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後編1の目録

旧記雑録 弘治元年~天正12年の文書・記事です。

全1,480件中 301~400件・4 / 15ページ

  1. 後編1-No.298 進藤長治書状

    進藤長治が義久からの進物を目録どおり受け取り、官途が整ったことを祝した書状。烏帽子・大口の裏打ち・扇・匂袋などを贈り、自身が趣旨を承知して取り扱うと伝える。

  2. 後編1-No.299 島津義久書状

    義久が歳久の所持する名弓を一時借りたいと求め、諸所へ軍勢を集める計画について相談した書状。隣接する蒲生を別手として編成するか、栗野への出立時期や道具の送付をどうするか、歳久の内意を尋ねる。

  3. 後編1-No.300 島津貴久書状

    国境の戦況が急迫して無沙汰となったことを詫び、不断光院から贈られた古今集切紙七通をすべて拝受し、長年の望みがかなったと喜んだ書状。礼として紅糸一斤を贈り、取り成しを求める。

  4. 後編1-No.301 島津忠長譜

    島津忠長の名について、俊安和尚を招き、反切によって文字の音を求め、読み方を定めたことを記す譜中記事。続く加官状の導入となる。

  5. 後編1-No.302 島津忠長加官状

    陸奥守島津貴久が又五郎へ「忠長」の名を与え、「忠」「長」両字の読みを反切で示した加官状。永禄七年甲子八月天正日の年紀を載せ、忠長譜中の記事にいう俊安和尚が書したものとみられる。

  6. 後編1-No.303 島津義久書状案

    前年夏の古市宗檜派遣後に無音となったため、義久が使僧花舜軒を送った書状案。豊前方面の合戦が和睦したことを祝い、日向国境の防戦について大友氏の一途な調略を求め、沈香三斤・段子三端を贈る。No.261の省略本文に対応する。

  7. 後編1-No.304 島津氏老臣書状案

    豊前方面の和睦後、田舎境への大友氏の支援を求めた島津氏老臣の書状案。相良氏が島津家へ損害を与えたとして、是正されなければ伊東氏と結んで対抗するとし、土持境への出兵または伊東氏との和与調整を要請する。No.262の省略本文に対応する。

  8. 後編1-No.305 島津義久起請文

    義久が北郷時久との関係について、将来にわたり別儀なく協力し、老中から伝えられた一か条を守り、飫肥が難儀した際には三之山口から援軍を出すと神々に誓った起請文。

  9. 後編1-No.306 村田経定・川上久朗連署状

    村田経定・川上久朗が日向国飫肥境の和談について、使者三人との折衝内容を詳しく報告した連署状。末吉・城郭・伊東氏の守護称号や旧判物をめぐる異論を整理し、大友・島津両家の合意と上意に基づく無事成立を求める。

  10. 後編1-No.307 久志久玉明神棟札

    南薩州久志浦の久玉大明神宝殿一宇を造立した棟札。大檀那日新、大願主忠長、指宿貞幸・見玉盛賓ら施主と大工貞清以下を記し、天長地久、檀那の息災、国土泰平、諸人快楽を祈願する。

  11. 後編1-No.308 島津貴久書状

    貴久が進藤長治の使者下向によって義久の官途が与えられたことを千秋万歳の慶事として祝い、義久から太刀一腰・馬一疋を受けた礼に、自身からも太刀一腰・馬一疋を贈った書状。自らの受領も過分の喜びと述べる。

  12. 後編1-No.309 島津国史

    永禄八年、島津義虎が長島城主天草越前守を討って同地を得たこと、伊東義祐が飫肥新山城を落として日置忠光を討ったことを記す。五月の足利義輝殺害後、義昭が還俗して上洛を図り、島津貴久・義久へ忠節を求める使者が送られた中央政局も載せる。

