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後編1の目録

旧記雑録 弘治元年~天正12年の文書・記事です。

全1,480件中 1301~1400件・14 / 15ページ

  1. 後編1-No.1291 島津義久書状

    島津義久が根占七郎へ、神判によって今後も島津家へ忠節を尽くす旨を示したことを奇特と賞し、義久も将来決して変わらないと春日八幡に誓った返書。本文には義久の紅葉・鹿・旅・水鳥を題材とする和歌も続く。

  2. 後編1-No.1292 千句法度状

    千句連歌の運営法度。二句一直、雪月花の付け方、遠近の出合、諸礼停止を定め、発声の順序に従うよう付記した天正十年九月二十一日付の規定。

  3. 後編1-No.1293 賦何木連歌

    天正十年九月二十二日に島津義久らが催した長編連歌。『月影さむみ暮わたるなり』を発句として、都、旅、恋、四季、神祭などを詠み継ぎ、末尾に各人の句数を記す。

  4. 後編1-No.1294 樺山忠助譜

    天正十年九月二十六日に佐敷が島津方の手に入った後、樺山忠助が水俣から慶賀に参上し、熊本警固を命じられた記事。松葉瀬から宇土を経て熊本へ入り、病床の城親正が年末に死去して熊本衆の心が離れる中、内空閑勢が鹿子木市中を放火したため、忠助は城入道と協力して警固した。

  5. 後編1-No.1295 足利義昭御内書

    足利義昭が島津義久へ、織田信長が天命を逃れられず自滅し、残党も上洛を申し合わせているので、義久も急ぎ馳走するよう求めた御内書。太刀一腰と黄金十両の到来を喜び、詳細は真木島昭光・一色昭秀に託す。

  6. 後編1-No.1296 賦何路連歌

    本文はNo.1301の連歌の一部と同文であるため省略されている、天正十年十一月二十五日付の賦何路連歌。

  7. 後編1-No.1297 連歌抄

    本文はNo.1301の連歌の一部と同文であるため省略されている連歌抄。

  8. 後編1-No.1298 一色昭秀書状

    一色昭秀が喜入季久へ、播磨上月城が即時落ち、尼子勝久と家僕らが切腹し、宇野民部少輔以下の諸士の過半が味方に属したと知らせた書状。義久が肥後へ出馬して大勝したとの風説を祝し、今後も公儀への馳走を太守へ勧めるよう求める。

  9. 後編1-No.1299 島津義久譜

    龍造寺隆信に圧迫された有馬鎮貴・田尻鑑種への救援と、甲斐宗運との和平交渉を日次で記す長文記事。川上久信らを有馬へ渡海させ、千々石城・日比良城を攻める一方、宗運には人質、隈部攻撃、龍造寺との断交を条件として提示した。田尻城の偵察、熊本・八代での軍議、各戦場の首級・負傷者、兵糧事情を詳述し、長期戦を避け…

  10. 後編1-No.1300 島津義弘譜

    天正十年十一月から十二月の有馬・田尻救援と甲斐宗運和平交渉をまとめた義弘譜中記事。川上久信を大将に有馬へ渡海し、田尻城の敵陣を偵察させ、宗運には一族の人質と隈部攻撃を求める。千々石城・日比良城を攻略したが龍造寺勢の兵糧と勢力が強く、遠征軍の補給も難しいため一時帰陣した。

  11. 後編1-No.1301 賦何路連歌

    天正十年十一月二十五日の長編連歌。『氷きや水も枯野の岩すすき』を発句として、冬、旅、恋、春、軍陣、神祇などを詠み継ぎ、珠長・洞庵・実増・震舟らの句数を末尾に記す。

  12. 後編1-No.1302 近衛信尹書状

    近衛信尹が島津家久へ、京都で不慮の錯乱が起こり他に手段がないため、匠作へ使札を送ったと知らせ、この機会の助力を頼んだ書状。扇子五本を贈り、詳細は進藤筑後守に託す。

