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鹿児島県史料第6集の目録

家・氏族・職掌・人物関係を調べるための補助史料です。試験導入中です。

全432件中 201~300件・3 / 5ページ

  1. 201 西俣氏

    本文は源姓西俣氏を比志島氏の二男家とし、西俣を領して名字としたと記す。伊集院家に西俣を攻め取られた後は同家に随身したが、比志島氏に次ぐ位置ながら同列にはならなかったという。その後は蒲生家に仕えて代々家老と八幡宮大検校を務め、弘治三年の蒲生氏降参時には西俣出羽・大膳らが開城に関与した。入来への移住、鹿…

  2. 202 山元氏

    本文は建部姓山元氏を禰寝氏族とし、山元氏景昌が旧記・文書に見えると記す。その子孫を山元孝右衛門とし、禰寝少右衛門家も初めは山元を称したというが、諸家の嫡庶関係は明らかでない。山元七郎右衛門の殉死記事を挙げ、別系として祖父が異国人で初め丹清と称した山元五郎兵衛が、その代に初めて騎馬身分へ召し成されたと…

  3. 203 末弘氏

    本文は末弘氏を北郷家の庶流とする。子孫は不明だが、河辺の末弘某は勝久代の家老末弘伯耆守の子孫という。そのほかは不詳とし、伯耆守が誅された事件はここでは記さないとする。

  4. 204 小倉氏

    本文は小倉氏の姓・上古を不詳とする。勝久の出頭人小倉武蔵が『久』の字を与えられ、その証判があると記す。小倉竹内・薩山・末弘らは勝久の博奕相手として寵遇されたという。武蔵の子孫小倉四郎右衛門は、下賜された御書を保管しているとする。

  5. 205 前田氏

    本文は前田氏を伊地知氏庶流とする説を掲げ、近年に前田から伊地知へ改姓した者もいるとするが、伊地知氏系図では確認できないと記す。中厨・前田・福崎などは家来筋とし、肝付主殿の家来前田某の先祖前田四郎左衛門が勝久に奉公し、下賜御書を保管すると伝える。ほかに肝付氏庶流にも前田名字があるという。

  6. 206 知色氏

    本文は知色氏の姓を後考に待つ。永和頃、出水の知色城を持った知色彦三郎入道行覚という人物が旧記に見えるとし、子孫は不詳と記す。

  7. 207 馬越氏

    本文は藤原姓馬越氏について、菱刈氏の『他腹の長男』に始まる家とし、伝来文書があると記す。ただし記事作成時には子孫がなく、後続する系統も掲げない。

  8. 208 橋口氏

    本文は橋口氏の姓を後考に待ち、市来氏庶流の橋口氏があるとする。別に谷山波平鍛冶の橋口氏を掲げ、元祖正国を一条院代の人物とするが、当時から橋口氏を称したかは不詳とする。波平鍛冶の子孫橋口三郎兵衛は谷山衆中で現在も鍛冶を務めるとし、正国と橋口氏の系図関係には再考が必要と述べる。

  9. 209 池上氏

    本文は池上氏の姓を後考に待つ。観応頃の池上弥四郎に将軍家から下された御教書があるとし、父池上四郎兵衛光久は金隈で戦死したと記す。その後の子孫は不詳とする。

  10. 210 小浜氏

    本文は小浜氏の姓を後考に待つ。道鑑公から小浜十郎氏純へ下された御証判をはじめ文書があるが、子孫は不詳とする。大隅国人で、国分の小浜辺を領したのではないかと推定する。

  11. 211 宅間氏

    本文は宅間氏の姓を後考に待つ。貞和頃の宅間種正を掲げるが、その後は不詳とする。天正年間以後の宅間与左衛門は足軽大将として各地で軍功があり、関ヶ原からの帰国時に豊後海上で戦死したと記す。その嫡子を宅間半助とする。

  12. 212 野元氏

    本文は野元氏の姓を後考に待つ。貞和頃の野元孫七を掲げ、その後は不詳とする。高原で戦死した野元源左衛門の記事と、別の野元源左衛門の祖父に関する系譜を付す。

  13. 213 坂元氏

    本文は坂元氏の姓を後考に待つ。元徳頃、伊作院庄内の坂元・堀内屋敷をめぐる争論に坂元刑部坊燈円が見えるとするが、その後は不詳と記す。後代の坂元平右衛門の祖父鑪左衛門らが、伊集院の寺院住持とみられる法印の討伐時に関与したとの記事を付す。

  14. 214 西郷氏

    本文は西郷氏の姓を後考に待ち、建武頃の西郷九郎秀範を掲げるが、その後の子孫は不詳と記す。

  15. 215 古木氏

    本文は古木氏の姓を後考に待ち、建武頃の古木彦五郎入道・古木三郎入道らを掲げるが、子孫は不詳と記す。

  16. 216 宮田氏

    本文は宮田氏を紀姓とし、『仙台』の宮田を領したことを名字の由来とする。建武頃からの宮田氏人物、忠永期とみられる奉公、所領・軍役を述べ、近世には福昌寺に関わった祖父の琵琶細工、家久の上覧、四辻季継卿を介した禁中楽器『巴の琴』の写しとその伝来を記す。さらに居住・役儀、宮田玄永ら後裔と所持文書に及ぶ。

