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後編1の目録

旧記雑録 弘治元年~天正12年の文書・記事です。

全1,480件中 1001~1100件・11 / 15ページ

  1. 後編1-No.993 日向記

    豊後勢集結の日、島津方が石城を攻め、城方も昼夜防戦した。稲津孫八郎・福永宮内少輔はたびたび鑓を合わせ戦死し、山田土佐守・宮田太郎次郎・長倉勘解由左衛門は分捕りの高名を挙げた。しかし豊後の軍事行動が遅れて救援を得られず、九月二十九日に石城を捨てた。

  2. 後編1-No.994 彦山法印豪継書状

    本文はNo.860と同文につき省略されている。彦山般若坊法印豪継が日向出陣の勝利を祝い、今後の武運長久を祈る目録二通を島津義久へ進上するので披露してほしいと依頼した書状。

  3. 後編1-No.995 足利義昭公帖

    足利義昭が明讃首座に、先例に従って薩摩国鶴田大願寺の住寺職を執務するよう命じた公帖。

  4. 後編1-No.996 佐多大和守等連署状

    佐多大和守・寄田内記允・市来加賀守が専修寺へ、天正三年に近衛前久が出水へ下向した際の接待を賞して勅願所とする旨が示され、天正六年に綸旨を頂戴したことを祝う。前代未聞の栄誉で永代の亀鑑になると述べ、島津義虎も大いに喜んでいると伝えた連署状。

  5. 後編1-No.997 島津義虎書状

    島津義虎が専修寺へ、近衛前久が天正三年十二月の下向時と翌年七月の帰洛時に同寺へ滞在し、接待に感謝して勅願所とする書状を与えた経緯を述べる。天正六年八月二十二日に綸旨が下されたことを前代未聞の大慶として祝った。

  6. 後編1-No.998 島津義久書状

    島津義久が島津義弘へ、世上が変動しても逆党を除き無二の忠節を尽くし、讒言があれば互いに知らせるとの誓紙を肝要と認める。今後も一味して協力することは勿論で、春日・八幡の神も照覧すると誓った返書。

  7. 後編1-No.999 島津義久書状

    島津義久が左衛門督へ、前年の神載で心底を明らかにし、世上が変動しても無二の忠節を尽くし、讒言があれば互いに知らせるとの同心を喜ぶ。返書が遅れたことを詫び、永く一味すると春日・八幡の照覧にかけて誓った。

  8. 後編1-No.1000 島津氏老臣連署状案

    島津氏老臣が琉球国三司官へ、年頭の吉兆を祝い、日向の諸士が退出または参集して島津領が安寧になったと伝える。使僧妙厳寺と太平布五十端の贈物に謝し、返礼として織物五束を贈った書状案。伊集院忠棟・上井覚兼は日向在番中のため判がないと注記する。

  9. 後編1-No.1001 島津義久書状

    本文はNo.999と同文につき省略されている。島津義久が左衛門督の忠節・讒言通報の誓いを喜び、返書の遅れを詫びて永く一味すると春日・八幡に誓った書状。

  10. 後編1-No.1002 軍役賦

    田方所領高に応じた軍役賦。一町衆は主従二人、二町は三人と一町増すごとに一人を加え、十町では主従十一人とする。十町から百町・千町までも一町につき具足一領を負担させる。編者は天正四年の出陣賦と並ぶ原本から、天正六年の日向耳川方面出陣時の賦ではないかと推定する。

  11. 後編1-No.1003 島津義久代老中・使衆交名

    本文はNo.953と同文につき省略されている。島津義久代の老中八人と使衆八人を列挙した交名で、加治木衆大村重頼の覚書にも収められている。

  12. 後編1-No.1004 天正六年記事

    天正六年正月六日、天草方が日向平定の祝使を立て、書状と鎧一領を進上し、相良方も新納忠元へ戦勝祝賀の使僧を送った。七日には天草方が、今後島津方へ申し入れるため官途・受領を申請し、自身の参上は遠路で困難なので使節を立てると伝えた。島津義久の直書に代わり、繁忙のため奉行衆が返書した。

  13. 後編1-No.1005 足利義昭御内書

    足利義昭が島津義久へ、帰洛に向けて諸国の武士が忠功を尽くすと申し出て行動を始めたと伝える。豊後から防長へ通じる帰洛路を妨げられる場合に備え、毛利方の防長両国勢を翌春に豊前・筑前へ渡海させて豊後へ攻め入らせるので、島津方にも格別の協力を求めた。詳しくは毛利輝元・小早川隆景・吉川元春が述べるとする。