  13. 後編1-No.1303 島津中務大輔家久譜

    天正十年六月二日に織田信長が明智光秀に弑されて京都が錯乱したため、近衛信尹が進藤筑後守を使者として島津家久へ書状を送ったことを記す家久譜中記事。

  14. 後編1-No.1304 島津義久譜

    天正十年冬、肥後の合志親重・甲斐宗運、肥前有馬城主有馬鎮貴、筑後田尻城主田尻鑑種が、それぞれ島津義久の旗下に属したと記す義久譜中記事。

  15. 後編1-No.1305 近衛信尹書状

    近衛信尹が新納忠元へ、京都で不慮の錯乱が起こり他に手段がないため、この機会の助力を頼み、詳細は進藤筑後守が伝えるとした書状。

  16. 後編1-No.1306 近衛信尹書状

    本文はNo.1247の文書と同文であるため省略されている近衛信尹書状。

  17. 後編1-No.1307 近衛信尹書状

    本文はNo.1246の文書と同文であるため省略されている近衛信尹書状。

  18. 後編1-No.1308 近衛信尹書状

    本文はNo.1245の文書と同文であるため省略されている近衛信尹書状。

  19. 後編1-No.1309 足利義昭御内書

    足利義昭が島津義久へ、日向産の大鷹を所望し、到来すれば喜ばしいと伝えた御内書。返礼に鐙を贈り、詳細は布施治部少輔に含め、真木島昭光・一色昭秀も説明するとする。

  20. 後編1-No.1310 島津義久譜

    足利義昭の前年十一月晦日付御内書が、上使布施治部少輔によって島津義久のもとへ到着し、その内容が日向産の大鷹所望であったことを記す義久譜中記事。

  21. 後編1-No.1311 島津忠平書状

    島津忠平が一乗院へ、歳暮と軍陣祈祷の巻数を受領した礼を述べた書状。米菊丸が厄年で心配していたが家内まで健固なのは懇ろな祈祷のおかげだと喜び、引き続き祈念を頼む。飯野へ矢筈と着物が送られたことにも追而書で礼を述べる。

  22. 後編1-No.1312 島津義弘譜

    大矢野氏の疎意を許して対面したこと、三船・隈荘衆が島津家への無二の奉公と龍造寺氏との断交を誓ったことを記す。さらに両衆と隈部の対立、八代郡の境界・石高算定をめぐる忠平から国老への照会、肥前・肥後経略のため忠平以下が八代に滞在した経緯を載せる。

  23. 後編1-No.1313 島津忠長譜

    島津忠長が天正十年十二月朔日に八代へ到着し、島津忠平・家久ら諸将と肥前・肥後経略の策を協議し、翌年春に帰陣したことを記す譜中記事。

  24. 後編1-No.1314 島津中務大輔家久譜

    島津家久が天正十年に肥後八代で軍務に従い、翌年正月六日に八代を出て鹿児島へ帰り、十八日に年頭を祝って太刀・馬代・酒肴を献じた記事。

  25. 後編1-No.1315 上井覚兼日記

    天正十年十一月四日に宮崎を発して八代へ向かった上井覚兼が、道中、着陣後の連日の軍議・使節往来・酒宴を詳細に記した日記。肥後国内の経略、有馬への渡海、田尻城救援、甲斐宗運との和平と人質、隈部攻撃、日比良城攻略、諸城の番衆・兵船・補給、各将の配置を協議し、三船・隈荘の誓約や年末の帰陣方針に至るまでを日次…

  26. 後編1-No.1316 新納忠元勲功記

    相良義陽が三船へ出兵して甲斐親乗に討たれ、八代が騒動したため、新納忠元が大口など九か所の地頭衆を率いて直ちに八代へ入り、諸城の番を固めた記事。八代古老の要請で八代が島津領となり、地頭は後に伊集院忠棟が務めた。また大口衆らに日比良城を忍び落とさせ、安楽城も退去させたこと、合志・甲斐・有馬・田尻各氏の帰…

  27. 後編1-No.1317 島津義弘譜

    天正十一年正月、肥後・筑後の政道がほぼ整ったため、島津義弘が八代城から帰陣したことを記す譜中記事。

  28. 後編1-No.1318 樺山規久譜

    天正十一年、肥後国日比良城を攻め落とした際、樺山規久が敵を討ち、浅い傷を負ったことを記す譜中記事。月日は追考すべきとの注記がある。

  29. 後編1-No.1319 島津義久条書

    島津義久が甲斐宗運へ示した年頭の条書。北方での働き、宗運・紹真との関係、龍造寺氏が天草・熊本で人質を取ったことへの疑念、有馬・田尻救援の経緯、家久の仲介による和平を述べる。宗運が龍造寺へ直孫を人質に出した以上、阿蘇方と戦って島津への真実を示し、今後は腹蔵なく協力するよう求める。