  13. 後編1-No.310 島津義久書状

    義久が新年の慶賀を申し述べ、自身が修理大夫に任じられ官途を定めたことを知らせた書状。祝儀として太刀一腰・馬一疋を進上し、今後も賀意を重ねて伝えるとする。

  14. 後編1-No.311 島津日新書状

    日新が新年の慶賀を申し述べ、義久の官途に関する使者と祝礼の太刀一腰・馬一疋を受けたことを喜んだ書状。自身からも今後さらに賀意を伝えると返答する。

  15. 後編1-No.312 近衛稙家書状

    近衛稙家が医道に関わる人物を国元へ下したことについて、当地の事情を知る者なので、機会があれば貴久が言葉を添えて取り扱うよう求めた書状。

  16. 後編1-No.313 永禄八年戦死者交名

    永禄八年三月二十四日および五月朔日の戦死者を掲げた交名。吉満善左衛門久張、日置狩野介忠光、財部武蔵守盛慰らの名を伝える。

  17. 後編1-No.314 島津日新請書案

    日新が貴久の修理大夫受領と義久の又三郎官途について、将軍家の書状と使節を頂戴したうえ、自身にまで書状が下されたことを前代未聞の厚恩として感謝した請書案。祝儀の進物を差し出し、取り成しを求める。

  18. 後編1-No.315 島津忠良書状案

    日新が官途に関する書状を頂戴し、貴久の修理大夫受領と義久の文三郎官途を伝えられたことを喜んだ書状案。国元では戦事が繁忙で十分に報謝できないとし、わずかな進物を添えて披露を求める。

  19. 後編1-No.316 庄内平治記

    永禄八年、伊東勢が板敷田に伏兵を置いて本城兵十三人を討ち、新山外屋尾・楠原へ進出した経過を記す。五月朔日に忠親方が新山外屋尾を攻め破り敵二十八人を討ち四十人を捕らえ、物具七百を得たが、味方も三十人戦死・四百八十人負傷した。

  20. 後編1-No.317 頼継私覚書

    永禄八年二月五日、本田刑部少輔が使者として霧島権現へ参詣し、神意に従って曽於郡を神領とするという貴久の意向を伝えたことを記す私覚。内容は法印頼継と本田の二人以外に漏らさない密儀とされた。

  21. 後編1-No.318 年代記

    永禄八年五月十九日に将軍足利義輝が殺害されたことを記し、松永久通らの動向に触れる。また大隅国吉田若宮が神名帳に載せられ正一位となり、島津貴久が檀那であったことを記す。

  22. 後編1-No.319 島津義久書下

    島津義久が大隅国帖佐郷について、文四郎幸久(のち以久・征久)が堅固に知行するよう命じた書下。

  23. 後編1-No.320 島津以久征久譜

    永禄八年八月二十四日、島津義久が大隅国帖佐郷を文四郎幸久へ与えたことを記す。幸久が後に以久・征久とも称したことを注記する譜中記事。

  24. 後編1-No.321 本田親鑑置文

    本田親鑑が、父親辰の所領をめぐって弟宗左衛門尉が違乱した経緯を踏まえ、子孫の相論を防ぐため所領の継承を定めた置文。親鑑一代の後、伊集院下神殿内平原門三反と吉田宮裏神之薗門道下一反半、計四反半を次郎五郎へ譲るとする。

  25. 後編1-No.322 大村重頼古戦書付

    永禄八年十月二十六日、日向国の城攻めで落城に至り、惟新公島津義弘が負傷したことを記す古戦書付。

  26. 後編1-No.323 島津国史

    永禄九年、島津貴久が将軍足利義輝一周忌のため二月彼岸に剃髪し法名を称したことを記す。六月の肝付氏による岩川攻撃、九月九日の霧島山火災、伊東氏の三山築城と飯野侵攻計画を述べ、十月二十六日に義久を大将、義弘・歳久を副将として三山を攻め、義弘が重傷を負って退いた経過を載せる。

  27. 後編1-No.324 賦何船連歌

    「賦何船」を題として、日新・義久・忠元・珠玄らが詠み継いだ連歌一巻。発句以下、春夏秋冬、恋、旅、述懐、仏道などの景物と心情を取り合わせ、多数の参加者による付合を収める。

  28. 後編1-No.325 島津氏老臣連署坪付

    大隅国帖佐郷で田中越中守に付与する田地を列挙した島津氏老臣の連署坪付。餅田名・堀町・税所内上門・深見名内門などに所在する各筆について、地名、門名、面積や位置を具体的に記す。

