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後編1の目録
旧記雑録 弘治元年~天正12年の文書・記事です。
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後編1-No.1093 細川藤孝副状
細川藤孝が島津義久へ、日向産の若鷹を所望する内書が出され、小袖を拝領したことを伝え、この趣旨を心得るよう取り次いだ副状。
後編1-No.1094 飛鳥井雅継書状
飛鳥井雅継が北郷時久へ、前年に右兵衛督が急逝したが領元のことは引き続き織田信長から命じられているので安心するよう伝える。日向での時久の軍功が京都にも広く知られていると賞し、必要があれば申し付けるよう述べ、梶井門跡筆の歌と扇二本を贈った。
後編1-No.1095 田原鎮忠書状
田原鎮忠が町田忠房へ、土持氏旧領の処置や門川に滞在する土持次郎九郎、同地へ送った女中親子について尋ねる。高城で大友方の将兵が戦死し再戦を求める声が強いため豊薩両家の永代静謐が難しくなるとして、島津以久とも相談し和談を調達するよう求めた。
後編1-No.1096 彦山衆徒連長等連署状
彦山の連長・栄運・英勝・莞栄・実秀が伊集院忠棟へ、前年の書状への返答を喜び、彦山満山衆徒が島津家へ少しも怠慢を存じないことを老中へ神文で申し上げたと伝える。織筋一端を進上し、詳しくは使僧が説明するとした。
後編1-No.1097 彦山衆徒連長等連署状
彦山衆徒が村田経定へ、前年夏の書状に対し、彦山勢が豊後陣で軍忠を尽くしたとの疑いを聞いて驚いたと述べる。事実無根であり、豊後方への隔心に偽りがないことを牛王宝印の裏に誓い、取り成しを求め、織筋一端を贈った。
後編1-No.1098 織田信長書状
織田信長が島津義久へ、大友氏との交戦は望ましくないので和合するよう勧める。本願寺を赦免して紀州雑賀へ退かせ畿内が静謐になったため、翌年は西国へ出馬する予定であり、その際は天下のため格別の忠節を尽くすよう求め、近衛前久からも説明があるとした。
後編1-No.1099 織田信長書状
織田信長が近衛前久へ、面会時に述べたとおり大友・島津両氏の戦いを止めて和睦させるよう求める。大坂が落着したので翌年は毛利氏を追討する予定であり、双方が協力して天下への忠節を尽くすよう取り計らい、伊勢貞知を下向させるよう命じた。
後編1-No.1100 島津義久譜
天正八年正月二十七日、伊勢貞知が前年八月十二日付の織田信長書状を近衛前久から受け取り、島津義久へ届けたことを記す。信長と前久が島津・大友両氏の和平を仲介した経緯を示す。
後編1-No.1101 織田信長書状
本文はNo.1099と同文につき省略されている。織田信長が近衛前久に、島津・大友両氏を和睦させ、翌年の毛利追討に双方を協力させるよう求めた書状。
後編1-No.1102 近衛前久書状
近衛前久が島津義弘へ、豊薩和平をたびたび申し送ったが返答がなく、大坂対応で遅れたと述べる。織田信長が伊勢貞知を下向させるので、この機会に和議へ同意するよう取り成しを求めるとともに、大鷹を信長と前久へ送るよう依頼し、鰍一懸を贈った。
後編1-No.1103 近衛前久書状
近衛前久が島津義久へ、在国時から約束していた『詠歌大概』を書いて送る。また大鷹を織田信長へ進上することを最優先とし、その機会に自分の分も含め数多く送るよう重ねて求めた。
後編1-No.1104 近衛前久覚書
近衛前久が島津義久へ示した覚書。織田信長へ進上する鷹、一般新規の案件、領知と日向、朱印への礼、豊薩和議へ同意する場合の使者派遣、両国和睦後の出馬時に軍勢を立てること、相良氏に裏表がなければ従来どおり相談することを列挙する。
