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後編1の目録

旧記雑録 弘治元年~天正12年の文書・記事です。

全1,480件中 701~800件・8 / 15ページ

  1. 後編1-No.696 島津義久書状案

    本文はNo.691と同文のため省略される島津義久の志岐方宛返書案。天草久玉との和睦破綻を遺憾とし、志岐方の鬱憤について今後も相談に応じ、疎遠にしないと伝える。

  2. 後編1-No.697 島津氏老臣連署状案

    本文はNo.692と同文のため省略される豊州老中宛返書案。破船問題を両家の盟約と法意に沿って処理し、船・銀子・鹿皮・南蛮進物などの受領と関係者による説明を伝える。

  3. 後編1-No.698 伊集院忠金書状案

    本文はNo.693と同文のため省略される伊集院忠金の臼杵鑑速宛書状案。南郷渡海船の破損処理、両家の旧盟、贈答品への謝意を述べ、返礼として馬を贈る内容である。

  4. 後編1-No.699 島津氏老臣連署状

    伊集院忠金・平田昌宗・川上意釣が志岐麟泉入道へ、詳しい書状を受け取ったと返答する。従来から両地域の相談関係に変わりはなく、今後さらに親密にしたいと述べ、前年春に承諾した天草方面の調略について感応寺と直書が到着したので、進展を期待し、難航時には重ねて協力すると伝える。

  5. 後編1-No.700 新納忠元書状

    新納忠元が相手の使者高橋氏に十分な応対をできなかったことを詫び、肝付方から寄せられた懇切への謝意を述べる。自身の落馬事故を心配する問い合わせに対し、不思議に命は助かり、まだ本調子ではないが次第に快方へ向かっているので、必ず面会したいと伝える。

  6. 後編1-No.701 新納忠元書状

    新納忠元が村田経定・川上意釣へ、年始の吉兆を祝い、祝賀の書状を受領したことを千秋万歳と喜ぶ。返礼として五明を贈り、後日の対面時に改めて祝言を述べたいとする年頭書状。

  7. 後編1-No.702 箕輪伊賀覚書

    天正元年九月二十七日の早崎・咲花平着陣と小浜城攻略を詳述する。島津方は激戦の末に城柵を破り、伊地知美作守を退去させたが、伊集院久春が重傷、肥後平三郎らが戦死した。牛根城包囲中の野戦では白胴服の武者が単騎で敵首を挙げ、周囲を叱咤した逸話を載せる。肝付領の通路を遮断するため、十一月中旬に歳久・以久を大将…

  8. 後編1-No.703 友野元真奉公覚書

    友野元真が早崎陣詰めの際、枝元神左衛門を討ち取り、女性一人を捕虜とした戦功を記す。その女性は中江主水佐の継母であり、合戦の証人として伊集院久治・箕輪舎人佐・木藤日向守・上原長門守・伊地知伯耆守を挙げる。

  9. 後編1-No.704 長谷場越前自記

    天正元年九月二十七日の小浜城攻略から牛根城包囲、早崎陣夜襲までを記す。小浜では敵百余人を討ち伊地知美作守を退けたが島津方にも戦死者が出た。諏訪神事で主力が帰還した隙に肝付勢が山道から陣へ侵入すると、留守将島津家久は少数を励まし、島津忠良の教訓歌を唱えて敵中へ斬り込み、河南安房守らを討って敵を牛根へ退…

  10. 後編1-No.705 大村重頼古戦書付

    伊地知重興・肝付省釣方との戦いで、島津軍が早崎野から敵兵を城へ追い込み、城地頭伊地知美作守が逃亡したため城を攻め取ったことを記す。大将は島津家久であったとする。

  11. 後編1-No.706 樺山玄佐自記

    禰寝・肝付・伊地知方が島津氏に従わなかったため、島津軍が下大隅へ渡り早崎を陣として小浜城を攻め、前陣と号したことを記す。のち禰寝重長が島津方へ出頭すると伊東・肝付・伊地知勢が禰寝麓を攻め、喜入季久が迎撃したが、弟忠通・久績以下十余人が戦死した。最終的に肝付・伊地知も帰順し、伊地知氏には下城一所が与え…

