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後編1の目録

旧記雑録 弘治元年~天正12年の文書・記事です。

全1,480件中 101~200件・2 / 15ページ

  1. 後編1-No.100 島津氏老臣連署坪付

    龍盛院領として、大隅国帖佐郡内の田地を段数・所在地とともに列記し、寺領として付したことを示す老臣連署坪付。

  2. 後編1-No.101 小城権現領坪付

    大隅国帖佐郷益田門内、市ノ坪一段を小城権現領として新たに寄進した坪付。料所内の土地であるが当面ほかに閑所がないため先に寄進し、適地が得られ次第、別所へ繰り替える旨を川上忠克・伊集院忠倉・三原重秋が記す。

  3. 後編1-No.102 肝付兼続書状

    肝付兼続が番替えの送りを依頼し、岸良方面で敵九人を討ち五人を捕らえ、馬三十一疋を得た戦果を報告する。遠見・警戒、兵糧、部隊の激励を念入りに指示する。

  4. 後編1-No.103 日向記巻五

    永禄元年二月十三日、伊東方が東光寺に新城を築いて守備した際、島津方が野伏を置き火矢を射たが、東光寺勢の反撃で島津勢が損害を受けて退いたことを記す。

  5. 後編1-No.104 北郷忠相譜

    北郷忠相が飫肥への後援を島津貴久に頼み、永禄元年に曽於郡を献じたこと、永禄二年十一月十六日に高城で没したことを記す。

  6. 後編1-No.105 殉国名薮

    永禄元年の恒吉宮ヶ原、志布志、飫肥新山城などの戦闘で討死した北郷・豊州両家ほかの将士を、日付・戦場・所属とともに列挙する。多数の戦死者と異同注記を収める。

  7. 後編1-No.106 北郷時久譜

    永禄元年三月十九日、肝付勢が庄内へ侵攻し、北郷時久・島津忠親の軍が恒吉宮ヶ原で迎撃したが敗れた戦闘を記す。北郷・豊州方の諸将と兵卒二百余人が戦死した。

  8. 後編1-No.107 北郷氏庶流系図抄

    北郷久尋の三男・源三郎兵部敦久について、高城木崎口の地頭職を務め、永禄元年三月十九日に恒吉宮ヶ原で討死したことを記す系図抄。

  9. 後編1-No.108 庄内平治記

    永禄元年三月十九日の恒吉宮ヶ原合戦を詳述する。北郷・豊州両軍が肝付勢を迎えたが、後方を遮断されて敗走し、北郷三兄弟や日置久範・平田宗仰ら二百余人が戦死した。

  10. 後編1-No.109 壱岐賀州年代記

    永禄元年三月の恒吉宮ヶ原合戦で肝付勢が飫肥・庄内両軍四百余人を討ったこと、島津方の櫛間出兵、九月の島津義益の元服と犬追物を記す。

  11. 後編1-No.110 樺山幸久等契状

    樺山幸久(善久・入道安藝)が肝付弾正忠に対し、今回の雑説について、以前神判をもって始終申し合わせた趣旨に変わりはなく、今後も互いに申し開くことを専一とすると誓った契状。偽りがあれば梵天・帝釈、四大天王、堅牢地神、熊野、彦山、霧島、正八幡、諏訪、稲荷、天満宮など諸神の罰を受けるとする。