  30. 後編1-No.1320 島津義久条書

    頴娃氏が山川地頭となる際に島津氏老中から示された三か条。山川湊の先例どおり諸公役を勤めること、唐土・南蛮船が着岸した際は鹿児島へ相談すること、寺社家・地下人の遺恨や争いを明確に裁くことを定め、重大な罪人は直ちに処断してよいとする。

  31. 後編1-No.1321 島津忠平義弘請文

    島津忠平が頴娃久虎へ、これまでの取置を神文で示されたことを喜び、久虎を自分の子同然に扱って疎略にしないと誓った請文。違背すれば彦山・霧島・真幸白鳥・飯野一宮など諸神の罰を受けるとする。

  32. 後編1-No.1322 島津忠平寄進状

    島津忠平が二宮へ、大般若経一部と十六善神王の本尊を奉納した寄進状。

  33. 後編1-No.1323 島津忠平起請文神文

    島津忠平が本田正親へ差し出した起請文の神文。違背すれば天帝釈・四大天王・地神のほか、彦山・霧島・真幸白鳥・飯野一宮などの神罰・冥罰を受けると誓う。

  34. 後編1-No.1324 近衛龍山前久書状

    近衛前久が島津義久へ、本能寺の変後に明智方への加担を疑われて醍醐山へ退いた事情と、織田信孝・羽柴秀吉をめぐる内紛、徳川家康の助力による上洛・弁明の見通しを詳述した書状。疑いが晴れなければ島津を頼って下向する意向を示し、忠節を尽くした持明院・安養坊や堀池父子への厚遇、領知問題の取次を依頼する。

  35. 後編1-No.1325 北郷一雲時久譜

    天正十年六月に織田信長が明智光秀に討たれた後、近衛前久が出家して判形を改め、翌年二月に北郷一雲時久へ書状を与えたことを記す譜中記事。

  36. 後編1-No.1326 近衛前久書状

    近衛前久が北郷一雲時久へ、前年の政変を受けて出家し判形を改めたこと、いずれ本意を遂げた後には島津領へ下向する考えを伝えた書状。醍醐の安養坊・持明院が下国するので事情を聞き、彼らが前久に忠節を尽くした者として世話するよう求める。

  37. 後編1-No.1327 島津義久譜

    天正十一年三月の島津義久の政務記事。鹿児島で居所を得た南蛮僧を父・貴久以来の禁制により追放させ、八代では秋月・龍造寺の和平、田尻への兵船、八代への移転、大矢野氏の処置、出勢時期を評議した。さらに相良忠房の来訪・献上、八代を守護領として城門・郡郷を諸将へ配分する命令、忠房の起請文提出と饗応を記す。

  38. 後編1-No.1328 島津義弘譜

    天正十一年三月十一日、八代移転の可否を問われた島津忠平が、八代は狭く真幸の田地を伴わなければ移れないと答えたこと、同二十三日に八代を守護領とし城門・郡郷の配分を国老へ命じたことを記す譜中記事。

  39. 後編1-No.1329 甲斐宗運書状

    甲斐宗運が島津忠平へ、忠平が肥後に在国中、阿蘇家が従前どおり島津家へ疎略なく仕える旨を老中へ申し入れたことを祝し、祝儀として太刀一腰と馬一疋を贈った書状。

  40. 後編1-No.1330 島津義久起請文前書

    島津義久が相良忠房へ、神裁をもって示した覚悟と永く忠節を尽くすとの誓約を受け入れ、戦死者の跡を相続した以上、今後も疎略なく連綿と遇すると誓った起請文前書。

  41. 後編1-No.1331 島津義久書状案

    島津義久が城拾郎太郎へ、元服の件を使節から聞いて喜び、希望どおり取り計らうこと、今後さらに親密にすることを望み、祝儀として馬一疋を贈った書状案。

  42. 後編1-No.1332 肥後佐敷合戦従軍者交名

    天正十一年九月の肥後佐敷在陣、十月七日の堅志田攻略、十二月の八代在陣、有馬への番兵派遣、翌十二年の高来出兵と龍造寺勢との合戦に参加した将士を列記した交名。島津家久を大将とし、豊久・川上氏・平田氏・新納氏ら多数の侍大将・軍士について、戦死・分捕・高名などの注記も付す。

