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後編1の目録
旧記雑録 弘治元年~天正12年の文書・記事です。
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後編1-No.1 島津国史
弘治元年の島津氏関係事績を編年で記す。正月、北村で島津勢が敵の伏兵に遭い歳久が負傷し、溝辺では鉄砲で六人、太刀で一人を討つ。三~四月に帖佐本城・新城・山田を攻略し、七月には蒲生・渋谷勢と戦う。九月、伊東義祐が飫肥へ侵攻し、白濱城・白井城が陥落、新納忠正・忠照が戦死。十月の改元、琉球王尚清の死去も記す…
後編1-No.2 島津貴久譜
島津貴久が嫡男義久、弟忠将、子の歳久・家久を率いて北村を攻めた際、敵の伏兵に遭って歳久が負傷。翌日、北原氏の軍勢が溝辺に出たため大隅衆が迎撃し、鉄砲で敵六人を射殺、太刀で一人を討ち取った。
後編1-No.3 島津歳久譜
蒲生北村の敵が帰順を装って島津軍を誘い出し、弘治元年正月二十二日に貴久・義久が吉田から出陣したところ伏兵に遭った。弟子丸播磨守・指宿丹後守以下十八人が戦死し、十九歳の歳久も負傷したと記す。
後編1-No.4 川上久朗譜
弘治元年正月、蒲生・菱刈・渋谷方の偽降によって北村城戸口で島津軍が伏兵に遭った際、川上久朗が入来の寺尾左衛門と長刀・鑓で戦った経緯と、折れた鑓が後世に伝わったことを記す。
後編1-No.5 新納忠元勲功記
弘治元年正月、範清・良重らが北村勢と謀って降参を装い、島津貴久・貴明を誘い出した。敗退時に貴明が危難に陥ると新納忠元が駆けつけ、敵を退けて無事に退却させ、感賞を受けたと記す。
後編1-No.6 新納忠元譜
弘治元年正月、蒲生範清・祁答院良重らが北村勢に偽降させ、島津貴久父子を誘い出した。敗退時に新納忠元が御太刀を持って貴久に従い、さらに危急の世子を救うため殿軍を務めて奮戦し、感賞を受けたと記す。
後編1-No.7 貴久記
弘治元年正月、屋形様父子が吉田まで出陣したが、北村勢の偽計により味方が敗軍した。弟子丸播磨守が退かずに討死し、指宿丹後守・敷根源八兵衛らも戦死したことを記す。
後編1-No.8 箕輪伊賀覚書
島津貴久勢が北村で北原氏の偽装退却と伏兵に遭い包囲される。指宿右馬允と竹若丸が殿を務めて戦死し、弟子丸らも討死する一方、北原忠辰が追撃勢を攻め、貴久は退却した。翌日、北原勢が加治木・溝辺へ進出すると大隅衆が迎撃し、敵およそ二十人を討ち取る・生け捕るなどしたが、味方の足軽にも戦死者が出た。
後編1-No.9 島津貴久願文
島津貴久が出陣は私事ではなく国務と防戦のためであると述べ、神威による敵の退散、武運長久、息災延命、将兵の安穏を祈願する。敵城を速やかに制圧できれば神領を寄進すると誓う願文。
後編1-No.10 年代記
天文二十四年三月二十七日の帖佐麓合戦と高尾への進出、四月二日夜の帖佐・山田からの敵方退去、七月二十五日の渋谷・蒲生勢との戦いを記す。東郷将監・白濱をはじめ東郷勢に多数の戦死者が出た。
後編1-No.11 殉国名薮
天文二十四年から弘治元年にかけ、帖佐・吉田・北村・蒲生などの戦闘で討死した島津方の者を、日付・戦場・所属とともに列記する。個々の戦死状況や『蒲生山本氏日記』による異同注記も含む。