  12. 後編1-No.707 伊地知重昌自記

    元亀三年九月二十七日に島津軍が早崎へ着陣して新城を落とした際、伊地知方の各城から島津陣へ内通した者を列挙する。新城一人、本城四人、田上城二人、垂水城九人の計十六人とし、矢文や使者によって連絡した人物名を具体的に記録する。

  13. 後編1-No.708 長谷場越前自記

    十一月中旬、島津軍が肝付領内の通路を遮断する要地平床に陣所を設け、歳久・以久を大将とした。牛根城より奥の難所である平床を後巻するため伊地知・肝付勢が来援し、茶園尾へ陣を取ろうとしたと記す。記事年次は元亀三年・天正元年の双方に重出し、編者は前後関係から天正元年に置く。

  14. 後編1-No.709 友野甲斐入道奉公覚書

    牛根平床の合戦で敵六人を討ち、そのうち一人の首を取った奉公を記す。証人として小口郷右衛門・徳永源五左衛門を挙げる。

  15. 後編1-No.710 相良氏老臣連署状

    島津義久が在陣中の伊集院忠棟・平田昌宗・村田鑑定に宛て、軍労をねぎらい、勝利が肝要であると述べる。遠境の動静が不明なため飯野へ赴いて相談したことを知らせ、安心するよう伝える。

  16. 後編1-No.711 吉利氏系図

    吉利氏の下総守忠澄の子孫を掲げ、三郎九郎長住・顧金らの名と花押を記す。長住は天正元年十一月十三日生まれで、母は上井武蔵守為秋の娘とし、忠紹は天正十六年生まれとする。

  17. 後編1-No.712 近衛信輔書状

    近衛信輔が島津以久に初めて書状を送り、京都の不慮の錯乱で諸事に頼る先がないため、使者を通じて依頼した匠作への支援を求める。詳しい事情は進藤筑後守が説明するとする。本文の日付は十一月二十六日と読め、確定版年月日と一月の差がある。

  18. 後編1-No.713 近衛信輔書状

    近衛信輔が肝付兼盛に初めて書状を送り、京都の不慮の錯乱により諸事に頼る先がないため、匠作への支援を求める。五明五本を贈り、詳細は進藤筑後守が説明するとする。

  19. 後編1-No.714 北郷時久日記(自元亀三年正月至天正元年十二月)

    元亀三年正月から天正元年十二月までの軍事日程を記す。浜市小島の肝付兵船捕獲、廻・三山・木崎原・早崎・住吉原・西俣の諸戦、禰寝重長の帰順と下大隅渡海、平松陣の役人・作法、恒吉宮ノ原の損害、平床への着陣などを日付順に列挙する。

  20. 後編1-No.715 島津国史

    天正二年の島津氏の動向を編年で記す。牛根城救援軍を茶園尾で退けて安楽備前守を降し、禰寝方面の伊東・肝付軍を撃退したほか、足利義昭からの援助要請、入来院重豊の献地、江月斎来訪、北郷時久への盟書、義虎・天草氏との交渉、菱刈氏の処分、肝付兼亮・伊地知重興の帰順などを載せる。

  21. 後編1-No.716 新納忠元勲功記

    天正二年正月、牛根城攻めで新納忠元が逆瀬川武安らに切岸を掘らせ、守将安楽兼寛を降伏させて互いに人質を交換し、二十二日に入城した経緯を記す。さらに親族関係を利用して其阿上人を使僧とし、伊地知重興・肝付兼亮の帰順と所領献上を仲介した功績、大口里村に十躰愛宕を建立したことを述べる。

  22. 後編1-No.717 大口愛宕神𧙈棟札

    藤原忠元が武運長久と子孫繁栄を祈って大口の愛宕軍神を建立・勧請した棟札で、天正二年令月吉日の年紀を持つ。

  23. 後編1-No.718 篠原氏系図

    篠原普賢院の系譜と愛宕坊普賢院の由緒を記す。慶安五年に大口愛宕座主の開基として小院号を定めたこと、当時の大口地頭が新納忠清であったこと、天正二年に忠元が愛宕像を建立・勧請した旧事を載せる。