  12. 後編1-No.111 近衛稙家書状

    近衛稙家が島津又四郎に対し、島津家の由緒は他にまさるもので今に始まったことではないと述べ、疎意なく取り計らうよう修理大夫の執成を求め、色紙を送った書状。

  13. 後編1-No.112 和漢連歌

    永禄元年九月二十三日に催された和漢連歌。『雲にふけなれも月をや松の風』を発句とし、漢句と和句を交互に連ね、秋夜、旅、望郷、雪月花、神仏、治国などを詠む。

  14. 後編1-No.113 樺山玄佐自記

    島津忠平が又四郎と称した頃、豊州忠親の養子として飫肥へ移ったことを述べ、櫛間・志布志方面で伊東・肝付両氏の攻撃が続き、日置伊賀守らが戦死した状況を回想する。

  15. 後編1-No.114 山之口的野八幡再興棟札

    山之口的野八幡宮の再興棟札。八幡神の渡来・正八幡大菩薩顕現の由来と大隅国への鎮座を述べ、北郷忠相・時久による社殿再興を記す。

  16. 後編1-No.115 北郷時久譜

    永禄元年十一月五日、伊東勢が飫肥新山城を大軍で攻め、北郷忠孝・久信、知覧忠幸らが戦死し、士卒にも多数の死者が出たことを記す。

  17. 後編1-No.116 庄内平治記

    永禄元年十一月五日の飫肥新山城合戦を詳述する。伊東勢の猛攻で北郷忠相の二男忠孝と三郎右衛門久信らが討死し、三月の久慶戦死に続き忠相が子を失った悲哀と、多数の将兵の戦死を記す。

  18. 後編1-No.117 壱岐賀州年代記

    永禄元年十一月四日に新山城が攻め落とされ、多数が戦死したことと、十二月二十三日に薩摩・飫肥・庄内三家の軍が反撃した戦闘を記す。島津忠将を大将とする諸将の槍働きや負傷を列挙する。

  19. 後編1-No.118 日向記巻五

    新山城からの落人が水不足を告げたため、伊東方が永禄元年十一月四日に城を包囲し、二時間ほどで攻略した経過を記す。知覧忠幸らをはじめ百五十余の首級を得、伊東方にも戦死者が出た。

  20. 後編1-No.119 日向記巻五

    新山城落城後、豊州家の要請を受けた島津貴久が島津忠将を大将に三千の援軍を飫肥へ送った記事。十二月二十三日、伊東勢との激戦で島津方の物頭らが討たれた一方、伊東方は百九十八の首級を挙げたとする。

  21. 後編1-No.120 日向記

    永禄元年冬、島津方と肝付氏が戦った経緯を記す。清ヶ島で肝付方の有力者が多数討たれた後、兼続が少人数で踏みとどまり敵を退けたこと、伊東方が新山・南郷方面から櫛間を攻めた状況を述べる。

  22. 後編1-No.121 島津貴久寄進状

    島津貴久が鎧一領、甲、太刀、長太刀などの武具を宮内の社に奉納した寄進状。各品の毛色・装飾・作者などを記す。

  23. 後編1-No.122 吉利氏系図

    吉利忠澄の天文十八年誕生、永禄元年十二月二十七日の初吉利、文禄四年の没年を記し、娘が伊集院忠棟室となったこと、忠棟誅殺後の一族の処遇を載せる系図記事。

  24. 後編1-No.123 大田忠興譜

    永禄元年十二月二十七日、島津貴久の命で薩摩国阿多郡中津野村の大田門にちなみ大田氏を称したこと、阿多・加世田地頭職を務め、天正六年に加世田で没したことを記す。

  25. 後編1-No.124 島津国史

    永禄二年の外交・軍事記事。琉球国王への返書、肝付兼続による松山城攻略、飫肥での伊東軍との戦い、島津尚久救援と春成久正の戦死、肝付・頴娃との盟約、末吉・梅北の領有移動などを記す。

  26. 後編1-No.125 財部筑前守書状

    財部筑前守が清水谷口方の扱いについて末吉で町田加賀守と相談済みであることを伝え、神前の宮代官任命や門川からの請取りを時機を見て進めるよう求める書状。

  27. 後編1-No.126 琉球国三司官書状

    琉球国三司官が島津氏老臣に、唐商人来航に備え、貴国商船が来航した際には従来どおり武具・腰刀を那覇で預かり、出船時に返すこと、印判のない船を受け入れないことを求めた書状。織物九端を添える。

  28. 後編1-No.127 島津貴久立願条々

    島津貴久が尾州・讃州への相談、東目・西目の弓箭の吉否、無事の調儀について籤数を定めて祈願した立願条々。

  29. 後編1-No.128 島津貴久書状

    島津貴久が琉球国王の使者・天界寺叔和尚と世名城大屋子の来訪を喜び、長年の音信と隣国の友好を今後も深めたいと伝え、詳細を和尚に託した返書。

  30. 後編1-No.129 平山氏系図

    平山忠智の子・右馬頭久武について、永禄二年四月十六日に肝付勢が居城松山を陥れ、兄弟とも戦死したこと、家の重器が奪われ、後に松山で軍神摩利支天として祀られたことを記す。

