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後編1の目録
旧記雑録 弘治元年~天正12年の文書・記事です。
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後編1-No.896 天草大夫鎮尚書状
天草鎮尚が島津氏老臣らに、上意の取り成しと立派な馬の拝領を謝す。薩摩方との和談について示された意見を承知し、詳細は新納忠元と相談したと伝え、今後も尽力と指南を求めた書状。
後編1-No.897 島津家久譜
後の島津家久(初名忠恒、幼名米菊丸)が天正四年十一月七日に日向真幸院加久藤で誕生したことを記す。母は広瀬氏の娘で、産弓の役を曽木越中守が務めた。のち陸奥守・中将・薩摩守などを歴任した官歴も掲げる。
後編1-No.898 新納武久願文
新納近江守武久が三箇条を誓った願文。所領の寄進、大節供を七年間勤めること、領地から所定の供米を三年間上納することを約した。
後編1-No.899 島津忠平義弘書状
島津義弘が一乗院からの尊書、矢蓋・着物、歳暮と軍陣祈祷の巻数に礼を述べる。幼子米菊丸の祈念を依頼し、自身の厄年にもかかわらず家中が健やかなのは懇祈のおかげとして、今後も祈祷を頼んだ書状。
後編1-No.900 金峯山鉾銘
島津義久が天正四年に金峯山へ寄進した鉾の形状と銘を記す。鉾鋒は約一尺五寸、柄は約五尺で鞘はなく、義久・座主頼章および作者名を刻み、金峯山社内に伝来した。
後編1-No.901 北郷時久日記(自天正四年八月至十月)
天正四年八月から十月の軍事行動を記す。北郷時久が江平で敵五人を討ち、高原城南口を破って三山・須木・奈佐木の放棄に至った経過と出陣役を列記する。十月には肝付勢の南郷敗戦と二百余人の戦死、福島守備、志布志以下十三か所の島津方領有を記す。
後編1-No.902 正親町天皇綸旨
正親町天皇の意向として、専修寺を勅願所と称することを認め、例法を興隆し、国家安泰・国郡無為のため懇ろに祈祷するよう命じた綸旨。右中弁淳光が執達した。
後編1-No.903 島津忠平書状
島津義弘が一乗院法印に年始を祝い、米菊丸が年を重ねてますます健固なのは懇祈のおかげと謝す。引き続き繁栄の祈念と厚い交誼を求め、詳細は諸吉永春から伝えるとした書状。
後編1-No.904 肝付氏略伝
天正五年春、島津方の命により、肝付兼護には高山一邑だけが所領として残され、その他の郷邑は没収されたことを記す。
後編1-No.905 島津国史
天正五年の記事を編年で記す。南林寺・興国寺への旧肝付領寄進、相良氏との隣好、琉球王の三州平定祝賀、犬追物を載せる。十二月には野尻地頭福永丹波守の内応を契機に野尻・戸崎・紙屋・富田・佐土原などを攻略し、伊東義祐が豊後へ逃れ、日向各地が島津方へ降った。
後編1-No.906 新納忠元勲功記
天正五年春、城詰衆に伊東方との私戦を禁じた後、福島へ伊東勢が迫ると島津方が出馬して退けたことを記す。肝付兼護には高山だけを残し、志布志など諸領を没収した。十二月の日向出陣では嫡子忠実が従軍し、忠元は相良氏への備えとして大口・求麻境を守った。
後編1-No.907 箕輪伊賀覚書
高原出陣で傍観した肝付勢が忠節を疑われ、伊東方との一戦を命じられた経緯を記す。内談では形だけの戦いのはずが雑兵間で実戦となり、肝付勢は大敗、福島を包囲された。鎌田政近と島津征久の救援で伊東勢を退けた後、肝付氏は高山一か所を残して諸領を没収された。