  17. 217 日田氏

    本文は日田氏の姓を後考に待ち、肥田・飛弾という異表記もあるとして上古を不詳とする。忠昌公の代に飛弾七郎という者がいたとするが、その子孫は不詳と記す。

  18. 218 折田氏

    本文は折田氏の姓を後考に待ち、上古の所見がなく、『四ケ所』に居住した家かと推測する。折田八右衛門の祖父折田勘解由が初め御祐筆を勤め、のち物奉行に任じられたとし、折田彦右衛門らを同族とする。

  19. 219 長田氏

    本文は長田氏の姓と由緒をともに後考に待つ。具体的な系譜・奉公記事は記さない。

  20. 220 松田氏

    本文は松田氏を源姓とし、逸見氏の二男が松田を称した家に起こるとする。子孫は島津家に仕え、日新の代に召し出され、竜伯の代には松田知泉がいたと記す。知泉の子孫を松田七郎左衛門とし、松田与右衛門家をこの二男家と位置づけ、『南市文集』所載の狂言を勤めた松田良右衛門を与右衛門の祖父とする。

  21. 221 日高氏

    本文は日高氏を源姓とし、紀州日高の領知を名字の由来とする。のち島津家に仕え、天正頃の日高掃部左衛門が諸所を奔走して奉公したと記す。日高与一左衛門をその孫、かつ嫡家とみなし、同人所持の系図を根拠に祖孫関係を述べるが、他の支族は不明とする。

  22. 222 武氏

    本文は武氏の姓を後考に待ち、家伝では禰寝氏の二男家とするが、上古の所見はないと記す。代々鹿児島の武村を領したとし、下大隅の伊地知重興が島津家に背いた時に武氏が人数を集めたこと、重興家来田上三郎之介が武氏へ射た征矢を家に伝えることを述べる。後半では武彦兵衛の後裔、竜伯に殉死した武彦左衛門とその子孫を掲…

  23. 223 木原氏

    本文は木原氏の姓を後考に待つ。慶長頃、木原七郎三郎が関ヶ原からの帰国に供奉し、感状と知行を与えられたと記し、その子孫を木原林某とする。

  24. 224 山崎氏

    本文は山崎氏を渋谷氏族とし、東郷氏の家来であった可能性を述べる。山崎伯耆とその国分衆中の子孫を掲げる一方、別の山崎家について、曽祖父が泊の町人で富裕であったため後に士分へ召し出されたとの伝承を記す。さらに山崎藤七の父藤兵衛が兵具奉行を命じられたとする。

  25. 225 川村氏

    本文は川村氏の姓と上古を不詳とする。日新の領内期に泊地頭であった川村七郎左衛門を掲げるが、子孫は不明とし、同名家が系図を所持すると伝える。別に、田舎に数代住んだ川村少左衛門の父が、島津三郎右衛門の母を川村氏女とする縁故によって召し出され、奉公したとの由緒を記す。

  26. 226 二之宮氏

    本文は二之宮氏の姓と上中古を不詳とする。出水の『十二宮』に関わる宮次郎右衛門の祖先を掲げ、天正初頃の近衛前久薩摩下向に伴う伊勢備後守の稽古と、島津義虎からの相伝可能性を論じる。伝来する書物・押形を根拠に、二之宮家の技法が本所の型と大きく異ならないとし、家名変更と次郎右衛門・桃庵・次左衛門の関係を付記…

  27. 227 大辰氏

    本文は大辰氏を平姓・木田氏の庶流とし、御大手組に属した大辰新六を掲げるが、その子孫は不詳と記す。

  28. 228 建軍氏

    本文は建軍氏の姓を後考に待つ。義弘の代に建軍猪右衛門が他国から召し抱えられ、他国への使者などを命じられたとする。関ヶ原からの帰国に供奉した者の一人として感状と知行を与えられ、その子孫を建軍十左衛門と記す。

  29. 229 田辺氏

    本文は田辺氏の姓を後考に待つ。友久が田布施を領した時、田布施衆の地頭として田部三河守義弘という者がおり、下賜された御判を複数所持したと記す。その子孫を、当時も田布施士であった田部四郎左衛門とする。見出しの田辺氏と本文の田部氏の表記・系譜関係は要確認である。

  30. 230 須田氏

    本文は須田氏を源姓とする。天正頃、義弘在京中に、奥州伊達政宗の家臣であった須田佐渡と子の伝吉が人質として滞在していたところを召し抱えられたと記す。佐渡は伊達方でも重用され、政宗からの書状を数通伝える。伝吉は関ヶ原からの帰国に供奉して感状・知行を受け、その子孫を須田十郎左衛門とする。また伝吉が田坂氏の…

