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後編1の目録

旧記雑録 弘治元年~天正12年の文書・記事です。

全1,480件中 401~500件・5 / 15ページ

  1. 後編1-No.398 新納忠元譜

    永禄十年十二月二十九日、市山城将の市来家利・伊集院久慶らが西原で菱刈隆秋方と戦って戦死したため、馬越城にいた新納忠元が市山城守備を命じられたことを記す。忠元には蒲生の采邑が与えられ、大口城を落とした際には地頭とする旨も伝えられた。

  2. 後編1-No.399 新納忠元譜

    菱刈方が大口城一城を保持し相良勢が入って堅固に守っていた時、新納忠元が市山城の番を命じられたことを記す。忠元は当時小身であったが貴久の直命を受け、蒲生の蔵入地を与えられて馬越から市山へ移り、守備を勤めた。

  3. 後編1-No.400 新納忠元譜

    新納忠元が馬越城で四度の槍合わせを行い、狩俣で負傷したことを回想する。馬越城陥落後も大口城が球磨勢の加勢で持ちこたえたため、市山城の守備を貴久から命じられ、蒲生の知行を与えられた。大口が島津方へ入った後は地頭に任じられ、長年その職を勤めたとする。

  4. 後編1-No.401 長谷場越前自記

    永禄十年十二月二十九日、市山口の足軽が評議なく大口城下へ進んだため、球磨・大口勢が数手に分かれて攻撃したことを記す。西原川口で市来家利・平田加賀守・伊集院久慶が防戦したが多勢に敗れて戦死し、敵は市山城下まで迫ったものの、弓・鉄砲で多数を負傷させられて大口へ退いた。

  5. 後編1-No.402 箕輪伊賀自記

    永禄十年十二月二十九日、市山口の足軽が無評議で大口城麓へ近づいたところ、球磨・大口勢が大軍で出撃したことを記す。市来家利・平田加賀守・伊集院久慶は西原川口で戦ったが討死し、敵は市山まで追撃したものの鉄砲で大きな損害を受けて大口へ退いた。

  6. 後編1-No.403 日向記

    永禄十年十二月下旬、肝付氏が頴娃九郎左衛門を使者として伊東方へ送り、菱刈合戦後に島津方が肝付を攻めるとの風聞を伝えた記事。肝付領内の約三十の要害すべてに守兵が必要なため、伊東方に飫肥口か真幸口の一方で軍事行動を起こして加勢するよう求めた。伊東義祐は野尻に滞陣中で、使者を途中に留めて案内者だけを受けた…

  7. 後編1-No.404 島津国史

    永禄十一年の島津領内外の軍事・政治記事を編年で記す。正月には伊東・肝付勢の飫肥攻撃と北郷時久の救援、大口堂崎での敗戦と川上久朗の重傷・死去があり、二月には飫肥への兵糧輸送戦、霧島社領寄進、将軍任命、新納忠元による大口偵察と負傷を載せる。夏以降は伊東・相良両氏の飯野・加久藤攻略計画と島津方の警戒、本地…

  8. 後編1-No.405 島津氏老臣連署状

    島津氏老臣三名が、前日に菱刈方面への出立予定を伝えたものの、球磨領内に逆乱が起きたため、典厩様に軍勢を率いて時を移さず飯野へ赴き、境目の様子を確認するよう強く申し入れた連署状。敷根殿・肝付弾正忠にも同様に伝えたとして、川上・町田両名に心得を求める。

  9. 後編1-No.406 某書状案

    長く音信がなかった相手に飛脚を遣わし、豊後方の状況と使者の長期滞在に触れた書状案。飫肥は当時伊東方の支配下にあるものの内情は不和で、北原方も多くの知行を保持しているため、この機に出張すれば回復できると説く。現在従属する者も将来は敵となり得るとして慎重な判断を促し、詳細は宗綱が述べるとする。

  10. 後編1-No.407 島津貴久譜

    永禄十一年正月二十日、大口方の兵約三千が堂崎へ出た際、義久・義弘ら若武者が方位・時日を考えずに敵へ向かい戦闘となった記事。敵の多勢に押されて島津軍は敗れ、多数が戦死・負傷した。義弘は前後左右を囲まれながら何度も返し合わせて戦い、大河を渡って曽木へ退いた。

  11. 後編1-No.408 島津義久譜

    永禄十一年正月二十日、大口城の球磨・葦北・八代勢が城外へ出たため、義久・義弘が戦おうとしたが、貴久は無評議の出勢を軍法に反するとして川上久朗に制止させた。すでに先陣が接戦していたため久朗・義弘が殿となり、別府安芸守ら敵の先鋒と激戦した。久朗は七箇所の深手を負い、義弘も諸将と退路を支え、義久・貴久の援…