後編1-No.908 天草大夫鎮尚書状
本文はNo.896と同文につき省略されている。天草鎮尚が馬の拝領と取り成しに礼を述べ、薩摩方との和談を新納忠元と相談し、今後の指南を求めた書状の重出である。
後編1-No.909 島津氏老臣連署坪付
薩摩国谷山郡の浮免地として、谷山紀伊介先の烏帽子田一反を原口甚兵衛に示した坪付。
後編1-No.910 島津氏老臣連署坪付
戸柱大明神へ、薩摩国鹿児島内萩原名の原田源左衛門先三反を寄進した坪付。島津氏老臣五名が連署する。
後編1-No.911 島津氏老臣連署坪付
興国寺への新寄進として、大隅国串良院岡崎名上園門の田畠・屋敷・山神領など、合計三町五反余の所在と面積を列挙した坪付。島津氏老臣五名が連署する。
後編1-No.912 島津氏老臣連署坪付
南林寺への新寄進として、下大隅野里名中島口門の田畠・神領・屋敷・迫田など、合計一町七反十余の所在と面積を列挙した坪付。島津氏老臣五名が連署する。
後編1-No.913 島津義久寄進状
島津義久が、大隅国串良院岡崎名上園門を興国寺へ寄進した状。先祖忠昌が肝付氏の不忠を討とうとして本意を遂げず、鬱憤のうちに没したことを悼み、今回旧領を回復した機会に菩提のため永代寄進すると定める。
後編1-No.914 有馬鎮純書状
有馬鎮純が年始を祝い、日向方面の安泰を願う一方、自領境目ではなお対陣が続き、近日和睦を申し入れる予定と伝える。島津氏との長い旧交と今後の指南を求め、太刀一腰・織筋一端を進上した書状。
後編1-No.915 島津氏老臣連署坪付
興国寺領として、下大隅新城内峯岡名の奥江兵衛尉先一か所、空住庵屋敷および塩屋二十反を示した坪付。島津氏老臣五名が連署する。
後編1-No.916-1 島津氏老臣連署寄進状
島津貴久の代、興国寺住持久林の時に、土堂廻之門と屋敷前の地を寺領として寄進したことを示す連署寄進状。
後編1-No.916-2 島津氏老臣連署寄進状
島津義久の代、興国寺住持義聖の時に、平野園之門と外屋敷一か所を寺領として寄進したことを示す連署寄進状。
後編1-No.916-3 島津氏老臣連署寄進状
島津義久の代、興国寺住持松岳の時に、下大隅牛根内河原園門の塩屋一間を寺領として寄進した連署寄進状。島津氏老臣五名が署名する。
後編1-No.916-4 島津氏老臣連署寄進状
島津義久の代、興国寺住持松岳の時に、大隅国串良院内上園門三町五反を寺領として寄進した連署寄進状。島津氏老臣五名が連署する。
後編1-No.917 相良義陽書状
相良義陽が、久しく連絡しなかったのは疎略のためではないと断り、島津方の諸境目が安泰であることを重視し、今後も一層の親交を望むと伝えた書状。詳細は蓮花寺から伝えるとする。
後編1-No.918 島津忠平書状
島津義弘が一乗院法印に、米菊丸が十八日巳刻から体調を崩し、咳気なども判然としない状態だと急報する。病中につき時を移さず懇ろな祈念を行うよう強く依頼した書状。
後編1-No.919 北郷時久譜
天正五年、伊東家臣福永・野村らの内応を受けて島津軍が日向諸城を攻略し、伊東義祐が豊後へ逃れ、日向一円が義久の領土となったことを記す。この報が京都へ届くと、近衛前久が北郷時久へ祝賀の書状を送ったという。
後編1-No.920 近衛前久書状
