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鹿児島県史料第6集の目録

家・氏族・職掌・人物関係を調べるための補助史料です。試験導入中です。

全432件中 1~100件・1 / 5ページ

  1. 1 酒匂氏

    本文は酒匂氏を梶原氏流とし、刑部丞朝景が相模国酒匂を領したことを家号の由来とする。忠久誕生以来の近侍・御剣役奉仕を起点に、酒匂氏歴代の戦功、役職、所領と家の継続を列挙し、島津家への長期的奉公を説明する。

  2. 2 猿渡氏

    本文は猿渡氏の出自を系図上不明としつつ、猿渡藤四郎美信が忠久の入国に供奉して御剣役を務めたと伝える。貴久・義久代の人物を挙げ、朝鮮出兵時には猿渡越中らが使者として敵中を往復し、義弘・久保および石田治部少輔から感状・褒賞を受けたこと、帰朝時の戦死、地頭職の継承と帖佐の分家までを記す。

  3. 3 執印氏・惟宗姓諸家総説

    本文は執印・国分・五代・平野・羽島を惟宗姓の同族とする。執印氏は康友を祖とし、康友が新田宮の執印職に補任され、その職名を家号としたと説明する。執印職については、上方から同職として下向し、神前で印を執ったことに始まるのではないかと推測する一方、古い事情は詳らかでないと断る。康友以後の職の継承、所領・伝…

  4. 4 国分氏

    本文は友久を祖とする国分氏について、家号の由来を断定せず、安楽寺領の大隅国分寺の寺領を司ったためか、二宮大明神の社務司を務めたためか判然としないと考証する。国分氏歴代の軍役・在地職を記し、立久代に五百石の軍役を命じられたこと、戦闘・討死、左衛門家などの分流と後裔を述べる。

  5. 5 五代氏

    本文は康忠を祖とし、新田宮の五代院職・五代院政所を家号の起点とする。文永頃の五代院右衛門尉友清、島津立久代の五代筑前守をはじめ、中世の人物、役職、所領と島津家への奉仕を記す。

  6. 6 平野氏

    本文は友家を平野氏の祖とし、上世・中古の事情は不詳とする。義久代の平野丹後友治以後、御使役・地頭職を務めた系譜を記し、実子のない平野九郎から二男家の平野仁右衛門へ系図・文書を譲って嫡家を継承したこと、他の平野氏もこの嫡流に属することを述べる。

  7. 7 羽島氏

    本文は友貞が羽島・向井周辺を領して羽島を称したことを家の起点とする。嫡家が羽島新兵衛家と羽島蔵人家に分かれて由緒文書を保存したこと、二男家が向井氏を称し、日新に仕えた向井和泉らへ続いたことを記す。

  8. 8 市来氏

    本文は市来の古い領主を大蔵姓とし、女子のみとなったため八文字氏系の人物を養子に迎えて市来氏を継がせたとする。外祖の譲りで市来を領しながら惟宗姓を維持した系譜、市来小四郎らの歴代、忠久以来の地頭職・奉公、各地での軍事行動、戦死および分家を長く列挙する。

  9. 9 大寺氏

    本文は大寺氏の出自を不明としつつ、惟宗姓諸家の一族であろうとする。大寺弾正左衛門、大寺美作らを挙げ、元久・久豊・忠国・立久・勝久・貴久各代の家老奉仕、草牟田領有、地頭職、主家没落に伴う退転、豊後・馬越での戦死と嫡流の継承を記す。

  10. 10 梶原氏

    本文は梶原氏を梶原景時の三男・平左衛門景高の後裔とし、上代の事情は不詳とする。忠昌の母を梶原三郎太郎弘純の娘とし、この縁によって一族が島津家に召し出され、立久・忠昌期には家老を務めたと説明する。以後の地頭職、軍事奉仕、分家と後裔を記すが、系図上の接続には不明を残す。

  11. 11 鮫島氏ほか平姓諸家総説

    本文は鮫島氏を起点に、阿多・指宿・加世田・知覧・谷山・是枝・益山・別府・頴娃・若松・宮原・片留などを列挙する。忠久下向以前から薩摩に在住したという伝承、阿多・鮫島方面の地頭職、南北朝期以後の奉公、所領・文書、各分流の系譜と後裔を長く記す。冒頭の列挙諸家をすべて鮫島氏の分流と断定せず、本書が一括して掲…

  12. 12 阿多氏

    本文は忠久の家老・阿多加賀守時成が指宿を領したことを起点とし、元久上洛時の将軍義持への御目見、貴久が勝久の養子となる契約時の奉仕を記す。さらに阿多掃部・源左衛門・但馬らの系図をめぐる異説、日新への奉公、地頭職および阿波へ移った後裔までを載せる。