  31. 後編1-No.130 殉国名薮

    永禄二年の松山城・飫肥方面などの戦闘で討死した者を、日付・戦場・所属とともに列挙する。平山父子・兄弟、春成久正らの戦死状況を収める。

  32. 後編1-No.131 山川郷霧島神社造立棟札

    山川郷の霧島神社を造立した棟札。大檀那伴兼堅の息災延命を願い、大工・小工・鍛冶の名を記す。

  33. 後編1-No.132 足利義輝公帖

    足利義輝が宗賓首座に対し、薩摩国大願寺の住持職を先例どおり執務するよう命じた公帖。

  34. 後編1-No.133 渋谷良重公帖

    渋谷良重が宗賓首座に、薩摩国大願寺の住持職を先例どおり執務するよう命じた公帖。年次不詳の注記がある。

  35. 後編1-No.134 賦初何連歌

    永禄二年五月十八日、聖廟法楽として催された『初何』の連歌。花・夏・五月雨・月・旅・恋・神祇・無常などを題材に、貴久らが百韻を連ねる。

  36. 後編1-No.135 島津忠将受取状

    正八幡宮へ前豊後守忠朝が寄進した金を本田紀伊入道が持参し、島津忠将が受領して三原遠江守へ渡したことを証する受取状。

  37. 後編1-No.136 某寄進状

    正八幡宮の御宝殿へ神楯一具を奉納した寄進状。本文には寄進者名が見えず、編集注も寄進文書の一つであろうとする。

  38. 後編1-No.137 田布施牟礼城天照大神正躰并鰐口銘

    永禄二年八月、国家豊饒・領内安全を願って田布施牟礼城に天照大神を勧請し、正躰と鰐口を安置した際の銘文。島津忠良の名を刻む。

  39. 後編1-No.138 島津貴久・義久連署起請文

    島津貴久・義久が肝付兼盛に、境界をめぐる雑説は島津方の仕業ではないこと、今後は雑説が起きれば隠さず披露して真偽を決し、互いに頼み合うことを誓った起請文。

  40. 後編1-No.139 島津貴久・義久連署起請文

    伊地知方の件を知らなかったこと、不忠者に同心しないこと、頴娃方に対して隔心なく従来どおりの関係を保つことを貴久・義久が誓い、違背時の神罰を掲げた起請文。

  41. 後編1-No.140 箕輪伊賀自記

    永禄二年秋、伊東義祐が飫肥の島津忠親の城へ攻め寄せたため、忠平が救援を願い出た経過を記す。貴久・義久が当初制止したが、忠平は忠親との親子の契約を理由に、兵三百を率いて飫肥へ向かった。

  42. 後編1-No.141 島津貴久宛行状

    島津貴久が奉公の功により、薩摩国鹿児島郡内の犬迫名を入来院加賀守へ宛行い、知行するよう命じた宛行状。

  43. 後編1-No.142 島津国史

    永禄三年、幕府が伊勢備後守貞運を派遣し、島津氏と伊東氏の停戦を調停した経過を記す。貴久が末吉で上使と会い、新納忠元・肝付兼盛・樺山幸久を通じて返答し、飲肥領有と和平条件を折衝した。正八幡宮修造にも触れる。

  44. 後編1-No.143 相良頼房書状

    相良頼房が島津氏へ新春の祝意を述べ、先の使書への丁寧な返答を喜び、今後も意見を交わしたいと伝えた書状。

  45. 後編1-No.144 島津義弘譜

    島津義弘が飫肥の島津忠親の猶子となり、永禄三年三月十九日に薩摩を発って飫肥へ赴き、防御を固めた経緯を記す。帰薩後に再び伊東勢来襲を聞くと、貴久父子の制止を振り切り、忠親との親子の契約を守るため救援へ駆けつけた。