近衛前久が北郷時久に、日向の情勢が義久の望みどおりに進んだことを祝う。前久は織田信長方に属し、摂津一円が敵地のため使者を送れない事情を述べ、時久に取り成しを求めた。信長から格別の厚遇を受けていること、先年贈られた鶴を今も所持していることを伝え、手持ちの大鷹はすべて信長へ進上したため、義虎を通じて大鷹…
後編1-No.921 有馬鎮純書状
有馬鎮純が、近年両家の家筋が連続していることへの礼として、金覆輪の太刀一腰と緞子一端を贈る。今後も変わらず文通し親交を続けたいと伝えた書状。
後編1-No.922 島津忠平書状
島津義弘が、米菊丸の祈念のため不動護摩供・薬師法を修し、祈祷札を送られたことに礼を述べる。子が息災堅固となった喜びを伝え、遠方からの使者派遣にも謝し、今後も懇祈を頼んだ書状。
後編1-No.923 正八幡宮一之鳥居造営茶番交名
正八幡宮一之鳥居造営時の茶番を十九番まで割り当てた交名。社家・衆徒・正興寺・正高寺・正国寺などの担当者を列記する。日付は六月二十二日だが、留守殿の指示で二十四日から茶を立てたと注記する。
後編1-No.924 島津氏老臣連署証状
島津忠昌の菩提のため興国寺へ寄進された串良院上園門について、土地は狭少でも懇情を尽くすよう求め、地頭の諸役を免除した証状。ただし国役・軍役は確実に勤めるよう定め、老臣五名が連署する。
後編1-No.925 近衛前久書状
近衛前久が義久に、前年の薩摩下向時の厚遇を謝し、海陸の難路を経て二月末に帰洛したことを報じる。織田信長から使者・助成を受け、小姓の元服も主殿で執行された。約束の鞍鐙を用意したが路次不通で送れず、後便を求め、詳細は伊勢貞知から伝えるとした。
後編1-No.926 中山王書状
中山王が島津義久の三州平定を祝し、来年には明の冊封使が琉球へ渡海するので諸事を連絡すると伝える。天界寺修翁を使者として派遣し、古来の先例どおり隣好を修めたいとして別紙の献上品を贈った書状。
後編1-No.927 琉球國献上品注文
中山王から島津義久へ贈る献上品の注文。黄金三枚、紅糸六斤、蘇木千斤、絹子二十端、唐織物三十端、唐紙二百帖、真綿五十把、太平布百端、唐焼酒・老酒・焼酒各一壺を列記する。
後編1-No.928 正八幡宮一之鳥居造営茶番交名
本文はNo.923と同文につき省略されている。正八幡宮一之鳥居造営時の茶番を十九番まで定め、六月二十四日から実施した交名の重出である。
後編1-No.929 飛鳥井雅継書状
飛鳥井雅継が喜入季久に、父が不慮の病により八月七日に死去したことを知らせ、父と格別の知音であった季久に今後も変わらぬ交誼を求める。祝意のしるしとして扇子五本を贈り、相応の用があれば申し付けるよう伝えた。
後編1-No.930 島津忠平書状
島津義弘が一乗院法印に、遠方ながら米菊丸の祈念を朝夕怠らず、節々に知らせを受けることへ礼を述べる。周囲は子の危難を案じるが、法印の祈祷を頼む以上、勇健は疑いないと信じ、引き続き加護を求めた書状。
後編1-No.931 島津氏老臣連署状案
島津方が琉球三司官に、先年三宅泉州国秀が琉球を望んで薩摩へ来たため即時処刑したが、その一類が鬱憤から再び渡海を企て、将軍家の命を帯びた軍兵も下向するとの情報を伝える。薩隅の津々浦々を警固して兵船を遮るとし、詳細は聖現寺から伝える書状案。
後編1-No.932 島津氏老臣書状案