後編1-No.1105 近衛前久書状
本文はNo.1103と同文につき省略されている。近衛前久が島津義久へ『詠歌大概』を送り、織田信長への進上分と自身の所望分として大鷹を多数調達するよう求めた書状。
後編1-No.1106 近衛前久書状
近衛前久が喜入季久へ、島津氏がなお豊後との戦いを続けようとしていると聞き、織田信長が大友氏を疎略にしない以上、たとえ義久に異存があっても今こそ和議を取り持つべきだと説く。宮内卿法印・猪子兵介も同意見で、金鐘寺和尚にも申し渡したので、無事に同心するよう働きかけることを求めた。
後編1-No.1107 天草紹白書状
天草鎮尚入道紹白が伊集院忠棟へ、念願していた受領名を島津義久から許されたことを喜び、遠島・海路不自由のため礼が遅れたと詫びる。祝儀として太刀一腰、馬一疋代、段子などを進上し、義久への披露を依頼した。
後編1-No.1108 島津義久書状
島津義久が天草鎮尚へ、前年春の懇望に応じて受領を許したところ、礼状と太刀一腰・馬・段子を贈られたことを喜び、詳しい返答は年寄から伝えるとした書状。
後編1-No.1109 島津義久起請文
島津義久が土持綱実へ、世上に変事があれば親類の縁を重んじて逆徒を捨て、島津方へ無二の忠勤を尽くすとの誓いを評価する。互いに讒言を知らせ合い、大友家へ従属せず今後も一味することを神々に誓った起請文。
後編1-No.1110 北郷一雲譜
北郷一雲入道時久が島津義久から書状を受け、神載をもって永く無二の忠節を尽くすと誓ったことを義久が賞した記事。従来の知行証文を改めず、数か所の城と所領を相違なく宛行う旨を記す。
後編1-No.1111 島津義久宛行状
島津義久が北郷時久へ、神載によって永く無二の忠節を尽くすとの誓いを賞し、従来の知行証文を改めず、数か所の城と所領を相違なく宛行うと保証した宛行状。
後編1-No.1112 島津義久宛行状
本文はNo.1111と同文につき省略されている。島津義久が北郷時久の永続的な忠節を賞し、従来どおり数か所の城と所領を宛行うとした文書。
後編1-No.1113 谷口宮内覚書
天正七年冬から島津義久が薩摩・大隅・日向三か国を支配し、翌天正八年春に家臣へ知行を給与したことを簡潔に記す覚書。
後編1-No.1114 新納忠元譜
新納忠元と鎌田政年が肥後を島津義久の支配下へ入れる計画を立て、出水で島津義虎と密談し、志岐・上津浦・天草の諸氏を招いて協議した。天正八年に軍勢と多数の船を整え、天草へ渡って矢崎城・網田城を攻略し、豊前・肥前・肥後・筑前・筑後方面への進出の端緒を開いたとする。
後編1-No.1115 島津歳久譜
天正八年、島津歳久が吉田から祁答院宮城へ移り、鶴田・求名・佐志・時吉・紫尾・柏原・湯田・中田・船木・中津川・虎居・平川・久富木などの十二か所を領したことを記す。
後編1-No.1116 賦何路連歌
天正八年正月二十五日、島津義久ら十三人が催した百韻連歌。『若葉さす梅に立ならふ木ともなし』を発句とし、春景・旅・恋・月・秋・神祇などを詠み継ぎ、末尾に各人の句数を記す。確定版年月日は年次数字を欠くが、本文年紀は天正八年と読める。
後編1-No.1117 旧記
天正八年五月十五日の岩牟礼城攻めで、島津方が矢に『秋風に水俣をつる木の葉かな』と書いて城へ射込み、相良方が『よせてはしつむうら浪の月』と付け返した。島津方は『汝沈我浮』と憤って攻撃を強め、ついに城を陥れたとする逸話。
後編1-No.1118 殉国名薮
天正八年五月十五日の岩牟礼城攻めと十月十五日の矢崎城攻めなどで戦死した島津方の諸士を列挙する名簿。入来院重豊は病気で出陣できず、山口重秋・種子田秀高らに従兵五千余を付けて出陣させたことも記す。