  43. 後編1-No.1333 島津義久譜

    天正十一年三月二十六日、相良四郎太郎忠房が島津義久へ起請文を提出したことを記す譜中記事。

  44. 後編1-No.1334 島津義久譜

    天正十一年五月二十日、有馬氏から、同月六日に深江・安徳両城主が前非を改めて島津旗下への帰属を願い、これを許して島津方の兵を両城へ入れることになったとの書簡が鹿児島へ届いた記事。

  45. 後編1-No.1335 島津義久譜

    天正十一年六月十三日、新納忠嘉と川上忠堅が深江城へ進んで挑戦したことを記す記事。有馬方救援のため安徳城へ入った島津勢と、龍造寺方に転じた深江城との戦いの一節。

  46. 後編1-No.1336 島津義久譜

    天正十一年八月下旬、島津家久と上井覚兼を有馬へ渡海させ、八代の平田光宗にも肥後の所領衆を率いて加勢させること、八代警固の交代として伊集院忠棟を二十四日に出発させ、まず八代で時宜を計って有馬へ渡ることを命じた記事。

  47. 後編1-No.1337 島津義久譜

    天正十一年九月十七日、堅志田城へ忍び入る技能を持つ三十人を密かに派遣したが、敵に企てを察知されて潜入できなかった記事。諸将が小熊の辺りへ進んで村舎を焼き、忍びの者を退かせ、退去する村人八人を討ち取った。

  48. 後編1-No.1338 島津義久譜

    天正十一年九月二十日、隈本城主の城氏が八代へ使者を送り、健軍地頭を人質として隈本へ置く代わりに領土を侵さないよう求めた記事。島津方は三船で一戦することを条件とし、合志氏の僧による和睦願いにも、阿蘇家と断交して実証を示すよう回答した。

  49. 後編1-No.1339 島津義久譜

    天正十一年九月二十七日、秋月氏が龍造寺氏との和平条件を八代の島津諸将へ伝えようとし、隈本城主城氏が使僧を留めて同姓主計助に伝達させた記事。龍造寺・秋月の島津旗下入り、島津義久を鎮西守護とすること、肥後諸氏の処置、有馬からの撤兵、大友攻めを提案したため、諸将は真偽を判断せず上原尚近を鹿児島へ遣わした。

  50. 後編1-No.1340 樺山紹剣自記

    天正十一年春夏までに内空閑・合志・津守・木山・三船・隈之庄との境を小競り合いで安定させたこと、相良義陽が三船で敗死したため薩摩から八代へ番兵を置き、忠平が八代に滞在したことを記す。樺山紹剣が吉利氏と番替して八代へ赴いた後、樺山規久が日比良城を攻略し、負傷しながら敵を討たせたことも載せる。

  51. 後編1-No.1341 宇久純玄書状

    宇久純玄が伊地知重秀へ、以前から島津家の意向を受け、諸事が望みどおりになったことを祝して太刀一腰・馬一疋代を贈り、使者貞方右衛門佐の取りなしを依頼した書状。

  52. 後編1-No.1342 上井覚兼日記

    天正十一年五月二十四日、上井覚兼が出仕すると、島津義久から忠平を八代へ移して名代とし国政を裁判させる構想について意見を求められた日記。老中・使衆・地頭衆を必要に応じ八代へ移す案を協議し、あわせて宇久純玄の使者貞方右衛門佐が書状・太刀・織物を持参したことを記す。

  53. 後編1-No.1343 正親町天皇女房奉書

    正親町天皇の女房が御稚児のもとへ、高野山天野社の舞楽について、従来どおり伶人を整えるよう綸旨が出されたのに返答もないのは不届きであるため、門跡から厳しく命じて舞楽を勤めさせるよう申し入れた奉書。

  54. 後編1-No.1344 島津忠平書状

    島津忠平が帖佐彦左衛門尉へ、長期にわたり現地へ滞在し籠城の窮屈に耐えた軍労をねぎらった書状。海陸の交通が不自由で連絡が途絶えたが疎意によるものではなく、今回の軍功を今後も忘れないと伝える。

