者への役料支給を定めた。旧来七十石、元禄期五十石、のち十五石、元文三年六十五俵、宝暦二年以後六十三俵とする役料変遷を掲げるが、数値・単位には判…
376 客屋評定所預御番屋役(初名客屋代官)
家久代から見える客屋代官について、宝永七年三月に客屋を御番屋と改称したのに伴い、客屋代官を御番屋役と称するよう定めた。ただし使者来訪時には客屋預と称した。正徳二年正月、持高五十石以下の者への役料として切米六十五俵を支給する規定を設けた。
377 奥御小姓
御小姓の名目は義久代から見え、のち表御小姓が設けられたため、これと区別して御側御小姓と称するようになったと推考するが、詳しい経緯は不明とする。安永九年七月、御側御小姓を奥御小姓と改称した。
378 御小納戸見習
天明六年九月、奥御小姓の早川清次道兼を初めて御小納戸見習に任じた。同年十月の申渡では、以後も奥御小姓の中から任命し、座席を奥御小姓より上に置く一方、格式は変えず、六人分の賄料のみを給するよう定めた。
379 御近習番
従来は奥御小姓の中から御近習番を勤めさせていたが、安永九年七月に独立職として新設し、御側御小姓五名を初任者とした。新役は御側御小姓と同格、表御小姓より上席とする旨が江戸から通達され、同年八月に関係者へ申し渡された。
380 表御小姓
表御小姓という役名は上代の記録に見えないとし、寛永十七年の記録に、表小姓を四人賦として折々衣裳を給した記事があることを掲げる。それ以外は不詳とする。
381 御裁許掛見習
宝暦四年五月、木場休右衛門貞常を初めて糺明方見習に任じ、役人帳上の席次を表御小姓次・御小姓頭付近に置く旨を申し渡した。その後、糺明方見習の名称・扱いを改め、御裁許掛見習として御裁許掛場に記すようになったとみられる。
382 郡奉行見習(設置・初任)
天明元年五月に郡奉行見習を新設し、深見休右衛門在友・有馬七郎右衛門純常・鎌田源八政胤を任じたことを記し、続く正式な申渡文を導入する。
383 郡奉行見習(申渡)
郡奉行見習を新規に設け、役順を御裁許方見習の次とし、奥掛・表方および関係役所へ通達するよう定めた。天明元年閏五月の記事に四人賦と見え、同年五月二十一日付で深見休右衛門・有馬七郎右衛門・鎌田源八らの任命を諸帳面へ記載・通達する旨を、大野隼人名で伝える。
384 御小姓
義久・義弘代に見える『小々姓』を現在の御小姓に当たる職と推考する。明暦二年の書付には小々衆二十一人の記事があり、寛永七年の旧記には御奥小姓三人に年中銀子二枚を給したと見える。近代には奥御小姓と称し、安永九年七月に大奥御小姓、天明六年七月に御小姓へ改称した。
385 奥医師
当初は御側医師と称したが、いつ御役の内に加えられたかは不明とする。安永九年七月に奥御医師へ改称し、天明七年七月には奥医師へ改めるよう申し渡された。
386 御数寄屋頭
初め御書院役人と称し、創設年は不詳とする。明暦三年二月、島津図書久通・町田勘解由久則の書状を引き、役人坊主一人では御用に不足するため二人を置いた経緯を記す。後に御書院役人と称し、安永七年五月に御書院方預り、天明五年正月に御数寄屋頭へ改称した。
387 奥御同朋
野間為阿弥忠政とその孫政方に関する旧記を引き、政方が将軍家の御同朋歳阿弥から同朋職の根源・御座飾などを伝授されたとする。これを根拠に島津家にも古くから御同朋が置かれたと推考し、後年に御側御同朋と表御同朋へ職掌が分かれた可能性を述べるが、詳細は不明とする。安永九年七月、御側御同朋を奥御同朋へ改称した。
388 表御同朋
それ以前には表御同朋という役名が見当たらないとし、享保四年十二月に表御同朋へ御書院役人同前の勤務を命じた記事を掲げる。この時に初めて設置された可能性を述べるが、詳しい事情は不明とする。
389 奥御茶道
初め御側御茶道と称し、創設年は不詳とする。御数寄屋では吉貴代に始まったと伝えるが、追考として元禄十四年十二月の鍋三郎の七夜祝いに御側茶湯四名が進上物を命じられた記事を掲げ、これは御側御茶道に当たると判断する。当時はなお綱貴在職中であるため、吉貴代創始説は御数寄屋の伝え誤りではないかと指摘する。安永九…
390 小坊主
初め御側小坊主と称し、創設年は不詳とする。享保九年五月、上原冠角清次と読める人物を任じた記事と、御側小坊主へ初めて任じられた際に入付支度料として銀一枚二十一匁を給したことを御書院支配証文から引く。ただし、それ以前から存在する役であったとし、現在は小坊主と称すると結ぶ。
391 御記録方見習
延宝五年に伊地知助右衛門重英へ御文書の見合せを命じ、同八年に御記録所へ詰めて見習うよう命じたことを御記録方見習の始まりとする。元禄四年には市来源右衛門政香・肥後仁右衛門盛香と読める二名を記録所見習とし、政香には六人賦を給し江戸勤めも命じた。後世には御側御小姓・表御小姓・無役中通などから御記録方稽古を…
392 御右筆見習
平野次郎兵衛友重が貞享二年とみられる年に御右筆所で習学を勤めたとの自家記録を掲げ、それ以前の例が見当たらないため彼を始まりと推考する。後世には御記録方見習と同様、御側御小姓・表御小姓・無役中通から御右筆稽古を命じ、四人賦・三十四俵を給した。安永五年三月に役順を御記録方稽古の次と定め、天明三年十月に御…
393 助教(講堂学頭設置)
安永六年六月に講堂学頭の役を新設し、長崎鉄之丞道喬を任命したことを記す。直後の文書394に、その際の正式な申渡内容が続く。