  13. 13 頴娃氏

    本文は旧頴娃氏が背反によって攻め取られ、頴娃領が一族の小牧氏に与えられた後、小牧氏の背反によって再び没収されたとする。久豊の子が頴娃を領して南殿と称したこと、のちに肝付河内守兼元の二男へ頴娃領・名字が移り、藤原姓を賜ったという伝承、婚姻・契約文書と諸分流の成立を記す。

  14. 14 指宿氏

    本文は指宿氏が元弘・建武頃まで繁栄し、将軍家および島津家歴代などの証判文書を数十通所持したとする。高岡の指宿左近兵衛を嫡家とし、義久代に近侍した別流も文書を所持したことを記す。

  15. 15 加世田氏

    本文は加世田氏の上世・中古の由緒を不詳とし、近代に存在が知られる加世田諸兵衛・加世田七右衛門などの同姓者を挙げる。

  16. 16 知覧氏

    本文は元弘頃の知覧氏に足利直義の御教書が伝わる一方、その子孫は不明とする。また、越前島津氏庶流の同名の知覧氏を別系統として区別し、種子島家臣の知覧才兵衛や郡之城・田布施にいた末流を挙げる。

  17. 17 谷山氏

    本文は谷山氏が元弘・建武頃に繁栄したとし、谷山入道覚禅・仏心らが道鑑公と敵対して鹿児島へ攻め寄せたことを記す。嫡家を谷山次郎右衛門家とし、中古以後の紀伊介・孫右衛門らの軍事奉公、平佐城での籠城、江戸長詰および諸分流を挙げる。

  18. 18 是枝氏

    本文は是枝氏が肝付の是枝名を領したことを家名の由来とする。永禄頃の是枝周防、天正期に御使役・地頭職を務め泉坊に住持した是枝大膳坊を挙げ、国分への移住後も代々地頭職を務めたこと、嫡家の壽右衛門家、加治木の治部左衛門家およびその他の分流を記す。

  19. 19 益山氏

    本文は益山氏が加世田のうち益山を領したと諸記録に見えること、仁礼氏の子孫とされるが具体的な人物・系統は不明であることを記す。

  20. 20 別府氏

    本文は別府氏が加世田別府を領した家とするが、嫡家は不詳とする。忠久の初度下向に小左衛門光吉が供奉したとの伝承を載せる一方、その系図は確認できないと断る。後世に別府蔵人が別府から仁礼へ名字を改めた系統を中心に、家久代以後の小姓・御使役・地頭職・御犬役などの奉公、仁礼・別府間の名字相論を記す。さらに式部…

  21. 21 薩摩氏

    本文は薩摩氏が元弘頃まで旧記に見えるものの、後裔は不明とする。現在の子孫は別府名字を称しているのではないかという推測も記す。

  22. 22 岩松氏

    本文は吉利のうち岩松名を領したことを名字の由来と推定し、将軍家の御教書とその後の記録を挙げる。子孫は多いが嫡庶は不詳とし、文書の年号が合わないことから伊作家の岩松氏とは別系統と判断する。

  23. 23 吉留氏

    本文は吉留氏が古文書に少し見える家とし、吉留為左衛門の曽祖父が蒲生付近に住んだ後、加治木へ移ったという伝承を記す。また、外城にも吉留氏が存在したとする。

  24. 24 宮原氏(仁礼氏系譜論)

    本文は宮原氏が加世田のうち宮原を領したとし、仁礼覚左衛門の祖父・仁礼左近までは宮原を称したと記す。提出系図が惟香親王の後裔とする説について、平姓諸家との整合や中世以前の系図改変・祖先仮託の可能性を挙げて批判的に検討する。後半では仁礼氏諸流の戦死、御使役、地頭職、江戸勤めなどの奉公と分家を列挙する。

  25. 25 富山氏

    本文は富山氏を源姓の日向国御家人とし、『吾妻鏡』に見える富山次郎大夫義良を挙げる。北条義時から忠久への書状と富山刑部丞の子に関する記事、富山家の文書提出、県城主土持氏への随身、土持氏没落時の薩摩移住、近世の富山次郎右衛門と所持文書を記す。

  26. 26 宮山氏

    本文は宮山氏を藤原姓の大隅国人とし、大姶良・浜田・志志目・横山・得丸・波見・山下などを同族として列挙する。宮山十兵衛家が島津家の判物二通を所持したこと、永林や宮山九右衛門の祖に関する記事、家久に召し出された系統、村田へ移った後裔を記す一方、各地の子孫関係には不明が多いとする。

  27. 27 有馬氏

    本文は有馬氏に藤原純友流・有馬王子流・源姓・平姓など複数の系統があるとする。有馬次右衛門家の系図では足利氏の庶流が肥前国高来郡へ下って有馬を領したとし、祖先の地頭職、使者としての敵陣往復、高麗陣での戦功、延岡城主となった一流、福昌寺領地頭を務めた一流などを列挙する。