後編1-No.1119 勝部兵右衛門問書
相良義陽が大友軍の日向出陣時に大口へ攻勢を図ったが、新納忠元が大口在番を続けたため実行できず、耳川で大友軍が敗れると形勢が悪化した。相良氏がなお阿蘇氏と結んで島津へ従わなかったため、天正八年五月十三日、忠元が菱刈・牛屎両院の兵三千余を率いて宝川内城を落とし、岩牟礼に城を築いて相良方と対峙した。
後編1-No.1120 古物語
宝川内攻めの際に島津方が苦労を重ね、桜川城を受け取ったことを簡潔に伝える古物語の記事。
後編1-No.1121 知行坪付
加世田の御所之前・大坪・中島などにある田地を列記し、合計五反を前田兵部左衛門尉の知行として示した坪付。
後編1-No.1122 島津氏老臣連署寄進坪付
島津義久が肥後矢崎城出陣の際に立てた誓願に基づき、勝利後、大隅国一山のうち浮免五反を大口苗代薬師へ新寄進した坪付。市来宗左衛門先・樋渡し・奈良木・比良田などを掲げ、老臣五人が連署する。
後編1-No.1123 島津氏老臣連署坪付
日向国飫肥院の上崎門・巳ノ崎などの田地を懸命の地として井黒主水佑へ宛行った坪付。伊集院忠棟と本田親貞が連署する。
後編1-No.1124 本田親貞署判知行坪付
日向国飫肥の坂谷・萩合門・向之丸などの田地を井黒主殿助へ宛行った知行坪付。本田親貞が署判した文書。
後編1-No.1125 井黒又左衛門尉宛知行坪付
新宮領上地のうち、灘木勘解由先・お津田・海老原筑前守先・牛畠など計一反三段を井黒又左衛門尉へ示した知行坪付。本田親貞が署判する。
後編1-No.1126 某書状案
差出人不詳の書状案。長く音信が途絶えた理由を海陸遠隔のためとし、島津義久が元亀三年の根占・肝付服属、天正四年の高原城攻略、伊東氏の没落を経て三州を統一した経緯を述べる。さらに大友宗麟・義統が伊東氏復帰を図って高城を包囲したが、義弘を先鋒とする島津軍が大勝し家久を救ったとして、九州諸国が義久の仁化を求…
後編1-No.1127-1 島津氏老臣連署知行目録
慶長十九年七月二十三日、明石川喜之内の高十四石を淵辺主計助へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署する。本文には編年位置を誤った文書との注記がある。
後編1-No.1127-2 島津氏老臣連署知行目録
慶長十九年七月二十三日、所定の浮免高一石余を直松作右衛門へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署し、編年位置を誤った文書群に含まれる。
後編1-No.1127-3 島津氏老臣連署知行目録
慶長十九年七月二十三日、浮免高三石一斗余を小嶋吉兵衛へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署し、編年位置を誤った文書群に含まれる。
後編1-No.1128 島津氏老臣連署坪付
薩摩国牛屎院小木原名一町の内、年々不作の二反を含む田地や堀町など、合計一町二反二十を内田主馬首へ示した坪付。確定版年月日は二月吉日だが、本文年紀は天正八年三月吉日と読める。
後編1-No.1129 島津氏老臣連署坪付
福昌寺再興のため、従前寄附されていた平松の土地を繰り替え、返地として薩摩国鹿児島の浮免一町二反余を与えた坪付。平田光宗ら老臣五人が連署する。
後編1-No.1130 島津氏老臣連署坪付
大隅国横川院内の浮免田地を川田橋対馬守へ宛行った坪付。上井覚兼・平田光宗・伊集院忠棟が連署する。
後編1-No.1131 彦山衆徒連長等連署状