  46. 後編1-No.145 殉国名薮

    永禄三年五月十一日に戦死した財部武蔵盛慰について、戦場・所属などを注記する殉国記事。

  47. 後編1-No.146 島津貴久書状

    島津貴久が歳久に、蒲生から九郎をその方へ移すことを知らせ、加世田での談合後に末吉へ上る予定や、鹿児島で迎え、月末には境へ出陣する覚悟を伝え、用心を促した書状。

  48. 後編1-No.147 島津貴久寄進状

    島津貴久が正八幡宮御宝殿へ刀一柄を奉納した寄進状。刀の銘・作者を記す。

  49. 後編1-No.148 島津貴久寄進状

    島津貴久が正八幡宮御宝殿へ刀一柄を奉納した寄進状。No.147と同文として本文が省略されている。

  50. 後編1-No.149 田布施大明寺由緒書

    田布施大明寺の勝手大明神へ、永禄三年に島津忠良(日新)が自筆の額一枚を奉納し、社を再興したことを記す由緒書。

  51. 後編1-No.150 箕輪伊賀自記

    永禄三年夏頃、伊集院忠純の家臣の言動を発端に肝付兼続が島津貴久を怨み、鹿児島を去った経緯を詳述する。兼続方は廻伊豆守の城を奇襲して奪い、伊豆守を討ち、兼続自身も廻城へ入って島津方と対立した。

  52. 後編1-No.151 某論旨副状

    大隅国桑原郡の正八幡宮三所大菩薩の神体九躰を造立して叡覧に備えたことを賞し、檀那島津貴久の尽力を神妙・懇志大切と伝えた論旨副状。

  53. 後編1-No.152 新納忠元譜

    永禄三年、足利義輝が伊勢貞運を派遣して島津・伊東両氏の和平を図った際、新納忠元が樺山幸久・肝付兼寛らと末吉で応接し、調停に功績を挙げたことを記す。

  54. 後編1-No.153 樺山善久筆記

    永禄三年十月四日から二十七日まで、幕府上使伊勢貞運が末吉へ下向し、島津・伊東両氏の飫肥をめぐる和平を調停した経過を樺山善久が日次で記録する。島津方は飫肥を公領として伊東へ渡さないことを主張し、上使との会見・返答・贈答を重ねた。

  55. 後編1-No.154 新納忠元勲功記

    永禄三年十月、将軍足利義輝の命で伊勢貞運が島津・伊東両氏の和談を調停した際、島津貴久が末吉で会見し、新納忠元・樺山幸久・肝付兼寛に応答を任せたことを功績として記す。

  56. 後編1-No.155 伊勢貞運書状

    伊勢貞運が島津方の和平受諾を喜び、飫肥の公領化と百姓への下知、豊州忠親への伝達、島津・伊東双方の年寄を集めた会談の準備を求めた書状。

  57. 後編1-No.156 島津忠久下向時役人交名

    島津忠久が薩摩へ下向した際に従った役人七人の職掌と氏名を記した交名。No.157と同文の別本で、本文は省略される。

  58. 後編1-No.157 島津忠久下向時役人交名

    島津忠久下向時の七役人を列挙し、本田を御幡奉行、酒匂を御沓役人、猿渡を御鎧役人などとする職掌の由来や、合戦での役目継承を記す。

  59. 後編1-No.158 島津貴久譜

    島津貴久が正八幡宮再興を進め、日秀上人を本願として国内で勧進し、知定坊を上京させて神体を造立、叡覧を経て下向させた経過を記す。永禄三年十二月十三日に遷宮し、二十五菩薩の面具、獅子皮文飾、金襴の幡二十五流、白銀の幣一流などを奉納し、八幡七字を冠した和歌十一首を詠んだ。

  60. 後編1-No.159 島津貴久譜

    No.158と同文として本文を省略し、島津貴久による正八幡宮再興・遷宮の記事であることを示す。

  61. 後編1-No.160 年代記

    永禄三年、島津貴久の代に大隅国正八幡宮の遷宮が十二月十一日に行われたことを簡潔に記す年代記記事。

  62. 後編1-No.161 島津国史

    永禄四年、肝付兼続が宴席で鶴を供した際、島津家の鶴丸紋を嘲られたと憤り、伊東氏らと結んで五月十四日に廻城を奪取した。島津貴久・義久らが包囲し、七月十二日の竹原山合戦で島津忠将・町田忠林らが戦死したが、島津方は反撃して肝付・伊地知・禰寝勢を退け、飫肥在陣中の義弘も帰還した経過を記す。