  24. 後編1-No.719 殉国名薮

    天正二年正月十九日の禰寝方面の合戦で戦死した喜入季久の弟忠通・久績と、季久配下の武士らを列挙する。地下・足軽を含めて十五人が戦死したとする。

  25. 後編1-No.720 北郷時久日記(自天正二年正月至十二月)

    天正二年の軍事日程を記し、正月三日の茶園尾着陣、十九日の伊東・肝付勢による禰寝攻撃、二十日の牛根城開城、廻・市成両城の接収、伊地知氏の帰順、八月の宝繁寺を介した肝付氏との矢留め、十二月の平松陣撤収と役人交名を載せる。

  26. 後編1-No.721 島津義久譜

    天正元年十二月以来の平床対陣を承け、天正二年正月三日に肝付軍が高隈山を越えて牛根城前の茶園尾へ陣取ろうとした際、島津忠長と川上久信が軍を励まして撃退した。島津方は茶園尾を占領して牛根城に迫り、城方へ安楽備前守の名を詠み込んだ狂歌を矢で射送った。

  27. 後編1-No.722 島津義久譜

    天正二年正月十八日から牛根城の切岸を昼夜掘り進め、城内まで道を通したため、守兵が降伏を請うた経緯を記す。十九日夜に停戦し、翌日人質を交換、二十二日に新納忠元が入城、二十七日に義久が早崎陣から帰還した。続いて伊東・肝付・伊地知勢の禰寝侵攻と喜入季久らの迎撃も記す。

  28. 後編1-No.723 島津忠長譜

    天正二年正月三日、肝付兼続の軍勢が高隈山を越えて牛根城前の茶園尾に陣取ろうとしたため、島津忠長が疲労した敵を討つ好機として軍中を励まし、自ら後詰めを約した。川上久信も同様に指揮し、島津勢が敵軍を敗走させ茶園尾を占領した。

  29. 後編1-No.724 雑抄

    天正二年正月三日、肝付兼続の軍勢が高隈山を越えて茶園尾へ陣取ろうとしたが敗走し、島津勢が同地を占領したと記す。早崎城兵が安楽備前守の姓氏を題に狂歌を作り、矢に書いて敵陣へ送った逸話を載せる。底本欠損のため鹿児島県立図書館本で補われた記事である。

  30. 後編1-No.725 壱岐賀州年代記

    肝付賀州が日向へ赴いて伊東氏の援軍を求め、天正二年正月に伊東軍が肝付へ進出した経緯を記す。島津方の配置により牛根口へ進めず禰寝を攻撃し、塩入城を落としたが、その後帰国した。牛根城は島津方へ渡り、肝付氏が廻・市成両城を譲って和睦したこと、佐土原の新町造営も載せる。

  31. 後編1-No.726 壱岐賀州年代記

    天正二年正月、肝付氏への加勢として日向勢が出発してから帰還するまでの日程を列挙する。飫肥・櫛間・志布志・内城を経て禰寝へ進撃し、村々を焼き、禰寝勢を破って塩入城を攻め落としたのち、高城へ進み、二月二日に飫肥へ戻ったと記す。

  32. 後編1-No.727 年代記

    天正二年正月に霧島山の神火が天地を動かしたこと、正月三日に茶園ヶ平へ着陣したこと、同十九日に牛根城が島津方へ渡されたことを簡潔に記す。

  33. 後編1-No.728 長谷場越前自記

    天正二年正月三日の茶園尾合戦から牛根城開城までを詳述する。島津軍の進撃に肝付勢が敗走し、義久が狂歌を矢に付けて城内へ送り、逆瀬川奉膳兵衛らが切岸を掘って降伏を促した。新納忠元の入城後、其阿上人を使僧として肝付・伊地知両氏の帰順と城地の献上・再配分が実現した経緯を記す。

  34. 後編1-No.729 谷口宮内左衛門覚書

    廻口での度重なる合戦において島津義久の弟右馬頭忠勝が戦死したため、義久が遺恨に思い、牛根城へ茶園ヶ尾・早崎・三貫平の三陣を付けて攻め落としたと記す。

  35. 後編1-No.730 樺山玄佐日記

    天正二年正月三日の茶園ヶ尾合戦、牛根城切岸の掘削と開城、同十九日の禰寝方面の戦闘を詳述する。家久・忠長らの追撃、霧島山神火の瑞兆、喜入季久の奮戦と弟二人の戦死、人質交換、新納忠元の入城を記し、切岸を掘り抜いた三名の働きを高く評価する。