  31. 231 木山氏

    本文は木山氏を宇治姓・阿蘇氏二男家とし、肥後木山の領知を名字の由来とする。『加藤清正記』を引き、肥後木山城主木山弾正と嫡子伝九郎が天草で戦死したと記す。弟縫殿介が島津家を頼って野田に住み、その家族・貞玄坊・木山与右衛門への継承を述べ、弾正の子孫は当時も野田衆中にいたとする。

  32. 232 芦谷氏

    本文は芦谷氏の姓と先祖を不詳とする。芦谷蔵之允を源太左衛門の養子とし、源太左衛門の父が御台所へ奉公したと記す。家伝では御氏族の阿蘇谷氏が芦谷氏へ改めたとするが、編者はその説を疑わしいと評する。

  33. 233 樋口氏

    本文は樋口氏を平姓とし、木曽義仲家臣樋口次郎兼保の子孫が肥後八代辺に住んだとする。天正期に平田美濃守光宗が樋口飛騨を頼って当地を島津方へ入れ、その後樋口氏が島津家へ参ったと記す。高麗での番船争いによる戦死、樋口牛之介家の男子断絶と女子一人、播州芥川に住む二男家樋口久左衛門など、複数系統の後裔を伝える…

  34. 234 帖佐氏

    本文は帖佐氏を平姓・平出氏の一族とし、大隅国帖佐辺に居住して在名を家号にしたとする。平田氏・帖佐氏を平出宗盛の孫信宗の後裔とする説を掲げるが、編者は時代が不確かとする。帖佐彦左衛門が惟新に仕え、足軽大将として各地を奔走し、惟新の書状を伝えたこと、その子孫次左衛門、天正頃の帖佐三五坊らを記す。

  35. 235 美代氏

    本文は美代氏を息長姓とし、吉田氏の庶流であるとの伝承を記す。

  36. 236 久木崎氏

    本文は久木崎氏の姓を後考に待ち、伊集院内久木崎村の領知を家号の由来とする。北条英時の裁許状や三条侍従の一見状などの証書を伝え、貞久の代に久木崎五郎左衛門・隼人佐らが供奉したと記す。のち一部が平田氏へ改めた理由は不詳とし、久木崎・平田両姓を称した諸流、北村辺の領知、地頭または足軽大将とみられる役儀、兵…

  37. 237 勝目氏

    本文は勝目氏の姓と始祖を不詳とする。勝目兵右衛門が高麗泊館へ検使として派遣され、御門の兵具奉行を務めたとみられること、のち後加嘉入道と称したことを記し、末尾に文章が欠けている可能性を注記する。

  38. 238 種子島氏

    本文は種子島氏を平姓とし、平清盛三代の孫行盛の子・肥後守信基に続く系図を掲げる。北条時政の嫡妻に関わる由緒によって大隅国種子島を領し、伝領の地として家号にしたとする。種子島左近久時入道一栄が竜伯の家老職に補されたこと、当時の嫡家は蔵人家で、ほかの種子島氏は庶流であることを記す。

  39. 239 菱刈氏

    本文は菱刈氏を藤原姓とし、鎌足十六世の関白忠実から宇治悪左府・左中将隆長を経て進士判官重妙へ続く系譜を掲げる。白川帝の院宣に関わる由緒を述べ、建久五年に重妙が菱刈へ下向して以来、菱刈郡を伝領し家号に定めたとする。後代の菱刈伴右衛門重広、伊集院内神殿の領知、嫡家菱刈孫兵衛とそのほかの庶流を記す。

  40. 240 諏方氏

    本文は諏方氏条を大佛姓上井氏の由緒から説き起こす。上井氏は辺田七人の一つで、大隅国上井・下井を領して家号としたという。天文年間に上井武蔵守董兼が永吉郷を領し、嫡子伊勢守覚兼は竜伯の家老として日向海江田、のち高崎へ移されたとする。その子治部経兼の代、上井・諏方両氏は古く同姓であったとの理由から信州諏方…

  41. 241 鎌田氏

    本文は鎌田氏を藤原姓とし、鎌田権守通清の三男蔵人大夫光政を系譜の起点に置く。長兄左衛尉政清が不慮の殺害に遭って相続者がなく、光政が後嗣となったとする。光政の子修理亮政佐とみられる人物が忠久に供奉して薩摩へ下向したとの自家系図を引き、出雲守・治部少輔・蔵人正らの後裔が代々家老職を勤め、当時の嫡流へ続く…

  42. 242 平田氏

    本文は平田氏を平姓とし、先祖肥後房良西が帖佐地頭職にあったことは『東鑑』にも見えるとする。新左衛門親宗、美濃守氏宗・昌宗・光宗、太郎左衛門増宗らが代々家老職を勤め、増宗の弟休兵衛宗親も竜伯の隠居家老を務めたと記す。一方、太郎左衛門に不忠があって兄弟ともに伏誅され嫡家は断絶し、ほかの平田家は庶流である…