彦山衆徒が島津氏老臣へ、島津領内諸社の祈祷のため年二季下向してきたところ、年一度に減らすとの命を受けたと述べる。山上が困窮しているため新寄進を検討し、従来どおり二度下向できるよう求めた。前年に秋月種実が裁定したが未解決のため、使僧学琳坊を派遣して訴えた。
後編1-No.1132 彦山衆徒連長書状
彦山政所坊連長が伊集院忠棟へ、年中二季下向を認めてもらう訴訟のため、山上から使僧学琳坊を派遣したと伝える。神慮への配慮と山徒の扶育のため両度の許可を求め、詳しくは水口坊が申し上げるので披露するよう依頼した。
後編1-No.1133 島津義久書状
島津義久が東福寺龍吟庵東堂へ、使僧と書状を受け、累祖以来の筋が中絶している即宗庵を再興する意向を伝える。領国内の戦乱が続いているためまず黄金三十両を進献し、残りも後に調えるので早く修造を始めるよう求めた。大慈寺他派との噂については旧規に背かないと明言し、恵堅首座が説明するとした。
後編1-No.1134 島津氏老臣連署坪付
薩摩国加世田の津貫名にある牧野段之門・天満・午牟田・谷口・山下・宮田・尻陰俣などの公田九町余を上原隼人佑へ示した坪付。確定版年月日は『年間三月』だが、本文年紀は天正八年閏三月吉日と読める。
後編1-No.1135 島津氏老臣連署坪付
大隅国蒲生の久末名・北村名などにある公田・浮免、合計一町三反余を御重恩として浜田民部左衛門尉へ宛行った坪付。確定版年月日は『月間三月』だが、本文年紀は天正八年閏三月吉日と読める。
後編1-No.1136 伯耆顕孝書状
伯耆顕孝が伊集院忠棟へ、島津方への人質差出しを準備していたが、鎌田政年・新納忠元が途中から帰陣したと聞いて一旦留めたと伝える。城親賢の子は阿蘇家と縁組したが島津への疑心は不要とし、島津の総勢が渡海する際は事前に知らせてもらえば和泉まで人質を送ると約した。
後編1-No.1137 新納家系図
鎌田政年と新納忠元が肥後を島津義久の支配下へ入れる計画を立て、出水で島津義虎、志岐・上津浦・天草の諸氏と協議した。天正八年、軍勢と船を整えて天草へ渡り、機を見て矢崎城を急襲・攻略し、豊前・肥前・肥後・筑前・筑後方面への進出の端緒を開いたとする系図記事。
後編1-No.1138 島津氏老臣連署坪付
薩摩国市来の養母名・山田の内田崎名などの田地を懸命の地として川上孫次郎へ宛行った坪付。平田光宗と伊集院忠棟が連署する。
後編1-No.1139 島津義久譜
相良義陽が大友軍の日向侵攻に乗じて大口城を狙ったが、新納忠元が守り抜いた。相良氏が阿蘇惟前と結んで宝川内城を固めたため、義久は平田又次郎を通じて攻撃を命じ、忠元・忠尭らが天正八年五月十三日に攻めた。平田又次郎・本村十介・園田掃部が戦死したが、十五日に城を落とし、岩牟礼・釘野方面へ進出した。
後編1-No.1140 新納忠秀譜
若年から新納忠元に従って各地で軍功を挙げた新納忠秀が、天正八年夏の肥後国葦北郡宝川内城攻めに先立ち、何度も現地へ忍び入って地勢を偵察し、詳しく報告した。攻略後も諸戦で敵首を得て、その中に合志玄宅がいたと記す。
後編1-No.1141 樺山忠助譜
天正八年に相良領の宝川内城を落とした後、敵が毎夜城麓を襲って警固が困難になったため、樺山忠助が入城して武略で退けた。翌年正月十一日には勇士を津奈木城麓へ忍ばせ、築瀬氏一人を討ち一人を生け捕りにした結果、襲撃が止み、二月下旬に陣を開いた。
後編1-No.1142 新納忠元勲功記
天正八年五月、忠元らが宝川内城を攻め、忠尭が先駆けして鑓を合わせ、平田又次郎らが戦死する中で攻略し、柊野・岩牟礼も島津領とした。六月以降は熊本の城親賢救援を進め、鎌田政年らを派遣。十月に矢崎城を焼き攻めて落とし、翌日網田城を降伏させた。十一月には合志領へ進み、大津山越前守以下百三十余人を討ち、十二月…
後編1-No.1143 天正八年水俣御陣賦