  14. 後編1-No.1006 御日記

    天正六年九月二十九日、大口の新納忠元から届いた書状を記す。相良方の情報として、大友宗麟が日向へ出陣を企て、肥後衆の援助を重ねて求め、八代へ真光寺の使僧を送ったと報告した。相良方は秘密が他所から漏れれば島津側の心証を害すると懸念し、事情を伝えたという。

  15. 後編1-No.1007 島津義久書状

    島津義久が北郷時久へ、国境の風説によって日下などが騒動していると聞き案じる。たとえ島津方を疑う事情があっても、今後隔心を持たないと互いに神文を交わしている以上、別意はなく、諸神も照覧するので納得するよう求めた。詳しくは南林寺に伝えさせた。

  16. 後編1-No.1008 足利義昭公帖

    足利義昭が明讃西堂に、先例に従って橋興寺の住持職を執務するよう命じた公帖。

  17. 後編1-No.1009 雑抄

    天正六年十月二十五日、島津義久が大軍を率いて日向へ進発した夜、夢中で『うつ敵はたったの川のもみちかな』との句を得た。近臣はこれを決勝の吉兆と受け止めたとする雑抄。

  18. 後編1-No.1010 島津義久譜

    天正六年十月二十日、大友宗麟・義統の大軍が日向高城を包囲し村落を焼いたが、山田有信・島津家久らが籠城した。城内は水不足となったものの古橋陰から泉が湧いたとする。大友方は伊東残党と三納村の蜂起も図ったが島津方が鎮圧し、家久の作戦報告を受けた義久は二十五日に大軍を率いて日向へ進発し、夢中の句を勝利の兆し…

  19. 後編1-No.1011 島津義弘譜

    大友宗麟・義統が高城を包囲すると、十一月一日に島津義久・義弘らが佐土原へ到着した。十日夜、義弘が六百余人を進退させ伏兵で敵を誘い、五百余人を斬って松山陣へ放火した。十二日の根白坂合戦では本田親治・北郷久盛らを失うが、義弘・征久・忠長らが反撃し、大友軍を深淵へ追い落として耳川まで追撃した。

  20. 後編1-No.1012 島津中務大輔家久譜

    大友宗麟・義統の十万余騎が高城を包囲すると、島津家久は山田有信・吉利忠澄・鎌田政近・比志島国貞らと守った。十一月十二日、義久軍が根白坂で大友軍と戦うのに呼応して城内から突出し、疲労した敵を深淵へ追い込み、家久自身も単騎で敵中へ突入して将十余人を斬った。耳川まで追撃し、戦後に佐土原を与えられて移った。

  21. 後編1-No.1013 北郷時久譜

    大友父子が高城を包囲すると、北郷時久は子の相久・忠虎に数千兵を率いさせ先鋒として鬼山を経て宮崎城へ進ませた。城内の内通者が伊東勘解由左衛門に敵兵を招き入れる計画を知らせたため、都於郡の河原田道場へ走ってこれを捕らえ、北郷久盛が奮戦して大敵を退け城を守った。

  22. 後編1-No.1014 島津義久願文

    島津義久が霧島山へ、今回の日向防戦を守護し勝利へ導いたなら、真読大般若経六部を必ず勤行すると誓った願文案。

  23. 後編1-No.1015 新納忠元勲功記

    大友宗麟が伊東氏を案内に高城を攻め、島津義久軍が十一月十二日に大友軍を破った際、新納忠元は球磨境の警固で参陣せず、嫡子忠実を送った。球磨勢が大口をうかがうため、忠元は義虎・忠実・伊地知重康と計り山野に伏兵を置き、自ら囮となって早牟田城之介を誘い込み、主従七人を討ち取った。

  24. 後編1-No.1016 伊地知重範自記

    伊地知重範が十六歳で初具足し、新納忠元が山野と球磨の境の深下で早牟田城之介を計略により討った戦いに参加した自記。重範は城之介の郎等に後ろから腰を斬られたが、新納忠実・伊地知重康らが伏兵から起こって主従七人を討ち、重範は褒美として飾りと兼光の刀を拝領した。

  25. 後編1-No.1017 島津義久譜

    天正六年十一月朔日、島津義久が佐土原へ到着した。城郭・村舎に数千戸があっても数十万とする従軍兵を収容できず、軍勢の大半は荒野に宿営した。大友軍を攻める日を選ぼうとしたが、連日の風雨のため晴天を待った。