島津氏老臣が、近衛前久下向時の領地に関する約束に基づき、前年は竹下宗怡を通じて黄金二枚、今回は津留讃岐介を通じてさらに二枚を調達したので受領してほしいと伝える。今後も永く文通したいとする書状案。
後編1-No.933 犬追物手組
鹿児島馬場で行われた天正五年十一月十三日の犬追物手組。四角に配した義弘・歳久・家久・久隅・征久・喜入季久らの射犬数、検見・喚次を記す。
後編1-No.934 犬追物手組
天正五年十一月十五日の犬追物手組。義久の検見のもと、義弘・歳久・家久・征久・久隅・喜入季久らを四角に配し、各人の射犬数と検見・喚次を記す。
後編1-No.935 島津義弘譜
野尻地頭福永丹波守の伊東義祐への怨恨を上原尚近が察し、竹内備前守らを介して内応を誘った経緯を詳述する。伊東方に謀書を拾わせて福永への疑念を煽り、十二月七日夜に六十五人の先陣が野尻城へ入り、義弘も入城した。戸崎・紙屋・富田・佐土原へ進み、伊東義祐の豊後逃亡後、五日ほどで日向を制した。
後編1-No.936 樺山紹剣自記
天正五年十二月、日向山東がことごとく島津領となり、義久が大隅正八幡宮へ参詣したことを記す。福永丹波守が内通を申し出た際、新納忠秀入道慶雲が高原から野尻城へ急行したことも載せる。
後編1-No.937 野尻城合戦従軍者交名
福永丹波守の内通申出を受け、高原から野尻城へ馳せ籠もった従軍者として、新納四郎左衛門忠秀入道慶雲らを記す交名。
後編1-No.938 島津義久宛行状
島津義久が福永丹波守に、談合のとおり忠節を尽くすとの懇望を神妙と認め、相違なく奉公すれば望みどおり野尻一所を安堵し、その他の所領も時宜を見て宛行うと約した状。
後編1-No.939 島津義久公帖
島津義久が玄竺首座に、先例に従って日向国大慈寺の住持職を執務するよう命じた公帖。玄竺は大慈寺四十四世で、同寺前住の西院和尚と注記する。
後編1-No.940 長谷場越前自記
伊東義祐の暴政に反発した福永丹波守・野村但馬守らが蜂起し、民家への放火を合図に島津方へ内応したため、義祐が豊後へ逃れた経緯を叙述する。上原尚近が報告すると、正八幡宮参詣中の義弘は直ちに野尻へ進み、評議後に本城へ迫って日向諸城へ番兵を置いた。
後編1-No.941 谷口宮内左衛門覚書
天正五年十二月八日、野尻城主福永丹波守が伊東義祐への遺恨から島津方へ内応し、義弘を城へ迎えたことを記す。十一日には義久が十万余騎を率いて進み、日向一国を取得し、義祐は豊後の大友氏を頼って逃れた。
後編1-No.942 大村重頼古戦書付
福永丹波守が伊東義祐に背いて野尻城へ義弘を迎え、義祐が豊後の大友氏を頼って退去し、日向一国が島津領になったと記す。異書として、十二月七日夜から島津勢が入り、八日未明に義弘が城を受け取り、義久も大軍で日向へ進んだ経過を載せる。
後編1-No.943 箕輪伊賀覚書
高原地頭上原尚近が、伊東義祐から疑われ子の元服にも面目を失った野尻城預り福永丹波守へ、伊東家の宿運は傾き、島津方へ参るべきだと密かに勧誘した経緯を記す。福永は譜代の主人を離れる葛藤を経て、身の危難と遺恨を晴らすため島津家への帰属を決めた。
後編1-No.944 庄内平治記
高原地頭上原尚近が、伊東義祐に遺恨を持つ野尻の福永丹波守・野村文綱と内通を結び、十二月七日夜に三百余騎を野尻城へ招き入れた。翌日義久が十万余騎で入城し、戸崎・佐土原も落ち、義祐は山中を経て豊後の大友氏のもとへ逃れ、日向は島津領となった。