  63. 後編1-No.162 某寄進状

    六十六部沙門本願原加坊が日州福嶋院高野村で百万遍念仏を勧進し、阿弥陀三尊像を造立して、施主および道俗男女の現世安穏・後生善処を祈った寄進状。施主名は本文注記に島津忠良または島津勝久の可能性が示される。

  64. 後編1-No.163 島津日新譜

    日新の長女婿で父子の契りを結んでいた肝付兼続が島津氏に背いたため、日新が儒教的な戒めと和歌を娘へ送り翻意を促したが、兼続は従わず敵対に至ったことを記す。

  65. 後編1-No.164 島津貴久譜

    肝付兼続が島津氏への遺恨から伊東氏と結んで廻城を奪い、島津貴久・義久らが包囲した経過を記す。七月十二日の竹原山合戦で忠将と町田忠林以下多数が戦死したのち島津方が反撃し、飫肥にいた義弘を呼び戻した。

  66. 後編1-No.165 島津義弘譜

    肝付兼続の反乱と廻城をめぐる戦い、竹原山合戦で島津忠将が戦死したことを義弘の譜から記す。飫肥在陣中の義弘は、島津忠親の勧めもあって急ぎ帰還した。

  67. 後編1-No.166 島津忠将譜

    竹原山合戦で、海辺の守備に当たっていた島津忠将が町田忠林の制止を退けて単騎で敵中へ突入し、包囲されて四十二歳で戦死した経過を詳記する。法名は心翁大安大居士で、家臣や援兵にも多数の戦死者が出た。

  68. 後編1-No.167 島津忠将譜

    竹原山合戦における島津忠将の突撃と戦死を記し、忠将に従って討死した家臣・従者が五十余人に及んだことを述べる。続く大安寺過去帳の戦死者名簿につながる記事。

  69. 後編1-No.168 大安寺過去帳(竹原山合戦)

    竹原山合戦で島津忠将に従って戦死した武士・従者らについて、戒名と俗名を列挙した大安寺過去帳の記事。忠将・町田忠林をはじめ五十余人の戦死者を伝える。

  70. 後編1-No.169 廻城供養塔碑銘

    永禄四年七月十二日に廻城近くで戦死した島津忠将(心翁大安居士)を追善するため、嫡子が戦死地に七宝の塔を建立したことを記す碑銘。天正三年八月の日付を持ち、忠将の武功と供養の趣旨を漢文と偈で述べる。

  71. 後編1-No.170 川上久朗譜

    竹原山敗戦後に敵勢が大牟礼山麓へ進んだ際、川上久朗が七尺三寸の大太刀を振るい、滝聞越後・河野玄蕃が槍で応戦して撃退した。非常時で公的恩賞がなかったため、久朗が私領を両名へ与え、のち検地時に返還された経過を記す。

  72. 後編1-No.171 町田氏庶流系図

    島津貴久の命で島津忠将の家老となった町田忠林が、永禄四年七月十二日に廻の竹原山で戦死したことを記す。二男の軍四郎忠次も十九歳で父とともに戦死し、両人の法名を載せる。

  73. 後編1-No.172 町田氏庶流系図

    町田氏十四代家督伊賀守久倍の二男である町田忠成が、島津貴久の命により島津忠将の家老となり、永禄四年七月十二日に廻の竹原山で戦死したことを記す系図記事。

  74. 後編1-No.173 川上氏支流系図

    川上久朗の弟で右京亮と称した川上忠継が、永禄四年七月十二日に島津忠将に従って戦死したことを記し、法名を忠心長継居士とする系図記事。

  75. 後編1-No.174 壱岐加賀年代記

    永禄四年、日向本城方面の戦況に続き、肝付兼続が五月に廻城を奪い、島津方が大牟礼・馬立・竹原山へ布陣した経過を記す。肝付方は救援を求め、伊東方も本城・酒谷間の鎌ケ倉に陣を置いた。