  55. 後編1-No.1345 伊集院忠棟・本田親貞連署状

    伊集院忠棟・本田親貞が遊行上人の近習へ、日向都於郡の光蓋寺・光照寺南道場の懇望を受け、上人が当国に滞在する間は寄附し、上国後には正式に申し付けると伝えた連署状。前代未聞の厚遇であるとして返書を求める。

  56. 後編1-No.1346 重貞書状

    重貞が衣鉢侍者へ、主君の意向により村田右衛門入道が出頭したことを喜び、扶持については少分ではかえって不相応なので、関所が整い次第二十町ほどを宛行う考えであると内意を伝え、機会をみて披露するよう求めた書状。

  57. 後編1-No.1347 島津義久書状

    島津義久が甲斐宗運へ、肥後方面での防戦中に宗運が親しく協力したことを頼もしく思い、今後も疎遠にしないと述べた書状。到来した太刀一腰・鎧甲に謝し、嘉儀として馬一疋を贈る。

  58. 後編1-No.1348 真木島昭光・一色昭秀連署状

    真木島昭光・一色昭秀が城入殿へ、足利義昭が中国へ移座し、毛利氏が帰洛要請を受諾したため、武田・北条・上杉以下の軍勢を糾合して進発する情勢を伝えた連署状。島津義久にも忠功を求める内書を出す予定とし、使者の蓮華坊を厚遇するよう求める。確定版年月日は天正十二年と天正五年の異説を併記する。

  59. 後編1-No.1349 島津義久書状

    島津義久が安国寺の老和尚へ、九州の戦乱が鎮まり、龍造寺隆信以下数千人を討ち果たしたことへの祝意に謝し、書状と虫薬の到来を喜んだ書状。確定版年月日は天正十二年、異本は十三年とする。

  60. 後編1-No.1350 島津義久譜

    田尻氏が執事らへ、四月二十六日に龍造寺隆信の陣へ向かって合戦し、筑川の兵五十余人を討って勝利したのは薩摩の守兵が奮戦したためであると報じ、その書状が五月二十日に薩摩へ届いた記事。

  61. 後編1-No.1351 島津義久譜

    天正十一年五月二十日に有馬氏の書簡が鹿児島へ届いてからの高来郡救援記事。深江・安徳両城主の帰属願いを受けて新納忠嘉・川上忠堅を先遣し安徳へ入れたが、深江が龍造寺方となったため攻略できなかった。義久は六月二日に出陣予定だったが現地の勝利報告で中止し、十五町につき勇士一人を徴発して有馬への増援を図った。

  62. 後編1-No.1352 新納忠元勲功記

    龍造寺隆信に奪われた島原・深江への有馬氏の救援要請を受け、新納忠嘉と川上忠堅が安徳城へ入った経緯を記す。深江城が島津方を裏切ったため天正十一年六月十三日に攻撃し、忠堅は負傷、忠嘉は戦死した。義久は忠嘉の菩提所として大口青木村に泉徳寺を建立する寺地を与えた。

  63. 後編1-No.1353 島津義久書状案

    島津義久が合志氏へ、春以来島津の幕下となる意向を示したことを喜び、祝儀として太刀一腰と鹿毛の馬一疋を贈り、今後も変わらず連携するよう求めた書状案。

  64. 後編1-No.1354 島津義久書状案

    島津義久が甲斐宗運へ、春以来島津の幕下となる意向を示したことを喜び、祝儀として太刀一腰と馬一疋を贈り、今後も変わらず連携するよう求めた書状案。

  65. 後編1-No.1355 龍造寺隆信書状

    龍造寺隆信が伊集院忠棟へ、相良氏との戦いを理由に八代方面で龍造寺領内の船往来を止めるよう求められたが、肥後国内の運送船まで止めるのは難しいと答える。先月肥後へ出兵して敵数百人を討ち、同国の過半を掌握したと報告し、祭河の要害を落とした後は島津方と一途に相談して大友氏を討ちたいと述べた書状。本文はNo.…

  66. 後編1-No.1356 島津義久譜

    天正十一年八月下旬、島津家久と上井覚兼を有馬へ渡海させ、八代の平田光宗にも肥後の所領衆を率いて加勢させること、伊集院忠棟を八代警固の交代として二十四日に出発させることを諸将へ命じた記事。