後編1-No.945 庄内平治記
大友義鎮(宗麟)の代に大友氏が筑後・筑前・肥後・肥前・豊後・豊前の六か国を押領していたことを述べる。日向を失った伊東義祐父子が大友氏を頼ると、大友側はこれを口実に日向侵攻を企て、義祐へ野津三百町を扶助して機会をうかがった。
後編1-No.946 日向記
上原尚近が偽書を用いて伊東義祐に福永丹波守を疑わせ、対面拒否や嫡子藤十郎の元服をめぐる遺恨から福永・野村一族を島津方へ内応させた。十二月七日夜、島津勢三百人が野尻城へ入り、翌日戸崎も退去・放火された。義祐は紙屋まで出たが領内の火煙を見て佐土原へ戻り、九日未明に米良を経て豊後へ落ちた。
後編1-No.947 島津義久譜
十二月九日、正八幡宮で敵国平定・国家安全を祈る義久へ、上原尚近の使者が野尻内応を報じた。義弘は七日に数千騎で野尻へ入り、十日に義久も六千余騎を率いて進発、十一日までに野尻・戸崎を得た。長年の苛政で従者を失った伊東義祐は十一日に豊後へ逃れたと記す。
後編1-No.948 日州御発足日々記
天正五年十二月七日から晦日までの日向進発を日次に記す。正八幡宮参詣中に福永丹波守の内応を知った義久が海路で出陣し、義弘の野尻入城、紙屋以下諸城の服属、正八幡宮への戦勝奉告、高原・紙屋・都於郡への進軍、福永への恩賞と鉄砲拝領、相良・佐伯方との使者往来、高城衆の降伏と人質収容を経て年を越した。
後編1-No.949 北郷時久寄進状
北郷時久が神柱大明神へ、赤木宿門の田一町を寄進した状。
後編1-No.950 相良義陽書状
相良義陽が島津義久の日向速やかな平定を祝し、祝儀として腹巻一領を贈る。今後も変わらぬ親交を望み、詳しくは使者の普門寺が述べるとする。
後編1-No.951 樺山玄佐譜
天正五年、六十五歳の樺山玄佐について、家門が三代にわたり繁栄し仏道に篤かったことを記す。六十歳の賀に詠んだ『六十まて…暁の鐘』の歌を掲げ、歌道に名高いが人に誇らない人物であったと評する。
後編1-No.952 島津国史
天正六年の島津氏の動向を編年で記す。年初の日向諸氏からの服属・進物、石城をめぐる攻防と土持氏の滅亡、琉球との進物往来を載せる。十月以降は伊東氏復帰を掲げた大友軍の高城攻め、耳川合戦での島津方の大勝と大友軍の多数の戦死・溺死、日向再平定を詳述し、年末には足利義昭・毛利氏による大友攻撃構想への返書を収め…
後編1-No.953 島津義久代老中・使衆交名
島津義久代の老中八人と使衆八人を列挙する交名。老中に平田美濃守光宗・川上左近将監・伊集院忠棟・村田経定・喜入季久・本田三清・上井覚兼・町田久倍、使衆に新納康久・伊地知重直・税所篤和・吉田清治・鎌田政景・本田親治・比志島国貞・伊地知重秀を掲げる。
後編1-No.954 殉国名薮
天正六年に島津方として戦死した者を月日・戦場別に列挙する名簿。三月の石城方面、十月二十三日の三原衆反乱、十一月十二日の高城・耳川合戦などの死者を中心に、福永丹後守・鎌田大炊助・伊地知式部少輔・本田親治・北郷久盛ら多数を記し、日付不詳の者も追記する。
後編1-No.955 宇久純幸書状
宇久純幸が伊集院忠棟へ、島津方が伊東氏に勝利したと聞いて祝意を伝え、この旨を島津義久へ披露するよう依頼した書状。
後編1-No.956 宇久純幸書状
宇久純幸が伊集院忠棟へ、吉兆を喜び万悦に堪えないとして祝意を述べ、その趣旨を島津義久へ披露するよう依頼し、詳しくは後日申し上げるとした書状。