  76. 後編1-No.175 年代記

    永禄四年五月十四日に肝付方が廻城を忍び取り、六月二十七日に島津方が大牟礼・馬立・竹原山へ陣を置いた。七月十二日に竹原山が破られて忠将以下七十余人が戦死し、十一月七日に代賢が福昌寺へ入院したことを記す。

  77. 後編1-No.176 殉国名薮

    永禄四年五月から七月十二日にかけての廻・竹原山合戦における島津忠将以下の戦死者を列挙する。町田氏・川上氏・酒勾氏などの武士に加え、中間・従者・人足まで多数の名を伝える。

  78. 後編1-No.177 樺山玄佐自記

    肝付兼続の廻城奪取後、島津方が曽於郡方面の安全確保を図りつつ大平・馬立・竹原山へ布陣した経過を記す。竹原山合戦で忠将が戦死し、島津方が反撃したこと、樺山玄佐の知行や陣所をめぐる処置まで述べる。

  79. 後編1-No.178 日向記

    肝付兼続が廻城を奪ったため島津方が三か所に陣を置き、伊東方が本城・酒谷間の鎌ケ倉から肝付を支援した経過を記す。竹原山・馬立の陣が破られ忠将以下七十人が討たれたとの注進を受け、日向方面でも対応を協議した。

  80. 後編1-No.179 薬丸兼政等連署状

    廻城への普請・陣役のため、役負担者だけでなく小者にも竹尻を一つずつ用意させ、五月二十七・二十八日に串良で受け取るよう命じる。また村人に廻城へ米を運ばせ、受取日記を提出するよう指示した連署状。

  81. 後編1-No.180 竹原山合戦従軍者交名

    永禄四年七月、島津忠将が戦死した竹原山合戦で、その後も戦場に踏みとどまって防戦し、敵を討ち取った従軍者として瀧聞美作守・梅北刑部左衛門を挙げる交名。

  82. 後編1-No.181 箕裘自記

    島津方が廻城を包囲すると、肝付方は六千余騎を集め竹原山・馬立の陣を攻撃し、島津忠将以下を討ち取った。兼続は忠将との旧交を思って涙し、島津方は一時和睦して撤陣し、飫肥の義弘も貴久・忠親の意向により帰国した経過を記す。

  83. 後編1-No.182 壱岐賀州年代記

    永禄四年七月、肝付勢が島津方の陣を崩して総大将の島津忠将以下多数を討ち、廻城の守備を救ったことを記す。さらに飫肥方との和議交渉、人質交換、先宮城の一部引渡しなど日向方面の動向を続けて記録する。

  84. 後編1-No.183 肝付兼明指出(元禄七年)

    永禄四年七月十二日の廻陣で島津忠将が戦死した際、肝付兼明の兄孫六・仲右衛門が竹原山で戦死し、掃部助は忠将を討ち取ったのち同月十七日に坂で切腹したことを記す指出。

  85. 後編1-No.184 長谷場越前自記

    島津方が大牟礼・馬立・竹原山から廻城を包囲し、降伏をめぐる評議ののち、七月十二日に肝付勢の攻撃を受けた経過を詳述する。竹原山・馬立で忠将以下が戦死した一方、大寺大炊助・瀧聞美作守・梅北刑部左衛門らが奮戦し、敵を恒吉方面へ退けた。

  86. 後編1-No.185 隈庄親昌書状

    隈庄親昌が薩摩との交渉について大友氏重臣らへ取り次いだ経過を述べる。肝付兼続が廻城を忍び取って薩摩国内が混乱した事情を伊集院大和入道から聞いたとして、花巌院の口上どおり日向へ早急に下知するよう求め、茶磨を贈った書状。