  12. 後編1-No.409 島津義弘譜

    永禄十一年正月二十日、義弘が少数の精兵で大口方を誘い出して戦った経過を記す。敵先鋒の別府安芸守らに対し義弘が弓で応戦し、川上久朗も奮戦して重傷を負った。島津軍が退く際、義弘は殿となって追撃兵を繰り返し退け、歳久・伊集院久治らの来援で曽木城へ退却した。貴久は援軍を率い、進まなかった梶原某を追放した。

  13. 後編1-No.410 島津歳久譜

    永禄十一年正月二十日の大口合戦で、義弘・川上久朗らの戦況が不利と聞いた歳久が、伊集院久治とともに急行して強敵と戦ったことを記す。別路から敵兵が押し寄せ、長野仲左衛門尉・下島甚左衛門尉が戦死したが、伊東右衛門尉・有川貞員らの働きもあって義弘を曽木城へ退かせた。歳久は戦功により河原毛の馬を与えられた。

  14. 後編1-No.411 北郷時久譜

    永禄十一年正月、伊東勢が篠小峯に陣して飫肥本城を囲んだため、北郷時久が酒谷へ援軍を出し、二十一日に本城勢と挟撃して伊東勢を破ったことを記す。二月二十一日の兵糧輸送戦では北郷忠俊・本田親豊・土持頼綱ら多数が戦死し、酒谷・本城は飢餓に陥った。貴久の命を受けた北郷忠徳が和議を進め、六月に飫肥を伊東氏、福島…

  15. 後編1-No.412 川上久朗譜

    永禄十一年正月二十日、大口城から出た球磨勢との戦いで、貴久が無評議の出勢を戒めたにもかかわらず先陣が接戦したため、川上久朗が義久・義弘を守って殿軍を務めた経過を詳述する。久朗は別府安芸守らと戦って七箇所の傷を負い、家臣に助けられて退いた。両将から軍功を感謝された後、二月三日に三十三歳で死去した。

  16. 後編1-No.413 川上久朗譜

    川上久朗死去後の孟蘭盆に、伯囿貴久が川上久辰の私宅を訪れ、亡霊供養の連歌発句を詠んだことを記す。久朗の名を句中に織り込んだ追悼であり、遺族への厚い施しと評する。

  17. 後編1-No.414 川上久朗譜

    菱刈平定後、島津義久が新納刑部大輔忠元に命じ、大口麓に兵順庵という寺を建立して川上久朗の菩提寺としたことを記す。のち寺社領が欠落した際に同寺は廃却された。

  18. 後編1-No.415 羽作瀬合戦戦死者交名

    永禄十一年正月二十日の大口・羽作瀬合戦で戦死・負傷した将兵を列挙する交名抄。川上久朗、西郷新八、長野仲左衛門尉、下島甚左衛門尉、蒲地越中守、有馬又次郎らの名を掲げ、一部には所属・死去日・馬越での戦死などの注記を付す。

  19. 後編1-No.416 永禄十一年戦死者交名

    永禄十一年二月二十一日の飫肥方面の合戦を中心に、同年各月の戦死者を日付別に列挙する交名抄。北郷忠俊・久周、本田親豊、土持頼綱、和田匡郷ら多数のほか、三月九日の寺山直久、同月二十三日の佐多経久、八月・十二月の戦死者を記す。

  20. 後編1-No.417 羽作か瀬合戦従軍者交名

    永禄十一年正月二十日の羽作瀬合戦で戦功を挙げた将兵を中心に、その後の大口・曽木方面の戦闘参加者を併記した交名。義弘・歳久の退却を支えた遠矢良堅、財部盛弘、入来院筑後守、伊集院久治ら、二月二十八日の小苗代原で戦った忠元・兼寛ら、三月二十三日の曽木城防衛・永福寺口守備の人々を列挙する。

  21. 後編1-No.418 庄内平治記

    永禄十一年正月、伊東氏が大軍で飫肥本城・酒谷間の篠ケ峯に陣し交通を遮断したことから、北郷時久が酒谷へ出陣して本城勢と挟撃し、一月二十一日に伊東勢を破った経過を詳述する。二月の兵糧輸送戦では島津・北郷方が敗れて多数が戦死し、本城は人肉を食するほど飢えた。北郷忠徳が和議をまとめ、六月八日に飫肥を伊東氏、…

  22. 後編1-No.419 年代記

    永禄十一年六月八日、飫肥を伊東氏へ、福島を肝付氏へ渡し、島津忠親が都城へ退いたことを記す。同年十二月十三日に島津忠良が七十七歳で死去し、法名常潤、道号梅岳としたこと、一乗院が入洛して織田信長の援助を受けたことも載せる。