  36. 後編1-No.731 箕輪伊賀覚書

    平床陣への肝付・伊地知勢の来攻、茶園ヶ尾の戦い、七月の諏訪祭礼で軍役が手薄になった隙を突く夜襲、家久の奮戦を叙述する。さらに敷根頼継の進言で牛根城攻めを継続し、義久の狂歌矢、切岸掘削、安楽備前守の降伏、肝付・伊地知両氏の帰順と城地配分に至るまでを記す。

  37. 後編1-No.732 伊地知重昌自記

    下大隅の戦が終息した天正二年二月二十五日、伊地知重昌が鹿児島へ参上した経緯を記す。垂水の辺りまで老臣らの出迎えを受け、船元では川上意釣に迎えられ、その夜義久に謁見して縫殿助の名を与えられ、伊地知家が繁昌したとする。

  38. 後編1-No.733 島津義虎書状

    島津義虎が喜入季久の禰寝口での比類ない働きを使者から聞いて称賛し、慰労のため馬を贈りたいと申し出る。また季久側の慶事を祝し、先の使者への謝意と、不慮の事情で面会できなかったため後日参上して積年の話をしたい旨を伝える。

  39. 後編1-No.734 島津義虎書状

    島津義虎が鹿児島へ伺候できなかった事情を述べ、義久に敵意はなく、以前から神名に誓って忠節を約していると弁明する。出水・高城・水引・山野・東郷・中郷をめぐる風説を否定し、疑義があればまず照会してほしいと喜入季久に取り成しを頼み、詳しくは伊地知勘解由助へ口達したとする。

  40. 後編1-No.735 島津義久琉球渡海朱印状

    島津義久が坊津の宮一丸船頭渡遣三郎五郎に発給した琉球渡海の朱印状で、天正二年四月一日の年紀を持つ。

  41. 後編1-No.736 相良氏老臣連署状

    相良方の老臣が、久しく無沙汰となったことを詫び、隅州方面が島津方の勝利となったとの知らせを祝う。今後も親密な関係を望み、詳細は福田寺が口頭で伝えるとする連署状で、差出人らの花押と裏書を伴う。

  42. 後編1-No.737 島津義久譜

    天正二年八月二十七日、上使江月斎が義久の私宅を訪れ、同年四月十四日付の足利義昭御内書を披露したことを記す。

  43. 後編1-No.738 足利義昭御内書

    足利義昭が京都の不慮の事態により紀州へ滞在し、各方面を調略して復帰を図っているとして、島津義久に忠節と援助を求める。使者として江月斎を下し、詳しくは一色藤長・真木島昭光が述べるとする。

  44. 後編1-No.739 一色藤長副状

    一色藤長が、足利義昭が織田信長の行為を理由に京都を退いて紀州に移り、諸勢力を催して入洛を図っていると説明する。義久宛御内書に対応して、伊集院忠棟・平田昌宗に忠功と援助を促し、詳細は江月斎が伝えるとする副状。

  45. 後編1-No.740 足利義昭御内書

    足利義昭が京都の不慮の事態により紀州へ滞在し、各方面を調略しているとして、喜入季久に忠節と支援を求める。使者江月斎を下し、詳しくは一色藤長・真木島昭光が述べるとする。

  46. 後編1-No.741 一色藤長・真木島昭光連署副状

    一色藤長・真木島昭光が、足利義昭が織田信長によって京都を退き紀州で諸勢力を催している事情を説明し、喜入季久に忠功と援助を求める。義昭の御内書と江月斎の口達を取り次ぐ連署副状。