  26. 後編1-No.1018 島津義久原文

    島津義久が、高城口での戦いが勝利となったなら、法華経一万部を手配して必ず執行すると誓った願書。本文年紀は天正六年十一月四日と読める。

  27. 後編1-No.1019 島津義久願文

    島津義久が、大友勢が高城境へ着陣して極めて難儀な状況にあるため、神慮の加護でこの一戦に勝利したなら、高城一所を霧島の神領とし、積物も必ず奉納すると誓った願文。

  28. 後編1-No.1020 島津義久譜

    十一月十日夜、義弘が六百余人を用いた伏兵で大友方を誘い、松山陣を崩した。翌日伊集院久治が高城へ入り、河原陣から和議の申し出もあったが、十二日に大友軍が決戦を挑んだ。本田親治・北郷久盛らを失う一方、義弘・征久・忠長らが横撃し、家久・山田有信も城外へ突出して敵を深淵と耳川方面へ追撃した。十三日に凱歌を挙…

  29. 後編1-No.1021 島津征久譜

    大友宗麟・義統が伊東氏復帰のため八万の兵で高城を包囲すると、島津義久は三万で救援し、征久も従軍した。根白坂で先陣が崩れた際、義弘・歳久・伊集院忠棟が支え、征久・忠長・上井覚兼が梁瀬から横撃し、家久・山田有信も城門から突出したため、大友軍は敗走して深淵で多数が溺死した。

  30. 後編1-No.1022 島津以久譜

    大友宗麟・義統が高城を包囲したため、十一月十一日に島津義久が根白坂へ進み軍容を示した。決戦で本田親治・北郷久盛が戦死し大友軍が追撃に出たが、義弘が自ら矛を執って立ちはだかり、島津以久と忠長が敵軍を横撃して崩した。その二人の大功を称える。

  31. 後編1-No.1023 島津忠長譜

    大友宗麟・義統が高城を包囲すると、島津忠長は義久軍に従って佐土原へ進んだ。十一月十二日の決戦で本田親治・北郷久盛らが戦死し大友軍が追う中、義弘が反撃し、征久・忠長も数万の兵で横撃した。大友軍は逃げ場を失い深淵へ入り、多数が溺死したと記す。

  32. 後編1-No.1024 北郷時久譜

    十一月十二日、大友軍が島津義久の陣へ大軍で決戦を挑むと、北郷時久の子相久・忠虎が進んで戦った。北郷久盛は抜群の戦死を遂げ、村田経重・山中宗左衛門らも戦死したが、ついに大友軍を破り耳川まで追撃した。義久が深く賞し、京都へ伝わると飛鳥井雅継が書状を送った。

  33. 後編1-No.1025 北郷相久譜

    天正六年十一月十二日、島津義久が大友宗麟・義統父子と新納院高城で戦った際、大友軍の進撃が急になると、北郷相久が島津征久とともに敵の横手を攻め、大友軍を大破して敗走させた。

  34. 後編1-No.1026 樺山規久譜

    大友宗麟・義統が六か国の兵を率い、天正六年十月二十日に日向高城を包囲して四か所に陣を構えた。十一月十一日、島津方が財部から進み大友方の松山陣を破って包囲の一面を解くと、樺山規久は高城へ入った。同年、穆佐の地頭職を与えられた。

  35. 後編1-No.1027 島津義久感状

    島津義久が島津義弘へ、先年の大隅岩剣合戦以来、昼夜にわたる軍忠が比類なく、今回の高城境での大友軍着陣にも連日才智を尽くし名誉の奮戦をしたと賞した感状。本文年紀は天正六年十一月十三日と読める。

  36. 後編1-No.1028 島津義久感状

    島津義久が島津家久へ、大友軍が高城へ着陣した難局で昼夜軍労を尽くし、本懐を遂げた高名は比類ないと賞した。その忠節に対して領地を宛行い、今後も戦功を尽くすよう命じた感状。本文年紀は天正六年十一月十三日と読める。

  37. 後編1-No.1029 北郷忠虎譜

    天正六年十一月十三日、島津義久が北郷忠虎へ誓状を与えたことを記し、次号の起請文を掲げる。

  38. 後編1-No.1030 島津義久起請文

    島津義久が北郷忠虎へ、永代にわたり無二の奉公をし、風説があれば即座に互いに知らせ、親類の長年のよしみがあっても逆党には同心しないとの誓紙を神妙と認める。今後も疎遠なく一味すると誓い、新田八幡・諏訪・稲荷・天満天神などの神罰を掲げた起請文。本文年紀は天正六年十一月十三日と読める。