  28. 28 長谷場氏

    本文は長谷場氏を上世以来の藤原姓国人とし、忠久期の旧記に見える鹿児島郡司を同氏とみる。元久期の所領安堵、長谷場十郎らの奉公、福昌寺建立に伴う所領替え、長谷場六郎久純の系統、長谷場城・丸川筋や岳和・尚雲村などの所領、地頭職と軍事奉公、筑後での戦死を記す。

  29. 29 長野氏

    本文は長野氏について系図紛失のため詳らかでないとする。元久上洛時に大寺氏とともに騎馬供を務めたこと、凶徒討伐後に永吉を大寺氏と折半して与えられたこと、福昌寺奉加帳に長野氏二名が見えること、諏訪社役を担う八家の一つであったことを記し、指宿衆中の長野宮内左衛門家を嫡家とする。

  30. 30 平山氏

    本文は平山氏を紀姓とし、市成・平瀬・平松・松元などを一族として挙げる。石清水善法寺の一族が正宮御供領支配のため帖佐平山城に在城したという由緒、蒲生・吉田・帖佐・栗野の所領と古文書、元久期の社家・家司職、平山次郎右衛門家ほか諸流の系譜、地頭職・軍役・豊州での戦死、家の断絶と再興を記す。

  31. 31 平瀬氏

    本文は、平瀬氏を阿多領主のように記す書付があるものの、それが当時の平瀬氏を指すとは考えにくく、現存する平瀬一族の由緒も不明であるとする。

  32. 32 蒲生氏

    本文は蒲生氏を藤原道長の二男教通の孫・教清の後裔とし、宇佐宮の留守職を経て蒲生へ来住し、正宮神領を支配して八幡宮を勧請したとする。将軍家・島津家からの神領支配文書、元久・忠昌らへの奉公、福昌寺建立に伴う神領の変化、軍事奉公と戦死、蒲生本家の系図断絶、正左衛門家などの後裔を記す。

  33. 33 脇元氏

    本文は蒲生義清の弟・宗平が脇元を領して脇元を称したことを家の起源とする。建武頃の旧記、足利直義の御教書、島津氏久の証判写を所持し、脇元七右衛門の祖先が代々各地で戦死したと記す。

  34. 34 伴姓肝付氏一族・鹿屋氏

    本文は伴姓肝付氏の一族として鹿屋・岸良・薬丸・梅北・安楽・津曲・秋原・野崎・検見崎の諸氏を列挙する。続いて鹿屋氏が古来鹿屋院を領し弁済使を務めたこと、元久期の家老鹿屋周防介忠兼入道玄兼、各地での戦死、大覚寺義昭の切腹時の奉公、志布志・加治木の後裔を記す。

  35. 35 岸良氏

    本文は岸良氏が古くから岸良を領して弁済使を務め、元久以来の証判を所持したとする。代々肝付家に随身した後の展開、岸良内蔵之允とその一族、島津図書家中から召し出された岸良勘左衛門を記す。

  36. 36 薬丸氏

    本文は薬丸氏が代々肝付家に仕えた家であるとし、薬丸出雲入道孤雲が肝付省釣の家老を務めたこと、その後裔と薬丸八次兵衛家の祖・薬丸伊豆を記す。さらに、近世に島津家中へ移った肝付家旧臣とその子孫が多数いたと述べる。

  37. 37 津曲氏

    本文は津曲氏に明確な由緒がないとしたうえで、天正頃に御包丁役を務めた津曲仙馬を挙げる。その子孫を肝付清左衛門とし、清左衛門の親・津曲清兵衛の代に、嫡家の肝付甚右衛門の許しを得て肝付志摩之允と改称したと記す。そのほかの津曲氏は不明とする。

  38. 38 梅北氏

    本文は梅北氏が日向庄内の梅北を領して代々居住したとの伝承を掲げる。天文年間に梅北宮内左衛門が加世田で戦死し、宮原刑部左衛門が養子となったこと、永禄・天正年間の梅北宮内左衛門国兼が足軽大将として武功を挙げ、地頭職と帖佐山田内北山を与えられたことを記す。さらに朝鮮出兵中に国兼が佐敷城を奪った事件と討死、…

  39. 39 安楽氏

    本文は安楽氏が志布志内の安楽村を領した可能性を述べ、勝久代頃までは記録に見えるものの、奉公記事が少なく子孫は不明とする。勝久が伊地知周防介重武へ与えた書状に安楽某が見えること、その書状が後世の安楽某へ渡された経緯を記し、同人らが旧安楽氏の子孫を称した可能性を留保付きで示す。