  29. 後編1-No.326 島津貴久譜

    永禄九年、前年に没した将軍足利義輝の一周忌に当たり、島津貴久が二月彼岸に剃髪して法名を称したことを記す。

  30. 後編1-No.327 樺山玄佐譜

    将軍足利義輝の一周忌に島津貴久が剃髪したことを記し、樺山玄佐の経歴記事へつなげる譜中記事。

  31. 後編1-No.328 庄内平治記

    永禄九年三月二十二日に伊東勢が目井へ陣を置いたことを記す。四月二十日、飫肥宮之浦の兵が海上で伊東勢と戦い、敵二十九人を討ち九人を生け捕り、合わせて六十三人を討ち果たし、船五艘を奪った。

  32. 後編1-No.329 庄内平治記

    永禄九年五月、北郷時久が松山へ初陣し、忠徳らと出立の儀礼を行った後、福島方面で伊東勢を待ち伏せして十一人を討ったことを記す。六月十六日の肝付勢による岩川攻撃と双方の損害、七月の時久の飫肥出陣、肝付勢による福島攻撃と守兵の戦果も載せる。

  33. 後編1-No.330 年代記

    永禄九年、島津貴久が将軍足利義輝一周忌のため二月彼岸に剃髪したこと、三月に福昌寺で季節外れの桜が咲いたことを記す。十月二十六日には島津勢が三山を攻め、城周辺を焼いたものの落城には至らなかった。

  34. 後編1-No.331 北郷時久譜

    永禄九年六月十六日、肝付氏が岩川へ出兵した際、北郷時久が配置していた城兵が防戦して敵の首二十六級を得た一方、味方も久木崎丹後以下十余人が戦死したことを記す。

  35. 後編1-No.332 永禄九年戦死者交名

    永禄九年の戦死者を月日別に掲げた交名抄。三月五日、四月二十七日、六月十六日、八月十六日の各戦闘で亡くなった篠河左衛門兵衛、蓑輪狩野介重親、久木崎丹後、野村助三郎経長らを列記する。

  36. 後編1-No.333 島津氏老臣連署坪付

    龍盛院領として定める田地などの所在を記した坪付。問毛名内および松原湊に関わる土地を掲げ、村田経定・伊集院忠金・川上久朗が連署する。

  37. 後編1-No.334 島津義久書状

    島津義久が義弘から軍事行動と日取りについての書状を受け、詳細を了承して必ず勝利するであろうと応じた書状。肝付弾正忠へ申し付けることを伝え、求められた薬種を少量ながら送る。

  38. 後編1-No.335 島津義久書状

    島津義久が、義弘が三之山境で軍事行動を行い大勝利を得たことを祝した書状。まず書面で祝意を伝え、現地の状況についても気遣い、後日の対面を期す。

  39. 後編1-No.336 島津日新鑑札

    日新が本田九郎右衛門の各地での度重なる忠節を忘れないとし、その褒賞として伊作入来名内の原薗および水田一町・畠地一町を永代にわたり違乱なく与えるとした鑑札。

  40. 後編1-No.337 島津義久起請文

    弓射の一流相伝の内容を他言しないことを誓った島津義久の起請文。本文では同文のNo.339により省略されており、違反すれば天帝・四大天王・日本国中の神祇などの罰を受けるとする。

  41. 後編1-No.338 島津義久外十七名詠草

    月前の松を題として島津義久ほか十七名が詠んだ和歌の詠草。松、月光、浦波、秋風、夜更けなどの景物を取り合わせ、各人の詠を連ねる。

  42. 後編1-No.339 島津義久起請文

    島津義久が弓射の一流相伝の内容を他言しないと誓った起請文。偽りがあれば天帝・四大天王・堅牢地神・日本国中の大小神祇冥道、当地の諸神の罰を受けるとする。

  43. 後編1-No.340 島津伯囿貴久書状

    島津貴久が歳久から久しぶりの音信を受けたことに応じ、こちらからも無沙汰していたと述べた書状。軽少ながら贈物を送り、重ねての音信を期す。

  44. 後編1-No.341 相良頼房書状

    相良頼房が、島津方の三之山での軍事行動を聞き及んだとして、吉日を知らせてもらえれば軍勢を派遣して協力すると申し入れた書状。諸方の調略を進めるべき時であり、西光寺を介して連絡すると述べる。