後編1-No.12 山本氏日記(弘治元年二月分)
弘治元年二月の日記として、吉田衆の蒲生方面での動き、若殿様の吉水への帰還、園尾・城ヶ崎・加治木春日山付近での戦闘と敵兵の討取りを日付順に記す。
後編1-No.13 山本氏日記(三月分)
弘治元年三月の軍事情勢を日次で記し、吉田衆・平松勢などの交戦、帖佐・新城・山田・蒲生周辺の出兵、夜襲、放火、使者の往来、敵味方の死傷や捕虜の情報を収める。
後編1-No.14 山本氏日記(四月分)
弘治元年四月の日記として、帖佐本城・新城・山田をめぐる攻防、島津方諸勢の参陣、放火、夜襲、使僧・使者の往来、兵糧・人数の動員、敵味方の討死や退却を日付順に詳記する。
後編1-No.15 島津貴久譜
弘治元年三月、島津方が帖佐別府川・山田・高尾で渋谷勢と戦い、敵を多数討ち取った経緯を記す。四月に帖佐・山田を確保し、七月には渋谷・蒲生勢の襲撃で東郷勢に多数の戦死者が出たこと、十二月に蒲生の新城が放棄されたことを載せる。
後編1-No.16 島津義久譜
弘治元年春、平松城を拠点とする島津方が帖佐を攻めた経緯を記す。三月二十七日、軽鋭の歩卒五人が高樋口で敵一人を斬り一人を捕え、島津尚久らが牛渡で敵を遮断して追撃、計二十六の首級を挙げた。尚久は城下放火の際に神社仏閣を厳しく保護した。四月二日夜、帖佐・新城・山田の敵が祁答院へ退去し、島津方が掌握した。
後編1-No.17 島津尚久譜
弘治元年三月二十七日の帖佐攻めで、薩摩勢は別府川南、大隅勢は岩野原に布陣。島津尚久は薩摩南方衆を率いて牛渡で敵を遮り、自ら大太刀を提げて高樋橋口へ進んだ。強敵の鑓兵は家臣山本三河守が討ち、味方は城門を破って放火したが、尚久の厳命で神社仏閣は焼失を免れた。敵首二十六を挙げ、四月二日夜に帖佐・新城・山田…
後編1-No.18 町田氏庶流系図
町田氏庶流の系図記事。町田三郎五郎が弘治元年四月朔日、隅州帖佐岩剣城の戦いで十九歳にして戦死したこと、兄の死後に新左衛門忠継が家を継ぎ、永禄十年の馬越城合戦で二十九歳にして戦死したことを記す。
後編1-No.19 貴久公記
天文二十四年三月以降の帖佐別府川・平松・山田・高尾などの戦闘を記す。島津方諸勢の出陣、敵兵の討取りと味方の戦死、帖佐・新城・山田の確保、北郷・根占・肝付勢の来援をまとめる。
後編1-No.20 箕輪伊賀覚書
三月二日の帖佐別府川合戦、同八日の加治木・溝辺・日当山・長濱勢の山田出陣などを回想する。島津忠辰らの奮戦、敵味方の討死、帖佐方面への追撃、北郷・根占・肝付勢の来援を記す。
後編1-No.21 樺山玄佐自記
帖佐別府川の対岸に薩摩勢、岩之獄に大隅勢が伏せ、大隅勢が敵を多数討って帖佐麓を突破したため、帖佐・山田・蒲生新城が放棄された経緯を記す。島津貴久父子が城へ入り、肝付・祢寝が参上。蒲生新城には吉田衆が先着し、貴久の弟尚久が守備した。のち尚久への所領給付や日当山・東郷の支配予定にも触れる。
後編1-No.22 島津貴久立願条々
『貴久公御譜中』に収める島津貴久の立願四箇条。一国無事のための調義、一国を久分とすること、二三国で弓矢を励ますことを掲げ、第四条は原文『しら國可相様事』と記す。第四条には割注があり、語義を推測で補わず原文表記のまま記録する。