  67. 後編1-No.1357 島津義久書状案

    島津義久が大友義統へ、上使の進藤筑後守が春以来島津領に滞在していたが帰洛するため、海陸の通行について懇切な取り計らいを求め、詳しくは使者の口上に委ねた書状案。

  68. 後編1-No.1358 島津義久譜

    天正十一年九月十七日の堅志田城への忍び三十人の潜入失敗から、同二十日の城氏・合志氏の和睦願い、二十七日の秋月・龍造寺和平案、十月一・二日の八代評議までを詳述する記事。阿蘇領攻撃の可否、甲斐宗運の真意と人質、三船出兵を議し、堅志田偵察隊が敵五人を討ち取って首を八代へ持ち帰った。

  69. 後編1-No.1359 樺山忠助譜

    天正十一年春夏までに内空閑・合志・津守・木山・三船・隈之庄との境で敵を退け、相良義陽が三船で敗死したため薩摩勢を八代警固に置いたことを記す。相良氏には球磨のみが残り、忠平が八代へ渡った際、樺山忠助は吉利氏と番替して八代へ赴き祝賀した。

  70. 後編1-No.1360 近衛前久書状

    近衛前久が島津義久へ、徳川家康の取り成しによって疑いが解け、前年八月に出立して九月に上洛したこと、羽柴秀吉側の処置を受けたものの万事不如意であることを伝えた書状。家康が鷹を好むため若鷹を贈るよう頼み、馬の調達も求めるとともに、以前約束された日向の領知、肥後の相良旧領、十町の未進分を早く渡すよう要請し…

  71. 後編1-No.1361 島津義久譜

    天正十一年十月六日から二十七日までの堅志田方面の軍事記事。大雨の中で諸口から進軍して村々を焼き敵を討ち、八日には宇都勢が隈荘で敗れて四十余人が戦死した。龍造寺和平案と宇都氏の敗戦報告を八代で協議し、二十七日には堅志田口の花山に陣地を定め、軍神勧請・鍬初めを行って柵と陣営を築いた。

  72. 後編1-No.1362 島津忠長譜

    天正十一年九月二十五日、八代の島津忠長旅宿に諸地頭を集めて出軍を評議したが軍勢未着のため延期したこと、十月二十四日に伊集院忠棟・上井覚兼から国老就任を命じられ、再三辞退したものの厳命により引き受けたことを記す。

  73. 後編1-No.1363 島津征久譜

    天正十一年冬、島津征久・忠長以下の諸将がともに肥後へ出陣し、数日にわたり軍務に従ったことを記す譜中記事。

  74. 後編1-No.1364 北郷忠虎譜

    天正十一年十月九日、北郷忠虎が島津義久の命で肥後竹宮口に在番し、城氏と相談して軍勢を率い村里へ放火し、勝利を得たことを記す譜中記事。

  75. 後編1-No.1365 殉国名薮

    天正十一年六月から十月にかけて深江・堅志田・隈荘などで戦死した将士と、年月不詳の戦死者を列記した殉国者名録。新納忠嘉・白浜重仲・山内義裁・筑麻左近以下について戦死日や父祖を注記する。

  76. 後編1-No.1366 島津世録記

    天正十年の田尻救援から翌十一年の有馬救援、さらに天正十二年三月二十四日の島原合戦までを叙述する長編軍記。深江攻撃で新納忠嘉が戦死した後、家久を大将とする約千五百騎が有馬勢と合流し、寡兵で龍造寺の大軍を破った。川上忠堅らが隆信を討ち、家久・豊久以下が奮戦して敵首三千余を得、有馬氏へ旧領の半ばを返し、日…

  77. 後編1-No.1367 上井覚兼日記

    天正十一年正月元日から三月十七日までの上井覚兼日記。鹿児島・八代・宮崎を往来しながら年頭礼、酒宴、諸将の会合、合志・阿蘇・隈本・田尻・有馬への使節と軍議、八代守備、義久の病気祈祷、南蛮僧追放、近衛家・幕府使者への応接を日次で記す。三月には秋月・龍造寺との和平、八代移転、田尻兵船などを忠平と評議した。