  39. 後編1-No.1031 島津義久書状案

    島津義久が毛利輝元方へ、夏の礼への返礼使書を重く受け止め、東北の武士が忠節を尽くすことを肝要とする。大友氏に対する翌春の豊前・筑前での戦いを歓迎しつつ、日向では前月に六か国の凶徒をことごとく誅伐したため、帰洛を妨げる力は残らないだろうと伝え、遠方ながら公私とも相談を続けたいとした書状案。

  40. 後編1-No.1032 島津義久書状案

    島津義久が小早川隆景・吉川元春へ、足利義昭の帰洛について毛利輝元とたびたび相談していると述べる。大友氏が帰洛を妨げるため翌春に豊前・筑前で戦う計画を喜び、日向では六か国勢を誅伐したので諸境も安泰になると伝え、今後も連絡を続けたいとした書状案。

  41. 後編1-No.1033 島津義久書状案

    島津義久が一色昭秀・真木島昭光へ、毛利輝元の使僧が足利義昭の御内書を届けたことを受け、帰洛への忠節を約した。大友氏が逆心しても、日向で六か国勢五万余騎を誅伐し諸口へ策を巡らせているので心配はなく、翌春の防長勢による豊前・筑前出陣には龍造寺氏と相談して協力するとした返書案。

  42. 後編1-No.1034 島津義久譜

    天正六年秋、大友宗麟・義統が伊東氏を日向へ復帰させようと六か国の兵を率い、高城を包囲した。城代山田有信が五百余人で守る中、島津義久が三万の兵で大友軍を破り、父子を豊後へ敗走させた。義久は十一月二十八日に鹿児島へ帰ったとする略記事。

  43. 後編1-No.1035 島津義久書状

    島津義久が星野九郎へ、今回の不慮の戦乱に際して島津家の幕下となる意向を喜び、祝意の使書・太刀・織物に謝した。今後も隔意なく連絡を続けたいと述べ、返礼として太刀一腰と織物一端を贈った。

  44. 後編1-No.1036 天草鎮尚書状

    天草鎮尚が喜入季久へ、日向での防戦に大勝し数か所の城を領有したと聞いて祝意を述べる。その喜びを島津義久へ披露するよう求め、島津方の賢略があれば伊東氏の再起は難しいだろうとして、日向平定の祝いを改めて申し入れると伝えた。

  45. 後編1-No.1037 飯野東円斉置文

    飯野東円斉が三郡の名士へ示した長文の置文。日向・豊後の敗亡は君臣の傲慢、法秩序の破壊、奢侈や武備軽視といった無道の結果だと論じ、薩摩の勝利は正道にかなうためとする。相良義陽の恩を受けつつも、違法者を罰して国家を長久に導くべきだと諫め、孔子・漢高祖・項羽・織田信長と今川義元の例を引き、賢者を遠ざけ無道…

  46. 後編1-No.1038 耳川合戦従軍者交名

    天正六年十一月の高城・耳川合戦に島津義久・義弘に従軍した一族・国衆・地頭・家臣を多数列挙する交名。歳久・以久・忠長・家久、北郷時久、樺山範久、山田有信、伊集院忠棟、上井覚兼らを掲げ、防戦功・戦死・負傷などの注記を付す。

  47. 後編1-No.1039 大友合戦日帳

    天正六年九月十一日の島津義久出発から十一月二十九日の鹿児島帰陣までを日次で詳述する。野尻滞在中の石城攻めと降伏、大友軍の耳川渡河、十月の高城救援進発、三納反乱鎮圧、佐土原での軍議、伏兵による松山陣攻略、根白坂・耳川での大勝、北方諸城の服属、戦死者供養と豊後塚建立、諸将への感状・恩賞、各地の番手配置、…

  48. 後編1-No.1040 庄内平治記

    長倉勘解由左衛門が伊東残党を集め石城に籠もると、島津忠長・伊集院忠棟の初回攻撃は堅守に阻まれて佐土原へ退いた。秋に征久を大将として再攻し、糧尽きた城方が降伏すると、酒食と糧米を与えて豊後へ送った。長倉は伊東義祐と大友父子を動かし、六か国の軍勢が日向へ進み、土持領を占領したと続ける。

  49. 後編1-No.1041 日州御発足日々記

    天正六年正月から三月十九日までの日記。年始儀礼、土持・天草・相良らの祝使、伊東旧臣の移配と所領処分、日向諸城・寺社への対応、豊後側の侵攻情報と番衆配置を記す。二月以降は門川への豊後船到来、三城・三納方面の動揺、海江田衆の反乱鎮圧、穂北での伏兵準備など国境警備を強化し、義久が都於郡から鹿児島へ帰陣する…