  23. 後編1-No.420 長谷場越前自記

    永禄十一年正月二十日、馬越から出た島津勢が大口方と羽作瀬で戦った経過を詳述する。川上久朗が飛田瀬で奮戦して戦死したと伝え、義弘は弓で敵先手を退けて味方を渡河させ、自ら殿を務めた。追撃兵の長槍を甲に受けながら多数を討ち、義久・貴久の援軍到着によって敵が退いた。長野仲左衛門尉・下島甚左衛門尉らの戦死や梶…

  24. 後編1-No.421 箕輪伊賀自記

    永禄十一年正月二十日の大口・羽作瀬合戦を詳述する。川上久朗が飛田瀬で敵を支え、義弘は弓で応戦しながら殿を務め、難所の大河を渡った。追撃兵に囲まれた義弘は甲に多数の鑓を受け、家臣に助けられて渡河し、長野仲左衛門尉・下島甚左衛門尉らが戦死したが、義久・貴久の援軍到着により敵は退いた。

  25. 後編1-No.422 友野元真奉公覚書

    菱刈馬越城攻めの際、友野元真が敵四人と斬り合い、そのうち一人を討ち取ったことを記す奉公覚書。証人として四本越中守を挙げる。

  26. 後編1-No.423 島津義久寄進状

    島津義久が大隅国曽於郡内の坂上之門を霧島社領として寄進した文書。田地の内訳は別紙坪付に記すとし、後代の証拠として寄進状を発給する。

  27. 後編1-No.424 島津義久書判坪付

    霧島社領として寄進した大隅国曽於郡坂上之門の田地を列挙した坪付。岩尾田・池田・松之木田・田中田・萩原などの各筆と面積を記し、島津義久が書判を据える。

  28. 後編1-No.425 島津義久書状

    島津義久が樺山玄佐へ新春の賀意を伝え、平和泉に長く滞在する老齢の玄佐の苦労をねぎらった書状。往還が不通で互いに気遣わしい状況であるため、この意向を新納殿・兵部太輔殿・比志島美濃守ほか各所の人衆にも伝えるよう求める。

  29. 後編1-No.426 川上忠智・有川貞則連署知行目録

    川上忠智・有川貞則が、日向国真幸院内の大河平所について皆越六郎左衛門尉に示した連署の知行目録。

  30. 後編1-No.427 志岐麟泉書状

    志岐麟泉が新年の賀意を述べ、前年冬以来、島津貴久が菱刈領で在軍していると聞き、勝利を祝した書状。後代まで相談し合い、同心忠貞を変えないと誓い、吉例の印として弓五張を贈って披露を求める。

  31. 後編1-No.428 島津忠長譜

    永禄十一年二月二十八日、島津忠長と肝付兼寛が馬越城から市山城へ赴き、新納忠元と大口城攻略を相談した後、小苗代原で敵の偵察兵と遭遇した経過を記す。忠元・兼寛・忠長らが応戦し、新納久継が負傷、面高真連坊が鉄砲で敵将を倒した。忠元は白坂で戦って左脇を刺されたが城へ退き、城壁を越えようとした敵三人を守兵が討…

  32. 後編1-No.429 新納忠元勲功記

    永禄十一年二月二十八日、小苗代原で敵が不意に出た際、新納忠元が薬師堂の板に詩句を書き終えるまで動かず、家臣久保勝八に引き退かされた直後、竹添丹後守の鑓で左脇を突かれた逸話を載せる。忠元はなお敵三人を討ち、自身も六箇所の傷を負ったため、貴久から使者を通じて感賞と見舞いを受けた。三月二十三日の曽木・市山…

  33. 後編1-No.430 島津氏老臣連署状

    菱刈四郎が曽木を差し上げ、現地の知行がまだ落ち着かない状況を受け、島津氏老臣三名が新納忠元の以前からの奉公を上聞に達したと伝える連署状。その忠節への褒賞として花北一所をまず与える旨を早々に申し渡し、追加扶持も上意によるとして疎略のないよう求める。

  34. 後編1-No.431 長谷場越前自記

    永禄十一年二月二十八日、小苗代原で大口方の大軍と戦った経過を詳述する。肝付兼寛が諸軍を指揮し、新納久継が負傷、鎌田政年が敵中で下知を行い、面高真連坊が鉄砲で敵将牧野を倒した。新納忠元は白坂口で的場五藤と戦って数箇所の傷を負い、求麻方の勇士三名を守兵が討った後、貴久の使者から軍忠と市山在番への感謝を伝…

  35. 後編1-No.432 箕輪伊賀自記

    小苗代原へ出た新納忠元が薬師堂を拝み、堂の板へ歌を書こうとしている間に敵が迫り、家臣久保筑左衛門・尾崎能登に引き下ろされたことを記す。忠元は白坂口で八代の的場五藤兵衛と太刀で戦って顔にも傷を負い、春成外記が弓で敵を射伏せた。求麻方の東藤左衛門・愛甲助三郎らが突入したが、鎌田壱岐守らが討ち取り、寄手は…