  47. 後編1-No.742 一色藤長書状

    一色藤長が、足利義昭が前年京都を退いた旨の御内書を別紙で伝える。以前在洛中の季久に会えなかったことを残念とし、近況は歳阿・道正、詳細は江月斎が伝えると述べる。

  48. 後編1-No.743 河上経久起請文

    河上経久が島津家一流の犬追物の秘説を残らず義久へ伝授したと誓い、失念は偽りと見なさないよう求める一方、違反した場合は梵天帝釈以下の諸神の罰を受けると記す起請文。

  49. 後編1-No.744 島津義久書状案

    島津義久が河上経久から当家一流の射御秘説を余すところなく伝授されたことを神名にかけて承知し、今後も疎略にしないと返答する書状案。

  50. 後編1-No.745 河上経久起請文

    本文はNo.743と同文につき省略されている。島津家一流の犬追物秘説を義久へ伝授したことを誓う河上経久起請文の重出である。

  51. 後編1-No.746 肝付兼亮起請文

    肝付兼亮が先非を改めて島津方を頼ることを述べ、廻・市成を献上する代わりに残る所領の永代安堵を願う。今後の無二の奉公、北郷・禰寝などから攻撃された際の救援、讒言があれば相互に知らせ弁明させることを求める起請文。

  52. 後編1-No.747 某起請文

    肝付兼亮が先非を改めた以上は互いに隔心なく、無二の奉公があれば見捨てず、島津家が困難な時には肝付氏を頼り、他方から不当な違乱があれば書状で事情を明らかにして助成すると誓う。

  53. 後編1-No.748 連歌連衆交名

    天正二年七月二十日に催された『賦何船連歌』の連衆交名で、義久をはじめ僧俗の参加者と役・句数を列挙する。発句『ふく風やこ与ろの秋のま莱右』を掲げる。

  54. 後編1-No.749 島津義久譜

    天正二年八月一日、入来院重豊の使者村尾蔵人が祝詞と太刀を東郷氏に次いで献上しようとしたところ、島津家老衆が東郷・祁答院・入来院は同姓で序列に上下を付けるべきでなく、東郷氏の次は禰寝氏とすべきだとしたため、使者が承服せず帰った経緯を記す。

  55. 後編1-No.750 島津義久譜

    本文はNo.765記事の一部と同文につき省略されている。入来院重豊をめぐる記事の重出である。

  56. 後編1-No.751 島津義久譜

    入来院重豊の陰謀が露見したが、義久は直ちに討伐せず、先非を改め忠節を尽くせば赦免すると諭した。重豊は八月八日、家臣山口筑前守・東郷美作守を遣わして降伏と所領献上を申し出る。義久は所領を欲するのではなく旧領のままでは衆人の疑いが残るとして、所領替えと誓紙提出を求めた。

  57. 後編1-No.752 志岐麟泉書状

    志岐麟泉が肝付方を島津氏が攻略したとの知らせを祝う一方、天草太夫との関係悪化で自らも面目を失ったとして調停を求める。義虎とも深く申し合わせているため、島津側から一人を派遣して協議したいとし、織物を進上する。

  58. 後編1-No.753 島津義久書状

    島津義久が、世情変転の際には逆党を除き無二の忠節を尽くすこと、その証拠となる誓紙が肝要であること、讒言があれば互いに知らせ、今後一味同心することを春日・八幡の照覧にかけて義弘へ伝える。

  59. 後編1-No.754 島津義久譜

    天正二年九月六日、島津義久が上使江月斎を私宅へ招き、堂上の礼を尽くして饗応し、酉刻から戌刻まで宴を催したことを記す。

  60. 後編1-No.755 北郷時久譜

    天正二年、肝付氏が伊東氏と結び、伊東軍が下大隅へ侵入したため、島津義久・義弘が北郷時久へ盟書を与え、さらに島津家老らの連署誓紙も送ったことを記す。

  61. 後編1-No.756 島津義久起請文

    島津義久が北郷時久に対し、伊東氏との戦について一味して親密に協力し、島津方と北郷方の庄内・肝付をめぐって讒言があれば双方へ知らせて腹蔵なく説明すると誓う起請文。違反時には新田八幡・諏訪上下大明神などの神罰を受けるとする。