  50. 後編1-No.1042 日州御発足日々記

    天正六年九月十一日から十一月二十九日までの日向出陣日記の別本。野尻での石城攻めと九月晦日の受取、十月二十五日の高城救援出発、夢中詠、佐土原での軍議、十一日の伏兵戦と松山陣攻略、十二日の根白坂・耳川合戦、北方諸城への追撃・降伏処理、戦死者供養、恩賞と番手配置、霧島参詣を経た鹿児島帰陣を記す。

  51. 後編1-No.1043 日向記

    日向が島津領となると、伊東方の残党が縁故に従って帰属し、従わない者は誅伐された。義久は正月十六日に都於郡へ入り仕置を進めるが、伊東旧臣らは豊後の義祐・大友父子に再興を訴えた。門川・塩見・山陰・三城の城主らが人質を出しながら豊後方へ内応し、大友軍を迎え入れる一方、人質の米良弥八郎らは警固を破って脱出し…

  52. 後編1-No.1044 日向記

    県領主土持親成は従来豊後の指揮下にあったが、島津方の内略を受けて島津へ出仕した。このため豊後と三城の往来が断たれ、土持勢が三城近辺まで動いたので、二月二十三日に門川方が県へ出撃し、物頭五人まで討ち取って豊後へ勝利を報告した。

  53. 後編1-No.1045 日向記

    豊後と日向門川の通路が自由にならないため、大友方は土持一族を討つと決め、四月十五日に大軍で梓山を越え、夏田の村社ヶ原へ陣を取った。門川から新名方面へ進んで南口から攻め、土持親成を生け捕りにして豊前へ流した。

  54. 後編1-No.1046 庄内平治記

    大友軍は八月十八日に耳川を越え、十月十九日に十万余騎で新納院高城へ進み、野頸・内原・田間・松原などに布陣した。山田有信ら五百余人と三州の交替兵、家久を大将とする六千余騎が籠城した。大友方は城外を焼き包囲したが、城中では古橋の陰から水が湧き、数千の兵が渇きを免れたことを義久の徳による奇瑞とする。

  55. 後編1-No.1047 耳川合戦日記

    天正六年九月十一日の義久出発から十一月二十九日の鹿児島帰還までを記す高城・耳川合戦の日記。石城攻めと降伏、野尻での軍議、大友軍の高城包囲と三納反乱、佐土原への進軍、松山陣に対する伏兵戦、根白坂・耳川での追撃、北方諸城の服属、戦死者供養と恩賞、番手配置、霧島参詣を経た帰陣までを詳述する。

  56. 後編1-No.1048 長谷場越前自記

    大友宗麟・義統の大軍が高城を包囲し、家久・山田有信らが籠城した状況を記す。義久が救援出馬を急ぐと、老将滝聞美作入道は千兵は求めやすいが一将は得難いとして、まず紙屋城で境目の報告を待つよう諫めた。義久は他国の大将と決戦することは前代未聞と出馬し、佐土原到着夜に『立田の河の紅葉哉』の夢想を得て『打つ敵は…

  57. 後編1-No.1049 日向記

    大友軍が高城を包囲する一方、伊東旧臣らは日向四十八外城へ廻文を回し、十月十日に一斉放火して都於郡へ攻め入る計画を立て、警固船も折生迫へ向かわせた。しかし一味の一部が島津方へ内通したため九日に企図が露見して関係者が誅伐された。二十四日には平野・三納勢が放火と都於郡攻撃を試みたが、連判勢が失われて千人ほ…

  58. 後編1-No.1050 紹剣自記

    高城合戦の日、樺山規久が島津家久に代わって城へ入り、十二日の大戦に備えたことを記す。樺山忠助は体調が悪く出陣しなかった。数代にわたる忠節の家として規久が穆佐・高城を拝領し、戦死した伯父忠副の跡を継いで一族を率い穆佐へ移った経緯を述べる。

  59. 後編1-No.1051 盛香集

    樺山規久が高城防衛に入り、数代の忠節によって穆佐・高城を与えられ、戦死した樺山忠副の跡を継いで一族を率いたことを伝える。樺山家の由緒と、高城合戦後の所領拝領を家門繁栄の徴として記す。

  60. 後編1-No.1052 盛香集

    大友軍が高城へ迫り、家久・山田有信らが籠城したため、救援か後詰かをめぐり評議が割れた。滝聞美作入道は義久の身を第一として紙屋城で境目の報告を待つよう諫めたが、義久はその忠言を認めつつ老功の者に任せて決戦を選び、耳川で大勝したと記す。