  43. 243 本田氏

    本文は本田氏が忠久に供奉して薩摩へ下向したとの伝承を掲げ、もとは平姓で後に藤原姓へ改めたとする。重親、信濃守氏親・元親・重桓、因幡守国親らが代々家老職を勤め、大隅国清水を世襲領知したという。後代、董親と左京大夫親兼父子が貴久に背いたため清水城を攻め落とされ、親兼の子与左衛門公親入道玄比は竜伯の隠居家…

  44. 244 高橋氏

    本文は高橋氏を大蔵姓・秋月氏分流とし、秋月春実の余裔高橋種時が筑前を領したとする。高橋鎮種が吉弘氏の二子を養子として高橋紹運と称させ、のち秋月種実の子元種を養子とした経緯を述べる。天正十四年の筑前岩屋城攻防と紹運の自害、義久による岩屋・宝満両城の宛行、秀吉の西征後に元種が日向県城五万三千石へ移された…

  45. 245 禰寝氏

    本文は禰寝氏を建部姓とし、代々大隅国禰寝院の領主であったとする。沙弥清重入道行西が将軍頼家の下文を受け、その子孫が同地を伝領したこと、禰寝玄蕃守重長の代に旧領と替えて薩摩国吉利郷を拝領したことを記し、当時の嫡家を禰寝徳慈丸家とする。

  46. 246 村田氏

    本文は村田氏を藤原姓とし、菊池領主兵藤四郎経頼の五男村田五郎経秀の子孫とする。後裔が薩摩へ下向し、その孫通善が忠国の代に初めて島津家へ奉仕したとの自家系図を引く。肥前守経房・経玄、越前守経定、右衛門尉経平らが家老職に補され、当時の嫡流村田五郎左衛門経貞へ続くと記す。

  47. 247 三原氏

    本文は三原氏を藤原姓・兵藤大夫経俊の後胤とする自家系図を掲げ、重益入道昌安、備中守重種、左衛門佐重庸らが家老職を勤めたとする。当時の嫡流を三原諸右衛門重泛家と記す。

  48. 248 吉田氏

    本文は吉田氏を息長姓とし、正八幡宮の神官として代々薩摩国吉田院の神領を領したとする。子孫の兼清が家老職を勤め、当時の嫡流を吉田納右衛門経清家と記す。

  49. 249 土持氏

    本文は土持氏を田部姓とし、先祖が筑前国の宇佐八幡宮と読める社で惣弁官を務め、日向国門川を領したとする。門川七郎則綱、正持冠者栄妙から相続し、右馬頭親成は天正五年に義久へ内応した。大友氏が軍を出して県城を攻め落としたため親成は豊後へ退き、のち戦死したという。子の弾正忠久綱は長門国に蟄居したが義久に召し…

  50. 250 山田氏

    本文は山田氏を平姓とし、武蔵三郎左衛門尉有国の嫡子武部少輔有貫が薩摩へ下向して日置を宛行われ、山田村に居住したことを家号の由来とする。子孫山田新助有信、のちの越前守入道理安が竜伯の家老職を勤め、その子民部少輔有栄入道昌巌も家老職にあったと記し、当時の嫡家山田市郎兵衛家へ続ける。

  51. 251 東郷氏

    本文は東郷氏を平姓とし、渋谷太郎光重の二男重保を祖とする。重保と弟五人が宝治年間に薩摩へ下向し、東郷・祁答院・鶴田・入来院・高城をそれぞれ領して、その五家を渋谷五家と称したと記す。当時の東郷氏嫡家を東郷惣左衛門家とし、祁答院氏・鶴田氏の嫡流は断絶、入来院氏は主馬家、高城氏は十郎兵衛家へ続くとする。

  52. 252 志岐氏

    本文は志岐氏を藤原姓・菊池氏同族とし、肥後国天草郡の六ヶ浦を領して志岐城主であったとする。志岐兵藤太郎らの九州軍役、菊池氏衰退後の動向、加藤主計頭清正のもとでの領知を述べる。志岐藤右衛門の妻が薩州義虎の娘であったこと、その子小左衛門親昌が肥後退去後に島津家へ召し抱えられ、後裔志岐数馬へ続いたことを記…

  53. 253 蒲生氏

    本文は蒲生氏を藤原姓とし、豊前国宇佐八幡宮弥勒寺の職掌家に出た上総介宗清が保安年間に大隅国垂水へ下向したとする。その後、蒲生・吉田を領し、八幡宮を蒲生へ勧請して蒲生を家号としたという。蒲生茂濃守忠清父子二代が久豊の家老職を勤めたこと、弘治年間に後裔が貴久へ背いて蒲生城を攻め落とされたこと、のち子孫が…

  54. 254 土岐氏(のち敷根氏)