後編1-No.23 島津貴久立願条々
島津貴久が今回の弓箭について特に神慮を仰ぎ、蒲生の処置を神意に任せることを立願する。御鬮の結果が第一なら出陣、第二なら現状どおりとする旨を定めた条々。
後編1-No.24 島津貴久立願条々
前日の蒲生との戦いを踏まえ、重ねて祈念を頼み、蒲生に関する懸案が早く解決することなどを願う立願条々。
後編1-No.25 某書状
北原方の者について、召し出すべきか退けるべきかを御鬮によって判断したいとして、祈念を依頼した書状。以前の立願が成就したことを踏まえ、今回も改めて立願する意向を伝える。差出人・宛所は本文中に明記されない。
後編1-No.26 島津貴久書状
島津貴久が天理禅師に、上洛以来便りがないことを遺憾に思うと述べ、学問に精励しているものと推察し、早い下向を待っていると伝える。あわせて些少の品を贈った短い書状。
後編1-No.27 山本氏日記(五月分)
弘治元年五月の日記として、山田・新梓・松山口などでの戦闘、使者・使僧の往来、敵味方の討取り、火矢や鉄砲の使用、島津方諸勢の出陣と帰陣を日付順に記す。
後編1-No.28 山本氏日記(六月分)
弘治元年六月の日記として、新梓・山田・吉田方面の戦闘、伏兵、敵兵や馬の討取り、塩硝・火矢の使用、若殿様の鹿児島帰還などを記す。
後編1-No.29 山本氏日記(七月分)
弘治元年七月の日記として、吉田方面への火事・出兵、新梓勢との戦闘を記す。七月二十五日には渋谷・蒲生勢が帖佐へ侵入し、東郷将監・白濱らが戦死した。
後編1-No.30 島津義久譜
弘治元年七月二十五日、渋谷・蒲生勢が帖佐へ侵入し、島津方が迎撃したが東郷勢が敗れ、東郷将監・白濱ら多数が戦死した経緯を記す。
後編1-No.31 山本氏日記(八月分)
弘治元年八月の日記として、帖佐・吉田・郡山・新梓周辺での敵兵の討取り、伏兵、出兵、放火、横尾口への進出などを日付順に記す。
後編1-No.32 殉国名薮
天文二十四年から弘治元年の戦闘における島津方の戦死者を補記する。九月五日の新納尾張守忠征・新納河内守忠照、十一月十六日の本田宗左衛門、十二月五日の前田長門守らについて、日付・所属・従者の戦死を列記する。
後編1-No.33 山本氏日記(九月分)
弘治元年九月の日記として、蒲生横尾口への出役、敵との交戦、新梓への出兵、吉田勢による敵兵の討取りを記す。
後編1-No.34 山本氏日記(閏十月分)
弘治元年閏十月二十四日、新城勢が横尾口に伏せたが敵に察知され、伏兵を包囲されたものの打ち破って全員無事に退却し、貴久父子が吉田まで出た。翌二十五日、吉田衆五人が蒲生横尾口で敵二人を討ち、十五、六歳ほどの童子一人を生け捕った。
後編1-No.35 山本氏日記(十一月分)
弘治元年十一月十六日、新城勢が伏兵を置いたが敵を誘い込めず、伏兵が起つと横尾塁まで追撃した。その後、敵の反撃で味方約二十人が負傷し、吉田衆の本田宗左衛門は火矢を受けて即死、伊集院掃部助も深手を負った。三十日には山田の足軽が松坂浦で敵一人を討った。
後編1-No.36 島津日新忠良譜
補陀洛渡海を試みた日秀上人は舟も身も滅びず琉球の浦へ着き、国人から霊妙として尊崇された。その後薩州坊津へ戻り、琉球の珍材を用いて一乗院の堂塔を補修し、多宝塔を建立して五仏を安置した。島津忠良・貴久・尚久らを大檀那とする各仏像心柱の銘も収める。