後編1-No.957 宇久純幸書状
本文はNo.955と同文につき省略されている。宇久純幸が伊東氏に対する島津方の戦勝を祝い、その旨を島津義久へ披露するよう伊集院忠棟に求めた書状。
後編1-No.958 入来院市比野名坪付注文
入来院市比野名内の水田・畠・屋敷などの坪付注文。かひくち・山下・とふち・三渡瀬・平木・井之牟礼脇などの田地と蒔高を列挙し、水田は合計八反、そのうち三渡瀬の一反は水損と記す。
後編1-No.959 島津龍伯義久書状
島津義久が、正月十七日に宮崎方面で敵数人を討ち捕らえ、分捕りも多かったとの注進を喜ぶ。境目の警固と長期在番の労をねぎらい、今後も吉報を知らせるよう求める。本文には編年の誤りであろうとの注記がある。
後編1-No.960 島津氏老臣連署状
伊集院忠棟・平田光宗・喜入季久が土持親成へ、旧来の幕下筋として本領回復を望んだことを受け、まず日向国の石塚と三か名百町余を与え、時機を見て門川の城・所領と振り替えて必ず宛行うと約した連署状。本文年紀は天正六年正月二十四日と読める。
後編1-No.961 島津尚久一流系図
島津尚久一流の系図として、図書頭忠長の子・忠倍を記す。忠倍は天正六年二月朔日に鹿児島で生まれ、母は島津右馬頭忠勝の娘、童名を菊寿丸、又五郎、のち河内守と称した。
後編1-No.962 吉岡鑑輿書状
吉岡鑑輿が土持親成へ、日向錯乱後も大友方への報告がなく、土持相模守を島津家へ遣わしたと聞いて懸念を表す。相模守を帰国させ、親類とともに豊後へ参上して薩摩方の事情を詳しく言上し、島津勢が出動すれば直ちに応戦して忠節を示すよう勧めた。
後編1-No.963 佐伯宗天書状
佐伯宗天が土持親成へ、日向錯乱について報告せず土持相模守を島津方へ遣わしたことを不審とし、親類を添えて相模守を豊後へ参上させ、薩摩方の形勢を報告するよう求めた。島津勢が動けば早々に応戦して忠節を示すことが家の長久につながると説く。
後編1-No.964 島津義久願文
島津義久が鞍馬寺妙法坊へ、前年七月十五日夜に氏女の小木像から毘沙門天を手渡され、子を得るという夢を見たことを述べる。甲寅年十一月十八日生まれで二十五歳となる女性は鞍馬の大悲・多聞天の霊夢によるものとし、子孫繁栄のため丹精して祈祷するよう求めた願文。
後編1-No.965 島津氏老臣連署奉書
平田光宗・伊集院忠棟・喜入季久が、島津義久の子孫繁栄祈願のため、鞍馬寺妙法坊へ日向国清水名内の弁佐司門の水田三町六反と浮免一町四反、計五町を新たに寄進し、特に懇ろな祈祷を命じた奉書。
後編1-No.966 琉球国進上物注文
琉球国から島津義久へ進上する品物を列記した注文。紅糸三斤、太平布五十端、焼酒などを掲げる。
後編1-No.967 琉球国三司官書状
琉球国三司官が鹿児島奉行へ年頭を賀し、七島船の使者から山東の人々が皆無事に参上したと聞いたことを喜ぶ。祝使として妙厳寺を派遣し、太平布五十端を贈るので、使僧をしかるべく取り計らうよう依頼した。
後編1-No.968 島津義弘譜
天正六年四月、琉球国の使船が到着し、国王から島津方へ紅糸二斤・上布などの織物が贈られた。使僧の妙厳寺は織物・扇・線香二把を持参した。
後編1-No.969 近衛前久書状
近衛前久が島津義弘へ、日向が望みどおり平定されたことを重ねて祝う。織田信長と一味して敵地を通れず祝使を送れないと断り、自身は信長と親密であるため情勢上心配はないと伝える。日向で得た大鷹を一居、出水の島津義虎を経由して早く送るよう求めた。