    本文は土岐氏を源姓とし、元暦年間の後鳥羽院の御代に大隅国小河院敷根村へ居住したとの伝承を掲げる。土岐四郎左衛門国房の代に肥後国求摩へ退去したが、嫡子賢太郎頼房が帰参して敷根村を再び宛行われ、土岐氏から敷根氏へ改めたとする。文禄年間の移住、京都への使者奉公を経て島津の称号と御譜の字を拝領した記事を載せ…

  55. 255 秩父氏(旧伊地知氏)

    本文は平姓伊地知氏から秩父氏へ至る系譜を記す。伊地知弾正季随が五代貞久の代に初めて島津家へ出仕し、三代後の縫殿助季豊が大隅垂水辺を領したとする。縫殿助重周と子周防守重武は家老職を勤めたが、重武嫡子重興は永禄年間に肝付氏へ与党して島津家に背いた。重興の子佐渡守重順は文禄三年に命令違反で領知を召し上げら…

  56. 256 比志島氏

    本文は比志島氏を源姓とし、薩摩へ配流された村上三郎左衛門尉頼重が満家院郡司大蔵氏永平の娘と婚姻して栄尊をもうけたとする。男子のなかった永平が郡司職を外孫栄尊へ付属したため、栄尊は比志島氏を称しつつ実父の源姓も保持して両家を兼帯したという。子孫は天正年間まで郡山・満家院を領し、西俣・川田・前田・辺牟木…

  57. 257 田尻氏(筑後流)

    本文は田尻氏を大蔵姓とし、秋月・高橋・原田の三氏と同族とする。田尻中務大輔鑑種、のち丹後守は筑後の〔瀬川〕と読める城主で、龍造寺山城守隆信に攻められて戦死したと記す。子の嘉兵衛は母方の縁者を頼って豊後で浪人としてしばらく過ごしたのち島津家へ出仕し、子孫は田尻金右衛門に続いたとする。

  58. 258 『御家中諸家大概』書写識語

    『御家中諸家大概』の書写識語で、本文に誤りが多いことを認めながらも、後日の考証材料となる箇所があるため写し置いたと説明する。傍記に寛永元年と三月二十五日の年紀が見える。

  59. 259 酒匂氏

    本文は、忠久が三ヶ国拝領後に下向した際、本田・酒匂・猿渡が供奉者の棟梁であったとの伝承を掲げる一方、編者自身は系図・文書を未見で確定できないと明記する。忠久の御太刀・御母衣や蔵・重物が酒匂利左衛門家に伝わり、潔斎のうえ三乗院快誉法印と平田清右衛門が実見したという記事を載せるが、家紋や由緒書を欠く点も…

  60. 260 猿渡氏

    本文は猿渡氏を平家とし、今回の照合に持参された系図が文書中に含まれるため、求めがあれば上覧に供し得るとする。古い文書はないが、天正頃の猿渡越中と子の掃部は地頭などを命じられてよく仕え、喜右衛門・少左衛門を掃部の子孫とする。別に貞久代の大炊入道休覚が蒲生地頭に任じられ、代々奉公を続け、当時の勘左衛門は…

  61. 261 市来氏

    本文は市来氏を惟宗姓・八文字民部大輔の子孫とし、殊に威厳ある家であったと述べる。市来太郎政家については、国分左衛門尉友政の末子が母方の大蔵姓市来家と市来領を継いで大身となったとの説を載せる。一方、阿曾谷殿の系図と市来氏の系図を比較し、酒匂入道が若狭国三方殿まで赴いて系図を照合したところ阿曾谷方と符合…

  62. 262 執印氏・国分氏・羽島氏・五代氏・平野氏

    本文は執印・国分・羽島・五代・平野の五氏をいずれも惟宗姓とする。執印氏と国分氏の系図は一体で、市来氏系図にも似ると述べる。執印氏は古来、川内新田八幡の社家で、当時は休左衛門を惣領とし、国分氏は彦右衛門、羽島氏は蔵人を惣領とみて伝来文書にも触れる。末吉衆中新兵衛の家が義久以来重用されたこと、平野氏は弥…

  63. 263 二階堂氏

    本文は二階堂氏を藤原南家とし、文永頃に隠岐守が阿多の北方を領して下向したとする。子孫の源右衛門は田布施衆中から約十年前に鹿児島へ移り、北条家の判形や島津家先祖の判形・文書を多数所持していたという。文書伝来の豊富さから、延徳頃までは大きな勢力を有し、その後衰微したとみる。城之介も隠岐守から分かれた一流…

  64. 264 指宿氏・頴娃氏・知覧氏・谷山氏・増山氏・別府氏

    本文は指宿・頴娃以下の諸氏の姓と中世の在地支配をまとめる。現在の頴娃氏を伴氏、知覧・谷山・増山・別府を同姓の平家とし、元弘・建武頃までは各氏が名字の地で栄えたという。指宿氏惣領の左近兵衛は高岡に住み、足利尊氏以来の将軍家御判と島津家代々の御判を多数所持した。鹿児島に住む主税も家文書の写しを持ち、その…