後編1-No.37 島津尚久譜
天文二十四年、島津忠良が日秀上人に坊津一乗院で多宝塔を建立させ、五仏を安置した。十月十二日、現住頼忠法印に仏像心柱の銘を書かせ、五仏のうち阿閦仏一体は島津尚久が檀那となったことを記す。
後編1-No.38 大隅正八幡宮座主願文
大隅正八幡宮の正座主白敬が参籠・祈祷の供物を定め、大旦那島津貴久の息災延命、子孫繁栄、武運如意、怨敵退散、国家泰平を祈願する願文。
後編1-No.39 長谷場越前自記
祁答院方の松坂城攻略を詳述する。天文二十四年十一月十八日、雪中に守兵が市へ出た留守を突き、梅北宮内左衛門尉が先登して城戸を破った。十八歳の島津忠平は矢五、六本が具足を貫いても負傷せず、大太刀で敵を斬り、味方は城主中村父子三人以下数十人を討って落城させた。忠平の小城権現への祈願と神助、周辺諸勢の反島津…
後編1-No.40 山本氏日記(十二月分)
弘治元年十二月の日記として、新梓勢の狩野での伏兵と横尾口の戦闘、前田長門方の戦死、川野辺・蒲池方面の討取り、郡山での交戦を記す。
後編1-No.41 島津国史
弘治二年の島津氏関係事績を編年で記す。三月、貴久は蒲生本城が険固なため先に松坂塁を攻めるが落とせず、八月十七日には島津忠親が大崎で肝付兼続を破り三百余人を討つ。十月十九日に松坂塁を落として中原父子以下百余人を討ち、十一~十二月に蒲生城へ向け七曲・馬立・蒲生新城に陣した。菱刈氏の援軍、琉球王尚元の即位…
後編1-No.42 賦何船連歌
弘治二年正月十六日に催された『何船』を発句題とする連歌一巻。船出・旅・浦・松・月・雪・花などの景物を取り合わせ、貴久・義久らを含む参加者が句を継いでいく。
後編1-No.43 加世田今泉寺鐘銘
加世田今泉寺の鐘に刻まれた銘文。大檀越の日新在家菩薩(島津忠良)と勧進衆の名を掲げ、鐘の功徳によって罪障を除き、寺門と法灯が永く保たれることを願う。
後編1-No.44 島津貴久譜
弘治二年三月十五日、島津貴久が蒲生城の支塁・松坂塁を攻めた。梅北国兼が諸兵を督励し、二男忠平は三尺の剣で城門を破り、城壁を越えて現れた強敵を斬って初めて首級を挙げた。退いた後、鎧に敵矢五本を受けていたことが判明し、当時二十二歳という。十月十九日の松坂落城、十一月以降の蒲生包囲と菱刈援軍も記す。
後編1-No.45 島津義弘譜
弘治二年三月十五日の松坂塁攻撃を義弘(忠平)の伝記として記す。梅北国兼が先陣を切り、兄義久と忠平が三尺の剣を提げて城門・城壁を攻めた。敵の勇士に名乗って斬り合い、忠平が首級を得る。退却後、鎧に五本の矢を受けていたと判明したが、身に負傷したとは記さない。当時二十二歳で、これが初首だった。
後編1-No.46 蒲生城攻合戦従軍者交名
弘治二年三月の蒲生城・松坂方面の合戦に従軍した島津方将士を、所属や組ごとに列挙した交名。攻城戦に参加した家臣団の構成と動員の広がりを示す。
後編1-No.47 殉国名薮
蒲生・松坂方面を中心とする合戦で討死した者を、戦場や日付とともに掲げる戦死者名録。島津方の損害と各地の戦闘経過を人名単位でたどることができる。
後編1-No.48-1 島津貴久書状案