  36. 後編1-No.433 箕輪伊賀自記

    小苗代原合戦の別方面で、馬越・加治木・市来・伊集院・川辺勢が敵二千余騎を受け止め、肝付兼寛が軍配を執ったことを記す。新納久継が負傷する一方、鎌田政年が敵味方の間を駆けて指揮し、面高真連坊が鉄砲で八代の牧野次郎左衛門を倒し、田実右京亮がその首を取った。日暮れに双方が退いた。

  37. 後編1-No.434 長谷場越前自記

    永禄十一年三月二十三日、球磨・大口・入来院・祁答院・東郷勢が曽木城を攻めたが、城将宮原景種・越中守と佐多勢が防いだ経過を記す。敵は曽木を退いて市山城へ向かい、負傷療養中の新納忠元が出陣して白坂口を守った。さらに永福寺口で本田掃部兵衛尉・河野玄蕃允・長谷場菊四郎らが防戦し、敵将を鉄砲で倒して退却させた…

  38. 後編1-No.435 箕輪伊賀覚書

    永禄十一年三月二十三日、相良・菱刈・入来院・東郷・祁答院勢が曽木城を攻めた際、宮原景種・越中守と佐多山城守らが防戦したことを記す。敵は攻めあぐねて市山城へ転じたが、手傷を負っていた新納忠元が白坂口へ出て迎撃し、永福寺口でも本田掃部兵衛・河野玄蕃允らが戦ったため退いた。

  39. 後編1-No.436 豊州島津忠親譜

    永禄十一年、島津忠親が飫肥を伊東氏へ、福島を肝付氏へ渡し、子の朝久とともに庄内都城へ退いて以後同地に居住したことを記す。本文には月を四月とする記載と六月八日とする異本注がある。

  40. 後編1-No.437 島津貴久書状

    島津貴久が飫肥へ遣わした使者の帰着を伝え、志布志を放棄すべきではないと述べた書状。北郷氏へ末吉を渡すなら志布志の番も北郷氏から受け取り、飫肥・酒谷の番は島津方が受け取るよう談合したとする。現地人衆は反対しており、大事であるため相談すべく一、二日中の来訪を待つ。

  41. 後編1-No.438 島津日新忠良鑑札

    島津忠良が今泉寺宝生院に対し、現任の一乗院住職の後は宝生院が同院主となることに異論がないと定め、後日の証拠として発給した鑑札。

  42. 後編1-No.439 島津貴久譜

    永禄十一年五月、山野・平泉・羽月の守兵交代を狙って敵が伏兵を置いたため、遠方の兵の危難を考え、球磨方へ和議を求めたことを記す。山野を相良氏へ渡す条件で弓箭を収め、相良氏もこれを受け入れた。

  43. 後編1-No.440 長谷場越前自記

    永禄十一年五月上旬、山野・羽月・平泉の番替を大口方が狙って伏兵を仕掛けたため、日新が山野を相良方へ渡して一時和睦するよう勧めたことを記す。味方を多く失えば戦いの進め方が悪くなるとして、天意が巡れば敗れても後に勝てるとの判断から、相良氏との和議を成立させた。

  44. 後編1-No.441 箕輪伊賀覚書

    永禄十一年五月上旬、山野・羽月・平泉の番替えが行われる時機を狙い、大口城から野伏が仕掛けられたことを記す簡潔な覚書。

  45. 後編1-No.442 島津義久譜

    本文ではNo.460記事の前半と同文のため省略される譜中記事。大口方の勢力が増して島津方の戦死者が多くなったことから、日新の意見に従い、山野を相良氏へ渡して和睦を成立させた内容に当たる。

  46. 後編1-No.443 島津義久譜

    山野をめぐる和睦後、相良氏・菱刈氏が出水の感応寺を仲介者として、島津方へ改めて和議を求めたことを記す短い譜中記事。

  47. 後編1-No.444 島津義久起請文

    島津義久が北郷時久に対し、世上がどのように変動しても今後疎意を持たないこと、善悪について真偽を見極め一味同心すること、雑説が起きた際は互いに打ち明け合うことを誓った起請文。違反すれば天帝・四大天王、日本国中の神祇、諏訪大明神、大隅正八幡、霧島六所権現などの罰を受けるとする。