  40. 40 源姓廻氏

    本文は廻氏を源三位頼政の子孫とし、代々廻を領して繁栄し、多数の文書を持ったとする。永禄年間に当主が盲目で子が幼少だったため、肝付省釣が所領を改めて家が衰微した経緯、近年の嫡孫である廻太刀之介・輪之介、辺田七人の一員として上井・敷根と並ぶ家格、庶流の山伏・廻三玉坊の武功を記す。

  41. 41 石井氏

    本文は石井氏を平姓・三浦義村の後裔とし、三浦右衛門重義が大隅国へ下って石井を称したとの伝承を掲げる。忠国・立久・忠昌・忠治・勝久各代の奉公、相良家臣系を含む複数の石井氏、渡須和・伊地知・高崎などに展開した諸流と近世の後裔を列挙する。

  42. 42 袰袋氏

    本文は建部姓袰袋氏が古来牛根・二川周辺を領し、七人衆の一員であったとする。上代の記録は乏しいが、忠昌・忠治代に袰袋筑前守宗政が家老を務めたとし、子孫は不明と記す。

  43. 43 肥後氏

    本文は肥後氏を平姓で種子島氏の流れとし、種子島家所持文書に肥後左近将監が見えること、嫡家は種子島を名乗り一男が肥後を称したとの伝承を記す。忠国・勝久期の奉公、肥後山城・吉野・花棚・帖佐・内山などの所領・居住、養子・戦死・召出しを含む複数の肥後氏諸流を列挙する。

  44. 44 財部氏

    本文は財部氏を種子島氏から分かれた平姓の家で、肥後氏と兄弟筋とみる。日向財部を領したとの伝承、元弘・建武期および永享期の記録、のちの衰微と旧家・本田家への随身、近世に召し出された財部淡路・財部伝右衛門の系統を記す。

  45. 45 上原氏

    本文は藤原姓上原氏が観応年間に市来院伊作田を領し、伊作田兵部大夫を称したことを起源とする。忠昌代に上原蔵人が特に奉公し、伊作田から上原へ名字を改めたと伝える。上原筑前守・休兵衛・長次郎らについて、九州退治時の軍労、各地の地頭職・所領移動、日新斎・貴久期以後の諸流と後裔を記す。

  46. 46 大蔵姓加治木氏・関連諸氏

    本文は大蔵姓諸家として加治木・郡山・枝次・否笠・小山田などを列挙し、大蔵姓の渡来・播州大蔵谷居住と九州での繁栄、秋月・田尻・高橋諸氏との同姓伝承を掲げる。加治木氏については、配流された三条関白頼忠の子孫・経平が加治木氏の娘を娶って家を継いだという系譜、加治木八郎親平以後の領主権、元久期からの奉公、家…

  47. 47 郡山氏

    本文は郡山氏が上代に郡山を領し、加治木氏と同じく繁栄したとする。将軍家の判物ほか数通の証書を所持し、その子孫を郡山茂左衛門と記す。

  48. 48 枝次氏

    本文は文亀三年の忠治による正宮社参時の騎馬供に枝次某が見えることを記す。そのほか旧記には乏しいが、後迫の奥・横原城跡付近に住む枝次清左衛門家が代々同地の屋敷に住んだとの伝承から、旧枝次氏の子孫である可能性を示す。

  49. 49 否笠氏

    本文は否笠氏が建武頃の旧記に少し見えるものの、その後はほとんど記録に現れないとする。天正頃に否笠刑部という者がいたが、子孫は不明と記す。

  50. 50 小山田氏

    本文は小山田氏が永享頃の福昌寺奉加帳などに見えるものの、そのほかの由緒は特に分からないとする。

  51. 51 小川氏

    本文は小川氏を日奉姓で熊谷・平山氏などと同族とし、小川太郎季能の承久合戦での軍功と甑島領知、後裔の所領・奉公を記す。天文頃の小川越前守・尾張守、伊集院・島津家中などに見える複数の小川氏、養子・戦死・召出しを伴う諸流を列挙し、系図上の接続には不明があるとする。

  52. 52 税所氏・関連諸氏

    本文は税所氏・姫木氏・重久氏などを藤原氏の一族とし、税所氏が上代に霧島神領を司ったことを家名の由来とする。文明十五年に豊州家の攻撃を受けて衰微した経緯、税所職・地頭職の継承、義久・日新斎らへの奉公、召出し・養子・分家、近世の税所諸家と所持文書を記す。

  53. 53 姫木氏

    本文は税所氏と同姓の者が姫木城に住み、周辺を領して姫木を称したことを家名の起源とする。帖佐船津村の姫木氏が氏久の証判数通を所持し、この家を嫡流の可能性があるとする一方、ほかにも姫木関係文書を持つ者がいると記す。