  45. 後編1-No.342 島津義久書状

    島津義久が三之山攻撃に備え、肝付兼盛に他行せず待機し、真幸直からの注進次第に軍勢を催して速やかに駆け付けるよう求めた書状。自身の到着が一、二日遅れても、義弘と相談して時宜を整えるよう指示する。

  46. 後編1-No.343 島津日新譜

    永禄九年十月、日新の孫である義弘・歳久が大将として軍勢を率い三山城を攻めたが、城壁が堅固で陥落させられず、多数が戦死したことを記す。日新が戦没者の成仏を願って詠んだ弔歌二首を載せる。

  47. 後編1-No.344 島津貴久譜

    伊東義祐が三山に要害を築き飯野侵攻を企てたため、永禄九年十月二十六日、義久を大将、義弘・歳久を副将として大軍で攻撃した経過を記す。諸将が奮戦したが義弘が深手を負い、阿多中務丞・末弘又左衛門尉・本田治部少輔らが戦死し、城を落とせず退いた。

  48. 後編1-No.345 島津義弘譜

    伊東義祐が三山城を拠点に飯野侵攻を企てたため、永禄九年十月二十六日、義久を大将、義弘・歳久を副将として三山城を攻めたことを記す。義弘が強敵と戦って深手を負い、将士が動揺したため落城させられず退却した。

  49. 後編1-No.346 細川藤孝書状

    細川藤孝が畿内の政変を先代未聞の事態とし、一乗院が甲賀和田へ退いたこと、近国への出勢命令を受けて入洛を急ぐことを伝えた書状。島津貴久・義久に忠功を求める御内書が出され、使者として上野大蔵入道を下向させたと述べる。

  50. 後編1-No.347 三山合戦戦死者交名

    永禄九年十月二十六日の三山合戦で戦死した島津方将兵を多数列挙した交名抄。阿多中務允久宗、末弘又左衛門尉、本田治部少輔、本田興五郎、鮫島文左衛門宗明らをはじめ、各地・各家に属する人々の名と戦死注記を載せる。

  51. 後編1-No.348 島津義久譜

    伊東義祐が三山城を築いて相良氏と通じ、飯野侵攻を企てたため、永禄九年十月二十六日、義久を大将、義弘・歳久を副将として数万騎で攻めたことを記す。勝利を得たものの義弘が深手を負ったため、城を落とさず退去した。

  52. 後編1-No.349 島津義久書状

    島津義久が、所持していた引導の書・行の書二巻を見失ったため、相手方所持の二巻を借用したいと求めた書状。伯囿貴久が図子書を必要としていることにも触れ、相手に所持がなければ別人の本を借りて大殿へ差し出すよう依頼する。

  53. 後編1-No.350 小林三の山合戦従軍者交名

    永禄九年十月二十六日の小林三の山攻めに参加した将兵を、戦闘配置や戦功とともに列挙した交名。城口から二之丸までの攻撃に加わった市来・加世田など各地の武士を掲げ、阿多中務丞、末弘又左衛門尉、本田治部少輔らには戦死の注記を付す。

  54. 後編1-No.351 樺山玄佐自記

    島津貴久の飯野進出と三之山への軍勢派遣、飫肥口・真幸口の守備をめぐる経過を記す。貴久が伯囿と号した後、北原兼親と伯父左兵衛尉が球磨勢を吉松へ引き入れて島津方を討つ計画が露見し、兼親の召還・移住を経て飯野を義弘に与えたこと、三之山攻撃で菱刈方の注進により島津方に多数の戦死者が出たことを述べる。

  55. 後編1-No.352 島津日新譜

    本文ではNo.343と同文のため省略される記事。永禄九年十月、義弘・歳久が三山城を攻めたものの堅固な城壁のため落城させられず、多数が戦死し、日新が戦没者の成仏を願う弔歌を詠んだ内容に当たる。