  48. 後編1-No.445 足利義昭御内書

    足利義昭が入洛に当たり、殿料を諸国へ申し遣わしているため、島津義久にも奔走するよう命じた御内書。詳細は細川藤孝が申し伝えるとする。

  49. 後編1-No.446 島津義久譜

    将軍足利義昭の入洛に伴う殿料催促として、前年六月十六日付で発給された御内書が、永禄十二年正月三日に島津義久のもとへ到着したことを記す。

  50. 後編1-No.447 島津日新譜

    永禄十一年七夕、日新が身分の高低を問わず、七夕には四方の人々が衣手を数えるという趣旨の和歌一首を詠んだことを記す。

  51. 後編1-No.448 庄内平治記

    永禄十一年八月、島津忠親が北郷氏と肝付氏の和睦を進めた経過を記す。八月八日、北郷右衛門尉・土持美濃守と忠親の使者餅原越後守入道が末吉へ赴き、肝付一族らと会談して和議を成立させた。二十日に肝付刑部少輔が都城へ祝賀に来訪し、二十四日には北郷久臓が串良へ返礼に赴いた。

  52. 後編1-No.449 雑抄

    永禄十一年八月九日、伊東氏が相良氏と結び、飯野近くの桶比良に陣を置いた際の記事。加久藤・馬関田の百姓が心変わりして飯野城を犯そうとしたため、義弘が守備を固めた。伊東陣を嘲る狂歌一首を札に書き、密かに陣下へ立てたとする。

  53. 後編1-No.450 島津貴久譜

    永禄十一年八月九日、大口方が前約に背いて堂崎の通路へ陣を築き、伊東義祐も相良氏と結んで飯野桶比良へ陣を構えたことを記す。加久藤・馬関田の百姓が敵方へ心変わりしたため、義弘が飯野の守備を固め、桶比良攻撃を企てたが長雨で実行できなかった。島津方の武士が伊東陣を嘲る狂歌を陣下へ立てた。

  54. 後編1-No.451 島津義弘譜

    永禄十一年八月、伊東氏が相良氏と結び桶比良に陣を置いたため、島津義弘が飯野の守備を固めた。皆越六郎左衛門から伊東・相良両氏の加久藤・飯野攻略計画が遠矢下総守へ密告され、島津方は大明司へ虚報を流して対抗した。貴久は長雨のため桶比良攻撃を断念し、義弘は皆越夫妻を河原口で迎えて大川平を与え、九郎の後嗣とし…

  55. 後編1-No.452 長谷場越前自記

    永禄十一年八月十九日、大口勢が堂崎の通路に陣を構え、伊東勢も桶比良に進出して加久藤・馬関田の村々へ放火した。貴久・義久は菱刈表から援兵を送り、伏兵で誘い出そうとしたが大雨で失敗した。のち大口方が田中河内に伏兵を置き、番替え中の川上丹波守・堀之内某を討ち、救援した是枝大膳坊も戦死した。長陣に疲れた相良…

  56. 後編1-No.453 箕輪伊賀覚書

    永禄十一年八月十九日、大口勢が深水三河守を大将として堂崎に陣を取り、伊東勢も桶比良へ進出した。義弘は飯野へ戻り、菱刈表から援兵が送られたが、大雨で誘引・伏撃策は実行できなかった。大口方は馬越・田中河内で番替え部隊を襲い、川上丹波守・堀之内二郎左衛門と是枝大膳坊が戦死した。日新は長陣と損耗を避けるため…

  57. 後編1-No.454 伊作善勝寺由緒書

    菱刈・大口出陣の際、洲河の水が深く人馬が渡れなかったため、日新が馬上で水天へ誓願したところ、一夜で水が浅くなり軍勢が渡河して菱刈城を攻略できたとする。誓願の霊験を三州に広め、伊作善勝寺へ水神を勧請して島津家末代の守神とした由緒を記す。

  58. 後編1-No.455 島津伯囿貴久書状

    島津貴久が蒲生清貞の前年以来変わらぬ境目警固を比類ないものと賞し、近頃の変事については屋形と相談して判断すると伝えた書状。当面の行動は延期するよう分別を求め、詳細は馬越からの使者が申し伝えるとしている。

  59. 後編1-No.456 北郷時久譜

    永禄十一年十月、島津忠親が北郷家と肝付氏の和睦を取り計らったことを受け、島津義久が北郷時久へ御内書を与えた経緯を記す。本文に続くNo.457がその御内書正文である。

  60. 後編1-No.457 島津義久書状

    島津義久が、北郷時久と肝付氏との和睦の企てを肝要と認め、肝付方が島津家に対する義久の憤りを疑っているならば、今後真実に親交を結ぶ以上、偏った扱いはしないと説明し、相手方を納得させるよう求めた書状。

  61. 後編1-No.458 島津義久証状

    島津義久が島津義弘に対し、かねて約束した祁答院の交替について、今は実施しがたいので翌年まで延期することへの了承を求めた証状。翌秋には必ず移すとして、約束に相違しないことを保証する。