  54. 54 重久氏

    本文は重久氏が同所の重久名を領した家で、足利尊氏の判物ほか数通の証書を所持したとする。子孫は当時断絶し、親類が系図・文書を保管しており、姫木氏とともに上世とりわけ栄えた家と記す。

  55. 55 日下部姓岩切氏・関連諸氏

    本文は岩切・八木・土持・海江田の諸氏を日下部姓の同族とする。岩切氏について、彦兵衛家を嫡家とみる伝承、上代の系図不明、地頭職・所領、伊作家への随身、日新斎期の召出し、岩切六右衛門・仁右衛門らの諸流と屋敷・奉公を記す。

  56. 56 八木氏

    本文は八木氏の上代由緒を不詳とし、八木和泉守の奉公を起点に、嫡子の八木越後入道嘉筌が右筆・能書として仕えた経歴を記す。嘉筌は島津義久(竜伯)の計らいで青蓮院尊朝親王の書の門弟となり、義久にも書を指南したとされ、子の丹後も能書として近衛信尹に書跡を披露したという。さらに後陽成天皇の宸翰・勅書に関する未…

  57. 57 土持氏

    本文は土持氏を日向国の古い国人とし、系図には田部姓とあること、頼朝期の図田帳に土持冠者が見えるとの伝承を記す。大友家との関係から島津家への帰属、本領安堵、天正十五年の豊臣秀吉下向に伴う県城落城と土持弾正久綱の子弟の出仕、久綱の偏諱拝領・地頭職を述べる。さらに勝久期から島津家に仕えた庶流、養子・戦死・…

  58. 58 海江田氏

    本文は海江田外記の家を嫡家とし、系図では日下部姓とするが、上代の事情は明確でないと記す。大友衆との高城合戦で戦死した海江田主殿、外記の祖父とされる仲左衛門の地頭職、弟諸右衛門の系統を述べる。さらに、もとは海江田を称したのち土持を名乗った平右衛門・大右衛門系と蒲生居住を挙げ、外記家の庶流と位置づける。

  59. 59 藤原姓和田氏・高木氏(和田氏)

    本文は和田・高木両氏を藤原姓・菊地氏庶流とし、まず和田氏が日向国三俣院北方を領したと記す。和田土佐入道正覚期の繁栄と北郷家との縁組、和田乗介家の義久期の奉公・地頭職、息長姓吉田氏庶流とされる別系和田氏の義弘への奉公を載せる。さらに刑部左衛門・円覚・郷左衛門らの諸流、飯野在城時の密使・捕縛と帰還に関す…

  60. 60 高木氏

    本文は高木氏が高城内の高木村を領し、和田氏と同様に栄え、元弘・建武頃に特に繁栄したとする。のち高木孫三郎が逆意を理由として嘉吉年間に島津忠国の討伐を受け、その子孫は不明と記す。

  61. 61 平姓宮之原氏

    本文は宮之原氏を平姓とし、島山次郎実忠の三男・居山重俊の後裔が日向国宮之原へ下り、宮之原を称したとするが、嫡家は不明と記す。括弧注では平姓長野氏も島山重忠の庶子筋で、富山正司宣良の二男・長野三郎重治が忠久に供奉して下向したとし、末尾に『此注異本なし』との書写注を付す。

  62. 62 中原姓有川氏

    本文は有川氏を中原姓・池大納言平頼盛の後裔とする一方、平姓伊勢氏一族との関係も掲げる。伊勢雅楽入道が伊勢兵庫頭の許可により伊勢を称した由緒、有川氏庶流の系図、義久・義弘期の奉公と地頭職、大坂・海上などでの戦死記事を述べる。さらに有川右衛門系、伊勢平右衛門・大炊左衛門系、加治木・蒲生の諸流と近世の後裔…

  63. 63 紀姓桑波田氏

    本文は紀姓桑波田氏が古来永吉を領し、永吉が当初は南郷と呼ばれたと記す。忠久の家老とされる桑波田摂津守真元入道観知、のち没落した桑波田孫六系、島津図書家来の桑波田勘左衛門、加治木の桑波田孫六らを挙げる。別に義弘期に球磨から参上した桑波田氏もあり、これらを同族であろうと推定する。

  64. 64 藤原姓永井氏

    本文は藤原姓永井氏の上代由緒を不明とし、忠昌期に奉公した永井勘五郎とその後裔、日新斎に召し出され戦死した系統を記す。都城の永井氏については、勝久に讒言した十七人の一人と同族かと推定する。さらに貴久の小野出陣に供奉した七人の一人・永井甚吾左衛門を挙げるが、各系統の子孫は不詳とする。

  65. 65 橘姓柏原氏

    本文は橘姓柏原氏の古い由緒を不明としつつ、元久の家老・柏原豊前守好資を挙げ、その嫡家は断絶したとする。好資弟家の者、天正期の柏原近将監、足軽大将・松山地頭を務めた柏原氏、周防介入道有閑と朝鮮で戦死した子らを記す。後裔として柏原弥太右衛門・孫六右衛門・市右衛門らを列挙する。