  56. 後編1-No.353 島津日新譜

    菱刈氏との戦いに際し、日新が松の枝、春日の藤、大口を詠み込み、戦勝後の舞を思わせる和歌一首を詠んだことを記す。

  57. 後編1-No.354 長谷場越前自記

    飯野を境目として伊東・相良両氏と対抗するため、小林三之山城を攻撃した経過を詳述する。義久・義弘・歳久の軍が花立口・大豆別府口・寝谷口から攻め、義弘勢は二之丸まで進んだが多数が戦死・負傷したため退却し、追撃する伊東勢には伏兵で損害を与えた。帰陣後、横川側の不穏な振る舞いを諸将が訴え、成敗を求めたことも…

  58. 後編1-No.355 箕輪伊賀自記

    飯野防衛のため小林三之山城を攻めた経過を、各軍の進路と将兵の働きに即して記す。義弘勢が二之丸、歳久勢が二重城戸へ迫り、田尻荒兵衛らが奮戦したが、義弘が負傷して兵が動揺したため、義久の命で順次退却し、追撃兵を伏兵で討って飯野へ引き上げた。

  59. 後編1-No.356 大村重頼古戦書付

    永禄九年十月十五日、島津義久が大軍を率いて小林城へ向かい花立口に陣し、義弘が大豆別府口から二之丸へ攻め入って戦ったことを記す。伊東方の援軍が来たため島津勢は陣を開いて退いた。

  60. 後編1-No.357 法印頼継私覚書

    永禄九年十月十九日、島津貴久の使者伊集院下野守が、高原所領を霧島六所大権現へ寄進する旨と祈念を伝えたことを記す私覚。高原は神代以来の神地であるとし、証跡として太刀を座主に渡した後、頼継が日数を置いて返進したこと、使者の子が冠嶽和光院の僧となったことも書き留める。

  61. 後編1-No.358 島津貴久譜

    永禄九年十月下旬、三之山で戦死した人々を弔うため、島津貴久が阿弥陀の六字名号を連ね、成仏を願ったことを記す。命のはかなさ、残された者の悲嘆、先立つ人への思いを詠んだ追悼の詞歌を載せる。

  62. 後編1-No.359 島津日新正覚六字詠草

    永禄九年の三之山合戦で戦死した敵味方の霊の成道を願い、日新が南無阿弥陀仏の六字を各句に織り込んで詠んだ詠草。討死によって名を上げた者への追悼、世と身の無常、悲しみを仏教的に表現する。

  63. 後編1-No.360 北郷時久日記(自永禄元年至同九年)

    永禄元年から九年までの北郷氏と守護島津方の軍事行動を、年月日、城の攻防、戦死者数などとともに編年で記す。飫肥・末吉・廻・竹原山・松山・志布志・新山・福島・岩川などをめぐる伊東・肝付両氏との戦い、城の受け渡し、北郷時久の初陣に伴う神社奉納、各戦闘の討取・捕虜・負傷者を載せる。

  64. 後編1-No.361 島津国史

    永禄十年の菱刈氏征討を中心に記す。七月に義久が樺山幸久と盟約し、冬には貴久・義久・義弘らが各方面の軍勢を率いて馬越・湯尾・横川などへ進撃、十一月二十四日に義弘が馬越城を攻略したため周辺諸城が相次いで退去した。大口城には相良方の球磨・八代勢が入り、各城へ島津方守兵を配した後、市山城への攻撃を受けて新納…

  65. 後編1-No.362 島津忠将一流系図

    島津忠将一流の系譜として、島津以久の子彰久が永禄十年に生まれ、母は北郷左衛門尉時久の長女であったことを記す。彰久の通称を又四郎、官途を右衛門尉とする。

  66. 後編1-No.363 寺山氏系図

    寺山氏の一族・子女を記す系図。寺山直久の娘が肝付雅楽助の室となり、その母を島津中務太輔忠成の末女とすること、四郎左衛門入道定雲が永禄十年に猿渡休費の娘を母として生まれたことなどを載せる。