天正八年の水俣方面出陣に参加した諸地頭と配下を編成別に列挙する陣賦。大口の新納忠元、伊集院久治をはじめ、羽月・曽木・平泉・湯之尾など各地の将と軍勢を記す。
後編1-No.1144 島津義久譜
天正八年十月十五日、新納忠元・鎌田政年・伊集院久治を大将とする島津軍が肥後国の矢崎城などを攻略し、熊本城も島津義久の旗下へ降ったことを記す。
後編1-No.1145 島津義久譜
天正八年十一月二十三日、佐多久政を将として、新納忠元・忠尭、川上忠智、肝付兼寛、上原尚近、比志島国貞らが大軍を率い、肥後合志城を攻めたことを記す。
後編1-No.1146 島津義久譜
天正八年十二月十三日、肥後出陣で軍功を挙げた薩摩・大隅・日向の諸将と勇士が熊本を去り、そろって薩摩へ帰陣したことを記す。
後編1-No.1147 肥後境合戦従軍者交名
天正八年の肥後進出に際し、事前偵察、宝川内城攻め、熊本番手、矢崎城攻め、合志方面出陣に参加して軍功を挙げた者を日付・戦場別に列挙する交名。鎌田政年ら足軽三百余の派遣、新納忠秀らの偵察、忠元・忠尭らの攻略、佐多久政・伊集院久治らの合志戦を記す。
後編1-No.1148 樺山紹剣自記
宝川内を取った直後、敵が夜ごと城麓を襲うため、樺山忠助が自ら警固に入り、遠見と野伏で敵を遠ざけた。正月十一日には津奈木城麓へ忍び、築瀬氏一人を討ち一人を捕らえた。二月末に水俣・津奈木間で仕置をして帰る途中、一之瀬陣で大口勢が敵の騎馬衆と戦い、永井軍兵衛が討死したことも記す。
後編1-No.1149 古物語
一之瀬付近の戦いで丸田但馬と川原与介が深入りし、相良方の騎馬五騎に追われた。下人早左衛門が『逃げても死ぬなら首一つ取って死のう』と但馬の鉄砲を手にして踏みとどまり、但馬も小山に忍んで先頭の騎馬を撃ち落としたため、敵が伏兵を疑い味方が退却できたという逸話。
後編1-No.1150 島津義久書状案
島津義久が彦山政所坊へ、年二季の下向について使僧と秋月種実から格別の取り成しがあり、黙止し難いので先規を改めて願いどおり許可すると伝える。これに応じ、彦山満山が怠りなく祈念するよう求め、詳しくは伊集院忠棟が説明するとした返書案。
後編1-No.1151 正八幡宮雨社殿造営茶番交名
正八幡宮の両社殿造営に伴う茶番を十九番まで編成し、大樟・神田橋・沢・桑幡・最勝寺・田口・嶋田らの担当と法名を列挙した交名。田所検校永堅が署判する。
後編1-No.1152 正八幡宮四所宮造営茶番交名
正八幡宮四所宮造営の茶番を列挙した交名。前条と同じ形式で番組を示し、十三番・十四番の二行は欠損があるため特に記録したと注記し、田所検校永堅が署判する。
後編1-No.1153 島津忠長譜
島津忠長の祖父忠良が稲富長常を尚久の柱石の臣とし、尚久が早世して忠長が孤児になると、長常の子長秀に忠長を養育させた経緯を記す。忠長が成人した後、その忠功に感謝して長秀へ書状を与えたことを導入する譜記事。
後編1-No.1154 島津忠長書状
島津忠長が稲富長秀へ、父尚久の死後に孤児となった自分を忠良の命で養育し、肝付氏の乱に際して串良院への移住を実現し、高岳・柏原の知行や家臣扶持まで整えた長年の忠勤を賞する。以前与えた一封に加えて知行を増し、後世の証として判物を与えた。確定版年月日は年次数字を欠くが、本文は天正八年仲秋吉日と記す。
後編1-No.1155 島津義久宛行状
島津義久が上井覚兼へ、日向国海江田の城と所領八十町は遠境にあるため、薩摩国永吉郷へ繰り替えて宛行った文書。確定版年月日は『天正年人月十一日』だが、本文年紀は天正八年八月十一日と読める。
後編1-No.1156 島津忠平起請文