  66. 66 藤原姓二階堂氏

    本文は藤原姓二階堂氏が相模国懐島を拝領した家とし、実朝の御判・文書を所持したと記す。伊作家との関係、二階堂隠岐守・源右衛門らの奉公と地頭職、筑前・伊作方面への移動、養子・名字継承を述べる。さらに日新斎・義弘期に召し出された系統、二階堂源太左衛門らの諸流を列挙する。

  67. 67 藤原姓大川平氏

    本文は大川平氏を藤原姓・菊地氏庶流とし、北原氏が真幸院を領した際に飯野大川平を知行した家と記す。北原氏衰退後に城を明け渡し、日新斎・貴久へ出仕したこと、のち大川平を領知したことを述べる。源太左衛門家を二男家とし、都城家中に続く系統も挙げる。

  68. 68 源姓後醍院氏

    本文は後醍院氏を源姓とし、後醍醐天皇第六皇子・良懐親王が菊池武光の聟となったとの皇統由緒を掲げる。親王・子孫の九州での動向、肥後親王・後醍院良宗以下の系譜、南朝・足利方との関係を叙述する。さらに義弘・貴久期の奉公、地頭職、戦功、真幸・栗野などへの配置、養子・分家・後裔を多数列挙する。

  69. 69 大蔵姓高橋氏

    本文は高橋氏を秋月氏などと同族の大蔵姓とし、筑前で数代居住して城主となった家とする。豊臣秀吉の九州平定前後の戦闘・敗亡、親王方や諸大名への奉公、島津家への出仕と地頭職を述べる。高橋九郎・七郎・右衛門・長吉ら複数の高橋氏、養子・戦死・加増・移住を伴う諸流を列挙し、一部は同族か不明と記す。

  70. 70 大蔵姓田尻氏(筑後流)

    本文は大蔵姓田尻氏を筑後国田尻城主とし、義久期に田尻中務少輔鑑種が島津家の幕下となったと記す。その後、龍造寺隆信勢の攻撃で鑑種が自害し、幼少の子を乳母が伴って逃れ、のち島津家へ奉公した経緯を述べる。後裔の右衛門・内左衛門系を挙げる一方、梅北宮関係や伊作田尻村百姓の田尻氏は別家とする。

  71. 71 藤原姓支岐氏

    本文は支岐氏を藤原姓・菊池氏流で肥後国志岐城主の家とする。元弘・建武期の文書を伝え、阿蘇領・大友氏との関係を記す。薩州義虎の娘を妻とした縁から島津家へ参じ、のち加藤清正との戦いで当主が戦死して嫡流が絶えたと伝える。さらに本山弾正ら支岐家臣の系統、支岐道益・新九郎らの召出し、役職・知行と後裔を列挙する…

  72. 72 藤原姓城井氏

    本文は城井氏を藤原姓・下野国宇都宮氏の流れとし、宇都宮友綱の二男・信房が豊前国城井を基盤として名字を称したとする。秀吉の九州平定期に城井鎮房・朝房らが黒田氏と争って滅亡した経緯を記し、その後裔が各地を経て島津家へ奉公したこと、名字・系譜・所持文書と諸流を説明する。

  73. 73 藤原姓入田氏

    本文は入田氏を藤原姓とし、戸次氏・大友氏の一族で大友家の家老を務めた家とする。義久代に入田宗和と志賀道益が島津方へ内通したこと、その後に入田左馬介らが島津家へ奉公した経緯を述べる。高岡をはじめとする知行・役職、戦死、養子と後裔の諸流を列挙する。

  74. 74 宇治姓阿蘇氏

    本文は宇治姓阿蘇氏を肥後国阿蘇大宮司として代々阿蘇領を司った家とする。足利義詮・義満から守護職に関する御教書を受けたが阿蘇領のみを領したと述べ、大友氏への随身、秀吉の九州下向時の肥後路案内を経て島津家へ参り、高千石を与えられた経緯を記す。阿蘇玄与とその弟、近衛信尹書状、口宣・証書の伝来、主殿・新九郎…

  75. 75 藤原姓奈良原氏

    本文は奈良原氏を藤原姓・山城国加茂の住人とし、忠昌代に奈良原助八が島津家へ参ったとする。助八が忠昌に殉死したことを島津家における殉死の初例と位置づけ、福昌寺周辺の伝承、法名・墓銘に関する記事を載せる。後裔は各地で奉公・戦死し、安芸守以後、長門守・狩野介へ地頭職を継承したとし、嫡孫清左衛門と二男家の助…