後編1-No.970 近衛前久書状
近衛前久が喜入季久へ、日向平定を祝い、織田信長方との戦陣で祝使を送れない事情を述べる。信長から格別の厚遇を受けているので心配はなく、日向で得た鷹を島津義弘に所望したため、季久にも一居を調達して出水の義虎まで送るよう取り成しを頼んだ。
後編1-No.971 志岐麟泉諸経書状
志岐麟泉諸経が伊集院忠棟へ、島津義久の日向平定を以前から承って祝意を述べ、改めて使僧を遣わしたことを知らせる。祝儀として白糸五斤を贈り、その旨を義久へ披露するよう依頼した。
後編1-No.972 島津氏老臣書状案
島津方の老臣が鍋島氏へ、以前の懇書への返礼として賀雲を遣わしたが、交通困難のため途中から帰ったと伝える。日向は累年の反心により前年冬に島津義久の領国となり、豊後から防戦の動きがあるなら今後いっそう深く相談したいと申し入れ、色絹布を贈った書状案。
後編1-No.973 島津義久譜
天正六年春、伊東旧臣の長倉勘解由左衛門が残党数百人を率いて日向の石城に籠もった。七月六日、島津忠長・伊集院忠棟が数千騎で攻め、大河を徒歩で渡って城門へ迫り敵数十人を討ったが、忠長が矢傷を負い、堅城を無理に攻めず全軍を佐土原へ退かせた。
後編1-No.974 島津義久譜
天正六年九月上旬、島津征久を大将、伊集院忠棟・平田光宗・上井覚兼を副将として石城を再攻撃した。忠棟が大木を川底へ沈め浮橋を作って軍勢を渡し、三方から昼夜鉄砲・矢を浴びせた。城中が食糧・水に窮して長倉が和を請うと包囲を解き、酒食と糧を与えて豊後へ送った。
後編1-No.975 島津征久譜
伊東義祐の旧臣長倉勘解由左衛門が大友氏を頼って石城に籠もり、島津忠長・伊集院忠棟の初回攻撃を退けた。島津征久が大将となり、平田光宗・上井覚兼を副将に昼夜攻囲した結果、九月三十日に矢尽き力尽きた長倉が降伏し、城を明け渡して豊後へ退去した。
後編1-No.976 島津忠長譜
鹿籠から大隅国肝付郡串良へ移った島津忠長の譜。伊東義祐の豊後退去後、旧臣長倉勘解由左衛門が石城に籠もったため、天正六年七月六日に忠長と伊集院忠棟が数千の軍で攻撃した。大河を徒歩で渡り城門へ迫ったが忠長も矢傷を負い、堅城を無理攻めせず佐土原へ退いた。
後編1-No.977 川上氏支流系図
川上久朗の子・久辰について、通称を源三郎、左近将監とし、母は阿多大炊助の娘、幼名は石船と記す川上氏支流系図。
後編1-No.978 川上久園覚書
川上久園の自作文として、川上久辰が九歳で父を失った際、島津義久が孤児を懇切に遇し、忠臣の子であるとして正月元日に他の諸士と分け、久辰一人を特に賞したことを記す。
後編1-No.979 川上久田覚書
天正六年の石城攻めで、川上久辰が大手の城戸へ向かい、敵の矢石が雨のように降る中で戦ったことを記す。鑓持が間に合わなかったため野呂与助が敗走する味方から鑓を取り上げて久辰へ渡し、久辰は頴娃左馬助・梅北宮内左衛門と並んで接戦した。
後編1-No.980 島津忠平義弘書状
島津義弘が修理入道へ、前年冬から山寺に滞在していると聞きながら案内を知らず無沙汰したことを詫びる。代々所持の品を贈られたが重要な物なので受納せず返し、上洛の予定や用物について支援を申し出る。追而書で、修理入道の息子が出家する件にも心を添えると伝えた。