  87. 後編1-No.186 大友義鎮書状

    大友義鎮が花巌院から薩摩側の事情を詳しく聞き、日向へ下知すると回答した書状。今後も緊密に連絡することを求め、贈られた茶磨への礼を述べる。

  88. 後編1-No.187 島津貴久書状

    島津貴久が、軍勢を飫肥へ出す件について義久から聞いた内容を了承しつつ、義久自身の出陣には慎重な意向を示した書状。まず忠将を立てる予定で、現地の人々にも事情を伝え、変化があれば改めて知らせるとする。

  89. 後編1-No.188 島津貴久譜

    真幸院の北原兼守死後、家臣団が分裂して政道が乱れ、踊城主白坂氏や栗野・吉松・吉田・馬関田が島津方へ従った経過を記す。横川城の北原伊勢介・新介は従わず、島津方は義弘を真幸院へ進出させ、伊東・相良両氏の介入に備えた。

  90. 後編1-No.189 島津貴久宛行状

    島津貴久が菱刈大和守重猛の望みにより、大隅国栗野院百二十町を先例どおり知行するよう命じた宛行状。

  91. 後編1-No.190 島津日新教戒条々

    日新が義久へ、善悪をなす心を戒める和歌と五か条の教訓を示した文書。人物をよく見極め、怠慢を避け、国のため身を惜しまず過ちを改めて怒りを抑え、弱者をひそかに救い、五常を正して奢侈を禁じることを説く。

  92. 後編1-No.191 日向記

    永禄四年霜月、伊東方が兵糧不足を理由に島津忠親へ城の明渡しを迫ったため、忠親方は鎌ケ倉の兵を新山へ移した。十二月に使僧と日置周防介を山東へ送り、佐土原方との和睦を整え、宮薮を引き渡して番衆を入れた経過を記す。

  93. 後編1-No.192 鰐口銘

    薩摩国田布施村の伊勢大神宮に奉納された鰐口の銘文。日新軒、座主俊英、鮫島藤原宗増の名と永禄四年十二月吉日の年紀を刻む。

  94. 後編1-No.193 島津国史

    永禄五年、伊東義祐・肝付兼続の攻勢で島津忠親が飫肥・志布志を失った情勢と、真幸院北原氏の家督争いを記す。島津方は北原兼親の飯野復帰を支援し、横川城を攻略して菱刈氏へ与え、栗野・飯野方面の支配を固めた。

  95. 後編1-No.194 島津日新忠良書状

    日新が新納康久の従来の忠節を忘れていないと述べ、廻陣で子の文八郎順次が戦死した悲嘆を慰めた書状。弟弥五郎に家を継がせることを了承し、鹿児島へ上申し、自身からも取り成すとして後亀の鏡を贈った。

  96. 後編1-No.195 島津忠平義弘書状

    真幸境の雑説に対処して在陣を続けるよう老中から命じられ、義弘が支度したところ、大夫殿から独断で続行しないよう申し渡されたため、自身では判断できないとして使者を送り、蒲生美作守に詳しい返答と披露を求めた書状。

  97. 後編1-No.196 日向記

    島津忠親が伊東方との和睦条件に従い、永禄五年二月二十二日に志布志を伊東方経由で肝付氏へ渡した。五月十八日には飫肥も伊東方へ引き渡して忠親が櫛間へ退き、日置・柏原両氏には南郷三百町が与えられた経過を記す。

  98. 後編1-No.197 年代記

    永禄五年三月四日から福昌寺で国家太平を祈る一万部法華経が行われ、代賢が焼香し貴久が檀那となったことを記す。さらに飫肥の伊東方への引渡し、忠親の反攻、六月三日の横川城攻略、義久の栗野越年を載せる。

  99. 後編1-No.198 庄内平治記

    伊東勢が本城・酒谷を攻略したため、島津忠親が飫肥南郷を伊東氏へ、志布志を肝付氏へ渡して福島へ退いた経過を記す。忠親は九月十七日夜に飫肥城を奇襲して百余人を討ち、翌日酒谷城も奪回し、北郷時久には末吉三百五十町などが与えられた。

  100. 後編1-No.199 殉国名薮

    永禄五年の郡山および六月三日の横川城合戦などで戦死した島津方の武士を列挙する殉国名簿。尾辻佐左衛門尉、貴島図書助をはじめ各地の従軍者名を伝える。