島津貴久が琉球国王からの書状と贈物に謝意を表した返書案。月泉和尚の往来にも触れ、今後の友好と音信を望み、返礼の品を贈る旨を伝える。
後編1-No.48-2 返物目録
島津貴久の返書に添えた返礼品の目録。太刀・鎧・甲・扇子など、琉球国王へ贈る品目と数量を列記する。
後編1-No.49 山本氏日記(弘治二年正月分)
弘治二年正月の日記。朔日に吉田勢が蒲生方面で敵と火矢を射合い、五日に松山口の野へ放火、十一日には新城野頸に来た敵約六十人を吉田衆が追って戦い、出羽守の殿原一人が戦死した。二十九・三十日には吉田足軽が久木瀬口・蒲生面大渡で各一人を討ち、御中間弥八兵衛が高名を立てた。
後編1-No.50 山本氏日記(二月分)
弘治二年二月の日記。吉田衆が蒲生荒平口の塁を破って番屋を焼き、岩上で敵一人を討つ一方、帖佐足軽は蒲生浦で三人、山田勢は松坂の柵で三人を討った。十七日、濱田善三郎らが案内者を伴い敵地へ忍び入り十四、五軒を焼く。二十三日には吉田衆が番衆四人を討って番屋に放火し、二十四日の横尾口戦に伴い貴久父子が吉野原ま…
後編1-No.51 山本氏日記(三月分)
弘治二年三月の軍事動向を日次で記す。蒲生・吉田・北原方面の出兵、松坂城周辺での攻防、敵兵の討取り、放火、城内外の人馬の動きを伝える。
後編1-No.52 山本氏日記(四月分)
弘治二年四月、敵が日当山へ出て馬を奪って退くのを城衆が追撃し、原中で戦闘となった。味方では池上某と、名の判然としない一人が戦死したことを記す短い日記記事。
後編1-No.53 山本氏日記(五月分)
弘治二年五月十三日夜、溝辺城内に北原方と内通する者がいて敵を中城へ引き入れたが、肝付氏の者らが奮戦して切り返した。敵方に多数の戦死者が出て、肝付三郎五郎が高名を立てた。数日後、敵と心を合わせた竹下某らが処罰されたことも記す。
後編1-No.54 箕輪伊賀自記
蒲生城攻略に先立ち松坂要害を落とす作戦を詳述する。島津貴久父子と諸将約五千余騎が出陣し、忠平の提案で三千人をもって松坂を攻撃。梅北宮内左衛門の先登に続いて忠平らが攻め込み、忠平は敵将を斬り、鎧に矢五、六本を受けながら無傷で、二十二歳にして初の分捕を得た。中村父子以下を討って落城させ、市来内藤助を地頭…
後編1-No.55 年代記
弘治二年十月十九日に松坂が攻め落とされたことと、十二月五日に蒲生城へ向けて島津方が陣を進めたことを記す年代記記事。戦死者や軍勢の配置にも触れる。
後編1-No.56 山本氏日記(六月分)
弘治二年六月十五日、山田に敵の掛野伏があり味方の名字衆一人が戦死。二十二日には敵が山田で下々二人を討って退き、城衆が追撃した。二十三日、吉田衆約三十人が待野伏を置き、来襲した敵約六十人のうち十一人を討ち、その三人は名字衆だった。七月・八月は無事と記す。
後編1-No.57 山本氏日記(九月分)
弘治二年九月五日、松坂野頸で釣り野伏を行い敵三人を討った。梅北宮内左衛門尉方、山田衆細田五藤兵衛方、鹿児島衆福島新左衛門方の各一人が高名を立てた。貴久は山田から松坂城向かいの尾まで馬を寄せて城の様子を見、忠将・忠平が供をした。
後編1-No.58 山本氏日記(十月分)