  61. 後編1-No.1053 庄内平治記

    大友軍の高城包囲と島津方の救援決定を叙述する。家久・山田有信らが籠城する中、義久は諸将の評議と老将の慎重論を聞いたうえで出馬し、佐土原へ進んで夢中に『立田の河の紅葉哉』を得て、決戦の兆しとした。

  62. 後編1-No.1054 庄内平治記

    島津方が伏兵で大友方の松山陣を破り、伊集院久治らが高城へ入った経過を記す。高良山座主が和議を申し出る一方、大友軍は十二日に決戦へ出た。島津義弘らが退きかけた味方を支え、諸軍が横撃して大友軍を深淵へ追い込み、家久も高城から突出した。

  63. 後編1-No.1055 庄内平治記

    十一月十二日の根白坂・耳川合戦を詳述する。北郷相久・忠虎らが奮戦し久盛らが戦死、本田親治も討死して島津勢が一時退くが、義弘・征久・忠長・伊集院忠棟らが一瀬川で支えて反撃した。大友軍は深淵と耳川へ追い込まれ、佐伯氏ら多数の将兵を失った。家久も単騎で追撃し、十三日に義久が敵本陣で凱歌を挙げた。

  64. 後編1-No.1056 耳川合戦日記

    十月二十五日の島津義久出発から耳川合戦後の帰陣までを記す別本。三納反乱鎮圧、紙屋での夢中詠、佐土原の軍議、十一日の伏兵による松山陣攻略、十二日の大友軍総攻撃と本田親治らの戦死、義弘・征久・忠長らの横撃、家久・山田有信の追撃、北方諸城の服属、戦死者供養と恩賞を詳述する。

  65. 後編1-No.1057 友野元真奉公覚書

    友野元真が高城合戦で島津義弘の横入の手に属し、竹内主殿介・伊地知刑部少輔らとともに戦った奉公覚書。河原陣を崩した日に二人を分捕りし、島津義久から辛労を賞する言葉と褒美を受けたことを記す。

  66. 後編1-No.1058 長谷場越前自記

    高城・耳川合戦で島津方が伏兵と横撃を用いて大友軍を崩し、深淵と耳川へ追い込んだ経過を長谷場越前の立場から記す。諸将の配置、味方の戦死、敵陣追撃と分捕り、合戦後の凱歌・帰陣までを回顧する。

  67. 後編1-No.1059 谷口宮内左衛門覚書

    大友軍の高城包囲から島津義久の救援、根白坂での決戦、耳川までの追撃を記す覚書。伏兵で敵陣を誘い出し、義弘らが横撃し、家久が城内から突出して大友軍を崩したという戦闘の要点と島津方の大勝をまとめる。

  68. 後編1-No.1060 勝部兵右衛門聞書

    高城合戦で島津方が大友軍の進路へ伏兵を置き、松山陣を崩して根白坂の決戦へ導いた経緯を伝える聞書。味方の一時後退を義弘らが支え、家久の城内勢と連携して敵を深淵・耳川方面へ追い落としたとする。

  69. 後編1-No.1061 勝部兵右衛門聞書

    高城籠城中の島津家久と大友陣との応酬を伝える。志賀勘六が見舞いの酒樽・菓子を送り、家久方は釣り上げた鯉と酒で返礼し、使者が陣と城の間で乱舞した。さらに星野長門守・川原山執行良観が矢文で大友氏の暴政への憤りと島津方への内応意志を伝え、合図を笛音と定めた。

  70. 後編1-No.1062 友野元真奉公覚書

    大友勢が高城へ布陣し河原陣が崩れた際、友野元真が島津義弘の横入の手に属し、竹内主殿介・伊地知刑部少輔とともに戦った。二人を分捕り、島津義久から辛労を賞する言葉と褒美を受けたと記す。

  71. 後編1-No.1063 大村重頼古戦書付

    大友氏が伊東氏を日向へ戻すため八万余の軍を出し、高城を包囲した際の島津方の兵力構成を記す。義久以下の兄弟・一門十三人、一所衆八人、三州の地頭七十五人、文内地頭五十七人など総勢八万二千余とし、十一月十二日に大友陣を崩して梓山まで追撃し、耳川までに六万余を討ったとする。秋月・赤星・星野氏には事前の申し入…