  65. 265 富山氏(源氏・藤原氏二系)

    本文は富山氏に源氏と藤原氏の二家があるとする。源氏富山氏は日向の旧御家人で、衰微後は県土持氏に従い、当時の子孫として〔千持城之介〕を挙げる。富山の妻子を上洛させるよう北条義時が忠久へ命じた書状を前年に提出したとし、ほかにも重要文書を多数伝えたという。同流の富山九右衛門について、曽祖父備中が中書殿に付…

  66. 266 長谷場氏・矢上氏

    本文は長谷場氏と矢上氏を兄弟の系統とし、系図上は藤原純友の後裔に当たるとの伝承を掲げる。難読の地名に続いて矢上城を挙げ、貞久が矢上を退治した際、矢上肥前が出奔して有馬を名乗ったことが同家系図に見えるとする。また長谷場家の屋敷が惣領様に望まれ、福昌寺建立地となったとの由緒を記す。当時の惣領は兵右衛門で…

  67. 267 鮫島氏・阿多氏

    本文は鮫島・阿多両氏を平姓とする。忠久下向の際、三ヶ国の御家人を忠久の家人とする一方で鮫島だけを除外するよう頼朝が命じたとの説を載せるが、証拠文書はないと明記する。鮫島氏は上代に繁栄したものの、世上の系図には源・平・藤原の諸家が混在し、本系図とは認め難いと批判する。日新代の鮫島宗月を武辺者として挙げ…

  68. 268 永野氏

    本文は指宿に住む宮内左衛門を永野氏の惣領とする。系図・文書が焼失して由緒は分からないが、譜代の家とみなし、伊地知氏・本田氏と並んで役を勤めたと記す。

  69. 269 大寺氏

    本文は大寺氏の系図が焼失して古い由緒は不明としつつ、中古以来の記録は一部残るとする。貞久代の美作が武功を挙げ、その後は地頭などを命じられて代々よく奉公したといい、当時の惣領を弥五右衛門、弥兵衛をその庶子と記す。

  70. 270 岩切氏

    本文は岩切氏を日下部姓とし、彦兵衛を惣領、六右衛門を庶子とする。家の祖先は〔亀房殿御作家御相続〕の時に召し付けられたといい、右衛門の家は六右衛門から分かれたと記す。

  71. 271 上原氏

    本文は前代から伊作家に仕えた上原長門を挙げ、日新に特に親しく召し使われたとする。朱書では、近年の休兵衛が上原家文書を多数提出し、観応頃に市来院伊作田を領した兵部大夫道祐の子孫とみられることを記すが、休兵衛自身の長門との続柄には系図がない。筑前と読める人物以来、龍伯に重用され、貴久代には地頭を命じられ…

  72. 272 肥後氏

    本文は肥後氏を平家とし、その系図は種子島氏系図に似るとする。古来、牛根から二川・敷根の間に一所領を持ち、『辺田七人』の一員であったという。勝久代の竹之山地頭助西と読める人物の養子筋が当時の平右衛門で惣領とし、大中に住む助三郎も御判文書を数通所持したと記す。

  73. 273 有馬氏

    本文は有馬氏に藤原純友流と有馬王子流など複数の系統があり、いずれも長く奉公した家とする。なかでも次右衛門家が近年よく召し使われ、次郎右衛門・新右衛門をその庶子の流れと記す。

  74. 274 税所氏

    本文は、曾於郡霧島の神領を支配した者を税所介と称したことを税所氏の由緒とし、代々繁栄したが文明十五年に豊州家から攻められて滅びたとする。後代には子孫の越前入道休心が出頭人となり、御使役を務め、旧由緒を理由に曾於郡地頭へ任じられたという。休心の養子次郎右衛門以後に家が衰え、次兵衛・孫五右衛門らが奉公し…

  75. 275 平山氏

    本文は平山氏を八幡の善法寺二門の流れとし、帖佐の八幡神領支配のため下向し、その子孫が平山城に居住したとする。当時は高岡に住む左京を惣領とした。氏久代に出頭し、二代にわたる養子の約束によって島津家の字を許されたとの系図記事を載せるが、御文書方には裏付けが全くないと明記する。忠国の弟・豊後季久が平山を攻…

  76. 276 和田氏・高木氏

    本文は和田・高木を同姓とし、系図は村田家に似るとする。和田氏は三俣院北方、高木氏は都城内高木村を領し、代々薩州家・北郷家と縁を結んで繁栄したといい、朱書では高木村は当時高城内に属したと記す。嘉吉年中に忠国が退治した一件に関する文書を鹿児島在住者が多数、別家も少数所持したとする。さらに龍伯に親しく召し…

  77. 277 高崎氏

    本文は高崎氏を大友氏の庶流とし、大友家の息女が貞久の御簾中として輿入れした際、高崎氏と小出原氏が輿添えとして供奉したことを由緒とする。小田原氏は総州家に召し付けられ、難読の切腹記事の時まで見えるという。高崎氏は当時の四郎兵衛家で、貞久代以来、地頭などを命じられてよく奉公したと記す。