  76. 76 藤原姓伊東氏

    本文は伊東氏を藤原姓とし、伊藤とも書くと述べ、工藤祐経の後裔が建武四年頃に日向へ下向したとの由緒を掲げる。日向各地の領有と伊東家の繁栄、島津氏との抗争、領国喪失と豊後・肥後方面への退去、秀吉の九州平定前後の動向を記す。さらに島津家へ参った伊東氏諸流、地頭職、戦死、養子・分家と近世の後裔を列挙する。

  77. 77 木脇氏

    本文は木脇氏を伊東氏の一族とし、木脇越前が貴久代に島津家へ参ったことを起点とする。伊賀入道正徹、肥後花之山で戦死した刑部左衛門、その家を継いだ二男系を挙げ、関ヶ原退却時を含む軍功、御使役、地頭職、知行と戦死を記す。木脇善助・次郎兵衛・大炊介・右衛門ら複数の分家・後裔も列挙する。

  78. 78 佐土原氏

    本文は佐土原氏を伊東氏の一族とし、日向国から島津家へ参った家で、佐土原郷左衛門の先祖に当たると記す。

  79. 79 八代氏

    本文は八代三左衛門を八代長門守の子孫とする。長門守は伊東家から高城の守備に置かれ、豊州家・北郷家に攻め殺されたといい、その子の代に島津家へ参ったのであろうと推定する。

  80. 80 大秦姓牛尿氏・井手籠氏・羽月氏・柿木原氏総説

    本文は牛尿・井手籠・羽月・柿木原の諸氏を大秦姓の同族とする。秦姓の起源について、徐福が不死の薬を求めて渡来し日本の住人になったという伝承を掲げる。牛尿氏は古く薩摩国牛尿院の領主で、頼朝の判物や島津荘地頭惟宗忠久と記す文書を所持したとし、元弘・建武頃の牛尿左近将監高元、家の繁栄と衰微、嫡流断絶後の文書…

  81. 81 井手籠氏

    本文は建武四年の道義郷に関する御教書の宛所に井手籠孫四郎が見えるとする。その後、菱刈氏が牛尿・太良両院を領したため、井手籠氏は同族の牛尿氏とともに菱刈氏へ随身したと説明する。

  82. 82 羽月氏

    本文は羽月氏の由緒を明確には確認できないとし、建武頃の旧記にわずかに見えることだけを記す。

  83. 83 柿木原氏

    本文は柿木原氏が将軍家・島津家の判物を多数所持し、菱刈氏へ随身した家とする。後裔の柿木原孫七は島津図書家の家来であり、大秦姓の同族は薩摩国大口周辺に居住して各地を領したと記す。

  84. 84 平姓英根氏(原字要確認)

    本文は平姓英根氏を神崎太郎兼重の孫・大夫盛兼の後裔とし、寛元四年に鎌倉殿から薩摩国英根院を与えられて下向し、英根を称したとする。嫡家の英根為右衛門は島津図書家の家来で、将軍家・諸将・島津家の判物を多数所持したと記す一方、英根領有の終期と家の衰退時期は不明とする。

  85. 85 遠矢氏

    本文は遠矢氏を英根氏の二男家とし、英根院内の遠矢を領して名字としたと記す。別に、強弓の者が四方へ矢を射て落下地点までを領地とされたことを名字の由来とする伝承も載せる。日新斎以後の遠矢信濃らについて、長野地頭職、豊後高田での戦死、各地での軍役・知行、分家と後裔を列挙する。

  86. 86 延時氏

    本文は延時氏を薩州の御家人とし、忠時の判物をはじめ多数の証書を所持し、元弘・建武頃の軍功を示す証書もあると記す。家の衰微時期は不明としつつ、後裔の財部住人・延時藤左衛門が義弘の加治木在住期まで奉公したとする。

  87. 87 建部姓弟子丸氏

    本文は建部姓弟子丸氏が大隅国清水の弟子丸名を領して家号とし、正宮関係の職を帯びた家とする。氏久からの文書、弟子丸名・智尾村など由緒地の領知、貴久代以後の地頭職を記す。さらに弟子丸藤左衛門・治兵衛・八右衛門らについて、地頭職、転住、召出し、分家と後裔を列挙する。

  88. 88 小野姓野辺氏

    本文は野辺氏を小野姓・武蔵七党横山党の流れとし、武蔵国野辺郷の地頭職から名字を称したとする。のち日向国櫛間院の地頭職を得て下向し、平賀盛の子を養子として家を継いだという。島津家への奉公、判物・御教書の伝来、志布志・山明翁院系など複数の野辺氏系図と分流を挙げるが、相互関係が不明な系統もあると記す。

  89. 89 伴姓武光氏

    本文は伴姓武光氏が古くから市来周辺に居住し、元弘・建武頃の将軍家の証書など多数の文書を所持して繁栄したとする。子孫は断絶したらしいが不明で、系図・文書は入来院志摩之介が所持したと記す。