  72. 後編1-No.1064 日向記

    大友大軍に対し通常の戦法では勝てないとして、島津方が十一月十日に敵の往来へ伏兵を置き、翌日わざと退いて松山陣勢を誘い出し討ち取った。十二日の決戦では大友軍が島津方を押し、一時多数の戦死者が出たが、島津征久らの横撃で敵を谷瀬川の深淵へ追い込み、大友軍を敗走させた経過を記す。

  73. 後編1-No.1065 殉国名薮

    天正六年の高城・耳川合戦で島津方として戦死した者を列挙する名簿。本田親治、北郷久盛、村田経重、山中宗左衛門、鎌田大膳亮、海江田主殿、曲田伯耆守、市来軍介ら、根白坂・河原・追撃戦などで討死した諸士を記す。

  74. 後編1-No.1066 島津義久吉書

    島津義久が天正七年正月十一日に発した年頭の吉書。神社仏寺の修造・興行、農事の奨励、国々の年貢徴納という三箇条について、その趣旨どおり沙汰するよう命じる。

  75. 後編1-No.1067 谷口宮内左衛門覚書

    天正七年春から中務太輔島津家久が佐土原へ移り、諸外城に地頭を定め、衆中を召し移したことを記す。日向支配の拠点整備と家臣配置を簡潔に伝える覚書。

  76. 後編1-No.1068 坪付

    忠春が前田兵部左衛門尉へ、薩摩国加世田のうち船越迫の三反を記して示した坪付。

  77. 後編1-No.1069 真幸吉田天神再興棟札

    真幸吉田の天満大自在天神舞殿一宇を再興した棟札。大檀那として島津義弘・久保・忠恒、当地頭兼類、座主権大僧都頼叶、大工楠田新助を記す。

  78. 後編1-No.1070 田原鎮忠書状

    田原鎮忠が伊集院忠棟へ、伊東義祐の働きかけで始まった豊薩の戦いでは、大友方が兵を分散して少勢となり高城で敗れたと説明する。一時の勝敗は弓箭の常で驚くに当たらないとし、両家の永代静謐のため、先代以来の縁と同姓の好を踏まえて和談を進めるよう求めた。

  79. 後編1-No.1071 島津義久受領免許状

    島津義久が、幕下となることを懇望した天草鎮尚に対し、受領名として尾張守を称することを許可した文書。

  80. 後編1-No.1072 彦山衆徒連長等連署状

    彦山政所坊連長・明照坊栄運・学琳坊英勝・福聚坊完秀が島津氏奉行衆へ、前年冬の日向での大友勢に対する勝利を祝い、満山衆徒が神前で勝軍を祈念していたことを述べる。交通事情で言上が遅れたが、今後も武運長久の祈念を怠らないと伝えた。

  81. 後編1-No.1073 彦山衆徒連長書状

    彦山政所坊連長が川上忠克へ、前年に島津義久が日向水田三町を寄進したことを深く謝し、神前で祈念していると伝える。祝儀として扇と厚板一端を進上し、披露を依頼した。確定版年月日は二月吉日だが、本文年紀は三月吉日と読める。

  82. 後編1-No.1074 島津氏老臣連署証状

    平田光宗・村田経定・伊集院忠棟・上井覚兼が野村親高へ、妻城近辺での出陣と格別の忠節を賞し、水田十三町を宛行うことを証した連署状。

  83. 後編1-No.1075 島津氏老臣書状案

    島津氏老臣が彦山政所坊連長へ、前年冬の日向で大友勢を破ったことを伝える一方、当時彦山の山伏が島津領内で止められ、一部が大友方へ加勢したとの風聞に遺憾を示す。神忠を疑うものではないと断りつつ、豊後との戦いが続く場合は先例どおり協力するよう求めた書状案。

  84. 後編1-No.1076 島津義久書状案

    島津義久が琉球国王へ、三州の逆徒が退散して領国が平穏となったことを祝い、先例どおり渡海船を派遣するので命を加えるよう求め、進物目録を別紙で添えた書状案。確定版年月日は二月二十七日だが、本文注記は三月二十七日とする。

  85. 後編1-No.1077 島津氏老臣連署状案

    島津氏老臣が琉球国三司官へ、日向の敵を退け、前年十一月の戦いで豊後勢四万余騎を討ったため九州の大半が島津方へ帰属しつつあると伝える。過去の行き違いで商船を止めていたが、国吉丸の渡海を機に先例どおり取り計らうよう求め、中紙八百帖を贈った。確定版年月日は二月二十七日だが本文は三月二十七日と記す。