  67. 後編1-No.364 日向記

    永禄十年春、日新が坊津一乗院を使僧として伊東方の御崎寺へ送り、真幸口の戦いが続くなか、双方が隠居したことを理由に和談を申し入れ、紫の硯を贈った経過を記す。伊東義祐は真意を疑いながら使僧を厚遇し、返使安宮寺と新古今集を送ったが、両家の合戦観の違いを語る応酬を経て、後の飯野・三之山の争いにつながったとす…

  68. 後編1-No.365 相良頼房義陽書状

    相良頼房が島津義久へ新春の賀意を述べ、祝儀として太刀一腰と織物二端を贈った書状。今後も吉事が長く続くよう願う。

  69. 後編1-No.366 賦山何連歌

    「賦山何」を題として、島津義久・其阿・伯囿・珠玄・家久・忠元らが詠み継いだ連歌一巻。花、月、旅、恋、無常、仏道などを取り合わせた付句を連ね、末尾に各参加者の句数を記す。

  70. 後編1-No.367 阿多大日如来由緒書

    薩摩国阿多郡新山村の大日如来像を造立した由緒書。日新を護持信心の大檀那とし、諸人の息災延命、子孫繁昌、現世安穏、後生善処を願い、伯囿貴久・義久・義弘・歳久・家久らの名を掲げる。

  71. 後編1-No.368 最上宗檜書状

    最上宗檜が長期滞在への謝意を述べ、四月十七日に薩摩へ着いたこと、相手方の調略と尽力を終始報告したことを伝えた書状。近日中に使僧を下す予定とし、真幸境目で近年伊東氏に押領された地域の書付を別紙で送り、遠方の飫肥境については後日報告するとする。

  72. 後編1-No.369 島津義久書状案(No.291同文)

    No.291と同文のため本文を省略する島津義久書状案。思いがけず腹巻一領を贈られたことへの礼が遠隔地のため遅れたと詫び、好便に託して馬一疋を贈り、残りの口上は神力坊が伝えるとする。

  73. 後編1-No.370 戸次紹花書状(No.294同文)

    本文ではNo.294と同文のため省略される書状。戸次紹花が島津貴久からの馬一疋と義久からの沈香を贈られたことへの感謝を述べ、詳しい謝意は神力坊の下向時に伝えるとして披露を求める。

  74. 後編1-No.371 島津義久書状

    島津義久が先の談合に際して義弘が急ぎ来訪したことを喜び、その後無沙汰したことを詫びた書状。ある一箇条の処置について内々の検討を求め、自身は病気が再発して歩行も不自由なため諏訪祭礼への参詣が難しく、企てが延期される場合は名代を立てる意向を伝える。

  75. 後編1-No.372 経塚銘

    震心翁大安大居士の十七回忌に当たり、帖佐郷で大乗妙典一千部を供養したことを刻んだ経塚銘。孝子が敬白し、大安居士と同時に戦死した十六士をともに弔う。

  76. 後編1-No.373 藤野正円系図

    藤野正円の出生と経歴を記す系図記事。永禄十年に日向国広原で生まれ、大乗院住持盛秀僧正の弟子として出家した後、龍伯義久の命で還俗して久右衛門尉を称し、藤野・忠恒・忠秀・秀久などの名を用いたことを載せる。

  77. 後編1-No.374 島津義久起請文

    島津義久が提示された三箇条を了承し、その趣旨に違反しないことを誓った起請文。違反すれば天帝・四大天王・日本国中の神祇に加え、新田八幡、大隅正八幡、霧島六所権現、諏訪上下大明神、天満大自在天神などの罰を受けるとする。樺山源三郎久清に伝来した正文。

  78. 後編1-No.375 島津義久書状

    島津義久が島津義弘に、先に伝えた一箇条の紛議に関して犬追物を企てているため、義弘が近日中に来る旨を当地へ早々に触れ、到着後には停止させるよう求めた書状。

  79. 後編1-No.376 島津義久書状

    島津義久が、この時期の軍事行動はいったん延期するのがよいと伝え、その詳細は白坂彦左衛門尉へ申し聞かせたとする書状。義弘の意向も同じであることを確認し、細部の記述を省く。