弘治二年十月の日記。朔日、吉田・新城勢が松山口で敵一人を討つ一方、味方一人が火矢で戦死。十四日には北原勢五、六千を退け、敵七人を討つ。十九日、島津方は西口・野頸口・水手口の三方から松坂城を攻め、中原加賀父子三人以下九十二人を討って陥落させた。翌日には周辺集落を焼き、松坂勢が敵三人を討った。
後編1-No.59 箕輪伊賀自記
弘治二年十一月十七日、蒲生城衆が出撃して鼠ヶ尾で島津方と戦い、島津方は負傷者を多く出して退いた。その際、二階堂帯刀・桑波田主馬助らが馳せ合い、分捕の高名を立てて退却した。小戦は続いたが城は容易に落ちず、翌弘治三年を迎えたと記す。
後編1-No.60 山本氏日記(十一月分)
弘治二年十一月の軍事動向を記す。蒲生・森園方面の出動、山田・松山口などでの交戦、敵兵の討取り、放火、使者の往来、島津方諸勢の陣替えと進退を日次で伝える。
後編1-No.61 山本氏日記(十二月分)
弘治二年十二月の蒲生城周辺の軍事動向を日次で記す。島津方の陣替え、敵兵の出撃と討取り、火矢・放火、使者の往来、松山口や新梓方面での攻防を伝える。
後編1-No.62 長谷場越前自記
長谷場越前の回想。島津方が軍兵を整えて蒲生の居城へ進み、各所で矢軍・合戦を重ねても蒲生方が服さなかったため、さらに軍兵を増し、馬立・新城・新城(新梓)の三陣を置いて渋谷方との交通を遮断したと記す。
後編1-No.63 進上物目録
弘治二年八月吉日付の進上物・費用目録。伊勢の神楽・宿人礼、八幡・春日・愛宕への散銭や織物・沈香、高野山への金銭、公方・大御所への進上額、金作太刀・太刀・腰物などを列記し、金銭二千五百貫と総括する。
後編1-No.64 島津国史
弘治三年の島津氏関係事績を編年で記す。四月十五日、貴久父子らが北村の菱刈陣を攻め、忠平が先登して楠原某を討ち、火矢で塁壁を焼いて陥落させた。忠平は重傷、菱刈左馬権頭は自害。十七~十九日、蒲生範清が降伏し、貴久は降人を殺さず祁答院へ送った。蒲生・松坂・帖佐・山田の地頭配置、後奈良天皇崩御・正親町天皇践…
後編1-No.65 殉国名薮
弘治二年から弘治三年にかけての蒲生・松坂・山田などの戦闘で討死した者を、日付・戦場・所属とともに列挙する。多数の家臣名と戦死状況を補記する名録。
後編1-No.66 山本氏日記(弘治三年正月分)
弘治三年正月の軍事動向を記す。新梓・蒲生方面での敵兵の出撃、島津方の迎撃、火矢・放火、敵兵の討取り、使者や軍勢の移動を日次で伝える。
後編1-No.67 山本氏日記(二月分)
弘治三年二月の軍事記事。吉田からの出動、新梓・松山口・橋越などでの交戦、敵味方の追撃と討取り、捕縛、兵具の分捕りを記す。
後編1-No.68 山本氏日記(三月分)
弘治三年三月の軍事動向を日次で記す。北村・新梓・蒲生方面で敵兵と交戦し、火を放ち、馬や武具を分捕ったこと、梅北宮内左衛門尉らの働きと双方の損害を伝える。
後編1-No.69 伊地知季直季通添書
『右軍記』と題する蒲生士松下源五左衛門家伝来本について、宝永八年書写の古本であり、世にいう『山本日記』は虫損で前後が乱れ信用し難い箇所が多いが、この本は欠落のない全本とみられると評する。弘化三年四月、蒲生士長谷場某に命じて書写させた旨を平季直が記す添書。
後編1-No.70 長谷場越前自記