  86. 後編1-No.1078 島津義久感状案

    島津義久が、長年の滞在と度々の出陣、ことに前年冬の日向での大友勢との戦いにおける御炊才八の名誉ある働きを賞した感状案。

  87. 後編1-No.1079 勝部兵右衛門聞書

    頴娃家で嫡子忠継と弟久虎が対立し、忠継が開聞寺の神殿へ籠もった末、頴娃新左衛門尉に射殺された経緯を記す。その後、久虎の母が政務を専断したため家臣十人らが諫めたが、指宿へ退いた百余人は本田政親による和談を信じて頴娃郡周磨寺へ入り、久虎勢に攻め滅ぼされた。

  88. 後編1-No.1080 勝部兵右衛門聞書

    耳川敗戦後、大友方の威勢が衰えて筑前・筑後・肥後の諸勢力が離反し、熊本の城親政も島津方への帰属を望んだ。義久は遠国支援を評議し、鎌田政年の進言で島津義虎を介して天草五人衆を味方につけ、政年・田尻荒兵衛尉ら足軽二百余人を熊本へ派遣して城親政・伯耆鑑高と連携した。

  89. 後編1-No.1081 樺山紹剣自記

    天正七年三月ごろから肥後・筑後方面の防戦に備え、同年十一月に薩摩から肥後熊本へ加勢の番手を派遣したことを記す。

  90. 後編1-No.1082 年代記

    天正七年、大友宗麟・義統が数万騎で日向高城へ攻め寄せたが、十一月十二日に島津義久が陣を破り、数万人を討ち取ったとする年代記の記事。

  91. 後編1-No.1083 新納忠元勲功記

    天草鎮尚から旧来の隣好回復を申し入れられたため、新納忠元が出水の島津義虎と天草を和睦させた。さらに大友宗麟から離反する勢力を取り込むため、忠元・鎌田政年が天草・志岐・上津浦・栖本・大矢野の島衆五人を出水へ招き、島津家へ奉公するよう説得して降伏させ、肥後進出の端緒を開いた。

  92. 後編1-No.1084 大口士浜川西市丞覚書

    天正七年五月中旬、菱刈両院の衆三千余騎が新納忠元の計略で水俣の宝川内を忍び取り、岩牟礼に城を構えて守備した。肥後宇土・熊本への通路が塞がれたため、忠元・鎌田政年を大将として十月十五日に矢崎城を攻め落とした。

  93. 後編1-No.1085 島津義久感状案

    本文はNo.1078と同文につき省略されている。島津義久が、前年冬の日向での大友勢との戦いをはじめとする御炊才八の長年の軍功を賞した感状案。

  94. 後編1-No.1086 近衛前久書状

    近衛前久が喜入季久へ、日向が島津方の望みどおり平定されたことを祝い、敵地に隔てられ使者を送れない事情を述べる。自身は織田信長から格別に厚遇されていると伝え、日向産の大鷹を島津義久にも頼んだので、季久も一居を調達して出水の島津義虎まで早く送るよう求めた。

  95. 後編1-No.1087 島津義久寄進状

    島津義久が伊勢大神宮領として日向国の水田二十町を寄進し、領国繁栄と軍事上の名誉を祈願した寄進状。

  96. 後編1-No.1088 真木島昭光書状

    真木島昭光が島津義久へ、豊薩和議について命じられた件がまとまったことを祝し、公儀も大いに喜んでいると伝える。内容を十分に心得て申し入れるよう求め、詳しくは一色昭秀と多羅尾光俊が説明するとした。

  97. 後編1-No.1089 伊集院忠棟書状

    伊集院忠棟が御炊才八へ、前年冬の大友勢との戦いで同心して名誉の軍功を挙げ、ことに太刀下で敵を討ち留めたことは比類ないと賞する。島津義久から感状が出された旨を伝え、自らも祝儀として段子一端を贈った。

  98. 後編1-No.1090 島津忠平義弘書状

    島津義弘が星野九郎へ、年頭の祝儀として太刀と杉原十帖を受け取ったことを喜び、前年冬にも星野方の使者が鹿児島に滞在して示した厚意を謝した書状。本文注記は天正七年の可能性を指摘する。

  99. 後編1-No.1091 島津忠平寄進状

    島津義弘が伊勢大神宮へ大隅国の水田一町を寄進し、軍誉勝運と子孫繁昌を祈願した寄進状。

  100. 後編1-No.1092 島津義久書状

    島津義久が天草鎮尚へ、隣国として長年懇意にしてきた縁から、今後島津家の幕下となるとの申し出を喜ぶ。返礼が遅れたことを詫び、太刀一腰と馬一疋を贈り、詳しくは泰平寺と相談すると伝えた。