本文はNo.1186と同文につき省略されている島津忠平義弘の起請文。本文が後出文書参照のため、この箇所では標題・同文関係のみを記録する。
後編1-No.1157 伯耆顕老書状
伯耆顕孝が島津氏へ、島津家と相良氏の一致について泰平寺に詳しく申し渡したとし、島津方の意向を初めから終わりまで聞きたいと求める。当地の戦況を放置すれば双方の迷惑になるとして、急ぎ判断するよう促し、同趣旨を老中にも伝えた。
後編1-No.1158 城親賢書状
熊本城主城親賢が伊集院忠棟へ、島津方へ無二の忠誠を尽くし、前年から番手衆を受け入れていることは広く知られていると述べる。島津の出勢があれば肥後平定は間もないとたびたび申し上げたのに延引して困っているとして、老中へも詳しく伝え、出兵を取り成すよう求めた。
後編1-No.1159 龍造寺隆信書状
龍造寺隆信が伊集院忠棟へ、相良氏との戦いを理由に八代方面で龍造寺領内の船往来を止めるよう求められたが、肥後国内の運送船まで止めるのは難しいと答える。先月肥後へ出兵して敵数百人を討ち、同国の過半を掌握したと報告し、祭河の要害を落とした後は島津方と一途に相談して大友氏を討ちたいと述べた。
後編1-No.1160 長谷場越前自記
熊本の城親賢父子が商人を介して島津義久への帰属を申し入れたため、鎌田政年が支援を進言し、島津義虎を通じて志岐・栖本・上津浦・大矢野・天草を味方につけた。鎌田ら足軽三百余を熊本へ派遣し、さらに佐多久政ら番手を送った。阿蘇方の甲斐宗運や矢崎・青田・合志勢と対立する中、新納忠元・伊集院久治らを加えて矢崎城…
後編1-No.1161 勝部兵右衛門聞書
鎌田政年の報告を受けて島津家中が肥後支援を評議し、佐多久政を大将として川上忠智・上原尚近・宮原景晴らを熊本へ派遣した。城親政父子と家臣、周辺勢力の帰趨を探り、阿蘇方の甲斐宗運、矢崎・青田・合志・大津山勢と対立する中、秋月・高橋・草野・星野勢の内応も得て、新納忠元・伊集院久治・鎌田政年らが矢崎城攻撃を…
後編1-No.1162 谷口宮内左衛門覚書
天正八年八月十九日、薩摩・大隅・日向三州の軍勢が肥後国葦北郡水俣城を包囲した。球磨・八代勢七百余が籠城したため相垣を結んで攻め、相良義陽が子息兄弟を人質として差し出して島津旗下へ入り、葦北七浦と七城を明け渡したので島津軍が帰陣したと記す。
後編1-No.1163 肥後合戦陣立日記
天正八年八月十九日の水俣城攻めにおける三陣の構成を詳述する陣立日記。家久・征久を中心とする先陣、義弘を大将とする第二陣、義久本陣と歳久・忠長らの後陣について、脇大将・役者・各外城地頭・物頭・近習・納殿衆・兵具・人足を列挙する。各陣約三万一千人、旗本を含む総勢十一万五千人の賦とし、水俣城の球磨・八代勢…
後編1-No.1164 肥後合戦陣立日記副書
肥後合戦陣立日記の副書。原本が御記録所で模写・収蔵された後、雨漏りで朽損したため、家老の許可を得て新たな写本を作り、御記録方の担当者が原本と相違ないことを証した。行間朱書では、肥後への陸路確保のため相良氏へ和談を求めたが拒絶されたので、水俣へ三陣を置き、葦北・七浦・八代を攻略した事情を説明する。
後編1-No.1165 湯田氏蔵旧記
天正八年から同十五年まで、島津家がたびたび軍事評議のため召し寄せた外城の武辺・功者五十四人を、日向・高山・蒲生・小林・志布志・大口・川内など所属地別に列挙する旧記。蒲生衆湯田鶴右衛門の旧記から写したとする。
後編1-No.1166 肥後合戦陣立日記
天正八年八月十九日の水俣城攻めにおける陣立日記の別本。笠陣を先陣として家久・征久ら、第二陣に義弘・北郷忠虎ら、本陣・後陣に義久・歳久・忠長・義虎らを配し、各地頭・物頭・近習・兵具持・人足まで列挙する。三陣の総勢を十一万五千人とし、球磨・八代勢が籠もる水俣城を包囲した編成を記録する。