  78. 後編1-No.1368 上井覚兼日記

    天正十一年三月十七日から五月二十四日までの上井覚兼日記。野村民部少輔殺害事件に関する村田経平らへの内密な処分と弁明、相良忠房の出頭、義久の病気と祈祷、八代の守将選定、日向帰国後の社寺参詣・普請・茶湯・狩猟を詳記する。田尻・有馬からの戦況報告、深江・安徳への援兵、十五町につき一人の軍役賦課も記す。

  79. 後編1-No.1369 某覚書

    天正十一年、有馬氏から深江・安徳両城の島津幕下入りが報じられた後、深江の離反で安徳守兵が困窮したため援軍を送った経緯を記す覚書。義久は六月二日の出陣を予定したが勝報により中止し、田賦十五町ごとに勇士一人を定めて有馬へ渡した。

  80. 後編1-No.1370 正八幡宮三社再興茶番交名

    天正十一年十月十三日、正八幡宮三社再興に際して勤仕した茶番の人名と役を記した交名。国分宮内淳氏文書に伝わる。

  81. 後編1-No.1371 島津義久書下

    島津義久が上醍醐寺の使僧として下向した宝寿坊法印へ、領国内の戦乱が激しく十分な応接ができず本意に背いたが、今後は必ず微志を尽くすと伝えた書下。

  82. 後編1-No.1372 島津義久譜

    島津義久の病気を重病と恐れた相良忠房が、一万句連歌の興行を立願し、天正十一年十一月十八日に成就した記事。深水宗方が八代の上井覚兼に頼み、懐紙の発句を作らせた。同二十日には北郷忠虎から、内空閑下野守を島津旗下へ誘ったとの報告があり、島津方は途中で再度真偽を確認するよう答えた。

  83. 後編1-No.1373 上井覚兼日記

    天正十一年五月二十五日から十一月三十日までの上井覚兼日記。病気療養と社寺祈祷、宮崎・佐土原での普請・狩猟・茶湯・弓会などの日常と並行し、有馬救援の軍役賦課、深江・安徳の戦況、田尻への兵船、八代警固、義久の病気、諸将・使僧との往来を詳記する。秋以降は肥後出陣と八代での評議、合志・阿蘇・隈本・内空閑への…

  84. 後編1-No.1374 島津義久吉書

    島津義久が天正十二年正月三日に歳徳神へ奉った吉書。年初に筆を取り万の宝を書き収めること、住吉の松を例に君の代の長久を祝うこと、心が真の道にかなえば祈らずとも神が守ることを和歌に詠む。

  85. 後編1-No.1375 新納忠堯書状

    新納忠堯が新納忠元へ、新年の吉兆と例年以上の満足を祝し、祝儀として五明二本を贈った年賀書状。本文注記は天正十二年頃とする。

  86. 後編1-No.1376 島津義虎書状

    島津義虎が伊集院忠棟・平田光宗・村田経平・上井覚兼へ、新年の大慶と例年以上の満足を祝い、慶書と五明を贈り、今後も互いの吉兆を伝え合いたいと述べた年賀書状。

  87. 後編1-No.1377 島津朝久書状

    島津朝久が伊集院忠棟へ、新年の大慶と例年以上の満足を祝い、恒例の吉書と五明二本を贈り、この旨を島津義久へ披露するよう求めた年賀書状。

  88. 後編1-No.1378 島津義久書状案

    島津義久が秋月氏へ、前年冬に高瀬で大友方の撤陣を申し入れ承諾されたのに、なお高良山へ滞在しているのは不届きだとした書状案。高良山座主・蒲池氏・黒木氏から内通があることを評価し、機会があれば三家を含めて一致して取り計らい、今後も疎略なく相談したいと述べる。

  89. 後編1-No.1379 島津義久書状案

    島津義久が南津江氏へ、前年冬に高瀬境から大友方の撤陣を申し入れたのに、なお高良山へ滞留しているのは不適切だと伝えた書状案。龍造寺・秋月両氏が一致して対応するなら、今後永く特別に連絡を取り合う考えを示す。

  90. 後編1-No.1380 島津義久譜

    天正十二年二月十四日、日向宮崎城にいた上井覚兼のもとへ善哉坊真連房頼俊が訪れ、前年に公方家の上使として下向した布施治部少輔からの書付を示した記事。羽柴秀吉の尽力で足利義昭の当春帰洛が確実となったため、島津に一層の協力を求め、年内に春日局を先に上洛させたと伝える。