  78. 278 堀氏

    本文は堀氏について、大友家の息女が忠昌へ輿入れした際に供奉した家とし、その子孫を四郎左衛門と記す。

  79. 279 仁礼氏諸流・楡井頼仲

    本文は仁礼覚左衛門の系図を惟香親王の後裔とする。曽祖父の宮原筑前入道秋扇と読める人物は龍伯代に武功があり、地頭を命じられて奉公し、与三左衛門をその庶子とする。民部左衛門は前年に系図を見せると約束したが未提出で、編者は家筋を判断できないと明記する。その祖父別府信濃や蔵人流について、中納言様への近侍、地…

  80. 280 堀原氏

    本文は堀原氏を平家とし、忠昌が堀原氏を母方としたため忠昌代に特に重用された家とする。備前と称した人物は勝久の家老を務め、惣領の子孫は谷山に住んだと記す。

  81. 281 伊藤氏・伊東氏・木脇氏

    本文は伊藤・伊東両流を元来同じ藤原南家の系統で、伊豆国から生じた名字とする。伊藤氏は古くから島津家に仕え、七左衛門家の祖先が貴久の小野動座に供奉したといい、伊尻と読める小名字を挙げる。伊東氏は日向伊東氏諸流を中心とし、祐経から続く系図、天正五年に伊東三位が没落した後に参入した家と、それ以前から奉公し…

  82. 282 相良氏

    本文は相良氏を藤原南家・球磨相良氏の一族とし、諸家が次第に島津家へ参ったとする。新左衛門家は忠国代から奉公し、もとの小名字を稲富といい、民部左衛門・甚左衛門・主税を庶流とする。源五左衛門家は養父内蔵丞の代に出仕し、養祖父五郎左衛門入道下庵は惟新に近侍して後に地頭を務めた。もとは竹之下を称したが、前壱…

  83. 283 野村氏

    本文は野村氏を佐々木氏流の宇多源氏とする。才右衛門家は長く奉公し、祖父大学の代から地頭、後には御使役を務め、平左衛門・喜右衛門らを庶流とする。野村但馬・太兵衛・市右衛門らは天正五年に伊東家から参入した野村氏の末といい、日向平定時の野村・福永両氏の奉公は周知として詳述を省く。両流は同じ源氏で、福永丹後…

  84. 284 土持氏

    本文は土持氏を日下部姓で、古くから日向国の国人として栄えた家とする。天正十五年には延岡城主であったが、関白下向の際に当時の城之介の養祖父権頭が島津家へ出仕し、権頭の代から地頭を命じられたという。治部左衛門の祖先で伊豆と称した者は勝久の家老を務め、この庶流は本流より早く島津家へ参ったとする。海江田を小…

  85. 285 高橋氏

    本文は高橋氏を大蔵姓・秋月氏同族で、数代筑前に住して一城の主であった家とする。秋月宗吟の二男九郎が高橋氏の養子となって右近大夫を称し、秀吉の下向時に日向国県へ転封されたと記す。七郎右衛門は右近大夫の二男で、慶長十八年の改易後に島津家へ参ったという。義久代に筑前岩屋城で討死した高橋紹運について、右近大…

  86. 286 田尻氏(筑後流)

    本文は筑後流の田尻氏を田尻城主とし、義久代に島津家へ服属を申し入れたものの、龍造寺隆信に攻め殺されたと記す。当時二、三歳だった加兵衛の祖父は乳母に抱かれて逃れ、のち島津家へ参ったという。末尾では、その他の田尻氏はこの家とは別家で、平姓であろうと区別する。

  87. 287 志岐氏(肥後流)

    本文は志岐氏を菊池氏と同族の肥後志岐城主で、『島五人』の一人とする。肥後御退治の頃から島津方の幕下にあったが、清正・小西行長の肥後拝領後、天草一揆に加わって加藤・小西両勢に攻め滅ぼされ、没落したという。当時の藤左衛門の父小左衛門について、和泉義虎の異腹の娘を母とし、その母に伴われて島津家へ参ったと記…

  88. 288 城井氏

    本文は城井氏を宇都宮氏流で、筑前の城井城主とする。天正年間に民部少輔が黒田如水に攻め滅ぼされたといい、義久が九州を手中にした際には早くから島津方の幕下に入ったという。その由緒によって民部少輔の弟弥次郎が島津家へ参って奉公し、当時の三之丞兄弟を弥次郎の孫と記す。

  89. 289 入田氏・戸次氏・立花氏/御家中諸家大概奥書

    本文は入田・戸次・立花の三家を大友氏一族とする。入田宗和の子孫が高岡に住み、新左衛門その他を宗和一門とし、戸次玄珊と読める人物の子孫・平兵衛が近年まで鹿児島府に住んだこと、志賀道益の子孫や高岡・大口の志賀名字の者を挙げる。三家が島津家へ参った由来は周知として詳述を省く。続けて、家中諸家の系図外の人別…