  90. 90 源姓野間氏

    本文は源姓野間氏が上方から下向し、千石狩獄周辺に住んだが薩州家に攻め滅ぼされたとする。生き残った女子が一瓢に仕え、隠居後の庵室で男子を産み、その父は不明ながら一瓢の子と見なされたという出生伝承を載せる。この男子が野間を称し、野間宗庵が武功を挙げたこと、孫兵衛・勘兵衛・宗阿弥ら庶流と島津家への奉公を記…

  91. 91 平姓河越氏(別系譜を併記)

    本文は平姓河越氏を河越小太郎重房の後裔とし、上古の事情は不詳とする。貴久が小野へ移った時に子孫の真玉民部左衛門が供奉し、のち河越へ名字を戻したこと、各地での戦死、河越三右衛門が民部左衛門の五代の孫であることを記す。さらに重房の弟筋とする別系譜の家を挙げ、河内国の郡名に由来する家号、善助家・牛之助家の…

  92. 92 大江姓郷田氏

    本文は大江姓郷田氏を、忠久の下国以前から薩州にいた御家人とする。忠久の廻文に見える小野太郎家綱を挙げ、伊作小野村の領主、肥前国方面の地頭職、日向への移住と三俣院高城での戦死記事を記す。後代の郷田安芸・源助・源左衛門について、境目での奉公と二男家への分岐を述べる。

  93. 93 平姓中原氏

    本文は平姓中原氏を三浦氏の流れとし、日置の中原に居住して名字を改めたと伝える。忠久の初下国時の難風と立願を契機に、祖先の山伏が熊野三所権現を国内へ勧請し、新宮・本宮などを建立したという由緒を載せる。後代の般若院・宝泉坊・中原仲左衛門家について、寺院・修験関係の職、国分への移住、関ヶ原後の使僧奉公、近…

  94. 94 面高氏

    本文は面高氏の姓を不詳とし、肥前国の面高という地名を名字の由来ではないかと推測する。天文頃の有泉坊と子の真運坊を挙げ、代々山伏で市来周辺に住んだこと、真運坊が各地で軍功を立て、日向進攻の際に寺院へ先登して住職となったことを記す。秀吉軍来攻時には豊臣秀長陣への和談使、関ヶ原後には使僧として奉公し、連長…

  95. 95 平姓名越氏・月野氏

    本文は平姓名越氏を秩父太郎重弘の三男・様谷四郎重綱の後裔とする。一族が日向国志布志の槻野村へ下向して当地を領し、月野氏を称したこと、月野大膳が義弘の関ヶ原退却に供奉し、のち谷山へ移ったことを記す。その養子の名越主水が名越へ改称した理由について、月野氏と名越氏は本来同族ではなく、系図中の『奈古景』に見…

  96. 96 越智姓河野氏

    本文は越智姓河野氏を伊予河野氏の一族とし、元久代に島津家へ参仕したとする。河野三太夫・玄蕃・右衛門尉らについて、戦死、御使役、騎馬衆、関ヶ原退却時の奉公を記す。さらに能太夫を住吉太夫と同一人物ではないかと考証し、長倉七郎右衛門家、河野穴左衛門家など複数の後裔・別流を挙げる。

  97. 97 赤松氏

    本文は嘉吉元年に赤松満祐が将軍義教を討ち、義勝を擁立したのち、幕府軍に攻められて一族が滅亡・離散した経緯を述べる。生き残った子孫が島津家へ召し出され、関ヶ原などで奉公したとする一方、赤松宮内左衛門家の祖を結城弾正長則の子・乙若丸季則とする別系譜も掲げる。

  98. 98 源姓最上氏・川東氏

    本文は源姓最上氏の祖を古市甲斐の子・長門守とし、貴久代に島津家へ参仕したとする。長州での奉公、最上右近の処遇、湘雪での軍役・戦死、川東氏への改称と再び最上へ戻った系統を記す。川東氏の子孫を北条善五左衛門家とし、蒲生・九州での奉公、道伸・道屋らの系譜にも言及する。

  99. 99 源姓佐竹氏

    本文は源姓佐竹氏を関東佐竹氏の一族とし、佐竹次郎義昭が武者修行で薩摩へ来て召し留められたとする。兵道の達人として河田駿河入道の一流を伝受し、のち光明坊を称したこと、子孫が山伏として島津家へ奉公したことを記す。

  100. 100 広瀬氏

    本文は広瀬氏の姓と源流を不詳とし、姓氏書や広瀬村の地名から由緒を考証する。久保・家久の母堂を広瀬氏とし、その縁によって広瀬家の人物が召し出され、知行・地頭職を与えられたこと、広瀬善次郎・次郎兵衛へ続く後裔を記す。