島津方が菱刈陣を攻め、忠平自ら敵二人を斬り、村田越前守・三原右京亮らが奮戦、樺山助太郎らが戦死し、敵首三百余を挙げたとする。蒲生方は降伏して祁答院へ退去。境目で悪口過言を重ねた白尾半右衛門尉は落人に紛れたところを猿渡大炊入道に捕えられ、口を裂き舌を抜かれたという苛烈な処罰も記す。戦後の蒲生・帖佐・山…
後編1-No.71 島津貴久安堵状
島津貴久が頴娃・指宿・山川の領知をあらためて頴娃左馬助に安堵し、永代相違なく領有することを認めた安堵状。
後編1-No.72 廻国修行由来
六十六部廻国修行の由来を、天竺・唐土・日本の仏教説話に結び付けて説く。龍樹・善導・天智天皇・行基らの先例を挙げ、修行と聴聞による現世安穏・後世善所を勧める。
後編1-No.73 島津貴久譜
弘治三年四月十五日、島津貴久父子らが蒲生を救援する菱刈氏の陣を攻めた記事。険阻な陣で忠平が敵将楠原某を討ち、島津軍が陣を陥れて多数を斬り、四月二十日に蒲生方が城を焼いて退去した経過を記す。
後編1-No.74 島津義久譜
弘治三年四月十五日、島津義久が貴久とともに蒲生方の菱刈氏陣を攻め、即日に陥落させたことを記す。詳細は貴久譜に譲る。
後編1-No.75 島津義弘譜
蒲生を救援して北村境に築かれた菱刈氏の陣を、弘治三年四月十五日に島津軍が攻めた経過を記す。忠平(義弘)が楠原某と一騎討ちして首を取り、陣を攻め落としたが、自身も刀傷を負って退いた。
後編1-No.76 島津忠将譜
弘治三年四月十五日、島津忠将が尚久とともに副将として蒲生北村の菱刈氏陣攻めに参加し、軍務を励ましたことを記す。
後編1-No.77 島津尚久譜
弘治三年四月十五日の菱刈氏陣攻めで、尚久が忠将とともに副将として出陣した記事。険しい陣を諸軍が必死に攻め破り、敵数百人を斬り、菱刈左馬権頭が自害したと記す。
後編1-No.78 樺山善久入道玄佐譜
弘治三年四月十五日の菱刈陣攻めで、樺山玄佐の嫡男・助太郎忠副が先駆けて深手を負い、同月二十八日に二十一歳で死去したことを記す。貴久がその死を悼み、長浜で荼毘の煙を見届けた。
後編1-No.79 島津義久書状
島津義久が樺山忠副の死を悼み、遺族の愁嘆を慰める書状。武道に名を残したことを本意として悲しみを和らげるよう勧め、上洛予定など近況にも触れる。
後編1-No.80 樺山忠副譜
弘治三年四月十五日の菱刈陣攻めで負傷し、同月二十八日に二十一歳で死去した樺山忠副の伝記。義久が弥陀六字を各歌の頭に据えた弔歌を贈り、その武名と遺族の悲嘆を詠んだ。
後編1-No.81 島津義久弔歌
樺山忠副の戦死を悼み、島津義久が贈った弔歌の連作。弥陀六字を歌頭に配し、若い武士の名誉、遺族の嘆き、煙となった面影、無常を詠む。
後編1-No.82 箕輪伊賀自記
菱刈勢が蒲生を救援して北村表に陣を構えたため、弘治三年四月十五日に島津軍が攻め破った経過を回想する。忠平が荒平に陣を進めて蒲生城を攻め、蒲生方が降伏・退城した後の地頭配置まで記す。
後編1-No.83 年代記
弘治三年四月十五日に北村の菱刈陣を攻め崩し、菱刈・祁答院・真幸・東郷・蒲生方に多数の戦死者が出たこと、同月十九日に蒲生城が明け渡されたことを記す。
後編1-No.84 樺山玄佐自記
蒲生馬立・荒平の陣と菱刈陣攻めを回想し、樺山玄佐の嫡男・助太郎忠副が先陣で深手を負い、四月二十八日に死去したことを記す。貴久が長浜から荼毘の煙を見た情愛にも触れる。