  62. 後編1-No.459 島津貴久譜

    大口方の勢力が増すなか日新が重病となり、義久が馬越城で諸所を警戒し、貴久は十一月に菱刈から加世田へ移って看病した。その隙に敵が川上丹後守・堀内某を討ち、救援した是枝大膳坊も戦死した。相良・菱刈両氏は感応寺を介して和睦を求めたが成立前の十二月十三日に日新が七十七歳で没した。貴久は日々供養し、翌年の四七…

  63. 後編1-No.460 島津義久譜

    大口方の勢力増大と島津方の戦死者増加を受け、日新の意見に従って山野を相良氏へ渡し和睦した。その後、菱刈方は堂崎に陣を築いて平泉への通路を断ち、田中川内の伏兵が番替えの川上丹後守・堀内氏を討った。相良・菱刈両氏は感応寺を介して再三和睦を求めたが、許可される前の永禄十一年十二月十三日に日新が没した。貴久…

  64. 後編1-No.461 島津日新譜

    永禄十一年十二月、病床の日新が生死を詠んだ和歌や辞世偈を示し、近臣らが涙した最期の様子を記す。日新は重病中も父母の忌日法要を怠らず、十三日には香華を供えて観法を修したのち、群臣に辞世偈を唱えた。嘆く一同に生死は誰にもある二度の大事であるから悲しむなと諭し、七十七歳で没した。法号を梅岳常潤在家菩薩とす…

  65. 後編1-No.462 島津日新譜

    日新没後の十二月十九日寅刻に葬列を整え始め、未刻に荼毘場へ赴いた葬儀を記す。荘厳は美麗で、佐多殿・北郷殿らが諸役を勤め、導師俊安雄和尚が松明を掲げて法語を唱え、読経・念誦ののち火葬を執行した。

  66. 後編1-No.463 島津日新譜

    日新の死に際して十数人の家臣が追腹を望んだが、貴久が後嗣断絶を伴う厳禁の高札を立てたため、殉死は止められた。ただし二十年前から主君に誓約していた中条二郎右衛門と満留郷右衛門だけは禁制の対象外とされ、市来・加世田でそれぞれ自害し、日新とともに火葬された。

  67. 後編1-No.464 島津貴久祭文

    島津貴久が父日新の荼毘に際して捧げた祭文。日新を儒門の君子・島津家の英傑として、その至徳至誠、薩摩・大隅・日向三州の統治、忠貞な者の登用と不肖の退け、文武と仏法への通達をたたえ、没後の冥福と西方浄土への往生を祈る。

  68. 後編1-No.465 島津日新譜

    日新の一七日中陰に位牌前を錦繍・綾羅で荘厳し、百八十余人の僧を招いて大乗法華経の供養を行ったことを記す。追悼の詩歌は数百・数千に及び、すべては記録しきれないとする。

  69. 後編1-No.466 島津日新譜

    玉泉寺に伝わる日新の正御影と、その画像に添えられた賛を記す。日新を儒門の君子として、禅・儒・道の理に通達し、三教を一つにした人物と称える。後世の注記では画像の寸法や向き、賛文の読み方を示している。

  70. 後編1-No.467 樺山玄佐自記

    日新の病状が重いなか、弓箭が一時静まったので樺山玄佐が馬越へ赴き、霧島法印に曽於郡預進後の御礼や小窪名寄進などを約した。その後加世田へ戻って文宗の番を勤めている間、永禄十一年十二月十三日に日新が死去したこと、貴久は看病のため十一月から加世田に滞在していたことを記す。

  71. 後編1-No.468 島津義久追悼和歌

    幼少時から養育され、文武二道を教えられた祖父日新の死を悼み、島津義久が永禄十一年十二月二十一日に捧げた追悼文と和歌。「けさは日のあらたなりつる影もはや/西なる空に雲かくれつゝ」と詠み、日新を日の光になぞらえて西方への逝去を悲しむ。

  72. 後編1-No.469 島津義久追悼和歌

    本文書はNo.468と同文のため省略され、日新を日の光になぞらえた島津義久の追悼和歌だけを異本の表記で掲げる。「今日ハ日の新なりつる影もやゝ/西なる空に雲かへれつゝ」とする。

  73. 後編1-No.470 北郷一雲時久書状

    北郷時久が喜入季久に、飫肥・福島境では大きな変化はないが、福島浦の都井で勝利し敵七十人ほどを討ち取ったと報じた書状。先の返書への礼を述べ、屋形が当地へ来訪して軍事相談中であることを知らせ、遠隔地ながら今後も支援してほしいと頼んでいる。

  74. 後編1-No.471 島津忠平義弘書状

    島津義弘が到着後しばらく音信を欠いたことを詫び、近況を尋ねた書状。暇な時に訪ねて昔話などをしたいと面会を望み、仰せに従って軽微ながら品二つを贈るとして、隔意のない交誼を求めている。