後編1-No.1167 旧記
肥後合志合戦で伊集院久治が大津源左衛門尉を討った際、その弟六右衛門が駆けつけて久治を危地に陥れたが、伊集院新介が六右衛門を討ち久治を救ったという記事。新納忠元・島津忠長がその働きを上聞に達し、別紙で褒美を与えた。
後編1-No.1168 島津忠長・新納忠元連署状
島津忠長・新納忠元が伊集院新介へ、肥後合志で伊集院久治と大津源左衛門尉が戦い、大勢の敵を追い払ったうえ、襲いかかった大津六右衛門尉を新介が討って久治の命を救ったことを賞する。上聞に達して別紙の褒美が出されたと伝えた連署状。
後編1-No.1169 町田久倍証状
町田久倍が誠心をもって諏訪上下大明神へ不断香を奉献し、永代絶やさないため、麦生田名内霞原の屋敷を香資として寄進した証状。島津家の武運長久、久倍の無病息災・子孫繁昌、領内無事と衆人快楽を祈る。
後編1-No.1170 近衛前久書状
近衛前久が喜入季久へ、豊後との和平について島津義久の意向はもっともだが、織田信長が無事を望んでいるため、近日伊勢貞知を下向させると伝える。異議なく和議が成るよう引き続き尽力を求め、沈香五十両の贈答を謝した。
後編1-No.1171 天正九年八月水俣城攻図
天正九年八月の肥後水俣城攻めについて、城郭・島津軍の陣地・攻撃方向などを示した攻城図。『新編島津氏世録正統系図義久信』に基づく図と注記する。
後編1-No.1172 近衛前久書状
近衛前久が喜入季久へ、豊薩和平を重ねて申し送ってきたが、大坂での対応に追われ返書が遅れたと述べる。織田信長が伊勢貞知を下向させるので、島津方の存分があってもこの機会に同意するよう取り成しを求め、大鷹の進上と自身への所望、扇十本の贈答を記す。
後編1-No.1173 近衛前久書状
近衛前久が喜入久道へ、豊薩和平を重ねて申し送ってきたが、大坂対応で遅れたと説明する。織田信長が伊勢貞知を下向させるので、この機会に島津方が同意するよう取り成すことを求め、扇十本を贈った。
後編1-No.1174 近衛前久書状
近衛前久が島津義弘へ、島津方がなお豊後との戦いを続けようとしていると聞き、大友氏を疎略にしない織田信長の意向に従い、この機会に義久へ和議を勧めるよう求める。宮内卿法印・猪子兵介も同意見で、金鐘寺和尚にも申し渡しており、詳しくは伊勢貞知が伝えるとした。
後編1-No.1175 島津義久証状
島津義久が種子島左近次郎へ、島津家の字を用いたいとの願いは古今の例から容易でないが、先祖時尭以来、海上の危険をしのいで防戦に尽くした功が深いとして、特に使用を許可した証状。
後編1-No.1176 島津義久譜
矢崎城主中村一太夫と網田城主中村二太夫が阿蘇惟前と結び、宇土・熊本および薩摩への往来を遮断したため、新納忠元・鎌田政年・伊集院久治らが数万の兵を率いて出陣した。天正八年十月十五日に矢崎城を急攻し、中村一太夫は自害、島津方にも市来備前守ら多数の戦死者が出た。翌日網田城を攻めると二太夫が降伏し、二十九日…
後編1-No.1177 川上久辰譜
天正八年十月十五日の肥後矢崎城攻めで、川上久辰が佐多忠増・河野通政とともに戦ったことを簡潔に記す譜記事。
後編1-No.1178 長谷場越前自記
天正八年十月十五日、島津方の兵船数百艘が矢崎城下へ着き、鬨の声を上げ火矢で放火して攻め上った。中村一太夫ら城兵は妻子を殺して切り出て戦い、島津方も市来備前守ら多数が戦死した。翌日青田城を和議で開城させ、城兵を阿蘇領へ送り、宇土で負傷者を養生し戦死者を弔った後、二十九日に熊本へ陣替えした。
後編1-No.1179 友野元真奉公覚書