後編1-No.85 庄内平治記
弘治三年六月十六日、伊東勢が新山城へ攻め寄せ、味方の宮田・樗木らが戦死したことを記す。数年に及ぶ戦いで豊州方の軍勢が疲弊し、勢力が衰えた状況を述べる。
後編1-No.86 壱岐賀州年代記
弘治三年の飫肥東光寺・新山をめぐる合戦を記す。肝付勢の志布志口出兵、六月十六日の新山攻めと宮田織部らの戦死、九月二十日の飫肥・北郷勢による東光寺攻撃を伝える。
後編1-No.87 鹿児島諏訪社居頭役之次第
弘治三年七月、鹿児島諏訪社の居頭役について、新納四郎入道忠重を中心に一族が浄光明寺客殿で談合して定めた次第。左番・右番、相伴、献、舞人などの役割と担当者を掲げる。
後編1-No.88 正八幡宮宿直人数交名
正八幡宮の宿直を務める人数を、番次・役名・人名ごとに列記した交名。居頭、相伴、香与、幣、舞人など祭礼・宿直組織の構成を示す。
後編1-No.89 正八幡宮東遷御造替之茶番次第
正八幡宮東遷の造替に伴う茶番の次第を、初献から十九番まで配列し、各番の担当者名を記した交名。弘治三年八月二十二日付で、末尾に田所検校永堅の署名・花押を載せる。
後編1-No.90 吉利氏系図
吉利氏の久定について、永正十六年の誕生、母が島津相模守忠幸の娘であること、島津貴久から吉利の地を与えられて居住したこと、弘治三年九月十二日に三十九歳で没したこと、法名舜公・号日山を記す系図記事。
後編1-No.91 吉利氏系図
吉利氏祖の出自を島津薩摩守国久の四男とし、居住地、官途・入道名、弘治三年九月二十日の没年、法名を記す系図記事。
後編1-No.92 島津貴久寄進状
島津貴久が伊作八幡社に赤地の絹の戸帳一流を寄進した文書。国土静謐・庄内泰平と国家安全、諸願成就を祈る。
後編1-No.93 島津貴久寄進状
島津貴久が伊作八幡末社の四所大明神に青地の絹の戸帳一流を寄進し、国土静謐と庄内泰平を祈った寄進状。
後編1-No.94 賦何人連歌
弘治三年十一月七日に興行された『何人』を賦題とする百韻連歌。梅・雪・冬の庭から始まり、月、旅、恋、無常、神仏、四季の景物を取り合わせ、貴久・義久らが句を継ぐ。
後編1-No.95 飯野剣大明神本仏裏書
日向国真幸院飯野村の剣大明神の由来を記す。不動明王を本地として精舎・拝殿を建立し、毎年十一月二十二日に祭礼を行い、月三回の市を開いたこと、北原氏民部少輔の武運・家門繁栄・領内安全を祈る。
後編1-No.96 島津陽久義虎書状
島津陽久が蓮華寺前住の仁室和尚に対し、寺外に隠居所を求める願いを受け、亡父昌岳居士への志にちなみ、その居所を昌岳庵と号することを認めた書状。
後編1-No.97 島津国史
永禄元年の島津氏周辺の軍事・家政記事。肝付兼続の庄内侵攻、恒吉宮ヶ原での北郷・肝付両軍の戦い、志布志・飫肥新山城の攻防と戦死者を記し、十二月には島津支族が所領名を氏とする改姓を命じられた。
後編1-No.98 島津氏老臣連署坪付
鹿児島郡内の池上権現領弓場の返地について、永吉名など計四反の田地を所在地・名請人とともに列記した坪付。
後編1-No.99 興国寺領坪付
興国寺領として、大隅国帖佐郷山田村寺師名の田地一町二十歩を、土堂廻之門、こくてん、地敷、堀町、横枕、百田開など所在地・段別に列記し、川上忠克・伊集院忠倉・三原重秋が連署した坪付。