  75. 後編1-No.472 島津貴久追悼和歌

    日新の死から四十九日となる正月末、島津貴久が「南無地蔵菩薩」の各字を句頭に置いて捧げた八首の追悼和歌。避けられない別れ、残る面影、親の慈愛、日数の移ろい、煙となった人の行方を詠み、乱れない最期だけを慰めとしている。

  76. 後編1-No.473 島津貴久追悼和歌

    No.472と同じく、日新の四十九日に島津貴久が「南無地蔵菩薩」を句頭に置いて詠んだ八首を、別写本の異同を含めて掲げる。後世の注記は、古い写しには伝写の誤りが多いため御譜中から改めて写したと説明する。

  77. 後編1-No.474 島津国史補注

    永禄十一年の小苗代原の記事に関する補注。小苗代原には現在も薬師堂があり、土地の人々が古くから魚を供えて祭っているとの伝承を記す。

  78. 後編1-No.475 島津国史

    永禄十二年の主要事件を編年で記す。琉球漂流民送還への謝状、相良・菱刈両氏との和睦と蒲池越中守殺害による破綻、羽月城救援、戸神尾・稲荷山の伏兵による大口勢撃破、祁答院長野城攻略、伊東軍の桶比良・田原撤退を載せる。八月以降は大口城を包囲し、相良・菱刈方の降伏を受けて質を交換、九月十八日に義久・義弘が入城…

  79. 後編1-No.476 殉国名薮

    永禄十二年に島津方で戦死・討死した者を月日別に列挙する。正月三日から十一月二十七日まで、三月十八日の蒲池越中守ら、五月二十三日・二十五日の伊地知重次、貴島源五郎ら、多数の家臣・従者の名と一部の戦場・討死事情を記す。

  80. 後編1-No.477 新納旅庵長住譜

    新納長住は幼少時に剃髪して時衆の僧となり、永禄十二年、十七歳で加世田を出て上方へ赴き、遊行上人に随従した。諸国を十七年間巡歴した功により、肥後八代の荘厳寺住持職に補任され、同寺を管理した。

  81. 後編1-No.478 琉球国三司官書状

    琉球国三司官が、前年初夏に年貢物輸送中の太平島船が逆風で加世田片浦へ漂着した際、乗員を保護して琉球へ送り届けた島津方の厚意に謝した書状。古来の盟約が続くものとして両国の往来を望み、使節として天龍寺僧官を派遣し、国王からの綿織物六端などを贈っている。

  82. 後編1-No.479 島津貴久譜

    前年から相良・菱刈方が求めていた和睦は、日新没後の永禄十二年正月二十日に成立した。しかし三月十八日、大口城を守る深水頼兼が平泉へ向かう蒲池越中守と従者十七人を殺し、往来は再び断絶した。島津方は羽月城に肝付兼寛・新納忠元を置き、五月六日、家久を囮として戸神尾・稲荷山の伏兵へ敵を誘導し、前田豊前守らが四…

  83. 後編1-No.480 島津義久譜

    永禄十二年正月二十日に大口方との和睦が成立したが、三月十八日に深水頼兼が蒲池越中守主従十七人を殺害し、再び敵対した。義虎が維持できなくなった羽月城へ肝付兼寛・新納忠元を派遣し、五月六日、家久が大口城下で敵を挑発して戸神尾西まで誘い出した。戸神尾・稲荷山の伏兵が前後を遮断して敵を破り、百三十六の首級と…

  84. 後編1-No.481 島津義久譜

    本文は「全上」とのみ記され、直前のNo.480と同文であることを示す省略記事。和睦破綻後、家久を囮として戸神尾・稲荷山の伏兵へ大口方を誘い、百三十六の首級を得て敵勢を削いだ内容に当たる。

  85. 後編1-No.482 箕輪伊賀覚書

    永禄十二年正月二十四日、馬越で島津・相良双方の重臣が会合し、和談成立を祝った。島津方が「東西南北の敵を安く平らぐ」と弓謡を歌うと相良方が不快感を示したため、鎌田尾張守が座興で収めた。しかしほどなく深水頼兼が手切れの証拠を示し、和議は破綻したと記す。

  86. 後編1-No.483 島津義久譜

    本文はNo.480記事の前半と同文のため省略される。永禄十二年正月の大口方との和睦成立から、三月十八日に深水頼兼が蒲池越中守主従を殺害して再び敵対するまでの内容に当たる。