  91. 後編1-No.1381 足利義昭御内書

    足利義昭が島津義久へ、前年に伝えたとおり羽柴秀吉の尽力によって当春の入洛が確実となったので、引き続き忠節を尽くすよう求め、先に春日局を年内に上洛させたと伝えた御内書。上井覚兼日記中に写される。

  92. 後編1-No.1382 島津義久譜

    天正十二年二月二十六日、隈本・宇都・新納忠元から三通の書簡が鹿児島へ届き、龍造寺隆信が十一日に大軍を率いて出国し、十三日に合志城へ迫って攻撃を続けていると報じた記事。義久は三月二日に薩隅日三州の軍勢を率いて合志救援へ向かい、隆信が退けば諸軍を有馬へ渡す方針を定めた。

  93. 後編1-No.1383 勝部兵右衛門聞書

    肥前島原合戦へ至る前史として、龍造寺隆信が蒲池鎮漣を謀殺し、筑後諸氏の離反を招いた経緯と、天正十年から田尻鑑種の諸城を五百二十日にわたり包囲したことを記す。田尻氏の求援を受けた島津方は千々石・日比良を攻めて牽制したが、遠隔地のため十分に救援できず、田尻氏はついに開城・降参した。

  94. 後編1-No.1384 勝部兵右衛門聞書

    天正十一年の有馬救援と新納忠嘉の戦死から、翌十二年三月二十四日の島原合戦までを詳述する聞書。家久・豊久ら島津勢約三千と有馬勢が、龍造寺隆信の四万余騎を寡兵で迎撃し、川上忠堅らが隆信を討ち取った。島津勢は幸代諸城を開かせ、有馬氏へ高来郡を返し、隆信の首を佐敷で義久が実検した後、高瀬へ送った。代賢和尚は…

  95. 後編1-No.1385 日向記

    天正十二年春、島津家久を大将、豊久・彰久・忠長を副将として三千余騎が高来へ渡り、有馬氏とともに島原へ布陣した記事。三月二十四日に龍造寺隆信の数万騎を破り、川上忠堅が隆信を討ち取って高来・島原を有馬領とし、島津軍は帰陣した。

  96. 後編1-No.1386 上井覚兼日記

    天正十二年正月から三月二十九日までの上井覚兼日記。宮崎での年頭行事と病気、鹿児島での吉書・酒宴・連歌・人事評議を経て、肥後出陣に従い佐敷へ赴いた。家久・忠長らの有馬渡海、龍造寺隆信軍の接近と三月二十四日の大勝、隆信首の到来・実検、八代移動、島原での施餓鬼計画までを日次で詳記する。

  97. 後編1-No.1387 長谷場越前自記

    有馬氏の島津への救援要請、新納忠嘉の戦死、家久父子らの高来渡海から島原合戦の勝利までを描く長編自記。家久らが龍造寺隆信の大軍を迎撃し、川上忠堅が隆信を討ち、深江・島原・高田など六城を開かせて有馬氏へ与えた。諸軍は佐敷で義久に謁見し、代賢和尚以下二千余僧が島原で高卒塔婆を立て敵味方を供養した。

  98. 後編1-No.1388 日向記

    天正十二年春、島津家久を大将、豊久・彰久・忠長を副将として三千余騎が有馬氏と島原に長陣し、三月二十四日に龍造寺隆信の数万騎を破った記事。川上忠堅が隆信を討ち、三十余の首を得て高来・島原を有馬領とし帰陣した。

  99. 後編1-No.1389 新納忠元勲功記

    島津義久が佐敷に在陣し、家久へ三千人を付けて有馬を救援させた記事。島原合戦では忠元が豊久の後見として軍勢を指揮し、川上忠堅が隆信を討ち、敵三千余を倒した。忠元・忠増と大口衆の働きで三十六人を討ち、森山・三重城など六か所を領し、忠元は同年秋に隈府地頭を兼ねた。

  100. 後編1-No.1390 大口土浜川西市丞覚書

    天正十二年春、島津・有馬勢三千余騎が安徳へ入り、三月二十四日に島原で龍造寺隆信の二万五千騎を破ったとの覚書。川上忠堅が隆信を討ち、川西紀伊が龍造寺方の旗頭守一軒を討った功により湯浦の内しちゃ門を与えられたが、天正十五年の豊臣秀吉入国で上地となったことを子孫のため記す。