  62. 後編1-No.757 島津氏老臣連署起請文

    島津氏老臣四名が北郷時久に対し、伊東氏との戦で一味して協力し、談合内容を秘密にし、庄内・肝付をめぐる讒言があれば双方へ腹蔵なく説明すると誓う連署起請文。

  63. 後編1-No.758 島津忠平義弘起請文

    島津忠平義弘が北郷時久に対し、伊東氏との戦で一味して協力し、談合内容を秘密にし、庄内・肝付をめぐる讒言があれば左右双方へ腹蔵なく説明すると誓う起請文。

  64. 後編1-No.759 島津氏老臣連署状

    島津氏老臣らが、国分寺と島津領は古くから盟約を結んできたが、近年は旧例に背く事柄があるとして別紙に列挙し、先非を改めるよう求める。承引がなければ隔心の原因になると警告し、相到寺に内情を説明させ、急便での返答を求める。

  65. 後編1-No.760 島津義久譜

    天正二年九月二十八日、天草氏の使僧来迎寺が太刀・厚板物・馬代を携えて来訪し、先代以来の隣好回復を求めた。義虎の使者伊勢守も滞在していたため、島津側は義虎と天草氏の和睦を提案したが、義虎方が天草領一所の割譲を条件とし、天草方が拒否して双方は帰国後に復命することとなった。

  66. 後編1-No.761 島津義久譜

    天正二年十月二日、大乗院法印に法華経一千部を百十人の僧と十日間で読誦させたことを記す。続いて五日、菱刈氏の使者へ、蒲生救援、横川城・三山城・馬越城をめぐる過去の背反や義弘暗殺未遂を列挙して責め、再度の叛逆なら滅亡は免れないとして居所を替えるよう求めた。

  67. 後編1-No.762 壱岐賀州年代記

    伊東氏内部の変動と合戦を編年的に記し、伊東祐充の死去、福永伊豆守父子の切腹、北郷・北原・肝付・飫肥・新納勢との三俣・高城合戦、伊東武州の生害とその子の謀叛、義祐の日知屋退去、荒武氏らの離反、綾城・守永城の動向を列挙する。

  68. 後編1-No.763 喜入季久書状

    喜入季久が、足利義昭の入洛調略に関する御内書を頂戴したことを恐懼し、白沈香・段金一端を進上するので披露してほしいと真木島昭光・一色藤長へ依頼する。

  69. 後編1-No.764 喜入季久書状

    喜入季久が、足利義昭が織田信長の行為により紀州へ移ったことを驚き、調略の御内書を頂戴したと返答する。遠隔地ながら島津義久の忠勤に別儀はなく、諸方面の計策が成功することを願い、詳細は江月斎が説明するとする。

  70. 後編1-No.765 島津義久譜

    天正二年十一月二十日、義弘の旅館で重臣らに肝付氏への使者、下大隅の所替え、市成城の保持を評議させた。閏十一月十八日には上井為兼を江月斎の宿所へ遣わして滞在中の不行届を詫び、薩隅日三州の支配確認を求め、翌十九日には伊地知重興が南林寺を通じて下城から他所または鹿児島港への移住を願ったことを記す。

  71. 後編1-No.766 米良重直起請文

    米良重直が、野心があるとの風聞を面談で直接聞いたことに対し、伊東方に縁者・親類・老母を残しているため疑われるのはもっともだが、野心はないと諸神に誓う。本文年紀は天正二年閏十一月十二日と読める。

  72. 後編1-No.767 飯野剣大明神十一一回阿弥陀本仏裏書

    飯野剣大明神の十一面阿弥陀・薬師尊像を新造した際の裏書で、大檀那藤原朝臣忠平(島津義弘)夫妻の息災延命、子孫繁昌、院内安全、諸人快楽を祈る。本文年紀は天正二年閏十一月二十二日と読める。

  73. 後編1-No.768 飯野剣大明神阿弥陀外仏株裏書

    飯野剣大明神の阿弥陀如来五躰・薬師・千手観音の計七尊を新造した裏書で、七尊の功徳により大檀那藤原朝臣忠平(島津義弘)夫妻の息災延命、子孫繁栄、敵退散、一結衆の七難消滅・七福招来を祈る。

  74. 後編1-No.769 島津義久譜

    天正二年十二月、志岐氏が肝付氏帰順の祝詞と進物を届け、義虎・天草氏の和平を仲介した。同行者が吉野で殺害され、犯人二人が福昌寺に逃げ込むと、捕縛の際に坂本吉右衛門が刺されて犯人を斬殺した。代賢和尚が寺の災厄を嘆いて退去したため義久らが慰留し、のち志岐氏へ和平方針を返答して馬・鉄砲を贈った経緯を記す。