  80. 後編1-No.377 島津義久書下

    島津義久が、龍厳寺門徒の一乗院頼忠法印と舜寛房典称に関わる寄進・買得について、今後相違があってはならないと保証した書下。

  81. 後編1-No.378 頼忠法印書状

    頼忠法印が、高崇寺に関わる肝付良兼に対し、根来寺に住山していた折に法流の相承を約束したことを述べ、自身が老齢であるため速やかに来訪して法流を受け継ぐよう求めた書状。

  82. 後編1-No.379 年代記

    永禄十年十一月七日夜に福昌寺の直歳寮だけが焼けたことを記す。同月二十四日、伯囿貴久・義久が出陣して菱刈氏の馬越城を攻め落とすと、翌日に本城以下八箇所が放棄され、横川も数日後に島津方へ渡された。

  83. 後編1-No.380 島津貴久譜

    菱刈氏が島津氏の旧臣でありながら相良氏と結んだため、永禄十年十一月二十三日、貴久・義久父子が栗野から湯尾へ、義弘が飯野から馬越へ進んだ征討を詳述する。進軍中に烽火を認めて敵の謀略を警戒したのち、翌二十四日に総攻撃し、義弘らが城門・城壁を破って井手籠父子を討ち、二百余級を得て馬越城を陥落させた。周辺八…

  84. 後編1-No.381 島津義久譜

    菱刈氏が島津家に背き相良氏と結んだため、永禄十年十一月二十三日、貴久・義久が栗野から湯尾へ、義弘が飯野から馬越へ向かったことを記す。翌朝、義久が諏訪山に旗を掲げて総攻撃し、井手籠氏父子以下二百余級を討って馬越城を陥落させたため、周辺八城と横川が退去・献上された。

  85. 後編1-No.382 島津義弘譜

    永禄十年十一月の馬越城攻めを義弘の働きを中心に記す。城壁を越えようとした辻・有馬・久富の三人が井手籠氏父子に討たれると、義弘が自ら太刀を取って強敵を斬り、諸将も門壁を破って井手籠父子以下多数を討った。勝利後、菱刈の諸城は大口城へ退き、隆秋は相良氏の援軍を得て同城を守った。

  86. 後編1-No.383 島津家久譜

    永禄十年十一月、義久・義弘が菱刈院へ進み馬越城を陥落させたため、周辺諸城が大口城へ退いた経過を記す。相良方の球磨・葦北勢が大口城へ入る一方、家久は樺山玄佐・忠知らと平泉城を守り、のち横川城を与えられて飯野警衛を命じられ、翌年正月に長陣を終えた。

  87. 後編1-No.384 樺山玄佐譜

    永禄十年十一月、貴久が馬越城を陥落させ、菱刈諸城の兵が大口城へ退いた後、樺山玄佐が家久・忠知・鹿島光明寺らと平泉城へ入ったことを記す。家久・忠知らが若年であったため玄佐も警固を命じられ、翌年まで守備し、のち病床の日新を見舞って曽木警固へ移った。

  88. 後編1-No.385 馬越合戦戦死者交名

    永禄十年十一月二十四日の馬越城攻めを中心に、同月二十五日・二十九日などの戦闘で戦死・負傷した将兵を列挙する交名抄。辻大蔵左衛門尉、有馬軍弥左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、市来家利、伊集院久慶らの名と戦死・負傷等の注記を載せる。

  89. 後編1-No.386 馬越合戦従軍者交名

    永禄十年十一月二十三日からの馬越城攻めに従軍した将兵を、義弘・歳久の指揮下に分けて列挙した交名。戦功を挙げた者に加え、辻大蔵左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、新納九郎らには戦死の注記を付す。

  90. 後編1-No.387 島津義久譜

    菱刈氏が島津家に背いたため、永禄十年に貴久・義久が出陣して馬越城を攻め、横川城主菱刈中務少輔が同地を島津方へ献じて退去したことを記す。途中の詳細は省略される譜中記事。

  91. 後編1-No.388 新納忠元勲功記

    菱刈重猛が伊東方へ内通したため三之山攻めが失敗し、重猛死後の降参交渉も老臣らの反対でまとまらなかった経緯を述べる。永禄十年十一月の馬越城奇襲で新納忠元が度々奮戦して矢傷を負い、周辺八城が大口城へ退いた後は各城に守兵が置かれた。十二月二十九日に市山守将の市来家利・伊集院久慶らが戦死すると、忠元が市山城…