後編1-No.981 藤原祐延寄進状
藤原祐延が、国境での奉公を怠りなく務めるとの心中の願いが成就するよう祈り、霧島六所権現へ富士口門の田一町を浮免地として寄進した状。
後編1-No.982 飛鳥井雅継書状
飛鳥井雅継が喜入季久へ、日向で尽力して望みどおりの成果を得たとの京都での評判を称賛する。織田信長の軍事行動に伴い不意に在洛していて使者を送れないと断り、京都で用があれば申し付けるよう伝える。梶井門跡筆の歌と扇子二本を贈った。
後編1-No.983 小笠原秀清書状
小笠原秀清が喜入季久へ、日向方面で奮戦し比類ない高名を挙げ、早くも本意を達したとの京都での評判を祝う。自身も南方に在陣して連絡が遅れたと詫び、京都周辺で必要があれば疎略なく応じると約した。
後編1-No.984 上井覚兼・伊集院忠棟連署状
上井覚兼・伊集院忠棟が宮原筑前守へ、石城口でその子が奮戦したことを認め、子を早く帰らせる代わりに本人が急ぎ出陣するよう命じた。伊集院肥州・頴娃氏・吉田若狭守が負傷して帰ったため陣が手薄であり、時を移さないことが肝要と念を押す。本文の年次注記は天正四年を六年と訂する。
後編1-No.985 北郷時久譜
天正六年、大友宗麟・義統父子が豊後・肥後・筑前・筑後などの大軍を催して日向へ侵入するとの報があり、北郷時久が島津義久へ誓状を提出した。義久からも盟約の返書を与えられたことを記す。
後編1-No.986 島津義久起請文
島津義久が北郷時久へ、大友氏の邪路に対する防戦をめぐり、諸方の風説を懸念して誓紙を求めたところ応じたことを喜ぶ。永代にわたり心を同じくし、違背しないと誓い、新田八幡・天満天神・鹿島鎮守などの神罰を掲げた起請文。
後編1-No.987 島津義久書状案
島津義久が琉球国円覚寺へ、若年時に学問のため深い志を受け、今も忘れていないと述べ、たび重なる芳信を喜ぶ。今回の青磁花瓶に謝し、返礼として金扇子十本を贈った書状案。
後編1-No.988 島津義久起請文
島津義久が北郷忠虎へ、世上が動揺する時にも親類のよしみにより逆党を捨て、無二の忠勤を尽くすとの誓いを神妙と認める。大友氏が各方面で謀略を巡らす中、今後いよいよ変わらず一味すると誓い、新田八幡・鹿児島諏訪・天満天神などの神罰を掲げた。
後編1-No.989 北郷忠虎譜
天正六年、大友氏が日向へ侵入しようとした際、北郷忠虎が島津義久へ誓紙を提出し、同年八月三日に義久から盟約の返書を与えられたことを記す。
後編1-No.990 日向記
門川方面で評議して山間各地へ手勢を配し、山陰・田代・三方・坪屋・日知屋・水志・谷入・下神門などが豊後方に同意した。新納石城には長倉勘解由左衛門を先頭に旧家の貴族・年来の衆が籠城し、七月六日の島津軍の大攻撃を迎撃して約三百人を討ち、二百余人を負傷させたが、城方にも死傷者約百人が出た。
後編1-No.991 日向記
島津方が石城攻めで利を得られなかったのは、山裏の者たちが豊後方に属して戦功を立てず、調略を企てたためだとする。山中の衆はなお決断できず、島津方が再攻撃すると三城から豊後へ飛脚を送り援軍を求めた。大友義統の返状案は省略されている。
後編1-No.992 日向記
八月五日、大友宗麟が梓山・矢ヶ峰を越えて無鹿へ着陣し、薩摩侵入を評議した。九月十五日には豊後諸勢が耳川を渡り、百町原北方の残付山へ陣を取って、六か国の軍勢の集結を待った。