  90. 290 御城代(一名御留守居役)

    本文は御城代を一名御留守居役とし、上古には所見がないとする。家久代、出陣時に島津豊後久賀へ留守居を命じたことが現在の御城代に当たるとの家伝を掲げ、久賀が家久の姉の子であったため委任されたと自家系図に見えるという。ただし正式に御留守居役へ任命されたかは不分明で、光久代まで同じ趣旨の任命が続いたかも不明…

  91. 291 北郷佐渡への御留守役申渡・御城代沿革

    寛文六年八月十七日に北郷佐渡へ渡された御留守役の申渡を中心とする。家老その他が徒党を組み国家の障りとなる場合、幕府への伺いを要する重大案件、国法の維持、刑罰・遠島、隣国との儀礼、非常時、島内・外城の百姓町人の訴願などについて、平時は家老衆と相談し、重大事は承認を求め、緊急時には裁量で処置する権限を列…

  92. 292 佐多豊前の御城代任命・役料・退役

    佐多豊前が覚陽院代に御城代となり、のち御留守居御家老を務めた経緯を記す。大身分で江戸供奉を命じられ将軍への拝謁もあったため、家老役は身分上不相応として免除され、御城代役に専任し、二千石の役料を受け、納戸方・記録方を従来どおり差配するよう元禄十年の申渡で定められたという。続いて正徳・享保期と読める退役…

  93. 293 御家老

    本文は御家老職について、当初の就任者名は明らかでないとし、元久家譜・旧記に見える将軍・留守居・加賀守・右馬助などの人物を初期の家老相当者として検討する。近世には家老を複数に分け、国法・政務の相談合議、諸役人・兵部少輔などの統轄、江戸と国元の政務、異国船・琉球関係を含む重要案件を扱ったことを述べる。さ…

  94. 294 御勝手方掛

    御勝手方掛は上代には明確に見えないとし、役人への主料支給、御納戸方、御隠方・御数寄屋方・御能方、神社仏閣、道橋・食料、琉球方など、財用・用度に関わる広い分掌を列挙する。琉球掛が当初は別役として見えること、のち御勝手方の兼務・分掌となったこと、役人の新納・退役・座次・支配を年代記事と申渡で追う。さらに…

  95. 295 御側詰

    天明五年正月十一日、大目付川上頼母久品が初めて御側詰に任命され、座順を若年寄の上、役料を五百石とされた記事を起点とする。御側詰の配下・兼務として御勝手方掛・御鷹掛・御鳥掛・尾畔掛を掲げ、江戸・国元の双方で奥向に詰め、当主留守中は家老座に詰めること、御勝手方との座次・申渡経路・記録や納戸方との関係を定…

  96. 296 若年寄加役

    若年寄加役が扱う事項として、連歌・作代関係の首尾、鹿児島士・外城士の養子や月延願、月次御礼の出仕断、御番帳、湯治暇願などの取次を列挙し、家老名書で来る申渡を各座へ伝える手順を定める。享保二十年・安永九年・天明六、七年の記事を続け、御書院方・御能方などを大目附支配から若年寄支配へ移したこと、小番の支配…

  97. 297 大目附(初名横目頭・附 口事奉行)

    寛永十四年頃に見える口事聞衆を、現在の吟味に相当する『口事』の是非曲直を聞き届ける役と説明し、口事聞と横目頭が当初は別職であったことを記す。正保・明暦・寛文期の任命・転役を挙げ、のち横目頭が口事聞の職を兼ねたとする。宝永二年には横目頭が御礼日に独礼を許され、御厩方・御書院方・御能方を支配し、宝永四年…

  98. 298 大番頭(初名大御番頭)創設

    安永九年七月に大御番頭職を新設し、同月二十八日に寺社奉行・総頭・御番頭から三名を初任者として任命したことを記す。末尾の『左の通被仰渡候』は、次の文書299に掲げる職務申渡へ接続する。

  99. 299 大御番頭職務申渡・沿革

    大御番頭の役格を寺社奉行同格、座順をその上席とし、給分、寺頭・奏者番、御番帳、神社寺院への内々の参詣、規式、御小姓・御小納戸・御道具端物・出来差引、御前御用、飼物、産物など多様な取次・差引を列挙する。御側詰・御側方との分掌、家老への相談、差引事項を下役へ委ねないこと、当主側近での勤務、兼役・留守時の…

  100. 300 御勝手方添役

    当時は廃止されていた御勝手方添役について、勘定奉行・若年寄支配御用掛・大目附格などから勝手方を補佐した先例を遡って説明する。家老が承る御用と同様の取扱い、勝手方添役という役名の成立、寺社奉行上などの座席、役料、江戸・国元での勤務、兼役・退役・再任を、享保・寛延・宝暦・安永期と読める複数の記事で追う。…