  92. 後編1-No.389 大口士浜川西市丞覚書

    永禄十年十一月二十四日、義弘が般若寺越から馬越城へ押し寄せ、城兵を多数討って攻略した結果、横川・本城・曽木・湯尾・羽月・平和泉・青木・市山が同日に島津方へ入ったとする覚書。大口城は球磨の援軍を得て永禄十二年五月まで抗戦したが、援軍が引き揚げて開城し、新納忠元が地頭となったこと、各地から住民が移された…

  93. 後編1-No.390 新納忠元譜

    菱刈重猛が三之山攻めを伊東方へ漏らし、死後も一族の帰服がまとまらなかったため、永禄十年十一月に馬越城を攻めた経過を記す。新納忠元は新納武久・伊集院久宣・有馬純秀らと先登して井手籠父子以下二百余級を討ち、城を陥落させたが矢傷を負った。菱刈隆秋は八城を捨て大口城へ籠り、相良義陽の援兵を得た。

  94. 後編1-No.391 新納忠元譜

    馬越城攻めで新納忠元が四度の槍合わせをしたことを記す。最初は新納武久、次は伊集院久宣、さらに有馬純秀とは二度ともに戦い、その際に村田右衛門尉・町田新左衛門尉らが戦死し、忠元自身も脇に矢傷を負ったとする。

  95. 後編1-No.392 長谷場越前自記

    島津方が小林出勢を装って軍路を転じ、永禄十年十一月二十三日夜に般若寺越・構子木越から馬越城へ奇襲した経過を詳述する。義久・貴久が高地に陣し、義弘らが攻め上って井手籠父子以下多数を討ち、翌夜には周辺八城が放棄された。島津方は各城へ守兵を入れ、菱刈方は大口城へ集結して球磨の援軍を待った。

  96. 後編1-No.393 箕輪伊賀自記

    菱刈方の野心を察した島津方が、小林出勢と披露して軍勢を横川へ通しながら、実際には軍路を変えて永禄十年十一月二十四日早朝に馬越城を急襲した経過を記す。義弘らが井手籠父子を討って城を落とすと九城が一日で退去し、菱刈方は大口城へ籠った。相良頼房は球磨・八代・葦北勢を動員して大口城へ援軍を入れた。

  97. 後編1-No.394 樺山玄佐自記

    菱刈家の幼主を立て新恩地を返上して帰服する案を樺山玄佐が仲介したものの、菱刈老臣らが三之山方と通じて破談となった経過を記す。玄佐は内談に関与したため島津諸将から疑われながら馬越攻めに従い、落城後は平泉城の警固を命じられた。羽月・平泉・山野の守備配置が大口城への通路を十分遮断できず、同城を強固にしたと…

  98. 後編1-No.395 日向記

    永禄十年十月、菱刈方が三之山へ島津方の襲来を知らせたため、城内が十分に防備を整えたことを記す。島津歳久・義弘・家久らの大軍が城を囲んで攻めたが、米良弥九郎ら城兵が激しく防戦して多数を討ち、島津勢は退却した。島津家がこの通報を恨み、ただちに菱刈征討へ向かったとする日向方の記事。

  99. 後編1-No.396 寺山直久譜

    吉田地頭となった寺山直久が、永禄十年十二月七日に羽月へ守兵を率いて軍務に就き、翌年三月九日の帰陣途中に大口城から出た球磨勢の伏兵に遭ったことを記す。吉田衆と家臣約二十人が戦死し、直久も深手を負って吉田本城へ戻った後に死去した。

  100. 後編1-No.397 島津貴久譜

    永禄十年十二月二十九日、市山城の守兵が大口城下を偵察したところ敵に察知され、西原川辺で市来家利・平田加賀守・伊集院久慶が多勢を相手に防戦して戦死したことを記す。敵は市山城まで追撃したが、城兵の鉄砲・矢で退却し、その後の警固を新納忠元に命じた。