  75. 後編1-No.770 上井覚兼日記注記

    上井覚兼日記の天正二年八月から十二月までの各月の範囲と花押を示し、覚兼が当時三十歳であったことを注記する。覚兼は天文十四年生まれ、天正四年から家老役、天正十七年に伊集院で四十五歳で没し妙円寺に葬られたこと、日記は天正二年八月から天正十四年十月まで十四冊あることを記す。

  76. 後編1-No.771 上井覚兼日記

    天正二年八月から十二月までの上井覚兼の日記。年始太刀献上の席次問題、入来院重豊の所領献上・所替えと血判、肝付・庄内の和平交渉、菱刈氏への譴責、江月斎の饗応、伊地知氏の移住・所領願、琉球・天草・志岐・義虎との外交、犬追物稽古、寺社争論と所領配当、福昌寺での犯人斬殺と代賢和尚慰留など、政務・軍事・儀礼・…

  77. 後編1-No.772 牛根合戦従軍者交名

    天正二年正月中旬に肝付大勢が牛根へ来攻した際の従軍者と役割を記す。島津家久以下の守備・戦功者、牛根城攻めの先陣大将島津忠長、後陣の島津歳久、侍大将上原長門守、切岸を掘って降伏へ導いた逆瀬川喜兵衛尉・伴五左衛門らを列挙する。

  78. 後編1-No.773 島津国史

    天正三年の島津氏の動向を編年で記す。年始儀礼と椀飯、三度の犬追物、琉球使節の接遇、近衛前久の来薩、山田・入来境界の処置、肝付家の後継争いと高城・櫛間・志布志をめぐる伊東勢の動向、島津忠良の豊後帰還、近衛前久の出水到着などを載せる。

  79. 後編1-No.774 島津国史補注

    天正三年に近衛前久が滞在した専修寺は出水郷に所在したとする補注。

  80. 後編1-No.775 島津義久譜

    天正三年正月二十八日、庄内からの捷書により、伊東氏が兵船に軍勢を乗せ福島・志布志の岸へ着け、島津領侵攻を図っていると知った。上陸地・攻撃先が不明なため、下大隅・新城・禰寝以下の諸所へ警戒を怠らないよう命じた。

  81. 後編1-No.776 上井覚兼日記

    天正三年正月から十二月までの上井覚兼日記抜書。年始儀礼・椀飯、重要政務五箇条、下大隅・菱刈の移衆と所替え、三月の犬追物、琉球紋船使節との先規違背・進物をめぐる交渉、寺社・地頭職・所領配当、肝付氏の後継と伊東氏との断交、近衛前久の来薩準備、歳末の福昌寺事件など、家中政務と儀礼・外交を日次で詳述する。

  82. 後編1-No.777 安養院所蔵鹿児島諏訪領坪付

    天正三年二月吉日、新納忠元が安養院に示した鹿児島諏訪領の坪付。薩州牛山院内の大田名河島八段を浮免地として掲げる。

  83. 後編1-No.778 甲斐宗運書状

    甲斐宗運が伊集院忠棟に、代賢和尚が福昌寺焼香のため玉宣寺から下向したことを伝える。玉宣寺は悟宗和尚の法孫が長年小庵に住む寺で、老齢・遠方ながら石屋大和尚法灯の開地であるため、代賢の在寺中は支援してほしいと依頼する。

  84. 後編1-No.779 甲斐惟莫書状

    甲斐惟莫が伊集院忠棟に、玉宣寺の僧が悟宗東堂の法孫として長年当地に滞在し、本寺である福昌寺への焼香に支障がないよう助言したことを伝える。下向中の始終について支援を求め、詳しくは面談で述べるとする。

  85. 後編1-No.780 進藤長治書状

    進藤長治が、島津家からの使者として不断光院が下向するため書状を送ったことを肝付越前守へ知らせる。詳細は自ら説明するとし、当地で使者を厚くもてなし、島津義久へ取り成すよう依頼する。