  87. 後編1-No.484 島津義久譜

    本文はNo.480記事の後半と同文のため省略される。羽月守備と、家久を囮に戸神尾・稲荷山の伏兵で大口方を破り、百三十六の首級を得た合戦の内容に当たる。

  88. 後編1-No.485 島津義久譜

    本文は後掲No.506記事の前半と同文のため省略される譜中記事。大口城包囲から相良・菱刈方の降参、人質交換へ至る部分を参照するものとして収録されている。

  89. 後編1-No.486 島津義久譜

    本文は後掲No.506記事の後半と同文のため省略される譜中記事。大口城受取、新納忠元の大口地頭・武蔵守任命、諸城への守兵配置と菱刈氏安堵に関する部分を参照する。

  90. 後編1-No.487 島津忠辰譜

    島津勝久の男子忠辰の系譜記事。初名を忠親、通称を又七郎・兵部大輔、号を亀山・如雲融淵とし、永禄十二年三月十三日に日向国で福永氏を母として生まれた。兄二人が僧となったため末子ながら父家を継ぎ、寛永十三年に死去したとする。

  91. 後編1-No.488 島津忠隣譜

    島津義虎の二男忠隣に関する系譜記事。永禄十二年三月に出水屋地で生まれ、男子のなかった島津歳久の嫡女と婚姻し、歳久家を継承したことを記す。

  92. 後編1-No.489 新納忠元勲功記

    羽月城救援後、新納忠元・肝付兼寛が島津家久と相談し、永禄十二年五月六日に戸神尾・稲荷山・白木河内へ伏兵を置いた。家久が兵糧輸送を装って敵を誘い、前後から挟撃して百三十六首を得た。八月の大口包囲と九月の降伏後、忠元は大口地頭・菱刈両院惣押となった。さらに喜入季久の家存続を願う伊勢・愛宕への立願、忠元の…

  93. 後編1-No.490 長谷場越前自記

    永禄十二年三月十八日、深水頼兼が平泉へ向かう蒲池越中守主従十七人を討ち、和議が破綻した。平泉は後方を山野、前方を大口に挟まれ通路も断たれたため撤収も検討されたが、肝付兼寛・新納忠元は、平泉を捨てれば羽月一城では大河を隔てて維持できないとして百日間の守備を申し出た。義久が諸軍へ呼びかけると多数の兵が進…

  94. 後編1-No.491 箕輪伊賀覚書

    蒲池越中守主従の殺害で平泉への通路が断たれ、平泉撤退も議論された。肝付兼寛・新納忠元は、山野を譲っても百日足らずで蜂起した相良方へさらに譲歩すれば横川・加治木・帖佐・真幸まで脅かされると反対し、二人で平泉を百日守って勝負を決すると申し出た。義久が感賞して募兵すると数百人が応じ、三月末から両人を番大将…

  95. 後編1-No.492 島津義久宛行状

    島津義久が喜入季久の勲功を賞し、大隅国菱刈院内の花北名を給分として宛行い、速やかに知行するよう命じた宛行状。

  96. 後編1-No.493 原口権太夫宛坪付

    原口権太夫へ与えられた田地の坪付。和田名・桜田・福元名・瀬々串などにある祭田を、霜月二十日・正月十五日・五月五日の祭礼別に列記し、合計一町六段とする。

  97. 後編1-No.494 大口戸神尾合戦従軍者交名

    永禄十二年五月六日の大口戸神尾・稲荷山伏兵戦に参加した島津一門・諸将を列挙する交名。島津義久・貴久・家久、新納忠元、肝付兼寛、大野駿河守、宮原景種、前田豊前守らを掲げ、同月二十五日の祁答院長野城攻めで勇功を挙げた比志島氏、新納久鏡、鎌田政年らも付記する。

  98. 後編1-No.495 長谷場越前自記

    五月六日、家久を一番の伏兵大将として戸神尾に、大野・宮原勢三千騎を稲荷山に置き、番替え部隊を餌に大口・相良勢を誘った。敵が荷物を奪おうと戸神尾へ殺到すると、家久の合図で伏兵が起こり、前田豊前守を太刀初めとして敵を崩し、百三十六首と捕虜一人を得た。家久の装束・武具・月毛の馬を詳しく描き、その姿を摩利支…

  99. 後編1-No.496 箕輪伊賀覚書

    五月六日の戸神尾合戦を詳述する。家久が兵糧輸送を装い、三十余騎で大口方数千騎を誘引した。伏兵が早く起とうとした際、忠元・兼寛が団扇で制して好機を待ち、家久が敵中深く引き込むと一斉に挟撃した。相良・菱刈方は大敗し、武将の首百三十六、雑兵の首八百余を数え、討ち漏らされた者は大口城へ籠った。

  100. 後編1-No.497 大村重頼古戦書付

    五月六日、平泉戸神尾の一戦で相良勢二百余騎を討ち取り、菱刈・大口を島津方の知行としたことを記す。のち新納忠元を大口へ移し、菱刈鶴千代を島津旗下に入れて少分の知行を与えたとする。