友野元真が肥後矢崎城攻めで先登し、園田清左衛門・林藤七兵衛・市来源番左衛門ら鹿児島衆とともに戦い、城口で敵を切り捨てた奉公を記す。
後編1-No.1180 勝部兵右衛門聞書
天正八年十月十五日、島津方の兵船百余艘が矢崎城下に着き、四方から鬨を作り火矢で城を焼いた。中村一太夫以下の城兵は妻子を殺して切り出し、島津方にも多数の戦死者が出たが城は陥落した。翌日青田城が和議で開城し、鴻浦と合わせ三百町を伯耆鑑高へ与え、二十九日に全軍が熊本へ移った。
後編1-No.1181 勝部兵右衛門間書
十一月二十三日、島津軍が二手に分かれて合志表へ出て久保田千町を焼き、退却時に大津山越前守率いる約四千騎の追撃を受けた。伊集院久治が太刀始めをして負傷しながら敵を討ち、諸将が反撃して大津山越前守以下百三十余人を討ち取った後、熊本へ引き上げた。
後編1-No.1182 勝部兵右衛門聞書
十二月十三日に島津軍が熊本を発って河尻へ下り、翌十四日早朝、順風を得て兵船三百余艘で出航し、一夜で出水米之津へ着いた。島津義虎は戦功を賞して酒肴を送り、翌日出水城へ主要な将と数百人を招いて饗応した。軍勢はその後本国へ帰り、領国の人々が祝った。
後編1-No.1183 島津義久追悼和歌
島津義久が梅岳常潤の死を昨日今日のことのように思いながら十三回忌を迎え、教えを思い出して悲しみ、梅岳の二字を詠み込んで霊前へ手向けた追悼和歌。『梅の花うへし岳へをこと問はゝ とせの古跡そ程なき』と詠む。
後編1-No.1184 島津義久宛行状
本文はNo.1155と同文。島津義久が上井覚兼へ、日向国海江田の城と所領八十町が遠境にあるため、薩摩国永吉郷へ繰り替えて宛行った文書。本文注記は確定版の十一月を八月の誤りとし、本文年紀は天正八年八月十一日と読める。
後編1-No.1185 中山王書状
琉球国から島津義久・鹿児島奉行へ新年を賀し、前年夏に和平の使者山下筑後が帰着したことを喜ぶ。今回普門寺を使僧として派遣し、古来の隣好を変えずに修めたいと述べ、軽微な土産を別紙の目録どおり贈った書状。
後編1-No.1186 島津忠平起請文
島津義弘が相良頼房へ、両家で相談していたところ不慮の事情で一時疎遠になったが、初夏に山中で無二の誼を結び、鎌田方の事実でない乱一味の噂を頼房が宝印裏で否定したことを喜ぶ。今後も同意を変えないことを神々に誓った起請文。
後編1-No.1187 伯耆顕孝書状
伯耆顕孝が島津氏へ、前年秋に相良義陽から島津義弘への神文が届き、その返答で宝印裏に覚悟を示したことを伝える。同内容を城親賢にも閲覧させたので、これを踏まえて適切に判断するよう求め、詳しくは使僧に申し含めたとした。
後編1-No.1188 島津義久譜
天正八年十一月二十三日の合志合戦を記す。島津軍が久保田千町を焼くと、大津山源左衛門ら約四千騎が追撃した。伊集院久治が太刀始めで源左衛門を討ち、顔に傷を負いながら諸将の支援で戦い続け、佐多久政らの総攻撃により合志勢百三十余人を討った。鎌田政年が凱歌を挙げ、十二月十三日に全軍が熊本から薩摩へ帰った。
後編1-No.1189 長谷場越前自記
十一月二十三日、島津軍が合志表の久保田千町を焼いて退く際、大津山越前守率いる約四千騎と交戦した。伊集院久治が太刀始めで敵を討ち、顔に傷を負って危急となるが諸将が援護し、比志島国貞・新納忠元・忠尭・佐多久政らの反撃で大津山越前守以下百三十余人を討ち取った。熊本へ戻り町口で勝鬨を挙げた。
後編1-No.1190 長谷場越前自記
十二月十三日に島津軍が熊本を開陣して河尻津へ着き、翌十四日早朝、兵船三百余艘で出航して一夜で出水米之津へ着いた。島津義虎が酒肴を送り、翌日出水城で数百人を饗応した。軍勢はさらに本国へ帰り、人々が凱旋を祝い、国土豊かで民の安らかな世になったと結ぶ。