  86. 後編1-No.781 島津義久譜

    天正三年三月十五日、島津義久が代始めの犬追物を催した際の装束と式次第を記す。対面所で三献を行い、手長・配膳・包丁人・掻副・弓箙・行騰・沓鐙押などの役を定め、義久が庭で騎馬して惣門から馬場へ入り、射手らが待ち受けた。

  87. 後編1-No.782 犬追物手組

    天正三年三月十五日の代始犬追物の手組で、義久が二十九疋を射たのをはじめ、各射手を角ごとに配し、射犬数と検見・喚次を記録する。終了後は桟敷で三献を行い、川上経久に馬・太刀を与え、射手を手組順に召して酒を賜った。

  88. 後編1-No.783 島津義久譜

    三月十五日の犬追物で定数の犬を射終えた後、義久が桟敷で三献を行い、川上久隅・歳久・喜入季久・川上経久が同席した。川上経久へ馬・太刀を与え、射手を手組の順に召して盃酒を賜った儀礼を記す。

  89. 後編1-No.784 犬追物手組

    天正三年三月十六日の犬追物手組として、島津以久・新納忠実・頴娃久虎らの射手、各人の射犬数、検見・喚次を列挙する。

  90. 後編1-No.785 島津義久譜

    三月十六日の犬追物で、義久が屋形内の桟敷から馬場を見物し、義弘以下の一族・家老が馬場の桟敷に座したこと、定数の犬を射終えたのち射手らを屋形内へ召したことを記す。

  91. 後編1-No.786 犬追物手組

    天正三年三月十七日の犬追物手組で、義弘・吉利忠澄・本田董親・歳久・喜入季久らの射手、射犬数、検見・喚次を列挙する。雨天のため当初予定から延期された回の記録である。

  92. 後編1-No.787 犬追物手組

    天正三年三月二十四日の犬追物手組として、四角に分かれた射手、各人の射犬数、検見・喚次を記す。犬を射終えた後は桟敷で三献を行い、一所衆・諸地頭も太刀を持参した。

  93. 後編1-No.788 島津義久譜

    犬追物の定数を射終えた後、四角の射手を桟敷へ召して三献を行い成就を祝った儀礼を記す。配膳・手長を定め、射手は三日間の手組順に太刀を持参し、その後一所衆・諸地頭も順不同で進上、町田久倍・本田正親・上井覚兼が受け取った。

  94. 後編1-No.789 島津征久譜

    天正三年三月十五日、島津義久が代始めの犬追物を催し、島津征久(のち以久)が翌十六日の射手として一の角に立ち、犬十四匹を射たことを記す。

  95. 後編1-No.790 足利義昭御内書

    本文はNo.797と同文につき省略されている。足利義昭が帰洛のため毛利氏の支援を得て東西諸勢力を糾合しており、島津氏にも忠功を尽くすよう求めた御内書の重出である。

  96. 後編1-No.791 島津義久譜

    天正三年三月二十七日、琉球国の紋船が鹿児島へ着岸したことを記す。

  97. 後編1-No.792 島津義久譜

    本文はNo.799と同文につき省略されている。琉球使節慰労のため催された犬追物に関する記事の重出である。

  98. 後編1-No.793 島津義久書下

    島津義久が樺山忠助の母に、大隅国小田名を今後は覚悟の証跡として望むとの申し出に従い与え、子孫に至るまで相違がないよう保障した書下。

  99. 後編1-No.794 島津義久譜

    天正三年三月二十七日の琉球紋船着岸から四月十日の使節拝謁・饗応までを詳述する。島津家老が商船許可、雪辱和尚への疎略、貢物不足、書状の門扱い、船頭処罰など先規違背を問い、琉球側は先王崩御時の混乱を理由に釈明した。使節は黄金三十両を加え、明服・琉球服で参礼し、音楽・舞・進物を伴う宴が行われた。

  100. 後編1-No.795 中山王書状

    中山王が、先に雪辱和尚が使節として渡海した後、先王急逝と国政混乱で答礼が遅れたため、天界寺住持南叔和尚・金武大屋子を派遣すると伝える。旧例に違わず隣好を修め、両国の交わりが永く続くことを願い、別紙の方物を献じる。